凛太郎の自転車操業

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西宮の旧村落78 浜鳴尾村(2)

 鳴尾村の中心集落は、現在もその雰囲気を色濃く残しています。

 


 このような自動車も通れないような道は、だいたい開発で失われてしまうものです。さらに鳴尾には軍用工場があって空襲に巻き込まれたのに、このあたりは奇跡的に残りました。そして震災の後もなお、この現状を留めています。
 市域に、このような風景が他に無いわけではありません。しかし鳴尾は範囲が大きい。

 


 この入り組んだ路地の集合体を「ミステリーゾーン」と最初に言われたのはZ探偵団さんでしたが、うまく表現されたものだと本当に思います。

 


 質屋の大半さんは、母屋から分れてこの場所に質店を開かれたのが明治20年と大道歳男氏の「なるを」に記されていますが、江戸時代以来だと言われても素直に頷きますよ。

 


 この踏臼支点石説と天秤棒置石説の両説ある石は、いったいいくつあるのでしょうか。どちらにせよ古い史跡です。

 


 ミステリーゾーンの象徴のような石ですね。

 


 この角の標石については、以前記事にしました(→こちら)。 鳴尾は暴れる武庫川の土砂堆積で生まれた土地だと言っても過言ではなく、当然砂地で、田んぼには適していません。そのため商品作物の栽培が盛んになり、江戸後期からは綿が多く作られました。その綿を運ぶために車道となり、道幅を明記する必要があったものと推測されます。
 鳴尾では他に菜種、西瓜も盛んでした。
 「鳴尾に過ぎしは寺、西瓜」という言葉が残っていますが、確かに鳴尾には寺が多い。江戸時代以来のお寺さんは7ヶ寺におよび、うち上鳴尾に3寺(浄願寺・常福寺・観音寺)、そして本郷に4寺です。このうち西方寺は小曽根村で、善教寺は前回紹介しました。
 
 こちらは、乗誓寺さんです。

 


 元亀元年(1570)の創立。浄土真宗本願寺派です。

 


 敷地は狭いながらも、寺院内墓地が確認されます。
 もう1ヶ寺は、西光寺さん。真宗本願寺派ですが、江戸時代は興正寺派でした。

 


 中には入れませんが、幼稚園を経営されておられるので、おそらくお墓は無いでしょう。
 西光寺さんは、鳴尾の他寺院が全て江戸時代以前の創建であることに対し、こちらだけは江戸時代も中期の享保13年(1728)に建っています。そのいきさつについては下瓦林村(3)で書きました。
 瓦木村誌では最初は「寶林寺」という寺院名だったとしています。鳴尾村誌では西光寺はもともとあった寺で中絶しており、「再興」であるとしています。確かに江戸時代は寺院の新規建立は制限されており、再興のほうが認められやすかったと思いますが、詳細はよくわかりません。
 
 村の鎮守社はどこだったのでしょうか。もちろん集落の北には総鎮守たる鳴尾八幡が氏神として存在しています。しかし前回書きましたが、集落内には少なくとも2社の神社が明治末までありました。琴刀比羅神社は海運の神だったとして、素盞嗚神社は江戸期の本郷集落の守り神だった可能性もあります。その当時はおそらく牛頭天王社です。
 疫病封じとしての牛頭天王社は、多くの村落で祀られています。西宮市域ではそう目立たないのですが(森具と中村と生瀬くらいしか思い当たらない)、鳴尾では中津、八松、また小松でも摂社扱いでしたがかなり盛大に祀られていました。尼崎ではスサノオ神社だらけです。現存しているだけで20社くらいあるのではないですか。みな氏神として祀られています。ことに武庫郡(旧武庫村・大庄村)には多い。これらスサノオ神社は皆、江戸期は牛頭天王社だったと考えられます。
 尼崎の鳴尾寄りにこれだけ牛頭天王社があったのなら、あるいは鳴尾本郷でも…とも思いますが、よくわかりません。今は旧家はだいたい鳴尾八幡神社の氏子さんではないでしょうか。

 最後に、上鳴尾墓地に行って終わろうと思います。

 


