阪急沿線文学散歩

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神戸モダニズムの風景を冒頭で活写した谷崎潤一郎『赤い屋根』

 大正3年(1914)からの第一次世界大戦は日本に好況をもたらしましたが、とりわけ港町神戸では船成金が輩出し、神戸経済は未曽有の繁栄を享受します。その結果、外国人商館が中心であった元居留地に日本商館が進出し、ハイカラ都市神戸が生まれたのです。
 大正12年の関東大震災で関西に移り住んだ谷崎潤一郎は大正14年に『赤い屋根』という短編を発表しますが、その冒頭はモダニズム時代の神戸の街を見事に活写しています。

<中山手三丁目で電車を降りて、三ノ宮の方へ一直線に下がっているアスファルトの坂道を歩きだすと、繭子の姿勢には自ら一種の「形」がつき、足はひとりでに弾んで行った。>

これはトアロードど山手幹線が交差する中山手三丁目の交差点、当時は市電の駅が現在のNHK放送局前にありました。

<一帯に街が綺麗で、大概な路面はアスファルトで固めてある神戸の中でも、土地の人がトーア・ロードと呼んでいる此の坂は一番気持ちがいい。後ろの方には新緑の衣を着けたトーア・ホテルの丘があって、そこから真っ直ぐに、恰も白墨で描いたようにカッキリした道が。、海岸へ向って降りている。>

上の写真は現在のトアロード。

谷崎が見たのは下の写真のようなトーア・ロードでした。


<海岸の方には、晴れた五月の青空の下に、明海ビルディングだの、オリエンタル・ホテルだのの高い建物が、角砂糖を重ねた如く遠望の中に際立っている。繭子は此処を歩いていると、嘗て一年ばかりを過ごした上海の街を想い浮かべて、今でも彼処に住んでいたような気がするのである。>

トアロードを真っ直ぐ南へ降りてくると、神戸大丸があり、旧居留地の明石町筋へと続きます。


 明石町筋にある明海ビル(旧居留地明石町32番)は大正10年に竣工され、美しい洋風建築でしたが、残念ながら阪神大震災により被災し全面的に建て替えられています。


 そのまま海岸通りまで下ると、角に大正11年築、渡辺節設計の商船三井ビルディング (旧居留地海岸通5番)があり、現在は、大丸インテリア館「ル・スティル」として営業中です。

 
 谷崎が小説に書いた当時は、下の写真のような風景だったのでしょう。

商船三井ビルディングの後ろに少し見えているのが明治40年に移転してきた三代目のオリエンタル・ホテル((旧居留地海岸通6番)です。

 この風景、確かに上海のバンド地区に似ています。
(写真は5年ほど前撮影)

谷崎は大正7年に中国を訪問しており、その時の印象と重ね合わせたのでしょう。

 ここで登場する繭子は、『痴人の愛』の主人公・ナオミのモデルにもなった最初の夫人・千代の妹の映画女優・葉山三千子(本名石川せい子)と言われており、次のように描かれています。

<此の服装で、手には一本の、革紐の附いた籐のケーンを振りながら行く恰好は、西洋娘のタイピストが午の休みに運動に出たと云う形で、遠目に見たら間違える人もあるかも知れない。彼女も実はそう見られたい気持ちもあって、此の往来を通るときは帽子を眼深に、鍔の先からやや仰向いた鼻の頭と、仏蘭西製のルージュを塗った唇だけが目立つようにした。>

まさに谷崎潤一郎と同じく、神戸モダニズムの時代を過ごした中山岩太が撮影したトアロードの風景を思い起こさせます。



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稲垣足穂が小説の舞台にしたトアホテル

 現在、北野町の神戸外国倶楽部がある場所にはトアホテルがありました。


 稲垣足穂は『神戸漫談』で、次のように述べています。
<神戸のことを知っている人は、きっと三宮の東にある山の方へ一直線につづいているアスファルトの長い坂を知っているにちがいない。で、その正面には木立にかこまれて御伽話式の尖塔を出している赤い建物がある。これが神戸名物の一つであるトアホテルだ、−だからこの坂のことをみんなはトアロードと云っている。>

