凛太郎の自転車操業

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西宮の旧村落79 補遺(1)

 ここまで、西宮市域の旧村落35村、枝郷を入れれば53(田近や平左衛門新田含む)の村々の痕跡を訪ねてきました。
 そうなれば、いろいろ抜けも生じてくるんです(汗)。ただ寺と神社と墓地を探して歩いただけなんですけど、訪ねて調べて考えて書いてを繰り返す自転車操業でございますから、やっぱり後から気が付いたこと、思わぬ資料が出てきたこと、うっかりしてしまったこと、書いときゃ良かったなと思うこと、いろいろありまして。
 そんなことを少し追記させていただきたいと思います。

 まずは、生瀬村です。記事はこちら(→西宮の旧村落3)
 書いた順は、地域もありますが基本的には難しいのは後回しで、分かりやすい村から書いています。その点3番目に書いた生瀬村は、完全だったはずでした。山間の隔絶した村であり村内で全て完結していて、他所との関わりはあまり考えなくてもいい。檀那寺は浄橋寺、氏神さんは生瀬皇太神社で決まり。そして村落墓地は廃絶していたものの見事に痕跡が残っていました。この墓地跡を見たときは、言葉はおかしいですが感激してしまい、その後に弾みがついたような気がしていました。
 で、そのときは「氏神」という括りで考えていましたので、もうひとつの神社には触れなかったのです。しかし生瀬には、明治の神社明細帳にも載った「無格社 愛宕神社」がありました。
 元禄以来の神社でしたが、これが今は残っていません。
 これについては不思議なことがありまして。当然明治末の神社合祀令に引っかかって廃絶したと思っていましたら、調べると何と昭和2年まで残っていたのです。合祀令から21年経って、皇太神社に合併。
 この理由がわかりません。そんなこともあって、書きませんでした(汗)。
 場所は、浄橋寺の裏の愛宕山にあったと思われます。
 愛宕山には10年程前に登ったきりです(前に来たときの写真はフィルムでした^^;)。で、久しぶりに行こうかと思いましたら土砂崩れで遊歩道が通行止め。残念。
 画像は、もしもしさんのブログでどうぞ。(→聖地巡礼その293)
 山頂にはお稲荷さんが現在も祀られていて、おそらく愛宕社の末社だったと思われますので、廃れて合祀ではないと思われます。
 
 というわけで、山口や鳴尾などで盛んに明治末の神社合祀令と無格社廃社の話をしましたので、ちょっと生瀬の愛宕社にもふれさせていただきましたが、えーと生瀬の話は実は愛宕神社が本題ではありません。(^▽^;)
 花折神社のことです。

 生瀬には江戸時代に「花折神社」と呼ばれたお宮がありました。「生瀬の歴史」から引用。
花折神社
 字花折ヶ峯の山腹一名宮山と称する地に素盞嗚神社(牛頭天王)をお祭りした祠がある。元華居神社と称したが、光格天王の御宇享和年間に、字荒内の村社に遷座し摂社とした、その遺跡は現在判らない。
 明治の神社明細帳には、生瀬皇太神社に「境内神社一社 素盞嗚社」となっています。これがつまり花折神社の後身であると思われます。
 江戸時代には皇太神社の摂社ということですから特に採りあげることも…と思っていたのですが、連載後半徐々に必要にかられて「摂津志」「摂陽群談」「摂津名所図会」などの地誌を参照していましたら、生瀬で首をひねる記述を見つけました。
 摂津名所図会です。生瀬に該当する部分を抜きます。
生瀬驛 丹・播及び有馬湯山街道なり。旅舎多し。
生瀬古城 生瀬村にあり。所傳に云ふ、三木番次郎築いて在城すとぞ。天正中に喪ぶ。
牛頭天王 同村にあり。此所の生土~とす。
 三~祠 同村にあり。祭~伊勢・岩C水・春日の三~なり
淨橋寺 同村にあり。十方山と號す。淨土宗。
 これは…皇太神社ではなく、花折神社こと牛頭天王社が産土神であると書いています。(゚〇゚;)マ、マジ!?