 何度も紹介していますが、こちらが鳴尾本郷の人々の旅立ちを見送ってこられた六地蔵さんです。
 上鳴尾墓地はこれまで記事を多く書いています(石造物C石造物D石造物E葬式と墓石など)。
 なので以前書いたことは繰り返しませんが、これらを書いて後、僕は一年かけて西宮市域の全村落墓地を回りました。そして、比べて気が付いたことがあります。

 まず、立地なんですが。
 この場所は、集落に近すぎるのです。ほぼ3つの村に隣接していると言っていい。上鳴尾全体として考えれば、集落の中心は鳴尾八幡神社でもなくお寺でもなく、この上鳴尾墓地です。こんな村落墓地は他にありません。
 どこでも、墓地は基本的には村の外れです。上新田墓地は集落の近くですが、あれは両墓制の「詣り墓」で、埋葬地は貝之介墓地だったのではないかと僕は思っています。
 しかし上鳴尾墓地は、まず埋葬墓だったでしょう。
 似た形として、下山口の墓地が浮かびます。あちらは江戸期は上墓・下墓と分かれていて、昭和初期に下墓に統合されています。2ヶ所の墓地は隣接し、集落に近しい場所だったと言っていいかもしれません。
 下山口は統合しましたが、鳴尾はどうだったのか。

 墓地の真ん中に道があります。

 


 これ、旧道なんですね。古い地図を見ますと、墓地内の道というより往来ではないかと思うのです。北へはそのまままっすぐ常福寺さんへ続いています。南の道は途絶えていますが、こちらも続いていました。
 つまり、道の両側に2つの墓地があったと考えることも出来ます。

 


 上鳴尾墓地は、満池谷墓地等と同様に、西宮市営墓地になっていることを前に書きました。そのように標識が建っています。
 しかしそれはどうやら東側敷地だけで、西側敷地は市営ではなく鳴尾区有財産管理です。

 


 現在においても2つに分かれています。

 


 以前、ひっくり返っている蓮台を紹介しましたが、これは東側です。
 ですが実は西側敷地にも蓮台があるのです。

 


 蓮台はどこでもひとつでした。複数村落の墓所となっていた貝之介や松並墓地でもひとつです。例外は上田墓地くらいです(笠屋墓地の合併で移転)。上鳴尾墓地では、移転合併等は無かったと思うのですが。
 ただ昭和12年の「鳴尾土地宝典」を見ますと、はっきりとはわかりませんが墓地は今の形よりもうすこしバラけていたようにも見えます。常福寺と観音寺さんの間にもまだ広がっていたようにも見えます。もしかしたら、小曽根墓域、松村墓域などとある程度分かれていたかもしれません。
 おそらく、上鳴尾墓地は戦後(西宮市と合併後か)、整備されたのでしょう。塀で囲われ、まとめられて少し狭まったか。
 憶測ですが墓地は、上鳴尾3村(小曽根を加えて4村)いずれの村から見ても村端にあった立地だったのかもしれません。それが、松村が花園町あたりから中国街道の南へ移るなど3村が寄り添うようになって、結果的に村が墓地周辺に集まる形になってしまったと。またその後の発展で人口も増え墓地も拡大し、このような形態になってしまったのではないか、とぼんやりと考えます。

 現在においては、墓石には住所が書かれていませんのではっきりしたことはわかりませんが、刻字があるものからの類推で、おおむね西側は小曽根・松村・八松の墓石。東側が北鳴尾・浜鳴尾(本郷)の墓石と分かれているように見受けられます。

 


 仏堂はひとつ。しかし、ほとけさまがふたりおられます。最初にこちらに訪れたときは「そういうものか」とも思っていましたが、以降全村落墓地を回って、迎え仏が2体並んでいる墓地はありませんでした。

 


 向かって左、東側のほとけさまの台座には「M成尾村」と刻まれています。

 


 対して右、西側のほとけさまの台座には「小曽根村」と。即ち、西側墓地の迎え仏だったのでしょう。つまりこちら2体のほとけさまは、まとめられたと考えていいのではないでしょうか。