上の写真の山の方に向かう一直線の道の突き当りにトアホテルがありました。

本当に御伽噺にでてくるような赤い尖塔のあるホテルです。

 稲垣足穂はいくつかの小説にトアホテルを登場させていますが、『星を造る人』では魔術家のシクハード氏の滞在先として描かれています。
三ノ宮警察の警官隊が追跡を始めた場面です。
<魔のような紳士は、かくべつ走っているとも見えないのに、先へ先へと飛ぶように進んで、広場をよこぎり、電車道をこえ、鉄道の踏切を抜けて、海岸の明石町から山の手へつづいている坂道をどんどん登ってゆくのです。これを追っ取りこめようとする自動自転車隊は、やっきとなって、けたたましい爆音に夜の街をおどろかせて迫りましたが、突き当りのトアホテルの芝生のところへくると、ついに相手の行方を見失ってしまいまた。>

上の写真のトアロードを追っかける様子が描かれていますが、トアホテルのところで見失ってしまいます。
 そして奇怪な噂が続く中で、突然朝刊の記事で滞在先が判明します。
<昨年九月ごろから北野町トアホテルに滞在して怪奇な古代印度の偶像や古文書や天文機械や、その他宝石細工のついた器物にうもれて何事かの記述に余念なきシクハード・ハインツェル・フォンナジーと名乗る紳士があった。普通の逗留客に見かけぬ風采によって一同の眼を惹いていた折柄、測らずも十九日夜、同ホテルにおいて開催された慈善仮想舞踏会席上に発生した……>
シクハード氏はこの舞踏会で深紅色のマスクをつけたピエロとして現れ、それまで全神戸を幻惑の渦中に引き込んだ張本人であったことが判明するのです。


ロビーやメインダイニングなどの内部の写真もありましたが、当時はオリエンタルホテルと並ぶランドマークの位置を獲得し、市民からも親しまれていたそうです。

どう考えても『星を造る人』の舞台としてはこれ以上ないというほど雰囲気がピッタリのホテルでした。


 建物は第二次世界大戦の戦災を免れたものの、戦後GHQに接収され、その管理下にあった1950年に火災により全焼しました。
小松益喜は画文帖でその最後について次のように述べています。
<ここはアメリカ占領軍の将校夫人が電熱器のスウィッチを切り忘れたことから焼失してしまった。そして焼け残った鉄塔骨を取り壊すのに、塔全体に筵をはって爆破したことをはっきり覚えている。実に惜しい建物であった。>

 設計者を調べると自ら「建築界の黒羊」と称したという
下田菊太郎氏。アメリカ合衆国の建築設計事務所での勤務後、横浜に建築事務所を開設。当時の建築界では異色の存在だったそうです。
トアホテルが焼失してしまったのは、本当に残念です。




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阪田寛夫も庄野潤三もくらした甲山の麓の「仁川コロニー」

 阪急電車を尊敬し、宝塚少女歌劇の大ファンであった阪田寛夫は『わが町』の「宝塚」の章で、仁川の林間学舎で暮らしたときのことを述べています。

<幸か不幸か、私たちの小学校は、宝塚から四つ目の仁川駅の近くに林間学舎を持っていた。昭和十年前後のことである。仁川の町は、川の両側に三ブロックくらいづつ区画された閑静な住宅街だった。まだ家が建たず、石垣や石段だけを築いた空地が多く、赤松の林との境目がはっきりしない。この赤松林こそは、私たちのカブト虫の狩場であり、絶好の謀議の場所であった。>
 阪田寛夫は昭和11年、小学校5年の夏休みに、入学試験の補修授業で十日間仁川で暮らし、その時、レビュー見物に宝塚に行けるよう先生に訴えようと生徒の間で謀議をめぐらしていたのです。

 現在の仁川ですが、昭和14年には遠藤周作も仁川の月見ヶ丘に住んでおり、松林や赤い屋根の洋館について述べており、赤松林まで住宅地に変えてしまったのは、残念です。

 阪田寛夫が述べている仁川の林間学舎とは、帝塚山学院の「仁川コロニー」のことで、その歴史について庄野潤三が『早春』で詳しく述べています。

庄野潤三の父で、帝塚山学院の初代院長の庄野貞一は、欧米の教育視察でベルリン郊外のシャーロッテンブルグの森の学校での教育に感銘を受け、帰国後仁川に林間学舎を開設したのです。
<それは父が外遊から帰国して四年目の昭和六年八月に甲山の麓の仁川に開設され、第二次世界大戦のために閉鎖しないわけにゆかない状態になるまでの約十二年間、在校生ばかりでなく父兄、卒業生のまでひろく親しまれた帝塚山学院の林間学舎である。これをコロニー(植民地)と名付けたのは私の父だが、その意味とは別に明るく快い語感、やわらかな響き、いい易さとでたちまちみんなは新しい名前に馴染んだ。>
設立には甲東園を開発した芝川又右衛門氏が深く関与しており、仁川にあった経営不振の銀星学院というカトリックの小学校を芝川氏の援助で買収して、仁川コロニーとしたそうです。

