凛太郎の自転車操業

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西宮の旧村落78 浜鳴尾村(2)

 鳴尾村の中心集落は、現在もその雰囲気を色濃く残しています。

 


 このような自動車も通れないような道は、だいたい開発で失われてしまうものです。さらに鳴尾には軍用工場があって空襲に巻き込まれたのに、このあたりは奇跡的に残りました。そして震災の後もなお、この現状を留めています。
 市域に、このような風景が他に無いわけではありません。しかし鳴尾は範囲が大きい。

 


 この入り組んだ路地の集合体を「ミステリーゾーン」と最初に言われたのはZ探偵団さんでしたが、うまく表現されたものだと本当に思います。

 


 質屋の大半さんは、母屋から分れてこの場所に質店を開かれたのが明治20年と大道歳男氏の「なるを」に記されていますが、江戸時代以来だと言われても素直に頷きますよ。

 


 この踏臼支点石説と天秤棒置石説の両説ある石は、いったいいくつあるのでしょうか。どちらにせよ古い史跡です。

 


 ミステリーゾーンの象徴のような石ですね。

 


 この角の標石については、以前記事にしました(→こちら)。 鳴尾は暴れる武庫川の土砂堆積で生まれた土地だと言っても過言ではなく、当然砂地で、田んぼには適していません。そのため商品作物の栽培が盛んになり、江戸後期からは綿が多く作られました。その綿を運ぶために車道となり、道幅を明記する必要があったものと推測されます。
 鳴尾では他に菜種、西瓜も盛んでした。
 「鳴尾に過ぎしは寺、西瓜」という言葉が残っていますが、確かに鳴尾には寺が多い。江戸時代以来のお寺さんは7ヶ寺におよび、うち上鳴尾に3寺(浄願寺・常福寺・観音寺)、そして本郷に4寺です。このうち西方寺は小曽根村で、善教寺は前回紹介しました。
 
 こちらは、乗誓寺さんです。

 


 元亀元年(1570)の創立。浄土真宗本願寺派です。

 


 敷地は狭いながらも、寺院内墓地が確認されます。
 もう1ヶ寺は、西光寺さん。真宗本願寺派ですが、江戸時代は興正寺派でした。

 


 中には入れませんが、幼稚園を経営されておられるので、おそらくお墓は無いでしょう。
 西光寺さんは、鳴尾の他寺院が全て江戸時代以前の創建であることに対し、こちらだけは江戸時代も中期の享保13年(1728)に建っています。そのいきさつについては下瓦林村(3)で書きました。
 瓦木村誌では最初は「寶林寺」という寺院名だったとしています。鳴尾村誌では西光寺はもともとあった寺で中絶しており、「再興」であるとしています。確かに江戸時代は寺院の新規建立は制限されており、再興のほうが認められやすかったと思いますが、詳細はよくわかりません。
 
 村の鎮守社はどこだったのでしょうか。もちろん集落の北には総鎮守たる鳴尾八幡が氏神として存在しています。しかし前回書きましたが、集落内には少なくとも2社の神社が明治末までありました。琴刀比羅神社は海運の神だったとして、素盞嗚神社は江戸期の本郷集落の守り神だった可能性もあります。その当時はおそらく牛頭天王社です。
 疫病封じとしての牛頭天王社は、多くの村落で祀られています。西宮市域ではそう目立たないのですが(森具と中村と生瀬くらいしか思い当たらない)、鳴尾では中津、八松、また小松でも摂社扱いでしたがかなり盛大に祀られていました。尼崎ではスサノオ神社だらけです。現存しているだけで20社くらいあるのではないですか。みな氏神として祀られています。ことに武庫郡(旧武庫村・大庄村)には多い。これらスサノオ神社は皆、江戸期は牛頭天王社だったと考えられます。
 尼崎の鳴尾寄りにこれだけ牛頭天王社があったのなら、あるいは鳴尾本郷でも…とも思いますが、よくわかりません。今は旧家はだいたい鳴尾八幡神社の氏子さんではないでしょうか。

 最後に、上鳴尾墓地に行って終わろうと思います。

 


 何度も紹介していますが、こちらが鳴尾本郷の人々の旅立ちを見送ってこられた六地蔵さんです。
 上鳴尾墓地はこれまで記事を多く書いています(石造物C石造物D石造物E葬式と墓石など)。
 なので以前書いたことは繰り返しませんが、これらを書いて後、僕は一年かけて西宮市域の全村落墓地を回りました。そして、比べて気が付いたことがあります。

 まず、立地なんですが。
 この場所は、集落に近すぎるのです。ほぼ3つの村に隣接していると言っていい。上鳴尾全体として考えれば、集落の中心は鳴尾八幡神社でもなくお寺でもなく、この上鳴尾墓地です。こんな村落墓地は他にありません。
 どこでも、墓地は基本的には村の外れです。上新田墓地は集落の近くですが、あれは両墓制の「詣り墓」で、埋葬地は貝之介墓地だったのではないかと僕は思っています。
 しかし上鳴尾墓地は、まず埋葬墓だったでしょう。
 似た形として、下山口の墓地が浮かびます。あちらは江戸期は上墓・下墓と分かれていて、昭和初期に下墓に統合されています。2ヶ所の墓地は隣接し、集落に近しい場所だったと言っていいかもしれません。
 下山口は統合しましたが、鳴尾はどうだったのか。

