阪急沿線文学散歩

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西宮文学案内秋季講座第2回は「薄田泣菫と文豪たち」

 先日開催された西宮文学案内秋季講座第2回は「薄田泣菫と文豪たち」。講師は文化プロデューサー河内厚郎氏でした。

   
  若くして国民詩人の名声を得た泣菫は、明治42年に大阪の帝国新聞社文芸部長に就任し、西宮市荒戎町(当時は西宮町川尻)に居を構えました。その後、大正元年に大阪毎日新聞社に入社し、学芸部長など務めています。
 大正14年、パーキンソン病により大毎を休職しますが、大正15年には西宮市分銅町に移り、「雑草園」と名づけています。

(現在も残る旧薄田泣菫邸・雑草園の板塀)

 ところで、泣菫という雅号はオスカー・ワイルドの詩「キーツの墓」からとられています。
 オスカー・ワイルドは尊敬していたキーツの墓に詣で、キーツの死を悼んで「キーツの墓」を作詩しました。その詩で墓を取り巻くように朝な夕なに露を含んで咲くすみれを次のように謡っています。

「いま その墓をおおう糸杉も 葬いのイチイもないが
 露にぬれて すすり泣く やさしのスミレが
 白骨のうえに織る とわに 花咲く環を」

 熱烈なキーツのファンであった泣菫は、英詩集の中からワイルドの「キーツの墓」をみつけ、深い共感から泣く菫(すみれ)と書かれた泣菫を雅号としたそうです。

(左側が詩人のしるし竪琴が刻まれたキーツの墓碑。右側はキーツをみとった画家セバーンの墓碑。まわりにスミレが植えられています)

 河内氏によると、現在では詩人としてより、エッセイストとしての評価が高く、
<泣菫が大正5年から8年にかけて大阪毎日に連載した『茶話』は、練れた簡潔な文体で、古典東西の人物の逸話、街のゴシップなどに独特の味付けをした「オトナの随筆」(丸谷才一)で、日本におけるコラムエッセイの最高傑作とされている。>と述べられていました。

 そして最後は、西宮市で文学賞を制定するとすれば、薄田泣菫を顕彰する薄田泣菫エッセイ賞を制定することがまず一番。石井登志郎新市長にも提言してみるとのこと。
 エッセイなら多くの市民も応募できると、会場の出席者に呼び掛けられていました。





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六甲山高山植物園の紅葉

 手軽なところで紅葉をと、六甲山高山植物園に行ってきました。

下界より一足早い紅葉です。

ロックガーデンから見える紅葉。

堂檀つつじも燃えるような赤さです。


 ところで、北尾鐐之助が『近畿景観』に、六甲山頂はいまに歩くところが無くなりはしないかと心配し、次のように述べています。
<六甲山頂は、いまに歩くところが無くなりはしないか、なぜか、そんな気がする。阪神間における資本家の別荘や、貸住宅が建ち並んで、足を踏み入れる場所も、無くなりはしないか。どうもそんな予感がする。>
 これが書かれたのは昭和4年ですが、幸いにして予想は外れ、90年後の現在も登山道、縦走路などは無くなっていません。

 北尾鐐之助は、昭和25年に、『兵庫県郷土グラフ第3編 神戸・六甲』の「六甲山日記」の中で、当時の六甲山上の暮らしを解説しています。
 山上の戸数は446戸、620世帯、2156人が住んでいたそうです。そして、子どもたちが通う六甲山小学校の由来も述べられていました。

 現在の六甲山小学校は、丁子ヶ辻から、六甲山縦走路をゴルフ場に向かったところにあります。

<山の上で育っている三〇〇人近い子供たちのため、小さい外国人の教会を借りて、ささやかな学校が開かれていたが、ことしから、ゴルフ場西入口近くにあるK氏の別荘を買収して、そこの新校舎に移り、二〇〇人余りの小学生が、雀のように毎日森の学校にさえずりにくる。>

 そして山上の暮らしについては、
<山の生活といっても。その中の七割までが神戸その他への通勤者で、毎日土橋駅から上下するケーブルを唯一の交通機関として、七三五メートルの山上駅まで上下しているのである。物価は山下より大体二割方も高く、品物も決して新鮮ではないから、多くが通勤とともに、家庭への物資の運搬人をつとめている。>と説明されています。

