阪急沿線文学散歩

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「藤本義一の書斎」を訪ねる(藤本義一はゴッホの大ファン)

 芦屋奥池に、小説家、テレビの司会者、放送作家作家など多彩な活躍をされた藤本義一氏のギャラリー「藤本義一の書斎」を訪ねました。


二女の藤本芽子さんと、ギャラリーを管理する画家の方がおられ、お話を伺うことができました。

義一さんの机です。

 若かりし頃は「東の井上ひさし、西の藤本義一」と呼ばれるほどの賞を競い合った仲ですが、井上ひさしさんからの葉書もありました。

 こちらは田辺聖子さんからのお手紙。

ペイネのイラストの便箋と封筒、田辺さんの字も可愛い。

こちらは義一さんの日記。

執筆した著書も多く、書棚を埋め尽くしていました。

昭和41年に発刊された「全調査京阪神周辺 酒、女、女の店」
目次だけ見ていても、時代が反映されていて面白いのですが、義一さんは全店踏破されたのでしょうか。

 ここで初めて知ったのは、義一さんがゴッホの大ファンであったこと。

今は残念ながら残っていませんが、ギャラリーの前に、このようなゴッホの「黄色いアルルの家」を模して別邸を建てられたとのこと。壁の色も黄色く塗られていたそうです。


 ゴッホの細長いベッドも再現して作られ、義一さんのお気に入りだったとのこと。


 義一さんの生前のDVDもたくさん見せていただきました。
ギャラリーは土曜と日曜に開廊されており、入場料は無料です。
http://giichigallery.net/information.html





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芦屋 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

芦屋ですね 上ヶ原の自宅は学生時代前をよく通り 10テレビの迎えの車が良く来ていました。

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2018/08/18 9:45:30 [ 削除 ] [ 通報 ]

今でもご自宅は甲東園とのことです。先月「藤本義一の思い出」というイベントに藤本統紀子さんが出演されていましたが、お元気そうでした。

[ seitaro ] 2018/08/18 9:57:41 [ 削除 ] [ 通報 ]

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山本通の神戸女学院の移転後にできた富士ホテルと西東三鬼

 モダンな感性を持つ俳句で新興俳句運動の中心人物の一人として活躍した西東三鬼は昭和18年から昭和23年まで、山本通りの洋館に住んでいましたが、同じ通りに富士ホテルがありました。

(写真は昭和22年に山口誓子と「天狼」を創刊した西東三鬼)

 山本通の神戸女学院が西宮の岡田山に移転後、理化学館は解体されず、「富士ホテル」となっていたのです。

(写真は山本通にあった神戸女学院理学館)

 西東三鬼は、昭和13年ごろその富士ホテルに泊まったことを『続神戸』で明かしています。
<そのフジホテルに、私は、戦争以前に泊まったことがある。昭和13年頃だろう、私は、東京で若い娘と恋愛中であった。すでに五年越しで、プラトニックという種類のものであった。>

写真は富士ホテルとなった理学館。門柱に富士ホテルという表札がかけられている。

 ダンディな西東三鬼ですから、女性関係も華やかだったようです。
<私達は三カ月ぶりに、東京ではない神戸で逢って、静かなフジホテルに泊まることになった。すでに、全国には「訓練空襲」がはしまっていて、ホテルの露台から見下ろす、町の燈火は消えていた。秋の夜の虫たちが鳴き競い、水のような月光がしたたっていた。>

富士ホテルのパンフレットです。

 現在は神港学園となっており、「神戸女学院発祥の地」の石碑が残されています。


 地図を見ると背後に諏訪山公園があるのがおわかりと思いますが、当時そこに動物園がありました。

<突然、頭の上の諏訪山動物園のライオンが咆哮した。私達はそれぞれ別室に退き、清浄な一夜を送った。
 訓練空襲しかし月夜の指を愛す
 神戸の獅子の咆えたり別れ寝るホテル
などが、その夜の俳句である。>

