阪急沿線文学散歩

サブURL(このURLからもアクセスできます):http://nishinomiya.areablog.jp/bungakusanpo

有島武郎が描いた札幌農学校と時計台

 札幌は何度も訪れているのですが、今回初めて日本3大がっかり名所の一つと言われている札幌時計台を訪ねました。

 きっかけは有島武郎が晩年取り組んだ未完の大作『星座』が明治時代の札幌農学校を舞台にした作品で、時計台の様子も描かれていたからでした。

 がっかりの理由は、現在の時計台が、あたかもバージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』の1シーンのように、高いビルに囲まれた場所にあり、広々とした「北海道的風景」をイメージしていた観光客は、その小ささにがっかりするとのことですが、行ってみると、夜景は美しく、中に入ると展示も充実したものでした。


 有島武郎は明治 29年(18歳)、札幌農学校予科に編入学し、母方の伯父である札幌の新渡戸稲造教授宅に寄宿しています。明治 34年(23歳)農学校卒業のとき、日記に「我が真生命の生まれし故郷は札幌なりき」と、農学校の5年間が生き方に決定的な影響を与えたことを記しており、その経験が『星座』を著わすきっかけになったようです。

『星座』は、札幌農学校を舞台に繰り広げられる青春の物語で、著者自身の同校での体験をもとに描かれた作品と言われています。
 園は、時計台の梯子を登って機械室まで行きます。
<段と段との隔たりが大きくておまけに狭く、手欄もない階子段を、手さぐりの指先に細かい塵を感じながら、折れ曲り折り曲りして昇るのだ。長い四角形の筒のような壁には窓一つなかった。その暗闇の中を園は昇っていった。何んの気だか自分にもよくは解らなかった。左手には小さなシラーの詩集を持って。頂上には、おもに堅い木で作った大きな歯車はぐるまや槓杆(てこ)の簡単な機械が、どろどろに埃と油とで黒くなって、秒を刻みながら動いていた。>

時計台の構造を示す展示がありました。

園はこの梯子段を登ったのです。

<四角な箱のような機械室の四つ角にかけわたした梁の上にやっと腰をかけて、おずおず手を延ばして小窓を開いた。その小窓は外から見上げると指針盤の針座のすぐ右手に取りつけられてあるのを園は見ておいたのだ。窓はやすやすと開いた。それは西向きのだった。そこからの眺めは思いのほか高い所にあるのを思わせた。じき下には、地方裁判所の樺色の瓦屋根があって、その先には道庁の赤煉瓦、その赤煉瓦を囲んで若芽をふいたばかりのポプラが土筆草(つくし)のように叢(むら)がって細長く立っていた。>

現在は二階で、実物大の時計が展示されています。

建設当時の札幌農学校、時計台の模型と写真がありました。


現在の時計台は、オリジナルの位置から1ブロックほど移動しています。

上側を北にした現在の航空写真。黄色の四角で囲んだ部分が、札幌農学校の敷地、中心の黄色の丸く囲んだ所が、元の時計台の位置です。

明治22年の地図にも札幌農学校、地方裁判所、同庁の位置が書かれていました。

 従って園が機械室の西側の窓を開けると道庁の赤煉瓦が見えたのも頷けます。

 時計台の鐘の音の美しさは次のように著されています。
<札幌に来てから園の心を牽きつけるものとてはそうたくさんはなかった。ただこの鐘の音には心から牽きつけられた。寺に生れて寺に育ったせいなのか、梵鐘の音を園は好んで聞いた。上野と浅草と芝との鐘の中で、増上寺の鐘を一番心に沁みる音だと思ったり、自分の寺の鐘を撞きながら、鳴り始めてから鳴り終るまでの微細な音の変化にも耳を傾け慣なれていた。鐘に慣れたその耳にも、演武場の鐘の音は美しいものだった。>

訪ねた時、丁度正午の鐘を聴きことができました。

<時計台のちょうど下にあたる処にしつらえられた玄関を出た。そこの石畳は一つ一つが踏みへらされて古い砥石のように彎曲していた。時計のすぐ下には東北御巡遊の節、岩倉具視が書いたという木の額が古ぼけたままかかっているのだ。「演武場」と書いてある。>

