凛太郎の自転車操業

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西宮の旧村落36 名塩村(1)

 さて、木之元を先に書きまして、いよいよ名塩村の中心へと歩を進めるわけですが…。少しクドい話を書きますが勘弁してください。
 僕は「江戸の旧村落を訪ねる」などと偉そうなお題を書いていますが、実際は神社と寺と墓地を探して歩いているわけです。それほど複雑なことはしていないつもりです。
 ですが村によっては、寺も神社もえらくややこしいところがありました。今まででも難渋してしまった村があります。これからもそうでしょう。そんな簡単なものじゃなかった(汗)。
 しかし寺社は、ある程度文献資料というものがあります。先行研究も多いので、何とか素人でもそれなりに格好がつくところもありました。しかし墓地は文献が少なく、苦労しています。
 名塩は、墓地を訪ね歩く上で、市域では最も難しい村なのではないかと思います。少なくとも僕にとってはそうでした。

 基本的には、村に共同墓地は1ヶ所です。西宮とか今津のように広い町村ですといくつかあったりもしますが、小さな村にはあまりたくさんの墓地はない。例外は山口地区ですが、それでも驚くほどではない。名来村に4ヶ所あったとしても、ちょっと分離しているだけでおおまかに見れば2ヶ所です。まして名塩は、山間のごく小さな村落です。石高も人口もさほどではない。まず1ヶ所だろう、と思っていました。その1ヶ所は既に知っています。ラントウと呼ばれる墓所で、億川百記や東山弥右衛門の供養塔があり、以前に訪れたことがあります。
 しかし名塩はそんな一筋縄でいく場所ではなかったのです。このシリーズ第1話に、そのことを少し書きました。もしもしさんの記事を見てびっくりするくだりです。
 名塩は、市域南部に住む僕にとって、じゃあ自転車で探しに行くか、と気軽に言える場所ではありません。やはり事前勉強がどうしても必要です。
 で、名塩の村墓地について調べることにしたのですが。

 墓地の所在について、まず頼りになるのは明治初年につくられた地誌です。地誌とはどういうものかについては下新田村のときにふれたことがあります。有難いことに名塩には地誌が残っていて「名塩史」に資料として掲載されています。それを見て、はっきり言ってあたしゃ驚きました。以下引用。
 
  墳墓 火葬地 本村東南東方字西垣内ニアリ。
  同上 同方位字篝山ニアリ。
  同上 本村東方字東山ノ内東谷ニアリ。
  同上 本村東南東方字中ノ坂ニアリ。
  同上 本村北東方字庵ノ上ニアリ。
  同上 本村西方字北谷田ニアリ。
  同上 本村西北西方字上南畑ニアリ。

