阪急沿線文学散歩

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『妄想老人日記』からわかる野坂昭如の純情

『火垂るの墓』は野坂昭如が神戸大空襲により、満池谷に疎開した経験をもとに書かれた小説です。満池谷の遠い親戚の家には神戸女学院五年生だった三女が住み、彼女と過ごした2カ月は野坂にとって忘れられない思い出となりました。

『舞台再訪 私の小説家から』で、野坂は次のように述べています。

(ニテコ池を訪ねた野坂昭如)
<ぼくの小説「火垂るの墓」は、だから舞台をかりただけで、もし、ぼくのいつわりない満池谷を書くなら、少年と少女の、それなりにロマンティックな色どり濃いものとなるだろう。>

 その少年と少女の交情については、『早すぎた夏』や『わが桎梏の碑』、私小説『ひとでなし』、『行き暮れて雪』などに描かれています。
美しい三女への淡い恋心は、消えることなく、戦後何度も満池谷を訪ねており、前記の『舞台再訪』は、昭和44年2月に書かれた作品です。

 平成11年5月に三女は亡くなりますが、その葬儀に野坂昭如が駆けつけたことは、以前紹介いたしました。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11693156c.html

 ところで、先日今村様から、野坂昭如の『妄想老人日記』を紹介され、読んでいると1999年5月の日記に、葬儀参列の様子が書かれており、6月にも再び満池谷を訪れていたことが書かれていました。

(野坂が避難した満池谷の家のあった場所は、上の写真のように空き地となっています)

<六月十五日 快晴。起5:00AM。西下、かの女性の生家近くを歩く。震災でさらに変ってしまった、香櫨園の浜、五十四年前のまさにこの時期、毎日、君とこの辺りを歩いた、かつての白砂青松の浜、テトラポッドの山と変じ、濁った海にディンギー数隻。芦屋まで歩きS医師診療所、小学校同級生にして陶芸の師と碁を打っている。>


これは、三女が亡くなった後、野坂が彼女との思い出を訪ねた記録です。
 野坂は五十四年間、彼女への恋慕の情を持ち続けていたのでした。無頼派とも言われた野坂ですが、これほど純情な男だったとは。

 満池谷の一家の消息については、『火垂るの墓』記念碑準備委員会のT会長とN先生が調査し、詳しいことがわかり、ご親族から公開される許可を得られています。
その事実と、野坂昭如の私小説などを比較しながら、もう一度野坂昭如と三女との交情の様子を探ってみます。





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玉岡かおる『お家さん』に描かれた西宮紡績と神戸製鋼所誕生秘話

 明治29年に日本紡織が建設した西宮工場は明治38年に内外綿に売却されますが、玉岡かおるの小説『お家さん』には鈴木商店の金子直吉も買収の意図があったように描かれていました。

 内外綿の西宮工場と言えば、『女工哀史』で名高いプロレタリア文学者・細井和喜蔵の『奴隷』の舞台となった工場です。
<株主を同じゅうする浪華紡績西ノ宮工場は有馬山脈口を背景に兜山を背負って香櫨園の松原続きに在って、二百五十尺の円型五煉瓦煙突と百二十尺のタンクと塵突が辺りに一本の煙突も無い透徹した青空に向かって魔のように聳え、白砂青松の自然美を征服した王者の如く泰然と構えている。そして八万錘の紡績と一千台の織機が昼夜囂然と轟き、タンクの脇の塵突から間断なく綿粕の塵埃を強烈な風車で送り揚げて四方へ吹き飛ばすので、浜の老松はすっかり葉を鎖されて了い汚れた灰色の雪が積もったように見える。そうしてそのために枯死した木さえ数みられた。>

(昭和7年の市街地図と現在の航空写真)


『奴隷』では、浪速紡績西ノ宮工場となっていますが、西宮砲台の北側にあった内外綿の紡績工場をモデルにしたものです。

(昭和11年吉田初三郎西宮市鳥観図)