 諏訪山動物園は昭和3年、諏訪山公園内に開園しました。

写真は川西英『神戸百景』の諏訪山動物園。

 現在は遊具広場「子供の園」となっていますが、動物園の頃の名残が見られます。

戦後、諏訪動物園は閉園となり、飼われていた動物は昭和26年に開園した王子動物園に引き取られたそうです。

 富士ホテルについては敗戦後、占領物件として進駐軍の将校宿舎用に接収されました。
当時近くの洋館(三鬼館)に住んでいた西東三鬼は、兵隊たちとの交流を『続神戸』に書いています。

<さて、軍政部宿舎となったフジホテルには、二百人程の兵隊が来た。進駐後一週間位のある日、門に立っていた私に、二人の兵隊が「ビーヤビーヤ」といいながら、栓を抜いてラッパ呑みのしぐさをしてみせた。>
 その後、昭和21年10月にはオリエンタルホテルが経営を請け負ったそうですが、残念ながら現在は残っていません。



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今年のアジア競技大会で頭脳競技として採用されたコントラクトブリッジ

 コントラクトブリッジという頭脳競技があるのをご存知ですか?

欧米の社交界ではコントラクトブリッジは教養の一つとされているそうですが、日本でもハイソなゲームとして広まっていることを知りました。

 清水博子『vanity』では、主人公の画子が六甲の山ン中(実は甲東園)にある恋人の母親の家に行儀みならいという名目で住込むのですが、そのマダムの趣味がコントラクトブリッジでした。

画子が初めてマダムと顔を合わす場面です。
<ゆかりのない西の地でなぜ出自を話すはめになったのか。なりゆきに困惑している画子のまえで、マダムはコントラクトブリッジの練習に余念がない。外国の骨董市でみつけ値切って買い四箇月後に神戸港の倉庫までとりにいったのだというカードテーブルのうえで白熱電球の灯りをうけたカードがつくる翳をながめながら、画子は話を中断し、燻製なった東京の小鳥を回顧した。>
マダムは息子の慎一郎の中学高校(甲陽学院)の後輩の悠之助を教えてもらっています。
『VANITY』ではこんな場面も登場します。
<きょうはコントラクトブリッジのあつまりのまえに芦屋駅が最寄りの美容院へ車で行くから、髪を整えているあいだにまずは住吉の焼きあなごを調達してくるようにと指示された。>

 そのようなハイソな趣味と心得ていたのですが、昨年末に満池谷で開かれた「すももの会」というワイン会で、偶然その競技をされている方と同じテーブルに付き、コントラクトブリッジのお話を色々伺うことができました。

若いころから競技をされており、何度も日本代表として世界大会に出場されたとのことで、その頃の楽しい思い出をワインを楽しみながらお聞きしておりました。

私の頭の中で、勝手に『vanity』のマダムの話を思い浮かべていたのですが、もちろんその方とは無関係です。

 ところでつい最近「すももの会」の主催者からお聞きしてビックリしたのが、その方が何とこの8月18日〜9月2日にインドネシアで開催される4年に一度のアジア版オリンピック、第18回アジア競技大会2018で初めて頭脳競技として採用されたコントラクトブリッジの日本代表に選ばれたとのこと。


現役で競技をされているとは存じ上げませんでした。
調べてみると既に5月2日の神戸新聞に、「アジア大会、西宮の72歳中尾さん代表に 初採用のトランプ『ブリッジ』」と題した記事になっていました。

https://www.kobe np.co.jp/news/sports/201805/0011216846.shtml

 日本選手団最年長かもしれませんが、ニュースになるたびに年齢が書かれるのは中尾さんにとってはご迷惑かもしれません。蔭ながら応援し朗報をお待ちしております。
(引用した『vanity』のマダムと中尾様は関係ありません)



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清水博子 | コメント( 4 ) | トラックバック( 0)

中尾さんや競技のことはテレビの報道番組で知りました。
西宮市在住と聞き、親しみを覚えました。
フレー、フレー、中尾さん!

[ 西野宮子 ] 2018/08/15 13:31:37 [ 削除 ] [ 通報 ]

テレビでも紹介されていたのですか。
ゲームの様子もまた放映されれば嬉しいのですが、私も心から応援しています。

[ seitaro ] 2018/08/15 22:31:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

 初めて知りました 

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2018/08/17 8:49:53 [ 削除 ] [ 通報 ]

私もアジア大会にコントラクトブリッジがあるとは初めて知りました。全国ニュースではほとんど取り上げられていませんので、ご存知の方はわずかでしょう。でも、もしメダルでも取れば!