 7ヶ所かよっ!! ( ̄□ ̄;)!!ガーン
 しかも、北谷田とか南畑とか言われても、それがどこなのかさっぱりわかりません。昔の字名は、全て統合され名塩1丁目とかそういうのになっていますので、見ただけでは特定できないのです。
 わたくし、名塩はそんなに詳しいわけじゃありません。何回か行ったことがある、程度です。なので、大変に苦労しました。
 その苦労譚を書いていますと一話終わってしまいますのである程度端折ります。探しますと名塩の資料は「名塩史」だけではなく「なじおの年中行事」という民俗学的なものもあり、そこには墓地のこともある程度記載がありました。そして、名塩の墓は飛び地集落である木之元、東久保に各1ヶ所、そして本村に「東の墓」「西の墓」「山条の墓」「上の墓」「ラントウ」とあることがわかってきました。本村については簡単な絵図もあり、だいたいの場所は推定できました。
 これで7つです。なので、もう訪ねればいいだけのような気がしますが。
 ところがですよ。これが上記名塩村地誌の字名と合致しない。
 比定してゆきます。「字西垣内=木之元墓地」「字中ノ坂=山条の墓」「字庵ノ上=上の墓」「字北谷田=西の墓」「字上南畑=東久保墓地」。以上5ヶ所は何とか。あとは東の墓とラントウなんですが。
 地誌を再び見ます。あと2つは、「同方位(東南東)字篝山」「東方字東山ノ内東谷」どっちも村の東です。ですがラントウは村の西にあるのですよ(汗)。
 いろいろ考え、調べられるところは調べたと思います。しかしわからない。
 地誌の「字地一覧」には「卵塔」というそのものズバリの字地があります。そこが、ラントウの場所かもしれません。そして「字篝山」「字東山東谷」のうちどちらかが東の墓。たぶん字東山東谷のほうだと思うのですが。そして篝山墓地は、失われたか。あるいは資料に載らない墓地が今もあるのか。
 しかし解せないのは、地誌記載の7墓地にラントウが含まれていないと思われることです。ラントウは、おそらく名塩で最も大きな墓地です。そして明治初期にまだあの場所に墓地がなかった、とは考えにくい。
 これが通常の村であれば、名塩村は両墓制であり7つの墓地は埋め墓で、ラントウは詣り墓なのだ、と結論付けるところなんですが。ラントウという言葉は民俗学の本などを読んでいますと詣り墓によく使用される言葉なのです。埋葬スペースが要らないため墓石が隙間無く並ぶので卵塔ではなく乱塔なのかもしれません。例えば、同じ有馬郡の唐櫃村では「ダント場」という言葉を使っていたようです。
 しかし、ここは何といっても市域随一の浄土真宗村です。浄土真宗は火葬を旨としていて、そのことは前述の「なじおの年中行事」などにも書かれています。名塩は昔から火葬。地誌も「墳墓 火葬地」と書いていて「埋葬地」とは書いていません。両墓制の可能性は少ないのです。
 結局僕は今もわからずにいます。
 ※この件について追記しました。(→西宮の旧村落80 補遺)

 四の五の言ってても始まりません。わかっているところだけでも訪ねてゆこうと思います。木之元から国道176号線を西へ。現在の「名塩の中心」とも言える西宮名塩ニュータウンを過ぎると、左手(南側)に東の墓が見えてくるはずです。
 実は、墓地の位置を事前に調べているときに「この東の墓はちょっと覚えがあるな」と思いました。確か国道を走っていると墓地があったような気がする。僕はそういうのはわりと気になるのです。ただまさか昔は墓地記事を連載するなどとは思っていなかったので、寄ったことはありません。
 名塩ニュータウンを過ぎ、視線を左へ。さすれば…。

 


 遅かったか!!
 何か工事をしています。ここに確か墓地があったと思ったのに。
 しかし墓地は、整備されて工事地区の隣に存在していました。

 


 実は、行ったのは今年の1月です(記事にするのを後回しにしてました^^;)。そのときには、このように整備改装されていました。でも、東の墓は現在も存在したわけです。ただ古い墓石や江戸期の名残のようなものは、残念ながらありませんでした。

 次に、山条(やまんじょ)の墓を訪ねます。これは、もしもしさんが名塩巡礼で見られた墓地です。つまり「西宮の地蔵」を頼りにすれば辿り着ける場所です。
 坂道を上がると、見えてきました。字中ノ坂の墓地です。

 


 ところが、墓地は改修工事をしていまして。人がたくさんおられます。これはウロウロしたり写真を撮ったりすることはさすがに出来ません。
 なのでざっと見た感じですが、江戸期の墓石は無いようですね。ただ墓地の上手に、南無阿弥陀仏の六字名号碑がありました。おそらく葬儀に用いられたものだと思います。
 実は、1月に名塩に行って後に、名塩探史会が製作された「名塩雑事記」という書籍を手にしました。これは名塩の歴史を民俗学的視点でまとめられたもので大変に参考になったのですが、昨年12月に上梓されたものでこのときはその存在を知りませんでした(汗)。
 「名塩雑事記」には、昭和60年の調査として、墓地の明治以前の墓石の銘文が網羅されています。それを見ますと、東の墓にも山条の墓にも江戸期の墓石が存在していたことがわかります。しかし以来30年、どうも整備が進んでそれらは墓地からは失われているようです。

 


 わずかに撮った画像ですが、この後ろに僧侶のお墓らしき墓石がありました。それは、名塩雑事記によれば江戸時代の墓石だったかもしれません。

 さて、山条の墓を下り、集落の狭隘でクネクネした道を西へ。しばらくゆくと教行寺が見えますので、そこから山を上がります。その先が「上の墓」のはずです。
 と、簡単に巡っているように書いてますが、この間ずいぶん迷っています。(ノ_-;)ハア…

