阪急沿線文学散歩

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ビュールレ・コレクション ルノワールの名画がたどった140年

 国立新美術館での「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」、現在は九州国立博物館に移り、その後名古屋市美術館に巡回するそうですが、どれも素晴らしい作品ばかりでした。

 その中でも、どうしても見たかったのがルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」。
 肖像画の美しさはもちろんですが、NHKの日曜美術館「イレーヌ ルノワールの名画がたどった140年」を見て、その数奇な運命を知り、この機会に見逃してはならじと行ってまいりました。

番組は次のように紹介されていました。
<裕福なユダヤ人富豪の令嬢を描いた肖像画には、想像を超える激動の物語が秘められている。モデル・イレーヌの家族を襲ったホロコーストの悲劇。ナチスによる肖像画の略奪。そして戦後、奇跡的な肖像画の再会。ピアニスト・西村由紀江さん、カメラマン・渡辺達生さん、多摩美術大学教授・西岡文彦さんが、それぞれの視点から名画が秘めた「美の物語」を語る。>

 このドラマチックな物語はきっと本になっているだろうと、調べてみましたが、日曜美術館で紹介されたほど詳しく書かれたものはなく、備忘録としてその内容をブログに記録しておきます。

 ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」が描かれたのは1880年。モデルは8歳のパリに暮らす裕福な銀行家の令嬢イレーヌでした。
 当時39歳のルノワールは印象派展で評判をとったものの、作品はあまり売れず、美術界の権威だったサロンに復帰します。

そこで「シャルパンティエ夫人と子どもたち」が評判を呼び、ある人から裕福なユダヤ人銀行家「ルイ・カーン・ダンヴェール伯爵」と「ルイーズ夫人」を紹介され、イレーヌの肖像画を描いたのです。

 ルノワールはこの作品を自信を持ってサロンに出品し、「このブロンドの少女ほどかわいらしい作品を思い描くことはできない」と称されるほどの評判を得ました。

ふっくらとした手やドレスは、印象派の特徴である筆跡を残した表現。栗色の髪は細かく筆を重ね一本一本が見えるようです。一方で顔は陶器のようになめらかに描かれ、白い肌に血管が透けてみえるようです。古典的な描き方を取り入れて、白い肌、青い瞳を丁寧に表しています。

 しかし、イレーヌの両親たちはこの絵を気に入らず、ダンベール家ではイレーヌの肖像画は人目に触れる場所には飾られなかったそうです。

 彼のお気に入りは古典的な表現で人気を集めた肖像画の重鎮・カロリュス・デュランが描いたイレーヌの母「ルイーズ・カーン・ダンベール」のような格調高いアカデミックな作品だったのです。

 イレーヌに続いて描かれた妹たち「アリスとエリザベス・カーン・ダンヴェール」は、2人でポーズをとっています。

実はルノワールは3人それぞれの肖像画を描くつもりでしたが、両親がイレーヌの絵を気に入らなかったため、妹たちは2人まとめてしか描かせてもらえなかったのです。
 期待したほどの報酬も支払われず、「あの家族は本当にしみったれだ。僕は金輪際手を組まない」とルノワールは大憤慨したそうです。

 モデルとなったイレーヌは19歳の時、同じユダヤ人で銀行家のカモンド伯爵と最初の結婚をし、その暮らしぶりは貴族のようにゴージャスなもので、壁には隙間がないほど絵が飾られていたとのこと。

ひとまわり年上の夫との間には一男一女が生まれましたが、結婚生活は10年ほどで破綻。その後30歳でサンピエーリ伯と再婚し、20年ほど後に二度目の離婚をしています。


 イレーヌの肖像が描かれて60年後の1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまり、肖像画は数奇な運命をたどることになります。

 当時、肖像画を所有していたのは長女のベアトリスでした。

ベアトリスは同じユダヤ人と結婚し、親子4人パリで暮らしていました。パリでは裕福なユダヤ人を標的にした強奪が繰り返され、イレーヌの肖像画も略奪され、ジュ・ド・ポーム美術館に集められました。

一時期は美術好きのゲーリングの手もとにあったといわれています。
 また、ベアトリス夫妻と幼いイレーヌの孫たちは、絵を奪われた後、強制収容所に送られ、戻ることはなかったのです。

 イレーヌの肖像は終戦後にベルリンで発見され、幸運にもパリに戻り、戦争を生き延びることができたイレーヌのもとに返還されたのです。

彼女はすでに74歳になっており、その3年後に競売にかけられ、ビュールレによって落札されたのです。

 晩年、イレーヌは南フランスの移住し、1963年、91歳で生涯を閉じました。失った家族について決して触れることはなかったそうです。

「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」はスイスのビュールレ・コレクションにやってきました。ここは、元実業家エミール・ゲオルク・ビュールレの邸宅でした。