当時の六甲山上の住宅街。
 道路も交通手段も発達した現在は、このような物価差もほとんどなくなり、マイカー通勤になりました。

 時の流れを感じるのは、六甲山の開発者英国人グルームを顕彰するため、1912年に建てられた高さ3メートルの「六甲山開祖之碑」。

写真は「六甲開祖之碑」の除幕式。

 この石碑は太平洋戦争中の1942年に「敵国人の顕彰碑」として軍部の手によって破壊されましたが、終戦後の1955年になってグルームの胸像とともに、「六甲山の碑」として再建されています。


再建された方々のご努力に敬意を表します。

記念碑台は現在六甲山ビジターセンターとなっています。



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サンデー毎日創刊号(?)を飾った谷崎夫人、撮影は北尾鐐之助

 『近畿景観』の著者、北尾鐐之助は大阪毎日新聞の初代写真部長、『サンデー毎日』『芝居とキネマ』編集長を務めた人物です。


 彼が『サンデー毎日』に、当時まだ無名で18歳の将来の谷崎夫人(森田松子さん)を表紙に使われていたというのは、驚きでした。
 
 稲沢秀夫著『聞書谷崎潤一郎』で松子さんのお話が次のように紹介されています。
<これはね、大正十一年に、「サンデー毎日」の表紙絵になった時の。日傘さして。夏ですね。なんかサインがございますでしょう。探して野村尚吾さんが送ってきてくださったんですの。もう何かだいぶ色が薄くなって。北尾鐐之助って、そのころ、『近畿の景観』とかいう本をずっと続けて出していらっしゃった方で、写真家で、とってもお上手でしたけれども、毎日新聞の写真部の場長してらっしゃんです。わたしの満十八歳の時のですね。確か「サンデー毎日」の創刊号だったと思いますのよ。十一年だから、まだ谷崎とは全然会っていない時分のでしょう。大正十一年七月二日写すと裏に書いてありますね、これは野村尚吾さんが調べてくださったんです。>

 早速、「サンデー毎日」の創刊号を調べてみると、残念ながら表紙はどこかの街の写真。

 
 大正11年4月2日号が創刊号ですから、7月2日の撮影ですと、もう少し後の号の表紙に使われたようです。

 日傘をさした松子さんの写真は、『谷崎潤一郎の恋文』にも使われていますが、こちらの写真は18歳には見えません。

 ネットで「サンデー毎日」の表紙を調べていると、小さな日傘をさした少女の写真がありましたが、こちらかどうかはわかりません。


表紙絵になった経緯は次のように述べられていました。

<そのころ割合とよく毎日新聞へ行ってましたんですね。見学団と言いましたかしら、それによくお友達と行っておりましてね。そういう中でまだ若かったしね。ちょうど英国のプリンスオブウェールズが日本へいらしった時で、それから三浦環が日本へ帰って来て初めて公演した時で、そんな時にわたしが花束を舞台まで持って行ったりしたことがあったんです。そんなことで毎日新聞がわたしを表紙絵にね。>
さすが谷崎松子さん、若き日から北尾鐐之助の目を引くほどの美人だったようです。



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谷崎潤一郎 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
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北尾鐐之助『武庫野物語』に描かれた甲山の山頂からの景色

 京阪神叢書(12)北尾 鐐之助著『武庫野物語』は昭和23年発刊されており、冒頭の「武庫野の黎明」では戦後間もない、甲山の頂上から見た光景が描かれています。

西宮市立図書館では、ありがたいことに70年前の本も閲覧のみではなく、貸出してくれます。

<ことしは元旦に、また甲山の頂上に登ってみたが、かつて、君といっしょに来た時から、もう、可なり年が経っている。北風が冷たい粉雪を降して来て、枯笹にさらさらと音を立てるような寒い日であったが、日だまりにひとり腰を下ろして、眼の下に冬の武庫野をながめていると、あれほど鮮やかに足の下に横はっていた武庫川の緑の線が、全く形を無くしているのに一驚した。戦争以来多くの松を伐ってしまったのである。>
 書かれているのは昭和23年の元旦のようですが、粉雪が降る寒い正月。

