阪急沿線文学散歩

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西宮の『火垂るの墓』記念碑実現に向けて一歩踏み出しました

 『火垂るの墓』は作家の野坂昭如が空襲と飢えにさらされた自らの戦時体験を基にした小説で、西宮市満池谷町が舞台になっています。

またその実体験は『わが桎梏の碑』をはじめ幾つかのエッセイや他の小説にも書かれています。

 一昨年、野坂昭如が過ごした親戚の家のすぐ近くに住む満池谷町のTさんと、高校講師のNさんが、近隣の人々に聞き取り調査をし、野坂さんと義妹(事実は1歳半の赤ん坊でした)が身を寄せた親類宅の場所と防空壕を特定し、更に親戚のその後の様子も明らかにされました。
https://www.asahi.com/articles/ASJCZ6TSVJCZPLZU007.html

 ところで、『火垂るの墓』の碑は、野坂昭如が神戸大空襲まで住んでいた家の近くの、御影公会堂の交差点を南に下った、石屋川右岸にありますが、被災後2か月余り過ごし、小説やアニメの舞台となったニテコ池や満池谷町がある西宮市には存在しません。


 そこでT氏とN氏が、地元の有志に働きかけ、野坂昭如の『火垂るの墓』を顕彰し平和を祈念する碑を建立する準備委員会が発足しました。

(写真は戦後何度も訪れたニテコ池)


 賛同する人は多いのですが、一番ネックとなったのは設置場所の確保でした。

西宮市の人権推進課や公園緑地課にお願いし、昔の満池谷公園内(現西宮震災記念碑公園)の一角が提供できそうだという回答を得ることができました。

設置予定場所は、戦没者慰霊塔の前の藤棚の北側です。

上の写真の場所が設置候補地。

 記念碑案の具体化、許可申請、版権の交渉、募金活動などを進め2020年の記念碑の建立を目指しています。



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素晴らしいことです。私にお金があれば募金にも協力したいところですが。

[ せいさん ] 2018/12/10 18:36:34 [ 削除 ] [ 通報 ]

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甲山のジグザグ登山道はいつから?

 甲山は明治維新で官林となり、当時大きな樹木はなく、灌木が群生する程度の貧弱な山で、伐採は禁止されていました。

明治中期までにアカマツの植林が進み、大正初年頃には全域がマツ林として緑化に成功したとされています

上の大正初期の写真では、甲山の頂上に従来からのマツの古木が数本残り、その足元は一面の低木で覆われ、後継樹が生育しているのが窺えます。
 北尾鐐之助の『近畿景観』によると、昭和の初めまで保安林保護のため入山が禁止されていた甲山に入山が許され、北尾は甲山の北側の登山道から頂上へ登っています。

 そうする、私たちが子供の頃よく登った、神呪寺から頂上に登る南側のジグザグの登山道はいつ頃できたのでしょう。(上の図の黄色の矢印の道)

 昭和29年に、西宮市は市制30周年記念事業として、香櫨園から夙川を上り北山から甲山に至る総合公園計画を発表しています。
 昭和30年になって甲山が再三、新聞紙面を賑わしたようで、パボーニ誌に大石輝一氏が「甲山ブウム」と題して寄稿し、次のように述べています。
<第一報は甲山の頂上まで、ジグザグコースを作って頂上に展望台を建て阪神風景を一望に楽しもうという迷案。
 さて甲山第二報は頂上に平和の塔をコンクリートで作って建て、会員によって集められて平和祈願の署名を祝い込もうとする趣向であります。>
この時は大石輝一は甲山の開発に批判的で、
<甲山展望台も思い付きですが、文化市にふさわしい国宝仏が鎮座する結構な甲山大師の頭上で、ミーハー族におしっこでもされようなら目もあてられません。>と述べています。
その後、昭和31年には六甲山が国立公園に指定され、この頃甲山周辺を訪れるハイカーも増え、4月には西宮市婦人連合会によって山頂に「平和の塔」が建立されています。