 ビュールレはドイツに生まれ、やがてスイスに移り機械の製造で成功をおさめます。きっかけは世界的ベストセラーになったエリコン20ミリ砲で、1940年代、ナチス・ドイツへの納入業者になったのです。兵器で得た莫大な富を戦後ビュールレは惜しみなく美術品に注ぎ、ビュールレの死後、コレクションは美術館として公開されました。

ビュールレがイレーヌのたどった生涯について知っていたのか定かではありませんが、イレーヌの肖像画を娘の部屋に飾り、毎日のように見つめていたそうです。

NHK日曜美術館の情報で、なお一層感動を呼ぶ素晴らしいルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」でした。




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聖心女子大学第二代学長Sr.三好切子と遠藤周作の夙川での出会い

 遠藤周作は昭和8年10歳の時に六甲の伯母の家から夙川に転居し、昭和10年に灘中に入学しています。
 その頃、母親郁は小林聖心女子学院で音楽を教えており、そこでシスター三好と出会われたようです。

Sr.三好切子が追悼保存版『遠藤周作の世界』に寄稿された「少年周作のあとを追って」で次のように述べられています。
<その頃私は、遠藤郁子先生からレッスンを受けるため、よく夙川のお宅へうかがった。そこで小学生の周ちゃんに出会う機会をえたのだった。やがて周ちゃんの小学生活も終わり近く、兄正介の通っていた今の灘中をめざす日が目前にせまってきた。>

遠藤一家は片鉾池の畔の借家に住まれていたようです。

<しかし、勉強嫌いの周作のことを心配して郁子先生は彼を私のところへよこした。それがきっかけで周作少年は週に二、三回、同じく夙川にあった私の家へやってくるようになった。そして来るたびに、先ずおいしいおやつをたのしんだ。それからひらく平凡な教科書に興味のもてない少年は二、三頁よむといつも居眠りをはじめた。>
 少年時代の遠藤周作のいたずらはシスター三好にまで及びました。
<「今日は先生にすばらしいプレゼントをもってきた」と言って香水のビンをくれた。「まあ、お母さんの鏡台の引出しからもち出したのでは」と云いながらあけてみると生きた毛虫が四、五匹出てきた。キャッと叫ぶ私を彼は面白そうにみてよろこんだ。私はこんないたずらを度々された。>

 一方そのころから遠藤周作の文才は優れており、シスター三好も認めていました。
<しかし、他方、この勉強嫌いな少年にもすばらしい才能がめばえ始めているのに気づいた。彼の作文はたしかによく出来ていた。学校からも、作文だけはいつもよい評価をもらってきた。小学生周ちゃんの作文の中にはすでにあのデリケートな感性が感じとられた。>

 その後、昭和23年に遠藤周作はシスター三好に頼まれて、小林聖心女学院の卒業劇のために、初戯曲『サウロ』を書いています。

その青年コルネリオを演じたのが稲畑汀子さんでした。『舞ひやまざるは』には、当時25際の遠藤周作がその舞台稽古を見に来ていたことが述べられています。
<周ちゃんも時々やって来ては腕組みをして恥ずかしそうに、うら若き女子学生が自分の書き下ろしの劇を一生懸命稽古するのに見とれていた。>

『サウロ』の直筆の原本は、小林聖心女子学院で大切に保管されています。




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そうか、住金の名前が消えるのか。

 先日、「新日鉄住金」が来年4月1日に社名を「日本製鉄」に変更するというニュースが流れ、山崎豊子さんが山陽特殊鋼や新日鉄に取材された『華麗なる一族』、『大地の子』などを思い出しておりました。


『華麗なる一族』の万俵鉄平は東大卒の阪神特殊製鋼(モデルは山陽特殊鋼)専務で、帝国製鉄(モデルは八幡製鉄、後の新日鉄住金)からの銑鉄と呼ぶ原料供給に頼る不安定さを克服するため、高炉建設を強硬に進めた人物。


 最初の映画で万俵鉄平を演じたのは仲代達矢、最後のテレビドラマでは木村拓哉が演じました。

 
 戦後の川崎製鉄や住友金属にとって高炉建設は悲願でした。万俵鉄平はそれを実現した人物がモデルだろうと推測し、私はきっと川崎製鉄の初代社長西山弥太郎だと信じていましたが、実は元住友金属社長の日向方斎氏だったのです。