玉岡かおる『お家さん』では、明治38年にこれからの時代は“糸へん”やと狙いを定めた鈴木商店の金子直吉の話が登場します。


<その手始めに、金子はんが狙っておったんは、「西宮紡績」の買収やったそうだす。自分が商う繊維製品は自分の手で作る。それは、樟脳で学んだ教訓でした。鈴木が糸へんに手を出すからには、すでに大阪の丼池や船場の老舗がやっとるような、産地から集めてきて各地へ流すという、昔ながらの卸しではのうて、みずから大量に作って常時なんぼでも売りさばく、そんなことを考えたんは自然な成り行きでした。ところが不運にも西宮紡績は、大里の製糖工場に熱中しているどさくさに「内外綿紡績」にさらわれるように買収されてしまうのだす。>
この部分、日本紡績の西宮工場を「西宮紡績」としたようです。

<これは金子はんにとって珍しゅう後悔をひきずる敗北になってしまいます。よほど悔しかったんか、用意しとった融資の金を、はずみみたいに別な工場の買収に回してしまうんだす。お家芸の白でもない、またこれから伸びる糸へんでもない、黒くて固くて無骨なだけの、「鉄」を造る工場。神戸名物「熊内だいこん」を産する、見渡す限りのだいこん畑の中にぽつんと建つ、小林製鋼所、のちの神戸製鋼所だす。明治三十六年のことでした。>

 小説では明治36年と書かれていますが、日本紡織西宮工場が内外綿に買収されたのは、明治38年のことですし、「鈴木商店記念館」のサイトでも、
<神戸製鋼所の前身・小林製鋼所が、東京の書籍商・小林清一郎により神戸・脇浜に建設されたのは明治38(1905)年のことであった。鈴木商店は、小林製鋼所に輸入機械代金および建設資金を融資していたが、初出鋼に失敗し、資金的にも行き詰まり、操業1ヶ月あまりで身売り話が出て鈴木商店に救済を求めてきた。小林製鋼所を引き受けることになった鈴木商店は、明治38(1905)年神戸製鋼所と改称し、鈴木商店直営工場として運営することとなる。>と書かれており、明治38年が歴史的事実でしょう。

明治44年頃の神戸製鋼本社

 あの西宮浜にあったという紡績工場の買収失敗が神戸製鋼の誕生につながっていたとは、思いもよりませんでした。

泉町の紡績工場跡地に行ってみますと、大きな団地に変わっていました。




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いよいよ芥川龍之介も歩いた河童橋へ

 大正池から梓川に沿って上り、河童橋を目指します。

途中で立ち寄りたかったウェストン碑。


 霞沢岳と六百山を望む梓川のほとりに、英国人宣教師ウォルター・ウェストンのレリーフがあります。

右が霞沢岳、左の山が六百山です。


 ウェストン碑のある場所には、自然を大切にするためか大きな案内板はありません。見落としてしまい、引き返してようやく見つけました。


 
ウェストンは登山家として日本各地の名峰を制覇し、上高地にも訪れて山案内人・上條嘉門次とともに北アルプスに挑み、上高地の魅力を明治29年、著書『日本アルプスの登山と探検』で世界に称賛。レリーフは「楽しみとしての登山」を日本に浸透させた功労者として、日本山岳会が掲げたものです。
 
 更に梓川に沿って歩くと、河童橋が見えてきました。

河童橋はいつかけられ、誰がどんな理由で河童橋と命名したのかはわかっていないそうです。その昔は河童橋の下は深淵で、その深みを「河童の渕」と呼んでいたという説など色々な説があります。

 芥川龍之介の『河童』には「河童橋」がただ一度だけ登場します。

 河童は次のように始まり、ある精神病患者の独白になっています。
<これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしやべる話である。>
主人公の僕とは、芥川自身のようにも思われます。
<三年前の夏のことです。僕は人並みにリユツク・サツクを背負ひ、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登らうとしました。穂高山へ登るのには御承知の通り梓川を溯る外はありません。僕は前に穂高山は勿論、槍ヶ岳にも登つてゐましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつれずに登つて行きました。>