 


 見えてきました。字庵ノ上の墓地です。

 


 画像ではわからないと思いますが、実は雪が結構残っています。そういう時に来たのです。

 


 墓地の中ほどに、六字名号碑がありました。これは、名塩の村落共同墓地に共通しているものでしょうかね。おそらくは斎場が前にあったものと思われます。

 


 慶応3年の墓石がありました。
 さて、ここからはちょっと江戸時代から外れますし、出していい画像か迷うところですが、歴史的な墓石なので申し訳ありませんが書かせていただきます。
 名塩村は、また次回に少し触れようとは思いますが「名塩御坊教行寺」を中心とした浄土真宗の非常に盛んな村です。ですが、上の墓の奥のほうは、なんとキリスト教墓地になっていました。予備知識ゼロだったものでびっくりしました。
 さらにそのクリスチャン墓地に並ぶ墓石を見て、本当に驚きました。

 僕は以前、幕末の名塩に開かれた蘭学塾について調べたことがあります。緒方洪庵、伊藤慎蔵、億川百記、弓場為政らの事績について、様々な資料を読みました(→ちょっと歴史っぽい西宮)。
 驚くほどの文化学究の花がこの時期の名塩に咲いたのですが、その子孫の方々がこちらに眠られていたのです。

 


 いちばん手前は、弓場才三郎氏のお墓です。大坂の緒方洪庵の適塾に学び、適塾の塾頭だった伊藤慎蔵を助け蘭学塾を開いた弓場為政の次男で、生瀬村と名塩村の合併後、塩瀬村の助役を務められています。名塩の共有林の伐採禁止など名塩財産区の基盤作りに尽力され、名塩小学校には頌徳碑が建っています。
 才三郎氏の長男為之助氏は塩瀬村の村長を務められましたが、のちにブラジルに移住されます。そのあたりのことは山下忠男先生の「名塩・その進取の気風」に詳しく書かれており、そのご講演を明日香亮さんがまとめられています(→山口を歩く)。
 ひとつ置いて奥の自然石のお墓は億川三郎氏で、緒方洪庵の岳父である億川百記の孫にあたられます。その向うには、億川家のお墓がずらりと並んでいました。最奥には、名医であり医史学の権威であった三郎氏のご子息億川摂三氏もおられました。

 


 向かい側は、緒方家の墓所でした。弓場為政の娘さんが緒方洪庵の養女となり、さらに都一郎氏を養子として迎えられています。真ん中のお墓は緒方都一郎氏です。
 ※追記:この部分に訂正があります。コメント欄のぎおん氏のお話をご覧下さい。
 後で調べますと弓場才三郎氏の弟である覚前政吉氏がカナダ留学をきっかけに入信され、司祭にまでなられています。その縁で、弓場家、億川家、緒方家がクリスチャンとなられたそうです。覚前政吉氏も眠られていました。
 僕はしばし上の墓に佇んでしまいました。震えのくる方々がここに鎮まっておられました。

 さて次に、字北谷田の西の墓へと向かいました。
 ところが、西の墓は見つかりません。探し方が悪かったのかもしれませんが、もしかしたらもう廃墓地になっている可能性も。
 実は当該場所は、中国自動車道の名塩SAあたりです。もしかしたらその建設工事が、西の墓にかかってしまったのかもしれません。
 ただSAの工事は昭和40年代に始まっており(一時凍結され開設は昭和63年だが整地は終わっていた)、後に参照した名塩雑事記によれば昭和60年の西の墓の記録があり、工事によるものかどうかはわかりません。もしもまだ存在していたらごめんなさい。

 次回は、八幡神社と3つの寺院、そしてラントウへと向かいます。 


村落墓地

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旧村落と墓地 | コメント( 19 ) | トラックバック( 0)

凛太郎さん、こんにちは。
わたしの寄り道が凛太郎さんがこの大作を始める後押しになったとすれば光栄です。寄り道して良かった。(笑)
村、墓、鎮守、寺のセットで自らの足で歩いて解き明かしていく。非常に興味深く拝読させて頂いています。デリケートな部分もありご苦労も察せられますが、今後も期待していまう。

