凛太郎の自転車操業

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鳴尾の古い石造物をたずねて(六)

 もうその六になってしまいました。m(_ _;)m
 もはや上鳴尾墓地の観光案内とはとても言えないような細かな話になっていますが、ちょっと解せないものを見ましたので、Webに載せることにします。
 

 

 無縁墓に近い西北方面。石造七重塔や五輪卒塔婆があり、何やら由緒がありそうな一画です。そこに、卵塔がいくつか並んでいます。卵塔(無縫塔)とは、見ての通りタマゴみたいな形をした墓塔です。多くはお坊さんのお墓で、特に禅僧の墓塔として用いられることが多い形態です。

 

 この手前の卵塔が最も立派ですが、それにはこんなふうに刻まれているのです。

 


 「開山霊峰道悟和尚禅師之塔」
 
 開山ということは、霊峰道悟和尚禅師が寺をお建てになられたのでしょう。で、禅師というからには当然禅宗ですね。
 これを見たときに僕は?となったんです。果たして、どこのお寺の開山禅師でらっしゃるのでしょうか。

 禅宗のお寺の系譜というのは、鳴尾ではまず江月山長蘆寺が挙げられます。
 14世紀に建立されたとされ、南北朝建武年間の記録が残っています(鳴尾村誌に拠る)。西宮では海清寺と同じ頃に建立されたと考えていいでしょうか。
 この長蘆寺は、文明7年(1475)の水害で流され、荒廃したと考えられています。
 その法統を継いだのは、観音寺であるとされます。観音寺さんは寺の多い鳴尾の中で、唯一の禅宗寺院です。

 

 現在は幼稚園を経営されていて、そのHPを見ますと観音寺の歴史についても記されています。(→慈応山観音寺の詳細)
 観音寺は長蘆寺の流れをくみ、文政年間に春芳和尚が改号し再興したと伝えられているようです。
 長蘆寺は臨済宗大徳寺派で、大徳寺の塔頭如意庵の末寺であったとされますが、観音寺は妙心寺派です。これは春芳和尚からということになります。
 なお、観音寺は戦災で焼失します。これを再興されたのは、西宮芦屋研究所員さんが連載された夢の里シリーズでもおなじみの海清寺住職(後に妙心寺派管長)春見文勝禅師の弟さんの春見正道禅師です。昭和26年のこと。
 こういうことを調べていて、僕はようやく上鳴尾墓地の古石造物が海清寺に移されたことに得心がいきました。なるほど。

 さて、中世に隆盛した長蘆寺は文明7年に途絶え、文政年間に再興されるまで「盛衰は不祥」と観音寺さんが書かれています。つまり1475年から1820年頃まで約350年間、どうなっていたかは不明なのです。
 前述の霊峰道悟和尚禅師の卵塔を見ます。

 

 見難くて申し訳ありませんが、側面に「寶永六」の文言が確認できます。没年のようです。宝永6年は1709年であり、霊峰道悟禅師はどうも1600年代から活動された方のようです。
 霊峰道悟禅師について、僕は図書館で調べきれませんでした。事績がわかればもう少しはっきりしたことも推測できるのですが、ちょっと宿題とします。なおネット検索では黄檗宗のお坊さんであったことくらいしかわかりませんでした。
 この卵塔が霊峰道悟禅師の墓であるならば。
 墓というものはそんなに理由も無く移転するものではありません。1709年以来300年間、ずっとこのあたりに存在したと考えたほうが自然です。この卵塔のすぐ北西側に、禅宗の観音寺さんが隣接しています。どう解釈すれば良いのでしょうか。
 1475年から1820年頃まで「盛衰は不祥」である長蘆寺から観音寺への鳴尾禅宗寺院の法統ですが、その空白期間である1600年代末から、もしかしたら黄檗宗霊峰道悟禅師に始まる時代があったのかもしれない。そんなふうにちょっと考えたりもします。
 霊峰道悟禅師の卵塔台石にはもう一面、文字が刻まれているんです。そこには「○○○建之」と。建之はわかるんですが肝心の部分が剥落も多く読めない(汗)。これが解読できれば一気に謎も解けそうなのですけれども…拓本でもとらないと無理か。