河童の国の舞台は、上高地から槍ヶ岳、穂高岳に至る梓川周辺で、芥川龍之介が槍ヶ岳登山を行ったのは明治42年で、そのころの風景が小説に描写されています。

そして、芥川が宿泊した温泉宿は、先ほどのウェストン碑の少し下流にあり、梓川沿いに隣接した上高地温泉ホテルと上高地ルミエスタホテル(旧上高地清水屋ホテル)でした。


 朝霧の中で一時間ばかり歩いた後、道に迷った僕は、水際の石のところで食事中に河童に出会い、追いかけます。

芥川が歩いたころは遊歩道など当然整備されていません。

追いかける途中で深い穴に転げ落ちる時に、「河童橋」の名を思い出したのです。
<僕は滑かな河童の背中にやつと指先がさはつたと思ふと、忽ち深い闇の中へまつ逆さまに転げ落ちました。が、我々人間の心はかう云ふ危機一髪の際にも途方もないことを考へるものです。僕は「あつ」と思ふ拍子にあの上高地の温泉宿の側に「河童橋」と云ふ橋があるのを思ひ出しました。それから、――それから先のことは覚えてゐません。僕は唯目の前に稲妻に似たものを感じたぎり、いつの間にか正気を失つてゐました。>

小説では、この一度しか「河童橋」はでてきませんんが、芥川龍之介に「河童」を書かせたのは、河童橋の名前がヒントになったのかもしれません。

 私が歩いたときは霧などまったくない好天で、河童橋からは穂高連峰がはっきり見えました。


約3時間半の上高地でしたが、素晴らしい天気に恵まれ十分楽しむことができました。でもまだまだ見たいところは多く、次回は宿泊して明神池から徳沢の方まで歩いてみたいと思っています。



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戦争末期、理科少年・北杜夫が短歌にした梓川 

 先日、はじめて上高地を訪ね、穂高連峰の景色に圧倒され、梓川の透明な流れの美しさにも感動して帰ってきました。
 井上靖『氷壁』では梓川について、主人公の新鋭登山家・魚津恭太が遭難した小坂乙彦の妹・かおると上高地を訪れた場面で、次のように語られます。

<「梓川ですよ」魚津は梓川の流れが初めてくるまの右手の方へ姿を現してきた時、かおるに教えてやった。「まあ、日本で一番美しい川ですのね」「日本で一番美しいかどうか知りませんが、とにかくきれいなことはきれいですよ」魚津が言うと、「兄は日本で一番美しい川だと言っておりましたわ。小さい時から、何回も兄にそう教育されて来ましたので、わたし、いつかそう思い込んでしまいましたのね」>
梓川の美しさには本当に驚きました。かおるが話したように日本で一番美しいかもしれません。

 上高地を、旧制中学時代から何度も訪れている北杜夫は『梓川』と題したエッセイで次のように述べています。終戦直前、昭和20年の7月末に、死ぬ前にぜひとも一目だけでもみておこうと、松本から徒歩で向かったときのことです。
<確か釜トンネルを抜け、もう上高地も間近くなってきたとき、私たちは道から降りて、すでに清流となっている梓川の河原の上で、宿で作ってくれた握り飯を食べた。>

<そしてまたしばらく小石まじりの道を辿って右折したとき、突然それまでの景観とはまったく異なった山容が現れた。それが死火山の荒れ果てた岩だらけの焼岳であった。その前面にひろがる大正池も、現在のように濁ってはおらず、水面に林立する樹々の中にはまだ白い白樺の幹もあった。>

水面には林立するほどまでは残っていませんが、枯れた樹が数本見えます。

<更に右方に目をやると、穂高連峰があまりにも荘厳に連なっていた。まだ午後もそれほど遅くない陽光をあびて、溶け残った雪渓があえかに身をくねらし、岩々は固く凝結した殿堂であった。>


そして北杜夫は梓川を次のように絶賛します。

<当時、上高地では温泉旅館だけがまだ開いていた。そこへ行くためには梓川を越えねばならない。そして、島々からずっと見続けてきたこの川が、上高地ではあまりにも澄明で、そして早く流れているさまを私は年齢にふさわしい哀愁を覚えながら眺めた。このような浄らかな水というものを、その後何十年を経ても私はまだ見たことがない。>