おそらくこの時に、ジグザグの登山道も整備されたのでしょう。

さて現在の甲山頂上に登ってみますと、木が茂って山頂からの視界は遮られています。

山頂南側のパノラマ写真。

山頂北側のパノラマ写真。

 ところが頂上は大きな平地になって開けており、航空写真で見るとよくわかります。

不思議な平地ですが、これは甲山展望台構想の名残ではないでしょうか。
 当時、甲山を西宮観光の目玉として揺るぎないものにするため、南面にロープウェーを計画していたそうですが、自然保護団体や文化人の反対により挫折しています。おそらく同時に展望台建設も計画されており、それを見越して頂上を平地にしたのではないでしょうか。

 甲山は戦後しばしば発生した山火事により、禿山状態で、下からジグザグの道も見えていましたが、現在は木が茂り途中の視界もよくありません。



 この道、以前今村欣二さんが「甲山のイナズマ模様」と題して、ブログにあげられていました。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061455/p10753632c.html


 昭和58年発行、文教住宅都市宣言20周年記念『市民文芸集』の表紙の絵、甲山に今村さんがイナズマと呼んだ、ジグザグ道が描かれています。
 絵の作者は、夙川小学校でも教えられ、淡路島に芸術空間「アート山大石可久也美術館」を築いた洋画家、大石可久也氏です。
 この文芸集に今村さんの「甲山」と題した詩もおさめられており、その一部を抜粋させていただきます。

甲山に登ると
西宮の屋根に
またがった気分になる
サラサラと光る家並みがある
水がある
緑がある
妻がいる
子どもらがいる
私の住む家がある

私も遠足で山頂に登って、自分の家はどこにあるのかと探していたことを思い出します。


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フェルメール『水差しを持つ女』の制作風景

 今回のフェルメール展の作品には入っていませんが、トレイシー・シュヴァリエ『真珠の耳飾りの少女』に『水差しを持つ女』の制作風景が描かれていました。小説では、パトロンのファン・ライフェンの奥方をモデルにした『真珠の首飾りの女』に引き続き、1665年に描いた絵とされています。モデルはパン屋の娘。


 フェルメールの家の女中になった主人公フリートがタイル職人の父親に、フェルメールが今、描いている絵の説明をします。
<「パン屋の娘さんが窓際に立って、明るい光を浴びているの」辛抱しなくてはと思い、説明を始める。「身体は正面を向いているけれど、右下にある窓の外を見ている。絹と別珍の胴着の色は黄と黒、濃紺のスカートをはいて、白い頭巾の二つのとがった角が顎の両脇の下まで垂れている」「お前の頭巾のようにかい?」これまでも頭巾についてはいつも同じ説明をしてきたのに、こんなことを訊くのは今回が初めてだ。>

そして描かれた頭巾の色使いについて説明します。
<「旦那様は頭巾を白く塗ったわけではなくて、青、紫、黄で描いたことがわかってくるの」「でもお前、それは白の頭巾だと言ったろう」「そう、そこが不思議なのよ。たくさんの色を塗っているのに、いざ絵を見ると、それは白としか思えない」>

作品をじっとみると、確かにその通りです。

 小説ではモデルのパン屋の娘が風邪をひいたためフリートが一時、モデルの代役をする場面もあります。


 そして、この絵を描く順序、彩色について小説では次のように説明されています。
<パン屋の娘さんを描くのに、旦那様はまず白い画布一面に淡い灰色をお塗りになる。それから赤みがかった茶色で娘さん、机、水差し、窓、地図を描くところに徴をつけた。次は目の前にあるもの −娘さんの顔、青いスカート、黄と黒の胴着、茶色い地図、銀色の水差し、水盤、白壁― をお描きになるのだなと思った。ところが旦那様がなさったのはスカートを描くあたりに黒、胴着と壁の地図に黄土色、水差しと水盤に赤、壁に灰色と、それぞれの色を塗り拡げること。揃いも揃ってまちがった色ばかり。どれひとつとして描いているものの色とは一致しない。旦那様は長い時間をかけて、こうした偽りの色をお塗りになった。偽りの色とはわたしが考えた呼び名だ。>

(上の写真は映画の一場面)

