阪急沿線文学散歩

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阪神間で話される言葉は?

 阪神間は転勤族が多いせいか、標準語を話す人が多く暮らしています。

田中康夫も『神戸震災日記』で、震災後のボランティアにスクーターで物資を配給していたときのことを、次のように語っています。
<僕は夙川地区のこうした家屋も一軒一軒、御用聞きの様に訪れることを心掛けた。が、初期に下着や水を、中期に化粧水を差し出しても、直ぐには受け取ろうとしないのだ。けんもほろろに無視する態度ではない。その逆だ。阪神間の中でも最も“標準語”に近い言葉遣いする夙川の人々は、なべて慎み深く、「いえ、私などより、もっと困っている方に差し上げて下さい」と最初は遠慮するのだった。>

 昭和十年代、阪急沿線の風景に憧れていた阪田寛夫は、六甲山系の南斜面に住む人々について次のように想像を巡らせます。

『わが小林一三』からです。
<すると心が一層迫ってきて、灯火がともり始めた谷間や丘の窓硝子という窓硝子の内側に、どうしてもスリッパを履いた美しく聡明な少女が愁い顔に立っていると信ぜざるを得なくなるのである。>

 このあたり、中原淳一の世界の様になってきます。更にそこに住む人々について、
<筆者の想像に於いては、彼らは衣食を大阪よりは神戸の外人街に依存した。令嬢や夫人の服や外套の仕立ては香港や上海で年季を入れた中国人裁縫師に限るし、味噌汁や大根漬けの代りにパンやチーズを求める先は神戸トアロードのドイツ食料品店に限られるのであった。そしてその口より発する言葉は口臭に汚れた我々の大阪弁ではなく、匂いのいい紙石鹸のような標準語にほかならぬと思われた。>
と「匂いのいい紙石鹸のような標準語」を話すとしているのです。

(大正2年に阪急電鉄が、郊外住宅を勧める『山容水態』)

 この時代、阪神間に住んでいたのは、谷崎松子さんや河野多恵子さんのように、郊外生活を求めて煤煙に覆われた大阪から移ってきた家族が殆どでしたから、実際は船場言葉だったのでしょう。しかし、六甲山系の南斜面に開けた街の美しさに心惹かれた阪田寛夫は次のように述べています。
<公卿家族や殿様華族、維新の元勲や陸軍大将はおろか、高級官僚さえ一人も住んでおらず、大政治家も、大学者も、大僧正もいなくて、当時実業家と名前を変えつつあった商人が住み手の大部分であった住宅地が、それでいて、−いやそれ故にと、今は思うのだが、少年時代の私には、大阪弁や神戸弁を話す当たり前の人間がそこに住んでいるとは到底思い及ばなかったほどに、豊潤な顔立ちと、心ばえの街に育っているのだ。>
 小林一三が開発を進め、形造った街の姿を称賛しているのですが、どうも阪田寛夫には高貴な人は大阪弁や神戸弁は話さないものだという、劣等感に似た思いがあったのではないでしょうか。
でも関西弁の私にはよく理解できます。




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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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