阪急沿線文学散歩

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ロミ山田さんの小林聖心時代の音楽の先生は遠藤周作の母でした

 ロミ山田さんは10歳の時から国立音楽大学入学まで、小林聖心女子学院で過ごされます。
当時のことが自叙伝『楽譜を抱いて』に述べられています。

<音楽の先生は、遠藤周作さんのお母様(バイオリニスト、遠藤郁)。学校にはお着物でいらしていました。授業は、恐いのなんの。実にお恐い先生でした。時々先生がお笑いになるので私たちもつられて笑顔になると、先生はあっという間にもとの恐い顔に戻っていて、「そこの〇〇さん、何をニヤニヤしてるのです!」と怒られる。私たちはその変わり身の早さについていくのにどんなに苦労したことか……。>

 同じく小林聖心で、遠藤周作のお母様、遠藤郁に音楽を習ったのは須賀敦子さんや、妹の北村良子さん、稲畑汀子さんらがおられます。
 稲畑汀子さんと北村良子さんの対談でも、遠藤郁先生について、お着物に草履という姿で、「あなたたちやる気がないのね」とピアノをバターンと閉めたり、じだんだ踏んで怒られたり、「恐かったわよねー」と口をそろえてお話されていました。あだ名はグリーンピースだったとのこと。

 遠藤郁先生は、授業中も時々、「うちの周ちゃんは」と遠藤周作のお話をされたそうです。
 また遠藤周作は、小林聖心におられたシスター三好から母を通じて頼まれて、1948年に小林聖心の卒業劇のために初戯曲『サウロ』を書いています。


その直筆の原本は、今も大切に保管されています。

また遠藤周作は1965年6月号の月刊『神戸っ子』に「想い出すこと」と題した随想を寄せており、母郁が灘中に怒鳴り込んだお話を載せています。

<例によって教師になぐられ、その時は相当ひどいわるさをやったのか、歯をへし折られて家へ帰った。それを見て母は顔色を変えて学校へどなりこんで行った。「息子を教育してもらうために学校へやっているのであつて傷をつけてもらうためではない」と。「謝れ」「謝る必要ない」教師も相当頑張ったらしいが、兎に角、謝る迄はここを動きませんと座りこんだおばはんに根負けしたのか、結局、母は自分の言い分を通して引きあげてきた。
「お前は人より本を沢山読んでいるから偉い偉い」と劣等感のかたまりみたいな私をほめ、おだてて例えそれが漫画であろうと講談本であろうと本だけは欲しいだけ買い与えてくれた。>

 小林聖心の授業では大変恐い郁先生でしたが、遠藤周作にとってはマリア様のような存在で、いつも周作を信じ、許してくれるお母様でした。




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ロミ山田さんの戦中、終戦の小林聖心時代のご様子

 ロミ山田さんは幼児洗礼を受けておられ、洗礼名は「小さき花のテレジア」。受洗されたのは、おそらく戦前の芦屋にお住いの頃かと思います。

 戦前はまだカトリック芦屋教会は設立されていなかったので、洗礼を受けられたのは、カトリック夙川教会(「幼きイエズスの聖テレジア教会」)ではないでしょうか。

 また、戦時中の昭和二十年、小学校六年の六月に夙川の家から疎開されるまでは、小林聖心女子学院に通われ、自叙伝『楽譜を抱いて』に次のように述べられています。

<疎開の前あたりの頃は、歌どころではありませんでした。いえ、学校の授業どころでもありませんでした。ウーッと空襲警報のサイレンが鳴ると、校舎の地下に防空頭巾を被って逃げ込んでばかり。隣の川西市に軍需工場ありましたし、空襲は本当にしょっちゅうでした。>
 ここで述べられているのは、川西市ではなく、現在の阪神競馬場にあった川西航空機宝塚製作所のことだと思われます。


