阪急沿線文学散歩

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椹野道流『最後の晩ごはん』に登場する芦屋市内の舞台をまとめました

 椹野道流『最後の晩ごはん』は芦屋警察署と税務署の間にある「ばんめし屋」から話が始まります。

そして舞台はほとんどが芦屋市内。
シリーズ第1弾から第8弾までに登場した芦屋市内の舞台をまとめてみました。

それぞれの舞台の写真と小説の引用文につけた番号は、芦屋市街地図に示した番号と一致しています。





















椹野道流さんは私にとって謎の作家でしたが、芦屋市在住の麗しき女性であり、

Wikipediaで調べると、「日本の法医学者・小説家。兵庫県出身。デビューから数年はとある医科大学の法医学教室に籍を置く、非常勤の監察医だった。現在は専門学校で教壇に立つかたわら、作家活動をしている。特技は一弦琴。中原中也が好きで、ペンネームの「椹野」は椹野川に由来する。」と書かれています。
 とある医科大学とは武庫川にある兵庫医科大学のようです。
また、椹野さんのTwitterでは、いつもペットの猫、文鳥、イモリを紹介されており、8月18日から芦屋市民センター・公民館展示場ではじまる芦屋のペットの写真展にも、椹野さんのペットの写真を提供いただきました。

 写真展初日18日の15時ごろ、椹野道流さんご本人に展示場に来ていただけることになりました。
椹野さんのペットの写真のみならず、作品紹介のパネルも展示しています。
椹野さんからはどのようなコメントをいただけるのでしょう。




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紀元1世紀に建設されたローマ式温泉へ

 世界遺産にも登録されているイングランド西部の都市バースにあるローマ時代の浴場跡、ローマン・バス博物館を訪ねました。

現在でもこれほど立派な温泉施設を造ることは、採算面から考えても難しいと思いますが、紀元1世紀に造られたローマン・バスを目の当たりにして驚嘆しました。

館内に入る前に簡単な説明がありました。

日本語のオーディオガイドを借りてここから館内に。

現在の地上レベルは2000年前よりかなり高くなっており、館内に入ると、大浴場の2階に出ます。

 大浴場を見渡すように2階の欄干には8人のローマ皇帝と将軍の石像が立っていますが、これはこの大浴場が発見された 19世紀末につくられたものです。

左側の彫像がカエサル、右側の彫像がクラウディウス帝です。

浴場の建物は1世紀末に建てられましたが、その後300年間手が加えられ、4世紀には、上の図に描かれたような姿になっています。現在は屋根がありませんが、元々はドーム型の屋根が付いていました。

模型が展示されていましたが、大浴場の後ろの建物がスリス・ミネルヴァ神殿です。
 スリスとは、先住民のケルト人が崇拝していた泉の女神のことで、ローマ人は、ローマ神話の治癒の女神ミネルヴァと先住民の女神スリスと同一視していたのです。

4世紀のアクア・スリス(バース)の街の絵です。
スリス・ミネルヴァ神殿と大浴場などの公共施設を中心に街が造られ、周りを壁で囲んでいることがわかります。(上を流れるのはエイヴォン川)

源泉は今も枯れず、46℃、13リッター/秒の割合で湧出しています。

ローマ人の温泉利用技術は当時から優れていて、源泉の周りにオークの杭を打ち、鉛のシートで2mの高さのリザーバーを作り、そこから各浴場へ配湯したそうで、鉛管もその時代から使われていたのです。

大浴場一階に行くと、ローマ人の扮装をした人がいました。

The King’s Bathと呼ばれる浴場がありました。

史実ではないようですが、ブリタニア列王史の中で、最初に風呂を作ったブリトン王、ブラダッドによって紀元前836年に温泉が発見されたとされており、伝説上のブラダッドの像が17世紀にThe King’s Bathに据えられています。