なかなか、写真で透明感をお伝えするのは難しいのですが、本当に水は透き通っていました。

支流の水の中で藻が流れに泳ぐ様子もはっきり見えます。

 戦争で死ぬ覚悟をしていた中学5年の北杜夫は、こんな歌を作っています。

一人きてただ眺め入る川水は悲しきまでに速く流るる

現身(うつせみ)のわれの眺める川水は悲しきまでに透きとほりゐる

作者は「いかにも感傷的な歌にすぎないが、理科少年が初めて作りだした作だからまあ仕方あるまい」と述べていますが、梓川の流れの速さ、透明感は歌のとおりでした。


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北杜夫の上高地帝国ホテル

 先日、上高地日帰りツアーに行ったとき、どうしても立ち寄りたかったのが上高地帝国ホテル。北杜夫は学生時代の上高地帝国ホテルの印象を、『上高地あれこれ』で次のように述べています。
<そうして、初めに涙が出るような思いで接した上高地、次第に第二の故郷のような気持ちを抱いてきた上高地の懐かしい道を通り過ぎてゆくと、落葉松林の奥に、噂に聞いていた帝国ホテルの姿がほの見えた。当時はずっと閉ざされていて、山小屋風の瀟洒なその建物も、おそらくずいぶんと古び傷んでいたにちがいない。それでも、樹々のあいだに垣間見えるそれは、これまた夢のように童話じみたものと感じられた。>

大正池から梓川沿いに上って行くと、田代橋があり、そこから右折して上高地帝国ホテルに向かいます。

田代橋から見る梓川。

北杜夫はこのカラマツ林を抜けて帝国ホテルに向かったのでしょう。

林の間に「ほの見えた」帝国ホテルです。

帝国ホテルの裏側に出ました。

今でも山小屋風の瀟洒な建物です。

表側の玄関にまわって、ラウンジでコーヒーを飲んで休憩することにしました。

<そのように夢そのものであった上高地の帝国ホテル(戦後に建て直されたものであったが)に実際に泊まったのはつい数年まえのことである。部屋の梁も山小屋風で感じがよかった。ロビイの床は輪切りにした樹が埋め込んであって、靴の当りがごく柔らかかった。>

確かにロビイの床に輪切りにした樹が埋め込まれていました。

通路には昔の写真もかけられています。

竣工写真。

帳場です。現在もある床に埋め込まれた輪切りにした樹は竣工時からのもののようです。

<そして、しゃれた鉄の傘の下の暖炉の中で、赤々と薪が燃えていた。むかし私は、番人とていない季節外れの山小屋の土間で、ただ一人で心細く焚火をして暖をとったこともある。あおれに比べて、この快い薪火にあたって食後酒を飲んでいると、なにか自分が途方もない贅沢をしているような、うしろめたい気持ちすら起こってきた。>

玄関を入って正面に大きな鉄の傘の暖炉がありました。この周りが上高地帝国ホテルのカフェ グリンデルワルトになっています。

ここで、上高地の湧水で入れたコーヒーを楽しんできました。

 休憩したあと、再び田代橋に戻り、梓川沿いに上ります。

上高地帝国ホテルから明神岳が美しく見えていました。まるで、スイスにいるような風景でした。



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若かりしころ、帝国ホテルでケーキとコーヒーをいただいたことがあります。
奥穂高岳からの帰り、登山の恰好で行きましたが、おとがめはありませんでした。

[ 西野宮子 ] 2018/10/16 14:49:24 [ 削除 ] [ 通報 ]

私は今回はコーヒーだけでしたが、ロビーをうろついていると、さすが帝国ホテルの接客ぶりを伺い知ることができました。チャンスがあれば宿泊してみたいと思っています。

[ seitaro ] 2018/10/16 19:58:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

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北杜夫が旧制高校時代に大感激した上高地へ

 以前から訪ねたかった上高地。いつかゆっくり散策したいと思っていましたが、先日、上高地日帰りツアーというチラシを見つけて、とりあえず下調べに。
 特急とバスの乗り継ぎで、上高地滞在時間は3時間半でしたが、天候に恵まれ、大正池から河童橋までゆっくり散策を楽しむことができました。
 上高地は、冬の穂高岳で起きたナイロンザイル切断事件に取材した井上靖の小説『氷壁』にも登場しますし、北杜夫はいくつかのエッセイで、上高地を訪ねた時の感激を述べています。