 遠藤周作は川西航空機宝塚工場の爆撃を間近に見て、小説『黄色い人』の冒頭にその様子を書いていました。
<黄昏、B29は紀伊半島を抜けて海に去りました。おそろしいほど静かです。二時間前のあの爆撃がもたらした阿鼻叫喚の地獄絵もまるでうそのように静かです。三時間のあいだ河西工場をなめつくしたどす黒い炎も消えましたが、なにが爆発するのでしょう、にぶい炸裂がひびのはいった窓にかすかに伝わってきます。>
 この爆撃があったのは昭和二十年七月二日のことであり、遠藤周作は母、郁の仁川の家に帰ってきて目撃したのです。(ロミさんは六月に既に疎開されていますので、目撃はされなかったでしょう)

 小学六年だったロミさんは学徒動員されることはなかったようですが、昭和四年生まれの須賀敦子さんも当時、授業がなくなり川西航空機の学校工場となっていた小林聖心で、航空機の部品製作に携わられていました。


 終戦後、ロミさんは一家が疎開先から戻る前に、しばらく小林聖心の寄宿舎に入られます。
<日曜日の御ミサに、近所の方々に加えて、進駐軍の姿が見え始めたのはその頃です。彼らは宝塚にキャンプしており、一番近いカソリックチャーチが聖心のチャーチでしたので、毎週日曜日にカソリックのつとめとして足を運んできました。日曜も学校にいる私たちがマザーに仰せつかったのは、御ミサで賛美歌を歌う役目。>

当時同じく、小林聖心の寄宿生だったホトトギス社名誉主宰稲畑 汀子さんから賛美歌隊として活動していたお話を伺ったことがありました。
このように当時のお話を整理していると、小林聖心の人脈にも驚いてしまいます。



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小林 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
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夙川育ちのロミ山田さんは今もご活躍!

 夙川ミッシェルバッハのクッキーローゼを日本中で一番おいしいクッキーと紹介されていたロミ山田さんは、オフィシャルサイトを見ると、「芦屋市で育つ」と書かれていますが、自伝『楽譜を抱いて』を読むと、小学校四年で芦屋から夙川に移られていたことがわかりました。

http://www.romi-yamada.com/index.php?FrontPage

 ロミさんは昭和8年実父の赴任地、朝鮮の京城に生まれ、一歳のとき、父親の朝日新聞京城支局から大阪本社への転任により帰国されています。

『楽譜を抱いて』によると、
<帰国後は大阪と神戸の間の宝塚、神戸、甲子園のあたりを、三、四回は引越ししたようです。うちの母、引っ越しが好きだったんですね。胃がんのために三十三歳で父が亡くなったのは、その間のことです。>
和辻哲郎は亡くなられた実父の従兄弟でした。

 母親の初子さんは、籍を抜いて実家に帰り、田中千代洋裁学院で洋裁を修め、デザイナーとして神戸の大丸百貨店に就職されます。


上の写真は田中千代洋裁学院発祥の地に建つ棕櫚と碑。

十歳のとき、母親が毎日新聞の山田眞一氏と再婚。
<再婚後は、母と祖母と私で住んでいた芦屋を離れ、夙川の新しい一軒家に移り、また、小学校四年で、芦屋市立岩園小学校から、小林聖心女子学院の小学部に編入しました。>

岩園小学校の学区にあった実家から夙川ですから、距離は近くでした。

その頃のことだったのでしょう、夙川のパボーニにお母様とロミさんが頻繁に通っていたのは。

ロミさんが懐かしんで、稲川淳二と夙川のパボーニを訪れた映像がありました。

名次山を歩くロミさん。

夙川べりを歩くロミさん。

その番組で、お母様は活発な女性で、モダンガールだったとロミさんが語られていました。

 さてそのロミ山田さんの近況。

驚いたことに、昨年の6月にオリジナルシングル「さらば燃えた日よ〜モルダウ(我が祖国)より〜」を発売されていました。

CD発売記念ディナー&トークショーまで開かれたようです。

夙川育ちのロミ山田さん、益々お元気にご活躍ください。



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パボー二 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
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司馬遼太郎『空海の風景』に描かれた高野山