[ seitaro ] 2018/08/17 23:02:31 [ 削除 ] [ 通報 ]

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西東三鬼が住んだ山本通りの異人館を訪ねる

 モダンな感性を持つ俳句で新興俳句運動の中心人物の一人として活躍した西東三鬼は昭和17年、妻子を東京に置いて単身で神戸に移住、しばらくトーア・アパートメント・ホテルで過ごします。翌年、のちに「三鬼館」と呼ばれることになる西洋館(生田区山本通)に住まいを移しました。

 彼の著書『神戸』の第六話で昭和18年の夏にホテルを引き払ったことが書かれています。
<私達はぞの翌日、ホテルを引き払って、山の手の家へ引越したのである。その家は、明治初年に建てられた異人館で、ペンキはボロボロ、床はブカブカしていたが、各室二十畳敷位の、ガンガラガンとした部屋ばかりであった。この家には若い画家一家が住んでいたのだが、私が引越してから間もなく、彼は徴用になって工場の社宅へ移ったので、私は僅かの家具を買い取って、その家の借主になった。戦後、この西洋化物屋敷を、三鬼館と命名したのは誰であるか知らないが、来訪した次の諸先生の中の一人に違いないのである。>

その西洋化物屋敷のスケッチが、大高弘達編著『西東三鬼の世界』に掲載されていました。
三鬼館は、二回の神戸大空襲にもかかわらず焼け残りました。

 宮崎修二朗『ひょうご文学歳時記』で、次のように「白い館」として戦後も残っていたことが記されています。
<神戸の俳人たちが“三鬼館”と呼んだその洋館は、相楽園山側の道の東北部に今も残っていました。当時そこをしばしば訪れた俳人橋詰沙尋さんは当時を回想します。「貧乏でもダンデーで、美食家で、およそ迎合やへつらいのない精神的貴族でした。あの洋館、今は白く塗り替えられ改装されて往時の面影はありませんね。」その“白い館”の前で、ふと思いだした一句がありました。>

安藤安美著『神戸異人館』に“白い異人館”の絵がありました。
昭和50年前後の絵のようですが、かつては一戸立ちであったものを改造し、三世帯が住めるようにされ、当初の面影はかなり損なわれていると書かれていました。

 現在はどうなっているかと行ってみました。神港学園高校の東側の黄色く着色した場所にありましたが、まったくあたりの風景は変わり、異人館などありません。

この神港学園の建物の1ブロック先にありました。

左手の石垣は、最初のイラストに描かれた三鬼邸の隣家の石垣の名残ではないでしょうか。

西東三鬼の『神戸』に戻ります。

三鬼館の前に立つ西東三鬼です。
<私は近辺の人に習って、花壇をつぶして野菜を作った。水洗便所の水槽の鉄蓋を開け、隣家の露人ワシコフ氏、仏人ブルム氏の分も流れ込んだ濁水を汲み出して、大切に肥料にした。大きな防空壕も前庭に作った。>

このフランス人ブルム氏の館は、昭和44年に取り壊しが計画されましたが、幸いにして明治村に移設され、「神戸山手西洋人住居」 として残っていました。


三鬼館も残っていればよかったのですが。



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久坂部羊が喫茶店ムジカで見つけた久坂葉子の絵

 久坂部羊は、阪大医学部を卒業し、医師となりながら、同人誌『VIKING』での活動を経て、2003年に作家デビューした異色作家です。

 久坂部羊さん、笹舟倶楽部さんが紹介されていましたが、今年2月に西宮神社会館で講演会を開かれていました。

 その著書『ブラック・ジャックは遠かった 阪大医学生ふらふら青春記』の「ティーハウス・ムジカでの運命の出会い」で、まだ移転する前のムジカで久坂葉子の描いた2枚の絵と出会ったことを述べています。

