阪急沿線文学散歩

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田辺聖子さんが新婚時代住まれた異人館は今…

  以前、田辺聖子さんが新婚時代に住まれ、『お目にかかれて満足です』の舞台にも登場する異人館を諏訪山に訪ねたことがあります。
 しかしその時私が、田辺さんが住まれた異人館と思っていた洋館は、川西英『神戸百景』に描かれた「諏訪山住宅」と見比べると、田辺さんが住まれた異人館の下にあった洋館だったことが判明しました。
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川西英「諏訪山住宅」の一番上に描かれている赤い屋根に黄色い壁の異人館が、田辺聖子さんが昭和41年からしばらく住まれていた異人館だったのです。

上の写真の右半分の家が田辺さんの住まいでした。

 その当時の暮らしについて、田辺さんは「すばる」平成17年1月号の小川洋子さんとの対談で。次のように話されています。
小川 それは結婚なさったころのお話ですよね。その新婚のころに住まわれていた異人館が、『お目にかかれて満足です』の舞台の洋館になっているんですか。

田辺 そうですね。畳などを敷いたりして日本風にアレンジして暮らしました。寝るところも、おっちゃんがベッドは嫌だというから、畳を敷いてもらったけど、客間は全部そのままで、鎧戸もそのまま。客間は鎧戸をあけると、窓が上、下にあるのね。そこも開けると、大阪湾が一望に見えて、きれいだった。>

 田辺聖子さんの年譜によると「昭和41年38歳の時、神戸市兵庫区の開業医師・川野純夫と結婚。住居は生田区諏訪山の異人館であったが、半ば別居婚、仕事場は尼崎にあった」
と書かれています。

 しばらくぶりですが、今回異人館の跡地はどうなっているか、再び諏訪山を登ってみました。

 諏訪山公園の下の「神戸市立花と緑の推進センター」から見える山の上に田辺聖子さんの異人館がありました。

この坂道を登っていきます。川西英の「諏訪山住宅」の右下に描かれている坂道です。

現在最上段にある洋館の横にあるこの階段を登ったところに田辺さんの異人館があったのです。

上の写真の階段の奥に田辺邸があったのですが、更地にはなっているのでしょうが、草木で覆われてまったく面影はみつかりませんでした。

 田辺邸のあったあたりから見た景色です。住まれていたころは大阪湾が一望に見えたそうですが、残念ながら現在は高層ビルが増え、海の景色はかなり遮られていました。





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湯川秀樹は小学5年の黒岩重吾と苦楽園で出会っていた?

 湯川秀樹は大阪の煙もくもくの環境を嫌い、昭和9年に義父母とともに苦楽園に引っ越してきました。


 湯川スミ夫人は『苦楽の園』で次のように述べています。
<大阪の家より部屋数は少ないが、空気はきれいだし、乾燥しているうえに、南に向いた山の中腹なので見晴らしが素晴らしかった。夜になると阪急、阪神、国鉄の電車や汽車の光が行きかい、えもいわれぬ景色だ。夕食後のひととき、私たちは家族みんなで窓際に並んでみとれたものであった。>

 その湯川秀樹の『湯川秀樹日記 昭和九年中間子論への道』を読んでいると、郊外学園の記述がありました。
<八月三十日木曜 晴 涼
 六時五十五分起床。昨夜は蒸し暑かったが、今朝は急に秋らしくなった。海岸や海がはっきり見える。郊外学園の生徒も、朝、乗合で帰って行った。>

 さてこの郊外学園とは苦楽園三番町にあった大阪市が運営していた六甲郊外学園のことです。


 場所は航空写真で青の線で囲んだところ。湯川邸は黄色の線で囲んだところにありました。

現在は住宅地となっていますが、郊外学園はこの二つの道に挟まれた場所にありました。

 黒岩重吾は、『北満病棟記 暗い春の歌』の作品群の最後で、郊外学園について「深い傷」と題して次のように述べています。
<私が昨年移転した現在の住居は、兵庫県の西宮市だが、私は大阪市の小学校五年生の時、虚弱児童という理由で、大阪市が運営していた六甲の郊外学園に半年間行かされた。父の意思だったと記憶しているが、行かされた理由は、私がたんに虚弱児童だったからではない。当時の私は両親の手に負えない、腕白少年だったのである。真面目な電気技師だった父と、将来、放蕩無頼な生活を送り、作家になった私が合う筈がない。私は小学生時代から両親に反抗し続けた。>

