凛太郎の自転車操業

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西宮の旧村落80 補遺(2)

 えー、神社でもうひとつだけ。
 僕は西宮市域に明治以前から在る神社で、まだ参詣していない神社が一社だけ残っていました。それが、平安時代以来の式内社ともされる古社、岡田神社です。なんせ神戸女学院内に鎮座されていまして、おっさんは通常入れないんです。
 というわけで10月に、学園祭を狙って行ってきました。女子大の学園祭なんて、自分が学生の頃にムフフ目的で行って以来です。
 神戸女学院は、先日国指定重要文化財となったヴォーリズ建築の校舎が有名ですが、そういう話はseitaroさんのブログが大変お詳しいので、僕は「うわーきれいな校舎だなー」と言うにとどめ、ともかく神社へ。

 


 その「重文」や「阪神間モダニズム」という言葉で一括りには出来ないほど美しいヴォーリズ建築の校舎群の狭間に、緑に包まれて岡田神社が鎮座していました。

 


 学院内は自然環境が実に良好に保たれていますので、こちらも雰囲気がいいですね。
 そのseitaroさんのブログからの孫引きで誠に恐縮なんですが(→阪急沿線文学散歩)、玉岡かおる氏が昭和8年の岡田社に鳥居と石垣が存在していると描写されています。
 鳥居か…。そこまであると周りの風景と調和がとれるかな。そして石垣はこのときにはまだ無かったでしょう。
 小説ですからそれは構わないのですが、実際にヴォーリズが見た昭和8年の岡田社は、今とはかなり違う姿だったはずです。このときは、岡田社は石祠だったのです。

 岡田神社は前述しましたが「式内社」だという説があります。
 延長5年(927)に、当時の法律体系である律令の細則をまとめた「延喜式」が編纂され、その中に神祇官関係の法令集があり、当時の官社の一覧表があります。それが延喜式神名帳です。そこに載っている神社を式内社と呼びます。つまり927年には存在したということで、大変由緒ある神社ということになります。
 武庫郡においては4社。広田、名次、伊和志津、岡田神社です。
 この岡田神社について諸説あり、江戸時代には小松の岡太神社がこれに比定されましたが、立地条件(10世紀はそのあたりは陸地だったか海だったかあいまい)等で問題もあり、この神戸女学院内の岡田社を指すのでは、という説が今は有力です。
 ただ、並河誠所(江戸時代の学者)が岡太神社を式内社だとしたのは、無理のないところもあるんです。調査したのは享保年間(1716〜)で、その頃岡田社はありませんでした。
 正確には、元文3年(1738)の「西宮組神主堂守等判形帳(写)」を見ますと、広田神社末社の中に「岡田之社(ほこらなし)」という文言が見えます。存在はしていたわけです。しかし神殿も無く、御神木を祀るという古代式でしたから、並河誠所が見逃すのもしょうがないかと。その神域を整備しようとして土中から石祠が見つかったのは文政5年(1822)のことです。
 その後の岡田社ですが、尼崎7代藩主松平忠興氏が廃藩置県で東京へ移住する一年前の明治5年、岡田山を別荘地として買い入れます。ですがこの岡田社の領域だけは広田神社の領有地でした。
 以下神戸女学院八十年史に拠りますが、この別荘地に昭和になって神戸女学院が来たときにも岡田社周囲は広田神社管轄でした。ミッション系の学校には相応しくないため学院は移転を計画し、この境内地の倍以上の新鎮座地を寄進しようとしますが、広田神社と内務省神社局が「学校の為に軽々と移遷する事はできない」と千年の歴史を重んじ首を縦に振りません。学院はしょうがなく社地の周りに生垣を設けて杉などを植え、学校建築との見合いを避けます。
 岡田社は依然として石祠でしたが、昭和15年(皇紀2600年)に広田神社建替事業があり、その古材を用いて社殿を建造します。石垣はそのときに出来ました。昭和17年の「甲東村(渡辺久雄著)」では、まだ「石祠」と書かれていますので、社殿及び石垣が出来るまでには間があったかもしれません。
 ところで、それ以前も(以後も)鳥居の記録は見出せていません。神社明細帳にも記載は無く、これはよくわからないですねえ。

 


 戦後、再び学院は移転を計画し、もう官幣大社ではなくなった広田さんもOKしますが、予算の関係で計画は立ち消えに。今も学校内に鎮座しています。

 ともかくも、これでようやく江戸期以来の市域に残る神社をコンプリートすることができましたー。
 ヾ(〃^∇^)ノ
 さて、その神戸女学院のある岡田山のふもと。実は江戸時代に集落が存在していたようです。
 江戸時代の市域集落は本村、枝郷含め網羅してきたようですが、書いていない集落もいくつもあります。岡田門戸という集落も、そのひとつです。

 


 このあたりになります。神戸女学院の入口より北、街道筋です。

 