 近年雪が降るのが珍しくなった西宮です。今年の元旦はあいにく曇りでしたが、雲の切れ目からの甲山神呪寺で撮影した初日の出です。

 現在の甲山には木が生い茂り、山頂の広場に登っても、下の写真でおわかりのように、木で視界が遮られ、頂上から下界の景色を眺めることはできなくなりました。


 昭和23年の甲山の写真(南から見た甲山のドーム)が掲載されていました。

懐かしい禿山時代の甲山ですが、まだ頂上まで上るジグザグの道はなかったようです。

 戦時中の松の伐採により、北尾鐐之助が愛した武庫川の緑の線が全く形を無くしていると書かれています。

現在の武庫川を眺めるため甲山森林公園の展望台に行くと、松は少なくなっているようですが、緑の線は少し回復しています。


<それに、西宮の市街は赤ぢやけた瓦礫と変ってしまい、見渡すかぎり茶褐色と灰色とを漲らせて、どこがどこだか解らなくなっている。>
昭和23年の西宮市街を見晴らすと、空襲の爪痕が残ったままだったようです。
それにしても、甲山の山頂からの視界が遮られたままなのは、残念です。


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北尾鐐之助 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

山頂からの展望を復活させて頂きたいですねえ。孫を連れて上がって、あの昔のパノラマを、西宮南部の全貌を見せてやりたいものです。

[ imamura ] 2018/11/11 22:52:10 [ 削除 ] [ 通報 ]

私も本当にそう願っています。

[ seitaro ] 2018/11/16 13:14:22 [ 削除 ] [ 通報 ]

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白浜の南方熊楠記念館へ

 白浜のアドベンチャーワールドに娘一家達とパンダを見に行ってきました。

 
 白浜訪問は3回目になりますが、前回は改装工事中で行けなかった、番所山公園の南方熊楠記念館を訪ねました。

 
 南方熊楠というと和歌山県が生んだ博物学の巨星。

彼の破天荒な生き方、人物像に以前から惹かれていました。神童時代に始まる天才的な記憶力や奇行、数々のエピソードは有名で、熊楠に関する評伝や小説は山ほど刊行されています。


 幼少のころは興味のない科目には全く目を向けず散漫な態度を教師に叱られ、東京大学予備門時代も勉学に打ち込む同級生を傍目に「こんなことで一度だけの命を賭けるのは馬鹿馬鹿しい」と早々と見切りをつけて、19歳から約14年間、アメリカ、イギリスなどへ海外遊学しています。

 明治19年の熊楠のパスポート。今と違って大きく、B5判ノート位の大きさ。日本皇帝陛下外務大臣勲一等従三位伯 井上薫とあります。

ジャクソンビルでの写真を見ると、ハーフのような顔立ち。

明治25年にはイギリスに渡り、科学雑誌『ネイチャー』に初めて論文“The Constellation of the Far East”を書き、その後も寄稿を続け、高く評価されます。
平野威馬雄『くまくす外伝』では、<欧米の学会では、ミナカタとダーウィンとスペンサーの三人を世界の硯学として記録した。が、日本では今日でもまだミナカタの名を知るものが少ない。>とまで書かれています。

 大英博物館に出入りするようになった熊楠は、そこで東洋図書目録編纂係としての職を得ます。

(ロンドン時代に使っていた熊楠の鞄)

 その学識が一部の学者などから高く評価される一方で、東洋人だということでさげすまれるようなこともあって、幾度となく、乱暴的なふるまいをしてトラブルを起こしました。
明治31年には女性の高い話し声を注意して、ついに大英博物館から出入り禁止の処分を受け、明治33年に日本に帰国しました。

 ロンドンでは、孫文と親交を深め、その後日本に亡命していた孫文は明治34年にわざわざ和歌山を来訪し、熊楠と再会して旧交を温めています。

孫文らとの記念写真 前列左より、常楠、孫文(常楠長男常太郎を抱く)、楠次郎、後列、熊楠、温炳臣(通訳)