 仁川コロニーは芝川家の別荘と、「甲東園」といわれる芝川家の果樹園の近くにありました。

写真は甲東園の果樹園にあった芝川家の別荘で、現在は明治村に移築されています。

『早春』では次のように描かれています。
<甲東園の次の仁川で電車をおり、滅多に水が流れているのを見たことのない、河原だけのような川に沿って少し上流へ行ったあたりで橋を渡り、住宅の間を左へ折れ、坂をおりきったところに「仁川コロニー」の門がある。まわりは赤松の林で、少し足を伸ばせば水遊びの出来る仁川がある。丘の方へゆるやかな坂道を上って行くと、赤い瓦屋根にクリーム色の関西学院の校舎が見えてくる。その後ろに甲山がどっしりと控えている。>
これを読むと、仁川コロニーは仁川と甲東園梅林の間くらいのところにあったようです。

仁川コロニーは戦争がはげしくなるにつれて、維持が困難になり、昭和19年6月1日に海軍予科練習生の集会所として接収され、幕を閉じたそうです。




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大正時代の神戸モダニズムに稲垣足穂は神戸ルミナリエを幻視していた

 稲垣足穂の『星を造る人』から神戸の不思議な物語を続けます。

「夕方、東遊園地のうすら明りの中で非常な不思議を行う紳士の話」がもちあがり、朝刊に次の記事がでます。「近来毎夜の如く午後七時より八時の刻限において不可思議な一外国紳士が東遊園地界隈に出没し、現代科学と人智をもって測るべからざる奇怪事を演ずるとの風説が専らである」。

写真は旧居留地東遊園地公園。右端のレンガ造りの建物が神戸クラブ。1991年に外観を復元し、管理事務所とレストハウスになっています。


 新聞記事に書かれた事を目撃したと称する者が続出して、「こいつは面白い。火のない所に煙は立たぬ」と問題の魔法を見に旧居留地に出かけます。
<やがて、海岸区の高い建物の側面を桃色に染めていた夕日の影もうすれ、街中が一様に青いぼやけた景色に変わってきた時、わたしは友だちを誘って、いっしょに遊園地の方に出向いてみました。そしてチカチカと涼しいガス燈がならんでいる明石町からオリエンタルホテル前の芝生あたりまで、元居留地の一帯にわたって、二時間近くもうろつき廻ったのです。>

地図の黄色の線が明石町筋からオリエンタルホテル(海岸通り6番 黄線の丸で囲んだ所)を通り、東公園へ向かうルートです。

現在の明石町筋のイルミネーション。

稲垣足穂が見たガス燈が復元されています。

<遊園地はさておいて、ふだんなら日が暮れるとひっそりして、ぎらぎら目玉の自動車が行き交うばかりで、碇泊船の汽笛が響き渡る、がらんとした、石造館が立ち並んだ街区一帯に、歩くにも邪魔なくらい人々が集まっているのです。いくら新聞の出たとはいえ、こんなに評判になっているとは思いもかけませんでした。>
そして、次の晩も、その次の晩も、夕方になると遊園地に出向くのです。

この歩き廻った場所は、元町から神戸ルミナリエの会場に向かう道筋と合致しているのです。

 
次の週の木曜の夜、海岸通り9番の英国領事館の近くを歩いているとき、俄雨が降り出し、一発の銃声がとどろきます。そこに突っ立ている少年が次のように語ります。

写真は明治中期の海岸通り。黄色の矢印の位置に英国領事館があります。
<雨が降り出してみんなが走っているのを見ていると、辻向こうの歩道の角へ、シルクハットをかむった人がひょっくり現れた。その人物だけがいやにゆっくりしているので変だなと思っていると、ズボンのうしろからピストルのようなものを取り出し、左手で上から垂れている綱のようなものを引く身振りをして、その上方へ狙いをつけたと思ったら、ズドン!と街中にひびき渡って、同時に、花屋の如露のように雨を撒いていた真っ黒な空が、目覚めるばかりの米国星条旗(スター・スパンクルド・バナー)に一変した!>