 ともかくも、上鳴尾墓地はなんだかふたつの墓地のような感じがします。だからどうだと言われると困るのですが(汗)。
 ただ、北鳴尾村の墓石は東側にあり、つまり東側は「鳴尾」の墓地だと言えます。
 鳴尾は徐々に海岸線が南下して出来た村です。まず曾禰郷が平安時代に存在することからも小曽根は古く、小松もいくぶん伝説的ながら等覚寺が8世紀創建、村も10世紀には出来上がっていたという説もあります。
 鳴尾では市史4巻に載る大徳寺文書を見ていますと、「八松」「松村」の文言がちらほら見えます。鎌倉時代です。その頃からこの2村は、場所が移動した可能性はありますが、存在していました。
 これら小村群は「鳴尾庄」という荘園の構成要素となり、のちに荘園制度が解体していく過程において寄り添っていったと。つまり小曽根、松村、八松は鳴尾村から分村した枝郷ではないということです。
 明和病院南で貝塚が発見され、平安〜鎌倉頃ではないかと堀内泠氏が推定されています。こちらは北鳴尾集落でしょう。
 その頃から鳴尾八幡神社があったか、と考えれば難しいわけですが、そのあたりの土地、集落が「なるを」と呼ばれ始めたのではないかと想像します。平安期に歌枕として鳴尾が登場してきますが、それはおそらく北鳴尾を指していると考えていいように思います。
 そして浜に陸地が増え集落が出来て、「なるを」の人々が移住した。その頃からもともとの鳴尾村は「北鳴尾」となり「上鳴尾」となった。そして浜辺の集落は「浜鳴尾」となった。そのうちに浜集落が大きくなり本村となり、もとの鳴尾は「小鳴尾」とも呼ばれた。そんなストーリーではないかとも思えます。

 


 ここには、ずいぶん通いました。僕にとっては最寄だったので、市内あちこちの墓地へ行ってわからないことが出てくると上鳴尾へ行き、比較して何とか理解する、といったことも。
 墓参の人ともいろいろ話をしました。
 「昔はこの真ん中の道沿いに鬱蒼と木が茂っててな」「墓守さんもおられた」「震災後から景色が変わったな」「前はもっと怖かったで」等々。僕はただのブロガーですから取材は出来ませんが、そうやって聞いたことはなんとなく墓地を考える上でのベースになっています。
 そんな感じで、鳴尾村の長い旅を終えます。

 これで一応西宮市域の江戸時代の村落は、全て歩きました。次回は、補遺編です。


村落墓地

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西宮の旧村落77 浜鳴尾村(1)

 浜鳴尾村とは、つまり鳴尾村の本村である鳴尾本郷地区の旧称です。
 枝郷の多かった鳴尾村に「本郷」という呼称は相応しいのですが、江戸時代初期、慶長18年(1613)の鳴尾村検地帳ではただ「浜」とされています。
 その人数は松村21、八松45、北鳴尾22人に対し浜は147人でしたから、既に鳴尾村の中心は上鳴尾から浜鳴尾に移っていると考えられますが、今津村の上今津と浜今津の関係と同様、海に近い集落が後から形成され、浜側の集落と呼称されていた名残が継続していたものと思われます。
 上鳴尾墓地で墓石を探します。

 


 安永銘で「M鳴尾村」の文言が刻まれています。他にも浜鳴尾村銘の墓石は散見され、おそらく18世紀くらいまでは、少なくとも浜鳴尾の呼称は生きていたと考えられます。なのでここでは「浜鳴尾村」とします。もちろん、この浜鳴尾村が江戸時代を通じて鳴尾本村です。

 本村なので支配形態をまとめますが、これが難しい。読み飛ばして下さい。
 秀吉時代、鳴尾の領主は佐々政治でした。徳川時代には佐々家は旗本となって、そのまま鳴尾は佐々氏領として続きます。しかし佐々家は、五代成澄が元禄11年(1698)に江戸で刃傷沙汰を起こして、取り潰しとなります。そのあたりのことはこちらで(→ちょ歴西宮)。
 佐々家断絶以後、鳴尾は幕府直轄領となります。その頃から鳴尾の新田開発が進んでいます。正徳元年(1711)に上田新田が開発され、これも幕府領となります。
 ところが延享4年(1747)に、鳴尾村が分割され、上田新田と共に丹波国篠山藩領となります。
 武庫郡誌によりますと、鳴尾村のうち篠山藩領となったのは63%。松村、八松村、中津村の一部、北鳴尾村の一部が幕府領、それ以外は篠山藩領となりました(浜鳴尾村の状況はよくわからないが分割はなされたと考えられる)。
 このため、村の役職が多くなります。庄屋さんは二人体制となり、中津村や北鳴尾村は分割されたため2の年寄、また行司という役職も置かれました。
 上田新田はその後明治まで篠山藩領でしたが、鳴尾村の篠山藩領は明和6年(1769)にまた幕府領に復します。西宮や今津も尼崎藩領から幕府領になった年ですね。
 鳴尾ではその後、元篠山藩領を新料、継続幕府領を古料と呼び分け、庄屋2人、年寄4人体制は変わらずに明治維新を迎えます。
 ややこしかったのですが、江戸時代後半は天領として安定し、新田開発もどんどん進んだわけです。