岩倉具視が書いた「演舞場」の文字は夜のライトアップの方が良く見えました。


 『星座』はもともと大正10年に発表された「白官舎」という作品を書き足したもので、構想としては四部作、あるいは五部作にまで及ぶ大長編小説になる予定だったそうです。残念ながら完成する前に、当時中央公論者の記者だった波多野秋子と心中してしまい、第一部で終わっていますが、それでも十分楽しめる小説でした。





goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11672800c.html
北海道 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

苦楽園にあった山口誓子旧居

 戦後の現代俳句を牽引した山口誓子は1901年京都市に生まれ、1922年高浜虚子と出会い師事します。東大を卒業後、大阪住友合資会社の本社に入社しましたが、胸部疾患が悪化し、1942年に勤続16年目で退社しています。「自叙伝」によりますと、太平洋戦争の始まった1941年に病気療養のため伊勢に移り、その後伊勢湾沿岸を転々としましたが、1953年の伊勢湾台風で被害を受け、苦楽園五番町に移ります。

 その後山口誓子が亡くなるまで住まれていた苦楽園の住居は阪神・淡路大震災で倒壊し、現在そこには句碑と記念碑が建てられています。

(航空写真の黄色く囲んだ位置です)


 そして苦楽園の住居について、次のように述べていました。

<私の現在住んでいるところは、兵庫県西宮市苦楽園五番町である。海抜百メートル、南面し。六甲の東の外れの山が三百メートルの低さとなって背後に屏風を立てている。夏は涼しく、冬は暖かい。私はここに住んで十年余、健康になった。>

この旧居は2001年に神戸大学文理農学部キャンパスに移設、数寄屋造りの母屋の面影をほぼ忠実に復元し、山口誓子記念館として公開されています。


10月20日まで山口誓子特別展「誓子と海 −神戸開港150年によせてー」が開催されており伺いました。


記念館の内部も見せていただけます。誓子は住居について次のように述べています。

<私の今住んでいる家は、昭和のはじめに旅館だったから、横山大観も来て、座敷で大きな絵を描いたそうだ。しかし私は大観のことは思わず、常に茂吉のことを思う。湯川秀樹も阪大助教授時代に苦楽園の終点の近くに住んでいた。とある夜明けに中間子理論を着想したのだ。苦楽園は芸術の山であったと同時に、ノーベル賞の山であった。>

横山大観も来たという元旅館だけあって、立派な住居でした。


庭も綺麗に整えられています。

残念ながら訪問した日は、雨で煙っていましたが、晴れた日は大阪湾まで見晴らせそうです。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11672006c.html
苦楽園 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

阪田寛夫にとっての阪急電車と宝塚

 童謡「サッちゃん」で知られる詩人で、芥川賞作家、そして宝塚歌劇団のトップスター大浦みずきの父でもある阪田寛夫は、小林一三と阪急電車の大ファンでした。

 エッセイ集『わが町』の最初は「宝塚」。そこで阪急電車を尊敬していたと真面目に述べています。
<阪急電車というものを、私は何となく尊敬していた。クラスが分かれて野球試合をする時、私はいつも「阪急軍」に入った。その頃の「阪急」には宮武投手や山下実外野手がいた。
私の家は大阪市の南端、阿倍野にあった。ここはむしろ南海電車の勢力分野である。このあたりはもと田圃やれんげの咲く野原に恵まれていたが、私の少年時代に既に市街化がはじまった。商店街を兼ねた長屋が、緑をつぶして日に日に精力的に建てこみはじめた。>

 熱烈な阪急電車ファンであったことは、『わが小林一三』でも述べています。
<昭和十年を前後する時代に、私の通っていた大阪市内の南海電車沿線の小学校でも、阪急電車は速力と、海老茶色に統一された鋼鉄製車体と、野暮な装飾など一切無い機能的で重厚な内装によって、私鉄電車品定めにおける人気は抜群だった。
「一回乗っても南海電車」「全身乗っても阪神電車」「特急に乗っても阪急電車」
こんなことを言い合いながら互いにひいきの電車の自慢をしては……>
関西の小学生らしい発想とギャグです。