 集落内には、お地蔵さんが祀られています。詳細はもしもしさんの「聖地巡礼その233」をご覧下さい。
 古い集落であり、門戸村の枝郷として採りあげるか迷いました。国絵図などには記載が無く、どうもいち村落として数えられていないようですが、集落の位置を考えると岡田社が氏神の役割を果たしていたとも思えます。
 しかしながら岡田社は前述したように、江戸後期までは祠もありませんでした。そして石祠を神域整備中に見つけたのは、広田村の人々です。つまり岡田山は広田村の領域であったと。尼崎藩主の松平氏が岡田山を別荘としたのもここが尼崎藩領であったからだと考えることも出来ます。門戸村は石河氏領でした。
 したがって岡田門戸集落は岡田社を祭祀していない、つまり氏神ではなかったとと判断し、岡田集落を門戸村の飛地集落であるとみて一項は割かず措きました。
 ところが神戸女学院史を読みますと、岡田社の移転計画の際に「岡田部落に住む岡田氏ら氏子総代の同意を得た」と書いてあります。(゚〇゚;)なぬ?
 岡田部落が岡田門戸集落を指しているのかは不明ですが、これはちょっとわからなくなってきました。(^∇^;) いまさら一項増やせませんので、とりあえずここに書いておきます。

 村落を考える基準は、実に恣意的なものです。ただ人が集まって生活していれば村だろう、という見方も出来ますが、僕はまず検地帳や国絵図でその存在が確認できて、なおかつ氏神か墓地かどちらかは有していた集落を「村落」として書いてきました。
 なので、ふれていない集落もあったわけです。
 記事内で多少言及した集落もありますが、もう最後ですのでそういうのも補足しておきます。岡田集落以外には、東船坂村(船坂村)、牛ノ子村(名塩村)、獅子ヶ口村(西宮町)、段上新田(段上村)、御代開新田(御代村)、上田西新田(上田新田村)など。また絵図等に描かれているものの存在が確認できない名塩の大澤村。鳴尾の八坪。山口の岡本村もそうであるかもしれません。さらに越木岩新田には3つの集落がありましたがひとつでまとめて書きました。神呪寺村と神尾村は行政的にも分かれていたのですがこれも一項としました。
 実態のわからない平左衛門新田や、無かったことは確実の田近村も書きましたから、本当に恣意的ではあるのですが。

 墓地も、あちこち訪れました。
 しかし墓地については文献資料がごく少ないので、基本的には歩いて確認していくしかありません。市南部については住んでいるので比較的細かく探して回れましたが、北部は詳しくなくて困りました。
 名塩は明治編纂の地誌に墓地7つとされ実に難しく、その中で「西の墓」については現地で確認できなくて、おそらく名塩S.A.建設で無くなったのだろうと判断しました(→名塩村)。
 もしもしさんに、西の墓はまだあるのでは? とのご指摘を受けて慌て、ある夏の日、通りすがりでしたが再び訪ねました。

 


 当該場所ですが、工事がずいぶんと進んでいます。
 しかしながら現地でわかりましたが、ここにはおそらく西の墓は無かったと思います。墓地は、やはりもっと西の方です。
 ご紹介の名塩の方のサイト(→こちら)ですが、ここに写る一基残ったお墓は、おそらく東の墓のものです。上写真の道路は、名塩八幡の下を潜って東側へ突き抜けて176号線に合流します。「左の写真の森の部分を貫いていった反対側」というのはその部分で、工事はやはりご紹介の建設会社HPに出ています。「一つを除いて今は近くに移動している」というのは、新東墓に移ったことを示すと思います。
 しかしながら、西の墓は結局、どうしたのでしょうか。存在の有無は。
 僕は基本的に、人には尋ねないことにしていますが、今回はご近所の方にお話を聞いてしまいました。

 「そこにあったお墓は…ずいぶん前に無くなったわ。サービスエリアのとこや」
 「うちはそこのお墓と違ごたんでよう知らんけど、どっかに運ばれたんやろな」
 「源照寺さんのお墓もそこにあったんや」

 名塩のお寺は真宗寺院であるためか、寺院内墓地がありません。教行寺はラントウに、教蓮寺は山条の墓に住持墓所を持たれています。源照寺墓所は、西の墓にあったということでしょう。
 心当たりがあり、僕はすぐラントウへ行きました。

 


 ラントウに源照寺墓所がありました。先ほどのお話と合せて、西の墓は中国道工事で廃絶、墓石はラントウへ移転したと推察できます。
 しかし、おひとりの方だけしか僕は聞いていません。聞き取りで怖いのは「思い違い」などもあるかもしれないということです。なので「推察」ということに致します。
 もしもしさんにはいろいろ調べていただきました。改めて御礼申し上げます。