<中之島界隈には今もオシャレな喫茶店が数多くあるが、私が医学生だった30年ほど前は、紅茶専門店のムジカが有名だった。ムジカは今は堂島に移っているが、以前は曽根崎新地にあった。ここでは世界中の紅茶を飲むことができ、また店名MUSICAからわかるように、店内に流れるクラシックの名曲を楽しむことができた。メニュには各紅茶の産地や風味、色合いなどが書かれていて、それを読むだけでも退屈しなかった。>

 
 坂部羊さん自筆の80年代の中之島の思い出MAPというイラストが掲載されていました。この図ではムジカは北新地の西端にあります。このようなところに移転したこともあったのでしょうか。

 現在、ティーハウス・ムジカは大阪の店舗は閉店し、芦屋と三宮センター街にあります。

<臨床実習をしていた大学病院からも近かったので、私は友人たちや彼女とたびたびこの店に通っていた。そしてここである女性と運命的な出会いをしたのである。といっても、本人に会ったわけではなく、私が出会ったのはその女性が描いたスケッチだった。当時、ムジカの壁には、世界中の紅茶のラベルが隙間なく貼られていて、そのなかに2枚、古びたA4サイズの紙が混じっていた。1枚は鳥や花、もう一枚は海の中の魚や蛸が、黒いインクで実に奔放に描かれていた。鳥の嘴など、ふつうは輪郭を描くところを、ペンのたわみを生かした見事な線一本で表現されている。私は感心して、店の人に、これはだれの絵かと訊ねた。「久坂葉子という、戦後に芥川賞候補になって、阪急六甲で飛び込み自殺した女流作家が描いたものです」>

 その時は、そのまま聞き流していた久坂部羊ですが、その6年後の1983年の朝日新聞夕刊に掲載された奇妙なスケッチの写真に目をとめます。

<女性の顔の絵で、右手で右目を隠している(鏡を見て描いた自画像なら、左手で左目を隠している)。その線の見事な勢いが、以前、ムジカで見たスケッチと同じだったのである。記事を読むと、果たして久坂葉子の作品とある。彼女の遺品が30年ぶりに菩提寺から実家にもどされたのを機に、神戸で展覧会が開かれるとあった。>

そこから久坂葉子に惹かれた久坂部羊は富士正晴に連絡し、何度か会ううちに、同人誌『VIKING』の例会に来るように言われ、しばらくして同人にしてもらったそうです。

「中之島の思い出MAP」に久坂部羊さんが「ムジカにあった久坂葉子が描いた鳥の絵」というk久坂部羊のイラストがありました。

『久坂葉子作品集』の表紙の絵は久坂葉子の描いた絵ですが、これに近い鳥の絵だったのかもしれません。
<「ムジカ」には今も久坂葉子のスケッチと新聞記事が飾られている。>と書かれていましたが、三宮のムジカにはありませんでした。


ひょっとして芦屋の現在の本店にあるのでしょうか。



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須賀敦子 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

久坂葉子に関する記事を読ませていただきました。
竹藪の中の一軒家、富士正晴さんのお宅にお邪魔した時、「名門の出の人は法要の所作がとても美しい」とおっしゃっていました、きっとお母様のことでしょう。
堀さんの奥様もご長寿でいらしたけど亡くなられたし、さびしい限りです。

[ やっこちゃん ] 2018/08/15 1:34:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

富士正晴さんや堀さんも御存知とは!きっと印象に残る方だったでしょうね。ブログ読んでいただきありがとうございました。

[ seitaro ] 2018/08/15 6:32:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

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久坂葉子が死の2週間前に喫茶店ムジカで描いた絵

 久坂葉子が『幾度目かの最後』で、レコードを鳴らしてくれるいつもゆく喫茶店で何通かの手紙を書き終えた時、喫茶店の主人がいたずらがき帳を持って来る場面があります。

<それだけ書き終えた時、喫茶店の主人が、いたずらがき帳をもって来てくれました。何かかいて下さいと。私はホットウイスキーをのんでいたし、多少、私の死と結び付けて考えていたので、いたずら書きをしました。いつもの皿に絵をかく調子で、さらさらと、海の中のと、花鳥の群とを。>