 霊峰道悟禅師さんの横にも卵塔がいくつか並びます。

 

 隣(写真奥)のお墓には當山二代、その隣(写真手前)は當山六世とあります。その当山とはどこなのかが気になるところですが、二代目さんの墓石に元号は確認できなかったものの、その隣の六世さんの墓石には「明和三年」の年号が見えます。1766年。観音寺再興の文政年間にはまだ間があります。

 いろいろと考えます。
 例えば、すぐ隣の浄願寺さんには広い寺院内墓地がありますが、観音寺さんには、見たところ墓地はありません。せいさんに納骨堂が存在することを教えていただきましたが、江戸時代からそういう形式だったわけでもないでしょう。
 観音寺さんは戦後幼稚園を併設したために、寺院内墓地のスペースがなくなったのかもしれません。で、この卵塔がある一画は、観音寺さんの真裏です。もしか したら墓石を移されたのではないでしょうか。
 また「開山」といっても、名前貸しであることもよくあります。現に観音寺の前身とされる長蘆寺の創建は大徳寺七世言外宗忠禅師ですが、開山は言外宗忠禅師の師である二世徹翁義亨国師となっています。霊峰道悟禅師さんも同様で、あれは後世の供養塔であるかもしれません。
 しかし、霊峰道悟禅師さんは、ちゃんと文献で確認はしていませんが同じ禅宗でも黄檗宗らしい。臨済宗の現観音寺さんに直接関わりがあるとは考えにくいわけで。また没年を考えると、時代が違いすぎます。しかし1700年代は、長蘆寺と観音寺の流れからすれば、ちょうど空白期間にあたります。うーむ。
 この墓石群がもしかして観音寺さん管理のものであるならば…。

  こういうことは、花園幼稚園で伺えば簡単にわかるのかもしれないのですけれどもね(汗)。これら卵塔には花も手向けられていますし、お世話なさっている方がおられるわけです。さすれば事情をご存知のはず。しかし僕の立場は、西宮歴史調査団のようにしっかりと学術的調査をやっているわけでもなくタダの野次馬ですから、恐縮ですし気後れもしますので聞けません。またぼつぼつ趣味の範囲で調べてみたいと思います。石造物班も出来れば次回は上鳴尾墓地を対象にしてください(笑)。

 それにしても、墓地はなかなかに奥深い。今回ちょっと集中的に見てまわりまして、歴史の残り香をずいぶんと感じまし た。西宮には、段上の貝之介墓地などまだまだ深そうな墓地があります。眠られている方々に失礼さえなければ、近隣の墓地を散策するのもまた趣がかわって良いかもしれません。
 しかしながら。明治以降、ことに戦後飛躍的に人口が増えた日本で、墓地に空きスペースが無くなっているのも事実です。上鳴尾墓地でも、無縁墓のタグを付けられた墓石を多く見ました。

 

 こういうことはわかっているつもりですが、またこうして墓地の様相も変わっていくのだろうと思います。
 鳴尾の古石造物をたずねる話、今度こそ終了です。ありがとうございました。 


鳴尾の石造物

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墓地に目をつけられたとはさすがに思います。身近なところに墓地ほど豊かな史跡はないかと。石に名を刻んでのちに名を残したいという、この世の執念たるや、考えてみればおそろしいことです。濃く生きたんでしょうね。ご報告ありがとうございました。

[ だんご ] 2013/12/11 9:08:05 [ 削除 ] [ 通報 ]

凜太郎さん、こんばんは。
鳴尾墓地、あまり広いと思えなかったのですが、様々な歴史の断片があるのですね。このレポート参考にじっくり見て回りたいと思います。ありがとうございました。

[ もしもし ] 2013/12/11 20:31:54 [ 削除 ] [ 通報 ]

