凛太郎の自転車操業

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西宮の旧村落 まとめ

 えーと…まとめとタイトルに入れましたが、もうまとめません。(^_^;)
 一覧表を作成しようと思っていたのですが、ここでtableタグ打つとすぐに制限字数を超えてしまいますし、また需要もないと思いますので、別記事で対応しました。
 →西宮市域における江戸期旧村落の信仰と墓地
 こちらが、まとめになります。よろしければご覧下さい。
 目次・地図・参考文献についてはこちらです。

 以下は、まとめではなく感想文です。
 以前「ちょっと歴史っぽい西宮」というサイトを作りまして、西宮の歴史を古代から現代まで追って歩いたことがあります。そのときに、もう少し細かく見てみたいという気持ちはずっと持っていまして、少しづつ未読の資料などを読んでいたのです。ただ、とっかかりがなかなか無くて書き出せずにいました。
 昨年、少し墓地のことを記事にしました。従来より金石文好きでしたので墓地にはちょいちょい顔を出していたのですが、その時に江戸期の村落墓地を軸にすれば書けるのでは、と思いつきました。ただ墓地だけでは何なので村の鎮守社と檀那寺との三点セットにして、江戸時代限定で細かな人々の暮らしと信仰の痕跡を昔の村単位で探し歩いてみることにして、この話を始めました。以前のサイトが総論、縦軸とすればこれは各論、横軸にあたります。ただもちろん学術的なものではなく、僕の一種の旅行記です。
 
 西宮というところは、なかなか歴史の香りを味わうには難しい土地柄です。信長、水害、空襲、地震という四大災厄があり…そのたびに街は更新をし続け、昔のものは本当に数少ない。で、僕のような歴ヲタはいつも歯噛みしているわけです。

 


 建築物は、もうほとんど残っていません。明治以前からあるものは、公智神社神輿殿、大市八幡本殿、神呪寺仁王門、えびす神社表大門と大練塀、今津灯台、そしてこの海清寺山門くらいでしょうか。京都生まれの僕から見ますと、あまりの少なさにため息が出ます。
 しかしそうした中でも、焼けなくて重くて動きにくい石造物は残るんです。石造物とて開発の波はかぶりますが、それでも姿を何とか留めている確率は高い。西宮市唯一の国指定史跡が石造堡塔の西宮砲台であるのはそれを象徴しているような気もします。
 石造物といえば、これまで西宮で歴史的遺物として多く語られてきたものは、道標です。これは、宮崎延光氏から今津っ子さんまで多くの先達がいらっしゃいます。それ以外は、神社の鳥居や狛犬などでしょうか。墓地という場所はやはりアンタッチャブルな側面があって、学術的調査以外ではなかなか一般的には足を踏み入れられないのが現状でした。
 しかしながら、石造物が最も多く存在するのは、やはり墓地です。そして、これまで生きてきた人々の足跡が最も色濃く残っているのも、やはり墓地でした。それは実際に歩いてみて、強く実感したことです。
 墓地を記事にすることについては、こころよく思われなかった方も多かったと思います。僕も、Webにupするなら同じことではありますが、エリアブログというコミュニティではなく別の普通のブログを立ち上げてやれば良かったのかもしれないと思っています。
 ただ、僕の個人的旅行記ではあるものの、消えていったもの、そして消えてゆこうとしているものをこの時点で少しでも記録しておきたい、そういう一念で、ここまで書いてきました。こんなブロガーが書いた記事群でも、いつかは何かの役に立つこともあるかもしれない。そんなことをぼんやりと考えつつ、現在時点での西宮の旧跡をネット上に置いておくことにします。
 
 江戸時代が終わってから約150年、この町は大きく変わりました。
 日本中がそうであったわけですが、西宮市域もかつて、江戸時代にはほとんどが田畑であったわけです。その中に、ぽつりぽつりと集落がありました。現在ではそんな風景を想像することすら難しく。あぐりっこによれば、西宮市の田畑面積は2%に満たないそうです。山口ではまだまだ「農村風景」が存在していますので、市域南部などはどれだけ変貌を遂げたことか。

 


 神呪村の高台の鎮守さんから町を眺めています。この鳥居には「安永二年 神咒村」と刻まれています。江戸時代と変わらずに建っているはずですが、震災による崩落があり補修されています。
 そしてもちろん、その向うに広がる世界は昔とは大きく変わっているはずです。

 