 花折神社は、現在の生瀬の町の北、武庫川と中国道の向こう側の「宮山」と呼ばれる山の中腹にありました。

 


 愛宕山中腹から、花折神社旧跡を眺めます。現在は切り開かれて花の峯団地となっています。

 


 逆に花の峯から生瀬の町を見ます。町の向うの山が愛宕山で、中腹青シートが土砂崩れ現場です(汗)。左手の森は皇太神社です。花の峯には痕跡はさすがにありません。
 
 生瀬には鎌倉時代に建立された浄橋寺があり、古文書もあるので事情が明確なのだろうと思っていましたら、神社関係は案外少ないようです。
 「生瀬の歴史」「生瀬の現代史」から総合しますと、口碑ですが生瀬村の始まりは源平合戦の後、平家の落人が潜伏した部落が発祥とされ、その場所は花折ヶ峯であると。牛頭天王の祠がいつから存在したかはわかりませんが伝承では古いもののようです。
 三~祠(皇太神社)も花折に鎮座していて、鎌倉時代に浄橋寺建立にあたって遷座されたと。江戸期末の記録では、三~祠(皇太神社)は浄橋寺を建てるに当たり鎮守として安置したとされています。現在も浄橋寺と皇太神社はほぼ一体化しています。さすれば、皇太神社は元々はお寺の鎮守社ということに。花折に残った牛頭天王社が産土神とされるのも、なるほどとは思わせられます。
 しかしながら皇太神社は元禄5年の記録が残り、そこには「氏神」の文言がある ようで、これで解決、とも思うのですが。ただ他資料に、天保以前から嘉永にかけて(幕末ですね)、民家の増殖するに従い、燈明講組合が神社運営に当り、「一般氏神として崇敬浅からざりし」と。なので浄橋寺では神官を置かず村役人に祭祀を任せたとしています。寺鎮守から氏神となったのは幕末からではないかと思わせる記述です。
 「摂陽群談」には、「生瀬牛頭天主神」「三神社」の順に書かれていて、産土神とは記されていないものの、牛頭天王社が生瀬の主たる神社の如く思わされます。
  摂陽群談は元禄、摂津名所図会は寛政ですから、享和年間(1801〜)よりは前で、牛頭天王社が山を降りる以前の記述ですから独立社として書いていても矛盾はないのですが…唸るのは天保7年(1836)の「摂津国名所旧跡細見大絵図」です。当該部分の生瀬あたりを拡大してください。(→こちら)
 そこには、猿首岩、三木番次郎古城、十方山浄橋寺とともに、牛頭天王が名所として挙げられています。この時は、もう皇太神社摂社となっているはずです。そして場所は、川の南側です。
 どう考えれば良いのでしょうか。
 もう「どれを信用するか」という段階になっています。そうなると、地元の史料かもしれません。しかしそれでも、花折神社(牛頭天王社)のことは無視することはやはり出来ないのです。
 村の氏神として祀られていたのは牛頭天王社かもしれない。そして明治の神仏分離で、牛頭天王は邪教扱いされ、伊勢(アマテラス)を祀っていた同場所の三神祠の方を「皇太神社」と改め氏神としたのでは。妄想はいくらでも膨らみます。

 


 皇太神社です。祭神は天照皇大神・八幡大明神・春日大明神。つまり江戸時代の三~祠「伊勢・岩清水・春日」ということです。さらに昭和2年に愛宕神を合祀しているはずです。
 そして摂社に、かつての花折神社だった素盞嗚社があるはずですが…。

 


 あれ? 無い…。
 奥が愛宕社、八幡・春日相殿です。いずれも本殿合祀だったはずですが、摂社として独立しています。では今は本殿はアマテラスひと柱でしょうか。いやそうとも言えないような?
 難しい。神社詳細はもしもしさんの記事をご覧下さい(→聖地巡礼その292)。
 そして手前が、高麗堂なのですよ(汗)。高麗堂すなわち「コマ」で、狛犬を祀っています。いったいスサノオはどちらに行かれたのか。
 石造物もいろいろ見たのですが、僕の視界にはヒントが入ってきませんでした。
 もうこのシリーズは終りなのですが、また大きな宿題を抱えてしまった気がします。