 司馬遼太郎の『空海の風景』は、空海の生きた時代がはるかに遠く、現存する史料が乏しいため、せめて当時の彼にまつわる風景を想像することによって、朧げながらもそこに空海の人物像が浮かびあがらせることを期待して執筆されたそうです。


 そのようなことを考えながら、私も高野山の風景を見ていました。

『空海の風景』では、高野山を発見するにまでいたる伝説は、幾種類かあるとし、『二十五箇条御遺告』と『金剛峯寺建立修行縁起』を紹介して、
<空海の気持ちに即していえば、かれにはかねてより或る構想があったのである。かれのその構想に適う地としては、ひそかに山上が平らで広やかな山をさがしていたのではないかと思われる。>と推察しています。

 空海は何を考えていたかについて、高野山の街のつくりから考察しています。
<ここより山上がはじまるという西端の大門は、二層の楼を積み上げ、青みがかった硫化銀のようないらかが天空にそびえている。この楼門の柱の青丹がなおあざやかであたころ、長安の都城の門と、あるいはそっくりであったのではないかという空想はゆるされていいかもしれない。>

西端にある大門です。
<大門を入れば、長安でいえばすでに城内だ。長安の特徴であるひろやかな街路がひとすじに通っている。高野山もまたそうであり、その道路の両側を官衛や邸宅や寺院やあるいは商舗が塀をつらね、軒を並べている。宿坊といわれる僧侶たちの邸宅が塀をつらねている光景も、長安にさも似ているのではないかと思われる。>

 司馬遼太郎は「あくまでも空想である」としながらも、高野の街路を歩きながら、空海が長安を偲んで高野山を開創したのではないかと想像しているのです。

 さて空海の死後、約80年を経て空海が高野山奥之院で生きたままの体をとどめて、瞑想に入り、人々の救済に努めているという入定留身説が生み出されたことについて、司馬遼太郎は次のように述べています。
<空海は死んだ。しかし死んだのではなく入定したのだという事実もしくは思想が、高野山にはある。この事実は千余年このかた継承されてきて、こんにちもなお高野山の奥之院の廟所の下の石室において定にあることを続け、黙然とすわていると信ぜられているし、少なくとも表面だってこれを否定する空気は、二十世紀になっても、高野山にはない。>
と、ときに意外に思われるような信仰深さがあるとしています。

現在も高野山奥之院では毎日二回、御廟に向かって食事が運ばれており、その場面に遭遇しました。

 司馬遼太郎の文学碑が一の橋から少し入った墓地群の入口にありました。
 ご紹介はここまでですが、存在自体が漠とした祈りの対象となっている高野山。まだまだ多くの見どころがあります。



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司馬遼太郎 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
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世界文化遺産の高野山へ(高村薫『空海』)

 高村薫『空海』を読んで、思い立って世界文化遺産にも登録されている高野山を訪ねました。

高村さんは次のように紹介されています。
<高野山は、僧侶や修行僧の姿が日常的に見られる 日本で唯一の宗教都市である。山麓とそこに開けた町のほとんどが宗教施設で占められ、町の人々はまさに壇上伽藍と金剛峯寺と二十万基の墓や供養塔、そして百ヵ寺を超える塔頭とともに暮らしている。そこに立てば、一般の観光客でも独特の荘厳な空気を感じるが、四国霊場の結願のお礼参りや、春と秋の結縁灌頂を目当てに訪れる人々にとって、高野山の霊験はひとかたならぬものであることだろう。>

