阪急沿線文学散歩

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ヴォーリズ建築の神戸女学院が伝奇風小説の舞台になっていた

 伝奇小説という分野があることさえ知りませんでしたが、私にはライト・ノベルの範疇と思われる奈須きのこ『空の境界』。

その下巻第六章 忘却録音の舞台は礼園女学院ですが、この小説を原作とした劇場版アニメでは神戸女学院にロケをしたようで、ミステリアスな風景にアレンジした映像がたくさん登場します。
 この小説のはじまりはWEB小説だったそうですが、2004年に講談社ノベルスより一般書籍として刊行され、その後文庫版にもなり、海外では英語版、中国語版、韓国語版が出版されるという人気作品です。

 第六章忘却録音のあらすじは、黒桐幹也の妹・礼園女学院の一年生で魔術師見習いである黒桐鮮花が、師である蒼崎橙子にある事件の調査を命じられます。それは鮮花の通う礼園女学院で、生徒の記憶が妖精に奪われているというものでした。妖精を視ることができる両儀式を連れて学院に戻った鮮花は、さっそく調査を開始するというもの。

 原作では礼園女学院は都心で名門、全寮制の高校となっていますが、劇場版アニメは何故か神戸女学院をモデルにしています。



まずはっきりわかるのが中庭の風景。

噴水池と図書館本館


噴水池と総務館


噴水池と理学館


図書館一階から見た中庭と総務館


ほかの建物も登場しますので、次回に。




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遠藤周作『砂の城』出会いは宝塚文芸図書館

 遠藤周作『砂の城』の泰子の母が書き残した手紙から続けます。
 泰子の母が十七歳になった春の出来事が綴られています。戦局が苦しくなった昭和十九年のことのようです。
<春休みが来ました。母さんはその春休み、宝塚の図書館で本を借りだしては毎日、読みふけっていました。食べものはなく、ラジオからは荒々しい軍歌が聞え周りのすべてが荒廃してくると、学校でむかし習ったうつくしい詩や小説をもっともっと知りたくなったのです。
図書館の周りの桜が満開でした。本を借りだすと、その霞のような花の下のベンチで胸をときめかせながら頁をめくりました。>
この宝塚の図書館とは、宝塚文芸図書館のことで、遠藤周作が足しげく通った図書館でした。

(絵地図の黄色の矢印のところ)

遠藤周作はエッセイ「心のふるさと」で、宝塚の図書館について次のように述べています。
<仁川から阪急電車で四つ目に宝塚がある。私は夏休みなど、ほとんど毎日、この宝塚にでかけた。駅から桜の路が大劇場まで続いており、図書館が劇場の庭にあった。当時の私は宝塚のミュージカルには、まったく興味も関心もなく、女性が男性の真似をして恋を囁くのを気持ち悪いと思っていた。私が宝塚に通ったのは、そこの図書館が本をタダで貸し出ししてくれるからだった。トルストイもドストエフスキーの代表作も、モーパッサンも私はみな借り出して読んだ。当時、小説家になる意志など毛頭もなかったが、その小さな第一歩は仁川とこの宝塚ではじまったと言ってよい。>

この遠藤周作が通った図書館は、最後は中華レストラン「ロンファン」として使われていましたが、残念ながら建物は昨年撤去され今はありません。

宝塚文芸図書館月報も発行されていました。

図書館として使われていた当時の写真です。

『砂の城』に戻りましょう。泰子の母がある日、図書館から出ようとすると、甲東園の恩地病院の息子から声をかけられます。
<「ぼくも時々、この図書館に来るんです。意外といい本がそろっていますしね。待ってくれませんか。一冊、借りてくるから」彼と一緒に歩いていると嬉しいような、しかし息苦しい気持ちがしました。図書館を出て、植物園の方に行くと、戦争のため人手が少ないのか樹木は手入れしていないようでしたが、桜や雪やなぎやれんぎょうが満開で、花の部屋にいるような感じです。劇場は閉鎖されて海軍の予科練習生の宿舎になっているため、ラッパを練習する音が時々遠くから聞えてきた。>

昭和19年には宝塚大劇場は閉鎖され海軍航空隊に接収されていました。

昭和19年3月4日で休場するとの新聞広告です。そこには宝塚児童厚生園、動植物園、新温泉等は営業と書かれています。

写真は植物園の大温室です。昭和19年の春はまだ営業していたようです。



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スタンドバー・モンクのお薦めはコウベハイボールと『古本屋台』