 生瀬についてはもうここまでにします。わからん。
 さて、神社寺院と信仰については、江戸時代の様相を探ろうと思えば、どうしても明治の国家神道化政策とぶちあたってしまい、言及せざるを得ませんでした。これには思想が絡んだりしますから最初は穏便に済まそうと思っていたのですが、やはりそうもいきませんで。
 明治初期に廃絶とされた宮、祠、小堂、社、神宮寺などは、完全掌握などとても出来ませんでした。記録が無い。僕が知ることの出来た範囲でここまで書きました。
 明治末の神社合祀令については、ある程度わかりました。廃絶させられた神社について、まとめの意味で書き出します。
愛宕神社(名来) 御旅所神社・愛宕神社(下山口) 厳島神社(中野) 愛宕神社(生瀬) 須川神社(広田) 大将軍神社・地神社・中殿神社(中村) 磐戸開神社(下大市) 神明神社(西宮本町) 金刀比羅神社(浜今津) 八幡神社(松村) 素盞烏神社(八松) 砂浜神社(砂浜新田) 稲荷神社(平左衛門新田) 素盞烏神社・琴刀比羅神社(鳴尾本郷)
 廃社合祀ではありませんが、遷座した鰯津神社も入れてもいいかもしれません。ともかくも掌握できただけで、以上です。
 
 えーと、以上の神社で書き漏らしがあります(汗)。下大市村の磐戸開神社です。
 下大市には、九頭社という神社があったことがあちこちに載っています。「町名の話」などによれば、大市の旧家である松本家は武田氏の配下で信州松本出身であり、武田勝頼が信長に滅ぼされたときに流浪し、荒木村重に仕えたもののまた信長に敗れ、武士を辞めて大市で帰農、その折に故郷戸隠神社の祭神の九頭龍神を祀ったということです。
 この九頭社は、大正時代に撤去されたと書いてありますが、無格社磐戸開神社の大市八幡神社への合祀は明細帳によれば明治40年となっています。なので、これは別の神社であろうと思い、よくわからなかったので西宮の旧村落9下大市村のときは措いてしまったのです(汗)。
 松岡孝彰氏の「下大市今昔物語」をよく読めば、磐戸開神社=九頭社とちゃんと書いてありました。合祀時期はおそらく明治で、祠が撤去されたのが大正に入ってから、ということか、或いは伝承に食い違いがあったのかもしれません。
 神社は、下大市から八幡さんへ向かう道筋にあったようです。今津っ子さんのHP「阪神間の街道を歩く」から天保14年(1843)の下大市村絵図を参照して下さい(→こちら)。
 「九頭神」を確認していただけると思います。

 交差点の陸橋から。この道が旧道で、先に大市八幡が見えます。この道のおそらく北側(左手)のどこかに祀られていました。痕跡はありません。

 


 神社明細帳によれば大市八幡の祭神は誉田別尊(応神天皇・八幡神)、大日霊女尊(アマテラス)、天児屋根尊(春日明神)、豊間戸尊です。このトヨマドノミコトが、かつての祭神である戸隠権現九頭明神の神仏分離後のお名前でしょう。難しいですなぁ。

 補遺編続きます。


村落墓地

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凛太郎さん、おはようございます。
そうですか、生瀬の神社にはそんな逸話が・・・。
神社やお寺は、そう簡単に場所を移動しないし、なくなったりしないと思っていたので、ちょっと不思議な感じです。
あらためて、このシリーズ読み直して西宮巡りをしたいと思います。

[ もしもし ] 2014/11/16 9:14:20 [ 削除 ] [ 通報 ]

>もしもしさん
ありがとうございます。リンクではお世話になりました。
生瀬はこんなに難しいとは思いませんでした。奥が深すぎる。結局白旗です。しかも摂津名所図会を読まなければ気が付かないという…。生瀬に限らず、まだまだ気付いてないいろんなことがあるような気がします。

[ 凛太郎 ] 2014/11/16 19:22:49 [ 削除 ] [ 通報 ]

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西宮の旧村落78 浜鳴尾村(2)

 鳴尾村の中心集落は、現在もその雰囲気を色濃く残しています。

 


 このような自動車も通れないような道は、だいたい開発で失われてしまうものです。さらに鳴尾には軍用工場があって空襲に巻き込まれたのに、このあたりは奇跡的に残りました。そして震災の後もなお、この現状を留めています。
 市域に、このような風景が他に無いわけではありません。しかし鳴尾は範囲が大きい。

 


 この入り組んだ路地の集合体を「ミステリーゾーン」と最初に言われたのはZ探偵団さんでしたが、うまく表現されたものだと本当に思います。

 