 ところで高野山へは本来、南海高野線とケーブルカーを乗り継いで行けるのですが、10月の台風で橋本駅から不通となり、バスに乗り換えます。

480号線を通る大変大回りの道で、高野山駅まで1時間30分近くかかってしまいました。

さすが900メートル近くバス道で上がってくると、霊験あらたかな高山に来た感じがします。空海はここまで歩いて登ってきたのですから。


 高野山は海抜850メートル前後の、東西6キロ、南北2キロ弱の盆地になっていて、周囲がさらに高い山々に取り囲まれている地形から、内の八葉、外の八葉の蓮華の花びらのような峰々に取り囲まれたこの世の浄土であるという信仰が古くから伝えられています。

 登りきると実感が伴わないのですが、グーグルアースで地形を見ると山の上に開けた盆地であることがよく分かります。
 そして高野山はこの世の浄土であるという信仰が、宗派を異にする二十万基の墓や供養塔が立ち並び、日本全国の総菩提所とまでいわれている理由でしょう。

 今回は日経新聞に紹介されていた高野山で唯一温泉が湧く宿坊、福智院に宿泊いたしました。



 チェック・インしてから、広い院内を案内してもらいましたが、外国人客には英語で説明されていました。




広間のふすま絵や美術品も見事です。


枯れ山水式石庭や池を配置した庭園が見事で、これだけでも高野山に来た価値があります。
 夕食は部屋までお膳を運んでくれます。新聞にも紹介されている四の膳まである豪華な精進料理でした。

こちらは朝食です。

宿坊も近代化して、この部屋ではWiFi接続までできるようになっていました。
 しかし、当日は粉雪も舞い散り、宿坊の寒さは修行僧のためか尋常ではなく、早々に真冬の寒気にさらされて参りました。



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司馬遼太郎 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
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廃線ルートで『亦楽山荘』の隔水亭以上に見逃せない一段下の番小舎

 笹部新太郎が研究室として建てた武田尾の『亦楽山荘』の隔水亭は、増山実『風よ僕らに海の歌を』にも水上勉『櫻守』にも登場します。

桜の道の周回路を歩く方は、隔水亭を見過ごす方はいないようですが、その一段下にあり物置の様に見える番小舎に目を向ける方は少ないようです。

しかし、この番小舎は水上勉『櫻守』は重要な舞台になっているのです。

『櫻守』の主人公弥吉が、武田尾温泉「たまや」で給仕をしていた戦争未亡人の園と、祝言を挙げたあとの場面からです。
<するとそれまで、だまっていた弥吉が上座にいて、「先生、わいら、今晩は、桜山の小舎で寝さしてもらえまへんやろか」といった。新婚初夜を、演習林の番小舎ですごしたいと、弥吉がいうのに、竹部は、ちょっと顎をひいて、だまった。>
竹部のモデルは笹部新太郎です。
 そして竹部は、「好きなようにして下さい。小舎には畳は入っています。なんなら、わしの研究室のよこの六畳に寝てもろてもええ。滝のよこの楊貴妃は今晩は満開ですわ」と答えるのです。

 最初、番小舎とは隔水亭のことかと思ったのですが、研究室として使われていた隔水亭とは違うようです。
<すると弥吉が、「先生」とあらたまった物言いで、「これをしおに、わしらを、武田尾の番小舎に住まわせてもらえませんやろか」といった。>
そしてその場所は、
<武田尾は、滝よこの、研究室の前から、一段ひくくなった台地の端に建ててある。以前に夫婦者も住んだことのがあるし、田舎じみてはいるが、三和土の隅にくどもある。滝から引き入れた竹樋の水が、外の水甕に落ちている。消毒液のまじる水道などそばによれない清澄な、うまい水だし、夏は手のきれるほど冷たかった。>
と説明されており、明らかに隔水亭の下に見える小舎を指しています。

そして二人はしばらくここに住むことになるのです。
隔水亭まで行かれた方は、その下の小舎もお見逃しなく。


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増山実 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
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福知山廃線ルートで見逃してはならない亦楽山荘の番小屋