 では、鳴尾村を歩いてみます。少し趣を変えて南から。
 笠屋交差点の西、消防署の北側あたり、臨港線から西へ斜めに入る道があります。

 


 この道が、鳴尾本郷集落の南限になります。ここから南は田畑でした。
 右手に残念ながら力尽きて廃された地蔵堂が見えますね。これはもしもしさんがレポをされています(→聖地巡礼その86)。
 この道を西へ進むと、善教寺さんへ行き着くわけです。

 


 善教寺は浄土真宗本願寺派で、文禄元年(1592)創建です。桃山時代末期ですね。

 


 善教寺さんの寺院内墓地です。僕の思い違いかもしれませんが、改修されたかな? イメージが変わったような感じが。

 ところで善教寺さんの在る場所は現在鳴尾町四丁目ですが、昔の住所は「本郷西浜」でした。つまり、かつてはこのあたりから南は、海であったという想像が出来ます。
 善教寺さんは見てのとおり、南側からは階段やスロープがあり、立地が高くなっています。これは水害の砂溜りであるとの説もありますが、そもそも本郷集落は地盤が一段上がっているように思われます。

 


 先ほどの南端の道から本郷の「鳴尾ミステリーゾーン」に入ってゆく道は、このように自転車ですとペダルを踏み込むほどの傾斜があります。
 さらに、鳴尾町一丁目の東側が「字東浜」であり、鳴尾小あたりが「内葭島」、ららぽーとあたりが「外葭島」と呼ばれていたことなどから、鳴尾本郷は海に突き出ていた洲、半島だったのではないかとの推測も可能ではないかと思います。かつて、本郷の周りは海だったと。

 


 善教寺さんのすぐ近く、史跡朝右衛門法華塔が見えますが(後述)、そのあたりの海抜はやはり0m未満です。
 鳴尾は武庫川が土砂を運び、またたび重なる水害などでも堆積が進行し、徐々に海岸線が南下しました。東浜などと呼ばれた地域も早い時期に陸地化し開拓されていたのではないかと思われます。江戸時代初期には既に浜鳴尾村の人口が最も多かったことからもそれは類推できます。
 それでも臨港線より南はまだまだ海か浜かはわからないような状態だったと推察されますが、そこが一気に陸地化したのが万治2年(1659)の大水害(戸崎切れ)だったのでしょう。全村流出という大被害が出た鳴尾は、しばらく立ち直れなかったとされます。そりゃそうでしょう。しかし押し出された土砂は、鳴尾村の面積を倍にしたとも言われます。
 今津っ子さんのHP「阪神間の街道を歩く」所収の鳴尾村絵図aは 18世妃後半のものと考えられていますが、もう既に陸地が海に向かってかなり増え、現在の地形に近くなってきています。そして中心集落は「本郷 鳴尾村」となっています。もうこの時期は浜辺の集落ではありませんからね。浜鳴尾→本郷と呼ばれ方が変ってきたのは、そういうことではないかと。
 その絵図で見ていただきたいのは、鳴尾川(つまり鳴尾港)から水路がぐっと本郷に向かって掘られていることです。絵図には「悪水落」と書かれてます。悪水とは汚水もあったかもしれませんが、おそらくは余剰の水ということでしょう。溝を掘って土の水分を染み出させて居住区や田畑を乾かすという役割もこういう土地には必要であり、また張り巡らされた用水路は余れば最後にはこちらへ流れ込むという仕組みだと考えられます。樋ノ戸と呼ばれる樋門があったようです。
 ただし海抜0m以下ですから、この水路は港と同じことです。もう浜辺の村ではなくなった鳴尾本郷の、おそらく船溜りもあったんじゃないかと。
 この水路は現在はありませんが、明治時代にはまだ存在していました。明治44年地図を見ますと善教寺さんの前まで水路が延びているのがお分かりいただけると思います。