 昭和4年には紀南行幸の昭和天皇にご進講します。

熊楠はアメリカ時代から大事にしまっていたフロックコートを着用し、県立水産試験場の船に乗り神島に向かいました。

 熊楠は神島の林中をご案内した後、お召艦、長門の艦上で約25分間、標本をお見せしながら、粘菌や海中生物について進講申し上げ、更にキャラメルのボ−ル箱に入れた、粘菌の標本110種などを献上したそうです。


 昭和37年に昭和天皇・皇后両陛下、南紀行幸啓の際、白浜の宿舎より、30余年前に訪れた神島を望見され、

「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」

と詠まれ、このお歌の碑が、神島を望む、南方記念館の前に建立されていました。


最後は番所山公園からの360度の見晴らしを堪能して帰ってきました。



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和歌山 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
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『異人館の少女』五堂英雄氏の最後は市立芦屋病院

 藁科れい『異人館の少女』では中学生時代の主人公・橋本京子と田所リサ、そして六ノ荘館の五堂英雄との奇妙な関係が回想されます。

<“三人”は、ほんとうに友達だった。時の枠を超えて、社会の枠をこえて、かろうじて触れた −ふれあおうとした。しかし所詮、わたしたちは目に見えぬ何かによって、隔てられていた……。>

 そのような幻想のような中学時代の関係が語られるのですが、最後に現実の世界に引き戻されます。それはサラリーマン向け週刊誌に掲載された五堂英雄の死亡記事。タイトルは「画廊主から実業家に転じて二十余年 五堂英雄氏のゴーモク人生」で、彼の素性と最後が掲載されています。

<私が死をしったのは、東芦屋町の家にかかってきた別れの電話の数か月後のことだった。入試を目前に控えていた私は、何もしなかった。六ノ山館の葬儀にも行かなかった。ただ週刊誌の記事を黒布にくるみ、箱に入れて、机の奥にしまいこんだのだ……。>

 その週刊誌の記事によると、五堂氏は
明治四十四年十月生まれ。東京出身。一高をへて、東京帝国大学文学部卒業。美学専攻。
昭和二年に五堂産業創設。私邸は六ノ山館。

六ノ山荘町(六麓荘町がモデル)の宏大な屋敷に住んでいました。

<数年来の“疑獄”事件に加え、音楽ホール建設にまつわる代議士の汚職問題が表面化した昨年十月、氏は“休養のため”市立芦屋病院に入院。持病の“心臓”をたてにマスコミをシャットアウト、再起に備えていた。>
ここで「市立芦屋病院」という実在する病院名がでてきました。

公立病院でありながら、このような人物の籠城先として小説に登場するのは、やはり芦屋ブランドのせいでしょうか。
<疑獄の渦中、かねて別居中だった正代夫人(54)と正式離婚。浪人中の長男(19)を東京に、次男(17)を元夫人のすむ芦屋市内のマンションに、雇人を解雇し宏大な私邸を”閉鎖“、まったくの単身にもどって、なじみの芦屋病院に”籠城“−>

その後、旧友の逮捕も続き、大きなショックを受けます。
<さすがの五堂氏もショックを受けたらしく、一カ月後には“心不全”で、早々と世を去ることになった>

 震災後に芦屋に戻ってきた橋本京子は、数十年前の週刊誌のページを閉じ、きちんと折りたたみ、再び黒布でくるみます。そして涙をポロポロこぼしながら、芦屋川沿いを歩いて行ったのです。




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藁科れい『異人館の少女』エピローグは「芦屋川べりで」

『異人館の少女』の最終章は、「芦屋川べりで」。震災の翌年に芦屋に戻ってきた橋本京子の追想が語られます。
<いま、しずかにふりかえってみると、私の少女期 −感性の時代は、二人の親友とのわかれと共に終わったのだといえる。>

六麓荘町(六ノ山荘町)に戻った京子はバス停にいた男の子とこんな会話をします。
<「じゃぼく、はしって帰って、百円玉、ママにもらってくる」標準語に、ゆるやかな関西の音。芦屋のある地域の人々特有のことば。ママはきっと、私より年下のひとなのだろう。>
 この特有の話し言葉については、阪田寛夫さん、田中康夫さんはじめ多くの方が同様の印象を述べられています。