 「名塩村地誌」に載る墓地は、全部で7つ。その中にある「篝山墓地」というのは、場所も何もかも不明です。ただ、郷土資料館の細木先生に御教示を頂いたことがあります。「名塩八幡の近くの墓地は、ラントウに移転した」と。おそらく篝山墓地のことです。
 ラントウは現在、村域最大の墓地ですが、何故か明治初期の地誌には存在が記されていない。それは明治以前は、ラントウが神呪寺歴住墓地(→こちら)と同様に、教行寺歴代住職と寺族だけの墓地だったということが考えられます。そして明治前期には道路整備等で篝山墓地の墓石が移転し、さらに昭和に西墓の墓石が移転、ということなのかもしれません。
 
 さらに先ほどの名塩の方とお話で、実に興味深いことがありました。

 「前は、そこらへんにもお墓はあった。自分とこだけのお墓持ってはった家もあってな」

 屋敷墓のことだろうと思います。上リンク記事にも書きました。名塩にも存在していたということです。
 「なじおの年中行事」に、「明治初期の頃は、住居にごく近い場所で、小規模単位のまつりごとが営まれていた形跡がある。むかし墓地だったらしい場所が、随所に点在していることでもうかがえる」と、あります。そのあたりとも整合するお話です。

 ここまで巡ってきた村落墓地は、全部で35ヶ所です。列記しておきます。
名来一ノ湯墓地(3ヶ所)・立毛墓地 下山口下墓 金仙寺墓地 上山口上墓・下墓 中野墓地 船坂墓地(移転) 名塩東久保墓地・ラントウ・上ノ墓・山条ノ墓・東墓・木之元墓地 貝之介墓地 松並墓地 上新田墓地 御代開墓地 下瓦林墓地 神呪墓地 門戸墓地 高木墓地 上ヶ原墓地 広田愛宕山墓地 六軒墓地 越水墓地 鷲林寺墓地 柏堂墓地 森具墓地 上鳴尾墓地 小松墓地 上田墓地 中津墓地
 廃絶した墓地は、全てを掌握できません。わかっているだけ列記します。
下山口上墓 名塩西ノ墓・篝山墓地 生瀬墓地 荒木墓地 芝村墓地 中村申金墓地(2ヶ所) 越木岩墓地 森具大谷墓地 西宮西墓・野墓・小墓 津門墓 今津大墓・小墓 笠屋墓地
 この他、文献に出てきませんが中新田墓地、下新田墓地も存在したと思われます。高木村は西墓もおそらく在ったかと。全く分からないものに中村の市民グラウンド横の墓地などがあります。両墓制を考えれば、神呪村にももうひとつ墓地はありました。他にはコバカ。大社村域にはさらに墓地があった可能性も。鷲林寺新田には、今も存在しているかもしれません。
 巡ってきた中で、市域の現存する江戸期以来の墓地を全て訪れられたとは思えませんが、ただ村落の中心的な墓地は一応網羅できたのではないかと思いますので、ここまでにしたいと思います。 


村落墓地

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旧村落と墓地 | コメント( 6 ) | トラックバック( 0)

神戸女学院のなかに、少し寂しげに存在する岡田神社の由来、よくわかりました。ここまで調べられるのは大変だったと思いますが、参考になります。ありがとうございました。

[ seitaro ] 2014/11/20 8:14:51 [ 削除 ] [ 通報 ]

凛太郎さん、おはようございます。
大作ありがとうございました。
西宮を回る時、楽しみが増えました。
墓地もゆっくりまわってみようと思います。

[ もしもし ] 2014/11/20 10:07:44 [ 削除 ] [ 通報 ]

>seitaroさん
とんでもございません。こちらこそありがとうございました。僕は読書量が圧倒的に少なくて「負けんとき」も未読でしたので。
seitaroさんのブログでいつも勉強させていただいています。

[ 凛太郎 ] 2014/11/21 5:04:31 [ 削除 ] [ 通報 ]

>もしもしさん
ありがとうございます。一応これで、現時点で僕が見て歩いたものは書き終えました。
今「まとめ」を作っています。書きあぐねていますが(笑)、何とか週末に書き上げられればと。

[ 凛太郎 ] 2014/11/21 5:18:19 [ 削除 ] [ 通報 ]

神戸女学院、とても美しい学校ですよね。
岡田神社の他にも古墳があると聞いたことがあるのですが、詳しくは存じません。何か報告書のようなものでもあればよいのですが、発掘されていませんものねぇ…。

[ sho-sho ] 2015/05/03 10:13:19 [ 削除 ] [ 通報 ]

>sho-shoさん
ありがとうございます。
岡田山古墳につきましては、記憶で書いて申し訳ありませんが、戦前に著された紅野芳雄氏の「考古小録」に言及があったかもしれません。ただし考古学調査ではなく個人的な遺物の採集にとどまり、そのあと学校建設に伴い破壊されたかと。今となっては、どのようなものだったかは…。残念ですね。

[ 凛太郎 ] 2015/05/03 19:49:48 [ 削除 ] [ 通報 ]

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