 黒岩重吾にとって郊外学園の思い出は決して楽しいものではなかったようです。
<父が私を六甲の郊外学園に入れ、集団生活の中で、性格を叩きなおそうと考えたのも無理はないだろう。つまり私は、小学五年生の時、家を放り出され郊外学園で鍛えられたのである。入園の児童たちは殆んど勉強させず、山を歩かされたり、野菜を作らされたりした。幾ら腕白でも小学校の五年生といえばまだ家が恋しい年齢である。私は就寝の前になると、家に戻ったなら両親にあまりさからうまい、と誓った。
 その六甲郊外学園は、今度の新住居の近くにあったのだ。偶然といえば偶然だが、私の人生は、そういう偶然の積み重ねによって成り立っているようなところがある。>

 黒岩重吾が六甲郊外学園にいたのは、昭和10年、小学5年のときでした。湯川秀樹の日記に記載されていたのは昭和9年8月30日ですが、湯川一家は昭和15年に甲子園口に引っ越すまで苦楽園に住んでいました。当時、住人の少なかった苦楽園ですから、二人がそこで顔を合わせた可能性は十分あるのです。
 黒岩重吾は晩年苦楽園に自宅を持ち、現在もその邸は残っています。



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もう一人の巨匠も描いていた阪神大水害(『アドルフに告ぐ』)

 阪神大水害については、谷崎潤一郎と遠藤周作は自ら経験した災害でもあり、それぞれ『細雪』、『黄色い人』に描いています。

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 「マンガの神様」と呼ばれた手塚治虫も、代表作のひとつ『アドルフに告ぐ』で、その時代背景を描く阪神大水害を史実に基づいて描いています。


<七月三日から五日にかけて阪神地方を襲ったこの豪雨は百年に一度の水害といわれている>


<その日の朝花崗岩による軟弱な地質はたちまち洗い流されて六甲山塊の土砂が嵐のように神戸の街へ乱入した>


 ここに描かれているように7月5日の朝は既に豪雨になっていたのでしょう。しかし、今では信じられないのですが、『細雪』では、その朝悦子は小学校にでかけていました。
<七月に這入ってからも、三日に又しても降り始めて四日も終日降り暮らしていたのであるが、五日の明け方からは俄かに沛然たる豪雨となっていつ止むとも見えぬ気色であった。が、それが一二時間の後に、阪神間にあの記録的な悲惨事を齎した大水害を起こそうとは誰にも考え及ばなかったので、芦屋の家でも、七時前後には先ず悦子が、いつものようにお春に付き添われながら、尤も雨の身拵えだけは十分にしたことだけれども、大して気にも留めないで土砂降りの中を学校へ出かけていった。>

同じように、遠藤周作も7月5日は灘中へ試験を受けに登校していました

『アドルフに告ぐ』でも主人公の一人アドルフが、神戸キリスト教学校へ登校する場面が描かれています。

<まるで川みたい こんな日でも学校あるの?ぼく休みたいな
 アドルフ日本の学校はどこでも今日はふつんお授業ですよ 負けてはダメよ>
 これは創作ではなく7月5日の朝の日本の風景そのものだったのです。

<昨夜からの雨量は四百ミリを超え、各地で山崩れや土砂崩れが発生しています 洪水は加納町から市役所の方へ流れ出し 三ノ宮のガードは水ですれすれになり 阪神電車の地下駅にも流れ込んでいます>

この三宮阪神ビルが完成したのは昭和8年。この完成にわせて元町にあった十合百貨店神戸支店が、神戸そごうとしてこのビルに移りました。そのわずか5年後の大水害でした。


<豪雨は五日の夕刻になってやっと終わりをつげた 雲間から夏の夕日が久々に照り付けた神戸は惨憺たる荒廃ぶりだった>

後ろに描かれているのは現在のJR三宮駅。
水没した阪神三宮の地下駅に降りる入り口が描かれています。


 さて手塚治虫は昭和3年11月生まれ。阪神大水害の発生した昭和13年7月は、宝塚市に住み、池田師範附属小学校(現在の大阪教育大学附属池田小学校)の3年生でした。
阪神大水害のときの池田、宝塚の状況はよくわかりませんが、その日は手塚治虫も小学校に登校していたのでしょう。



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『大阪倶楽部』と明治時代創設の神戸の独逸人倶楽部を比べてみました