 手をふって男の子と別れた京子は、バス(小説では市バスとなっていましたが、阪急バスでしょう)にのって阪急芦屋川駅に帰ってきます。

そして母が独り住んでいる岩園町の小さなマンションに向かいます。
<「外国なんか、とんでもない!今さら知らない土地で苦労したくないんよ」と、芦屋を離れたがらなかった母だが、ここ数年来のリューマチ痛に、すっかり参っていた。いずれこの町を引き払って、ウィーンの私の住居に一緒にすむことになるだろう。今回の帰省は、その打合せもかねていた。京都で林学を学び、ウィーン工科大学に留学した私は、現在は当地の林産試験場で技師として働いていた。>
 この部分が、私にどうしても主人公・橋本京子と著者の藁科れいさんを重ねさせます。
藁科れさんは京都大学農学部卒業後、昭和53年に渡墺。ひょっとして、小説にあるように留学されたのでしょうか。
その後、20年間ウィーンに住まれています。そうすると日本に帰ってきたのは1998年、震災の3年後です。
 帰国前に故郷の芦屋に戻られれ、取材されて小説を書きあげられたのかもしれません。

 彼女の風貌も、小説の中ではこんな風に描かれています。
<象さん。これが高校時代のあだなで、今はウィーンで近所の子供たちに、“フラウ・ギガンティン(巨人おばさん)”と私は呼ばれている。大柄で、どっしりした体躯で、仕事以外のことでも頼ってくれる人が多く、現在は、市の東欧避難民援助にも参加している、きびきびした日本女性 −それが私だ。>
でも藁科れいさん本人は全く逆の風貌なのかもしれません。

 最後の場面は月若橋です。

月若橋は阪急芦屋川駅バス停のすぐ近く。
<月若橋までくると、バッグを足許に置き、橋の欄干にもたれかかった。夏のひざしが、淡く翳りはじめた。らんかんの石のくぼみに、ちいさな溜まりができている。昨夜、雨がふったらしい。ひじをついたまま、私は、水かさのました芦屋川の流れをながめた。
 ふたたび薄日がさし、ひざしが眩しくなり、やわらかな風がふき、川ぞいの樹木の匂いをはこび……。>

芦屋の風景を懐かしむ主人公が情感豊かに描かれた小説でした。


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『異人館の少女』に描かれた橋本京子の県立芦屋高校時代

 藁科れい『異人館の少女』は震災の翌年に戻ってきた主人公橋本京子が、昭和30年代に芦屋の六麓荘町(小説では六ノ山荘町)で過ごした日々の回想が綴られます。
 山手中学三年生の時に、京子と級友田所リサ、六ノ山館の主人・五堂英雄の奇妙な関係の解消と別れがおとずれます。 六ノ山館のハウスキーパーを務めていた京子の母は、勤め先を変え、東芦屋町のさる貿易商の邸の離れに住み込みで働き、京子も一緒に移ります。そこで受験勉強に励んで西芦屋高校に入学します。

東芦屋町には芦屋神社もあり、昔は多くの洋館がありました。

かつて東芦屋にあった竹内才次郎邸(現存せず)

こんな東芦屋町のマンション広告もありました。

現在の東芦屋町。

 京子が入学した西芦屋高校とは、どうも宮川町の県立芦屋高校のようです。

<西芦屋高校はいわゆる受験校だったが、のびやかな気風が漂っていた。中学時代よりも、私はしあわせだった。幸せ。この言葉は私のばあい、薄い絵の具をとかした水のように淡々と穏やかな、さらりとしたものであった。私は生物研究会に所属し、“ぞうさん”というニックネームをもらい、みんなに信頼されて書記を律義につとめた。“やせギスのめがね”の少女はもう、いなかった。背が伸び、幅もできて、大柄なずっしりした感じに変わっていた。>