 これがムジカでの出来事だとわかるのは、富士正晴も『贋・久坂葉子伝』でその場面を書いていたからです。

(写真は発祥の地から2回移転し、2013年まで「アクア堂島フォンターナ」の3階にあった「ティーハウス・ムジカ」)
<「久坂さん、お願いがあるんですが。もうお手紙おすみでしたら……」ムジカのマスターが大きな帳面を大事そうに両手で水平にもち、その上に硯箱をのせて、傍らに立っていた。髪がゆるやかにウェーブした中年のもの静かな男。あまり愛想もいわない、足音もたてない男だった。落書帳を作って、常連の方に書いてもらうことにしたからと言うのだった。海の中で泳いでいる魚の絵を描き(久坂葉子は書きながら、「古蘭よ」を思い出していた。船と共に沈んで帰ってこない古蘭。わたしも亦……)、それから鳥を描いた。マスターは、ほうと感心するようにそれを眺めた。ニコニコさんがきてのぞきこんでいた。「うまいわねえ、久坂さん、何でもお出来になるのね」久坂葉子は笑っただけで答えなかった。>

 富士正晴は、その時の様子を久坂葉子から直接聞いていたのか、まわりの人から聞いていたのでしょう、まるでそこにいたかのように書いています。
 そして、久坂葉子の死後、富士正晴がムジカを訪れたとき、マスターが店の奥から静かに近づいて来て落書帖をさし出し、久坂葉子が書いたカット風の絵を開いて見せます。
<それは筆と墨で乱暴に書きなぐってあった。二本のギザギザに折れ曲がった線で波を、そしてその下にいくつかの簡単な形の魚が描かれていた。ガサガサした絵であった。感心するところは何もなかった。けれど、海の連想からわたしは「古蘭よ」という詩を思い出すのだった。>
「古蘭よ」は久坂葉子詩集に収められています。


 更にもう一つの絵については、次のように書いています。
<マスターは頁をめくった。こんどは、花の絵だった。やはり乱暴なカサカサした絵だった。署名の、丸でかこんだ葉という文字もカサカサだった。マスターは落書帖を閉じると、「惜しい方でした」と言った。そして奥へ帰って行った。>

 落書帖に書かれた絵は見つけられませんでしたが、久坂葉子が描いた絵札が残されています。


久坂葉子には文才だけでなく、絵の才能もあったのでしょうか。本当に惜しい方でした。



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久坂は、南画家、水越松南に絵を習っていたようです。『触媒のうた』の54ページを参照下さい。

[ imamura ] 2018/08/12 18:50:35 [ 削除 ] [ 通報 ]

ありがとうございます。それで墨を使って書いておられたのですね。早速読ませていただきます。

[ seitaro ] 2018/08/13 9:38:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

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久坂葉子の堂島の喫茶店「ムジカ」、現在は三宮で営業

 富士正晴らが創刊した同人誌『VIKING』のメンバーの溜まり場的存在だった喫茶店「ムジカ」には、久坂葉子も足しげく通っており、富士正晴の『贋・久坂葉子伝』にもしばしば登場します。


 その場所を特定できそうな表現が『贋・久坂葉子伝』にありました。
<久坂葉子は脚がひきつるような思いで、ムジカにかけつけた。銀行の角を廻り、東へ折れ、するとムジカの扉がひらいて、背の高い男が出てくるのが見えた。>
 堂島の毎日会館のあたりにあったということでしたが、詳しい場所を知りたくて堂島のパボーニを訪ねました。そこで偶然昭和40年ごろムジカに通っていたというお客に出会い、昔の地図も見せてもらって、その場所が特定できました。

昭和40年の堂島の住宅地図です。黄線で囲ったところが昔の毎日新聞社、毎日放送などがあったところで、現在は堂島アバンザとなっています。
 富士正晴はこの毎日新聞でアルバイトをしていたっことから、近くのムジカがVIKINGの溜まり場になっていました。

 更に地図を詳しく見ると、小説に出てきた銀行が、黄線で囲った第一銀行であることがわかり、その角を東に入った赤線で囲んだところに「ムジカ」と書かれているのを見つけました。

現在の航空写真です。黄線のところが堂島アバンザの東側にあるパボーニ。赤丸のところが、「ムジカ」があった所ですが、第一銀行は現在みずほ銀行となり、その堂島グランドビルが大きくなっており、堂島グランドビルの東端に位置します。