 月刊神戸っ子6月号に大阪倶楽部が登場しています。
https://kobecco.hpg.co.jp/32491/

 私も以前から見学させてもらいたいと願っていた建物で、取材に同行するチャンスをいただき、一緒に事務局長にお話を伺うことができました。

(「館内見学会」は2カ月ごとに実施されているそうです)


現在の建物は大正13年に竣工。設計はモダニズム建築を代表する建築として名高い大阪ガスビルディングなどを設計した安井武雄。近代化産業遺産の認定を受け、国の登録有形文化財として登録されています。

外壁の装飾も趣があります。

エントランスホールにある魔除けの「邪鬼」。

 明治時代にイギリス女王ヴィクトリアの「社交クラブのない国は野蛮な国」という発言を受けて、日本にも社交クラブが設立されるようになったそうですが、大阪にも社交クラブをという声があがって、大正元年に大阪倶楽部が創設されたそうです。

各階にはこのような電話室が設置され、今も残されています。

事務局長から伺ったお話で、面白かったのは
<本来社交倶楽部は、大広間、自前の食堂、ビリヤード場の3つが揃ってはじめて社交クラブと位置づけられました。やはりジェントルマンの館ですからね。>というお話。

 神戸の居留地にドイツやオランダ、スイス出身者を中心に明治12年に設立された社交クラブ『クラブ・コンコルディア』の50周年記念誌に内部の写真がありました。
それを見ると、確かに大広間、食堂、ビリヤードがそろっています。
各部屋を少し比べてみましょう。

上の写真はクラブ・コンコルディアのビリヤード。


大阪倶楽部のビリヤード台のひとつは、ここのメンバーでもあった実業家の加賀正太郎の別荘、京都の大山崎山荘にあったものを昭和28年に移設されたものとのこと。

こちらは大広間。

大阪倶楽部ではこの部屋で毎月著名人の講演会が催されているそうです。

こちらが食堂。

上がクラブ・コンコルディアのバー。下が大阪倶楽部のバーです。


図書室も備えられています。(上がクラブ・コンコルディア、下が大阪倶楽部)


クラブ・コンコルディアには、ボーリングに近い、ドイツのケーゲルのレーンも設置されていました。私も45年位前にケーゲルを楽しんだことがあり、懐かしい写真です。

大阪倶楽部にはさすがにケーゲルはありませんが、その代わり立派な囲碁・将棋室がありました。

 このように明治時代からある独逸人倶楽部の設備と比べてみると、大阪倶楽部の建物も外国の社交クラブを範として設計されたことがよくわかりました。


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谷崎潤一『細雪』と遠藤周作『黄色い人』に描かれた阪神大水害

 谷崎潤一郎の『細雪』を読むと、阪神大水害の日の様子がよくわかります。

<いったい今年は五月時分から例年よりも降雨量が多く、入梅になってからはずっと降り続けていて、七月に這入ってからも、三日に又しても降り始めて四日も終日降り暮らしていたのであるが、五日の明け方からは俄かに沛然たる豪雨となっていつ止むとも見えぬ気色であった。が、それが一二時間の後に、阪神間にあの記録的な悲惨事を齎した大水害を起こそうとは誰にも考え及ばなかったので、芦屋の家でも、七時前後には先ず悦子が、いつものようにお春に付き添われながら、尤も雨の身拵えだけは十分にしたことだけれども、大して気にも留めないで土砂降りの中を学校へ出かけていった。>


 阪神大水害の状況は六甲SABOによると、
https://www.kkr.mlit.go.jp/rokko/disaster/history/s13/s13-index.php
「昭和13年7月3日〜5日にかけて雨が降り続きました。とくに5日の午前中は、1時間に最大で60.8oも降る大雨となります。 雨で緩んでいた地盤は耐え切れずに各所で崩壊。川も氾濫し、土石流となって町へ押し寄せました」
という事実と『細雪』の描写はぴったり一致します。

 一方、遠藤周作はこの時15歳、7月5日の朝は悦子と同様、土砂降りの雨の中を夙川の家から灘中に行き、試験を受けていました。

エッセイ「二つの大事件」からです。
<風水害の時もやはり試験だった。私たち生徒は烈しい雨音をききながら答案用紙に向き合っていた。私の答案用紙はほとんど真っ白だった。突然、教室があいて誰かが蒼白な顔をして連絡してきた。「試験は中止」先生は大声を出された。「皆、非難する……」
 試験はやめになり、私は二、三人の友だちと御影から夙川まで濁水につかり、横倒しになった樹木や家屋の間をぬって帰った。その時も災害のひどさを私は感じなくて、翌日、新聞をみて、よく自分も助かったとびっくりしたのである。そしてあの真白な答案用紙を出さずにすんだことをひそかに悦んだ。もう、むかし、むかしの話である。>