 最も南東の端に位置する平左衛門新田から市域を眺めます。この風景の中で、江戸時代と同じであるのは、甲山くらいでしょう。
 市街地は言うまでもないことですが、六甲山系は地質が花崗岩であり、材木を求めて一度木を切ればなかなか繁茂しません。したがい江戸時代は保水能力に欠ける禿山でした。
 ふくさんが江戸時代の絵画をいくつかアップして下さっています。例えば谷文晁の六甲山の絵(→こちら)、また西国名所之内「西ノ宮図」(→こちら)を拝見させていただきますと、六甲山系に樹木がないのがわかります。その中で唯一甲山だけは木々が繁茂しています。甲山は後背の六甲山系とは地質が違い、また神奈備ということで頻繁な伐採が行われなかったことが要因です。戦後山火事で坊主頭になりましたが、また植林され昔の姿に戻りました。
 それ以外は、全て変わったと言えます。
 河川も、変わりました。今はこのように滔々と流れる武庫川ですが、かつては雨量が多ければ溢れ、普段は歩いて渡れる広い石ころだらけの空き地のようなものでした。
 夙川は整備され、御手洗川は川筋が動き、船坂川にはダムが出来て湖と化し、津門川が新しく開削され、逆に枝川は閉じられ道になりました。平野を網目状に細かく流れていた百間樋を代表とする用水路も、暗渠化がかなり進んでいます。
 変化を決して否定するものではありませんが、変化したということは少なくても知っておきたいとは思います。

 町が最も大きく変わったのは、大正期からかもしれません。「耕地整理」という名の開発が西宮を均していったからです。墓地も、そのようにして失われていった場合がいくつもあります。
 ですが墓地以外に、氏神や檀那寺を含む村落の信仰というものを細かく見ていきますと、やはり明治維新というものの影響を強く見ることが出来ます。僕はこれまで、明治維新は一種の政権交代であり革命ではない、という考え方を有していて、今もそれは基本的には変わっていませんが、民衆の暮らしという視点から見ますと、この国家祭祀政策は革命と呼ぶべきものではなかったかとも思えてきます。
 様々なものが、消えてゆきました。それを、少しでも脳内復元は出来ないか。先達の言葉を頼りにして、これでも精一杯追いかけたつもりです。しかしながら、この程度に終わりました。
 これについては、是非が問えません。問うとややこしいのでね。ただ、昔からのものは実は存外少ない、いにしえから連綿と続いているもののように見えても形やあり方は変貌していることが多い、ということは、知っておくべきことのように思います。
 
 さて。
 土曜日に、短時間でしたが再び町をプラプラと走りました。もう既に晩秋ともいえる季節ですが、この週末は小春日和で暖かく。
 町は紅葉が盛りを迎えようとしています。

 


 市役所横のイチョウは、寛保3年(1743)に六湛寺の釈迦堂が再興されたときに植えられた古木ですが、すっかり黄色に。市は、こうして何本もの古木を保護樹としてくれています。

 最後に、越水丘陵を駆け上がって満池谷墓地へお墓参りに。先達にお礼を申し上げたいと思いまして。

 


 明治45年開設の墓地ですが、入口には元禄2年(1689)銘の六地蔵さんが立たれています。西宮町の今はもう無い村墓地から六湛寺墓地を経由してこの地に来られた、江戸時代を知るお地蔵さんです。
 満池谷には、何度も訪れました。冬枯れに始まり桜、新緑と。いま紅葉をめでつつ、ひとめぐりを実感しています。

 


 吉井家墓所です。えびす神社の歴代神主はみな夙川の神主墓地におられるのかと思いましたら、近代以降はこちらで鎮まられておられました。墓誌には吉井良秀氏、吉井良尚氏、そして先年惜しくも亡くなられた吉井貞俊氏のお名前も刻まれています。
 こちらに居られる大先達が編まれた「老の思ひ出」をはじめとする諸研究によって、僕も昔の名残を探して思いを馳せることが出来たわけです。
 大変にお世話になりました。ありがとうございました。
 線香くらいは手向けさせていただこうと持参してきたのですが、こちらには線香立てはありません。うかつでした。当たり前のことですが、こちら墓所は仏式ではありません。合掌。

 


 飯田家墓所です。今津の酒造家として名高く、宝暦5年(1755)に大観楼を建てて今津の学問教育を先導した飯田桂山の墓石もこちらにあります。そして、その後裔であられる飯田寿作氏も、ここに眠られています。
 その著作「酒都遊観記」には大変にお世話になりました。ありがとうございました。合掌。

 もうおひとかた、僕は西宮の墓石研究に大変尽力された筒本清五郎氏のお墓にもどうしても参りたかったのですが、その墓所がどちらかわかりません。
 筒本家は酒造家として栄え、如意寺が菩提寺でした。如意寺の墓石は悉皆この満池谷墓地の一区・二区に移されているはずで、名家の墓所であり当然大きな墓域を占めておられると思っていたのですが。
「筒本家」と刻まれたお墓は、一ヶ所だけありました。あの大変広い辰馬家墓所の近くですが、墓石は新しく墓誌が無いために確証はありません。
 僕は一区二区に在る墓石は全て見たと思うのですが、見落としの可能性もあります。これからも気をつけておきたいとは思いますが、思いはお伝えしたくこちらで合掌。本当にありがとうございました。
 
 他にも、まだまだ墓参申し上げたい方々がたくさんおられます。
 例えば、田岡香逸氏の墓所はどちらなのでしょう。本当にお参りしたい。市域のお墓もずいぶんと見て回りましたが、何万とある墓石の中では個人の探訪など無力に近い気がしてしまいます。
 しかしながら、筒本清五郎氏はそういうことを根気よく続けた方なのです。それを思いつつ、今後もお墓の探訪は続けていきたいと思っています。
 いろいろな思いを残しながら、満池谷墓地をあとにします。