 


 東高校を背にして臨港線から北を見ます。この道の突き当たりが善教寺さんですので、ほぼこの道に沿って水路があったわけですね。
 そして、44年地図を詳細に見ますと、その水路の北端に鳥居マークがあります(粗くてわかんないかな)。神社があったのです。
 この神社が、北鳴尾村のときに書きました「字本郷西浜無格社素盞烏神社」か「字外葭島無格社琴刀比羅神社」ではないかと思うわけです。
 字本郷西浜というのは善教寺さんの住所です。なので素盞烏神社だろうとまずは判断しますが、字外葭島というのは大体「ららぽーと」東側あたりの字名で、近い。ここは判断が難しいところです。
  神社合祀令によって素盞烏神社が明治40年に鳴尾八幡に合祀、琴刀比羅神社が明治45年合祀ですから、この明治44年地図ですとこんぴらさんであるように も思えます。しかし同地図に同じ明治40年合祀の松村の八幡神社が載ってますので、測量の時期によっては素盞烏神社だった可能性もあります。どっちかな。
 水路の最奥ですので、航行安全の神であるこんぴらさんであるような気もしますが。よくわかりません。ともかく、このあたりに無格社が2社、明治末まで存在していたのです。

 その2社の名残なんですけれども、善教寺さんにほぼ隣接して、鳥居を持つお堂があります。

 


 妙見宮です。
 鳥居が一応ありますが、隙間から堂内を拝見致しますと完全に仏式でした。もしもしさんがレポされていますが(→聖地巡礼その62)、「以前お参りした時は中から読経の声が聞こえました」とのお話があります。明治以前の信仰形態が残っている感じがします。神仏分離に毒されてしまっている(?)僕などはカテゴライズできないのでつい不思議な存在に思ってしまうのですが。
 住所的には、善教寺さんの隣ですので「字本郷西浜」でしょう。さすればこの妙見さんが、無格社素盞烏神社(江戸期はおそらく牛頭天王社)の境内末社が残ったような形なのかと考えたいところです。
 しかし証明するものはありません。境内石造物は懸命に見たのですが、昭和以前の紀年銘は発見できず。残念です。
 
 では、琴刀比羅神社はどこだったのでしょうか。
 住所表記はすっかり整理されていますのではっきりとわかりませんが、字外葭島というのは、ここらあたりではなかったかと推察。

 


 ららぽーとのヨーカドーから、武庫女の付属保育園(昔のコープ)あたりにかけて。前述した水路最奥まではギリギリ入るかな。入れば、本郷西浜の牛頭天王社と外葭島のこんぴらさんは、ごく近くの立地だったと思うのですが。
 保育園北に、史跡があります。前述した朝右衛門の法華塔です。

 


 万治の戸崎切れからしばらく経ち、海か浅瀬に砂州がある程度の場所だったかもしれない内葭島・外葭島あたりもはっきり陸地となって、ここを尼崎の商人日比田左衛門が開拓します。延宝年間(1673〜)だとされています。
 田左衛門の息子である日比朝右衛門が父の功績を記念して法華塔を建てました。
 ここは小公園になっています。大道歳男氏の「なるを」によりますと、法華塔の場所は鳴尾区有財産であり、住所は外葭島、現在は市有地とされています。そういう場所は神社っぽい。この法華塔がこんぴらさん境内に建立されたものだとすれば、ここが無格社琴刀比羅神社の旧跡となるのですが、そんな記録は無く妄想です。
 まあ法華塔ですからねぇ…明治以来の神仏分離に脳が犯された僕などは、神社に仏教の法華塔など建つまいとつい思ってしまうのですが。
 ですがその法華塔の側面にも何やら刻まれています。

 


 右から「若宮八幡宮」「天照皇大神」「大辨才尊天」。ああ謎がどんどん深まってゆく!(笑)。どう判断すればいいんでしょうか。

 結局よくわかりませんけれども、江戸時代にはこのあたりに神社が少なくとも2社あって、それが明治に廃止させられた鳴尾村の無格社6社のうちの2社であったということです。