上の写真は小林一三の作った有名な新聞広告。

『わが町』「宝塚」に戻ります。
<これにくらべると、阪急沿線の六甲山麓地帯は誇り高い美人の顔のようなものであった。花崗岩質の山が暁方は茜色、夕方は紫に染まり、松林の奥の住宅街は、容易に俗塵を近づけぬ癇の強さを示さずにはおかなかった。
 しかし、とりわけ私が阪急沿線を尊敬した理由は、そこに宝塚少女歌劇団があったせいである。>

 阪田寛夫は武庫川を渡る阪急電車、そしてタカラヅカに憧れる小学生でした。
 そのクラスの三分の二はタカラヅカファンであったと述べていますから、当時は男子小学生のファンも多かったのでしょうか。

 さらに、仁川の林間学舎へ行ったときは、ヨッちゃん(春日野八千代)の家まで押し掛けたことが楽しそうに語られていました。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11671624c.html
阪田寛夫 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

大江健三郎はゴッホの「花咲く桃の木」を巴旦杏と勘違い?

 大江健三郎『日常生活の冒険』ではゴッホの「花咲ける木」が、ゴッホの詩とともに重要な役割を果たしています。
<ぼくは、この詩を斉藤犀吉におしえられたのだった。かれは芸術家の仕事に対してセンチメンタルな偏愛をしめしたりする青年ではなかったが、ゴッホの≪花咲ける木≫という絵については特別だった。アルルの涙ぐましい初春の空のもと、雪の残っている畑の一本のハタンキョウの木に花が咲きにおっている。>
 ハタンキョウ(巴旦杏)とはアーモンド(almond)あるいはスモモ(plum)を意味します。

 ゴッホが描いた有名なアーモンドの絵は、南フランスの精神病院で療養していた時、パリに住んでいた弟テオに子供が生まれたのを祝って制作した『花咲くアーモンドの木の枝』(Almond Blossom)。

 他にもゴッホが描いたアーモンドの木の絵はあります。

『花咲くアーモンドの木』(Almond Tree in Bloom)1888 Van Gogh Museum, Amsterdam が、大江健三郎が述べている「花咲ける木」と思ったのですが、以下の文章を読むとどうも違っているようです。
<この絵にはモーブの思い出という言葉が書きつけてあるのだが、そのモーヴ、従姉の夫の死にあたって画家は短い詩を書いた手紙と一緒にこの絵をその未亡人に送ったのだ。斎木犀吉は彼のアパートの壁にこの絵の複製をかけていた。ヨーロッパへ発つまえに、彼はアルルにも行ってみるつもりだといっていたが、彼は花咲いたハタンキョウの木をみただろうか?死者を死せりと思うことが、不可能な場合がある、そのような時、生者のあらん限り、死者は生きん、死者は生きん…>

 絵の左下に「モーヴの思い出に フィンセント」と書かれて絵を見つけました。

「花咲く桃の木」Pink Peach Tree in Blossom (Reminiscence of Mauve)
まさに大江が「アルルの涙ぐましい初春の空のもと、雪の残っている畑の一本のハタンキョウの木に花が咲きにおっている」と書いている通りの絵なのですが、「ハタンキョウ」ではなく桃の木(Peach Tree)なのです。

 そもそもフランスに桃があるのかというのが疑問だったのですが、フランスでは桃はとても種類が豊富で、夏から秋にかけて、マルシェで見ない日はないほどポピュラーな果物だそうです。