 


 振り返ると甲山。今の西宮を代表する風景かもしれません。
 ですが僕は、この一年のあいだ考え続けた江戸時代にやはり思いを馳せてしまいます。高級住宅地としても名高いこの周辺ですが、昔は原野といっていい場所でした。
 今のように整備された形ではないものの、ニテコ池だけはありました。江戸時代の名残は、それだけかもしれません。他には名次神社も往古から存在しています。しかしこれも、移転しています。江戸時代には南郷山のピークにありました。あとは、越水墓地くらいでしょうか。これも今は住宅に囲まれてひっそりと佇んでいます。
 土地が歴史を刻むにつれ、風景は変貌を続けます。おそらくは、これからも変わり続けていくのでしょう。僕の好きな西宮という町は、今後どのように変わってゆくのでしょうか。
 どこまで見届けられるかはわかりませんが、これからも眺め続けたいと思っています。
 
 これで、僕の西宮の旧村落への個人旅行記を終わります。お読みいただいた方に厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。



村落墓地

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凜太郎さん
一区切りでしょうか。
毎回興味深く読ませていただいていました。
私にはあまり気が付かなかったところなどもあり、
私の知識を深めてくださいました。
どうもありがとうございました。
次はどんな形で楽しませてくださるのでしょうか。
楽しみにしています。

[ ちゃめ ] 2014/11/23 20:18:36 [ 削除 ] [ 通報 ]

先日、宝塚の荒神さんにお参りしましたが、本堂の大きな石造雨受けに「安政五年 施主 今津 飯田與作」の銘が入っていました。寿作氏につながる人なのでしょうね。
田岡香逸さんのご子息を知ってます。墓所のこと、またお聞きしておきましょう。

[ akaru ] 2014/11/23 22:15:05 [ 削除 ] [ 通報 ]

凛太郎さん、こんばんは。
意欲的な大作です。ありがとうございました。
次なる試みを楽しみにしています。

[ もしもし ] 2014/11/23 22:30:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

>ちゃめさん
ありがとうございます。途中くじけそうにもなりましたが、なんとか西宮の全ての村々をまわることができました。
人にはそれぞれ「視点」というものがあって、ちゃめさんもまた僕が気付かないような角度で様々なものを見られておられるのではないかと思います。そういうことをちゃめさんにぜひ発信していただければ…僕はしばらく冬眠に入りますので。(^ー^)

[ 凛太郎 ] 2014/11/24 7:33:35 [ 削除 ] [ 通報 ]

>akaruさん
ありがとうございます。小墓のことをはじめ、様々なご教示のおかげでここまで書くことができました。改めて御礼申し上げます。
今津の飯田家といえばもう他に考えられませんね。安政5年ですと寿作氏の何代前でしょうか。これは、上記墓所で簡単にわかるはずです。また確認しておきます。
田岡先生のことはありがとうございます。
西宮には多くの巨人がおられたのだとつくづく思います。

[ 凛太郎 ] 2014/11/24 7:45:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

>もしもしさん
ありがとうございます。もしもしさんには、連載中多く引用をさせていただき、大変お世話になりました。m(_ _)m
大作かどうかはわかりませんが、週2くらいのupでも毎回8000字制限との戦いで、おそらくこの一年、西宮ブログでは僕が一番文字数を書いたのではないかと思います(笑)。
もしもしさんも、まだまだ西宮には聖地が残されていますね。(^0^) 楽しみにしています♪

[ 凛太郎 ] 2014/11/24 8:07:15 [ 削除 ] [ 通報 ]

今日、田岡香逸さんのご子息にお会いして、お話を聞いてきました。
ちょっと個人的なことになりますので、ここには詳しく書けませんが、香逸さんの墓所は凛太郎さんがいくら探されても見つからない理由が分かりました。
ご子息にこのブログの所在はお教えしておきましたが。

[ akaru ] 2014/11/28 16:06:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

>akaruさん
ありがとうございます。大変恐縮でございました。気にかけて下さって誠に嬉しく、また有難く存じます。
もちろんWeb上のことですから、詳細は結構でございます。
郷土史に興味を持ち始めて以来、古文書から地質学に至るまでの、田岡先生の多岐にわたるご研究の偉大さというものをずっと感じておりましたが、このたび民俗学的方面に視野を向けて石造物等を見て回っていますと、田岡先生のご研究の広さと共にその深さをつくづくと思いました。
西宮に住むものとして、この方のことを忘れてはなりませんし、もっと顕彰されて然るべき方であると思います。

[ 凛太郎 ] 2014/11/29 7:58:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

≫西宮に住むものとして、この方のことを忘れてはなりませんし、もっと顕彰されて然るべき方であると思います。 ≪
全く同感です。

[ akaru ] 2014/11/30 9:06:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

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