凛太郎の自転車操業

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西宮の旧村落79 補遺(1)

 ここまで、西宮市域の旧村落35村、枝郷を入れれば53(田近や平左衛門新田含む)の村々の痕跡を訪ねてきました。
 そうなれば、いろいろ抜けも生じてくるんです(汗)。ただ寺と神社と墓地を探して歩いただけなんですけど、訪ねて調べて考えて書いてを繰り返す自転車操業でございますから、やっぱり後から気が付いたこと、思わぬ資料が出てきたこと、うっかりしてしまったこと、書いときゃ良かったなと思うこと、いろいろありまして。
 そんなことを少し追記させていただきたいと思います。

 まずは、生瀬村です。記事はこちら(→西宮の旧村落3)
 書いた順は、地域もありますが基本的には難しいのは後回しで、分かりやすい村から書いています。その点3番目に書いた生瀬村は、完全だったはずでした。山間の隔絶した村であり村内で全て完結していて、他所との関わりはあまり考えなくてもいい。檀那寺は浄橋寺、氏神さんは生瀬皇太神社で決まり。そして村落墓地は廃絶していたものの見事に痕跡が残っていました。この墓地跡を見たときは、言葉はおかしいですが感激してしまい、その後に弾みがついたような気がしていました。
 で、そのときは「氏神」という括りで考えていましたので、もうひとつの神社には触れなかったのです。しかし生瀬には、明治の神社明細帳にも載った「無格社 愛宕神社」がありました。
 元禄以来の神社でしたが、これが今は残っていません。
 これについては不思議なことがありまして。当然明治末の神社合祀令に引っかかって廃絶したと思っていましたら、調べると何と昭和2年まで残っていたのです。合祀令から21年経って、皇太神社に合併。
 この理由がわかりません。そんなこともあって、書きませんでした(汗)。
 場所は、浄橋寺の裏の愛宕山にあったと思われます。
 愛宕山には10年程前に登ったきりです(前に来たときの写真はフィルムでした^^;)。で、久しぶりに行こうかと思いましたら土砂崩れで遊歩道が通行止め。残念。
 画像は、もしもしさんのブログでどうぞ。(→聖地巡礼その293)
 山頂にはお稲荷さんが現在も祀られていて、おそらく愛宕社の末社だったと思われますので、廃れて合祀ではないと思われます。
 
 というわけで、山口や鳴尾などで盛んに明治末の神社合祀令と無格社廃社の話をしましたので、ちょっと生瀬の愛宕社にもふれさせていただきましたが、えーと生瀬の話は実は愛宕神社が本題ではありません。(^▽^;)
 花折神社のことです。

 生瀬には江戸時代に「花折神社」と呼ばれたお宮がありました。「生瀬の歴史」から引用。
花折神社
 字花折ヶ峯の山腹一名宮山と称する地に素盞嗚神社(牛頭天王)をお祭りした祠がある。元華居神社と称したが、光格天王の御宇享和年間に、字荒内の村社に遷座し摂社とした、その遺跡は現在判らない。
 明治の神社明細帳には、生瀬皇太神社に「境内神社一社 素盞嗚社」となっています。これがつまり花折神社の後身であると思われます。
 江戸時代には皇太神社の摂社ということですから特に採りあげることも…と思っていたのですが、連載後半徐々に必要にかられて「摂津志」「摂陽群談」「摂津名所図会」などの地誌を参照していましたら、生瀬で首をひねる記述を見つけました。
 摂津名所図会です。生瀬に該当する部分を抜きます。
生瀬驛 丹・播及び有馬湯山街道なり。旅舎多し。
生瀬古城 生瀬村にあり。所傳に云ふ、三木番次郎築いて在城すとぞ。天正中に喪ぶ。
牛頭天王 同村にあり。此所の生土~とす。
 三~祠 同村にあり。祭~伊勢・岩C水・春日の三~なり
淨橋寺 同村にあり。十方山と號す。淨土宗。
 これは…皇太神社ではなく、花折神社こと牛頭天王社が産土神であると書いています。(゚〇゚;)マ、マジ!?