 墓地の真ん中に道があります。

 


 これ、旧道なんですね。古い地図を見ますと、墓地内の道というより往来ではないかと思うのです。北へはそのまままっすぐ常福寺さんへ続いています。南の道は途絶えていますが、こちらも続いていました。
 つまり、道の両側に2つの墓地があったと考えることも出来ます。

 


 上鳴尾墓地は、満池谷墓地等と同様に、西宮市営墓地になっていることを前に書きました。そのように標識が建っています。
 しかしそれはどうやら東側敷地だけで、西側敷地は市営ではなく鳴尾区有財産管理です。

 


 現在においても2つに分かれています。

 


 以前、ひっくり返っている蓮台を紹介しましたが、これは東側です。
 ですが実は西側敷地にも蓮台があるのです。

 


 蓮台はどこでもひとつでした。複数村落の墓所となっていた貝之介や松並墓地でもひとつです。例外は上田墓地くらいです(笠屋墓地の合併で移転)。上鳴尾墓地では、移転合併等は無かったと思うのですが。
 ただ昭和12年の「鳴尾土地宝典」を見ますと、はっきりとはわかりませんが墓地は今の形よりもうすこしバラけていたようにも見えます。常福寺と観音寺さんの間にもまだ広がっていたようにも見えます。もしかしたら、小曽根墓域、松村墓域などとある程度分かれていたかもしれません。
 おそらく、上鳴尾墓地は戦後(西宮市と合併後か)、整備されたのでしょう。塀で囲われ、まとめられて少し狭まったか。
 憶測ですが墓地は、上鳴尾3村(小曽根を加えて4村)いずれの村から見ても村端にあった立地だったのかもしれません。それが、松村が花園町あたりから中国街道の南へ移るなど3村が寄り添うようになって、結果的に村が墓地周辺に集まる形になってしまったと。またその後の発展で人口も増え墓地も拡大し、このような形態になってしまったのではないか、とぼんやりと考えます。

 現在においては、墓石には住所が書かれていませんのではっきりしたことはわかりませんが、刻字があるものからの類推で、おおむね西側は小曽根・松村・八松の墓石。東側が北鳴尾・浜鳴尾(本郷)の墓石と分かれているように見受けられます。

 


 仏堂はひとつ。しかし、ほとけさまがふたりおられます。最初にこちらに訪れたときは「そういうものか」とも思っていましたが、以降全村落墓地を回って、迎え仏が2体並んでいる墓地はありませんでした。

 


 向かって左、東側のほとけさまの台座には「M成尾村」と刻まれています。

 


 対して右、西側のほとけさまの台座には「小曽根村」と。即ち、西側墓地の迎え仏だったのでしょう。つまりこちら2体のほとけさまは、まとめられたと考えていいのではないでしょうか。

 ともかくも、上鳴尾墓地はなんだかふたつの墓地のような感じがします。だからどうだと言われると困るのですが(汗)。
 ただ、北鳴尾村の墓石は東側にあり、つまり東側は「鳴尾」の墓地だと言えます。
 鳴尾は徐々に海岸線が南下して出来た村です。まず曾禰郷が平安時代に存在することからも小曽根は古く、小松もいくぶん伝説的ながら等覚寺が8世紀創建、村も10世紀には出来上がっていたという説もあります。
 鳴尾では市史4巻に載る大徳寺文書を見ていますと、「八松」「松村」の文言がちらほら見えます。鎌倉時代です。その頃からこの2村は、場所が移動した可能性はありますが、存在していました。
 これら小村群は「鳴尾庄」という荘園の構成要素となり、のちに荘園制度が解体していく過程において寄り添っていったと。つまり小曽根、松村、八松は鳴尾村から分村した枝郷ではないということです。
 明和病院南で貝塚が発見され、平安〜鎌倉頃ではないかと堀内泠氏が推定されています。こちらは北鳴尾集落でしょう。
 その頃から鳴尾八幡神社があったか、と考えれば難しいわけですが、そのあたりの土地、集落が「なるを」と呼ばれ始めたのではないかと想像します。平安期に歌枕として鳴尾が登場してきますが、それはおそらく北鳴尾を指していると考えていいように思います。
 そして浜に陸地が増え集落が出来て、「なるを」の人々が移住した。その頃からもともとの鳴尾村は「北鳴尾」となり「上鳴尾」となった。そして浜辺の集落は「浜鳴尾」となった。そのうちに浜集落が大きくなり本村となり、もとの鳴尾は「小鳴尾」とも呼ばれた。そんなストーリーではないかとも思えます。

 


 ここには、ずいぶん通いました。僕にとっては最寄だったので、市内あちこちの墓地へ行ってわからないことが出てくると上鳴尾へ行き、比較して何とか理解する、といったことも。
 墓参の人ともいろいろ話をしました。
 「昔はこの真ん中の道沿いに鬱蒼と木が茂っててな」「墓守さんもおられた」「震災後から景色が変わったな」「前はもっと怖かったで」等々。僕はただのブロガーですから取材は出来ませんが、そうやって聞いたことはなんとなく墓地を考える上でのベースになっています。
 そんな感じで、鳴尾村の長い旅を終えます。

 これで一応西宮市域の江戸時代の村落は、全て歩きました。次回は、補遺編です。


村落墓地

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