写真は灘中の傍の住吉川の様子。

 この経験を『黄色い人』にも登場させています。
デュランの日記に、「あれは昭和十二年の九月十一日だった」として、御影の教会に雨をおかしてウッサン神父を訪ねて一泊したときの思い出を、次のように書いています。
<翌朝も雨はやまなかった。濁流は路という路にうずまいていたが、駅近の住宅はみなそのままなので、私たちは大したことはなかったのだろうと話し合った。私たちも日本にきて四、五年、秋の颱風には馴れていたのである。だから昼すぎ、空が晴れると、私を引きとめるウッサン神父に別れをつげて、靴をぬいだまま、少し引いた黄濁した水の中を陽気な気持ちで帰りはじめたのだ。だが、阪神電車はまだ動いていなかった。>
小説では大水害が発生したのは昭和12年9月11日としていますが、これは遠藤周作がよく使う手法で、フィクションであることを読者に認識させるため、史実の発生日を異なった日に設定しているのです。

また、「黄濁した水の中を陽気な気持ちで帰りはじめた」と書いているのは、きっと遠藤周作が試験から解放された時の喜びを思いだしたからでしょう。




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谷崎潤一郎記念館で「細雪に見る阪神大水害」展

 6月17日まで谷崎潤一郎記念館ロビーギャラリーで「細雪に見る阪神大水害」展が開催され、『細雪』に描かれた場面の引用とともに、当時のニュース写真が展示されていました。


 その中で今回初めて見た写真が倚松庵の隣に住む「シュトルツ家」のモデルとなった「シュルンボルム家」の人々の写真。

大水害の場面では、隣家のシュトルツ夫人が境界の金網の上から首を出して、青ざめた顔をしながら、幸子に話しかけます。
<「わたしの旦那さん、ペータァとルミーを迎えに神戸へ行きました。大変心配です」
シュトルツ氏の三人の子供たちのうち、フリッツはまだ幼いので学校へ行っていなかったが、ペータァとローゼマリーは神戸の山手にある独逸人倶楽部付属の独逸小学校へ通っていた。>
写真にはモデルとなったシュルンボルム夫人と三人の可愛い子供たちが写っています。


展示されていた引用文の「隣家の生還」です。

『細雪』に記述されている独逸人倶楽部は英人倶楽部より歴史が古く、大正9年の神戸新聞「居留地の今昔」によると、
<英人倶楽部が建つ以前に独逸人倶楽部が存在した事は前述の如くであるが是は頗る奇妙な事で種々の難関を排して居留地を経営したのは英国人であるのに商館を一番に建てたのも独逸人であった、英国領事館が居留地外人の代表者たる程の勢威があったに拘らず不完全なる領事館を持った独逸人が商売を真先に始めて居った。倶楽部なども然うである。>
と、興味深い記事が記されていました。

 さらにこの独逸人倶楽部の流れを汲むクラブ・コンコルディアは昭和2年に北野坂に移転し、昭和55年まであったそうです。




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これほど寂しげな甲山が何度も登場する小説が他にあったでしょうか

 遠藤周作『黄色い人』には何度も甲山が登場しています。甲山がこれほど登場する小説は他にないでしょう。


 しかし、テーマが遠藤周作のキリスト教信仰への苦悩であるだけに、その姿は寂しげです。
主人公千葉が逮捕されたブロウ神父に送ろうとして書いている手紙の中に、最初に登場する甲山です。
<おなじ阪神の住宅地でも芦屋や御影とちがい、ここは空気も乾き土地の色も白く、ふしぎに異国の小さな田舎村のような風景をもっていました。それは武庫川の支流である仁川がそこから流れる、まるい死火山の甲山とそれをとりまく花崗岩質の丘のたたずまいのせいでした。>

 仁川から見た甲山です。当時はまだ六甲山も白い山肌を見せていました。

 こちらは遠藤が住んでいた仁川の家の近くの弁天池から見える甲山。

 そして甲山の上を飛ぶアメリカ軍の戦闘機の様子も描かれています。
<そんなある日、病院の行きがけ、デュランさんの裏手の松林を通りました。丁度、警報がなったようでしたが、ぼくは、いつものように鉄かぶとも防空頭巾も用意していませんでした。どこかで金属をすり合わせたような鋭い音がしました。みあげると一機の敵機が甲山の中腹をぬって、灰色の空を急スピードで飛んでいくのが見えました。>