 質屋の大半さんは、母屋から分れてこの場所に質店を開かれたのが明治20年と大道歳男氏の「なるを」に記されていますが、江戸時代以来だと言われても素直に頷きますよ。

 


 この踏臼支点石説と天秤棒置石説の両説ある石は、いったいいくつあるのでしょうか。どちらにせよ古い史跡です。

 


 ミステリーゾーンの象徴のような石ですね。

 


 この角の標石については、以前記事にしました(→こちら)。 鳴尾は暴れる武庫川の土砂堆積で生まれた土地だと言っても過言ではなく、当然砂地で、田んぼには適していません。そのため商品作物の栽培が盛んになり、江戸後期からは綿が多く作られました。その綿を運ぶために車道となり、道幅を明記する必要があったものと推測されます。
 鳴尾では他に菜種、西瓜も盛んでした。
 「鳴尾に過ぎしは寺、西瓜」という言葉が残っていますが、確かに鳴尾には寺が多い。江戸時代以来のお寺さんは7ヶ寺におよび、うち上鳴尾に3寺(浄願寺・常福寺・観音寺)、そして本郷に4寺です。このうち西方寺は小曽根村で、善教寺は前回紹介しました。
 
 こちらは、乗誓寺さんです。

 


 元亀元年(1570)の創立。浄土真宗本願寺派です。

 


 敷地は狭いながらも、寺院内墓地が確認されます。
 もう1ヶ寺は、西光寺さん。真宗本願寺派ですが、江戸時代は興正寺派でした。

 


 中には入れませんが、幼稚園を経営されておられるので、おそらくお墓は無いでしょう。
 西光寺さんは、鳴尾の他寺院が全て江戸時代以前の創建であることに対し、こちらだけは江戸時代も中期の享保13年(1728)に建っています。そのいきさつについては下瓦林村(3)で書きました。
 瓦木村誌では最初は「寶林寺」という寺院名だったとしています。鳴尾村誌では西光寺はもともとあった寺で中絶しており、「再興」であるとしています。確かに江戸時代は寺院の新規建立は制限されており、再興のほうが認められやすかったと思いますが、詳細はよくわかりません。
 
 村の鎮守社はどこだったのでしょうか。もちろん集落の北には総鎮守たる鳴尾八幡が氏神として存在しています。しかし前回書きましたが、集落内には少なくとも2社の神社が明治末までありました。琴刀比羅神社は海運の神だったとして、素盞嗚神社は江戸期の本郷集落の守り神だった可能性もあります。その当時はおそらく牛頭天王社です。
 疫病封じとしての牛頭天王社は、多くの村落で祀られています。西宮市域ではそう目立たないのですが(森具と中村と生瀬くらいしか思い当たらない)、鳴尾では中津、八松、また小松でも摂社扱いでしたがかなり盛大に祀られていました。尼崎ではスサノオ神社だらけです。現存しているだけで20社くらいあるのではないですか。みな氏神として祀られています。ことに武庫郡(旧武庫村・大庄村)には多い。これらスサノオ神社は皆、江戸期は牛頭天王社だったと考えられます。
 尼崎の鳴尾寄りにこれだけ牛頭天王社があったのなら、あるいは鳴尾本郷でも…とも思いますが、よくわかりません。今は旧家はだいたい鳴尾八幡神社の氏子さんではないでしょうか。

 最後に、上鳴尾墓地に行って終わろうと思います。

 


 何度も紹介していますが、こちらが鳴尾本郷の人々の旅立ちを見送ってこられた六地蔵さんです。
 上鳴尾墓地はこれまで記事を多く書いています(石造物C石造物D石造物E葬式と墓石など)。
 なので以前書いたことは繰り返しませんが、これらを書いて後、僕は一年かけて西宮市域の全村落墓地を回りました。そして、比べて気が付いたことがあります。

 まず、立地なんですが。
 この場所は、集落に近すぎるのです。ほぼ3つの村に隣接していると言っていい。上鳴尾全体として考えれば、集落の中心は鳴尾八幡神社でもなくお寺でもなく、この上鳴尾墓地です。こんな村落墓地は他にありません。
 どこでも、墓地は基本的には村の外れです。上新田墓地は集落の近くですが、あれは両墓制の「詣り墓」で、埋葬地は貝之介墓地だったのではないかと僕は思っています。
 しかし上鳴尾墓地は、まず埋葬墓だったでしょう。
 似た形として、下山口の墓地が浮かびます。あちらは江戸期は上墓・下墓と分かれていて、昭和初期に下墓に統合されています。2ヶ所の墓地は隣接し、集落に近しい場所だったと言っていいかもしれません。
 下山口は統合しましたが、鳴尾はどうだったのか。