[ もしもし ] 2014/06/19 12:53:51 [ 削除 ] [ 通報 ]

凛太郎さん、こんにちは。
ちょっと気になって調べていたら、こんなページがありました。
http://page758.web.fc2.com/ この真ん中あたりの工事のところに一つだけ残ったお墓の話がでてきます。googleMapしてみると「兵庫県西宮市名塩2丁目2」の西の方に墓地らしきものが確認できます。西の墓ではないでしょうか?
東の墓周辺道路の工事記録がありました。
http://www.daikikensetsu.co.jp/products/civil/index.php?id=1

[ もしもし ] 2014/06/19 15:10:20 [ 削除 ] [ 通報 ]

>もしもしさん
うわー西の墓やっぱりありましたか! (゚〇゚ ;)
名塩雑事記を読んで、これはあるかもなぁ…と思って上のような書き方にしたのですが、やはり移転して存在したか…。
ご紹介いただいたサイト「わが町・名塩」においては昨年時点で「近くに移動している」と書かれていますが、その移転先はおそらくもしもしさんが見つけられた場所でしょう。僕は名塩小の南あたりばかり探していました。
ありがとうございました。m(_ _;)m
いずれ訪れて追記したいとは思いますが…その前にググれってことですね(笑)。
自分がWebで書いているくせにWebを精査していない。反省です。東の墓のことも何ひとつググらず現地に行ってます。googlemapという手もあるんですねぇ。これじゃあいかんわ。Webってのは玉石混合ですから難しいのですが、以後習慣づけるようにします。(〃´o`)=3

おっしゃるように、なかなか触れにくい部分もあり難しいわけです。以後大社、西宮、今津と人口密度の高いところを書いていきますので、なおさらです。しかし書くべきことは書きたい。今も線引きに悩んでいます。

[ 凛太郎 ] 2014/06/20 6:34:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

凛太郎さん、こんにちは。
わかります。最初に訪れる場所は、できるだけ先入観なしで行きたいですよね。一度行った後に検索して、あちゃぁこんなところもあったのかと再度訪ねることもしばしばです。
グーグルマップのお墓ですが、もしかしたら工事の写真より以前かもしれません。移転して一つのお墓になる前の写真のような気がします。
グーグルマップも、ある時点の航空写真が手に入るので面白いですね。水天宮さんは工事中です。はり半跡は造成中です。

[ もしもし ] 2014/06/20 12:53:44 [ 削除 ] [ 通報 ]

>もしもしさん
まずは僕に能力が無いと申しますか。もしもしさんや他の方がすぐにURLを貼り付けて提示されるのをいつも感心して見ているんです。どうも検索して調べるという発想が欠けているので、このテイタラクですよ(汗)。googlemapも古いPCなんでメモリ不足で重くってめったに開けません。なるほどはり半跡は造成中ですか。
もうひとつは、自転車じゃなかったのがねぇ(笑)。クルマで行ってますんでやっぱり細かいものが目に入らない。それでも名塩はあんな町ですから歩かないと無理ですが、一日じゃ歩ききれませんよね。
僕も先入観なしで行きたい、と申しますか事前調査を面倒くさがっているだけかもしれませんが…その実は早く行きたいわけです(笑)。
もしもしさんが僕の背中を押してくださったと言えば名塩の墓地もそうなんですが、やっぱり鳴尾の宝篋印塔の件です。あの時に僕はもう全墓地回ろうと決めたんです。で、12月から動き始めています。もうこういうのって止まらないんで。いつでも行ける鳴尾今津以外はもう全て回っています(近いと行かない)。なので資料の読み込みは後になり、足らないアタマも使わないといけませんので冬から春、夏になってもまだ連載は半分くらいしか終わりません。

[ 凛太郎 ] 2014/06/21 7:20:22 [ 削除 ] [ 通報 ]

凛太郎さん、こんばんは。
あまり無理なさらないでくださいね。私がいろいろ検索しているのは、凛太郎さんのこの村、墓、鎮守、寺の視点で西宮の歴史を再構築する試みを非常に興味深く、ぜひとも価値あるものに仕上げて欲しいから、応援の意味です。プレッシャーになってしまっているかもしれませんが、それだけ期待しています。
自動車はしんどいですよね。自転車でも見落としがあったりして。最近は、歩き中心に変えようと思っています。時間はかかりますが、何回もいけばいいだけと割り切っています。焦らず、じっくり取り組みましょう。