>だんごさん
ありがとうございます。
僕みたいなものが生意気に言うことではないように思いますが、墓地で思うのは、歴史とは結局各々の人生が重なりあい波となり渦を成し流れ流れて形作っているものだということです。近所の墓地には身近な人たちが眠っていますので、歴史も身近に思えてくるのかも。西南の役に鳴尾から出征して戦死者が出ている、なんてのは。近くは平成7年という年号があって、これは後世の人が感慨を持つのではないでしょうか。
だんごさんのおっしゃること、よくわかります。死ねば少なくともこの世では無になるのなら、せめて名を刻んでおきたい。それは濃く生きた人であるならば、ある意味執念なのかもしれません。
同時に、せめて名を残してあげたいと思う残された人々の思いもまた、感ぜられます。そんな人生模様も、墓地にはありますねぇ。

[ 凛太郎 ] 2013/12/12 6:14:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

>もしもしさん
ありがとうございます。やはり、昔からある墓地は様々ありますね。満池谷はともかく、山のほうに新しく出来た広域墓地などではおそらくこうはいかない。甲山墓園や白水峡が歴史を刻むのは、これからだと思います。
上鳴尾墓地に限らず、霊が鎮まっているところには「聖地」とされる場所もあると思います。またお参りされて下さい。僕のような墓石の裏をジロジロ見るような墓地の参り方は本筋と離れていることは自覚していますが(汗)。

[ 凛太郎 ] 2013/12/12 6:17:46 [ 削除 ] [ 通報 ]

記事に関係なくすみません。コメントいただいた越水墓地の場所がわからずにおります。越水町周辺の墓地で検索してもでてきません。写真の後は市営住宅にも見えますので、満池谷墓地の一部でしょうか?見に行ってみるつもりです。

[ seitaro ] 2013/12/15 17:37:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

越水墓地は神垣町にあります。道に面していないのでわかりにくいんです(汗)。うーんと文章では書きにくい(僕がこのあたりの地理をよく理解していない)。googleマップで見ますと番地は10です。

[ 凛太郎 ] 2013/12/16 7:40:01 [ 削除 ] [ 通報 ]

ありがとうございました。今週にでも訪ねてみようと思います。

[ seitaro ] 2013/12/16 9:32:46 [ 削除 ] [ 通報 ]

>seitaroさん
旧村の墓地の場所などは、一度まとめてみたいと思います。

[ 凛太郎 ] 2013/12/17 5:52:36 [ 削除 ] [ 通報 ]

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鳴尾の古い石造物をたずねて(五)

 上鳴尾墓地観光案内(?)の続きです。

 墓地ですから、当然墓石を中心として様々な石造物があります。お地蔵さんなどの仏像もあります。
 しかしよくわからないものもあるんです。例えばこういうもの。

 

  立派な石碑です。そんなに古いものではなく手前は大正、奥は昭和(戦前)です。両方とも「高野山」とありまして「講中」の文言もありますから、高野山講(?)の記念碑であるのかも。伊勢講や大峰講など、信仰団体は昔は数多くあったと聞いていますし、高野山にも講が組まれて鳴尾から参拝に行かれていたときのものだとも考えられますが、真ん中には個人名が刻まれています。墓石かもしれない。
 こういうものは、墓地内に他にもあります。

 

 しかし、崩れ落ちてしまっているものも。震災の影響でしょうか。直してあげたいのですがそんな超人的パワーは持ち合わせていません。\(||_ _)/ オテアゲ

 前回書きました佐々氏供養塔の西側、高野山講碑の裏側に、忠魂碑が建っています。供養塔と同様、隙間もなく墓が並ぶ中で広い場所を確保しています。

 

 忠魂碑は戦没者慰霊碑ですが、これは太平洋戦争ではなく日露戦争のものです。「明治三十七八年」と刻まれています。側面に各々の戦死者の様子が記されてい ます。「明治三十七年八月三十日於清國遼陽付近戦死陸軍歩兵一等卒勲八等…」などと。左二つのお墓も日露戦争のものと思われます。
 左のお墓のように、戦没者の墓は先が尖った神道系の墓としてまつられるのが一般的です。ところが、右側の三基の墓は、普通の形状です。