 墓地の真ん中に道があります。

 


 これ、旧道なんですね。古い地図を見ますと、墓地内の道というより往来ではないかと思うのです。北へはそのまままっすぐ常福寺さんへ続いています。南の道は途絶えていますが、こちらも続いていました。
 つまり、道の両側に2つの墓地があったと考えることも出来ます。

 


 上鳴尾墓地は、満池谷墓地等と同様に、西宮市営墓地になっていることを前に書きました。そのように標識が建っています。
 しかしそれはどうやら東側敷地だけで、西側敷地は市営ではなく鳴尾区有財産管理です。

 


 現在においても2つに分かれています。

 


 以前、ひっくり返っている蓮台を紹介しましたが、これは東側です。
 ですが実は西側敷地にも蓮台があるのです。

 


 蓮台はどこでもひとつでした。複数村落の墓所となっていた貝之介や松並墓地でもひとつです。例外は上田墓地くらいです(笠屋墓地の合併で移転)。上鳴尾墓地では、移転合併等は無かったと思うのですが。
 ただ昭和12年の「鳴尾土地宝典」を見ますと、はっきりとはわかりませんが墓地は今の形よりもうすこしバラけていたようにも見えます。常福寺と観音寺さんの間にもまだ広がっていたようにも見えます。もしかしたら、小曽根墓域、松村墓域などとある程度分かれていたかもしれません。
 おそらく、上鳴尾墓地は戦後(西宮市と合併後か)、整備されたのでしょう。塀で囲われ、まとめられて少し狭まったか。
 憶測ですが墓地は、上鳴尾3村(小曽根を加えて4村)いずれの村から見ても村端にあった立地だったのかもしれません。それが、松村が花園町あたりから中国街道の南へ移るなど3村が寄り添うようになって、結果的に村が墓地周辺に集まる形になってしまったと。またその後の発展で人口も増え墓地も拡大し、このような形態になってしまったのではないか、とぼんやりと考えます。

 現在においては、墓石には住所が書かれていませんのではっきりしたことはわかりませんが、刻字があるものからの類推で、おおむね西側は小曽根・松村・八松の墓石。東側が北鳴尾・浜鳴尾(本郷)の墓石と分かれているように見受けられます。

 


 仏堂はひとつ。しかし、ほとけさまがふたりおられます。最初にこちらに訪れたときは「そういうものか」とも思っていましたが、以降全村落墓地を回って、迎え仏が2体並んでいる墓地はありませんでした。

 


 向かって左、東側のほとけさまの台座には「M成尾村」と刻まれています。

 


 対して右、西側のほとけさまの台座には「小曽根村」と。即ち、西側墓地の迎え仏だったのでしょう。つまりこちら2体のほとけさまは、まとめられたと考えていいのではないでしょうか。

 ともかくも、上鳴尾墓地はなんだかふたつの墓地のような感じがします。だからどうだと言われると困るのですが(汗)。
 ただ、北鳴尾村の墓石は東側にあり、つまり東側は「鳴尾」の墓地だと言えます。
 鳴尾は徐々に海岸線が南下して出来た村です。まず曾禰郷が平安時代に存在することからも小曽根は古く、小松もいくぶん伝説的ながら等覚寺が8世紀創建、村も10世紀には出来上がっていたという説もあります。
 鳴尾では市史4巻に載る大徳寺文書を見ていますと、「八松」「松村」の文言がちらほら見えます。鎌倉時代です。その頃からこの2村は、場所が移動した可能性はありますが、存在していました。
 これら小村群は「鳴尾庄」という荘園の構成要素となり、のちに荘園制度が解体していく過程において寄り添っていったと。つまり小曽根、松村、八松は鳴尾村から分村した枝郷ではないということです。
 明和病院南で貝塚が発見され、平安〜鎌倉頃ではないかと堀内泠氏が推定されています。こちらは北鳴尾集落でしょう。
 その頃から鳴尾八幡神社があったか、と考えれば難しいわけですが、そのあたりの土地、集落が「なるを」と呼ばれ始めたのではないかと想像します。平安期に歌枕として鳴尾が登場してきますが、それはおそらく北鳴尾を指していると考えていいように思います。
 そして浜に陸地が増え集落が出来て、「なるを」の人々が移住した。その頃からもともとの鳴尾村は「北鳴尾」となり「上鳴尾」となった。そして浜辺の集落は「浜鳴尾」となった。そのうちに浜集落が大きくなり本村となり、もとの鳴尾は「小鳴尾」とも呼ばれた。そんなストーリーではないかとも思えます。