 増山実『風よ僕らに海の歌を』で武田尾温泉にやって来たアリオッタはゆいたちと桜の園『亦楽山荘』に出かけます。
<ふたつめのトンネルをようやく抜けると、暗闇から、突然、一面の桜がわっと目の前に広がりました。あの瞬間のあでやかな風景は、今でも忘れられません。>

季節は初冬で、桜の木も裸になっていますが、この二番目のトンネルを抜けたところが桜の園『亦楽山荘』です。

<線路から山を登って、桜の道から下流の武庫川の流れを眺め、それから谷に降りました。谷には桜守の番小屋がありました。そこには石組みの水飲み場があって、みんなで山の水を飲みました。冷たい水が喉に沁みました。>

山へはこの階段を登って行きます。

上の周回路案内図に従って、反時計廻りに桜坂から桜の道を登って行きます。

桜の道も今は紅葉真っ盛りです。

桜の道にはヤマザクラの大木が何本もありました。春には見事な花を咲かせるでしょう。

途中には桜守のヘルメットをかぶった木彫りのキツネがいます。

この見事な紅葉の下の方が武庫川です。

 相当急な山道を登りきり、谷へ下って行くと桜守の番小屋・隔水亭に到着です。


その下には小説に登場する「石組みの水飲み場」がありましたが、残念ながら「生水のめません」と注意書きが。


<すぐ先に小さな滝がありました。その滝に覆いかぶさるように、見事なヤマザクラが流れに張り出して、枝を延ばしていました。>

隔水亭の横にあった滝です。ヤマザクラの枝は、この時期坊主になっていました。

もみじの道を通って、約60分で戻ってきます。

 この隔水亭は当然、水上勉の『櫻守』にも登場します。
<水は、ところどころに小滝をつくり、瀬をつくり、淵をつくりして、線路の下をくぐって武庫川へ落ちていた。この滝の腹に、竹部は、石垣を積み上げ、山荘を建てている。六畳と八畳の洋間とも和室ともつかぬ研究室であった。水しぶきをあげる滝の両側は、桜と楓が植えてあるので、ぬれた岩面に木もれ陽がふりかかると、春も秋も、息を呑むような絶景だ。>

横に立っていた説明書きでは、現在の隔水亭は2代目とのこと。

 桜の園の周回路は大変険しいルートでしたが、福知山線廃線ルートのハイキングの際は、是非隔水亭まで行ってみてください。



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増山実 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
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阪急神戸線の若い女性の話し言葉のルーツは?

 産経新聞編集委員石野信子さんの「宝塚―阪田寛夫」の講演で面白い評論を紹介していただきました。

鹿島茂氏が中央公論に連載している『宝塚をつくった男 小林一三』第12回(2016年9月号)で「阪急はいかにして文化的記号となったか」と題して、阪急沿線の女性の話し言葉について面白い解釈を述べておられます。

<大正七年、箕面電気軌道は社名を阪神急行電鉄に改称したが、その略称である「阪急」は単なる鉄道会社の名称であることを超えて、阪神間の郊外文化、東京には存在しない独特の雰囲気を持つ文化の記号となった。>

 だがその理由はよくわからないとしつつも、その手掛かりの一つが言語にあると述べています。
<あれはたしか、大学四年生のとき初めて梅田から阪急神戸線に乗ったときのことだったと記憶する。途中駅から乗り込んできた若い女性たちの会話を耳にしたとき、彼女たちの話す言葉の音韻とイントネーションに完全に魅了されたのだ。阪急沿線の若い女性の会話は私の耳にまるで音楽のように響いたのである。>


 この魅力的な阪急沿線の女性言葉について、鹿島滋は折口信夫の評論「『細雪』の女」で解説された「宝塚歌劇団の座員用語」を曳いてきて、それが「阪急文化」の核になっていると述べています。
<「阪急」から「文化」が生まれたとすれば、それは、小林が宝塚歌劇団をつくり、団員養成のための宝塚音楽学校を組織したことにあったにちがいない。>
と阪急の文化とは宝塚音楽学校から生まれたとしているのです。