絵の様に、熱風を床下に送って暖房するシステムもありました。


その上の部屋はマッサージ室や、サウナ室として使われ、

風呂上がりの休憩、談話に使われていたようです。

再現映像が、実物大で見れるようになっていましたが、美観を損ねないようにでしょうか、女性モデルでした。実際はどうだったのでしょう。

最後に、温泉水を飲むことができるようになっていました。

We adore springs of hot waterと書かれており、温泉は神聖なものと考えられていたようです。源泉は聖なる泉(Sacred Spring)と名付けられていますし、隣にはスリス・ミネルヴァ神殿が建設されているのですから。
 日本でも、城崎温泉に温泉寺があることなどを考えると、同じような思想があったのでしょうか。



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西宮が『最後の晩ごはん』第7話のクライマックスシーンに登場

 椹野道流『最後の晩ごはん』第7話「黒猫と揚げたてドーナツ」では、五十嵐海里は里中李英に頼まれ、事故死した遺品整理を手伝うことになり、そこでオルガニート用のカードについていた黒猫の幽霊に気づきます。


 クライマックスシーンで、事故死した飼い主の山崎敦の霊と事故現場で海里とロイドは会話することになるのです。
<「現場は、市役所の近くだったよな。確かお寺の角を曲がった、やたらでっかい木が見えるあたり……」『楠でございましたよね』ポケットの中から、ロイドが情報を補足する。そうだっけ、と気のない返事をして、海里は少しスピードを落として辺りの景色をチェックした。なるほど、前方の対向車線側、道路から少し南に入ったところに、黒々と大木のシルエットが見えてくる。ちょうどそこでガードレールが切れていたので、海里は道路を右折して、スクーターを停めた。>

海里とロイドはスクーターで芦屋から国道2号線を東に走って来て、センターのガードレールが途切れる、上の写真の角を右に曲がるのです。

最初は市役所の近くの寺と楠から海清寺を想像したのですが、よく読むと事故が起こったのは茂松禅寺の角でした。

茂松禅寺も、その位置からわかるように元々は臨済宗東福寺派の六湛寺の一塔頭だったそうです。

<暴走した自動車が国道を外れて飛び込んだのが、この楠の大木がある禅寺沿いの脇道だった。寺の名前と、石垣の上にある白い塗り壁に見覚えがある。脇道沿いにある寺門の石造りの階段が、夜目にも明らかに欠けているのは、おそらく自動車がぶつかったせいだろう。>

楠の大木と茂松禅寺の寺門の階段です。
 もちろん、実際には事故は起こっていませんから、階段も欠けてはいません。

楠の根は道路まではみ出しているので、このような石垣で守られていました。元々はこの道も六湛寺の中だったのでしょう。

<何げなく通りの反対側を見た海里は、思わず「わあ」と声を漏らした。ニュースではそちら側の建物はあまり映っておらず、駐車場しか見えなかったのだが、そこは大きな病院だった。つまりタクトの飼い主である山崎敦は、病院の真ん前で、車に撥ねられて命を落としたといことになる。>

向かいにあるのは、兵庫県立西宮病院の大きなビルでした。

<背後を振り返れば、寺の立派な木製の扉は、固く閉ざされている。階段は石垣より内側に引っ込んで設えてあるので、階段に座れば、ひとまずは表通りからの視線は遮れそうだ。
「ここがまだ、いちばんマシだな」小声でそう囁くと、たちまち人間の姿になったロイドが、海里の隣に現れ、微妙な距離を空けて石段に腰を下ろした。>

この石段で、海里とロイドはオルガニートを鳴らし、山崎の霊を待つのです。

芦屋が主な舞台の『最後の晩ごはん』シリーズですが、7話目にしてようやく西宮が登場しました。



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イギリス湖水地方にあるビアトリクス・ポターの世界館へ

 ピーターラビットの故郷、イギリス湖水地方にあるベアトリクス・ポターの世界館を訪ねました。

入口近くにこんな電動VANが停まっていましたいました。近くのピータラビット・キッチン・ガーデンで有機農法で育てられた野菜やハーブ、果物などを、ここのティー・ルームに運んでいるそうです。