 

 このお墓は、何と西南の役の戦没者です。裏面に、そのように墓標が刻まれています。

 

 日本の徴兵制は明治6年に始まりました。しかし各地に鎮台がおかれたものの当初はやはり元武士が中心であり、台湾出兵などはまだまだ士族で編成されていました。本格的に「国民皆兵」として出発したのは、明治10年の西南戦争が最初と言えます。
 この「血税」とも言われた徴兵制は鳴尾村にも及び、そして戦死者が生まれてしまったということです。
 戦没者の墓がいつからオベリスクのような形状になっていったのか、ということも、また考えてみたいですね。

 あちこちのお墓を見てゆきます。
 僕は金石文好きで、ことに昔の元号を見て喜ぶというヘンな趣味を有しています。で、先ほどから元禄とか正徳とか万延とかわいわい言っているわけです。それが高じて元号コレクションなんて記事をアップしたこともありましたが、ここ上鳴尾墓地にも江戸時代の元号がわんさかあります。
 やっぱり後期の年号が多く、文化、天保、嘉永なんてのはたくさんあります。

 

 享和というのは200年前の元号ですが、ここまではっきり残っているのは珍しいなと。享保と異なり短期間だったので数が少なく。思わず莞爾として、手を合わせ、パシャ。

 さて、墓地なのでそんなふうにお墓を見てゆきます。こういうものをブログにアップしていいのかどうかは迷いますが、見ごたえもありますので。

 西宮では姓に馬が付く名家が多いことは良く知られ、その代表として白鹿や白鷹の辰馬家が存在しますが、鳴尾にも辰馬さんがいらっしゃいます。西宮の辰馬氏とは別の家です。区別して鳴尾辰馬家とも言われます。
 やはり蔵元で、酒造業は貞享年間、それに付随した廻船業は文化・文政あたりから始め、新酒番船で一位をとり、幕末にはその銘柄「東自慢」は灘五郷のトップクラスへと躍り出ます。
 その辰馬氏のお墓が、墓地東北隅あたりにずらりと並んでいます。

 

 こちらは、十四代当主辰馬烈叟氏のお墓です。天保九年に生まれ、明治の辰馬家の隆盛を担い、また鳴尾村の発展に尽力された鳴尾の名士です。寿公園にある銅像の台座の上には、戦争で供出される前は烈叟氏が居たのです。明治34年没。
 なんで烈叟さんのお墓とわかるのかは、裏面に墓標が刻まれているからです。
 

 

 こんなふうに、晩称烈叟、通称半右衛門と。
 余談ですが、このように多くの墓には墓標として履歴が刻まれていますのでわかりやすいんです。だいたい漢文ですが、日本人がつづったものですからさほど難しくなく僕でも何とか読めます。しかしこの烈叟さんの「晩稱」の晩は、日と免がひっくりかえってますな(汗)。思わず漢和辞典を引いてしまいましたよ。
 この裏面の墓標も、古いものは風化また崩落があります。崩落は震災の影響もあるのかもしれません。

 さて、十五代当主の辰馬半右衛門氏(名は代々襲われています)の時代に、辰馬家は傾いてしまいます。家業の海運と酒造業は手放され、「東自慢」は白雪の小西酒造が買収します。
  しかしこれは「時運」というものでしょう。十五代半右衛門氏は、ずいぶんと鳴尾の発展に尽くされました。例えば鳴尾百花園を開いたのも、阪神電車の線路を 南にぐっと引き寄せたのも(そのために土地を提供したのも)半右衛門さんです。経営から退かれた後は、鳴尾村長を務められました。昭和38年没。

 

 辰馬家の墓石がずらり並ぶ中、十五代半右衛門さんは単独のお墓を作られませんでした。墓石側面筆頭にその名が刻まれるのみです。鳴尾村長を2度務めたこの名士の、いろいろな思いがまた伝わってくるようでもあります。