 北杜夫は太平洋戦争の終わる昭和二十年に、松本の旧制高校に入学し、その七月末に、初めて上高地を訪れています。
「上高地あれこれ」からです。
<九里あるバス通路をひたすら歩いた。そして、ついに展望がひらけ、大正池のうしろに怪異な焼岳の姿を見、その右方に残雪に彩られた穂高の連なりを観た時、私は正直に言って目を疑った。私は自宅はもちろん、大半が焼け果てた東京から来た身で、このような雄大で優雅な大自然が未だに美々しく厳として存在することがほとんど信じられなかったからだ。>

 上高地への自動車道は釜トンネルを必ず通ります。北杜夫はこのトンネルを歩いて、大正池にたどり着いたのでしょう。釜トンネルは昔は狭くてバスの運転手泣かせだったそうですが、現在は広くなっていました。

 バスは順調に進み、大正池に到着しました。後ろに見えるのが「怪異な焼岳」です。

大正池は大正4年に焼岳が大噴火をおこし、その際に噴出した多量の泥流により梓川がせき止められてできたので、大正池と呼ばれるようになったそうです。

お昼は大正池ホテルで焼岳カレー。ご飯の焼岳の中には、半熟卵が入っていて、マグマがドロリと出てきました。ブロッコリーは立ち枯れの木のようです。

こちらが、大正池から見える穂高連峰。

 大正池から梓川に沿って河童橋まで上っていきました。

<翌日、上高地じゅうさまよったが、行きあった人はわずか一人きりであった。私は本土決戦で死ぬつもりであったから、目に痛いまで白い白樺の幹も、悲しいまでに早く流れる澄みきった梓川の水も、なぜとなく夢に似た架空のものと思われた。>

 現在は大観光地になっている上高地。昭和二十年は、「上高地じゅうさまよって、行きあった人はわずか一人きり」という今では信じがたい静けさがあったようです。



田代橋から明神岳がはっきり見えました。

 少し雲が遮る瞬間がありましたが、天候に恵まれ、穂高連峰の景色が見え、橋の上にたたずんでいると、北杜夫の感動がじわりと伝わってきました。




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以前は登山者だったので季節を問わず上高地は何度も何度も歩きました。明神岳・間ノ岳以外のピークには全部登りました。観光客の方は明神〜徳沢〜横尾といったあたりにはおいでになりませんね。
積雪期の釜トンネルはトンネル雪崩に遭う確率が高いのでかなりの恐怖で新島々まで雪中を歩きました。
生きてるうちにもう一度行ってみたい上高地。

[ せいさん ] 2018/10/14 15:37:08 [ 削除 ] [ 通報 ]

何度も行かれたとは、羨ましい。昔の釜トンネルも御存知なのですね。私ももう一度行ってみようと思っています。

[ seitaro ] 2018/10/14 20:28:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

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原田マハ「希望のギフト」は甲山のテニスクラブが舞台

 原田マハ『スイート・ホーム』の第三章「希望のギフト」の舞台は西宮市にある甲山の中腹、会員制のテニスクラブ。 

<九月下旬、まだまだ夏の暑さが残る午前中。それでも五ヶ池を吹き渡ってくる風は、頬に心地よい。「そろそろ休憩しようかあ」テニスコートのネットの向こうで、真君が大きな声で言った。私は、テニスのラケットを振り上げて、「うん、ええよー」と応える。>
このテニスクラブは「阪急仁川テニスクラブ」に違いありません。

黄線で囲んだ所が仁川テニスクラブ、その向かいの黄色の矢印のところが五ヶ池です。

テニスクラブの前にある五ヶ池には昔は写真のように貸ボートが浮かんでいました。

しかし現在は金網に囲まれ、近づけなくなっています。

金網越しに見る五ヶ池は、なんだか狭くなった感じで、どうも一時心霊スポットになっていたようです。

<西宮市にある甲山の中腹、会員制のテニスクラブで、真君と私は、週末恒例のプレーを楽しんでいた。私の彼、明野真君。甲山を背景にしたうつくしいキャンパスで有名な関西学院大学、社会学部で講師を務めている。このテニスクラブで知り合って、一年まえからおつきあいを始めた。>