中に入ると、まず紹介フィルムを見て、ジオラマの世界に入っていきます。ここでは、ポターの23作それぞれの場面がジオラマで再現されています。

館内の探索マップです。それでは順に進んでみましょう。

まず『あひるのジマイマのおはなし』


そらへとびたったジマイマ


しんぶんをよんでいたみなりのいいキツネ


はねのけがぎっしりつまった小屋でたまごをうむジマイマ

次に進むと『キツネどんのおはなし』です。


子うさぎをさらっていくアナグマのトミー

キツネどんの台所の窓をのぞくピーターとベンジャミン


キツネどんがもどってきます


鍵を使って家の中に入ったキツネどんはトミーが自分のベッドでいびきをかいて寝ているのを見つけ、ベッドの上に水を入れたバケツを綱でぶら下げ、家の外からトミーに水をかけようとします。


キツネどんとトミーの戦いが始まりました。

次は『こぶたのピグリン・ブランドのおはなし』



次は『りすのナトキンのおはなし』です。


ナトキンといとこたちは一本の木に住んでいました。


しまのぬしふくろうのブラウンです。

次は『こわいわるいうさぎのおはなし』



次は『ティギーおばさんのおはなし』


ティギー・ウィンクルおばさんは、小さくて丸っこい、うでききの洗濯屋さんです。

次は『2ひきのわるいねずみのおはなし』


ドールハウスとおまわりさんです。

次は『ジェレミー・フィッシャーどんのおはなし』


サンドイッチを食べるつりびとジェレミー。


じじがめトレミー、いもりのアイザック、つりびとジェレミーです。

次は『フロプシーのこどもたちのおはなし』




もちろん『ピーター・ラビットのおはなし』もありました。

これが全てではありませんが、写真の整理は手間取りました。
館内の写真撮影は自由です。


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「遠藤周作」と「遠藤正介」

 昭和53年に非売品として刊行された『遠藤正介』という本がamazonなどで広く流通しているのをご存知ですか。


 奥付を見ると日本電信電話公社内に置かれた「遠藤正介氏追悼事業委員会」により発行されたものです。


 遠藤正介氏とは「愚兄賢弟」と自らのご不満を揶揄されていた、遠藤周作の兄。灘中学校を四年で修了し、第一高等学校入学、東京帝国大学法学部卒業という大秀才。逓信省に入省し、日本電信電話公社総務理事を務められた方です。
 民間企業でも社長クラスの追悼集が発刊されることはしばしばありますが、このように非売品でありながら、広く流通している追悼集というのは稀でしょう。
 そこには遠藤正介氏を偲ぶ追悼文が多くの著名人や関係者から寄せられている他、妻の遠藤マツ子氏の対談、遠藤周作を含む親族からの追悼文の他に、自ら著した論文、随筆などが収められています。読んでいると、一高時代にはペンネーム吹田紀夫として短編小説も書いておられ、相当な文才があったようです。

 この追悼集に、遠藤周作は「飲み兄弟」と題した追悼文を寄せ、遠藤正介氏が生前、弟について述べたエッセイ、「愚兄賢弟」、「顔色なし“賢兄の座”」、「わが愚弟を語る」が収められています。

 いずれも面白い作品ですが、今回は「愚兄賢弟」から紹介しましょう。
<周作と私は二人兄弟である。最近は不知か悪意か分からないが、「あなたは、芥川賞の遠藤周作さんの弟さんだそうですね」などといって挨拶されることもあるので、念を押しておくが、私の方が二つ上の兄貴である。しかも世間の評価はどうか知らないが、遠藤家(?)では過去四十年間、常に賢兄愚弟として私の方が尊敬されてきたことも申し添えておきたい。>