「スター・スパンクルド・バナーに一変した!」とはまさにルミナリエ点灯の瞬間のように思えます。
稲垣足穂は大正時代に、どうしてこんなに幻想的で美しい短編が書けたのでしょう。



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大正時代の神戸的モダニズムが生んだ稲垣足穂の作品

 陳舜臣は『神戸ものがたり』で、「地帯の雰囲気は、日本的風土、極端にいえば、シャーマニズムの世界とぶつかって、スパークをおこす。その火花のひらめきのなかに生まれたのが、神戸的モダニズムではないだろうか」と述べていますが、その火花の中に生まれた文学が稲垣足穂の数々の作品でした。


 神戸の町が大好きだった稲垣足穂は『星を造る人』で、大正時代の神戸の風景を次のように描きました。
<北に紫色の山々がつらなり、そこから碧い海の方へ一帯に広がっている斜面にある都市、それはあなたがよく承知の、あなたのお兄様がいらっしゃる神戸市です。そういえばあなたはいつか汽車で通った時、山手の高い所にならんでいる赤やみどりや白の家々を車窓から眺めて、まるでおもちゃの街のようだ、と云ったことがありましたね。>

現在の北野町の風景。大正時代は住宅ももっと少なく、山の斜面に異人館が映えていたのでしょう。

<それから、あの港から旅行に出かけた折、汽船の甲板から見るその都会の夜景が、全体きらきらとまばたく燈火にイルミネートされて、それがどんなにきれいであったかについても、あなたはかつて語りました。>

現在の神戸港の夜景、大正時代はどんなだったでしょう。

 そして、四月の或る夜、にぎやかな元町通りのショーウインドウの前を歩いていたとき、「夕方、東遊園地のうすら明りの中で非常な不思議を行う紳士の話」を聞くのです。
次回はそのお話を。


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陳舜臣『神戸ものがたり』神戸的モダニズムの異人館地帯

 陳舜臣『神戸ものがたり』では海軍営の設置に始まる神戸の町の発展、魅力について語られたエッセイ集です。

「異人館地帯」の章では、明治以降急速に進んだ欧化の背景をもとにした神戸的モダニズムについて述べています。
<西欧文化の浸透には段階があった。しかし神戸の町には、居留地のなかに「西欧」が忽然と出現した。一般の民衆から隔離された居留地のなかに、それがとじこめられているうちはまだよかったが、雑居地域に指定されたところ、とくに山本通りから北野町にかけて、またしても「西欧の町」が、すっぽりとはめこまれたのである。>
 イギリスのノーベル賞作家キップリングには、「神戸はあの忌まわしいアメリカ的な外観だ」と酷評されたものの、英字新聞には「東洋で最も美しく、よく設計された居留地」と称賛されています。

 明治11年のC.B.バーナードによる忽然と出現した居留地の絵がありました。中央には西欧風の街にそぐわない籠かきの姿が描かれており、居留地の出現に当時の人々はどれほど驚いたことでしょう。


現在も残っている旧居留地の異人館は、ただ一軒TOOTH TOOTH maison15thというレストランとなっている15番館です。


 内外人の雑居が認められた異人館地帯では強烈なエキゾチズムとモダニズムが放射されていました。
<それは夢の世界に似ていた。異なる風土に、むりやり移植された、つくりものといったかんじもするのではないか。まだ、じゅうぶんには根付いていなかったのだ。手をかけて、ひきはがすことができそうな気さえする。苔むした庭石、煤けた壁、くろずんだ柱をもつ日本の家々にくらべると、異人館はガラスとセルロイドでできたおもちゃ、もしくは張り紙細工のように思えた。>

明治中期の山本通りと諏訪山。
北野町3丁目あたりの風景ですが、田畑の中に突然現れた異人館です。

<そうした背景をもつモダニズムは、必然的に一緒の薄さをもたざるをえなかった。が、同時に、あやしいまでに幻想的でもあった。薄さそのものが、ロマンだったからともいえよう。>
陳舜臣が述べているように大正時代の神戸の町を幻想的に捉えて数々の作品を発表したのが稲垣足穂でした。次回は『星を造る人』について。