<そこに応募してきたのは、従来のスペクタクル業界の人間とはまったく異なった、なんらかのかたちで自己表現したいという意欲をもった良家の子女だった。この良家の子女たちは小林の教育方針に基づいて西洋音楽と日本舞踏、セリフとしての東京語などを学ばせられたが、本来のラングである大阪語に新しい語彙として東京語を取り入れる一方、日本舞踏などの源流にある「遊所の語の舌たるさを加味しつつ、全体をブルジョワの親たちの志向であるハイカラ趣味でまとめて、集団的創作たる「宝塚歌劇団の座員用語」を生んだのである。>

 そして、これが家庭から阪急沿線に多い女学校(神戸女学院、小林聖心女子学院、梅花高等女学校など)の間で広まって行ったとし、更に、
<村上春樹の文体のルーツをたどれば、「宝塚歌劇団の座員用語」に行きつくはずなのである。>と結論しているのです。

 さすがに鹿島滋の説には納得しがたいのですが、「宝塚歌劇団の座員用語」が高貴で音楽性に富んだものであるということは、よく理解できました。



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宝塚 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

昔Uターン就職活動でたびたび帰省してた頃に思ったのはもう一歩進行してて東京言葉のイントネーションに関西弁語彙を乗せて話す女性が阪急沿線には多いなということでした。電車内で聞いててはっきり感じたのです。

[ せいさん ] 2017/12/08 0:25:05 [ 削除 ] [ 通報 ]

鹿島茂氏の説には少し無理があるかと思いますが、一度は宝塚歌劇団の座員用語なるものを聞いてみたいものです。

[ seitaro ] 2017/12/08 8:53:49 [ 削除 ] [ 通報 ]

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『風よ僕らに海の歌を』と『櫻守』に登場する『亦楽山荘』への道筋

 増山実『風よ僕らに海の歌を』にも桜守で有名な笹部新太郎の『亦楽山荘』が登場します。
<大正から昭和にかけて、笹部新太郎という有名な桜守がおりました。東大の法科を出て、犬養毅の秘書をしていたほどの人物でしたが、ある時、政界からすっぱり足を洗うて、桜守になりはったという、ちょっと変わったお人です。『亦楽山荘』は彼が生涯をかけて、絶滅が心配されるヤマザクラやサトザクラを自分の足で全国から集めて作りはった山林です。>

 その『亦楽山荘』へ花見に行くため主人公アリオッタは福知山線の線路上を歩いて行ったのでした。
<旅館から武庫川沿いの線路の上を歩いて、トンネルをふたつ抜けた先が『亦楽山荘』の入り口でした。それが一番の近道でした。当時はまだ山沿いの線路に汽車が走っていましたから、トンネルの中を歩くのは、ひやひやしたもんでした。>

地図を見ても、確かに福知山線のトンネルを抜けるしか『亦楽山荘』に行く方法はなさそうなのです。

 実際に笹部新太郎に取材した水上勉は、笹部に感化され、桜の保護育成に目覚めて行く植木職人北弥吉を主人公にした、『櫻守』を書いていますが、読んでみると、やはり笹部新太郎もトンネルを歩いて通ったようです。

笹部新太郎は竹部庸太郎と名を変え、弥吉の雇い主として登場します。
<武田尾駅にとまる国鉄単線だったが、川際すれすれに、崖のトンネルを二つくぐっている。演習林は、このトンネルの上にあるので、一度は線路をまたがねばゆけない。竹部は、弥吉をつれてきた時に、「汽車の時間表をようしらべといて、駅員さんにたのんで、線路を通らしてもろたがよろしおっせ」といった。>
汽車の時刻表を頭に入れて、線路上を歩いていったようです。