「ムジカ」はその後、紅茶専門店となり、毎日ホールの地下に引っ越し、更にアクア堂島フォンターナの3Fに引っ越していますが、2013年に堂島本店を閉店。
 本社を芦屋に移され茶葉・周辺商品の販売に集約されたそうですが、神戸・元町に2号店をオープンされているとのことで、訪ねました。

 場所は三宮センター街、一貫楼のある筋です。
ビルの2階。

2階の扉を開けると、紅茶販売のディスプレイが。
店の内部はこんな様子です。

 堂島時代の店内は『贋・久坂葉子伝』では、店の内部の様子が次のように描写されていました。
<外から入ると、ムジカの中はひどく暗かった。蛍光灯が陰鬱な冷たいものを、奥深い部屋の中に充満させているように、その時の気分で、思えたのだ。その濁ったもやもやした空気の奥に、何かを見つめている田村の後ろ姿が見えていたが、屈託がこりかたまった形と見えるのだった。そしてその時、久坂葉子の体を重く浸しているのも屈託だった。LPは、激しいヴァイオリンのひびきをふりまいていた。>
 当時は暗い店内で、クラッシックがかかっていたようですが、三宮の店は明るい店内に様変わり。


頼んだのは玉子サンドのモーニングセット。

ついてくる紅茶は伝統の「堂島ブレックファースト」、ミルクティーに向いているらしく、たっぷりミルクもついてきました。
食べログの評価も3.51と高く、満足できたモーニングセット。
堂島にあった久坂葉子の通った「ムジカ」は三宮で評価の高いティーハウスに生まれ変わっていました。



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川崎家の布引山から西宮神社に移設された旧岩倉具視旧居

 久坂葉子の眠る徳光禅院について調べているうちに、川崎正蔵の養子・川崎芳太郎と息子の川崎武之助により東京から神戸の布引丸山に移築された旧岩倉具視旧居が、西宮神社に移築されていたことを知りました。

写真は久坂葉子が眠る川崎家の墓所。

 川崎造船所創設者の川崎正蔵は布引山一帯の土地を購入し、明治18年に現在の新神戸駅からANAクラウンプラザホテルにあるあたりに、豪壮な邸宅を建設します。そして自邸の裏山である丸山(布引山)北麓に川崎家の菩提寺を創開しました。

写真の地形図の中心部が布引山(丸山)です。

 川崎芳太郎は旧岩倉具視邸を布引山(丸山)に移設し公開する構想を立てていました。

「神戸新聞」(大正7年12月2日号)には「布引山を公開する 川崎家の新しい計画 山上に生田神社と維新の五元勲を祀り 美術館を此処に移し建て 市民の娯楽場に充てたいという」という記事が掲載されています。

 その後芳太郎が急逝したため、息子の川崎武之助が岩倉具視旧居を布引山に移築し「六英堂」と命名し、入牌式が大正10年に挙行されています。
「六英堂」は、ここで明治新政府の主要な人物、岩倉具視、三條実美、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文の六人(六英傑)が度々会合を重ねたということからその名が付けられたそうです。

しかし、昭和13年の阪神大水害で布引山麓にあった川崎邸は崩壊、川崎邸跡は布引公園として生まれ変わるはずでしたが、昭和16年に太平洋戦争に突入、終戦後の昭和21年に川崎武之助も死去し、財閥解体となり川崎家は六英堂がある布引山も手放さざるをえなくなります。

 この頃、川崎家では財産税支払い能力がないため、書画骨董を売却してますが、その様子が久坂葉子の『落ちていく世界』『灰色の記憶』などに描かれているのです。


 当時、布引山を購入したのは大和観光株式会社社長のY氏であり、山頂にあった六英堂を後世に残すため、生田神社に相談し、生田神社から西宮神社の吉井宮司に打診します。
その結果、大和観光から西宮神社に寄進する形で、昭和51年に西宮神社に移築されたのです。