 ここまで調べるとPeach Treeに間違いないと思うのですが、大江健三郎『日常生活の冒険』で、斎木犀吉は犀吉の部屋でゴッホの複製画を見ている「ぼく」に次のようにハタンキョウと説明しているのです。
<「知ってるだろう?≪花咲ける木≫という絵だ、アルルの春のはじめの咲いたばかりのハタンキョウだよ、雪が地面にのこっているだろう?ゴッホは従姉の夫のモーヴという俗物と喧嘩していたんだが、そいつが死んだとき、モーヴの思い出のために、と書きこんで、あのとてもきれいな絵を従姉におくったのさ。従姉もモーヴもゴッホの絵の美しさなんかばかにしていた筈なんだがなあ。ゴッホは夢中になって悲しんで、自分の弟には死んだモーヴを悼む詩まで書いておくったのさ」>

 ゴッホはハタンキョウ(Almond)と桃(Peach)のよく似た2種類の木の絵を描いていますが、小説に登場する絵は、明らかにPeachなのです。

上の写真はアーモンドの木
 しかし、なぜ大江はそれをハタンキョウとしたのでしょう。
「ハタンキョウ」という言葉が小説にはしっくりするので、故意に桃をハタンキョウとしたのかもしれません。

ところで11月3日封切りの『ゴッホ〜最期の手紙〜』は「ゴッホの死の謎に迫る、全編が動く油絵で構成された圧巻の体感型アートサスペンス映画」と紹介されており、期待が持てそうです。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11671127c.html
三田アートガーデン | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

大江健三郎『日常生活の冒険』で紹介されたゴッホの詩

 日本のノーベル文学賞受賞作家の大江健三郎の小説に『日常生活の冒険』という本があります。

出版元の解説には、
『このおよそ冒険の可能性なき現代をあくまで冒険的に生き、最後は火星の共和国かと思われるほど遠い見知らぬ場所で、不意の自殺を遂げた。二十世紀後半を生きる青年にとって冒険的であるとは、どういうことなのであろうか? 友人の若い小説家が物語る、パセティックな青春小説』と述べられています。

 この小説で、主人公の斎木犀吉が「ぼく」におしえたゴッホの詩が重要な役割を果たしています。
<ゴッホがアルルから出した弟あての手紙に次のような詩が書き込まれていることをごぞんじでしよう。それは仲の悪かったモーヴという親戚の死を悼んでの詩だ。

死者を死せりと思うなかれ
生者のあらん限り
死者は生きん 死者は生きん

ぼくはこの詩を斎木犀吉におしえられたのだった。>

 この詩は大江健三郎が翻訳したもので、詩の意味は、
『死者を死んだものと思わぬことだ
生きている者がいる限り
死者はその心の中で生きつづける』
というものです。

 驚いたことに、その詩をゴッホに心酔していた夙川パボーニの画家、大石輝一が石板に刻み、芸術の園「三田アートガーデン」に掲げていたのです。

上の写真は現在の姿で、右側の石板にゴッホの詩が刻まれています。


 大江健三郎は『日常生活の冒険』を昭和38年『文学界 』に連載.し、昭和39年に単行本が発刊されました。ゴッホに心酔していた大石輝一はそれを読んで、石板に刻み、昭和40年にアートガーデンに掲げたのでした。

その時の写真が残っていました。

 晩年に大石は画家の枠を超えて、南仏アルルの風景に似た三田市の開拓村に芸術の園アートガーデンの建設に邁進しました。

開拓村の小高い丘には「タラスコン街道の画家」に描かれたゴッホの姿そっくりの大石が現れ、地元の人から「ゴッホ現る」と言われたそうです。

夫人の大石邦子さんがゴッホの人形を作っていました。

堂島のカーサ・ラ・パボーニでは10月28日(土)まで「パボーニでゴッホの顰みに倣う展」を開催中です。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11670883c.html
三田アートガーデン | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

カズオ・イシグロが小説の書き方を学んだ「創作科」とは

 ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロは6歳で渡英、ケント大学で英文学と哲学を専攻し1978年卒業、ミュージシャンを目指し、ソーシャル・ワーカーとして働きながら執筆活動を始めたそうです。

Ishiguro as singer-songwriter in his early twenties(1977)