 


 ここには、ずいぶん通いました。僕にとっては最寄だったので、市内あちこちの墓地へ行ってわからないことが出てくると上鳴尾へ行き、比較して何とか理解する、といったことも。
 墓参の人ともいろいろ話をしました。
 「昔はこの真ん中の道沿いに鬱蒼と木が茂っててな」「墓守さんもおられた」「震災後から景色が変わったな」「前はもっと怖かったで」等々。僕はただのブロガーですから取材は出来ませんが、そうやって聞いたことはなんとなく墓地を考える上でのベースになっています。
 そんな感じで、鳴尾村の長い旅を終えます。

 これで一応西宮市域の江戸時代の村落は、全て歩きました。次回は、補遺編です。


村落墓地
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西宮の旧村落77 浜鳴尾村(1)

 浜鳴尾村とは、つまり鳴尾村の本村である鳴尾本郷地区の旧称です。
 枝郷の多かった鳴尾村に「本郷」という呼称は相応しいのですが、江戸時代初期、慶長18年(1613)の鳴尾村検地帳ではただ「浜」とされています。
 その人数は松村21、八松45、北鳴尾22人に対し浜は147人でしたから、既に鳴尾村の中心は上鳴尾から浜鳴尾に移っていると考えられますが、今津村の上今津と浜今津の関係と同様、海に近い集落が後から形成され、浜側の集落と呼称されていた名残が継続していたものと思われます。
 上鳴尾墓地で墓石を探します。

 


 安永銘で「M鳴尾村」の文言が刻まれています。他にも浜鳴尾村銘の墓石は散見され、おそらく18世紀くらいまでは、少なくとも浜鳴尾の呼称は生きていたと考えられます。なのでここでは「浜鳴尾村」とします。もちろん、この浜鳴尾村が江戸時代を通じて鳴尾本村です。

 本村なので支配形態をまとめますが、これが難しい。読み飛ばして下さい。
 秀吉時代、鳴尾の領主は佐々政治でした。徳川時代には佐々家は旗本となって、そのまま鳴尾は佐々氏領として続きます。しかし佐々家は、五代成澄が元禄11年(1698)に江戸で刃傷沙汰を起こして、取り潰しとなります。そのあたりのことはこちらで(→ちょ歴西宮)。
 佐々家断絶以後、鳴尾は幕府直轄領となります。その頃から鳴尾の新田開発が進んでいます。正徳元年(1711)に上田新田が開発され、これも幕府領となります。
 ところが延享4年(1747)に、鳴尾村が分割され、上田新田と共に丹波国篠山藩領となります。
 武庫郡誌によりますと、鳴尾村のうち篠山藩領となったのは63%。松村、八松村、中津村の一部、北鳴尾村の一部が幕府領、それ以外は篠山藩領となりました(浜鳴尾村の状況はよくわからないが分割はなされたと考えられる)。
 このため、村の役職が多くなります。庄屋さんは二人体制となり、中津村や北鳴尾村は分割されたため2の年寄、また行司という役職も置かれました。
 上田新田はその後明治まで篠山藩領でしたが、鳴尾村の篠山藩領は明和6年(1769)にまた幕府領に復します。西宮や今津も尼崎藩領から幕府領になった年ですね。
 鳴尾ではその後、元篠山藩領を新料、継続幕府領を古料と呼び分け、庄屋2人、年寄4人体制は変わらずに明治維新を迎えます。
 ややこしかったのですが、江戸時代後半は天領として安定し、新田開発もどんどん進んだわけです。

 では、鳴尾村を歩いてみます。少し趣を変えて南から。
 笠屋交差点の西、消防署の北側あたり、臨港線から西へ斜めに入る道があります。

 


 この道が、鳴尾本郷集落の南限になります。ここから南は田畑でした。
 右手に残念ながら力尽きて廃された地蔵堂が見えますね。これはもしもしさんがレポをされています(→聖地巡礼その86)。
 この道を西へ進むと、善教寺さんへ行き着くわけです。