[ もしもし ] 2014/06/21 22:36:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

>もしもしさん
いやどうもすみません。お言葉に甘え、僕はとにかく紙資料中心でひたすら本を読んで(笑)、upしていきたいと思います。時間が無限にあるわけではありませんしねぇ(汗)。
ただ検索も必要かなと思います。既にWebに上がっている事柄は僕が書くこともないわけですから。リンク張ればいい。二番煎じはつまんないことです。
ウロウロすることはつまり小旅行であり、その旅行記をWebにupするのはいいことだと思います。楽しい♪ ですが、説明にWikipediaをコピペしているだけのものをしばしば見ます。あんなのネットのノイズです。書籍からの引用はメディアが異なるので必要ですが、コピペならリンク張りなさい。Wikipediaはwikiなので可変だから引用したとするならば、そこから自分で考えたことを自分の言葉で書きなさい、と思わず言いたくなります。横から横へ、という安易なものが多すぎて、何故かgoogleはそういうものをよく拾う。ウラとってない情報も多すぎますし。
おっと話がヘンな方向に(汗)。
まあその、趣味の範囲内ではありますが一生懸命書いて、今読まれなくてもいいからWebには置いておきたいと思っています。西宮砲台のこともそうですが、いつか誰かが見つけてくれるだろうと信じてせっせとWebにupしていきたいと思いますよ(笑)。

[ 凛太郎 ] 2014/06/22 7:29:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

 こんにちは。はじめて拝見します。郷土愛を感じる素晴らしいブログですね!
 こちらは緒方家ゆかりのものです。名塩関係資料で一部誤りがございますので情報提供の意味もこめてコメント欄を拝借いたします。

 緒方洪庵の養女サキの夫・緒方精哉は医師で英学者(明治11年没56歳)。医師・太田主計の二男で旧名を太田精一と云います。名塩のほか、京、大坂、尼崎などで開業医。門人に3名の名があることから墓碑に「緒方精哉先生」とあるのではないかと思われます。サキは緒方洪庵の養女でしたが、実家名塩の弓場家で暮らしていました。この夫婦の長男が都一郎です。慶應を出て大蔵省造幣局に出仕もインフルエンザで明治24年に25歳で夭逝。二男の幸次郎は、大阪の真島家へ養子に入り、真島製紙所、富士製紙を経て、王子製紙取締役、90歳の長命をえて東京で没。三男の隆吉は緒方家を継ぎ、御子孫は広島に在住。写真に写っているのは、左から緒方家、都一郎氏、精哉・サキ夫妻、隆吉氏。真島幸次郎氏の墓所は東京・小平霊園。ちなみに、この真島家は緒方洪庵の親戚筋にあたる大阪今橋の眼科医真島家です(眼科医は第24代隆斎で廃業)。真島家の菩提寺は大阪の梅松院。緒方精哉の実父・太田主計の墓所は大阪の浄春寺。太田家の出自は日向国城ヶ崎です。

 それではこれからも頑張ってください。また拝見させてくださいませ。失礼します。

[ ぎおん ] 2014/09/06 17:07:28 [ 削除 ] [ 通報 ]

>ぎおん様
ありがとうございます!
緒方家にゆかりある方からコメントをいただくとは考えてもいませんでしたので、大変に恐縮でしております。しかしまた望外の喜びでもあります。

お話には驚きました。なるほどそうでしたか。
僕はこの部分は「名塩史」を参考文献としているのですが、「名塩出身の著名人」として覚前政吉氏に続いて真島幸次郎氏が挙げられているわけです。その説明に、
「明治六年一月六日、名塩在住の緒方都一郎の次男に生まれた。母は弓場為政の三女サキで緒方洪庵家の養女、父都一郎はその婿養子である」となっています。
他所にもサキさんと都一郎氏が夫婦である旨の記述がありますので、名塩史は全面的に誤解していることになります。
ぎおん様は「名塩関係資料で一部誤り」とお書きいただいていますので、このことはもうご承知なのだろうと思われますが、こういうものをどのように訂正していくかということは非常に難しい問題です。通常出版物のように第二版から訂正、というものではありませんので。また僕のように引用する人も出てきます。困りますね…。
ともかくも、ご指摘ありがとうございました。