 次回に続きます。 


村落墓地
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>改修されたかな? イメージが変わったような感じが。
はい。
善教寺さんは、私が鳴尾に引っ越して少しした頃、
多分3、4年前に、大がかりな改修工事をされてます。

写真もアップされてますが、あの辺は妙な起伏があり『?』って思ってました。
また一つ、鳴尾ミステリゾーンの謎が解けました(笑)
ありがとうございます。

[ Lady J ] 2014/11/09 19:10:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

>Lady Jさん
ありがとうございます。やっぱりそうですか。なんだか変わったなーという印象はあったのですが、こういうごく最近のことが一番調べにくくてはっきりとは書けず(汗)。
本郷西浜の起伏は、万治戸崎切れの砂溜り説もあるんですが、古図や字名、状況から見ますとそれ以前のものである感じがします。
しかし鳴尾は深いですねー。次回で鳴尾村は終わりますが西宮町と同じくらい書くことがあります。そうして江戸期からの鳴尾を見ていますと、Jダーツ倶楽部の立地は村の一等地だなとホント思います。

[ 凛太郎 ] 2014/11/10 6:23:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

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西宮の旧村落76 平左衛門新田

 結局、鳴尾の枝郷がいくつあったのかは、よくわかりません。m(_ _;)m
 鳴尾村の枝郷の数は、兵庫県神社誌によると7村、摂津名所図会に よりますと8村。ここまで松村・八松村・北鳴尾村・笠屋新田・東鳴尾村(三軒屋)・西鳴尾村(中津)の6村について書きました。しかし足りませんのでプラスして砂浜新田を候補として挙げましたが、それが正解かどうなのかは難しく。「八坪」や「四軒茶屋」もカウントしているかもしれません。わからんなあ〜。

 ちょっと考え方を変えます。
 村落では、その拠り所として氏神さまが祀られます。ということは、氏神が鎮座するところには村があるのではないか、と。
 各村落の氏神(鎮守社)は明治になって、地域により濃淡はありますが格付をされ郷社、村社となってゆきました。
 ただ、その格付に入りきらず、整理も出来なかった神社は「無格社」となりました。この地域においては、津門大箇村の日吉神社など、枝郷のお宮さんで明細帳に記載された神社はだいたい無格社です。
 鳴尾村では、無格社は他村に比べかなり多かったと思われます。神社明細帳で確認できる明治時代の無格社は、8社です。
 ・素盞烏神社(中津)
 ・皇太神社(東鳴尾)
 ・八幡神社(松村)
 ・素盞烏神社(八松)
 ・素盞烏神社(本郷西浜)
 ・琴刀比羅神社(本郷外葭島)
 ・砂浜神社(砂浜新田)
 ・稲荷神社
 最初の2社は、今も甲子園素盞嗚神社と東鳴尾皇太神社として残っています。他は鳴尾八幡神社に合祀されました。その最後の「無格社 稲荷神社」だけが明細帳に所在が記されていません。
 兵庫県神社誌にその解答らしきものがありました。鳴尾八幡の境内末社稲荷神社に「大正二年平左衛門新田の稻荷~社を合祀」と。
 おそらく、ですが明細帳の無格社稲荷神社は、平左衛門新田にあったものと思われます。
 そこから類推して、無格社稲荷神社は、平左衛門新田の鎮守社だったとも考えられます。ということは、平左衛門新田には集落が存在したのでしょうか。

 平左衛門新田が鳴尾村の枝郷だったかどうかを考える前に、平左衛門新田とは何か、から書かないといけないのですが、平左衛門新田はこのシリーズで一度登場しています。田近村の記事です。昭和44年に田近野と交換して尼崎市域となりました。それまでは武庫川の東岸に、西宮市平左衛門町があったわけです。江戸時代は、鳴尾村の領域でした。
 四の五の言わずにまずは行ってみます。

 