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庄野潤三『早春』に三宮のキングスアームスが登場

 「私の神戸物語」と帯に書かれた庄野潤三の『早春』で、芦屋の叔父夫婦と庄野夫妻との神戸の話の中で、突然キングスアームスの話題がでてきます。


<このあと妻は、キングスアームスというお店が市役所の先にあるんですといい出す。へえ、キングスアームス?そこで私が、これは英国のどこかのパブリック・ハウスをそっくりそのまま真似て建てたものなんだそうです、八年ほど前に姪の結婚披露宴がオリエンタルホテルであった時、家内と二人でそこへ夕飯を食べに行ったんです、前の日にこちらへ来たもんですからと、いきなり妻が口にしたフラワーロードの店について手短に説明した。>

『早春』が書かれたのは昭和57年ですから、当時のオリエンタルホテルは神戸市生田区京町25にあった写真のホテルでしょう。

 私のキングスアームスの記憶は昭和45年ごろのこと、イギリスのパブそのものでした。

<壁なんかも何回も重ねて塗ってあって、二階へ上る木の階段が料理を運んで来る度にきしんで音を立てるんですとか、一階の隅は投げ矢をして遊べるようになっていて、東京ならきざでとても見ていられないのに神戸だとそうならないんですね、若い人が楽しんでいるんですけど、別に目障りではないんですといえば、叔父は珍しそうに聞き入った。>

懐かしいキングスアームスの内部の様子が、1959年版映画『細雪』に登場します。

蒔岡家の四女妙子の制作した日本人形の展示会の会場として選ばれたのが、キングスアームスの2階でした。

きしんで音を立てる二階へ上る木の階段が左側に写っています。

一階のバーカウンターの様子です。

「一階の隅は投げ矢をして遊べるようになっていて」のダーツをする様子は、『月刊神戸っ子』1999年2月号に掲載されていました。


1961年3月号の『月刊神戸っ子』「特集/世界一うまい神戸のビフテキ」では次のように紹介されていました。
<キングス・アームス@当店の呼びものはスペシャル・ビーフ・ステーキ、量といい、質といいデラックスなんです。A九割は外国人B五○○円C神戸市庁舎のすじ向かい。三角屋根のエキゾチックな店構えです>
昭和36年には、お客の9割が外国人、デラックスなビーフステーキが何と500円でした。

 更に1998年12月の閉店前の『神戸っ子』の取材記事がありました。
<1950年に東洋で最初のブリテッシュパブとして誕生。一階はパブ。二階はレストラン。三階には使われることがなかった小さなホテル。1パイントのビールとフィッシュ・アンド・チップスとローストビーフと友との語らいが作る小さな異国。世界各国の人々がそこで会い、そこで話し、そこで飲み、そこで別れる、神戸にふさわしいインターナショナルな空間。>

<フイッシュ・アンド・チップスのサマになった店、本場に負けないローストビーフを食べさせてくれた店、十八世紀のイギリスのパブを極東の港町で経験させてくれた店は、二十世紀の終末、1998年12月29日にあっさりと幕を降した。もう少しで二十一世紀がくるというのに……さいうなら、キングスアームス。またいつか……>

イギリスのパブそのものといった感じだったキングスアームスが神戸の街から消えてしまったのは残念です。




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なんと旧ハンター邸がトアロードのTORの語源だったとは!

 弓倉恒夫『神戸トアロード物語―その名の謎に挑むー』は、詳細な資料調査に基づいて、TOR ROADの由来を解明し、更に今でも神戸っ子でさえあまり知らない驚くべき事実を教えてくれました。


まずトアロードの由来の諸説を列挙し検証を進めています。
1.ホテル説 ロードの山手の突き当りにトアホテルがあっ たからとする。
2.英語説 torは古語で岩山を意味する。
3.ドイツ語説 TORは門の意味
4.東亜説 漢字説。
5.鳥居説 「とりい」のローマ字綴りtoriiからiiがぬけ 
  落ちた。