 小説ではありますが、この描き方はフェルメールの絵を解析した結果に基づいて書かれているのでしょう。
<偽りの色に旦那様が彩りを添えはじめた時、あの時の言葉が府に落ちた。旦那様が娘さんのスカートに水色を塗られると、それは青になり、ところどころ黒が透けて机の翳では濃く、窓辺に近づくほど明るさを増す。壁のあたりんい塗った薄い黄土色からは下塗りの灰色も覗く。それが明るいけれど、決して白一色ではない壁になった。壁に光があたると、白ではなく、たくさんの色に見えることに、わたしは初めて気づいた。>
作品の壁の色を改めて見ると、その通りです。

<何より手がこんでいるのは水差しと水盤だ。黄、茶、緑、青のどれにもなる。タペストリーの模様、娘さんの胴着、椅子に掛かる青い布を反射して、混じりけのない銀色以外なら、およそどんな色にでも見える。それなのに、水差しと水盤はこうでなければという色をしているのだ。>

さすがうまく説明されており、フェルメールの絵の深みがわかってきます。

 この絵の最初に描きはじめた時からの変更は、次のように書かれていますが、これも史実です。
<変更があったのはお仕事が始まってまだ間がないうちで、椅子を一脚減らし、地図の位置を横にずらしたくらいのもの。わたしもさほど驚かなかった。わたし自身、そのことを考えていたし、そうすれば絵がよくなるとわかっていたから。>
消された椅子は、窓と机の間に描かれていました。

 モデルがパン屋のむすめであったかどうかはわかりませんが、絵を注文したパン屋は実在した人物で、小説には家族総出で完成した絵を見に来て、満足したようすが描かれていました。
 この小説を読むと、想像が膨らみ、フェルメールの絵から目が離せなくなります。



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甲山神呪寺の開祖・如意尼と如意輪観音坐像

 北尾鐐之助『近畿景観』の「甲山頂上」には神呪寺の開祖・如意尼公のお話が簡潔に述べられています。

<如意尼公は淳和天皇第四の妃で、延暦二十二年(803年)に出生された。丹後余佐郡国府籠宮の祝部直海部(はふりあまでのあたい)の女(むすめ)、真井御前(まないごぜん)のことである。尼公のことは随分委しく小説のように書き残されている。二十歳で東宮妃となられたが、世に稀な美しい方であった。「甲山縁起」に、尼公の美しさを描いて
……儀容端麗にして玉をのべたる肌の光、あたり輝けり……沐浴したまはざれども、身體垢つくことなく、薫りを用いたまはざれども、異香自然に薫れり。常に肉味を嗜まず、ほどこしを行うを好み、如意輪尊の真言を念誦して日課とし給う。
と書いている。今の神呪寺の本尊である如意輪観世音は、弘法大師が、尼公のあまりの美しさに震感を催し、その姿をモデルにして、花顔柳腰を、そのまま写し奉ったというのである。>

 国指定重要文化財の像は神呪寺の本尊で桜財寄木造り彩色、像の高さ98.7cmで、河内の観心寺・大和の室生寺の観音と共に日本三如意輪と言われています。


 また、この伝承は鎌倉時代・元亨2年(1322)に京都東福寺の僧虎関師錬が撰進した『元亨釈書』の如意尼の伝に、詳しく出ています。
 しかし、西宮市教育委員会の調査では、如意輪観音坐像のもつ美は平安初期のものではなく、まさしく藤原期のもので、製作技法もまたそれを示しているので、弘法大師の年代から
約100年おくれた10世紀の中ごろの製作と推定されています。

北尾鐐之助は真井御前に心をはせます。
<二十六歳で山に入って、三十三歳で亡くなられた。その一代の麗人の墳墓としては、いかにもわびしい。悵然として傍らをみると、貼札がある。曰く「雨は天から、涙は目から、松茸とる人盗みから」と、この山にも松茸が出るとみえる。現実の世界だ。赤松が美しい。>
 現実の世界に戻った北尾鐐之助は、面白くこの話を結んでいます。
昭和の初め、甲山に松茸が生えていたとは。