[ 凛太郎 ] 2014/09/07 13:50:48 [ 削除 ] [ 通報 ]

凛太郎さま、こちらこそ良い機会を与えていただきましてありがとうございます。名塩史編纂関係者の方からの当家宛の古い手紙のなかに、当該記述に関する誤りのお詫びがありました。思うに昔は親族関係が複雑ですし政治体制の変化もあります。そこに個人の改名や通称の使用もありますと混同がおきてしまうと思います。編者の方々の苦労はいかばかりか。ですから決してその本の価値が落ちるとは思いません。名塩の皆さんの郷土愛の結晶です。御指摘の『名塩史』のその部分に関しましては、当家の資料では、緒方サキは明治42年(1909)没 享年68。覚前政吉は大正13年(1924)没 享年61となっていまして生年を計算しますと20歳超サキのほうが年長になるので、どうやらサキは為政の長女で政吉は末弟になるのではないかと思われます。ところで

[ ぎおん ] 2014/09/13 15:56:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

すみません切れてしまいましたので続けての投稿をご容赦願います。

ところで最近中山沃氏が著した『緒方惟準伝』(平成24)のなかに「太田精一」として緒方精哉がとりあげられています(P624−P628)ここでは、緒方精哉と太田精一が同一人物で都一郎はその子供である旨が記されています。ですからその誤りはいずれ周知されるかと思います。しかしその先に問題箇所が2点ありました。ひとつは、洪庵夫人の八重の手紙に触れていて、洪庵の法事にあたって太田精一が洪庵は斬られて死んだと言いふらしている、という記述から八重が不快感をあらわしている、と書いているところです。しかし当家の「緒方サキの手記」を読みますと、緒方洪庵の死後49日の法事の日に緒方精哉(太田精一)が大坂に向かう、まさにその朝、緒方精哉の京室町宅に居候していた洪庵の親戚で足守藩の大藤祐蔵なる人物が浪人に斬り殺されたことを伝える飛脚が来た、との記述があるのです。これが伝言ゲームの誤配で、八重の耳に入るときに間違って伝わったものと考えられます。八重が怒るのももっともですが、事実は緒方洪庵の法事の日に緒方洪庵の親戚が斬られたのです。完全に八重の誤解なのです。それを知った緒方精哉はその足で帰ったとありますので法事には参加できなかったと考えられます。もうひとつ。中山氏は太田精一は勝手に緒方姓を名のったのではないかと疑問を呈されてますが、緒方精哉は医師で英学者であったので行動範囲が広く、名塩のほか、宮崎、大坂、尼崎、長崎、京室町、静岡、江戸、果ては漂流して八丈島まで行っているところをみると、サキと結婚しても姓名を統一できなかったのではないかと考えています。当家に緒方精哉(太田精一)とサキの結婚に関して洪庵から名塩の億川家に宛てた書簡の写しがありますので”勝手に改姓した”とは考えられません。たとえそうだったとしても「緒方サキの手記」を読む限り緒方精哉は、辛抱強く、惻隠の情があって、緒方の名に恥じない方だと推察します。ちなみに著者の中山氏は出版したその年にお亡くなりになったとのこと。詮無いことです。

凛太郎さま、長々とすみません。多少の誤まりには臆せずこれからも頑張ってくださいませ!他の記事も拝見いたしましたがスゴいですね。いつかゆっくり西宮を旅してみたくなりました。失礼いたします。

