凛太郎の自転車操業

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西宮の旧村落 まとめ

 えーと…まとめとタイトルに入れましたが、もうまとめません。(^_^;)
 一覧表を作成しようと思っていたのですが、ここでtableタグ打つとすぐに制限字数を超えてしまいますし、また需要もないと思いますので、別記事で対応しました。
 →西宮市域における江戸期旧村落の信仰と墓地
 こちらが、まとめになります。よろしければご覧下さい。
 目次・地図・参考文献についてはこちらです。

 以下は、まとめではなく感想文です。
 以前「ちょっと歴史っぽい西宮」というサイトを作りまして、西宮の歴史を古代から現代まで追って歩いたことがあります。そのときに、もう少し細かく見てみたいという気持ちはずっと持っていまして、少しづつ未読の資料などを読んでいたのです。ただ、とっかかりがなかなか無くて書き出せずにいました。
 昨年、少し墓地のことを記事にしました。従来より金石文好きでしたので墓地にはちょいちょい顔を出していたのですが、その時に江戸期の村落墓地を軸にすれば書けるのでは、と思いつきました。ただ墓地だけでは何なので村の鎮守社と檀那寺との三点セットにして、江戸時代限定で細かな人々の暮らしと信仰の痕跡を昔の村単位で探し歩いてみることにして、この話を始めました。以前のサイトが総論、縦軸とすればこれは各論、横軸にあたります。ただもちろん学術的なものではなく、僕の一種の旅行記です。
 
 西宮というところは、なかなか歴史の香りを味わうには難しい土地柄です。信長、水害、空襲、地震という四大災厄があり…そのたびに街は更新をし続け、昔のものは本当に数少ない。で、僕のような歴ヲタはいつも歯噛みしているわけです。

 


 建築物は、もうほとんど残っていません。明治以前からあるものは、公智神社神輿殿、大市八幡本殿、神呪寺仁王門、えびす神社表大門と大練塀、今津灯台、そしてこの海清寺山門くらいでしょうか。京都生まれの僕から見ますと、あまりの少なさにため息が出ます。
 しかしそうした中でも、焼けなくて重くて動きにくい石造物は残るんです。石造物とて開発の波はかぶりますが、それでも姿を何とか留めている確率は高い。西宮市唯一の国指定史跡が石造堡塔の西宮砲台であるのはそれを象徴しているような気もします。
 石造物といえば、これまで西宮で歴史的遺物として多く語られてきたものは、道標です。これは、宮崎延光氏から今津っ子さんまで多くの先達がいらっしゃいます。それ以外は、神社の鳥居や狛犬などでしょうか。墓地という場所はやはりアンタッチャブルな側面があって、学術的調査以外ではなかなか一般的には足を踏み入れられないのが現状でした。
 しかしながら、石造物が最も多く存在するのは、やはり墓地です。そして、これまで生きてきた人々の足跡が最も色濃く残っているのも、やはり墓地でした。それは実際に歩いてみて、強く実感したことです。
 墓地を記事にすることについては、こころよく思われなかった方も多かったと思います。僕も、Webにupするなら同じことではありますが、エリアブログというコミュニティではなく別の普通のブログを立ち上げてやれば良かったのかもしれないと思っています。
 ただ、僕の個人的旅行記ではあるものの、消えていったもの、そして消えてゆこうとしているものをこの時点で少しでも記録しておきたい、そういう一念で、ここまで書いてきました。こんなブロガーが書いた記事群でも、いつかは何かの役に立つこともあるかもしれない。そんなことをぼんやりと考えつつ、現在時点での西宮の旧跡をネット上に置いておくことにします。
 
 江戸時代が終わってから約150年、この町は大きく変わりました。
 日本中がそうであったわけですが、西宮市域もかつて、江戸時代にはほとんどが田畑であったわけです。その中に、ぽつりぽつりと集落がありました。現在ではそんな風景を想像することすら難しく。あぐりっこによれば、西宮市の田畑面積は2%に満たないそうです。山口ではまだまだ「農村風景」が存在していますので、市域南部などはどれだけ変貌を遂げたことか。

 


 神呪村の高台の鎮守さんから町を眺めています。この鳥居には「安永二年 神咒村」と刻まれています。江戸時代と変わらずに建っているはずですが、震災による崩落があり補修されています。
 そしてもちろん、その向うに広がる世界は昔とは大きく変わっているはずです。

 


 最も南東の端に位置する平左衛門新田から市域を眺めます。この風景の中で、江戸時代と同じであるのは、甲山くらいでしょう。
 市街地は言うまでもないことですが、六甲山系は地質が花崗岩であり、材木を求めて一度木を切ればなかなか繁茂しません。したがい江戸時代は保水能力に欠ける禿山でした。
 ふくさんが江戸時代の絵画をいくつかアップして下さっています。例えば谷文晁の六甲山の絵(→こちら)、また西国名所之内「西ノ宮図」(→こちら)を拝見させていただきますと、六甲山系に樹木がないのがわかります。その中で唯一甲山だけは木々が繁茂しています。甲山は後背の六甲山系とは地質が違い、また神奈備ということで頻繁な伐採が行われなかったことが要因です。戦後山火事で坊主頭になりましたが、また植林され昔の姿に戻りました。
 それ以外は、全て変わったと言えます。
 河川も、変わりました。今はこのように滔々と流れる武庫川ですが、かつては雨量が多ければ溢れ、普段は歩いて渡れる広い石ころだらけの空き地のようなものでした。
 夙川は整備され、御手洗川は川筋が動き、船坂川にはダムが出来て湖と化し、津門川が新しく開削され、逆に枝川は閉じられ道になりました。平野を網目状に細かく流れていた百間樋を代表とする用水路も、暗渠化がかなり進んでいます。
 変化を決して否定するものではありませんが、変化したということは少なくても知っておきたいとは思います。