 


 善教寺は浄土真宗本願寺派で、文禄元年(1592)創建です。桃山時代末期ですね。

 


 善教寺さんの寺院内墓地です。僕の思い違いかもしれませんが、改修されたかな? イメージが変わったような感じが。

 ところで善教寺さんの在る場所は現在鳴尾町四丁目ですが、昔の住所は「本郷西浜」でした。つまり、かつてはこのあたりから南は、海であったという想像が出来ます。
 善教寺さんは見てのとおり、南側からは階段やスロープがあり、立地が高くなっています。これは水害の砂溜りであるとの説もありますが、そもそも本郷集落は地盤が一段上がっているように思われます。

 


 先ほどの南端の道から本郷の「鳴尾ミステリーゾーン」に入ってゆく道は、このように自転車ですとペダルを踏み込むほどの傾斜があります。
 さらに、鳴尾町一丁目の東側が「字東浜」であり、鳴尾小あたりが「内葭島」、ららぽーとあたりが「外葭島」と呼ばれていたことなどから、鳴尾本郷は海に突き出ていた洲、半島だったのではないかとの推測も可能ではないかと思います。かつて、本郷の周りは海だったと。

 


 善教寺さんのすぐ近く、史跡朝右衛門法華塔が見えますが(後述)、そのあたりの海抜はやはり0m未満です。
 鳴尾は武庫川が土砂を運び、またたび重なる水害などでも堆積が進行し、徐々に海岸線が南下しました。東浜などと呼ばれた地域も早い時期に陸地化し開拓されていたのではないかと思われます。江戸時代初期には既に浜鳴尾村の人口が最も多かったことからもそれは類推できます。
 それでも臨港線より南はまだまだ海か浜かはわからないような状態だったと推察されますが、そこが一気に陸地化したのが万治2年(1659)の大水害(戸崎切れ)だったのでしょう。全村流出という大被害が出た鳴尾は、しばらく立ち直れなかったとされます。そりゃそうでしょう。しかし押し出された土砂は、鳴尾村の面積を倍にしたとも言われます。
 今津っ子さんのHP「阪神間の街道を歩く」所収の鳴尾村絵図aは 18世妃後半のものと考えられていますが、もう既に陸地が海に向かってかなり増え、現在の地形に近くなってきています。そして中心集落は「本郷 鳴尾村」となっています。もうこの時期は浜辺の集落ではありませんからね。浜鳴尾→本郷と呼ばれ方が変ってきたのは、そういうことではないかと。
 その絵図で見ていただきたいのは、鳴尾川(つまり鳴尾港)から水路がぐっと本郷に向かって掘られていることです。絵図には「悪水落」と書かれてます。悪水とは汚水もあったかもしれませんが、おそらくは余剰の水ということでしょう。溝を掘って土の水分を染み出させて居住区や田畑を乾かすという役割もこういう土地には必要であり、また張り巡らされた用水路は余れば最後にはこちらへ流れ込むという仕組みだと考えられます。樋ノ戸と呼ばれる樋門があったようです。
 ただし海抜0m以下ですから、この水路は港と同じことです。もう浜辺の村ではなくなった鳴尾本郷の、おそらく船溜りもあったんじゃないかと。
 この水路は現在はありませんが、明治時代にはまだ存在していました。明治44年地図を見ますと善教寺さんの前まで水路が延びているのがお分かりいただけると思います。

 


 東高校を背にして臨港線から北を見ます。この道の突き当たりが善教寺さんですので、ほぼこの道に沿って水路があったわけですね。
 そして、44年地図を詳細に見ますと、その水路の北端に鳥居マークがあります(粗くてわかんないかな)。神社があったのです。
 この神社が、北鳴尾村のときに書きました「字本郷西浜無格社素盞烏神社」か「字外葭島無格社琴刀比羅神社」ではないかと思うわけです。
 字本郷西浜というのは善教寺さんの住所です。なので素盞烏神社だろうとまずは判断しますが、字外葭島というのは大体「ららぽーと」東側あたりの字名で、近い。ここは判断が難しいところです。
  神社合祀令によって素盞烏神社が明治40年に鳴尾八幡に合祀、琴刀比羅神社が明治45年合祀ですから、この明治44年地図ですとこんぴらさんであるように も思えます。しかし同地図に同じ明治40年合祀の松村の八幡神社が載ってますので、測量の時期によっては素盞烏神社だった可能性もあります。どっちかな。
 水路の最奥ですので、航行安全の神であるこんぴらさんであるような気もしますが。よくわかりません。ともかく、このあたりに無格社が2社、明治末まで存在していたのです。