 スタンドバー・モンクは成田一徹さんの『カウンターの中から』でも紹介されたお店。


久しぶりに訪ねました。
<阪急王子公園駅から歩いて10分。夜の畑原市場。シャッターを下ろした暗く心細い通路の向こうに、スタンドバー『モンク』の灯を発見。まるでオアシス。心憎いばかりのアプローチだ。>

昭和な風情が残る水道筋でも、一本南に入った特にノスタルジックな味わいのある畑原市場、よくこんな市場が生き残ってくれていたという感がありますが、その角にあります。


<市場の一角、急拵えのバラックのような佇まい。中は中で、まるで昭和な町の駄菓子屋みたいな、チープで懐かしい手作り感いっぱいの空間だ。10人も入れば満杯、カウンター回りを席巻する酒や、おびただしい数の小物たち。しかし意外にスッキリ、ゴチャゴチャ感はない。狭いが妙に落ち着く。不思議な店だ>
マスターにお薦めの一杯を頼み、作っていただいたのが「コウベハイボール」

固まる寸前のトロトロのウイスキー角がよく冷えたグラスに注がれ、続いて気合のこもった手つきでよく冷えたソーダ水が注がれ、差し出されました。
氷を使わないので最後まで味が変わらないという、まさに究極のハイボール。やみつきになりそうです。
かつて三宮にあった伝説のバー「コウベハイボール」の名物だったそうですが、マスターが作ってくれる所作を見ていると、それ以上のハイボールをサーブしようとするマスターの心意気を感じます。

 次にマスターから勧められたのが新刊『古本屋台』。
『孤独のグルメ』の原作者・久住昌之と、実弟でイラストレーターの久住卓也によるユニット「Q.B.B.」が挑んだ作品です。
 屋台で古本を売っているこの店は、オヤジが一人で切り盛りし、珍本奇本が揃う、マニアにはたまらない店。本と酒を愛するひとりのサラリーマンもまた、古本屋台にどっぷり浸かっていきます。
古本屋台のルールは、
1 白波お湯割り一杯100円。おひとり様一杯限り。
2 ヘベレケの客に酒は出さない
3 騒がしい客には帰ってもらう。ウチは飲み屋じゃない、本屋だ。
私も早速amazonで購入しました。

モンクはれっきとしたスタンド・バーで、古本屋台ではありませんが、こんな渋い本も並んでいます。




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日本一心のこもった夙川のクリスマスツリー

 月刊神戸っ子4月号に夙川地区自治会が保管されていた、羽衣橋のクリスマスツリーの写真が掲載されています。

https://kobecco.hpg.co.jp/31487/

 このクリスマスツリー、現在は阪急夙川駅前のロータリーに移され、毎年点灯式には話題になるオハラさんのクリスマスツリーです。

<阪急夙川駅南側の夙川に架かる羽衣橋の欄干に一本のクリスマスツリーが立ったのは、昭和二十三年十二月のことであった。立てたのは米・商船会社の神戸支店長として夙川に移り住んできたオハラ夫妻である。夫妻は敗戦の混乱と貧窮にあえぐ日本を見て、少しでも希望の灯が灯せるならという思いをツリーに託した。その翌年、夫妻は事故で三男ケビン君を亡くすという悲劇に見舞われる。愛息への思いもあって、夫妻は毎年かかさず同じ場所にツリーを立てた。>


直野祥子さんの『夙川ひだまり日記』にも描かれており、
<昭和二十三年から夙川に住んでいたアメリカ人のベッツイ・オハラさんが、夙川の子供たちのためにとプレゼントしてくださったものです。二十九年に帰国された後も毎年欠かさず続けて下さいました。その後ベッツイさんが亡くなった今も夙川の人々の心を暖めつづけてくれています。>と説明されています。

 
 神戸っ子4月号で夙川地区自治会長はインタビューで次のように述べられています。
<最初にクリスマスツリーが飾られた翌年、ご夫妻は子どもさんを事故で亡くされました。埋葬された満池谷の墓地から見えるようにという思いもあったようで、以降毎年、クリスマスツリーが飾られるようになりました。 現在は夙川自治会とグリーンタウン商店街振興組合、西宮夙川ロータリークラブの共催で管理し、毎年11月最終週の土曜日に点灯式を行い、12月25日まで飾っています。今年で70年目を迎え、大きくはできないのですがもう少し明るくできないかと考えているところです。>