 町が最も大きく変わったのは、大正期からかもしれません。「耕地整理」という名の開発が西宮を均していったからです。墓地も、そのようにして失われていった場合がいくつもあります。
 ですが墓地以外に、氏神や檀那寺を含む村落の信仰というものを細かく見ていきますと、やはり明治維新というものの影響を強く見ることが出来ます。僕はこれまで、明治維新は一種の政権交代であり革命ではない、という考え方を有していて、今もそれは基本的には変わっていませんが、民衆の暮らしという視点から見ますと、この国家祭祀政策は革命と呼ぶべきものではなかったかとも思えてきます。
 様々なものが、消えてゆきました。それを、少しでも脳内復元は出来ないか。先達の言葉を頼りにして、これでも精一杯追いかけたつもりです。しかしながら、この程度に終わりました。
 これについては、是非が問えません。問うとややこしいのでね。ただ、昔からのものは実は存外少ない、いにしえから連綿と続いているもののように見えても形やあり方は変貌していることが多い、ということは、知っておくべきことのように思います。
 
 さて。
 土曜日に、短時間でしたが再び町をプラプラと走りました。もう既に晩秋ともいえる季節ですが、この週末は小春日和で暖かく。
 町は紅葉が盛りを迎えようとしています。

 


 市役所横のイチョウは、寛保3年(1743)に六湛寺の釈迦堂が再興されたときに植えられた古木ですが、すっかり黄色に。市は、こうして何本もの古木を保護樹としてくれています。

 最後に、越水丘陵を駆け上がって満池谷墓地へお墓参りに。先達にお礼を申し上げたいと思いまして。

 


 明治45年開設の墓地ですが、入口には元禄2年(1689)銘の六地蔵さんが立たれています。西宮町の今はもう無い村墓地から六湛寺墓地を経由してこの地に来られた、江戸時代を知るお地蔵さんです。
 満池谷には、何度も訪れました。冬枯れに始まり桜、新緑と。いま紅葉をめでつつ、ひとめぐりを実感しています。

 


 吉井家墓所です。えびす神社の歴代神主はみな夙川の神主墓地におられるのかと思いましたら、近代以降はこちらで鎮まられておられました。墓誌には吉井良秀氏、吉井良尚氏、そして先年惜しくも亡くなられた吉井貞俊氏のお名前も刻まれています。
 こちらに居られる大先達が編まれた「老の思ひ出」をはじめとする諸研究によって、僕も昔の名残を探して思いを馳せることが出来たわけです。
 大変にお世話になりました。ありがとうございました。
 線香くらいは手向けさせていただこうと持参してきたのですが、こちらには線香立てはありません。うかつでした。当たり前のことですが、こちら墓所は仏式ではありません。合掌。

 


 飯田家墓所です。今津の酒造家として名高く、宝暦5年(1755)に大観楼を建てて今津の学問教育を先導した飯田桂山の墓石もこちらにあります。そして、その後裔であられる飯田寿作氏も、ここに眠られています。
 その著作「酒都遊観記」には大変にお世話になりました。ありがとうございました。合掌。

 もうおひとかた、僕は西宮の墓石研究に大変尽力された筒本清五郎氏のお墓にもどうしても参りたかったのですが、その墓所がどちらかわかりません。
 筒本家は酒造家として栄え、如意寺が菩提寺でした。如意寺の墓石は悉皆この満池谷墓地の一区・二区に移されているはずで、名家の墓所であり当然大きな墓域を占めておられると思っていたのですが。
「筒本家」と刻まれたお墓は、一ヶ所だけありました。あの大変広い辰馬家墓所の近くですが、墓石は新しく墓誌が無いために確証はありません。
 僕は一区二区に在る墓石は全て見たと思うのですが、見落としの可能性もあります。これからも気をつけておきたいとは思いますが、思いはお伝えしたくこちらで合掌。本当にありがとうございました。
 
 他にも、まだまだ墓参申し上げたい方々がたくさんおられます。
 例えば、田岡香逸氏の墓所はどちらなのでしょう。本当にお参りしたい。市域のお墓もずいぶんと見て回りましたが、何万とある墓石の中では個人の探訪など無力に近い気がしてしまいます。
 しかしながら、筒本清五郎氏はそういうことを根気よく続けた方なのです。それを思いつつ、今後もお墓の探訪は続けていきたいと思っています。
 いろいろな思いを残しながら、満池谷墓地をあとにします。

 