  辰馬家墓域の隣には、高須家のお墓が並びます。高須家も名家として知られ、武庫川団地のある高須町も、高須氏に由来していると言われます。庄屋さんも務められ、綿問屋としても隆盛されたと。前回、佐々氏供養塔の石碑銘文を紹介しましたが、その中の「高濱ニ氏」というのは、高須氏と濱氏を指すようです。
 鳴尾は、明治22年に小松、小曽根、上田新田と合併して、戦後まで続く鳴尾村を形成します。その初代村長が、高須和一郎氏です。
 

 

 やはり裏面には墓標が刻まれています。これを読むと、高須家そして和一郎氏の歴史からもまた様々なことが伝わってきます。やはり、激動の時代だったのだなと。

 他にも、鳴尾の発展にかかわる様々な人のお墓がここにはあります。そういった人たちの墓標を読むこともまた、郷土を知り思いを馳せることに繋がると思うのです。

 さて、上鳴尾墓地で最も目立つお墓は、こちらかもしれません。西南隅にあって、通りからもすぐ目に付きます。何といっても大きい。お相撲さんのお墓です。

 

 小野川という四股名のお相撲さんは、伝説の横綱谷風の63連勝という大記録を止めた名力士として知られ、谷風、雷電と並ぶ江戸時代の大名跡です。もちろんそれは江戸時代の話で、こちらの小野川調五郎さんは明治時代に活躍したお相撲さんです。
 現役時代の四股名は八陣調五郎で、小野川は引退後、部屋を継いで襲名したようです。大阪相撲で横綱格であったと。
 そもそもは西宮の生まれで、鳴尾村に養子に来たのですが、その養父が元力士で「鳴尾潟」という四股名であったと。その薫陶かどうなのか相撲に秀で、辰馬烈叟さんも応援して力士の道へ進まれたそうです。
 
 今回は、古石造物とは言えず近代のものばかりになってしまいました。
 こんなふうに各々のお墓を見ていてはキリもなく、そろそろ終えようと思います。ですがもうひとつだけアップさせていただきたい。これは謎の部分を含みますので、Webに書き記しておけば、何かわかるかもしれないと思いまして。
 ただ、また長くなってしまいました。文章が長くなるのは性分なんです(汗)。その話は、次回に続く。



鳴尾の石造物
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我が地元・旧鳴尾村の記事をありがとうございます。
この墓地の隣の観音寺さんには我が幼馴染の親友とご母堂が納骨されています。

[ せいさん ] 2013/12/10 14:48:58 [ 削除 ] [ 通報 ]

>せいさん
こうやって上鳴尾墓地の話を書かせていただいていますが、僕は小松墓地ってあまりちゃんと歩いたことがないんです。行ったことがある、程度で。上田墓地や中津墓地よりも見ていないかも。そのうち時機を見て訪れたいなと思っています。
次の記事で、観音寺さんについて少し書いています。

[ 凛太郎 ] 2013/12/11 6:19:15 [ 削除 ] [ 通報 ]

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鳴尾の古い石造物をたずねて(四)

 師走はバタバタしますね。僕のように普段(´▽`)ホケッと暮らしている人間でも鬱屈が溜まったりして。
 忙中閑あり。ストレス解消のために、上鳴尾墓地へ行くぞ。(゚∇゚ ;)エッ!?

