凛太郎の自転車操業

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西宮の旧村落32 屋敷墓所・歴住墓所・神主墓所

 村の共同墓地を追って江戸期の旧村落を訪ね歩くという、よくわからない話をずっと続けていますが、だいたい半分は終わったかなー。ε- ( ̄、 ̄A) フゥー
 最初、西宮における江戸時代の村落数は35である、と記しました。一応、行政区分的にはそれでいいと思います。枝郷がいくつかあるにせよ、もうそろそろ終わりじゃないの、と考えたくなります。確かに、半分以上の村はもう書きました。行政区分的には、あと10村そこそこです。プラス枝郷。
 しかし、このあとは大物が控えているわけですよ。名塩。今津。鳴尾。そして西宮。
 こういう村々は、絶対に連載になります。西宮町なんて規模が大きすぎて、何回かかるかまだよくわかりません。
 そして枝郷も、いくつあるんだ? 木之元、東久保、六軒、大箇、中津、笠屋…(゚o゚;) ハッ まだ10以上あるぞ! 全然半分なんて終わっとらんがな(汗)。
 というわけで、僕の楽しみはまだまだ続くわけであります。

 今回は、旧村落から離れてちょっと番外編を。
 墓地にも様々な形態がある、という話を最初にしました。(→墓地いろいろ)
 もう一度整理しなおしますが、おおまかに墓地を3つに分類します。公園墓地等と呼ばれる広い墓地。そして、寺院墓地。さらに、僕が訪ね歩いている村落共同墓地。この3つ。
 えー、この分類は僕が勝手にしているものです。西宮市内ではそれが分かりやすいので。細かく言いますと広い墓地にも公営、民営があり、前者が白水峡墓園や甲山墓園、満池谷墓地であり、後者が仁川国際霊園です。しかし、大規模寺院墓地という場所も存在します。よく新聞広告に入る光明寺墓地公園は西宮山口からもごく近い場所ですが、この行基開山とも伝えられる由緒あるお寺さんが運営される広い墓地は、前記分類だと困ります。市域でも妙龍寺夙川霊園があります。しかし、基本的に寺院墓地に鎮まるにはそのお寺の檀家さんである必要がありますが、宗派不問で広く募集される寺院墓地は、大規模墓地と考えます。よって市内では、全てその3つの範疇におさまる筈です。
 そして明治以前からある墓地は村落共同墓地と、江戸時代からある寺院内にある墓地。そして明治以降に出来た大規模墓地にも、廃絶した墓地から移転した墓石が並ぶ場合があります。
 しかし、どうもその範疇外のお墓があるんです。

 上ヶ原をウロウロしていたときに、出逢いました。

 


 上ヶ原八番公園ですが、右側に金網の門があります。
 僕はただ公園前を自転車で通りかかっただけの三流の人間ですが、目ざとさだけは一流であると自負しています。
 「あっ、お墓があるぞ!」
 こういうものは決して見逃しません。公園側から見ます。

 


 墓石が数多く並んでいます。ただ、村の共同墓地ほどの規模ではありません。そして上ヶ原の村落墓地は、百合野にあります。
 僕は、屋敷墓ではないのかと思いました。
 いろいろ民俗学系統の本を読んだのですが、村、集落別ではなく、家ごとに墓を持つ風習というものも存在し、そういうものを「家墓」「屋敷墓」と呼びます。柳田國男も書いていましたし、僕も旅行先で見たことがあります。家の前に数基の墓石が建っているんです。
 しかしここはマンション前です。難しい。
 ただこういう場所を、さすがにWebには載せられないだろうと思っていました。ですが、あるとき宮っ子を繰っていまして、この記事を見つけました。(→上ヶ原1986年9月号)
 僕が見たものは、こちらですね。これで、こちらの墓所が一軒のお宅の墓所であることがわかりました。やはり屋敷墓と考えていいでしょう。
 このように既にコミュニティ誌にも紹介されていますので、僕も書くことにしました。
 上ヶ原新田について書いたとき(→こちら)、 江戸時代の上ヶ原に一応中心集落はあっても、その時代には珍しく家屋敷が村内に散在していた可能性があり、その痕跡も残っていると書きました。それが、この墓所です。人がみなひとつの集落に住んでいたなら、自分の一族だけ墓地を分け離れて作るはずがない。これは、地誌の書く「田圃・家屋相雑ユ」の所以でしょう。
 もう少し近づいてみました。(→画像) 
 確かに宝暦、天明といった年号が見られます。つまり、江戸時代から上ヶ原では家屋が散在していたということです。