これは遠藤周作が実際に見た光景だったのでしょう。

 また遠藤周作の仁川在住時代の六甲おろしは強く印象に残っていたようです。
<甲山から氷のように冷たい風が川面をわたって吹きおろしてきます。川岸のどの家も灯を消し警報にそなえています。>

上の写真は逆瀬川と甲山。

 そして背教者デュランの日記にも、甲山から吹きおろす寒風の強さが次のように書かれています。
<まだ町はねしずまり、ひっそりとしていた。仁川橋まで来たとき、甲山から吹きおろす氷のような風が、物凄い勢いで顔にあたってきた。>

仁川橋は地図の黄線で囲んだ部分です。

<仁川橋まで歩きながら、私は最初のブロウの不思議な言葉の意味をとることができなかった。風は今日もはげしく甲山から吹きおろしていた。それを防ごうとして顔を手で覆った時、私はふたたびそこに自分の死相をみた。その死相は私がこの日記をつけた最初の日、ミサの帰りにこの仁川橋で、甲山から吹きおろす寒風をまともに受け、顔を手で覆った時、闇のなかに認めたものとは全く違っていた。>

こちらの写真は、『黄色い人』にも登場する関西学院と甲山
です。見事な借景。
阪急仁川駅から関西学院に通う学生も多いようです。



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背教者の人間的弱さへのあたたかい思いやりを見せる遠藤周作

 遠藤周作『黄色い人』では、遠藤周作が悩み続けた日本人的な感覚とキリスト教との矛盾の問題が著わされています。


 小説の中では、その悩みを背教者デュランに語らせています。
<彼等日本人は神なしですべてをすまされるのだった。教会も罪の苦しみも、救済の願望も、私たち白人が人間の条件と考えた悉くに無関心、無感覚に、あいまいなままで生きられるのだ。これはどうしたことだ。>

 同じことを遠藤はエッセイ『私とキリスト教』で汎神論と結びつけ、詳しく述べています。
<それは何故だろうと私は当時、この神を必要としない日本人の感覚に一種の恐怖を感じながら、しかしそれを自分の周囲やいや、私自身の中にさえ発見したのでした。基督教の歴史や伝統がないためだろうか。いや、それだけではないようでした。むしろこの神に対する無関心さはもっとも東洋的な汎神論から来ているようであり、日本人には長い間、ぬきがたいほど培われてきたものだと私には思えました。>

 遠藤周作は背教者に、自分の信仰の悩みに通じるものを感じていたと思われます。

 そのことについて、聖心女子大学第二代学長で遠藤周作の家庭教師もしたことのあるSr.三好切子は「少年周作のあとを追って」と題したエッセイで、次のように述べています。
<もう一つのこと。それはその頃の夙川教会に一見フランス人らしい初老の男性がいた。彼はよく教会に来て、二階の賛美歌隊のうしろに坐ってそっとミサにあずかっていた。

 きくところによると彼は巴里宣教会に属していて、かってミッショナリーとして日本へ派遣されてきたが後々司祭職をすてたという事だった。どのような印象を少年周作が彼から受けたかはわからない。しかし後日、同じ経路をたどった、遠藤一家とごく親しいドイツ人の司祭、H神父の面影がこのフランス人のと重なり合って、作家遠藤周作の中に人間の弱さ、特に背教者の人間的弱さへのあたたかい思いやりを養ったのではと思われる。彼の作品にはよくレノゲ(背教者)が出てくる。>

 ここに言及されている作品の一つが『黄色い人』なのです。その最後は次のように結ばれます。
<だが、同じ白い人でもデュランさんのことならまだ、ぼく等には理解できるような気がします。しかし、貴方のように純白な世界ほどぼく等、黄いろい者たちから隔たったものはない。それがこの手紙をしたためさせた、理由になるかもしれません。>
 貴方とは特高に連行され、高槻の収容所に拘留されているブロウ神父(モデルはメルシェ神父)ですが、遠藤周作は同じ白い人でも、背教者デュランの方が理解できると述べ、あたたかい思いやりをみせているのです。




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遠藤周作はメルシェ神父拘留時の家宅捜査の状況を知っていた?

