西宮芦屋研究所レポート

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「騎士団長殺し」の中の西宮の風景 その2

「村上さんのところ」には須田剋太やそのの絵画教室のことが次のように書かれています。

「僕が小さい頃(たぶん小学校の低学年だったと思いますが)、須田剋太さんという画家が近所に住んでおられました。司馬遼太郎さんと一緒に仕事をしておられたとても有名なかたです・・」


須田剋太の教室の場所や建物は「夙川のわきにある洒落た洋風のお宅でした。白い垣根に薔薇が繁っていて・・」だったようです。

須田剋太の絵画教室の様子は?。
「みんな好きに絵を描いて、それを須田さんがにこにこと『これはいいねえ』とか『ここはこうしたら』とか感想をいうようなところでした。とても良い方だったと記憶しています」
そして須田剋太の教え方は「僕が須田さんから受けたアドバイスは『ものを枠で囲うのはよくないよ。枠をはずして描きなさい』というものでしたなぜかそのことだけを今でもはっきりと覚えています。なかなか楽しかったですよ」

それでは、「騎士団長殺し」の絵画教室はどのように描かれているのでしょうか?



「騎士団長殺し」の絵画教室

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「騎士団長殺し」の中の西宮の風景

村上春樹の新作「騎士団長殺し」の主な舞台は、小田原近辺ですので、西宮の風景が出てくる訳がありません。

しかし彼の少年時代の経験が反映されているように思える場面があります。それは、この小説の主人公が小田原の絵画教室で子供たちに絵を教えている場面です。
村上春樹は少年時代に、西宮在住の有名な画家、須田剋太(司馬遼太郎の本の挿絵を描いていた人)から絵を習っていましたが、このことを「村上さんのところ」の質問278 「子供の頃に習い事は何かしましたか?」の回答として本人が語っています。




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いつもブログを見るのを楽しみにしています☆これからも楽しく読ませて頂きますね!

[ 池袋駅すぐの美容室モッズヘア池袋店のホットペッパービューティーページ ] 2017/05/30 10:56:41 [ 削除 ] [ 通報 ]

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「キネマ旬報 大正期西宮に」の記事

12月22日の朝日新聞阪神版に「キネマ旬報 大正期西宮に」がでました。

旬報編集部のそばに、分銅町に引越する前の薄田泣菫が住んでいたことや、谷崎潤一郎が随筆に、西宮時代のキネマ旬報のことを書いていたことなど、私が話したことも記事にあります。
関学の大学図書館にあるのは、このチラシの中にある号です。



キネマ旬報
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カフェパウリスタと山本嘉次郎 西宮がハリウッドだった頃 その11

映画監督の山本嘉次郎が慶応の普通部(中学)を卒えて、大学の予科へ進んでいたころよく銀座のカフェパウリスタへ行っていたようです。

「カツドウヤ水路より」
「ある春の午後、いつものように最後の授業をスッポカして、これもいつものコースである銀ブラをし金春館(銀座裏の洋画封切館)を見て、カフェー・パウリスタでコーヒーを飲もうかと、三田の山から、のんびりと坂を下ってゆくと、チラシを配っている若い男がいた。」

カフェパウリスタ 長谷川利行作 国立近代美術館蔵

上の絵は、銀座のカフェパウリスタではないようですが、カフェパウリスタの絵です。




キネマ旬報
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おはようございます。
きょうは荒天ながら、季節はずれの気温になるようですね。

今朝の朝日新聞の阪神面、関西学院大学が『キネマ旬報』の復刻版購入の記事、読ませていただきました。
わたしたちも閲覧できればうれしいのですが。
薄田泣菫の『茶話』(冨山房版)をときどき拾い読みしていますが、関連した文章には、まだ出会えていません。

[ 373 ] 2016/12/22 7:41:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

『キネマ旬報』と谷崎、『薄田泣菫』と谷崎は交流がありますので、『薄田泣菫』と『キネマ旬報』の関係がわかる文書を見つけたいです。373さんよろしくお願いします。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2016/12/22 20:23:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

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「一日だけのカフェパウリスタ」その後 西宮がハリウッドだった頃 その10

9月に甲陽園で解体される建物で「一日だけのカフェパウリスタ」を開催したくさんの人が来られました。

建物はなくなりましたが、その後、このようになっています。
神戸新聞の記事でご覧下さい。


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エノケンの映画デビューと甲陽撮影所 西宮がハリウッドだった頃 その9

エノケンこと榎本健一は、彼の著作「喜劇こそわが命」の中の「東亜キネマで無声映画に出演」で次のように書いています。

「兵庫の六甲山脈の外れに甲陽公園というのがあって、宝塚を真似して、千人風呂をつくったり、少女歌劇をやったりして、人を呼んでいた。そこで新しく撮影所をつくったのであった。三人ばかりの同行者があって、僕が皆の旅費をつくって出かけて行った。最初は研修生ということだったが、どういうわけか、僕はすぐに見い出されて、主役でたちまち映画を二本撮った。そのうち一本の題名は今でも覚えている。『異国の娘』というのであった。もちろんまだ無声映画の頃である。」


キネマ旬報
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甲陽撮影所の長屋社宅で過ごした映画人 西宮がハリウッドだった頃 その8

甲陽園の大池の北側には「いろは長屋」という撮影所スタッフの宿舎がありました。
棟割長屋の各戸には“いろはに…”と名札が貼ってあり、この長屋の一室に山本嘉次郎らも暮らしてしました。