ブスケ神父も眠る、満池谷墓地キリスト教区のカトリック教会墓地に行きますと、KEVIN THOMAS OHARA君の名前が刻まれていました。

夙川自治会長にお聞きすると、夙川のクリスマスツリーは、他所で飾られているクリスマスツリーに比べて決して立派なものではないが、日本一心のこもったクリスマスツリーであると自負されていたのが心に残ります。






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遠藤周作『砂の城』甲東園で母が見た景色は

 遠藤周作『砂の城』で、主人公泰子の結核で亡くなった母が、泰子の16歳の誕生日にあけるよう遺した手紙から続けます。

<もし、いつか機会があったら、電車にのって西宮北口という駅で宝塚行に行く阪急の支線に乗り換えてごらんなさい。十六歳の時の母さんが見た山や空をきっとあなたもそのまま眺めることができるでしょうから。
母さんはあのあたりの風景が大好きでした。海からは離れているのに、まるで海岸近くのように松林が至るところにあり、松林のなかに別荘風の家々がちらばり、六甲山から流れてくる川の川原が白くかがやき、その川の彼方に山脈が青く拡がっているのでした。母さんはそんなところで少女時代かを送ったのです。>

 母が戦前の少女時代に住んでいた「甲東園」は、明治時代に大阪の実業家、芝川又右衛門が開発し、ぶどうなどの果樹を植えた「甲東(芝川)農園」が起源で、当時植えられた梅の木が現在の「甲東梅林」として残されています。明治33年に「甲東農園」は「甲東園」と変わり、阪急西宝線(現・今津線)の開通時に、その名称が駅名となったそうです。

 泰子の母が住んでいたのは昭和18年の頃のことでしょうが、当時の甲東園はどのような風景だったのでしょう。「六甲山から流れてくる川」とは仁川のことです。

現在の仁川ですが、白い川原はほとんど見えず、草が茂っています。

当時の様子がわかりそうな資料の一つは、昭和11年の吉田初三郎の西宮市鳥観図。

西宮の中央部はかなり詳しく描かれていますが、今津線あたりは、東端に近く、阪急今津線も湾曲させて描いています。甲東園駅や仁川駅の周りには住宅がありますが、その周りは林や畑だったようです。仁川と逆瀬川の間に宝塚ゴルフ倶楽部が描かれています。

西宮市制90周年「西宮という街」に昭和28年の甲東園駅の東側から六甲山系、甲山を臨んだ写真が掲載されていました。

民家が見えますが、やはり田畑と林が多かったようです。

<その頃母さんはセーラー服にモンペをはいていました。モンペをはいているのは学校からの命令でした。ながい戦争が更に烈しくなって、十六歳の娘たちも年相応のはなやかな服装をすることは許されず、そんな作業むきの恰好で登校させられていたのです。>

昭和18年、女学生たちはモンペ姿でした。
そして泰子の母は、甲東園の恩地病院の坊ちゃんに初恋します。


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『街道をゆく1』湖西のみち、近江最古の白髭神社へ

 弟子𠮷治郎さんの『湖猫、波を奔る』で浜大津から湖西の日吉大社までやって来ましたので、更に北上して、司馬遼太郎『街道をゆく1』の湖西のみちをたどってみることにしました。

目指すは近江最古の神社といわれる白髭神社。
司馬遼太郎は『街道をゆく』の連載を、「日本人はどこから来たか」というテーマの答えを求めて、琵琶湖西岸の「湖西のみち」を選びます。そして渡来人の痕跡を湖西にみつけます。
<われわれは叡山の山すそがゆるやかに湖水に落ちているあたりを走っていた。叡山という一大宗教都市の首都ともいうべき坂本のそばを通り、湖西の道を北上する。湖の水映えが山すその緑にきらきらと藍色の釉薬をかけたようで、いかにも豊であり、古代人が大集落をつくる典型的な適地という感じがする。>