これらの説の検証が進められ、
・明治41年のトアホテル開業後かなりたった大正12年の
 ジャパン・ディレクトリーの神戸地図にはまだ「三ノ宮
 筋」と記載されていたこと。
・大正10年発行英字神戸案内の広告欄にTor Hotel Roadが
 5例出現していること。
・昭和4年発行神戸・大阪英字電話帳にTor Hotel Roadが多く
 現れ、Tor Roadが顔を出し始めたこと。
を資料とともに明らかにし、「ホテル説」が正解としています。


 次にTorの名が何処からとってきたのかが明かされます。
ホテル建築着工の少なくとも6年前から2年前までの5年間、英国人F.J.バーデンズなる人物が大邸宅を構え、これを”The Tor”と表示していたことが判明します。
これがトアホテルのルーツ、ひいてはトアロードのルーツだったのです。

 この館と、ホテルの敷地となった高い石垣と庭園を含む広大な土地などを築造したのは、A.グレッピー氏で、その2700坪の底地の名義は、明治23年から明治40年にホテルに売却されるまで、妻のS.M.さんでした。
このグレッピー氏が建てた大邸宅の末期に、住んだ英国人F.J.バーデンズ氏が、自宅に”The Tor”の名を付したのです。

その理由について、著者の弓倉恒夫氏は、
<山手に向かって辿る夕景、英国人の目に映る風化花崗岩の山肌や石垣が、ノスタルジアの念ひとしお、故国のTor(岩山)を思い起させたとしても不思議ではない。>
と、推定しています。

トアホテルの跡地にある神戸外国倶楽部の石垣の上を見ると、AG1890という文字が彫られています。

AGはエー・グレッピー氏の頭文字で、1890は日本人妻のS.M.さんの名前が旧土地台帳に登記された年(明治23年)だったのです。

さらに驚かされたのは、現在王子公園内にある旧ハンター邸が元々ここにあり、この建物がThe Torだったことです。

昭和40年兵庫県教育委員会発行の「旧ハンター氏邸移築工事報告書」に、
「詳しいことはわからないが、ハンター氏は、この建物を新築したのではなく、トアホテルの建っていたところにあった。ドイツ人貿易商、エー・グレッピー氏の居宅を買い取り、これに改造を加えて移建したといわれている。グレッピー氏が、この居宅を建てたのは明治二十二年と伝えられ」
と書かれていたことから、移建直前の5年間、F.J.バーデンズ氏がThe Torと称して住んでいたことが明らかになったのです。

 この事実は生粋の神戸っ子でもほとんど御存知ないのではないでしょうか。

この名著、弓倉恒夫『神戸トアロード物語―その名の謎に挑むー』は残念ながら古本としては流通しておらず、購入できません。
西宮、芦屋の図書館にもありませんが、さすが神戸市立図書館で借りることができました。


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トア・ロードの由来はTORII HOTELと解釈していた稲垣足穂

 神戸のTOR ROADの由来については諸説あります。

『星を造る人』、『星を売る店』、『或る小路の話』、『一千一秒物語』などいくつかの作品にトア・ロードを登場させた稲垣足穂が『緑の蔭……英国的断片』でトア・ロードの由来について述べています。

<トア・ロードとは、神戸三宮の海岸通りから背山の直下まで一直線に続いている道の坂の部分を指すので、その名称は、これを登り詰めた所の右側、赤い円錐屋根をつけ、蔦を絡ませた塔を四隅に配したトア・ホテルに由来している。「トア」とは東亜に出ているらしい。こう説明しても、松村君はいつかな承知しそうにない。以下、今年の前半期における同君の神戸行の足跡を追ってみよう>
 
 ここで松村君とは、稲垣足穂の作品の研究者でもあり、当時京都府立桃山学園にいた松村実氏のことです。
<ところでトーア・ロードとは何と洒落た名前であろう。ポケットに突っこんでいる和楽路屋発行の神戸市街図にはトーア・ロードとあるが、T.I氏の「芦の都」ではトア・ロードとなっている。トアだろうか?トーアであろうか?和洋折衷で多分「東亜ロード」でないかとも思う。>

トア・ロードがトア・ホテルに由来していることは間違いないのですが、松村氏はトアについて、疑問に思い始めます。
<わたしは登るときには見逃したトーア・ロードのアーケイドにネオンが輝いているのを見て、またしても奇異な感じに打たれ始めた。何故なら、アーケイドの上には横文字でTOR-ROADとあり、これはトーアか、トアと読むのか、いずれにしても東亜とは読めない。これはトー・ロードである。トーア・ロードならば、TOA-ROADとすべきであるからだ。>
と更に疑問を深めますが、torが名詞で、岩山、岡という意味があり(特に英国Dartmoorの花崗岩質の)、背後の六甲山の花崗岩質の山肌の風景に重ね合わせるところまでたどりつきます。しかし真相解明にまでは至りません。