旧武田尾駅は上の写真の紅葉の右側の駐車場にありました。

(昭和50年の旧武田尾駅)

<その日も竹部は、駅を降りて、改札を出ようとする弥吉を、北さんこっちやとよびとめ、顔見知りの助役に会釈一つしただけで、煤けた枕木の積まれてある駅員宿舎の前から、ホームを歩いた。ホームが切れるとそのまま線路へ降り、枕木づたいに演習林の入口まできた。線路はゆるやかなカーブで、五分ほど歩くとトンネルに入ったが、そこは、急流で崖がえぐれていた。>

この枕木の上を笹部新太郎は歩いたのです。

一つ目のトンネルです。
<「二十三番トンネルで、枕木のかずは百二十一です」と竹部はいった。暗がりに入ると、前方にどんぐりの実ほどの穴が光っている。百二十一の枕木を、弥吉は、背の高い主人のあとから数えて歩いた。>

枕木の数を数えるを忘れていました。

<二つのトンネルをくぐって、ようやく、山のとば口へ出たが、弥吉は、竹部が心もち猫を負って枕木をかぞえ歩く背姿をみていると、この人は、何年このトンネルを歩いたか、と感慨をおぼえた。>

二つ目のトンネルです。
このトンネルを抜けると桜の園『亦楽山荘』となります。

笹部新太郎やアリオッタがひやひやしながら歩いた線路は、今や廃線跡ハイキングコースとして整備され、多くのハイカーが訪れています。



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増山実『風よ僕らに海の歌を』を読みながら福知山線廃線跡へ

 イタリア名誉領事に連れられて武田尾温泉にやってきたアリオッタは、一週間ほどは誰とも口をききませんでしたが、徐々に話をしはじめ、笑顔も見せるようになります。


 四月の中旬に母と長女みおと私(次女ゆい)は『亦楽山荘』へ花見に出かけます。

<旅館から武庫川沿いの線路の上を歩いて、トンネルをふたつ抜けた先が『亦楽山荘』の入り口でした。それが一番の近道でした。当時はまだ山沿いの線路に汽車が走っていましたから、トンネルの中を歩くのは、ひやひやしたもんでした。>
武田尾温泉から桜の園の『亦楽山荘』に向かうには廃線ルートを歩くの一番早いのですが、昔の人が線路を通らずに行くときは、どうしたのでしょう。

廃線ルートの武田尾側の入口には『亦楽山荘』のある桜の園入口の表示がありました。

五人はここを福知山線が走っていた時代に歩いていったのです。

最初のトンネルは91mの長尾山第三トンネルです。

トンネルを抜けると笹部桜がありました


<トンネルも渓谷に沿って曲がっていますから、中は光が入らす、真っ暗でした。ぴちゃぴちゃぴちゃとトンネルの天井から滴る水の音が、私には何か暗闇に身を潜める不気味な生き物が舌を鳴らしている音に聞こえ、一刻も早くここから駆け出したい気持ちになりました。私の手をさっと握る手がありました。「ダイジョウブ」アリさんの声でした。>


 二番目のトンネルは少し長めの147mの長尾山第二トンネル。
 
<ふたつめのトンネルをようやく抜けると、暗闇から、突然、一面の桜がわっと目の前に広がりました。あの瞬間のあでやかな風景は、今でも忘れられません。>



今回は桜の園『亦楽山荘』では、鮮やかな紅葉が待っていました。



11月になってようやく整備が終わり開放された人気の廃線ルート。

もう少し進んで第二武庫川橋梁まで歩くことにしました。


307mの長尾第一トンネルは懐中電灯が離せません。

トンネルを抜けると見ごたえのある第二武庫川橋梁に到着です。

今回は武庫川渓流の川音を聞きながら紅葉を楽しむ散策でしたが、もう一度桜の咲くころに来てみましょう。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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