浜大津から見た比叡山と坂本のあたりです。

司馬遼太郎は湖岸に散在する渡来人の影を求め、北小松の漁港に立ち寄ったあと、白髭神社に向かいます。

<この漁港から湖岸をわずかに北へ行くと、山がいよいよ湖にせまり、その山肌を石垣でやっと食いとめているといったふうの近江最古の神社がある。白髭神社という。>


水上に鳥居が立っています。


 その解釈は、NHK「街道をゆく」プロジェクトによる『司馬遼太郎の風景A』に述べられていました。
<その理由は、神社の裏山に登って辺りの風景を見渡すとよくわかる。国道一六一号線が鳥居と神社の間を断ち切るように走っているので、今は鳥居は境内から孤立して見えるが、上から俯瞰すると、琵琶湖の中の鳥居と神社の拝殿と裏山に登る参道は、すべて一直線上に並んでいることに気づく。かつて、自動車が普及する以前は、舟に乗って湖を渡ってくる水上の道こそが、この神社への参詣路であったことを示すものに違いない。現に付近の漁村には、今でも正月には舟でこの神社に詣でる人もいるという。>

湖上クルーズがあり、湖上からはこのように見えるのです。
まさに水上の参詣路。

<「正体は猿田彦也」といわれるが、最近、白髭は新羅のことだという説もあって、それがたとえ奇説であるにせよ、近江という上代民族の一大文明世界の風景が、虹のようなきらびやかさをもって幻想されるのである。>
 司馬遼太郎は白髭は新羅のことだという社名の由来説を引きながら、はるかな古代への風景に思いを馳せたのです。古代においては琵琶湖こそが、朝鮮半島と日本列島中央部とを結ぶ巨大な街道だったとしています。

<白髭神社の宮司・梅辻春樹さんの話によると、祭神の猿田彦は古来、道案内の神様だったいう。この神社が琵琶湖西岸のほぼ中央に位置し、湖を行く人々がちょうど舟を泊めて立ち寄るであろう場所に存在することを考え合わせえると、興味深い符合である。>

朝鮮半島から日本海を横切って若狭に上陸し、湖北岸から浜辺に立ち寄りながら湖上を南に下って大津に至り、大和へ向かったと推定しているのです。

ここまで来たならと、マキノのメタセコイア並木まで行ってきました。


3月末の時期外れでしたが、想像以上の長さで、一見の価値はあります。



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遠藤周作ゆかりの地が舞台となった『砂の城』

『砂の城』は昭和51年主婦の友社より刊行された作品で、学生運動やハイジャックなどの時代背景ともに、遠藤周作が『沈黙』執筆にあたり何度も訪れた長崎、留学時代にも滞在したことのあるパリの風景、そして少年時代に過ごした西宮・宝塚を舞台にし、自身も患った結核体験も題材にした青春小説です。


 主人公泰子が4歳の時、母は結核で亡くなりますが、小説の冒頭は、16歳の誕生日に本人に見せて欲しいと託した母の手紙に始まり、思わず引き込まれていきます。
 泰子の住む町は大村湾の見える町。遠藤周作は日本最初のキリシタン大名大村純忠が治めていた大村領を舞台に取り入れたかったのではないでしょうか。
<商店街を右に折れると寺町に入る。こんな昼下がりでも、ひっそりと静まりかえった道が長い塀にはさまれて真直ぐに続いていた。塀の上からもうすっかり青みをました楠の葉がおおいかぶさるようにのぞいていた。泰子は雨上がりのこの道が好きで、ここを通るたび自分の故郷はこの街と思ったり、いつかお嫁にいっても生涯、よそには移りたくないと考えたりした。>
 これだけでは、泰子の住む町はどのあたりかはっきりしませんでしたが、次の文章からほぼわかりました。
<鬱蒼と樹木に覆われた城山から初蝉の鳴き声が聞こえてくる。城山といっても、もう石垣しか残っていないが、むかし大村家の一族が住んでいた場所なのである。>

この城山とは玖島(大村)城の二の丸、三の丸跡に繁茂する樹林で、長崎県の文化財にもなっている玖島崎樹叢のことのようです。
大村市のこの近くに電気器具店を営む素子の実家が設定されたようです。