 臨港線を東へ。武庫川を渡る南武橋西詰から対岸を見ます。あちらに、かつて西宮市だった平左衛門町があります。
 現在は武庫川も護岸工事がしっかりしていて、川筋がそのまま海へと流れ込んでいますが、かつて武庫川の河口はもっと広がっていて、川の中に中洲がありました。これが「丸島」です。天保国絵図には、武庫川河口に島がひとつ描かれています。参照してください。
 この丸島、河口の中洲ですから田んぼなどは作れず、鳴尾村と川向こうの尼崎藩領西新田村との入会の草刈場でした。
 草を刈って肥料にしていたわけですが、鳴尾は綿などの栽培が盛んになって干鰯や油粕を肥料に使うようになり、草刈場だった丸島を耕地にしようとします。
 これは宝暦9年(1759)から計画があったのですが、これがなかなか進みません。川の上流の村が「そんなの川を堰き止めるようなもんだから水害が起こるぞ」などの理由で反対したからです。また漁場問題もありまして、丸島が鳴尾村になると漁場の境界線が東寄りになる、ということもあったようです。で、紆余曲折あって開発許可が出たのは天保8年(1837)、2年後に完成しました。丸島は東西に分割され、東3割が尼崎西新田村領、西7割が鳴尾領ということに。この西7割がそのまま明治以降も鳴尾村の領域で、鳴尾村平左衛門町ということに。
 その後すっかり工場地になり、埋め立ても進み丸島は尼崎側にくっついて陸続きとなり、島ではなくなりまして、鳴尾村平左衛門町は川向こうの立地となってしまいました。鳴尾村は戦後合併してここは西宮市平左衛門町となりましたが、武庫川の向うの飛び地であることに変わりはなく。
 で、昭和44年に尼崎市田近野町と交換したわけです。西宮市平左衛門町時代をご存知の方もおられると思います。
 では川を渡って尼崎側へ。

 


 南武橋渡ってすぐですが…あらら、海抜が−0.3mですよ(汗)。昔はここは、陸地ではなかったんでしょうね。ここから南に丸島があったわけですが。

 


 島だったと思われるところまで行っても、海抜10cmくらいしかありません(汗)。高潮が来たら…厳しい立地ですねぇ。
 武庫川河畔に出ます。釣り客が多くおられました。その釣りをされているところ、少し川原がでっぱってます。

 


 だいたいこのあたりが、丸島の北端です。そして神社があった場所だと思われます。
 市が公開する明治44年の地図をご覧下さい(→こちら)。当該箇所を拡大していただきますと、鳥居が見えませんか(粗くて無理かな)。ちょうど対岸は、上田墓地あたりです。
 この神社が、大正2年に鳴尾八幡へ遷座合祀された稲荷社と考えられます。

 上の明治44年地図で見ますと、西宮側(当時鳴尾村)と尼崎側(当時大庄村)との境界線が、南北まっすぐに区切られているのはおわかりいただけると思います。西側が鳴尾村領域です。
 北端から南に視線を向けます。

 


 この視野内に神社があったのだと思いますが、今は普通の川原です。そして遠くにはゴルフの打ちっぱなしくらいしか見えません。
 

 


 このゴルフ場の東側のラインが、実はちょうど西新田と鳴尾村の境界にピタリと符合します。偶然なのか、それとも以前はこのラインが市境だったからなのでしょうか。江戸時代はここに杭が打たれ、領域を分けていました。
 上記明治44年の地図を見ますと、尼崎側には海岸に集落がありますが、鳴尾側には人家が全く見えません。やはり集落は無かったか。もっとも、これは明治末の地図ですから、江戸時代はどうだったかはわかりません。
 で、平左衛門町をウロウロしてみましたが、釣り公園と工場、そしてゴルフ場があるくらいで、全く昔を偲べるものは存在していません。そらそうやな。

 


 結局、平左衛門新田に鳴尾村の枝郷とされるほどの集落があったのか、はわかりません。どうだったんだろう。
 もしかしたら、丸島集落に一緒に住んでいたのか。しかし他領に住むと、その土地は飛び地扱いになるでしょうし、そんな話は探せていません。
 ここから最も近い集落は東鳴尾村ですが、仮にそこからでも鋤や鍬を担いで武庫川を渡って耕作に来るのは大変だったと思うのですがね。水量が増えたら渡れませんよ。しかし水が出ると大変に危険な中洲に住むというのもまた怖いことですし。…( ̄  ̄;)うーむ
 やっぱり川向こうから歩いて来ていたのかな。そしてまずお稲荷さんに参って、それから農作業をしていたのでしょうか。神社の立地からそんなふうにも思えてきます。
 これは、集落が存在していたかどうかは怪しくなりました。しかし、ここまで書いたので最後まで書かせてください。(;^_^A