 その後、1980年にイースト・アングリア大学大学院の創作学科に入学し、小説を書き始め、1989年に『日の名残り』でブッカー賞を受賞し、一躍小説家としての名を成しました。
「創作科」については、「大学で小説の書き方などが学べるのか?」という批判もあったそうですが、創作学科(creative writing course)で学んだことがイシグロの文体に大きく影響し、ノーベル賞受賞に役立ったことは間違いないでしょう。
 
 この「創作(creative writing)」について学ぶことが小説を書く上で不可欠だったと述べているのは、同じく日本生まれで神戸女学院高等部卒業まで西宮・芦屋に住んでいたキョウコ・モリです。12歳の時母の自殺がきっかけで、渡米し、ウィスコンシン大学の創作科(creative writing)で修士号、博士号を取得。1993年に初の小説『シズコズドーター』を発表し、「ニューヨークタイムズ」紙年間ベストブックに選ばれています。

日米の文化の差を綴った『悲しい嘘』で、次のように述べています。
<文章の勉強をするには、アメリカの大学へ行くしかなかった。日本の大学では、日本語であれ英語であれ「創作」などというものは教えていなかったから。いまでもそれは変わっていないようだけれど。いったい、日本の作家たちはどうやって書くことを身につけていくのだろう。ほとんどの人たちは、わたしと似たような教育を受けて育ってきたはずなのに。>
確かに芥川賞を受賞した又吉直樹は、どのようにして書くことを身につけたのでしょう。

才能でしょうか。
<ものを書く力というのは、ひと握りの選ばれた人間にだけ与えられた「生まれつき」の才能ではない。アメリカのわたしたちの世代の作家には、独学だけでやってきた人はほとんどいないだろう。創作や現代文学を教えてくれるクラスがなかったら、きっとみんな誰の本をどう読めばいいのか、その形式や内容のどこに着目すればいいのかわからなかったに違いない。じょうずな会話の運び方や、話をスムーズに展開させる方法、無駄をはぶきながら人物を生き生きと描き出す方法も教えてもらってよかった思う。>
 又吉のような才能がなくても、創作を学ぶことで、凡人にも小説が書けるようになるのでしょうか。

 さて日本では「創作」については、教えていないのかというと、近年はそうでもないようです。

 芥川賞選考委員でもある西宮市在住の小川洋子さんは、早稲田大学の文芸科で創作について学ばれており、『物語の役割』「私が学生だったころ」で次のように述べています。
<私は二十数年前、大学で文学を学ぶ学生でした。学科は文芸科といって、詩や小説や戯曲や評論などを研究するだけではなく、実作を目指すという、今はあちこちの大学にできていますが、当時は珍しい学科でした。最初は、文学の書き方を大学で教えられるのかという批判的な見方もされていたようですが、私自身は文芸科に進んでよかったと思っています。その理由はまず、日々の授業の中で、常に新しい、先頭に立っている文学に触れたことです。>
 小説など教えられて書けるようになるとも思えませんが、創作を学ぶことは文章を書く力を向上させるのは間違いないでしょう。私もどこかで学びたくなりました。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11670466c.html
小川洋子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

阪神間で話される言葉は?

 阪神間は転勤族が多いせいか、標準語を話す人が多く暮らしています。

田中康夫も『神戸震災日記』で、震災後のボランティアにスクーターで物資を配給していたときのことを、次のように語っています。
<僕は夙川地区のこうした家屋も一軒一軒、御用聞きの様に訪れることを心掛けた。が、初期に下着や水を、中期に化粧水を差し出しても、直ぐには受け取ろうとしないのだ。けんもほろろに無視する態度ではない。その逆だ。阪神間の中でも最も“標準語”に近い言葉遣いする夙川の人々は、なべて慎み深く、「いえ、私などより、もっと困っている方に差し上げて下さい」と最初は遠慮するのだった。>

 昭和十年代、阪急沿線の風景に憧れていた阪田寛夫は、六甲山系の南斜面に住む人々について次のように想像を巡らせます。

『わが小林一三』からです。
<すると心が一層迫ってきて、灯火がともり始めた谷間や丘の窓硝子という窓硝子の内側に、どうしてもスリッパを履いた美しく聡明な少女が愁い顔に立っていると信ぜざるを得なくなるのである。>