 遠藤周作『黄色い人』では、背教者の元神父デュランが自殺するために五年前に手に入れたブロウニングのピストルを、まるでユダがキリストを裏切ったように、ブロー神父(メルシェ神父がモデル)の司祭館の棚の書類の間にピストルを隠し、警察に密告するのです。
 イブがアダムを悪に誘ったように、デュランはキミコから悪を呼びかけられたかのごとく行動します。
<(警察にブロウが拳銃をかくしていると手紙を送るのよ。先手をうたなければならへん。筆跡をみつけられないため一字一字新聞紙から切り取って糊ではるのよ……)
 午後私は新聞を切り抜き、ブロウを密告する手紙を作り、それを仁川橋のポストに投げ入れた……。>


写真は現在の仁川橋。

 このように『黄色い人』では、密告により司祭館が捜査され、ブロー神父が逮捕されたようなストーリー展開になっています。
 遠藤周作がこのようなストーリーにしたのは、昭和20年5月にスパイ容疑で逮捕されたメルシェ神父逮捕時になされた家宅捜査の状況を、仁川に帰省していた遠藤周作は伝え聞いていたからでしょう。

 メルシェ神父は逮捕拘留時のつらい経験について、解放後も沈黙を貫き帰天しました。その後三十年以上経ってから遂に開示されたメルシェ神父の獄中記からです。

<ここにいたるまで、彼らはまだ私を一度も尋問していませんでしたが、この間、憲兵らは夙川教会で私に関する危険文書を探して、時間を無駄にしていたのでした。司祭館の隅々まで、聖堂、香部屋、私の寝室の天井を破り、床下にもぐり、オルガンを分解してまで、秘密兵器を発見するべく捜査したのでした。>

尖塔の下、庭の中央にあるのが当時のカトリック夙川教会の司祭館です。

 実際にはスパイ容疑を実証するための書類が捜査対象となっていたようですが、遠藤周作はあたかもこの捜査状況を知っていたかのように、『黄色い人』では、書棚の書類の間に拳銃を隠させたのでした。




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昭和20年遠藤周作と野坂昭如は甲山上空の同じグラマン機を見ていた?

 遠藤周作『黄色い人』は戦時中、仁川の母の家に戻っていた遠藤自身の経験をもとにした情景が描かれています。

その中で、甲山上空から川西航空機宝塚製作所へのグラマン襲来を次のように描いています。
<どこかで金属をすり合わせたような鋭い音がしました。みあげると一機の敵機が甲山の中腹をぬって、灰色の空を急スピードでとんでいくのが見えました。「川西の工場を偵察しはじめたのだな」たちどまり、しばらくの間山かげに消え去った飛行機の跡をぼくは、さがしました。それを追いうつ高射砲の音一つしないもの憂げな午後でした。>

 更に主人公千葉は甲山上空から飛んできたグラマンに狙われるのです。
<弾の音はきこえませんでしたが、グラマン機がぼくを狙っていたのはたしかです。死が脳裏をかすめました。にも拘わらず、この古墳の腐土の臭いのなかで死は、ぼくには自然のなりゆきのように思えました。グラマンの動き、機械の響きだけがこの甘美な死を乱していました。>

 遠藤周作が実際にグラマン機に狙われたかどうかはわかりませんが、7月に仁川に戻っていた時に甲山上空を飛ぶグラマンを見ていたのでしょう。

 遠藤周作は仁川から甲山上空を見ていたのですが、ニテコ池から甲山上空でグラマンが飛ぶ様子を見ていたのが野坂昭如です。

 野坂昭如は一歳半の義妹を連れて昭和20年7月に満池谷町の親戚の家に疎開しており、自伝的小説『ひとでなし』で次のように述べています。
<七月に入ると、敵小型機が、まず気まぐれに阪神間の上空を通過し、時に、急降下特有の爆音で市民をおびやかした。まだ、食いものはあり、ぼくと律子、妹は、病院通いを口実に毎日出歩く。二度、甲山上空から飛来したグラマンが、狙ったわけでもないだろうが、夙川堤防と、国道にいた、ぼくたちの上を超低空で飛び去った。カサ上げされた堤防の、流れに沿い、公園となっていて、遊歩道なのか、内側に二メートルの張り出しがある。キーンと響き、グォーンと低い轟音となるその爆音に、ぼくは妹を背負ったまま、律子と、その張り出しに飛び降り、律子におおいかぶさった。>

野坂はグラマンから狙われた経験を他のエッセイにも書いています。

 この二つの小説を読み比べると、遠藤周作と野坂昭如はひょっとすると昭和20年7月に同じグラマン機を見ていたかもしれないと思えてくるのです。




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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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