 振り返ると甲山。今の西宮を代表する風景かもしれません。
 ですが僕は、この一年のあいだ考え続けた江戸時代にやはり思いを馳せてしまいます。高級住宅地としても名高いこの周辺ですが、昔は原野といっていい場所でした。
 今のように整備された形ではないものの、ニテコ池だけはありました。江戸時代の名残は、それだけかもしれません。他には名次神社も往古から存在しています。しかしこれも、移転しています。江戸時代には南郷山のピークにありました。あとは、越水墓地くらいでしょうか。これも今は住宅に囲まれてひっそりと佇んでいます。
 土地が歴史を刻むにつれ、風景は変貌を続けます。おそらくは、これからも変わり続けていくのでしょう。僕の好きな西宮という町は、今後どのように変わってゆくのでしょうか。
 どこまで見届けられるかはわかりませんが、これからも眺め続けたいと思っています。
 
 これで、僕の西宮の旧村落への個人旅行記を終わります。お読みいただいた方に厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。



村落墓地

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凜太郎さん
一区切りでしょうか。
毎回興味深く読ませていただいていました。
私にはあまり気が付かなかったところなどもあり、
私の知識を深めてくださいました。
どうもありがとうございました。
次はどんな形で楽しませてくださるのでしょうか。
楽しみにしています。

[ ちゃめ ] 2014/11/23 20:18:36 [ 削除 ] [ 通報 ]

先日、宝塚の荒神さんにお参りしましたが、本堂の大きな石造雨受けに「安政五年 施主 今津 飯田與作」の銘が入っていました。寿作氏につながる人なのでしょうね。
田岡香逸さんのご子息を知ってます。墓所のこと、またお聞きしておきましょう。

[ akaru ] 2014/11/23 22:15:05 [ 削除 ] [ 通報 ]

凛太郎さん、こんばんは。
意欲的な大作です。ありがとうございました。
次なる試みを楽しみにしています。

[ もしもし ] 2014/11/23 22:30:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

>ちゃめさん
ありがとうございます。途中くじけそうにもなりましたが、なんとか西宮の全ての村々をまわることができました。
人にはそれぞれ「視点」というものがあって、ちゃめさんもまた僕が気付かないような角度で様々なものを見られておられるのではないかと思います。そういうことをちゃめさんにぜひ発信していただければ…僕はしばらく冬眠に入りますので。(^ー^)

[ 凛太郎 ] 2014/11/24 7:33:35 [ 削除 ] [ 通報 ]

>akaruさん
ありがとうございます。小墓のことをはじめ、様々なご教示のおかげでここまで書くことができました。改めて御礼申し上げます。
今津の飯田家といえばもう他に考えられませんね。安政5年ですと寿作氏の何代前でしょうか。これは、上記墓所で簡単にわかるはずです。また確認しておきます。
田岡先生のことはありがとうございます。
西宮には多くの巨人がおられたのだとつくづく思います。

[ 凛太郎 ] 2014/11/24 7:45:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

>もしもしさん
ありがとうございます。もしもしさんには、連載中多く引用をさせていただき、大変お世話になりました。m(_ _)m
大作かどうかはわかりませんが、週2くらいのupでも毎回8000字制限との戦いで、おそらくこの一年、西宮ブログでは僕が一番文字数を書いたのではないかと思います(笑)。
もしもしさんも、まだまだ西宮には聖地が残されていますね。(^0^) 楽しみにしています♪

[ 凛太郎 ] 2014/11/24 8:07:15 [ 削除 ] [ 通報 ]

今日、田岡香逸さんのご子息にお会いして、お話を聞いてきました。
ちょっと個人的なことになりますので、ここには詳しく書けませんが、香逸さんの墓所は凛太郎さんがいくら探されても見つからない理由が分かりました。
ご子息にこのブログの所在はお教えしておきましたが。

[ akaru ] 2014/11/28 16:06:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

>akaruさん
ありがとうございます。大変恐縮でございました。気にかけて下さって誠に嬉しく、また有難く存じます。
もちろんWeb上のことですから、詳細は結構でございます。
郷土史に興味を持ち始めて以来、古文書から地質学に至るまでの、田岡先生の多岐にわたるご研究の偉大さというものをずっと感じておりましたが、このたび民俗学的方面に視野を向けて石造物等を見て回っていますと、田岡先生のご研究の広さと共にその深さをつくづくと思いました。
西宮に住むものとして、この方のことを忘れてはなりませんし、もっと顕彰されて然るべき方であると思います。

[ 凛太郎 ] 2014/11/29 7:58:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

≫西宮に住むものとして、この方のことを忘れてはなりませんし、もっと顕彰されて然るべき方であると思います。 ≪
全く同感です。

[ akaru ] 2014/11/30 9:06:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

凛太郎さん。はじめまして。
筒本清五郎のお墓は満池谷にありますよ。
私はひ孫にあたります。
私の父が墓石をやり替えましたので新しく見えるのでしょうね
ご縁あってこちらを訪ねてみました

[ 筒本 ] 2017/05/31 9:10:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

>筒本様
しばらくブログを留守にしていまして申し訳ございません。お訪ねいただいて大変恐縮でございました。
私は西宮生まれではなく、縁あって震災後に移り住んだ新参者です。ただ歴史と金石文が好きで、いま住む西宮を彷徨い歩く途上で、筒本清五郎氏と出逢うことができました。
私は素人ながらたいへん感銘を受け、そのご研究をもとに西宮散歩を楽しませていただきました。
本当にありがとうございました。また満池谷を訪ねてみたいとおもいます。

[ 凛太郎 ] 2017/06/10 18:44:06 [ 削除 ] [ 通報 ]

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西宮の旧村落80 補遺(2)