 この間、果たせずに終わった鳴尾古石造物探しの続きをやろうかと思いまして。こういうことをしていますと、世俗を忘れますのでね。(^^)
  さて前回までに、西方寺で推定鎌倉の宝篋印塔、上鳴尾墓地で推定鎌倉の十三重塔(伝佐々氏供養塔)、推定南北朝の五輪卒塔婆形板碑、推定室町の弥陀板碑、 海清寺で推定南北朝の五輪卒塔婆形板碑、大日種子板碑を確認してきました。これに岡太神社にある平重盛の墓と伝えられる有名な多層塔を加え、7基。
 西宮市史で田岡香逸氏が確認された、鳴尾の室町前期より古い石造物は全部で9基。残るは、推定鎌倉時代の五輪塔の基礎、そして南北朝期の宝篋印塔の塔身です。いずれも上鳴尾墓地にあるはずですが、前回は見つけられなかったのです。

 田岡先生は、鎌倉の五輪塔基礎について、このように記されます。
「墓地の東南寄りにあり、いま残っているのは基礎、すなわち地輪だけで、個人の墓の台石に使われている」
 さらに、花崗岩製で、高さ27.7cm、幅上端35.5cm、四面に梵字が刻まれているとされます。
 

 

 墓地の東南寄りというのは、あの木が立っているあたりです。ではさっそく再チャレンジ。
 前回は、その四面の梵字を頼りに探したんです。しかしそんなの肉眼では見えないほど風化しているかもしれません。今回は、これで。

 

 メジャー持ってきましたよ。( ̄∇ ̄)
 これ僕が小学生のときに、作文で市に表彰されてもらったもんです(笑)。物持ちいいでしょ? しかし何書いたのかさっぱり覚えてませんが(汗)。
 で、古そうなお墓の台石をかたっぱしから測ったんです。

 しかし…該当するものがない。_| ̄|○

 これを持って、失われたとするのは早計です。見落しの可能性もあります。また、どこかに移動しているかもしれない。しかし眼力のない僕にはもうお手上げかもしれません。ぐすん…。

 気を取り直して。もうひとつの南北朝期の宝篋印塔の塔身を探します。
 田岡先生が書かれるには、
「墓地の東北隅の無縁墓にあり、いま残っているのは塔身だけで、花崗岩製であるが、角の損傷がひどい」
 そして、高さ23.4cm幅22.5cmで、四面に梵字が刻まれているとされます。
 先日無縁墓のあたりはかなりくまなく探したのですが、見つけられませんでした。では、再チャレンジ。
 これは、墓の台石ではなく単独で存在しているはずで、縦横高さほぼ同じ長さであり、つまりサイコロ型の石ですよ。ひとつひとつじっくりと…。
 と…最後に見上げた無縁墓ピラミッドの最上段。何やらあります。あれか?!

 

 角が損傷しているサイコロ型の石が、ぽつんと置かれています! あれなのか? まさかあんな上にあるとは全く思わなかったよ(汗)。アップ。

 

 よく見ると、側面に何か刻まれているような気がします。梵字かも。
 休日で墓参の人もちらほらいらっしゃいまして、人目があります。もしも誰の姿もなかったら、僕は寸法を測りに不敬にもピラミッドをよじ登っていたかもしれません(笑)。ですが昼間にそんなバチあたりなことは出来ず(夜でもあかんがな)、ただよだれを垂らして見るだけです。
 しかし…たぶんこれは推定南北朝時代、約650年前の宝篋印塔の一部でしょう。確認はとれませんが。

 これを加えたとして、鳴尾の古石造物を8/9まで追えた、ということにします。うーんコンプリートとはなかなかいかないなぁ…(涙)。

 さて、こんなサイコロ石を見て喜んだり悲しんだりしているのは僕だけで、相当につまんない話を書いているであろうことは承知していますよ。なのでおまけで、少し上鳴尾墓地の観光案内をしてみたいと。

 まず六地蔵さんから。この墓地には、六地蔵が3組おられます。

 

 南正面入り口に並んでおられますが、これは古いですよ。元禄三年(1690)の銘が入っています。300年以上前。芭蕉の奥の細道の頃であり、赤穂浪士の討ち入りはこれより12年後です。歴史を感じますねぇ。隣の南無阿弥陀仏の名号碑も同時期。
 

 

 墓地北側、無縁墓の参道に立たれています。後ろのプレハブは仏堂で、前に紹介した市指定文化財の五輪卒塔婆形板碑があります。この六地蔵さんはいつのものかはわかりませんが、風化具合が均一ではないようにも見えます。