 さて次。甲山森林公園内に墓地があるのを、ご存知でしょうか。

 


 ご存知でしょうか、などと大層に申しましたが、バス停から見えてますので、比較的知られているのではと思います。
 ここは、神呪寺の墓地なんです。なので、寺院内墓地であろうと思いますが、寺院「内」じゃないですよねぇ…。
 神呪寺はかつて広大な寺領を誇りましたので、ここも寺院内であったかもしれません。しかし戦国期以降衰亡したことは、前回書きました。基本的に神呪寺には所領はありません。さらに明治になって「社寺領上知令」があったため、寺院境内も削られた可能性があります。なので、ここが境内から外れたとも考えられますが、ともかくも今は寺から距離があります。

 


 この墓地を何と呼ぶべきなのか。よくわかりませんが、田岡香逸氏は「神呪寺歴住墓地」とされていますのでそれに倣います。歴代住職墓所。つまり檀家さんではなく、神呪寺関係者の墓地です。
 「昭和五十六年造成」というプレートがありましたが、田岡氏がこちらに調査に入られたのはもっと以前のはずであり、整備がなされたのだろうと考えます。
 上段が「歴代住職」、下段が「寺族」用地とされています。

 


 歴代住職墓には、卵塔が並びます。僧侶の墓は、卵塔、無縫塔と呼ばれるこの形式が多く見られます。

 


 この五輪塔を浮彫にした墓石も、こちらにあります。同様の形式は、以前門戸村、神呪村でも見ました。とくに神呪寺独自の形式ではなく全国に存在しますが、西宮市域では珍しく、門戸、神呪村の五輪塔陽刻墓も、やはり神呪寺に関係があるのかもしれません。

 


 五輪塔や宝篋印塔の残欠のような墓石もいくつかあります。その中のひとつに注目。

 


 この宝篋印塔の塔身とみられる四角の墓石には、何と慶長七年(1602)と刻まれています。江戸幕府が開かれる前年です。わかりますでしょうか。江戸時代以前の在銘遺品は西宮には数少ないのですが、そのうちのひとつです。
 大変に貴重なものですが、風化が激しく拓本でないと無理でしょうね(汗)。僕も田岡香逸氏の市史7巻の解説を読まないと全く判別出来なかったでしょう。
 もっとも田岡先生は、これは形式上江戸期のもので、供養塔として後に造られたものであるとされています。それでも、古いものです。

 


 下段は「寺族」の墓所であるようです。
 寺族とは何でしょうか。考えられるのは、お坊さんの家族か、寺内で仕事に従事されていた方々のことでしょう。
 しかし、この中には、大坂の銘が入ったものもありました。純粋に寺族の方々だけではなく、神呪寺に貢献なさった方も鎮まっておられるのかもしれません。樋口新田で採りあげた供養塔も、こちらに在ったものです。

 


 享和3年(1803)。江戸時代の墓石は多くありました。


 もう1ヶ所だけ書きます。
 こちらを見つけたのは、実はもう3〜4年前、郷土史ブログを作っていた時のことです。以下はそのときの画像です。以来訪ねていません。もちろん「ちょっと歴史っぽい西宮」には載せませんでした。完全にお蔵入りだと思っていましたが、この機会に載せることにします。

 

 
 越木岩筋です。阪急神戸線の北、甲陽園線の西。相生町になります。もう駅はすぐそこです。
 このあたりお詳しい方も多いと思いますが、僕は夙川には縁無くあまり知るところがありません。そのとき何故この道を自転車で走っていたのかは忘れましたが、おそらく歴史散策の流れでプラプラとしていたのだと思います。
 西側の建物の隙間から、墓石がチラリと見えたんです。こんなところに墓地? 思わず急ブレーキをかけました。僕はこういうのは本当に見逃しません。
 

 


 とりあえず近づいてみることにしました。裏の細い道に入るとアプローチできました。

 


 これは…?!