 ところで、町名においては尼崎側が丸島町、鳴尾側が平左衛門町というネーミングですから、僕は平左衛門さんはてっきり鳴尾の人だと思っていたのです。ところが、諸資料を読みますと尼崎の人ですね。知らんかったわ。
 平左衛門さんについては、宮っ子に伊藤太一さんの漫画がありました(→1990/12 まんがにしのみや物語)。これ実に分かりやすいので是非ともご覧下さい。
 平左衛門さんも苦労されたのですねぇ…。

 せっかく遠くまで来たので、あたりを散策します。

 


 元浜八幡神社へやってきました。といって、たまたまうろついていたら神社があったのでお参りしたんですが。
 あとから調べました(汗)。
 尼崎市史を読みますと、このあたりは、江戸時代は西新田村の領域です。西新田集落は旧国道を渡ってすぐ南側くらいの場所ですが、寛永19年(1642)に浜方面に新田開発がなされ、新たに別集落が出来ます。西新田の枝郷「浜新田」です。西新田には鎮守社の牛頭天王社が既にありましたが、浜新田は独自に八幡宮を建立し鎮守とします。
 しかし大正3年に西新田の鎮守社、素盞嗚神社(神仏分離による)に合祀されます。これは神社合祀令ですね。つまり一旦廃絶したのですが、国家神道時代が終わった戦後、地元の方々がどうしても復活させたいとして、昭和24年に復興したとのことです。
 この時はそういう数奇な変遷をされている神社とは知らずに来たのですが、習性としてやはり石造物は細かく見てしまいます。
 さすれば、こちらの鳥居には天保15年(1844)の銘が入っています。大正期に一旦は西新田の素盞嗚神社へ合祀されて廃社扱いとなっているわけで、こういうものはどのようになっていたのでしょうか。素盞嗚神社へ一緒に持っていかれていたのか、当地で保管されていたのか。こういうの興味深いですね。手が回らないので調べてませんが。
 その鳥居の願主に注目。


 平左衛門さんのお名前が!
 平左衛門さんは浜新田の有力者ですから鳥居の寄進をされていてもおかしくはありません。平左衛門新田の成立から5年後ですから、ご本人でしょう。
 
 次に、墓地です。これも自転車ウロウロでたまたま「あっ墓地だっ」ということでしたが、習性として墓地を素通りできません。

 


 「丸嶋霊園」。丸島町にあって、西・丸嶋・元浜・大浜共同墓地となっています。一応丸島町ですが島の領域ではなく、おそらく浜新田の外れだと思います。
 地名は難しいですね。「西」は西新田村でしょう。元浜が場所的に浜新田を指すのだと思いますが、なぜ「元」浜なのでしょうか。丸嶋はもちろん西新田村の枝郷です。
 そして浜新田の南にはさらに「又兵衛新田」が貞享元年(1684)に開村します。これは元禄の岡本文書などでは西新田村の枝郷でしたが、どうも独立したようで明治には一村扱いとなっています。
 「大浜」というのは大浜新田で、こちらは又兵衛新田村のさらに枝郷なのですが…。「西・丸嶋・元浜・大浜」の中には又兵衛新田は入っていないのでしょうか。

 


 「又兵衛新田」と刻まれた墓石がありますね。やはり又兵衛新田村の墓所でもあるようです。大浜=又兵衛新田なんでしょうか。付け焼刃ではよくわかりません。
 墓地の入り口には、六地蔵さんが向かい合ってふた組おられます。

 


 古そうですね。

 


 こちらには元文の銘がありました。
 六地蔵さんが入り口に2組であれば、2墓所合併か、とも思います。明治初年の行政区画では2村です。また、西新田村創設の頃にはまだこのあたりは海か浜か島かよくわからなかった場所だと思いますので、西新田墓地が別にあったのでしょうか。
 こういうことは、尼崎の歴史を深く知らないとわからないことです。もうここまでにします。
 ご無礼ながら、さらに墓石を拝見させていただきました。

 


 平左衛門さんのお名前がありました。
 ただ、墓石は代々墓で、文政の銘があります。台座を平左衛門さんがお造りになられた、ということなのか、あるいは世襲名であることも考えられ、よくわかりません。ですが、西宮にとって非常に馴染み深い偉人が眠られておられると信じて、合掌させていただきました。  


村落墓地
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