 京子の思春期は高校入学で終わったのでしょうか。この描写は、著者の藁科れいさんご本人の実体験を元に書かれているとしか思えません。
<二年も半ばになると、進路のことを考えねばならなかった。私の成績はまあまあだった。四五〇名中、八〇番くらい。中学時代のようなわけにはいかなかたった。母と私は進路指導の先生によばれ、どの大学をめざすかで相談を重ねた。「神戸大学農学部は、どや?」担当の老先生は、好意的だった。母子家庭でることも考えにいれて、畿内の大学をあれこれ調べてくれた。>

 当時の県立芦屋高校での成績を考えると、進路指導の先生の推薦は妥当です。でも京子はひそかに、芦屋を遠く離れたいと思っていました。

 高三の晩秋、入院している五堂英雄から電話がかかってきます。
<氏はしばらく黙っていたが、やがてふと調子を変えて、「来年はどこを受けるのかね。神戸?京都?それとも……」「あの、たぶん北海道……」地名がそのまま大学名をさすことは、二人のあいだでは了解できた。「そうか……」暗闇の中で、氏がほほえんでいるらしんおがわかった。「しっかり勉強するんだぞ。がんばれよ」>
 京子は母には内緒で、ひそかに北海道を狙っていたようです。この気持ち、私の高校時代と似ていて、よく理解できます。
 ところで著者が実際に入学したのは京都大学農学部でした。よっぽど頑張ったのでしょう。




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芦屋 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

芦屋神社ですが、わたしが敬愛した詩人、杉山平一先生に深いゆかりがあります。https://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/e/d7474780bbf992237153972cd9c8174a

[ imamura ] 2018/11/04 23:03:26 [ 削除 ] [ 通報 ]

ブログ読ませていただきました。そのような縁があったとは。
ありがとうございました。

[ seitaro ] 2018/11/05 11:08:28 [ 削除 ] [ 通報 ]

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『異人館の少女』舞台は芦屋市立山手中学校

 芦屋市出身と思われる藁科れいさんの小説『異人館の少女』、ウィーン工科大学に留学し、そこで技師として働いていた主人公橋本京子が、帰国し芦屋の六ノ山荘町(六麓荘町)にたたずむ場面から始まります。

 
主人公が過ごした中学校は芦屋市立山手中学校のようで、三章の「学校生活」では不安定な思春期の少女の心が見事に描かれています。
<わたしの学校生活 −それは、理由もわからない苛だたしさにあふれていた。小学校を終え、こどもらしさという救いが脱げ落ちてしまうと、苦しみは深まった。やがて、あらゆることが脆い神経に触れ、一切が苦痛に感じられる時期がやってきた。芦屋市内の公立中学校 −風光明媚な、山と海を望める土地のあかるい校風のなかで、一人がんじがらめにされて動けない、虫けらのような感情を私は味わった。>

 六麓荘町に暮らす主人公が通った芦屋の風光明媚な中学校となると、芦屋市立山手中学校に違いありません。

山手からは海まで見はらせます。
 因みに山手中学は小川洋子さんの『ミーナの行進』で岡山から出てきた朋子が通った中学校でもあります。

 京子の中学時代の劣等感に苛まれる様子が次のように述べられています。
<歳月はのろのろと流れた。六ノ山荘と学校を往復するだけの日々を重ね、私は十五歳になった。三つ編みの髪、めがね、さえない膚の色、ふつりあいに大きな頭(わたしの頭は、ぐらぐらゆれるほど重く、左に、みょうにひずんでいた)、このあたまをささえる、爪の蔓のように細いくび。>
 歳をとると、光陰矢のごとしですが、まだ子供のころは書かれているように歳月はのろのろ過ぎて行くように感じていました。

 主人公は級友とつきあうのが苦手で、いつも一人。ところがある事件をきっかけに、転校生で、皆から“キヘン”と嫌われている田所リサとの交流が始まります。
 そして更に物語が非現実的で複雑なものになってくるのは、田所リサが六ノ山荘の主人、五堂英雄と芦屋病院で出会い、親密な交際を続けていたことです。

 芦屋病院とは朝日ケ丘にある市立芦屋病院のことでしょう。また田所リサが住んでいたのは清水町で、馴染みのある場所が小説にしばしば登場します。
 
 主人公京子が、遠くから眺めるだけで話したこともない、灘中に通う五堂家の次男英一郎に、意を決して公衆電話から電話する場面も、思春期の少女の心がうまく描かれています。