 この後、大連時代や灘中時代、その後の受験のことなどが述べられていますが、遠藤周作の芥川賞受賞の日から過去四十年間に及んだ愚弟賢兄の立場が変わっていったそうです。
<この日を契機として、愚弟賢兄の立場は逐次逆転しはじめた。昔から私共二人は、月に一度、落ち合って飲むことにしている。最近では銀座でも渋谷でもどのバーにいっても、弟は「周作先生」であり、私の方は「この人は誰なの、先生」である。すると周作先生は「こりゃ、僕の兄貴や、堅物やから、呑ませてや」てな調子で、やれ柴田錬三郎がどうした、有馬稲子がどうしたという話をきかされてそれでも会計となると、辛うじて兄貴の体面で支払いだけはさせていただくといった始末。>
バーでの立場も激変し、正介氏も面白くなかったことでしょう。

<親せきの甥や姪も、昔は人格高潔学術優秀な私に対し尊敬を以って接していたが、今日では「嫌いな科目の勉強なんかせんでもええ、叔父さんが親爺に話してやる」とか「そりゃ親のいう方が無理や。子どもの気持ちが分かっとらん」とい周先生の方に多く蝟集するのは人情としてやむを得ぬものがあるのであろう。>
私の経験からもたしかに、長男と次男というのは性格が全く違うのですが、このエッセイの最後は次のように締めくくっておられます。
<「君の弟の書いとるものを読むとなかなかええことを書いとるが、君は兄貴じゃそうじゃが、種違いと違うのか」などと揶揄されるにいたっては、愚兄賢弟も極まれりというべきであろう。>
それでもお二人とも立派な業績を遺されたのですから、贅沢なご不満です。正介氏が、もし文筆家を志しておられたら遠藤周作を抜いていたかも。



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遠藤周作 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

これは面白いですねえ!

[ akaru ] 2017/08/12 7:20:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

akaruさん、読んでいただいてありがとうございます。遠藤周作の兄ということで、この本を購入したのですが、面白い逸話がいくつも掲載されておりました。

[ seitaro ] 2017/08/12 9:20:51 [ 削除 ] [ 通報 ]

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ワーズワースも住んでいたホークスヘッド村

 ビアトリクス・ポターが作品の舞台にも描き、ビアトリクス・ポター・ギャラリーもある湖水地方のホークスヘッド村ですが、

その百年以上前にはウィリアム・ワーズワースが住んでいました。


ワーズワースは9歳から17歳まで(1787年から1787年まで)の多感な時代を、写真のホークスヘッド・グラマー・スクールに通っていたのです。


校舎は門を入って右側にありました。

一階の教室の机にWordsworth と彫られていましたが、本人がほったものかどうかは定かではないそうです。

このグラマースクールの裏に、St Michael and All Angels 教会があり、教会前の丘はお気に入りでその風景を詩に残しています。

ワーズワースが礼拝に通ったチャペルです。


グラマースクールに通うワーズワースと兄のリチャード、弟のジョンが下宿していたのがアン・タイソン夫人の家です。


現在はこの通りはワーズワース通りと名付けらています。

アン・タイソンズ・ハウスは現在はB&Bとなっていますが、
200年以上前の姿をとどめています。



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ユダヤ人を救ったことを戦後20年以上語らなかったマエストロ近衛秀麿

 BSプレミアムで先月放送された「玉木宏 音楽サスペンス紀行〜マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎〜」は「のだめカンタービレ」の若手指揮者千秋役を演じた玉木宏が主演し、日本のクラシック音楽の先達、近衛秀麿が、戦前ドイツを中心に世界各地のオーケストラを指揮して活躍しながら、ナチス政権下で迫害されたユダヤ人を救う活動もしていたという謎を追う物語でした。


近衛秀麿はベルリン・フィルを初めて指揮した日本人でもあり、日本初のプロ・オーケストラを結成した人物でもありました。

ナチス政権下の欧州で指揮をする近衛秀麿の姿は、あたかもナチスの広告塔のように見えますが、彼はひそかにユダヤ人音楽家たちの救出に一役かっていたのです。

詳しい経緯については、菅野冬樹『戦火のマエストロ近衛秀麿』に述べられているので、省略しますが、近衛秀麿がユダヤ人救出について自著で述べているのは随想集『風説夜話(新装版』だけなのです。