原田マハさんの出身大学、関西学院も登場です。

<私の職場は西宮北口にあるし、真君の大学は阪急今津線の甲東園にあって、毎日会おうと思えば会える距離だが、週末に一緒に甲山のテニスクラブへ出かけて、思いっきり汗を流して、宝塚や夙川、芦屋なんかで食事をするのが、このところの定番になっていた。>
阪神間に住む若者の理想的なデートコース。プロポーズの場所は宝塚ホテルでした。
午前中はテニスで汗を流した二人は、遅めのランチに宝塚(の)ホテルのフレンチレストランに寄ります。

<デザートの段になって、思いがけないサプライズがああた。サービススタッフが運んで来たデザートのお皿を見て、私は、目を丸くした。お皿に載せられていたのは、小さな「クロカンブッシュ」だったのだ。小振りのシュークリームを山型に重ねて、飴で固めたスイーツ。ときどき、「スイート・ホーム」にも依頼が来て、お父さんが特別に作っているから、よく知っている。そう―これは、フランスのウェディング・ケーキ……!>

これが真君からのプロポーズ。はるは黙ったままで、こくんとうなずいたのでした。
さすが女流作家が描くプロポーズシーンでした。




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原田マハ「あしたのレシピ」クライマックス場面は山手台北公園

 原田マハ『スイート・ホーム』の第二話「あしたのレシピ」は、35歳独身でオアシスキッチンの講師をしている未来先生と、29歳ウエブデザイナーの辰野始との恋の行方は、ペーソスと希望の入りまじったお話に仕上がっています。

 
 洋菓子店「スイート・ホーム」で未来と辰野始は偶然出会い、辰野はオアシスキッチンの生徒となります。更に、未来は考えだしたレシピを記録するためのウェブサイトのデザインと運営を辰野始に頼み、しばしば会うようになります。

<「スイート・ホーム」で会うことが多いけれど、最近は、この街のあちこちで会っている。「オアシスキッチン」はもちろん、そのかたわらにあるテラス席、小径のベンチ、それに遠くの海まで一望できる丘の上の公園。>

宝塚山手台の阪急オアシス。

店内から見たテラス席です。

オアシス前の中央公園のベンチにも二人は座ったことでしょう。山手台の人たちの憩いの場所になっています。

 色々思い悩んだ末、陽皆の後押しもあり、未来は辰野に告白すると心に決めます。

その場所は、未来のいちばんお気に入りの場所、山手台北公園。

<辰野君と私は、丘の上の公園に来ていた。春と、夏と、そして秋と。この場所に、私たちは何度もやってきた。「オアシスキッチン」に辰野君が通い始めた頃、この街の風景が気に入っている、という彼に、「ほな、私のいちばんのお気に入りの場所に連れていってあげるよ」と誘たのがきっかけだった。初めてここへ連れてきたとき、辰野君は、広々とひらけた風景を眺め渡して、「うわー!」と声をあげていた。「気持ちいいっ」と背伸びして、深呼吸をした。>

この階段を登りきると、大きな青空と素晴らしい景色が広がります。


第一章の「スイート・ホーム」でも山手台北公園は陽皆と昇のデートコースでした。
<街の中でも、もっとも見晴らしのいい公園に、昇さんと私は来ていた。「うわ。めっちゃ見晴らしええなあ。大阪のずっと向こうの方まで見えるわ。あっちは、西宮のほうやんな。気持ちええとこやなあ」>

街灯の向こうに、西宮の甲山が見えます。

 さて、ここで未来は辰野始から驚きの告白を聞くことになります。やはり、原田マハさんは恋話の名手でした。


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今、原田マハさんの奇跡の人を読んでいて、いつも電車の中なので、うるっとしてしまい大変です^^;また違ったジャンルのこちらの本も面白そうですね。

[ 西宮パナップ ] 2018/10/12 21:44:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