 

 この六地蔵さんに気づかない人もおられるかもしれません。墓地の西南隅にひっそりとおられます。
 よだれかけを数えると七体で、七地蔵かと思ってしまいますが、いちばん右のはお地蔵さんではありません。坐像が刻まれていますが印相が明瞭でなくよくわか りません。阿弥陀さまかなぁ。享保(元禄の次の次の次)の文字が読み取れ、隣の名号碑には正徳と。正徳(元禄の次の次)はなかなかありませんよ。元号マニアとしては嬉しい。八松村(鳴尾の枝村)と刻まれていてこれも嬉しい。お地蔵さんに元号はありませんが、同時期なら相当昔です。

 

 仏堂と言っていいのか、あずまやに近いのですが、仏さんがまつられてます。五輪卒塔婆形板碑がある壇上のプレハブといい、こういうのはもしもしさんの聖地に入るのかなー?

 

 仏さんが2体おられますが、左の仏さんは顔がありません(汗)。どうしたことでしょうか。
 着ておられる衣といい頭部といい如来かと思うのですが「観音講」の文字が前に刻まれてますので観音さまかな。鎌倉の大仏も観音ですから、そう考えておきます。右の仏さんもはっきりしませんが、「万延」の元号があります。幕末ですが、万延は一年なかったのでなかなかありませんよー。

 上鳴尾墓地の目玉といえば何といっても佐々氏供養塔。推定鎌倉時代のもので、墓地の中心にそびえています。
  これの歴史的いわれについては長くなりますので端折りますが、佐々氏とはあの佐々成政の佐々で、鳴尾佐々氏は成政の従兄弟の佐々政治が鳴尾領主となり始ま ります。5代目の殿中刃傷事件でお家取り潰しとなり以後鳴尾村は天領になります。そのときこの供養塔は西方寺に埋め隠され、ほとぼりが冷めた天保15年に九層だけ掘り出されここに建て直されます。明治30年に西方寺から残された四層ぶんが発掘され、昭和56年にそれを合せ現在の形になっています。

 

 前に3つの石碑が建ちます。いちばん左のは、震災で崩れたのを直した復興碑です。右側のは、昭和56年に四層を合せた記念碑として鳴尾文化協会が建立したものです。
 そして、最も古いのは天保時代に九層だけを建てたときの碑です。

 

 資料的に、文言を写し記しておきます。

  佐々家頽
  墳補復銘
 攝津武庫郡鳴尾邑自元龜以前至元祿中佐々
 氏食之故其歴代之墳墓存矣雖後嗣時加脩理
 年代久遠墓碑或不免湮壊吾師詳譽嘗慨之欲
 脩復之而不果焉余繼其志謀之村長濱二氏
 拾集頽石整爲九層塔勒石記其事原塔盖十三
 層重脩之功俟後人繼吾志也銘曰
 人身歸空 色即在墳 墳亦欲没 脩傳後昆
   時天保十五年歳次甲辰夏四月建之
         西方精舎現住徹譽

 長くなりました(汗)。まだ紹介したいものも多いので、さらに次回に続く。


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凜太郎さん、こんばんは。
ありがとうございます。上鳴尾墓地のレポート。
あの墓石の塔を見てから、ちょっと怖くて近寄れないところだったのです。(笑)
六地蔵さんとか、興味深い石仏さまもいらっしゃるので、一度ちゃんとお参りしてこうようと思います。

[ もしもし ] 2013/12/09 1:02:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

>もしもしさん
レポートというには拙いものですが、墓地にはさまざまに興味深いものがありますね。上鳴尾墓地に限らず、時間をひねくりだしていろいろな墓地を見て歩きたくなります。
確かにちょっと怖い部分もありますが(笑)。好奇心のあまり、無縁仏の山に一瞬でも登ろうと思ったことを深く反省しております(汗)。

[ 凛太郎 ] 2013/12/10 5:54:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

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