「カツドウヤ水路」より
「私は、甲陽公園内にあった社宅の棟割長屋の「へ」という家に住んでいた。(中略)その家にトヨシュウ、小宮一晃、杉狂児、江川宇礼雄、アザブ伸(のちに腹話術師)、西村青児、谷幹一等々の喜劇畑の若い連中がなだれ込み、朝から酒をのんだり、チヤプリンの真似をしたり、バケツや洗面器を叩いてジャズの演奏をしたりしていた。ときどき、まだ無名であったエノケンも泊まりにきた」

          喜劇王 榎本健一




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甲陽撮影所の女優 歌川るり子 西宮がハリウッドだった頃 その7

サトウハチローの二度目の妻となった歌川るり子は、甲陽撮影所の女優でした。
歌川るり子が、当時の撮影所のスタッフと一緒に撮った写真が、西宮市のHPの「【甲陽園】華やぐ映画撮影所」に出ています。

写真の解説は、次のようになっています。
左から2番目に甲陽キネマ総務部長井上氏、そこから右に歌川るり子(井上氏の後ろ、サトウハチロー氏と結婚)、絵島千歌子、環歌子、上村節子、子役と女優(氏名不詳)

歌川るり子は、2年たらずの間に、以下のように多くの作品に出演しています。

1924.08.22 苔は鳴る  東亜甲陽
1924.09.24 どん底  東亜マキノ(甲陽撮影所)  ... 姉娘おぎん
1924.10.08 風刺小品集 第二篇 「女」  東亜甲陽
1924.11.01 若さよさらば  東亜甲陽  ... 未亡人万里子
1924.11.22 血は踊る  東亜甲陽
1924._._ 眠れる大地  東亜等持院
1925.01.22 母  東亜甲陽
1925.02.19 金色の搭  東亜甲陽  ... 其の妹田鶴子
1925.04.01 恩愛を賭して  東亜甲陽
1925.05.07 時に叛く者  東亜甲陽
1925.06.19 盲目の使者  東亜甲陽
1925.08.12 海国の母  東亜甲陽
1925.08.25 若き日の唄  東亜甲陽
1925.09.19 一度起たば  東亜甲陽  ... 旅の女お峰
1925.12.05 いで湯の秋  東亜甲陽
1926.02.10 黒ばらの女  東亜甲陽
1926.02.14 仮面  東亜甲陽
1926.02.28 恐怖の家  東亜甲陽
1926.06.15 暮るゝ町  東亜甲陽



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おはようございます。
日付は、公開日なんでしょうか?
おそらく同時に何本も製作されていたのでしょうが、すごい量産ぶりですね。
ところで、ご存じとはおもいますが、昨日はアクタ西宮・東館2階で開催されている、情報公開課 第20回歴史資料写真展 「西宮」という街15 「北口 音CROSSING」をのぞかせていただきました。
当ブログで紹介されていた「アメリカ博覧会」をはじめ、かつての「ニシキタ」の風景に、まじまじと見入りました。11日(日)までのようです。

[ 373 ] 2016/12/08 8:10:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

373さん 当時は無声映画の時代で、1週間か10日で一本映画を撮っていたようです。北口の写真展は私も昨日行きました。今朝の神戸新聞阪神版に大きく掲載されています。ネットでも見れます。   http://viewer.kobe-np.co.jp/kobeepaper/view?gs=rhSttOsi3Motg2B%2FKCLYZw%3D%3D&cn=%E6%9C%9D%E5%88%8A

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2016/12/08 8:30:08 [ 削除 ] [ 通報 ]

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マキノ省三→佐藤紅緑 西宮がハリウッドだった頃 その6

マキノ省三は、一年足らずで甲陽園を去り、そのあとに欧州帰りの佐藤紅緑がやってきました。

「カツドウヤ水路」より
「佐藤紅緑氏(サトウハチロー氏の厳父、文豪)が所長になったが、これも映画には素人だったので、制作の実際は小プロダクション上がりの次長が采配をふっていた」

佐藤紅緑とその家族が住んでいたのは、当時の鳴尾村西畑(現在の阪神甲子園駅南東すぐの西畑公園)で、隣り近所に森繁久彌の家があり、紅緑のフィリピンで戦死した三男の弥(わたる)とは大の親友でした。
『九十歳。何がめでたい』で、何度目かのブレーク中の佐藤愛子は、サトーハチローの母違いの妹ですが、甲陽撮影所に父親が来なかったら「阪神間少女」になることはなかったでしょう。
これだけの大物の名前が並ぶのも甲陽園に撮影所があり西宮がハリウッドだった頃があったからです。
ただし、この時代、甲陽園は西宮ではなく、武庫郡大社村にありました。



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名監督マキノ省三と山本嘉次郎 西宮がハリウッドだった頃 その5

「私は、そのころ発足した東亜キネマにサブちゃんの口ききで入った(中略)東亜キネマは夙川の水源地である兜山(原文ママ)の麓の甲陽公園の中にあった。」
サブちゃんとは、キネマ旬報の代表の田中三郎のこと。

山本嘉次郎が東亜キネマに入ったころ、名監督マキノ省三が甲陽撮影所と京都の等持院撮影所のトップも兼任していた。


「映画界の開拓者であり、また名監督でもあるマキノ省三氏の下について仕事をすることは、私にとって何よりも嬉しいことである。私はその甲陽撮影所に入り、二十三歳ではじめて正式の監督の地位についた。」

マキノ省三の孫である、長門裕之がそれまでの子役の芸名ではなく「長門裕之」の名前で初めて映画に出たのは、それから約30年後、宝塚映画の西宮北口撮影所でした。



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西宮芦屋研究所員
プロフィール
西宮芦屋研究所では、当地で育った村上春樹の「西宮芦屋」に関するあらゆることや、あまり一般的には知られていない「西宮の隠れたメジャー」の研究に日夜励んでいます。この成果を一人でも多くの方々に、このブログを通じて、お伝えしたいと思っています。

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