[ ぎおん ] 2014/09/13 16:03:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

>ぎおん様
本当にありがとうございます。お話、興味深く拝読させていただきました。
歴史的には、100年から150年くらい前の話です。日本書紀等から考えますと「たかだか」と言ってもいい。今は100歳まで生きる人はたくさんいます。しかしその近い過去を復元するのすら、微に入り細を穿つとなればこれほど難しいとは。名塩の幕末から明治の歴史において、億川家と弓場家、そして緒方家の方々を語ることは欠くことのできない最重要事項であると認識していたのですが。
サキさんは御長女の可能性が高くなるわけですか。その御年齢ですと、才三郎氏よりも御年長、確かその上にも男子がおられたと思いますが、年齢差を考えますと第一子であった可能性も高いですね。
そうなると「養女」ということの重みが全く変わってくるように思うのです。三女、末娘という立場よりも。
緒方精哉氏(太田精一氏)のこともまた、難しいお話ですね。ことは名誉に関わります。
一次史料がひとつだけ存在する場合、その史料が絶対的なものになりそこから研究がなされ資料書籍が生まれます。そして定着すると他史料が出てきてもなかなか覆せない。そういう事例は山ほどあります。
ただひとつ救いがあるとすれば、今はこういう時代ですので研究者すらWeb検索も併用されると聞きます。したがいWeb上にこうしたお話を置いておくことは、大変重要だと思います。全くのところ場所が泡沫ブログで申し訳ありませんが、このお話は非常に歴史的価値があります。より多くの方々にこのお話が閲覧されることを強く願います。貴重なお話を本当にありがとうございました。

[ 凛太郎 ] 2014/09/14 7:43:36 [ 削除 ] [ 通報 ]

凛太郎さま、格別なお言葉ありがとうございます。おっしゃるように一次資料が真実かと言えば、必ずしもそうではないのです。たかだか?100年なのですが・・・。そこが難しいところですね。ただあの時代を築いた方々は少々の間違いを気にするような器の持ち主ではないと思いますので、今の我々は先達に甘えて誤解や誤読をしてでも幅広く議論や研究すべきですね!
サキの話の続きですが。結婚はサキが18歳、精哉(太田精一)が35、36歳くらいの歳で、精哉は前妻と死別していて2回目なのです。手紙には日付しかないので年号は安政3年〜5年くらい西暦1856〜1858くらいです。洪庵の手紙には、弓場家から緒方家の養女となっていたサキが大坂の洪庵夫妻と一緒に暮らしていたみたいなのですが、洪庵が、高麗橋筋の借家で医者をしていた精哉とサキの結婚を、名塩の億川、弓場家に相談なしで決めてしまい、億川信哉宛てにバツが悪そうに”太田精一”のプロフィールを送り、弓場為政と相談して早くOKをください、というものなんです(笑)サキはもう洪庵の子なのですが、勝手にいかない時代なのですね。この結婚の直後精哉はコレラに罹って危なかったのですが、洪庵先生の治療で無事恢復したのです。ここでもし命を落としていればこんな話はなかったのですが(笑)ただここには、”太田精一”が婿養子になるとはどこにも書いていないので・・・。しかし、弓場家、億川家、緒方洪庵家の複雑な親族関係をみますと、”勝手に改姓”したというのは、ちょっと考えられません。

[ ぎおん ] 2014/09/15 18:45:21 [ 削除 ] [ 通報 ]

すみません。また切れてしまいましたので連続投稿させてください。

こんなにたくさん書いてしまったので、おっしゃるように検索で凛太郎さまのブログにたどりつく人が多いかもしれません。西宮のみなさんは弓場家のほうに興味があるとおもいますので、弓場為政の関係の資料を最後に掲載させてください。西宮の研究者の方々のたたき台になれば、と思います。

弓場五郎兵衛為政(妻木村てる、てるの妹は億川信哉の妻かや)子供は上から順番に@緒方サキ(夫は緒方精哉、三男隆吉の妻は億川信哉の孫・南岡政江)A弓場七九郎(医師、子の五郎、勇治、貫一も開業医)B野條のぶ(夫は村会議員の野條三郎、子に村長、県会議員の辰三郎)C弓場才三郎(助役兼村長代理、子は村長の為之助、孫に弓場農場の弓場勇、ブラジル聖公会大司祭の弓場繁)D億川信重(のぶえ。夫は億川三郎、子に医師の億川摂三)E覚前政吉(別名は政蔵。慶應幼稚舎教師〜日本聖公会司祭)。以上6人となっています(ただし当家にそのように伝わっているだけで本当のことは分かりません)ちなみに明治初期の弓場家の住まいは有馬郡名塩村211番地となっています。