早速西宮神社を訪ねてみました。
配置図の赤丸で囲ったところが六英堂です。

 西宮神社の表門から入ると、毎年福男目指して走る一番目のコーナーがあり、六英堂はその左手にあります。
一般公開はされていませんが、祝宴や会合に貸し出されています。

六英堂の門です。

横に「明治天皇御聖蹟」という石碑が立っています。この石碑も布引丸山から移設したものでしょう。

明治16年、明治天皇は胃がんのために病臥していた岩倉具視を自宅にお見舞いになりました。その光景が描かれた聖徳記念絵画館壁画「岩倉邸行幸」の絵です。

旧岩倉邸の外観だけ見てまいりました。

それにしても何度も西宮神社を訪れながら、旧岩倉具視邸があったなんて、初めて知りました。




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それはわたしも知りませんでした。情報ありがとうございます。

[ imamura ] 2018/08/08 22:47:04 [ 削除 ] [ 通報 ]

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久坂葉子の眠る川崎家の菩提寺徳光禅院へ

 徳光禅院は久坂葉子(川崎澄子)の曽祖父で川崎造船の設立者、川崎正蔵が布引に開山した川崎家の菩提寺です。久坂葉子はここに眠っています。

 昭和27年12月31日の夜、遺体が阪急六甲から棺に入れられ徳光禅院まで運ばれた様子が、月刊神戸っ子2003年5月号「座談会/久坂葉子没後50年に語る 中西勝・柏木薫・義山雅士・久家義之」に詳しく述べられていました。

「久坂の棺桶を担いで線路を歩いた中西画伯」から抜粋します。
< 中西 それをハンカチで押さえながら坂を上った。上に霊枢車がおった。兄貴とお母さんが前へ乗って、ぼくは乗るとこないから後ろに、棺桶と一緒に入ったんですよ。枕元に乗って、布引に向かった。
柏木 徳光院ですね。
中西 広い本堂で、大きな火鉢があって、お母さんとぼくと当たっていて、ぼくも酔いがさめてしまってね。そうしたら、手についた血がね、ぷんと変な臭いがするんですよ。そこで寝てしまって…>
 この時の徳光禅院でのお通夜の様子などは、富士正晴『贋・久坂葉子伝』にも詳しく述べられています。

その徳光禅院を訪ねてみました。

新神戸駅の下をくぐり、砂子橋を渡ります。

渡って左手に行くと布引の滝ですが、右側に曲がり、つづら折りの急な坂道を登って約10分です。


正面が本堂です。


本堂横の庫裡です。

多宝塔は国指定重要文化財。

 この多宝塔は、名谷の龍華山明王寺のものでしたが、同寺が無住となり荒廃していたため、明治33年川崎氏が買い取り、私邸に移築、更に昭和13年徳光院に寄進、移築したものだそうで、兵庫県最古の多宝塔であり、また神戸市内唯一の多宝塔との説明書きがありました。

その横に大きな観音像があります。

久坂葉子は大きな観音像の台座、半円形ドームの地下に家族とともに眠っています。

実は40年以上前、新入社員教育でこのお寺の庭掃除に来たことがあったのですが、その時は久坂葉子の存在はまったく知らずにいたのです。



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久坂葉子『落ちてゆく世界』に描かれた布引・丸山の川崎正蔵邸

 久坂葉子(川崎澄子)は昭和6年、神戸市神戸区中山手通六丁目七十番地、相楽園のすぐ西に接した一角で、川崎正蔵の孫で男爵家の川崎芳熊と加賀百万石、前田侯爵家の家系に繋がる久子との間に二女として生まれました。

訪ねてみると、その跡地は神戸山手大学3号館となっていました。

相楽園の表門です。

 写真の右側が相楽園、左手奥の建物が神戸山手大学3号館です。
 しかし、この家も昭和20年の空襲で全焼し、再度筋町八十七〜五の一軒家に転居、更に昭和24年に山本通三丁目三十三番地、現在神戸北野ホテルのある場所に転居しています。

 久坂葉子の『落ちてゆく世界』は没落過程にある名門家に生きる息苦しさを綴った作品ですが、その中で相楽園の西隣に住んでいたころ、父川崎芳熊が生まれた川崎正蔵邸について次のように述べています。
<何しろ私たちが生まれる頃はやや降り坂だったしく、その豪華版を私は知りませんでしたけれど、父の生まれた所など通りすがりに眺めるたびに茫然とするのでした。>