 泰子の誕生日の日、学校から帰ると父は金庫から紫色の袱紗に包まれた白い封筒を渡します。
生前の母が父に託した「素子ちゃん」という書き出しで始まる手紙でした。
<母さんはこの手紙をあなたが十六歳になった誕生日にお父さまから渡して頂くようたのむつもりです。なぜなら、今の泰子ちゃんはまだ字も読めないですし、ここに書いてあることも、よくわからないでしょう。あなたを毎日、見たいけれど、幼児がこの病棟に来ることはきびしく禁じられているので、ほかの母親のように膝の上にあなたをおいてお話をしてきかせることもできないからです。>
 結核を患い死の恐怖と闘った遠藤周作だからこそ、このような美しい文章を書くことができたのでしょう。
<でも何から書きましょう。この手紙をわたすのは。あなたが十六歳の誕生日の時なのね。なぜ、その日までこの手紙を見せないのか、ふしぎでしょう。でも母さんには、十六になったあなたが、同じ年の時の母さんとどう重なりあい、どう違うか、知りたいと思います。
だから、この手紙を母さんが十六歳になった時の話からはじめましょう。そうすればあなたも身につまされて読んでくれるでしょう。その頃母さんの家族は亡くなったお祖父さまの仕事で、大阪と神戸との間にある甲東園という場所に住んでいました。住んでいた家は今は空襲でなくなってしまいましたが、もし、いつか機会があったら、電車にのって西宮北口という駅で宝塚に行く阪急の支線に乗り換えてごらんなさい。十六歳の時の母さんが見た山や空をきっとあなたもそのまま眺めることができるでしょう。>
この西宮北口から宝塚に行く阪急の支線とは、有川浩原作の映画『阪急電車』で一躍有名になった阪急今津線です。

甲東園は西宮北口から二番目の駅。

阪急甲東園駅から上ヶ原台地に向かう坂道です。このあたりに泰子の母は、少女時代住んでいたのです。
もう少し続けましょう。






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吉野山の奥千本・仙人の桜を観に

 今年の観桜シーズンもほぼ終わり造幣局の八重桜が残されているくらいになりました。
 山の桜の総本山、吉野山の桜も今年は非常に早く、既に上千本まで葉桜となってしまいましたが、まだ満開という奥千本まで登ってみることにしました。

 赤瀬川原平「仙人の桜、俗人の桜」で仙人の桜とは吉野山の桜のことでした。
 赤瀬川原平さんが柿の葉寿司を食べながら吉野山を訪ねたのは、上千本あたりがちょうど見ごろのころでした。
<私のときは上千本辺りがちょうど見ごろというときだったが、どうせだからと奥千本まで行ってみた。しかし、これは九回裏の試合の様子をあらかじめ見に行ったようなもので、まだほとんど咲いていなかった。>

昨日の上千本、一部桜の花が残っていました。

 吉野駅から上千本までは奈良バスがピストン運行していて、順調に上がってきましたが、上千本から奥千本までは、道も狭くマイクロバス運行となっており、長蛇の列。待ち時間が1時間半ということで、歩いて登ることにしました。


大変急な坂道でしたが、途中チラホラ咲いている山桜、枝垂桜や吉野山からの景色を愛でながら、登り切りました。

約1時間急な坂道を登り、ようやく、吉野山の地主神である金山毘古命(かなやまひこのみこと)を祀る金峰神社の修行門に到着しました。

修行門から金峰神社まで続く参道の山桜も満開です。

 赤瀬川原平さんのお薦めは、さらに奥の西行庵跡です。

金峰神社へ参拝のあと、更にこの杉・ヒノキ林の道を登って、急斜面の狭い道を降りると西行庵跡です。


<でもその奥に西行庵跡というのがあった。西行が都を離れて独りこもったという、ぐにゃぐにゃの原木と土壁による手作りの庵だ。もちろん近年に復元されたものだけど、深山幽谷に住む孤独な気配が感じられて、ちょっと怖かった。>

私が訪れた時は、桜も満開で多くの観光客もいて、孤独な気配というのは、すこし感じにくい賑やかさでした。


<都から山をいくつも超えて、深い深い森の中だ。周りには誰もいない。病気をしたら死ぬので病気はできない。怪我もできない。すべて自分一人の責任で生きていくわけで、怖いけど、しかし無駄が全部なくなった気持ちであろうとは思った。>


この庵で、西行は独りこもっていたのです。


素晴らしい奥千本の山桜ですが、現在も杉、ヒノキ林を切り開いて山桜を植樹し、増やそうとしているようです。


赤瀬川原平は吉野山の桜を観るうちに、染井吉野は、東京の染井の植木職人が明治のころに山桜を交配して作り上げた人工種で、葉が混じらずに真っ白に咲くところが好まれて、日本中に広まったものの、人間による自然制服の自己満足みたいなものがあったのではないかと、内省します。
<吉野に来て満開の山桜を見ていると、どうしてもそういう内省にかられる。たんに花の満開という成育度の頂点だけのことではなくて、ここでは山全体が虹色の発色している。その虹色の中に山の発する息づかいが感じられて、その感じがなまめかしいほどだった。これに比べると、染井吉野の桜はイラストみたいだなと思ってしまう。>