では、ほんとうに長話ですみませんでした!ごめんください。

[ ぎおん ] 2014/09/15 18:49:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

>ぎおん様
本当にご丁寧にありがとうございます。
このお話ですと、精哉氏とサキさんはまさか自由恋愛ではないでしょうから、洪庵さんが相当に精哉氏を買っていたと推察できますね。やはり「勝手に改姓」ということは考えにくくなってきます。
僕も素人なので誤解・誤読は多く、またブログという場所の気安さで推察に留まらず想像、妄想の類が多くなっていることは全くの反省点ですが、おっしゃるように先達に甘えていろいろ書いていこうかと思います。
書いていただいた弓場家のおまとめは、僕のようなものが見ても大変価値のある資料だと思われます。「ああそうだったのか」と思った点がいくつもあります。
これを書いていただいた場所がこのような粗末なブログなので本当に申し訳ない気持ちでございますが、こちらぎおん様のこのお話で、この記事の価値が大変に上がっています。本当に、多くの方々にこのお話を閲覧していただきたいと強く願っています。
ありがとうございました。

[ 凛太郎 ] 2014/09/16 6:50:26 [ 削除 ] [ 通報 ]

凛太郎さま、もうひとつだけコメント欄を使うのをお許しください。
 実は慶大名誉教授の飯田鼎氏が『三田学会雑誌』95巻1号(2002)の論文のP9−P10の中で「緒方精哉」は明治初期の官僚で経済学者の「若山儀一」の旧名だとしているのです。これは飯田氏の誤解ですが。読んでみると、福澤諭吉の山口良蔵宛書簡の中に「緒方精哉」が記されていて、飯田氏は「緒方精哉」を「若山儀一」だとしているのです。飯田氏が引用したこの福澤諭吉の手紙のなかに「八丈島へ漂着・・」と書かれててますが、当家の緒方サキの手記にも、緒方精哉が元治元年(1864)〜翌慶應元年頃に、船が漂流し八丈島に辿り着き、そこで疱瘡が流行っていたので種痘を試みて島民を治療しながらしばらく暮らした、との記述があるのです。若山儀一の前半生が適塾出身の医師で英学者で若き日に緒方姓をなのったところが緒方精哉(太田精一)のプロフィールと似てるのですが、福澤諭吉の書簡の「緒方精哉」はもちろん「太田精一」のことです。でもこの書簡によって少なくとも緒方洪庵の亡くなった翌年には太田精一は緒方精哉の名で周りから認識されていたことがわかります。論文は「幕末・維新の時期における知識人, その思想と行動 - 慶應義塾」で検索するとPDFで読めますので興味がある方はごらんください。
 凛太郎さま、こちらこそ本当にありがとうございました。感謝いたします。

[ ぎおん ] 2014/09/20 17:08:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

>ぎおん様
飯田氏の論文は当該部分だけですが今読ませていただきました。
本当に泡沫ブログですが何とかGoogleも拾ってくれているので、少しでも周知に役立てばうれしいのですが。
コメント欄については、このような内容であれば今後もご自由にお使いください。ご研究の過程で新たな事柄があった場合などは、Web上に置いておくことで役立つ場合がございます。

[ 凛太郎 ] 2014/09/21 6:26:37 [ 削除 ] [ 通報 ]

ぎおん様
こんにちは初めまして弓場建作と申すものです、貴方が緒方洪庵所縁のある方だと知り、会いたくなり是非あいたいです。私はアメリカのVirginia Lexingtonに住んでいます、生まれはブラジル弓場農場です、3月27日〜4月9日に弓場家、緒方家,億川家、の墓参りいたします。3月30日31日、東京にいますそのときでも会えれば嬉しいです。ご連絡ください。

建音 pyuba@hotmail.com

[ けんさく ] 2017/03/06 0:35:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

ぎおん様
こんにちは初めまして弓場建作と申すものです、貴方が緒方洪庵所縁のある方だと知り、会いたくなり是非あいたいです。私はアメリカのVirginia Lexingtonに住んでいます、生まれはブラジル弓場農場です、3月27日〜4月9日に弓場家、緒方家,億川家、の墓参りいたします。3月30日31日、東京にいますそのときでも会えれば嬉しいです。ご連絡ください。

建音 pyuba@hotmail.com

[ けんさく ] 2017/03/06 4:22:54 [ 削除 ] [ 通報 ]

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