 えー、神社でもうひとつだけ。
 僕は西宮市域に明治以前から在る神社で、まだ参詣していない神社が一社だけ残っていました。それが、平安時代以来の式内社ともされる古社、岡田神社です。なんせ神戸女学院内に鎮座されていまして、おっさんは通常入れないんです。
 というわけで10月に、学園祭を狙って行ってきました。女子大の学園祭なんて、自分が学生の頃にムフフ目的で行って以来です。
 神戸女学院は、先日国指定重要文化財となったヴォーリズ建築の校舎が有名ですが、そういう話はseitaroさんのブログが大変お詳しいので、僕は「うわーきれいな校舎だなー」と言うにとどめ、ともかく神社へ。

 


 その「重文」や「阪神間モダニズム」という言葉で一括りには出来ないほど美しいヴォーリズ建築の校舎群の狭間に、緑に包まれて岡田神社が鎮座していました。

 


 学院内は自然環境が実に良好に保たれていますので、こちらも雰囲気がいいですね。
 そのseitaroさんのブログからの孫引きで誠に恐縮なんですが(→阪急沿線文学散歩)、玉岡かおる氏が昭和8年の岡田社に鳥居と石垣が存在していると描写されています。
 鳥居か…。そこまであると周りの風景と調和がとれるかな。そして石垣はこのときにはまだ無かったでしょう。
 小説ですからそれは構わないのですが、実際にヴォーリズが見た昭和8年の岡田社は、今とはかなり違う姿だったはずです。このときは、岡田社は石祠だったのです。

 岡田神社は前述しましたが「式内社」だという説があります。
 延長5年(927)に、当時の法律体系である律令の細則をまとめた「延喜式」が編纂され、その中に神祇官関係の法令集があり、当時の官社の一覧表があります。それが延喜式神名帳です。そこに載っている神社を式内社と呼びます。つまり927年には存在したということで、大変由緒ある神社ということになります。
 武庫郡においては4社。広田、名次、伊和志津、岡田神社です。
 この岡田神社について諸説あり、江戸時代には小松の岡太神社がこれに比定されましたが、立地条件(10世紀はそのあたりは陸地だったか海だったかあいまい)等で問題もあり、この神戸女学院内の岡田社を指すのでは、という説が今は有力です。
 ただ、並河誠所(江戸時代の学者)が岡太神社を式内社だとしたのは、無理のないところもあるんです。調査したのは享保年間(1716〜)で、その頃岡田社はありませんでした。
 正確には、元文3年(1738)の「西宮組神主堂守等判形帳(写)」を見ますと、広田神社末社の中に「岡田之社(ほこらなし)」という文言が見えます。存在はしていたわけです。しかし神殿も無く、御神木を祀るという古代式でしたから、並河誠所が見逃すのもしょうがないかと。その神域を整備しようとして土中から石祠が見つかったのは文政5年(1822)のことです。
 その後の岡田社ですが、尼崎7代藩主松平忠興氏が廃藩置県で東京へ移住する一年前の明治5年、岡田山を別荘地として買い入れます。ですがこの岡田社の領域だけは広田神社の領有地でした。
 以下神戸女学院八十年史に拠りますが、この別荘地に昭和になって神戸女学院が来たときにも岡田社周囲は広田神社管轄でした。ミッション系の学校には相応しくないため学院は移転を計画し、この境内地の倍以上の新鎮座地を寄進しようとしますが、広田神社と内務省神社局が「学校の為に軽々と移遷する事はできない」と千年の歴史を重んじ首を縦に振りません。学院はしょうがなく社地の周りに生垣を設けて杉などを植え、学校建築との見合いを避けます。
 岡田社は依然として石祠でしたが、昭和15年(皇紀2600年)に広田神社建替事業があり、その古材を用いて社殿を建造します。石垣はそのときに出来ました。昭和17年の「甲東村(渡辺久雄著)」では、まだ「石祠」と書かれていますので、社殿及び石垣が出来るまでには間があったかもしれません。
 ところで、それ以前も(以後も)鳥居の記録は見出せていません。神社明細帳にも記載は無く、これはよくわからないですねえ。

 


 戦後、再び学院は移転を計画し、もう官幣大社ではなくなった広田さんもOKしますが、予算の関係で計画は立ち消えに。今も学校内に鎮座しています。

 ともかくも、これでようやく江戸期以来の市域に残る神社をコンプリートすることができましたー。
 ヾ(〃^∇^)ノ
 さて、その神戸女学院のある岡田山のふもと。実は江戸時代に集落が存在していたようです。
 江戸時代の市域集落は本村、枝郷含め網羅してきたようですが、書いていない集落もいくつもあります。岡田門戸という集落も、そのひとつです。

 


 このあたりになります。神戸女学院の入口より北、街道筋です。

 