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昔はトロイデ型火山と考えられていた甲山

 昭和4年に刊行された北尾鐐之助著『近畿景観』の「甲山頂上」の章の冒頭からです。
<この夏から、甲山へ登るのを許されることになった。もっとも、いままでとて、登れば登れたのであるが、林区署で保安保護を名として、一般に入山を許されてなかったので、私もつい、山に入ってみようともしなかったのだ。ただ山のぐるりを廻って、不思議な、この塊状火山の甲のあたまをながめて、またどちらかへ下って行った。>

 ここで述べられているように、甲山は私の小学生時代までは塊状火山、すなわちトロイデ型(つり鐘状)火山と考えられていました。確か、小学校のテストでも出ていました。
 
 ところが、多分昭和40年ごろに、「甲山はトロイデ型火山」は間違いで、浸食されてあのような形になったと教えられ、一時は火山でなかったのかと思っていた時期もあったのですが、火山であったことは間違いありません。甲山ファンとして、誕生の様子を整理しておきます。

 参考文献は種々ありますが、今回は西宮市立総合教育センター編『西宮の自然ガイド@甲山の自然』からです。

1200万年ほど前、六甲山系の花崗岩を貫いて甲山火山が誕生します。
 噴き出した溶岩は安山岩であり、トロイデ型になる流紋岩質ほど粘り気がなく、かなり遠くまで溶岩は広がったと考えられており、コニーデ型だったのかもしれません。

 その火山活動も1000万年ほど前には治まり、次に風化や浸食が始まり、500万年以上の長きにわたり、削り取られた結果、火口付近の火道のあたりだけが残り、現在の形になったそうです。(上の図の一番下の鎖線)

 その後、300万年ほど前から100万年ほど前までは海に沈んでいたようです。

 ところが30万年ほど前に、日本列島各地が地殻変動をうけるようになり、六甲山は押し出されるように上昇し、この時代に、いたるところに断層ができたそうです。


 2万年ほど前の氷期には、海水面が100メートル以上下がり、大阪湾も干上がって陸地になりましたが、氷期が終わった1万年ほど前には、海水面が徐々にあがって甲山の麓まで海になり、その後、現在の国道171号線が海岸線になっていました。

平安時代の『梁塵秘抄』には、
“廣田より戸田へ渡る舟もがな浜のみたけへことづてもせむ”
とい歌が詠まれ、広田と戸田の間を舟で行き来していたことがわかります。

 このような歴史を調べていると、1万年単位で考えると、凄まじい気候変動があり、この先どうなって行くのかと考えてしまいます。



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トレーシー・シュバリエ『真珠の耳飾りの少女』に登場する「牛乳を注ぐ女」

 東京・上野の森美術館でフェルメール展が開催中で、NHKの日曜美術館で「ようこそ フェルメール部屋(ルーム)へ」と題して、今回公開されている作品の紹介がありました。

「牛乳を注ぐ女」に登場するたくましい体つきの女性は、フェルメールが当時最も信頼を寄せていた女中の「タンネケ・エフェルブール」だと言われています。

 映画にもなったトレイシー シュヴァリエ 著『真珠の耳飾りの少女』でも、女中のタンネケが登場し、フェルメールの家に女中として雇われた主人公フリートとの会話に「牛乳を注ぐ女」の話が登場します。

映画ではイギリスの俳優、ジョアンナ・スキャンランが演じていました。恰幅の良さは牛乳を注ぐ女のイメージにピッタリです。
<前屈みだったタンネケがボンネットを手に背筋を伸ばし、こう言った。「わたし、旦那様に絵に描いていただいたことがあるのよ。牛乳を注いでいるところを。みなあれが旦那様の一番よい絵だって言ってるわ」「その絵、見たいわ」すぐに応じた。「まだここにあるの?」「いいえ、とんでもない。ファン・ライフェン様が買っていったわ」しばらく頭をひねった。「それじゃデルフトでも一番のお金持ちが、毎日あんたの姿を眺めて楽しんでるってわけね」タンネケの頬がほころぶ。あばたの残る顔が一段とふくらんだ。ことばでも壺にはまれば、たちまちタンネケの気分を変えてしまう。>
 この絵もパトロンのファン・ライフェンに買われていたようです。