 このあたり、中原淳一の世界の様になってきます。更にそこに住む人々について、
<筆者の想像に於いては、彼らは衣食を大阪よりは神戸の外人街に依存した。令嬢や夫人の服や外套の仕立ては香港や上海で年季を入れた中国人裁縫師に限るし、味噌汁や大根漬けの代りにパンやチーズを求める先は神戸トアロードのドイツ食料品店に限られるのであった。そしてその口より発する言葉は口臭に汚れた我々の大阪弁ではなく、匂いのいい紙石鹸のような標準語にほかならぬと思われた。>
と「匂いのいい紙石鹸のような標準語」を話すとしているのです。

(大正2年に阪急電鉄が、郊外住宅を勧める『山容水態』)

 この時代、阪神間に住んでいたのは、谷崎松子さんや河野多恵子さんのように、郊外生活を求めて煤煙に覆われた大阪から移ってきた家族が殆どでしたから、実際は船場言葉だったのでしょう。しかし、六甲山系の南斜面に開けた街の美しさに心惹かれた阪田寛夫は次のように述べています。
<公卿家族や殿様華族、維新の元勲や陸軍大将はおろか、高級官僚さえ一人も住んでおらず、大政治家も、大学者も、大僧正もいなくて、当時実業家と名前を変えつつあった商人が住み手の大部分であった住宅地が、それでいて、−いやそれ故にと、今は思うのだが、少年時代の私には、大阪弁や神戸弁を話す当たり前の人間がそこに住んでいるとは到底思い及ばなかったほどに、豊潤な顔立ちと、心ばえの街に育っているのだ。>
 小林一三が開発を進め、形造った街の姿を称賛しているのですが、どうも阪田寛夫には高貴な人は大阪弁や神戸弁は話さないものだという、劣等感に似た思いがあったのではないでしょうか。
でも関西弁の私にはよく理解できます。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11670086c.html
阪田寛夫 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

昭和11年の井上靖が暮らした香櫨園

 井上靖は『闘牛』、『あした来る人』、『貧血と花と爆弾』、『昨日と明日の間』など数多くの作品で、高級住宅地として香櫨園を登場させています。しかし、井上靖が香櫨園に住んだのは昭和11年から12年にかけての僅か1年間でした。
井上靖略年譜を見ると、

昭和10年 28歳
京都帝国大学名誉教授、足立文太郎の長女・ふみと結婚
昭和11年 29歳
京都帝国大学卒業、「流転」により第1回千葉亀雄賞を受賞、大阪毎日新聞社に入社
昭和12年 30歳
軍隊に召集され、中国の北部各地に駐屯

となっており、大阪毎日新聞入社から軍隊に召集されるまでの新婚の1年間を、香櫨園で暮らしたのです。

 香櫨園で暮らした経緯について、夫人の井上ふみ著『やがて芽をふく』に詳しく述べられていました。
<昭和十一年八月一日付で毎日新聞大阪本社の『サンデー毎日』に入社することになったので、私たち家族は会社の近くに引っ越すことになった。子供の頃から一番面倒をよくみてくれて、私が好きであった従兄の世話で、そのすぐ近くの西宮市香櫨園に引っ越した。
 材木屋のご隠居の住居であったというその家は、さすがにしっかりした建物であった。玄関と八畳、四畳半、それに台所、その隣に三畳のお手伝いさんの部屋があった。>