父の生まれた所とは、川崎造船所創設者の川崎正蔵が布引・丸山に建てた豪壮な邸宅のことで、現在の新神戸駅のある一体です。
<その屋敷は戦前人手に渡り水害のため全滅し、又空襲でわずかにのこった門番小屋や大門も焼けてしまっておりました。園遊会の写真などを土蔵の隅にみつけ出したりする時に、こんな生活を羨ましがったり、或いは祖先がそういう生活をしたと得意がる以上に、明日知れぬ運命をおそろしくさえ思うことが度々ありました。>

 この川崎本邸は昭和13年の阪神大水害で、土砂に流され無残にも崩壊してしまいました。

 昭和15年1月8日の大阪朝日新聞に“待望の布引公園”と題した記事がでていました。
この時点で多くの敷地が神戸市に渡ったのでしょう。
<すぐる大水害に一瞬にして消え去った神戸布引川崎邸はその名も懐しい“布引公園”として二ヶ年後には明朗、健康の地帯に更生する鍬入れの日も近い—これぞという公園に恵まれなかった港都神戸にとって“布引公園”の出現こそはまさに渇望を満たすものといってよい、いまその全貌をのぞいて見ると—
公園敷地は旧川崎邸三万九千二百十三坪三合二勺のほか(中略)
まず下段の平坦地は一律に緑の芝生を布きつめたカーペットとなり点々と配植される数百種の花木はモザイクとなり縦横に走る曲線の逍遥路は大柄の縞模様となる、大芝生西南の一角約三百坪の箇所はこどもたちのため児童遊園として開放される、美術館、茶室も公開されるのでその道の人達によって趣味の催や集いに間断なく利用されることだろう>

この布引公園構想は一時的にでも実現したのでしょうか?

 さて、第一次大戦中は空前の軍需ブームでしたが、大戦終了後、昭和2年の金融恐慌など昭和6年までの長期不況で川崎造船所は大きな打撃を受けます。
 久坂葉子が生まれた昭和6年は世界大恐慌の最中でした。
その幼少期、相楽園の隣の屋敷で過ごしていたころの記憶を次のように述べています。
<いくらかたむきかけた私たちの幼少の頃といっても、今思い出しておかしくもさえある生活でした。すぐ近くへ行くにも自動車に乗りショフワーの横の席を子供達は取り合いでした。幾人ものお客様をもてなしたことを思い出します。お二階のお座敷には、大きなぶあついおざぶとんが並べられます。女中たちが、白いエプロンをぬいで黒塗りのお膳をはこびます。お茶碗などは、そんな時特別にしまいこんである桐の箱より出します。床の間は、三幅のかけ軸がかけられ、大きな七宝焼の壺にその季節季節の一番見事な花が活けられます。>
 このような生活を当然のように思っていた久坂葉子でした。
しかし、第二次世界大戦が終わり、日本経済は壊滅状態となり、昭和21年川崎武之助が亡くなり、川崎家は多額の相続税を支払わなければならず、保有する土地、資産など売却せざるをえなくなります。
『落ちてゆく世界』ではその頃の川崎家の様子が描かれているのです。



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久坂葉子 | コメント( 3 ) | トラックバック( 0)

付かぬ事をお伺いしますが、文中の「ショフワー」とは運転手の名前でしょうか。
『落ちてゆく世界』を読めば分かるのでしょうが、手抜して、お尋ねしました。

[ 西野宮子 ] 2018/08/07 11:00:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

詳しく読んでいただいてありがとうございます。原文のまま写しておりますが、’chauffeur’おかかえ運転手の意味で一般的にはショーファーの方がわかりやすかったと思います。

[ seitaro ] 2018/08/07 22:13:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

回答くださりありがとうございます。
「ショフワー」をネットで検索しても意味が出てこないので、運転手の名前かと思いました。
今回、「ショーファー」という言葉を覚え、ひとつ賢くなりました。

[ 西野宮子 ] 2018/08/08 1:15:01 [ 削除 ] [ 通報 ]

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