今はみんな携帯電話を持っており、公衆電話というのも昭和の懐かしい話です。

 社交的なところが感じられない主人公ですが、勉強は得意です。
<六月末の県下一斉テストで、わたしは総合首位をしめた。主任の先生は、わたしを大げさに褒めちぎった。「ようやった、ようやった橋本。これでおまえも、芦中の校史にのこるわけや……」おごそかな口調がおもはゆい。私はうつむき、ゆっくり顔をあげ、てれ笑いで賛辞に答えた。>

小説に描かれた主人公の姿は、著者の藁科れいさんの中学時代の思春期の思い出をそのまま書かれているのではないかと、どうしても思ってしまいます。



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芦屋の六麓荘を舞台にした小説を見つけました

 芦屋の高級住宅街として日本中に名を轟かせている六麓荘ですが、何故か小説に登場するのは稀です。


拓未司の推理小説『蜜蜂のデザート』に登場するくらいだと思っていたのですが、新たに1999年に発刊された藁科れいさんの『異人館の少女』という小説を見つけました。

本の帯に、「帰らぬ懐かしい時代 ・・・・昭和の半ば。兵庫県芦屋市の異人館。五十代の実業家と、十四歳の少女の”愛“。それは時間も空間も超えていた。」と書かれているとおり、何とも奇妙な物語でした。


 作者の藁科れいさんはPHP研究所人名辞典によると、
<1952年9月10日、兵庫県生まれ。京都大学農学部林産工学科卒業。1978年から約20年、オーストリア・ウィーン市に在住。ウィーンについてのエッセイや翻訳を中心に執筆活動を行う。2000年にエッセイ「ウィーンのバレエの物語」で報知ドキュメント大賞を受賞。
著書に『永遠と一日』(幻冬舎)『異人館の少女』(文芸社)がある。>
 私とあまりかわらない年齢ですが、ネットで調べても残念ながらご本人の写真は見つかりません。兵庫県生まれというのは、きっと芦屋市生まれ、少なくとも小、中学時代は芦屋で過ごしたにちがいありません。著作は少ないですが、彼女の特殊な経歴にも興味があり、『永遠と一日』は是非読んでみたい小説です。

 『異人館の少女』の冒頭は次のように始まります。
<六ノ山荘町はしずかだった。芦屋川べりでそこかしこに見られた前年の地震の爪痕も、深山のこの地んまでは及んでいないようにみえた。あじさい。六甲山脈に群生する。このユキノシタ科植物の花びらは、べにいろを幽かにふくんで、ずしりと青い。花球はいくえもの房をつくって、たっぷりと咲いていた。>
 小説では「六ノ山荘町」となっていますが、六麓荘町をモデルにしていることは間違いありません。
 少女時代を六麓荘で過ごした主人公・橋本京子が、震災の翌年、1996年に六麓荘町に戻ってきた場面から始まります。
 藁科れいさんは京大卒業後、1978年から約20年、オーストリア・ウィーン市に在住とありますから、震災後芦屋に戻ってきて、六麓荘町あたりを取材されたのでしょう。

<山道の交差する三叉路 −バス停のそばに、私は立ちつくしていた。昭和三十年代のころそのままの、古式蒼然とした型のバス。大儀そうにバスが走り、遠ざかるのを見送ってから、私は丘の上へと登りはじめた。>
 このバス停、三叉路になった六麓荘入り口にある阪急日の出橋バス停でしょう。今も赤いポストが目立ちます。

古色蒼然とした型のバスとは、ボンネットバスのことでしょう。創作だとは思うのですが、ひょっとすると当時まだ残っていたのでしょうか。

 舞台となるのは、<明治の末ごろ、独人技師が築いたという石の家、かつて個人の所有で、六ノ山館とよばれていた屋敷だ。>で、この敷地内にあり、今は廃屋となっている細長いコンクリートハウスに主人公京子とハウスキーパーをしていた母親フミは住んでいたのです。
 ところで六麓荘町が開発されたのは、1928年(昭和3年)から、この洋館は創作です。もう少し読み進めましょう。


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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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