 1967年1月20日に刊行された「風雪夜話」の初版本は西宮図書館でも借りられたのですが、そこにはユダヤ人救出のことについては触れられていません。

国立国会図書館デジタルコレクションで調べると、新装版では、初版本の最後の章の「幽囚日記」の後に「敗戦秘話」「迫害―ユダヤ人と僕」「死因」という章が追加されており、そこでユダヤ人救出について述べられているのです。
新装版は初版からわずか十か月後の1967年11月に刊行され、その間に秀麿は「迫害―ユダヤ人と僕」でユダヤ人の救済について書き下ろしています。何が引き金になったかは、秀麿に協力してくれた人への返礼であったのではないかとし、菅野冬樹氏が『戦火のマエストロ近衛秀麿』の中で解説されています。

ユダヤ人救済について『風雪夜話(新装版)』では次のように述べられています。
<僕が職務上国外旅行の比較的自由であった立場を利用して、1940年以後スイス、オランダ等の越境の危険を犯しながら出国に成功したユダヤ人の数は十家族を超えた。この際の行動の為の外貨の輸送には、どうしても外交官の資格を必要とする。>
<我々が米軍の捕虜として米本土のキャンプに着くと間もなく、米国国務省からユダヤ人問題担当の事務官が僕を訪れて来て、厚く礼を述べた後、自らの身命を危険に晒してユダヤ人を迫害から救った十人の外国人の中に僕を数え、ユダヤ人白書の巻頭に写真入りで報告されて居ると話して帰って行った。僕は今もこの期間のささやかな善行を誇りに思っている。>

 ユダヤ人救済に貢献した近衛秀麿ですが、戦後長らくこの事実が秘匿されていたのは、日本でもそのような行為が決して称賛されず、むしろ関係者に迷惑がかかると考えていたからでしょう。

番組でもうひとつ明かされたのは映画『戦場のピアニスト』のモデルとなったユダヤ系ポーランド人のピアニストのウワディスワフ・シュピルマンと近衛秀麿との関係。

それは1935年に秀麿が日本への亡命を手助けした著名なピアニスト、レオナード・クロイツァーがベルリン音楽大学教授であったとき教えたのがシュピルマンだったのです。


そして1964年にはワルシャワ五重奏団としてシュピルマンを招聘し公演会を実現したのです。

最後にワルシャワのポーランド劇場で60名のポーランド人一流の演奏家で編成されたオーケストラにより近衛秀麿が演奏した未完成交響曲を再現する場面は感動ものでした。

聴いているのは玉木宏ただ一人。
今年は近衛秀麿の生誕120年にあたるそうです。


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ピーターラビット・シリーズに登場するホークスヘッド村

 ホークスヘッドの村の情景も、ピーター・ラビット・シリーズに登場します。


 まず『パイがふたつあったおはなし』でネコのリビーとポメラニアンのダッチェスがお互いに黙ってお辞儀をしてすれ違った場面のくぐりぬけの道です。


ホークスヘッドにはくぐり抜けの道がいくつかありますが、モデルとなったのは上の写真の場所のようです。


次は『まちねずみのジョニーのおはなし』に登場するくぐり抜けの道。いなかねずみのチミーが野菜かごの中で眠っている間に、荷馬車でホークスヘッドまで連れて来られた場面です。


上の写真が現在のくぐり抜けの道の様子です。壁の色は少し変わっていますが、100年近く前の絵に描かれたままの姿で残っています。


ここは現在はKings Arms Hotelのくぐり抜け道になっているようです。

外のテーブルでは皆さんビールを飲まれていましたが、看板を見ると、バーもあり、カフェ、食事もできるようになっているようです。


休憩に入ってみました。

玄関を入ると、ホテルというより典型的なパブです。


その奥の部屋にはテーブルが並んでおり、昼に、夕にのビールに疲れ、さすがにここではコーヒーにいたしました。




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“死の都”に響いた「未完成交響曲」

 7月29日(土)にBSプレミアムで“死の都”に響いた“未完成交響曲”〜戦火のワルシャワ公演を再現する〜と題して、ポーランド劇場での近衛秀麿の公演が再演されました。