 集落内には、お地蔵さんが祀られています。詳細はもしもしさんの「聖地巡礼その233」をご覧下さい。
 古い集落であり、門戸村の枝郷として採りあげるか迷いました。国絵図などには記載が無く、どうもいち村落として数えられていないようですが、集落の位置を考えると岡田社が氏神の役割を果たしていたとも思えます。
 しかしながら岡田社は前述したように、江戸後期までは祠もありませんでした。そして石祠を神域整備中に見つけたのは、広田村の人々です。つまり岡田山は広田村の領域であったと。尼崎藩主の松平氏が岡田山を別荘としたのもここが尼崎藩領であったからだと考えることも出来ます。門戸村は石河氏領でした。
 したがって岡田門戸集落は岡田社を祭祀していない、つまり氏神ではなかったとと判断し、岡田集落を門戸村の飛地集落であるとみて一項は割かず措きました。
 ところが神戸女学院史を読みますと、岡田社の移転計画の際に「岡田部落に住む岡田氏ら氏子総代の同意を得た」と書いてあります。(゚〇゚;)なぬ?
 岡田部落が岡田門戸集落を指しているのかは不明ですが、これはちょっとわからなくなってきました。(^∇^;) いまさら一項増やせませんので、とりあえずここに書いておきます。

 村落を考える基準は、実に恣意的なものです。ただ人が集まって生活していれば村だろう、という見方も出来ますが、僕はまず検地帳や国絵図でその存在が確認できて、なおかつ氏神か墓地かどちらかは有していた集落を「村落」として書いてきました。
 なので、ふれていない集落もあったわけです。
 記事内で多少言及した集落もありますが、もう最後ですのでそういうのも補足しておきます。岡田集落以外には、東船坂村(船坂村)、牛ノ子村(名塩村)、獅子ヶ口村(西宮町)、段上新田(段上村)、御代開新田(御代村)、上田西新田(上田新田村)など。また絵図等に描かれているものの存在が確認できない名塩の大澤村。鳴尾の八坪。山口の岡本村もそうであるかもしれません。さらに越木岩新田には3つの集落がありましたがひとつでまとめて書きました。神呪寺村と神尾村は行政的にも分かれていたのですがこれも一項としました。
 実態のわからない平左衛門新田や、無かったことは確実の田近村も書きましたから、本当に恣意的ではあるのですが。

 墓地も、あちこち訪れました。
 しかし墓地については文献資料がごく少ないので、基本的には歩いて確認していくしかありません。市南部については住んでいるので比較的細かく探して回れましたが、北部は詳しくなくて困りました。
 名塩は明治編纂の地誌に墓地7つとされ実に難しく、その中で「西の墓」については現地で確認できなくて、おそらく名塩S.A.建設で無くなったのだろうと判断しました(→名塩村)。
 もしもしさんに、西の墓はまだあるのでは? とのご指摘を受けて慌て、ある夏の日、通りすがりでしたが再び訪ねました。

 


 当該場所ですが、工事がずいぶんと進んでいます。
 しかしながら現地でわかりましたが、ここにはおそらく西の墓は無かったと思います。墓地は、やはりもっと西の方です。
 ご紹介の名塩の方のサイト(→こちら)ですが、ここに写る一基残ったお墓は、おそらく東の墓のものです。上写真の道路は、名塩八幡の下を潜って東側へ突き抜けて176号線に合流します。「左の写真の森の部分を貫いていった反対側」というのはその部分で、工事はやはりご紹介の建設会社HPに出ています。「一つを除いて今は近くに移動している」というのは、新東墓に移ったことを示すと思います。
 しかしながら、西の墓は結局、どうしたのでしょうか。存在の有無は。
 僕は基本的に、人には尋ねないことにしていますが、今回はご近所の方にお話を聞いてしまいました。

 「そこにあったお墓は…ずいぶん前に無くなったわ。サービスエリアのとこや」
 「うちはそこのお墓と違ごたんでよう知らんけど、どっかに運ばれたんやろな」
 「源照寺さんのお墓もそこにあったんや」

 名塩のお寺は真宗寺院であるためか、寺院内墓地がありません。教行寺はラントウに、教蓮寺は山条の墓に住持墓所を持たれています。源照寺墓所は、西の墓にあったということでしょう。
 心当たりがあり、僕はすぐラントウへ行きました。

 


 ラントウに源照寺墓所がありました。先ほどのお話と合せて、西の墓は中国道工事で廃絶、墓石はラントウへ移転したと推察できます。
 しかし、おひとりの方だけしか僕は聞いていません。聞き取りで怖いのは「思い違い」などもあるかもしれないということです。なので「推察」ということに致します。
 もしもしさんにはいろいろ調べていただきました。改めて御礼申し上げます。

 「名塩村地誌」に載る墓地は、全部で7つ。その中にある「篝山墓地」というのは、場所も何もかも不明です。ただ、郷土資料館の細木先生に御教示を頂いたことがあります。「名塩八幡の近くの墓地は、ラントウに移転した」と。おそらく篝山墓地のことです。
 ラントウは現在、村域最大の墓地ですが、何故か明治初期の地誌には存在が記されていない。それは明治以前は、ラントウが神呪寺歴住墓地(→こちら)と同様に、教行寺歴代住職と寺族だけの墓地だったということが考えられます。そして明治前期には道路整備等で篝山墓地の墓石が移転し、さらに昭和に西墓の墓石が移転、ということなのかもしれません。
 
 さらに先ほどの名塩の方とお話で、実に興味深いことがありました。

 「前は、そこらへんにもお墓はあった。自分とこだけのお墓持ってはった家もあってな」

 屋敷墓のことだろうと思います。上リンク記事にも書きました。名塩にも存在していたということです。
 「なじおの年中行事」に、「明治初期の頃は、住居にごく近い場所で、小規模単位のまつりごとが営まれていた形跡がある。むかし墓地だったらしい場所が、随所に点在していることでもうかがえる」と、あります。そのあたりとも整合するお話です。