 その2社の名残なんですけれども、善教寺さんにほぼ隣接して、鳥居を持つお堂があります。

 


 妙見宮です。
 鳥居が一応ありますが、隙間から堂内を拝見致しますと完全に仏式でした。もしもしさんがレポされていますが(→聖地巡礼その62)、「以前お参りした時は中から読経の声が聞こえました」とのお話があります。明治以前の信仰形態が残っている感じがします。神仏分離に毒されてしまっている(?)僕などはカテゴライズできないのでつい不思議な存在に思ってしまうのですが。
 住所的には、善教寺さんの隣ですので「字本郷西浜」でしょう。さすればこの妙見さんが、無格社素盞烏神社(江戸期はおそらく牛頭天王社)の境内末社が残ったような形なのかと考えたいところです。
 しかし証明するものはありません。境内石造物は懸命に見たのですが、昭和以前の紀年銘は発見できず。残念です。
 
 では、琴刀比羅神社はどこだったのでしょうか。
 住所表記はすっかり整理されていますのではっきりとわかりませんが、字外葭島というのは、ここらあたりではなかったかと推察。

 


 ららぽーとのヨーカドーから、武庫女の付属保育園(昔のコープ)あたりにかけて。前述した水路最奥まではギリギリ入るかな。入れば、本郷西浜の牛頭天王社と外葭島のこんぴらさんは、ごく近くの立地だったと思うのですが。
 保育園北に、史跡があります。前述した朝右衛門の法華塔です。

 


 万治の戸崎切れからしばらく経ち、海か浅瀬に砂州がある程度の場所だったかもしれない内葭島・外葭島あたりもはっきり陸地となって、ここを尼崎の商人日比田左衛門が開拓します。延宝年間(1673〜)だとされています。
 田左衛門の息子である日比朝右衛門が父の功績を記念して法華塔を建てました。
 ここは小公園になっています。大道歳男氏の「なるを」によりますと、法華塔の場所は鳴尾区有財産であり、住所は外葭島、現在は市有地とされています。そういう場所は神社っぽい。この法華塔がこんぴらさん境内に建立されたものだとすれば、ここが無格社琴刀比羅神社の旧跡となるのですが、そんな記録は無く妄想です。
 まあ法華塔ですからねぇ…明治以来の神仏分離に脳が犯された僕などは、神社に仏教の法華塔など建つまいとつい思ってしまうのですが。
 ですがその法華塔の側面にも何やら刻まれています。

 


 右から「若宮八幡宮」「天照皇大神」「大辨才尊天」。ああ謎がどんどん深まってゆく!(笑)。どう判断すればいいんでしょうか。

 結局よくわかりませんけれども、江戸時代にはこのあたりに神社が少なくとも2社あって、それが明治に廃止させられた鳴尾村の無格社6社のうちの2社であったということです。

 次回に続きます。 


村落墓地
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旧村落と墓地 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

>改修されたかな? イメージが変わったような感じが。
はい。
善教寺さんは、私が鳴尾に引っ越して少しした頃、
多分3、4年前に、大がかりな改修工事をされてます。

写真もアップされてますが、あの辺は妙な起伏があり『?』って思ってました。
また一つ、鳴尾ミステリゾーンの謎が解けました(笑)
ありがとうございます。

[ Lady J ] 2014/11/09 19:10:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

>Lady Jさん
ありがとうございます。やっぱりそうですか。なんだか変わったなーという印象はあったのですが、こういうごく最近のことが一番調べにくくてはっきりとは書けず(汗)。
本郷西浜の起伏は、万治戸崎切れの砂溜り説もあるんですが、古図や字名、状況から見ますとそれ以前のものである感じがします。
しかし鳴尾は深いですねー。次回で鳴尾村は終わりますが西宮町と同じくらい書くことがあります。そうして江戸期からの鳴尾を見ていますと、Jダーツ倶楽部の立地は村の一等地だなとホント思います。

[ 凛太郎 ] 2014/11/10 6:23:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

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