 絵の背後の壁の下部をよく見ると、キューピッドを描いたデルフト・タイルが貼られているのですが、これも小説で次のように登場します。

<しばらく時間があるようなので、部屋の中を観察した。部屋は大きな方形だが、階下の大広間ほど大きくはない。窓を開けると、室内は明るく広々とした感じになった。壁面は白、床は灰色と白のタイルの市松模様。モップの汚れが白壁につかないように、キューピッドを描いたデルフト・タイルが壁の下縁に並んでいる。お父さんの描いたタイルはひとつもなかった。>
また床に置かれている小さな箱は足温器とのこと。

「牛乳を注ぐ女」で一番不思議なのは、壺の傾きで、本来は牛乳がこぼれる角度ではないようです。

凸版印刷による「牛乳を注ぐ女」を360度から鑑賞できる絵画鑑賞システムViewPaintで見るとそれがよくわかります。

それにしてもフェルメールの最高作品のひとつ、絵には色々な謎が含まれています。



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小説『真珠の耳飾りの少女』に登場する製作中の「真珠の首飾りの女」

 東京・上野の森美術館でフェルメール展が開催中で、NHKの日曜美術館で「ようこそ フェルメール部屋(ルーム)へ」と題して、今回公開されている作品の紹介がありました。

その一作品が「真珠の首飾りの女」です。

 映画化もされたトレイシー シュヴァリエ 著『真珠の耳飾りの少女』では、フェルメールの家に女中として雇われた主人公フリートが、アトリエの掃除の方法を教えてもらう場面で、「真珠の首飾りの女」がイーゼルの上に架けられ、制作中の様子が描かれていました。

(小説では主人公フリートが、最後に「真珠の耳飾りの少女」のモデルとなります)
<婦人は机の前に立ち、鏡か壁に顔を向けているので、こちらには横顔が見える。贅沢な黄色の繻子地を白貂で縁取った上衣をまとい、髪には当節流行のとんがりが五つある赤いリボンを着けている。窓の明かりが左から婦人を照らし、顔にあたって額と鼻の繊細な曲線をなぞる。婦人は真珠の首飾りを留めようとして、紐を持った両手を中空に保つ。鏡に映る姿に見惚れて、よそのひとが見ているなどとは思いもよらない様子。白く輝く背後の壁には古い地図、翳になった画面手前には手紙とわたしが掃除をしたパウダーブラシなどが載った机。>
文章でうまく絵の説明がなされています。
絵をよく見ると、窓の横に鏡が掛けられていることもわかります。

贅沢な黄色の繻子地を白貂はフェルメールの死後に作成された財産目録に入っているそうです。
髪につけられた赤いリボンは当時の流行。
TVでの説明では、当時の首飾りには留め金がなく、黄色の紐を結び、その後結び目を首の後ろに回すそうです。

「真珠の首飾りの女」の背景は白い壁のみですが、エックス線写真により、当初は壁にネーデルラントの地図が掛けられていたのを後に塗りつぶしたことがわかっており、小説では製作中のこの絵の背景に古い地図が描かれています。

<実際の道具立てがすぐ後ろにあるところで絵を見るのは、ちょっとおかしい。埃を払ったばかりだから、机の隣にあり、青い布は黒っぽい壺の周りに寄せてある。それぞれの位置関係も、何もかもまったく同じようだ。ただくすみが取れて、きれいになっている。絵の中では先に掃除がすんでいたようなもんだ。>

机の上にあるのはパウダーブラシと書かれていますが、大きなパウダーブラシです。
机の隅に何かあるのがわかりますが、これは小説では手紙と説明されています。

<そこで、ちがいに気づいた。思わず息を呑む。「どうしたね?」「絵では女の人の脇の椅子に獅子の頭がついていません」わたしは言った。「ないわ。あの椅子にはリュートが置いてあったこともあるの。あの方はただ見えるままを描くわけではない、気に入ったものを描くのよ。お前、この絵は仕上がっていると思うかい?」じっと顔を見つめた。>