 ここまで巡ってきた村落墓地は、全部で35ヶ所です。列記しておきます。
名来一ノ湯墓地(3ヶ所)・立毛墓地 下山口下墓 金仙寺墓地 上山口上墓・下墓 中野墓地 船坂墓地(移転) 名塩東久保墓地・ラントウ・上ノ墓・山条ノ墓・東墓・木之元墓地 貝之介墓地 松並墓地 上新田墓地 御代開墓地 下瓦林墓地 神呪墓地 門戸墓地 高木墓地 上ヶ原墓地 広田愛宕山墓地 六軒墓地 越水墓地 鷲林寺墓地 柏堂墓地 森具墓地 上鳴尾墓地 小松墓地 上田墓地 中津墓地
 廃絶した墓地は、全てを掌握できません。わかっているだけ列記します。
下山口上墓 名塩西ノ墓・篝山墓地 生瀬墓地 荒木墓地 芝村墓地 中村申金墓地(2ヶ所) 越木岩墓地 森具大谷墓地 西宮西墓・野墓・小墓 津門墓 今津大墓・小墓 笠屋墓地
 この他、文献に出てきませんが中新田墓地、下新田墓地も存在したと思われます。高木村は西墓もおそらく在ったかと。全く分からないものに中村の市民グラウンド横の墓地などがあります。両墓制を考えれば、神呪村にももうひとつ墓地はありました。他にはコバカ。大社村域にはさらに墓地があった可能性も。鷲林寺新田には、今も存在しているかもしれません。
 巡ってきた中で、市域の現存する江戸期以来の墓地を全て訪れられたとは思えませんが、ただ村落の中心的な墓地は一応網羅できたのではないかと思いますので、ここまでにしたいと思います。 


村落墓地
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神戸女学院のなかに、少し寂しげに存在する岡田神社の由来、よくわかりました。ここまで調べられるのは大変だったと思いますが、参考になります。ありがとうございました。

[ seitaro ] 2014/11/20 8:14:51 [ 削除 ] [ 通報 ]

凛太郎さん、おはようございます。
大作ありがとうございました。
西宮を回る時、楽しみが増えました。
墓地もゆっくりまわってみようと思います。

[ もしもし ] 2014/11/20 10:07:44 [ 削除 ] [ 通報 ]

>seitaroさん
とんでもございません。こちらこそありがとうございました。僕は読書量が圧倒的に少なくて「負けんとき」も未読でしたので。
seitaroさんのブログでいつも勉強させていただいています。

[ 凛太郎 ] 2014/11/21 5:04:31 [ 削除 ] [ 通報 ]

>もしもしさん
ありがとうございます。一応これで、現時点で僕が見て歩いたものは書き終えました。
今「まとめ」を作っています。書きあぐねていますが(笑)、何とか週末に書き上げられればと。

[ 凛太郎 ] 2014/11/21 5:18:19 [ 削除 ] [ 通報 ]

神戸女学院、とても美しい学校ですよね。
岡田神社の他にも古墳があると聞いたことがあるのですが、詳しくは存じません。何か報告書のようなものでもあればよいのですが、発掘されていませんものねぇ…。

[ sho-sho ] 2015/05/03 10:13:19 [ 削除 ] [ 通報 ]

>sho-shoさん
ありがとうございます。
岡田山古墳につきましては、記憶で書いて申し訳ありませんが、戦前に著された紅野芳雄氏の「考古小録」に言及があったかもしれません。ただし考古学調査ではなく個人的な遺物の採集にとどまり、そのあと学校建設に伴い破壊されたかと。今となっては、どのようなものだったかは…。残念ですね。

[ 凛太郎 ] 2015/05/03 19:49:48 [ 削除 ] [ 通報 ]

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西宮の旧村落79 補遺(1)

 ここまで、西宮市域の旧村落35村、枝郷を入れれば53(田近や平左衛門新田含む)の村々の痕跡を訪ねてきました。
 そうなれば、いろいろ抜けも生じてくるんです(汗)。ただ寺と神社と墓地を探して歩いただけなんですけど、訪ねて調べて考えて書いてを繰り返す自転車操業でございますから、やっぱり後から気が付いたこと、思わぬ資料が出てきたこと、うっかりしてしまったこと、書いときゃ良かったなと思うこと、いろいろありまして。
 そんなことを少し追記させていただきたいと思います。

 まずは、生瀬村です。記事はこちら(→西宮の旧村落3)
 書いた順は、地域もありますが基本的には難しいのは後回しで、分かりやすい村から書いています。その点3番目に書いた生瀬村は、完全だったはずでした。山間の隔絶した村であり村内で全て完結していて、他所との関わりはあまり考えなくてもいい。檀那寺は浄橋寺、氏神さんは生瀬皇太神社で決まり。そして村落墓地は廃絶していたものの見事に痕跡が残っていました。この墓地跡を見たときは、言葉はおかしいですが感激してしまい、その後に弾みがついたような気がしていました。
 で、そのときは「氏神」という括りで考えていましたので、もうひとつの神社には触れなかったのです。しかし生瀬には、明治の神社明細帳にも載った「無格社 愛宕神社」がありました。
 元禄以来の神社でしたが、これが今は残っていません。
 これについては不思議なことがありまして。当然明治末の神社合祀令に引っかかって廃絶したと思っていましたら、調べると何と昭和2年まで残っていたのです。合祀令から21年経って、皇太神社に合併。
 この理由がわかりません。そんなこともあって、書きませんでした(汗)。
 場所は、浄橋寺の裏の愛宕山にあったと思われます。
 愛宕山には10年程前に登ったきりです(前に来たときの写真はフィルムでした^^;)。で、久しぶりに行こうかと思いましたら土砂崩れで遊歩道が通行止め。残念。
 画像は、もしもしさんのブログでどうぞ。(→聖地巡礼その293)
 山頂にはお稲荷さんが現在も祀られていて、おそらく愛宕社の末社だったと思われますので、廃れて合祀ではないと思われます。
 