井上靖が暮した川添町の家は、「西宮歴史資料写真展」にも展示されていました。

<家の前に広い空き地があって、子供たちが野球の練習をしていた。海が近くて、靖は休日などには、赤ん坊を抱いてよく散歩に行った。>

井上靖が川添町に住んでいた昭和11年の鳥瞰図です。黄色の矢印のところですが、現在とは違い、家の数もまばらで、家の前は広い空き地だったようです。
 鳥瞰図に描かれている夙川沿いの松並木を、生まれて間もない赤ん坊を抱いて香櫨園海水浴場のあたりまで散歩したのでしょう。
<そうした昭和十二年八月末、靖は赤紙を受け取った。長女幾世が這っていた。思い出に残る日である。何はともあれ、靖は三日後には、本籍のある郷里の伊豆湯ヶ島に戻らなければならない。靖の両親は、まだそこに元気で住んでした。
 私も幾世を連れて、足立の母と湯ヶ島へ行って靖を送りだした。すぐまた戻って、この西宮の家を引き揚げ、靖の留守中は京都の実家で過ごすことになった。>
 僅か一年で離れざるをえなくなった香櫨園ですが、新婚早々住んだ土地は忘れがたかったのでしょう。井上靖の小説には何度も登場しています。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11669820c.html
井上靖 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

阪田寛夫が述べる人文的世界の「阪急沿線」とは

 阪田寛夫は『わが小林一三』で、少年時代の阪急沿線への憧憬を述べています。

<もし小林一三がいなかったら、いたとしてもここまで書いてきたような運に彼がめぐり逢わなかったとしたら、私の歳に近いか、もっと上の年代の上方生まれの人間は、自分たちにとっては確固とした人文的世界である「阪急沿線」というものを、ついにこの世に持たずに終わったことであろう。>
 阪急沿線開発は良しき悪しきにつけ小林一三の発案により、進んだことは間違いなく、阪田寛夫が、当時「人文的世界」とまで述べるほどに成熟した風景を形成したと言っても過言ではないかもしれません。

<それが日本文化にとってどんな意味があるかは判らないが、かつて阪急神戸線の西宮北口あたりから六甲山系沿いに神戸の東の入口まで、また西宮北口まで戻って直角に同じ六甲山脈を今津線で東の起点宝塚の谷まで、そして宝塚からは宝塚線で北摂の山沿いに大阪に向かって花屋敷から池田、豊中あたりまで、その線路より主として山側の、原野であった赤松林と花崗岩質の白い山肌・川筋にまるで花壇や小公園や、時には箱庭をそのまま植え込んだような住宅街が、ある雰囲気を持って地表をしっかり掩っていた。今から四十年以前のお話である。>
『わが小林一三』の初版発行が昭和58年ですから、四十年以前とは昭和10年代の阪急沿線を指しています。

阪田寛夫はその頃、既に開発が進んでいた、西宮北口―神戸間、西宮北口―宝塚間、宝塚―豊中間の風景を称賛しています。


<長い長い立体的で緑色の休憩地―これまでの日本にはまだなかった、何と名付けてよいかわからない宙に浮かんでいる匂いのいい世界を、この地上にかたちづくって来たように思われる。昭和でいえば十年代半ば頃まで、筆者の私が大阪市内の小学生・中学生だった時分は、恐らく日本中のどこにも、これほど自然と人工の粒のそろった美しい住宅地はないと確信していた。>
 これほどまでに称賛された風景ですが、今やどんどん宅地開発が進み、「立体的で緑色の休憩地」とは呼べなくなるほど、緑が失われてきました。

ニテコ池の周りの緑も伐採されマンション建設が進んでいます。


goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11669205c.html
阪田寛夫 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

私が関西学院中学部に通っていたころと今と 上ヶ原や西宮 夙川周辺も激変ですね〜

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/10/11 8:53:05 [ 削除 ] [ 通報 ]

震災でかなり変わったと思うん茂ですが、その後最近の変貌ぶりも急ピッチ。夙川の松並木くらしか残らないのではないかと心配です。

[ seitaro ] 2017/10/11 9:49:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