『大阪づくし私の産声山崎豊子自作を語る2 (山崎豊子自作を語る 2)』からです。
<小説の副主人公である万俵鉄平の人間づくりのために、鉄鋼会社の経営者の中で、“鉄鋼マン”以外の何ものでもないない人物像をと、二、三人の経済記者の方に推挙していただくと、異口同音、住友金属社長、日向方斎という名前が撥ねかえって来た。> 

<初対面の日向氏の印象は戦国の武将のようなお名前に似ず、小柄、温顔であったが、一度、鉄鋼の話になると、烈々たる様相を帯びてくる。高炉を建てるために世銀へ借款に行き、半年もニューヨークの街をさまよわれた時の話から、鹿島一号高炉着工の時の感激に至るまで話され、「今、一番なさりたいことは?」と尋ねると、「鹿島二号高炉を建てたいことです」、一言そう答えられた。>

<この日向氏の齢を若くし、体躯を大きくし、精悍な顔つきにすると、小説のなかの万俵鉄平という鉄に生き、鉄に死んで行った一人の鉄鋼マンの人間像が出来上がる。人間を書くこと、人間臭さが大好きな私は、こうして絶えず、強烈な個性を持った人に接し、そこから小説の人物を創り出すのである。>

 さて新日鉄に対抗してきた住友金属工業が経営統合し、新日鉄住金が発足したのは2012年のこと。初代社長に住金から、私も存じ上げている友野宏氏がなられたときは驚きました。

 その住金の名前が消え、阪神特殊鋼のモデルとなった山陽特殊鋼の子会社化も検討されていると聞き、元鉄鋼マンの一人として、大きな時代の流れを感ぜざるをえません。

それにしても、経営統合では、そこで働いている一人一人に、小説以上の物語が生まれるというのが実感です。



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山崎豊子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
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遠藤周作は、経験した阪神大風水害を小説でどのように描いたか

 阪神大風水害の怖ろしい様子は谷崎潤一郎『細雪』に描かれていますが、遠藤周作も当時夙川に住んでおり、灘中での経験をエッセイで述べています。
 まず『よく学び、よく遊び』に収められている「二つの大事件」からです。


その日は、灘中で試験のときでした。

<風水害の時もやはり試験だった。私たち生徒は烈しい雨音をききながら答案用紙に向き合っていた。私の答案用紙はほとんど真っ白だった。突然、教室があいて誰かが蒼白な顔をして連絡してきた。「試験は中止」先生は大声を出された。「皆、非難する……」
 試験はやめになり、私は二、三人の友だちと御影から夙川まで濁水につかり、横倒しになった樹木や家屋の間をぬって帰った。その時も災害のひどさを私は感じなくて、翌日、新聞をみて、よく自分も助かったとびっくりしたのである。そしてあの真白な答案用紙を出さずにすんだことをひそかに悦んだ。もう、むかし、むかしの話である。>

灘中のそばを流れている住吉川の惨状です。


 また『心のふるさと』に収められている「消えた文学の原点」でも試験中止になって悦んだと、同じことを述べています。
<今、考えると随分、無責任な話だが、私たちは文句を言うどころか、「万歳、万歳
と連呼しながら、この豪雨を悦んだ。昼近く雨があがり空が晴れた。私と友人とは面白がりながら学校を出た。学校を出て驚いた。阪急電車が横倒しになり、至るところに川が流れ、警防団が綱を渡して、その川を人々が渡るのを助けていた。私たちは恐ろしがるどころか、むしろ遊びの気持ちでこの川を渡った。しかしこの嵐のために多くの人々が溺死したり家を流されたりしたことを知らなかったのである。>

阪急芦屋川駅の惨状です。

 このような経験を背景に、小説『黄色い人』でも阪神風水害の様子を次のように描いています。。
<あれは昭和十二年の九月十一日だった。御影の教会に雨をおかして、ウッサン神父をたずねていったのを今でも覚えている。夜になり、帰ろうとすると、夕暮れから降り出していた雨が土砂降りになり、ラジオはさかんに暴風雨を告げていた。………翌朝も雨はやまなかった。>
実際の阪神大水害は昭和13年7月3日から5日まで降り続いた雨によるものでした。
<だから昼過ぎ、空が晴れると、私は引き止めるウッサン神父に別れを告げて、靴をぬいだまま、少し引いた黄濁した水の中を陽気な気持ちでかえりはじめたのだ。だが、阪神電車はまだ動いてはいなかった。のみならず、掲示板には、開通の見込みまったくなし、と書かれてあった。「知らんのかいな、電車どころの騒ぎやあらへんわ」駅員は怒ったように私を怒鳴りつけた。>
「陽気な気持ちでかえりはじめた」とは、当時試験が中止になって悦んで帰る遠藤周作と同じです。
<芦屋川と住吉川のほとりは、被害がことにひどかった。家々は上流から押し出された砂土に全く埋まっていた。太い大木の幹や巨大な岩石までがその上におり重なり、それを取除くため、カーキ色のズボンをはいて半裸体となった日本の中学生たちがロープを引っ張って働いていた。>
これは、遠藤周作が試験が中止になった灘中から、昼過ぎに夙川に帰る途中に見た光景をそのまま描いたのでしょう。