獅子の頭のついた椅子は「紳士とワインを飲む女」や「手紙を書く女」などにも登場しますが、別の椅子が描かれている絵もあり、小説どうりか否かはわかりませんが、「見えるままを描くわけではない」というのは確かです。

<質問は罠にちがいないけれど、どこかを変えれば絵がもっとよくなるとはどうしても思えない。「仕上がっているのではありませんか」しどろもどろになった。
マーリア・ティンスが不満そうに鼻を鳴らす。「こおれまで三カ月これにかかりっきりだったんだ。後まだ二カ月はつづけるだろうよ。どこかを変える。見ててごらん」あたりを見回す。>
この先少しずつ絵は変わり、その間に背景の地図も白い壁に変わったのでしょう。
小説では、この絵のモデルは富豪のファン・ライフェンの奥方で、夫妻が完成した絵を気に入って買い取っていく場面まで描かれています。



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甲山神呪寺の読み方

 西宮市の門戸厄神の東側に神呪町があるのをご存知でしょうか?


 ただ昭和10年の地図(左側が北)の地図を見ると、門戸厄神のあたりが甲東村の神呪部落となっており、位置が少し違います。


 渡辺久雄著『甲東村 −郷土研究の一例―』に、その発祥について述べられています。
<尤も今日の神呪なる文字を、カンノオと読ますことについては理由がある。これは明治七年五月の町村整理の際に、当時存していた神呪寺(じんじゅうじ)村と神尾(かんのお)村が合併され、文字は神呪寺村の神呪を採り、発音は神尾村の神尾(かんのお)を採ることによって、神呪村なるものが文字の上で出来上がったわけであった。故に古くは神呪寺村と神尾村とが存在していたのである。更に古く遡ると神尾村一村のようである。>
やはり明治時代まではシンジュジあるいはシンジュジと呼ばれていたようです。

 本来、神呪(「しんじゅ」あるいは「じんじゅ」)とは神秘な呪文(じゅもん)。陀羅尼(だらに)のことで、神呪寺はシンジュジと読ませたのでしょう。

 ところで、神呪寺村が甲山の神呪寺とは離れた場所になぜ出来たのでしょう。

 神呪寺発行の『甲山神呪寺史』によると、源頼朝が再建した中興時代は、七堂伽藍が完備し、壮大であったとしていますが、戦国末、天正年中(1573年)に荒木村重の反乱によって、その大部分の堂塔が焼き払われます。そして、
<文禄三年には太閤秀吉の検地によって寺領が武家支配となったので、寺は慶長四年(1599)やむなく神呪村へ下山し、その村の百姓を檀越として資糧を受け、ほそぼそながら寺の維持をして来た。隆盛であった昔の面影はさらになく、寺領どころか寺の存続さえも危ぶまれる有様となった。>
 ここには神呪村へ下山と書かれていますが、神尾(かんのお)村に下山し、そこに新たに神呪寺(じんじゅうじ)村ができたのではないでしょうか。

 神尾(かんのお)の由来については、『廣田神社を戴く』という意味に発すると、次のように説明しています。
<さていずれにしても、今日の神呪部落の前身は神尾であり、上ヶ原を最初の住地としていたものであり、上ヶ原が古く廣田神社の鎮座地であった縁から、この部落も『神』の字を戴き『尾』は『野』の転化であるとすれば、『廣田神社を戴く』というのが最初の地名の由来であったと思う。>

 また江戸時代に書かれた『摂陽群談』を引用し、神呪寺(しんんじゅじ)がカンノオジと呼ばれていた例を示しています。

<「感應寺、武庫郡神尾村にあり、神尾、感應並みに同音、山号摩尼山と称す。始号神呪寺」とあり、当時神呪寺が感應寺と書かれ、或いは文字はそう書かないまでも『カンノウジ』と呼ばれていたことがわかる。>

「シンジュウジ」が昔の呼び方と思っていましたが、江戸時代に神呪寺は「シンジュジ」とも「カンノウジ」とも呼ばれていたことがあったようです。




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甲山の神呪寺(カンノウジ)は元は「しんじゅじ」と呼ばれていた