 花折神社は、現在の生瀬の町の北、武庫川と中国道の向こう側の「宮山」と呼ばれる山の中腹にありました。

 


 愛宕山中腹から、花折神社旧跡を眺めます。現在は切り開かれて花の峯団地となっています。

 


 逆に花の峯から生瀬の町を見ます。町の向うの山が愛宕山で、中腹青シートが土砂崩れ現場です(汗)。左手の森は皇太神社です。花の峯には痕跡はさすがにありません。
 
 生瀬には鎌倉時代に建立された浄橋寺があり、古文書もあるので事情が明確なのだろうと思っていましたら、神社関係は案外少ないようです。
 「生瀬の歴史」「生瀬の現代史」から総合しますと、口碑ですが生瀬村の始まりは源平合戦の後、平家の落人が潜伏した部落が発祥とされ、その場所は花折ヶ峯であると。牛頭天王の祠がいつから存在したかはわかりませんが伝承では古いもののようです。
 三~祠(皇太神社)も花折に鎮座していて、鎌倉時代に浄橋寺建立にあたって遷座されたと。江戸期末の記録では、三~祠(皇太神社)は浄橋寺を建てるに当たり鎮守として安置したとされています。現在も浄橋寺と皇太神社はほぼ一体化しています。さすれば、皇太神社は元々はお寺の鎮守社ということに。花折に残った牛頭天王社が産土神とされるのも、なるほどとは思わせられます。
 しかしながら皇太神社は元禄5年の記録が残り、そこには「氏神」の文言がある ようで、これで解決、とも思うのですが。ただ他資料に、天保以前から嘉永にかけて(幕末ですね)、民家の増殖するに従い、燈明講組合が神社運営に当り、「一般氏神として崇敬浅からざりし」と。なので浄橋寺では神官を置かず村役人に祭祀を任せたとしています。寺鎮守から氏神となったのは幕末からではないかと思わせる記述です。
 「摂陽群談」には、「生瀬牛頭天主神」「三神社」の順に書かれていて、産土神とは記されていないものの、牛頭天王社が生瀬の主たる神社の如く思わされます。
  摂陽群談は元禄、摂津名所図会は寛政ですから、享和年間(1801〜)よりは前で、牛頭天王社が山を降りる以前の記述ですから独立社として書いていても矛盾はないのですが…唸るのは天保7年(1836)の「摂津国名所旧跡細見大絵図」です。当該部分の生瀬あたりを拡大してください。(→こちら)
 そこには、猿首岩、三木番次郎古城、十方山浄橋寺とともに、牛頭天王が名所として挙げられています。この時は、もう皇太神社摂社となっているはずです。そして場所は、川の南側です。
 どう考えれば良いのでしょうか。
 もう「どれを信用するか」という段階になっています。そうなると、地元の史料かもしれません。しかしそれでも、花折神社(牛頭天王社)のことは無視することはやはり出来ないのです。
 村の氏神として祀られていたのは牛頭天王社かもしれない。そして明治の神仏分離で、牛頭天王は邪教扱いされ、伊勢(アマテラス)を祀っていた同場所の三神祠の方を「皇太神社」と改め氏神としたのでは。妄想はいくらでも膨らみます。

 


 皇太神社です。祭神は天照皇大神・八幡大明神・春日大明神。つまり江戸時代の三~祠「伊勢・岩清水・春日」ということです。さらに昭和2年に愛宕神を合祀しているはずです。
 そして摂社に、かつての花折神社だった素盞嗚社があるはずですが…。

 


 あれ? 無い…。
 奥が愛宕社、八幡・春日相殿です。いずれも本殿合祀だったはずですが、摂社として独立しています。では今は本殿はアマテラスひと柱でしょうか。いやそうとも言えないような?
 難しい。神社詳細はもしもしさんの記事をご覧下さい(→聖地巡礼その292)。
 そして手前が、高麗堂なのですよ(汗)。高麗堂すなわち「コマ」で、狛犬を祀っています。いったいスサノオはどちらに行かれたのか。
 石造物もいろいろ見たのですが、僕の視界にはヒントが入ってきませんでした。
 もうこのシリーズは終りなのですが、また大きな宿題を抱えてしまった気がします。