 というわけで、山口や鳴尾などで盛んに明治末の神社合祀令と無格社廃社の話をしましたので、ちょっと生瀬の愛宕社にもふれさせていただきましたが、えーと生瀬の話は実は愛宕神社が本題ではありません。(^▽^;)
 花折神社のことです。

 生瀬には江戸時代に「花折神社」と呼ばれたお宮がありました。「生瀬の歴史」から引用。
花折神社
 字花折ヶ峯の山腹一名宮山と称する地に素盞嗚神社(牛頭天王)をお祭りした祠がある。元華居神社と称したが、光格天王の御宇享和年間に、字荒内の村社に遷座し摂社とした、その遺跡は現在判らない。
 明治の神社明細帳には、生瀬皇太神社に「境内神社一社 素盞嗚社」となっています。これがつまり花折神社の後身であると思われます。
 江戸時代には皇太神社の摂社ということですから特に採りあげることも…と思っていたのですが、連載後半徐々に必要にかられて「摂津志」「摂陽群談」「摂津名所図会」などの地誌を参照していましたら、生瀬で首をひねる記述を見つけました。
 摂津名所図会です。生瀬に該当する部分を抜きます。
生瀬驛 丹・播及び有馬湯山街道なり。旅舎多し。
生瀬古城 生瀬村にあり。所傳に云ふ、三木番次郎築いて在城すとぞ。天正中に喪ぶ。
牛頭天王 同村にあり。此所の生土~とす。
 三~祠 同村にあり。祭~伊勢・岩C水・春日の三~なり
淨橋寺 同村にあり。十方山と號す。淨土宗。
 これは…皇太神社ではなく、花折神社こと牛頭天王社が産土神であると書いています。(゚〇゚;)マ、マジ!?

 花折神社は、現在の生瀬の町の北、武庫川と中国道の向こう側の「宮山」と呼ばれる山の中腹にありました。

 


 愛宕山中腹から、花折神社旧跡を眺めます。現在は切り開かれて花の峯団地となっています。

 


 逆に花の峯から生瀬の町を見ます。町の向うの山が愛宕山で、中腹青シートが土砂崩れ現場です(汗)。左手の森は皇太神社です。花の峯には痕跡はさすがにありません。
 
 生瀬には鎌倉時代に建立された浄橋寺があり、古文書もあるので事情が明確なのだろうと思っていましたら、神社関係は案外少ないようです。
 「生瀬の歴史」「生瀬の現代史」から総合しますと、口碑ですが生瀬村の始まりは源平合戦の後、平家の落人が潜伏した部落が発祥とされ、その場所は花折ヶ峯であると。牛頭天王の祠がいつから存在したかはわかりませんが伝承では古いもののようです。
 三~祠(皇太神社)も花折に鎮座していて、鎌倉時代に浄橋寺建立にあたって遷座されたと。江戸期末の記録では、三~祠(皇太神社)は浄橋寺を建てるに当たり鎮守として安置したとされています。現在も浄橋寺と皇太神社はほぼ一体化しています。さすれば、皇太神社は元々はお寺の鎮守社ということに。花折に残った牛頭天王社が産土神とされるのも、なるほどとは思わせられます。
 しかしながら皇太神社は元禄5年の記録が残り、そこには「氏神」の文言がある ようで、これで解決、とも思うのですが。ただ他資料に、天保以前から嘉永にかけて(幕末ですね)、民家の増殖するに従い、燈明講組合が神社運営に当り、「一般氏神として崇敬浅からざりし」と。なので浄橋寺では神官を置かず村役人に祭祀を任せたとしています。寺鎮守から氏神となったのは幕末からではないかと思わせる記述です。
 「摂陽群談」には、「生瀬牛頭天主神」「三神社」の順に書かれていて、産土神とは記されていないものの、牛頭天王社が生瀬の主たる神社の如く思わされます。
  摂陽群談は元禄、摂津名所図会は寛政ですから、享和年間(1801〜)よりは前で、牛頭天王社が山を降りる以前の記述ですから独立社として書いていても矛盾はないのですが…唸るのは天保7年(1836)の「摂津国名所旧跡細見大絵図」です。当該部分の生瀬あたりを拡大してください。(→こちら)
 そこには、猿首岩、三木番次郎古城、十方山浄橋寺とともに、牛頭天王が名所として挙げられています。この時は、もう皇太神社摂社となっているはずです。そして場所は、川の南側です。
 どう考えれば良いのでしょうか。
 もう「どれを信用するか」という段階になっています。そうなると、地元の史料かもしれません。しかしそれでも、花折神社(牛頭天王社)のことは無視することはやはり出来ないのです。
 村の氏神として祀られていたのは牛頭天王社かもしれない。そして明治の神仏分離で、牛頭天王は邪教扱いされ、伊勢(アマテラス)を祀っていた同場所の三神祠の方を「皇太神社」と改め氏神としたのでは。妄想はいくらでも膨らみます。