マハさんの「奇跡の人」、まだ読んでいませんが、面白そうですね。私もこちらをトライしてみます。ありがとうございました。

[ seitaro ] 2018/10/13 23:43:45 [ 削除 ] [ 通報 ]

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原田マハ「あしたのレシピ」の舞台は宝塚山手台のオアシスキッチン

 原田マハ『スイート・ホーム』第二章の「あしたのレシピ」の主人公は三十五歳独身でオアシスキッチンの講師を務める未来先生。
 西宮市内の女子大の栄養学科を卒業という設定ですから、武庫川女子大かもしれません。

 未来先生も宝塚山手台の住人。朝の目覚めの様子から始まります。
<ベッドから抜け出し、カーテンを思い切り開ける。目の前がさっと開けて、大きな空と、遠くの海とが見える。眼下には、阪神間の街景色がなだらかに広がっている。朝日を受けて、街全体が輝いて見える。この瞬間が一日のうちで、一番好きだ。>

山手台からはこんな風景が広がっていました。朝の景色はきっと素晴らしいでしょう。

<小径の隣にはスーパーマーケット「オアシス」があり、豊かな緑を眺めるテラスがある。買い物帰りの夫婦や、犬を連れて散歩中の人が、このテラスでくつろぎ、ときにはランチやスイーツを広げておしゃべりする姿も見られる。>

「オアシス」の隣を通る小路です。

その小径と並行して一段高い所に、豊かな緑を眺めるオアシスのテラスがあります。
今日は少し暑いせいか、テラスには誰もいませんでした。

<そのテラスのこちら側には、「オアシスキッチン」がある。スーパーマーケット併設の料理教室で、お店で手に入る食材を使って、気軽に料理を学べる場所となっている。そして、「オアシスキッチン」は私の職場でもあった。>

こちらがオアシスのキッチンスタジオ。料理教室がない時は、このように無料レストスペースとして使われています。

<料理教室「オアシスキッチン」を併設しているスーパーマーケットは、兵庫県と大阪府内に数か所ある。私はこのうち三か所の講師として、打ち合わせも含め、週に五日間
あちこちへ出勤している。>

西宮では甲陽園店でも開かれているようです。

このオアシスキッチンに通い始めたウェブ・デザイナーの辰野始と意外な恋物語が展開するのですが、それは次回に。




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原田マハ『スイート・ホーム』に登場する阪急オアシス

 『スイート・ホーム』で、主人公・香田陽皆がお気に入りの場所「オアシス」へ行く場面が描かれています。

宝塚山手台のスーパー・マーケット阪急オアシスは、山手台中央のバス停から少し上がった所にあります。


<テラスのあるスーパー・マーケット「オアシス」も、お気に入りの場所だ。サンドイッチとカフェラテを買って、お店の外にあるテラスのテーブル席に座り、のんびりと、ひとりブランチを楽しむ。テラスの横には並木の美しい小路があり、犬を連れた夫婦がゆっくり歩き、子供たちが元気よく走っていく。>

こちらが、お店の外にあるテラスのテーブル席です。
ここで陽皆はブランチを楽しむのがお気に入りです。

そして、テラスの横にある並木の美しい小路は、ここに住む人たちの絶好の散歩道となっており、小説通りの風景が広がります。

 陽皆が、結婚を約束した山上昇と、このあたりを歩く場面からです。
<私たちは、三時間余り街中を散策した。私の好きなスポット −公園、歩道橋、小路、そして「オアシス」のテラスなどをめぐり、頭上の緑を仰ぎ、足下の花々を眺めた。犬の散歩をするご近所の住人、料理教室の未来先生と仲間たちに挨拶をした。偶然出くわしてしまったチョビちゃん連れの工藤さんには、あれこれと詮索されてしまったが、工藤さんはどことなくうれしそうだった。「すてきな人やないの。がんばりなさいよ」と囁いて、チョビちゃんのリードを引いて、夕焼けの道を歩いて行った。>

陽皆が好きなループ橋から見たオアシス。

 オアシスの西側は緑が広がる山手台中央公園となっています。

写真でお分かりのようにオアシスのテラスは中央公園を見下ろす絶好の場所にあります。(写真中央)

中央公園では四季折々の景色が楽しめそうです。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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