 生瀬についてはもうここまでにします。わからん。
 さて、神社寺院と信仰については、江戸時代の様相を探ろうと思えば、どうしても明治の国家神道化政策とぶちあたってしまい、言及せざるを得ませんでした。これには思想が絡んだりしますから最初は穏便に済まそうと思っていたのですが、やはりそうもいきませんで。
 明治初期に廃絶とされた宮、祠、小堂、社、神宮寺などは、完全掌握などとても出来ませんでした。記録が無い。僕が知ることの出来た範囲でここまで書きました。
 明治末の神社合祀令については、ある程度わかりました。廃絶させられた神社について、まとめの意味で書き出します。
愛宕神社(名来) 御旅所神社・愛宕神社(下山口) 厳島神社(中野) 愛宕神社(生瀬) 須川神社(広田) 大将軍神社・地神社・中殿神社(中村) 磐戸開神社(下大市) 神明神社(西宮本町) 金刀比羅神社(浜今津) 八幡神社(松村) 素盞烏神社(八松) 砂浜神社(砂浜新田) 稲荷神社(平左衛門新田) 素盞烏神社・琴刀比羅神社(鳴尾本郷)
 廃社合祀ではありませんが、遷座した鰯津神社も入れてもいいかもしれません。ともかくも掌握できただけで、以上です。
 
 えーと、以上の神社で書き漏らしがあります(汗)。下大市村の磐戸開神社です。
 下大市には、九頭社という神社があったことがあちこちに載っています。「町名の話」などによれば、大市の旧家である松本家は武田氏の配下で信州松本出身であり、武田勝頼が信長に滅ぼされたときに流浪し、荒木村重に仕えたもののまた信長に敗れ、武士を辞めて大市で帰農、その折に故郷戸隠神社の祭神の九頭龍神を祀ったということです。
 この九頭社は、大正時代に撤去されたと書いてありますが、無格社磐戸開神社の大市八幡神社への合祀は明細帳によれば明治40年となっています。なので、これは別の神社であろうと思い、よくわからなかったので西宮の旧村落9下大市村のときは措いてしまったのです(汗)。
 松岡孝彰氏の「下大市今昔物語」をよく読めば、磐戸開神社=九頭社とちゃんと書いてありました。合祀時期はおそらく明治で、祠が撤去されたのが大正に入ってから、ということか、或いは伝承に食い違いがあったのかもしれません。
 神社は、下大市から八幡さんへ向かう道筋にあったようです。今津っ子さんのHP「阪神間の街道を歩く」から天保14年(1843)の下大市村絵図を参照して下さい(→こちら)。
 「九頭神」を確認していただけると思います。

 交差点の陸橋から。この道が旧道で、先に大市八幡が見えます。この道のおそらく北側(左手)のどこかに祀られていました。痕跡はありません。

 


 神社明細帳によれば大市八幡の祭神は誉田別尊(応神天皇・八幡神)、大日霊女尊(アマテラス)、天児屋根尊(春日明神)、豊間戸尊です。このトヨマドノミコトが、かつての祭神である戸隠権現九頭明神の神仏分離後のお名前でしょう。難しいですなぁ。

 補遺編続きます。


村落墓地

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凛太郎さん、おはようございます。
そうですか、生瀬の神社にはそんな逸話が・・・。
神社やお寺は、そう簡単に場所を移動しないし、なくなったりしないと思っていたので、ちょっと不思議な感じです。
あらためて、このシリーズ読み直して西宮巡りをしたいと思います。

[ もしもし ] 2014/11/16 9:14:20 [ 削除 ] [ 通報 ]

>もしもしさん
ありがとうございます。リンクではお世話になりました。
生瀬はこんなに難しいとは思いませんでした。奥が深すぎる。結局白旗です。しかも摂津名所図会を読まなければ気が付かないという…。生瀬に限らず、まだまだ気付いてないいろんなことがあるような気がします。

[ 凛太郎 ] 2014/11/16 19:22:49 [ 削除 ] [ 通報 ]

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