 


 皇太神社です。祭神は天照皇大神・八幡大明神・春日大明神。つまり江戸時代の三~祠「伊勢・岩清水・春日」ということです。さらに昭和2年に愛宕神を合祀しているはずです。
 そして摂社に、かつての花折神社だった素盞嗚社があるはずですが…。

 


 あれ? 無い…。
 奥が愛宕社、八幡・春日相殿です。いずれも本殿合祀だったはずですが、摂社として独立しています。では今は本殿はアマテラスひと柱でしょうか。いやそうとも言えないような?
 難しい。神社詳細はもしもしさんの記事をご覧下さい(→聖地巡礼その292)。
 そして手前が、高麗堂なのですよ(汗)。高麗堂すなわち「コマ」で、狛犬を祀っています。いったいスサノオはどちらに行かれたのか。
 石造物もいろいろ見たのですが、僕の視界にはヒントが入ってきませんでした。
 もうこのシリーズは終りなのですが、また大きな宿題を抱えてしまった気がします。

 生瀬についてはもうここまでにします。わからん。
 さて、神社寺院と信仰については、江戸時代の様相を探ろうと思えば、どうしても明治の国家神道化政策とぶちあたってしまい、言及せざるを得ませんでした。これには思想が絡んだりしますから最初は穏便に済まそうと思っていたのですが、やはりそうもいきませんで。
 明治初期に廃絶とされた宮、祠、小堂、社、神宮寺などは、完全掌握などとても出来ませんでした。記録が無い。僕が知ることの出来た範囲でここまで書きました。
 明治末の神社合祀令については、ある程度わかりました。廃絶させられた神社について、まとめの意味で書き出します。
愛宕神社(名来) 御旅所神社・愛宕神社(下山口) 厳島神社(中野) 愛宕神社(生瀬) 須川神社(広田) 大将軍神社・地神社・中殿神社(中村) 磐戸開神社(下大市) 神明神社(西宮本町) 金刀比羅神社(浜今津) 八幡神社(松村) 素盞烏神社(八松) 砂浜神社(砂浜新田) 稲荷神社(平左衛門新田) 素盞烏神社・琴刀比羅神社(鳴尾本郷)
 廃社合祀ではありませんが、遷座した鰯津神社も入れてもいいかもしれません。ともかくも掌握できただけで、以上です。
 
 えーと、以上の神社で書き漏らしがあります(汗)。下大市村の磐戸開神社です。
 下大市には、九頭社という神社があったことがあちこちに載っています。「町名の話」などによれば、大市の旧家である松本家は武田氏の配下で信州松本出身であり、武田勝頼が信長に滅ぼされたときに流浪し、荒木村重に仕えたもののまた信長に敗れ、武士を辞めて大市で帰農、その折に故郷戸隠神社の祭神の九頭龍神を祀ったということです。
 この九頭社は、大正時代に撤去されたと書いてありますが、無格社磐戸開神社の大市八幡神社への合祀は明細帳によれば明治40年となっています。なので、これは別の神社であろうと思い、よくわからなかったので西宮の旧村落9下大市村のときは措いてしまったのです(汗)。
 松岡孝彰氏の「下大市今昔物語」をよく読めば、磐戸開神社=九頭社とちゃんと書いてありました。合祀時期はおそらく明治で、祠が撤去されたのが大正に入ってから、ということか、或いは伝承に食い違いがあったのかもしれません。
 神社は、下大市から八幡さんへ向かう道筋にあったようです。今津っ子さんのHP「阪神間の街道を歩く」から天保14年(1843)の下大市村絵図を参照して下さい(→こちら)。
 「九頭神」を確認していただけると思います。

 交差点の陸橋から。この道が旧道で、先に大市八幡が見えます。この道のおそらく北側(左手)のどこかに祀られていました。痕跡はありません。

 


 神社明細帳によれば大市八幡の祭神は誉田別尊(応神天皇・八幡神)、大日霊女尊(アマテラス)、天児屋根尊(春日明神)、豊間戸尊です。このトヨマドノミコトが、かつての祭神である戸隠権現九頭明神の神仏分離後のお名前でしょう。難しいですなぁ。

 補遺編続きます。


村落墓地
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凛太郎さん、おはようございます。
そうですか、生瀬の神社にはそんな逸話が・・・。
神社やお寺は、そう簡単に場所を移動しないし、なくなったりしないと思っていたので、ちょっと不思議な感じです。
あらためて、このシリーズ読み直して西宮巡りをしたいと思います。

[ もしもし ] 2014/11/16 9:14:20 [ 削除 ] [ 通報 ]

>もしもしさん
ありがとうございます。リンクではお世話になりました。
生瀬はこんなに難しいとは思いませんでした。奥が深すぎる。結局白旗です。しかも摂津名所図会を読まなければ気が付かないという…。生瀬に限らず、まだまだ気付いてないいろんなことがあるような気がします。

[ 凛太郎 ] 2014/11/16 19:22:49 [ 削除 ] [ 通報 ]

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