私も大きく育った山桜を見ていると、すっかりとりこになってしまいました。



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ソメイヨシノは桜のクズだとは、水上勉の小説「桜守」で有名な桜博士、笹部新太郎氏の口癖だったとのことです。

[ k.imamura ] 2018/04/12 8:08:21 [ 削除 ] [ 通報 ]

桜の季節の吉野へはまだ行ったことがありません。一度行きたいなあとは思っているのですが、なかなか機会がなくて。

[ k.imamura ] 2018/04/12 8:10:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

昨年武田尾の廃線ルートを歩いた時、桜の園「亦楽山荘」にも寄らせていただき、桜の時期ではありませんでしたが、笹部桜の立派な幹の太さに驚きました。
吉野山には、また中千本が満開になったころ行ってみたいと思っています。

[ seitaro ] 2018/04/12 9:34:00 [ 削除 ] [ 通報 ]

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琵琶湖巡りは『湖猫、波を奔る』を持って

 琵琶湖を巡るご当地小説としては、滋賀県出身の弟子吉治郎さんの『湖猫、海を奔る』がお勧めです。小説の舞台となった場所が示された琵琶湖周辺地図も巻末に掲載されています。

 テレビのプロデューサーでもある弟子吉治郎さんは、彦根東高、関西学院大を経て中部日本放送に入社、テレビ番組の制作指揮という本職のかたわら、執筆されたそうです。
 
 第一章は昭和55年、主人公の大津の坂本にる日吉大社の神官の一人娘斎木朱美と黒猫フーコのお話から始まります。

<朱美の暮らす坂本は、滋賀県大津市にある天台宗総本山比叡山延暦寺への参詣拠点として栄えた町で、今でも宿坊が軒を連ね、往時の繁華を偲ばせている。織田信長の安土築城以来、名を馳せることになった穴太衆と呼ばれる石積み職人の町でもある。一見緻密な計算なしに積んでいるように見えるが実際は堅固な穴太積みという独特の石垣が、町のあちこちに残っていて、風雅で落ち着いた雰囲気を漂わせている。>

日吉神社でも周辺でも自然石を生かした穴太積みを見ることができます。

 小学4年生になった朱美は,龍笛の魅力にとりつかれ,黒猫フーコを連れ浜大津まで出掛けて笛の練習をしています。
<母には雅楽の練習をすると言って来るのだが、実際、浜大津ではポピュラーソングを吹くことのほうが断然多かった。まだ幼女の面影を残す朱美が制服のような折り目正しい服装でポップスを吹いているのだから、朝の散歩に来る人々の中には物珍しげに立ち止まって聞き入る人も増えてきた。>

朱美が竜笛の練習をしていたのはこのあたりでしょう。
私の琵琶湖巡りもこの浜大津から始まりました。

弟子吉治郎さんは、琵琶湖の遊覧船・玻璃丸にも触れ、育った時代の背景をうまく描いてています。
<外輪船ミシガンが就航した日の浜大津の港は沸き返っていた。昭和五十七年四月二十九日に定員七八七人のミシガンが就航するまで、琵琶湖遊覧の花形は玻璃丸であった。戦争が終わったのが昭和二十年、玻璃丸が就航したのが昭和二十六年。湖国だけでなく日本全国が、今日食べる米、明日の暮らしを考えるのが精一杯の時代であった。ようやく生活が安定した高度成長時代に入ったと言われ、一部の人々が余暇だレジャーだと言い出すのは昭和三十五年、一九六〇年代に入ってからだ。>

浜大津港ではちょうど外輪船ミシガンが出航していました。




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あしや手帖でBSドラマ『足後の晩ごはん』ロケ地&小説の舞台紹介

 椹野道流さん原作のBSドラマ『最後の晩ごはん』は3月30日に終了しましたが、6月にはDVDが販売されるそうです。


 平成30年度版「あしや手帖」で、「BSドラマ『最後の晩ごはん』市内ロケ地&小説の舞台めぐり」と題して紹介されています。

クリックして拡大してご覧ください。


芦屋市役所、ラポルテ市民サービスコーナーで無料配布されており、市民センターにも若干あるそうです。
芦屋市のバックアップもすごい!



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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