 西宮に長くお住まいの方、また郷土史に興味のある方、とにかく見る方が見れば、すぐにお分かりになるお名前が並んでいます。ある意味、西宮で最も歴史ある旧家の墓所です。
 

 


 歴代宮司墓か…。
 こんな場所が、この繁華な夙川という場所にあるとは思いもよらないことでした。
 これ以上のアップを貼り付けるのには少し躊躇がありますので、リンクだけ張っておきます。これで、おわかりになるかと思います。(→画像)

 こちらの墓所の裏付けがとれたのは、ふくさんがご紹介になった筒本清五郎氏(記事)の原稿本を閲覧したからです。歴代神主の墓所は「菊ヶ谿」と記されていました。あれ、菊谷町はこちらではないと思いましたが「現阪急線夙川驛北西」と注釈がありました。ここで、間違いないようです。
 もちろん、厳重に閉められていて中には入れません。しかし、もしかしたらここにはあの「老の思ひ出」の著者も眠られているかもしれません。もしもおられるとするならば、僕には墓前で手を合わせたい強い思いがあります。

 
 なお、以前にも張りましたが極私的にINDEXページ作ってます。→こちら
 地図と参考文献も載せてますので、興味ある方はどうぞ。(^^)


村落墓地

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旧村落と墓地 | コメント( 6 ) | トラックバック( 0)

遡って読ませて頂きました。
研究に頭が下がります。
用海の小墓も取り上げておられて、今後が楽しみです。
井上眞理子さんの名前も出て来て驚きました。うちの店に来られたりして彼女とは何度かお会いしてます。

[ akaru ] 2014/06/05 8:07:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

最後にご紹介された墓所はたまたま知人が住んでいたので路地に入ったことがありますが…。かつてはお屋敷とお屋敷の間の路地でした。近所の人間も入りにくい場所でした。改めて考えると、こんなところが駅前になるなんて思ってもいなかったこと。旧道との関係は興味はありますが…、公ではいお墓ですので、ブログに場所と写真を含めて公開していよいのか迷います…

[ ふく ] 2014/06/05 9:17:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

>akaruさん
恐れ入ります。ありがとうございます。
井上眞理子氏もご存知とは。akaruさんの御交友関係の広さにはいつも驚きます。ご人徳でしょう。「喫茶・輪」のような文化発信基地が存在することは、西宮の誇りでもありますね。

[ 凛太郎 ] 2014/06/06 4:57:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

>ふくさん
申し訳ありません。書き落としていました。
ここが、ふくさんのご教示による資料によって神主墓所であるとわかった後、上ヶ原の墓地同様に僕は宮っ子を繰りました。さすれば、載っていました。
http://miyakko-nishi.com/MIYAKKO-SYSTEM/Found_Page?area_reference=area_reference&areacd=13&find_year=1986&gou=78&page=1
市民に配布される無料コミュニティ誌にかつて採りあげられているということ、しかも取材をされているということ、「みなさんご存知でしたか?」という文章もあること、その記事はWeb上で閲覧できること、これらにより今回、表に出そうと判断しました。これを書いておかなければいけなかったのに、全くのところ当方の落ち度です。「書いたつもり」というやつで、うっかりミスではすみません。大変反省しています。推敲は、ちゃんとしなくてはいけません。コメント欄で申し訳ないのですが、追記ということにさせていただきます。

しかしそれでも「いいのか」と問われれば…。僕もずいぶん迷ったのです。4年迷ったと言っていいでしょう。
採りあげる人間の立場というものも、閲覧される側は勘案されるかもしれません。僕は研究者ではなく、個人の趣味でこういうことをしているに過ぎませんので。しかしどこに線引きをするのかということも、また基準があるのかどうか。確かにおちゃらけた文章を書いてはいましてそこに批判はあるかもしれませんが、一応何の立場も肩書きもない人間とはいえ考察はしているつもりですし、茶化しているつもりもありません。
HNで書いているということに批判があるかもしれませんが、単に匿名ではなく十年以上使用した、少なくともWeb上では人格を持っているHNだとの自負もあります。研究者でもペンネームの方もいらっしゃいます。