被害が大きかった芦屋川の開森橋付近には「阪神大水害決壊之地」の石碑が立てられています。




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東京庭園美術館で展示されていた20世紀最大のモード誌

 6月12日まで開催されている「アール・デコ・リヴァイヴァル!旧朝香宮邸物語」で20世紀最大のモード誌といわれている『ガゼット・デュ・ボン・トン』が展示されていました。

『ガゼット・デュ・ボン・トン』は「上品で美しい(上流社会の)雑誌」という意味で、芸術性豊かなファッション誌。20世紀最大のモード誌とも称されています。


この雑誌の最大の特徴は、新進のイラストレーターが描いたデザイン性の高いイラスト。

それを特漉きの高級紙にポショワールと呼ばれる版画技法で刷り、それまでのモード雑誌とは違う新しいスタイルを打ち出しています。

その結果、有閑階級の教養ある婦人女性たちの間で瞬く間に人気となったそうです。

当時のファッションデザイナー、ポール・ポワレやジャンヌ・ランバンらの最新コレクション。

展示されているのはわずかですが、それでも20世紀初頭の代表的な挿絵画家たちが競うように腕をふるったこれらの作品は、アール・デコ・スタイルを余すところなく現在に伝えています。

そのファッションを纏った允子内親王の写真も映し出されていました。



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佐藤愛子さんは本当に灘中で評判の甲南女学生だったのか

 遠藤周作『口笛をふく時』で登場する東愛子は佐藤愛子さんがモデルになったのに違いないのですが、遠藤周作の灘中時代に佐藤愛子さんはどんな存在だったのでしょう。
 遠藤周作は1923年3月生まれ、佐藤愛子は1923年11月生まれですから、同じ時期に灘中と甲南女学校に通っていたのは間違いありません。

当時の甲南女学校は灘中の近くの、住吉川西側の東灘区田中町4丁目12-1にありました。

現在は本山南中学校となり、甲南女子学園発祥之地の石碑が建てられています。

『口笛をふく時』では国道電車からおりてきた甲南女学校に通う東愛子ら3人のあとをつける場面が描かれています。
<「亀しよう」と囁いた。みると平目の額に汗が少し浮き出ていた。亀するとうのは当時の阪神の中学生たちの言葉で、兎を追いかける亀のように、女学生たちのあとを尾行することだった。尾行するだけで声ひとつ、かけられぬくせに、ただいつまでも従いていくのだが、それを「亀する」というのである。三人の娘たちは、ずっと前方を並んで歩いていた。白い道が川に沿って真直ぐに伸びている。娘たちのセーラー服のスカートから黒い靴下をはいた格好のいい足が動いている。>

 さてこの小説の場面のように、実際に佐藤愛子のあとをついていったことを、遠藤周作はエッセイ集『心のふるさと』に収められた「マドンナ愛子と灘中生・楠本」で述べています。
<佐藤愛子はその頃から実に美貌で、我々灘中生の間でも評判だった。私は楠本と、彼女と彼女の友だちを下校の途中、よく「カメ」したものである。「カメする」とは私たち中学生の用語でうしろから尾行することなのだ。と言って別に何か悪いことをするのではない。話しかける勇気もないままに尾行して、彼女の家の玄関の前で、「バカ」と言われて、お終いなのだ。>

そうすると『口笛をふく時』の平目は楠本憲吉をモデルにしたのかもしれません。

 さて佐藤愛子さんがそれほど有名だったのは、美貌のせいだけではなく、当時から有名だった小説家・佐藤紅緑と女優・三笠万里子の娘だったからでしょう。


 遠藤周作は楠本憲吉と一緒に飲み歩いて、昔の愚行の思い出をよく話したそうです。
<話題のなかには佐藤愛子という女学生のこともよく出てきた。灘中の近くに甲南女学校という女子高があって同じ電車に女学生があまた乗ってきた。そのなかに我々の灘中生の話題になった一人の美しい生徒がいた。そえが佐藤愛子で有名な小説家の娘だという話をきいた。三色の襟巻を首に巻いた彼女は灘中生たちの前で颯爽と電車に乗った。
 私等がー特に私は彼女たちの注目を引こうとして吊り革にぶらさがって曲芸をしたものだが、女学生たちは知らん顔をして見ぬふりをしていた。>