写真は現在のTOR ROADと六甲山。今や山肌は見えません。

 最後に稲垣足穂は備考として、在住五十年の碧眼の神戸っ子の説明によって真相が判明したと、次のように付け加えています。
<トア・ロード即ち「トア・ホテルへの道」であるが、これが英語のtor(小丘)か独逸語のTor(門)であるかについては、永い間議論されていたのだそうである。実は日本語のToriiに出ている。ホテルの中にお宮さんがあって鳥居が立並んでいたことから、TORII HOTELと命名されたが、何糞にもこの発音はさすがの西洋人にもそのたび毎に舌を噛む思いがするので、語尾の二字を削り取ったのだと。なるほど、自分は東効の関西学院に通学するために、毎朝三宮駅(現在の元町駅)に降りていたが、きまって山側の出口に、TOR HOTELと側面に白く大書した紅殻色の荷馬車が、白馬をつけて停まっていた。この美しい馬車は午後の帰りにも見受けられたが、車台に積まれたトランク類には、申し合わしたように、鳥居の絵が付いた楕円形のラベルが貼られていた。これでいっぺんに解決がついてしまった。>

三宮駅で見かけた荷馬車とは、上の写真絵葉書にも写っている荷馬車のことでしょう。

そしてトア・ホテルの鳥居の絵のラベルです。

トア・ホテル跡は現在神戸外人倶楽部となっていますが、門を入った駐車場のところに今も小さな鳥居が残されています。

さて稲垣足穂はいっぺんに解決したとしていますが、真相は更に別のところにありました。
それは次回に。



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稲垣足穂が通った大正8年の原田の森・関西学院

 稲垣足穂は明治33年に生まれ、大正8年に関西学院に入学しています。


 外見からはとても想像がつかないメルヘンチックな小説や詩を遺しており、『星は北にたんだく夜の記』は関西学院時代の亡友追慕の詩(私にはエッセイに近いように思われますが)です。

 足穂は『神戸三重奏』で、入学当時の関西学院について次のように述べています。
<私が、当時神戸東郊原田の森にあった関西学院中学部へ入学した時、校舎は完成したばかりであった。それまでは、正門をはいって右側の、その後は高等学部として使用された英国風の三階館が中学部だったのである。>
 明治22年に創立された関西学院ですが、順次拡張したようです。普通学部(後「中学部」に改称)専用校舎は不幸にして、1917(大正6)年、焼失しましたが、被災2年後の大正8年に再建されています。
 したがって、焼失していた2年間が、正門側の英国風の三階建ての建物が使われていたのでしょう。

手前の黄色の矢印の建物が高等学部、後ろの矢印のグラウンドの後ろの建物が中学部です。

写真で見ても立派な建物です。

足穂が通った再建された中学校の建物について次のように述べています。
<新校舎の木材はすべてカナダ産とやらで、それらは十月(オクトーバー)に入るなり紅と黄と褐色の見事な大饗宴を打ち拡げる筈である。異国の木々の香り、三角屋根をおおうた赤いスレート、その斜面に居並んでいる教室ごとのレンガの煙突、屋内はペイントとワニスの臭いに漲つて、初めて中学生となった私の感覚をそそり立てたものだ。>

絵を見てもレンガの煙突が多数立っています。赤いスレートの屋根は足穂の記憶違いでしょうか。

<私の教室は二回南側にあったが、北側の図書教室や習字教室には、北向きの真四角な採光窓がついていた。教師の壁はクリーム色で、この上方にワニス塗りの横桟があって、天井は白であった。北向きの採光窓は宛ら活きている額縁であった。そこには、背後の摩耶山の一角がカットされ、アカマツが疎らに置かれた芝地を、雲雲の影がひっきりなしにはい上がっては、その向こう側に吸い取られていた。>

 グラウンドの後ろが中学部の校舎。その後ろが摩耶山です。
足穂が書いているように、美しい校舎と自然に囲まれた素晴らしい環境だったようです。




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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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