[ 凛太郎 ] 2014/06/06 5:53:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

(続き)
さらに、今回の場合に限ってですが、墓所が私有地ではないのかということがあります。
墓埋法によれば墓地は私有地には作れません(遺体や骨の無い詣り墓は別)。ただし、慣習によって認められる場合があります。屋敷墓はそのひとつです。
この墓所が神社関連地ではなく個人の土地であるかどうかということはわかりません。そういう調査はしていません。私有地であれば、塀の向うから個人宅の庭を撮影したのと同じことになります。
僕は宮っ子の記事からかつては1反というとてつもない広さだったことを知り、村落共同墓地と比べても遜色ないことから公的に近い場所だと判断し、かつては崇敬者が参れる場所だったと考えていますが、それは勝手な判断です。悪戯防止のためだとは思うのですが現在は施錠がなされている場所であり、これは反省せねばならない事項かもしれません。
次に、重要な事柄ですが墓標に対する肖像権、人格権の問題があります。
これは大変難しい問題で、墓というものはいったい何なのか、人格を仮託されうる対象なのかから考えなければいけないことですが、現状を見ますと古墳に始まり、歴史上の人物または著名人の墓をめぐる書籍まで出版され「墓マイラー」という言葉まであります。TVでさえ採り上げられ墓を撮影しています。僕にはもう分からなくなってくるのです。
ただ、僕の話が何とか自己正当化をしようと理屈に傾いていることは重々承知しています。この話の根幹は、墓の肖像権ではなく遺族の方々の感情を慮るということに尽きるということでしょう。
今までは無縁墓を除いては、墓石をそれとわかる形で撮影するのは出来るだけ避けてきました。遠景か、一部拡大です(年号など)。今後もその方針は続けますが、紹介したいお墓というものがありまして、これをどうすれば良いのか悩んでいます。
今までも鳴尾の村長のお墓などを紹介したりしてきました。どうしても「是非知ってもらいたい」という気持ちが先走ります。今後、そういう方々が続々出てきます。名塩でも紹介したい墓石があります。西宮や今津となればもう限りなく存在します。先日も、ついに当舎屋金兵衛さんのお墓を発見しました。こういう偉人のことは、是非書いておきたい。もっと西宮の歴史について知ってもらいたい。こういうのはただの感情で、それで正当化できるものではないということは分かっていますが、しかし…。

[ 凛太郎 ] 2014/06/06 6:01:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

(続き)
夙川の墓所については、一応大きなサイズでUPはしていませんし、拡大したものはリンクだけにしています。リンクにしたのは画像検索除けです。
実は、こういう範疇外の墓所は、僕が今まで見つけた限りで市内にあと2ヶ所あります。しかしそれはもうさすがに完全お蔵入りですよ。どこにも先行紹介はありませんし、僕が紹介する必然性も無い。そして夙川の墓所も悩んだことは前述のとおりです。
それでも書いたのは、実はこののちに考察を書きたかったからなのです。それは神仏習合に関わることです。この墓所はそのことに大きなヒントを与えてくれています。
ただ、それはもう止めようかなと今ぼんやりと考えています。それを書けば、墓石の形状にふれなければいけませんので。
もちろん、これは今回のご指摘ばかりが理由ではありません。神仏習合を深く語れば、どうしても神仏分離に触れざるをえません。これは、感情論になっちゃう危険性があって。今回も実は歴住墓地で首のない仏を紹介する予定でしたが、文章がヒートアップしたので削除しました。いずれ明治の原理主義批判は書いてしまうかもしれませんしそちらに向けて今までの記事も進んでいるのですが、それと広田及び西宮神社を絡めるのは止そうと思います。
Webに載せるという行為は、それが出版ではないため、営利にかかわらないということからの自由さがあります。しかし「不特定多数」が対象ということからの不自由さもあります。僕は書籍もWebも(放送も)メディアの質という面では実質は変わらないと思っています。いずれも多数が相手だと。しかしWebは検索システムが発達してしまったためどうしても「誰でも見られる場所に…」という意見がついてまわります。難しいとつくづく思います。
既にふくさんへのレスから大きく逸脱してしまっています。誠に申し訳ありません。この場を借りて勝手なことを書き連ねましたことをお許しください。

[ 凛太郎 ] 2014/06/06 6:19:39 [ 削除 ] [ 通報 ]

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