 元々は、2015年8月にNHK BS1スペシャルで放送された「戦火のマエストロ・近衛秀麿〜ユダヤ人の命を救った音楽家」が発端となった番組のようで、

NHK出版から菅野冬樹著『戦火のマエストロ・近衛秀麿〜ユダヤ人の命を救った音楽家』にその内容も詳しく述べられていました。


 1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ侵攻したことから第二次世界大戦が始まり、ユダヤ人の強制収容所への輸送も始まっていた時代です。

 そのナチス・ドイツの占領下にあったワルシャワで、1943年9月にナチス主催の近衛秀麿の公演で演奏したのは、弾圧にあえぐポーランド人により結成された「ワルシャワ市民オーケストラ」でした。

 さすがNHKで、今回の放送は、修復した近衛版の楽譜を復元し、60名のポーランド人一流の演奏家で編成されたオーケストラによりポーランド劇場で演奏されたものです。

指揮はウィーン大学名誉教授・前田昭雄氏。

 その演奏について、近衛秀麿は自著『わが音楽三十年』「未完成交響曲」で一生忘れがたい経験をしたと、次のように述べています。

<併し先年ポーランドがドイツ軍に敗れた直後、ワルシャワのフィルハーモニーで僕は、一生忘れがたい経験をした。この敗戦で破壊され尽くした死の都に鳴り響いた『未完成』は、単なる感傷や悲愁ではなかった。或楽句は瀕死の呻きの様に聴きとれた。それから全曲は羞恥、絶叫、あきらめ、愛と祈りと成仏……それ等の交錯であった。多くの楽員は目を泣きはらしたり、興奮の余り顔を蒼白になって居るのを見た。そして音楽からこんな感銘を受け容れられる民族を、僕は心から羨ましく思わずには居られなかった。>

 この文章から、近衛がドイツ人将校たちの聴衆に対して、ポーランド人・ユダヤ人の心でオーケストラを指揮していたことが如実に伝わってきました。

そして、今回再現された前田昭雄氏の指揮による近衛版未完成交響曲は、かなりテンポを遅くしたもので、近衛の感想がそのまま伝わってくる重々しく荘厳な演奏でした。



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ホークス・ヘッドの「ビアトリクス・ポター・ギャラリー」で原画鑑賞

 ビアトリクス・ポターの住んだニア・ソーリー村のすぐ近くに、白壁の家が並ぶ美しいホークス・ヘッドの村があります。そこで、夫で弁護士のヒーリスが事務所として使っていた建物は、現在は「ビアトリクス・ポター・ギャラリー」となっており、ポターの作品や遺品が公開されています。

(上の写真の中央の建物)

ポターはニア・ソーリー村のカースル農場を購入するためこの事務所を訪れ、ヒーリスと出会ったそうです。

左隣のRed Lion Inn でまず昼食です。
湖水地方のあるカンブリア州特産のとぐろを巻いたカンバーランド・ソーセージにたっぷりグレービーソースをかけていただきました。

おいそうに見えますか?
でもこのカンバーランド・ソーセージは、EUの産地表示保護制度、PGI(Protected Geographical Indication)に認定されたそうです。

昼食の後は、斜め前にあるチケット売り場で、チケットを買って「ビアトリクス・ポター・ギャラリー」へ。

ピータ―ラビット・シリーズの中の20冊の原画がここにあり、2階にその一部が展示されています。

おなじみのヒル・トップを舞台にした『こねこのトムのおはなし』


『ひげのサムエルのおはなし』の原画です。
嬉しいことに、原画でもフラッシュなしなら撮影は許されています。

さてこの原画、手振れ写真になってしまいましたが、『パイがふたつあったおはなし』で、ネコのリビーのいとこ、タビタ・トウィチットが経営する雑貨屋ですが、

「ビアトリクス・ポター・ギャラリー」の右隣の建物がモデルでした。


「ビアトリクス・ポター・ギャラリー」の内部は、もちろんほぼ百年前の姿のまま維持されていました。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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