 北尾鐐之助著『近畿景観』の「甲山頂上」の章からです。
北尾鐐之助は昭和の初めに、入山許可がでたことから、甲山頂上に登ります。

<いつもよく行く、山腹の神呪寺(しんじゅじ)から、頂上まではわずかに四〇〇米ほどの道である。入山許可とともに、寺では登山路を改修して、頂上には茶店の設備までをした。以前から、山の北東に面する中腹に一基の五輪塔が立っていて、そこまでは細い道がついていた。保安林として入山を禁じられてからは、道も草に埋もれて、この墓に賽する人もなく、何人の墓碑とも判らないが、或いはこれが、神呪寺の開祖如意尼公の墓ではないかというので、参考地として附近を新たに改修した>

 この時代、まだ甲山南面のジグザグに登る登山道はできておらず、北尾鐐之助は神呪寺から東側を廻り、甲山自然の家方面から頂上に上がる道で頂上に向かったようです。

 途中で見かけた五輪塔は、「神呪寺の開祖如意尼公の墓ではないか」と考えたようですが、行ってみると源頼朝の塚と書かれた石碑がありました。

鎌倉時代初期に源頼朝が廃れていた神呪寺を、梶原景時を奉行として復興したことに対して頼朝に関係の深い人たちが建てたそうです。

 ところで、北尾鐐之助は昭和の初めに神呪寺を「しんじゅじ」と呼んでいます。江戸時代に描かれた摂津名所図会にも「しんじゅじ」とふりがながつけられており、開山当時の名称は神呪寺H.P.によると「摩尼山、神呪寺(しんじゅじ)」だったそうです。

 ではいつからカンノウジと呼称するようになったのでしょうか。調べてみると、郷土史家の田岡香逸氏の発案だったようです。田岡香逸著『西宮地名考』の「甲山」の項に、次のように述べられています。
<ここで、寺名の神呪寺について考えてみよう。以前は、一般の人々はもちろん、寺でも音読みしてジンジュ寺と呼んでいた。わたくしは、いろいろ研究した結果、カンノ寺と読むのが正しいと考えるようになり、これを先住の老僧に話したところ、これが受け容れられ、広くカンノ寺と、称するようになった。しかし、これも音便転訛し、いまではカンノウ寺と呼んでいる。>
そして、カンノと読むべきという田岡説が詳しく述べられていました。

これで、(おそらく戦後)カンノウジを正式呼称とした経緯についてはっきりしたのですが、渡辺久雄氏の『甲東村 郷土研究の一例』を読むと、江戸時代にカンノウジと呼ばれていたこともわかり、事態は少し複雑になりました。次回はそのお話を。




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『にぎやかな天地』の舞台になった苦楽園口駅。イチョウ並木が紅葉

 いまや阪急苦楽園口駅前の目抜き通りになったイチョウ並木の苦楽園口通り。

綺麗に紅葉しています。

 苦楽園口駅周辺はベーカリーの激戦区。

 宮本輝『にぎやかな天地』でも、苦楽園口駅近くに開店した輸入食料品と窯で焼いたパンの販売をする店「トースト」が登場します。

<トーストは、苦楽園口駅からほんの少し夙川駅のほうに下ったところに並ぶ住宅街の細道を入ったところにあった。地震のときに損傷を受けた建物の修復もかねて改装したらしく、聖司が記憶している店構えとは異なっていた。からし色の鱗壁に「トーストパンと輸入食品の店」と書かれた看板がかかっている。>

 こちらは駅前のローゲンマイヤー。「ローゲンマイヤー」の名付け親は仁川の洋館喫茶店「ハッセルハウス」のオーナーだったと以前お聞きしました。

<聖司はそう思いながら、誰もいない店内の奥を目でさぐった。アルミのドアの上部にガラス窓があってそこからパンを焼く作業が見えた。何段もの金属製の棚が並び、その奥に古い煉瓦の窯があった。>

位置的にはケーズケベックがぴったりです。

 私も美味しいパンを求めてこのあたりを時々歩いていますが、秋の深まりを感じる苦楽園口通りです。

夙川さくら道も色づいていました。


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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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