日本最北端の旭山動物園へ

 今回は文学散歩ではありませんが、いつか行ってみたいと思っていた旭川市の旭山動物園を訪ねました。

 旭川市の人口はわずか36万人で、札幌からバスで2時間40分という距離ですから、不利な立地条件で、2004年7月と8月の入園者数が、東京の上野動物園を抜き、私が訪ねた現在も多くの入園者を集めており、驚くべき集客力です。
 一時は閉園の危機に陥った旭山動物園が日本一の動物園になった道筋は、TVでも紹介されましたし、旭山動物園園長小菅正夫著『旭山動物園革命 −夢を実現した復活プロジェクト』に詳しく述べられています。
<「人生で動物園に三回行く」一般的に、動物園に行く機会は、人生のうちで三回あると言われる。一回目は、自分が子供のとき親に連れられて、二回目は自分がおやになったとき子供を連れて。そして三回目は自分がおじいちゃん、おばあちゃんになったときに孫と一緒に。>
 しかし今回は孫を連れて行ったわけではありません。少子化の時代、大人も動物園に呼ぶ秘訣は?
<私たちは考えた。動物たちの素晴らしさがお客さんに伝わる動物園とは、どんな施設だろうか。何度も足を運びたくなる動物園にするにはどうしたらいいのか。子どもだけではなく、大人になっても行きたいと思うような動物園とはどんなところだろうか、と。>
 その答えは「見せ方の工夫」であり、決して曲芸をさせるわけでなく、動物にとってもっとも特徴的な能力を発揮できる環境を整えることである、としています。

 動物園は旭日山の斜面にあり、立地条件はいいものではありませんが、とにかく中に入ってみましょう。

<ペンギンはただ歩かせると人間より遅いし、ヨチヨチ歩きで、どことなく頼りない。しかしいざ水中に入ると、驚くほどのスピードで、まるで空を飛んでいるように泳ぐ。ペンギンは空を飛べない鳥の代表だが、水中トンネルではやはり鳥類なんだなと改めて納得する。>


頭の上を、空を飛ぶように泳いでいくペンギンの姿は壮観でした。

<アザラシは泳ぎが上手い。あざらし館の透明な円柱トンネル(マリンウェイ)では、その秘密がよくわかる仕組みになっている。これまでの動物園では、アザラシは水槽の上からしか見えることができなかったので、どのように泳いでいるのかがわかりにくかった。しかし円柱トンネルをつくることで、360度、あらゆる角度からアザラシが泳ぐ姿を観察できるようになったのである。>


これも説明通り、円柱トンネルを泳ぐアザラシを間近に見ることができました。

 もっと驚いたのはカバの生態です。カバは一日の多くの時間を水中で過ごしているそうで、泳ぐ姿と水中の機敏さは、まるでアザラシのようでした。


素早い動きで、うまく写真が撮れていませんが、足でガラスを蹴って向こうに泳いでいく後ろ姿です。

オランウータンの姿も楽しく見せていただきました。

<こうしたそれぞれの動物の持つもっとも特徴的な動きなどを見せる展示の仕方を、「行動展示」と名付けた。参考のために記すと、動物の姿形で分類して、おもに檻に入れて展示するという従来からある展示方法を「形態展示」、動物の生息環境を園内に最大限再現して展示する方法を「生態的展示」と呼ぶ。>
 この行動展示を行うことで、動物がイキイキするそうです。そして、イキイキする動物を見ることで、人間小の側も嬉しくなり、元気になることもわかったと述べられています。

 園内の景色も北海道らしく白樺が美しく、ナナカマドの樹も赤い美しい実をつけていました。

 今回は札幌起点ととし、朝9時に出かけ、戻ったのは6時ごろでしたが、イキイキした動物の姿を見せてもらって、元気になって帰ってきました。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11668599c.html
北海道 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

確かにこの動物園は凄いです

 大学生の子供に動物園に久しぶりに行こうと誘ったのですが自分一人で行って来たらと言われました^^:

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/10/09 15:20:52 [ 削除 ] [ 通報 ]

なかなか子どもの希望と親の希望は一致しませんが、見る値打ちはありますよ。

[ seitaro ] 2017/10/09 19:44:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

  1  |  2  |  3    次へ
  
このブログトップページへ
seitaroイメージ
阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

カテゴリー一覧

QRコード [使い方]

このブログに携帯でアクセス!

>>URLをメールで送信<<