遠藤周作は夙川から国道電車で灘中に通っていたようですが、吊り革にぶらさがって曲芸をした場面は小説にも登場し、この電車にも思い出がいっぱい詰まっていたようです。




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アール・デコ・リヴァイヴァル!いよいよ東京都庭園美術館の室内へ

 建物の形から細部に至るまで、アール・デコ様式にのっとって作られた朝香宮邸。


 いよいよルネ・ラリックのガラス製のレリーフの玄関大扉の横の入口から入場いたしました。

まず目を引くのが玄関を入った「次の間」にある「香水塔」です。
フランス海軍より献上されたセーブル社製の照明器具で、渦巻き部分に香水を入れて電灯の熱で気化させていたそうです。

大広間。

絵はこんな感じで、今も変わっていません。

隣の大客室の天井にはラリックのシャンデリアが輝いています。

飾り扉にはレイモン・シュブの金工装飾とマックス・アングランによるエッチング作品が嵌め込まれています。

大客室に続く大食堂。湾曲した窓から庭園が見えます。

一階の大広間の階段から二階に上がってみました。
二階広間に飾られている充子妃の肖像画です。

朝香宮邸の竣工は1933年5月で、入居して間もなく充子妃は体調を崩し、11月に亡くなっていますから、アール・デコの館で過ごされたのはわずか半年でした。亡くなられてからは、肖像画は元は妃殿下のお部屋に飾られ、毎朝殿下がそこにお辞儀をしてから、食堂に降りられたそうです。(青木淳子『パリの皇族モダニズム』)

朝香邸は戦後まもなく政府が借り上げ、外相官邸となり、昭和23年には吉田茂がここを首相公邸とし、6年間暮しています。

大給湛子著『素顔の宮家』には二階の丸い書斎について次のように述べられています。

<吉田首相はとりわけ二階の書斎と居室が気に入ったそうでした。父の書斎として、ラパンはアール・デコの粋を集めてつくった部屋です。正方形ですが、角に棚を配して、丸い部屋にしています。書斎の二つの窓からは、玄関へのアプローチが見渡せます。誰が来たのか、ここからすぐに見えるのです。首相の館としては、大変好都合だったのではないでしょうか。>

三階に上がると、かつて植物がたくさん置かれていたという白と黒のモザイクの床面のサンルームがありました。

庭に出てみました。

広い芝庭で多くの方が楽しまれています。

三階に見えるのがサンルームです。

日本庭園と茶室もありました。


次は鹿島茂コレクション「フランス絵本の世界」を見に、新館へ行ってみましょう。



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遠藤周作が小説家としての鍛錬に役立ったという告白室

 遠藤周作はエッセイ集『私の愛した小説』のなかで、四十数年ぶりにカトリック夙川教会を訪れたときのことを述べています。

<ついこの間、幼なじみたちに呼ばれて、かつて少年の私がそこで何も知らずに洗礼を受けた阪急夙川の教会に行った。四十数年の歳月をへているにかかわらず、教会はもとのままで、老いたのは私や幼なじみたちだった。>

 教会の中に入り、毎週の日曜日のミサの前に告白室でさせる罪のゆるしの記憶が甦ります。当時のミサの前には、祈祷書をめくり、信者のために色々な罪をくわけして書いたページを読んで準備したそうですが、遠藤周作は子供ながらにも罪とはそんな風に分類できるほど簡単に説明できるのかという疑念を持っていたそうです。

カトリック夙川教会の告白室は、後ろの南側の隅にありました。(上の写真の右隅)

<告白室に入り、金網の向こうに耳をかたむけている仏蘭西人の老神父に「嘘をたびたび、つきました」などとその時さえ嘘を呟きながら少年の嘘にも複雑な種類があり、複雑な段階があり、複雑な因果のあることを感じ、それが言葉ではとてもいいあらわされぬことに思い至っていた。>

 数年前。私が訊ねたときは告白室の隣には、小さき花の聖テレジア像がおかれていました。

現在は聖テレジア像は祭壇奥のアルコーブに戻されています。
<してみると、あの告白室で当惑が私の小説家としての鍛錬にどれほど役立ったかわからない。>

 遠藤周作が立派な小説家になるのに、そんなに役に立っていた告白室だったなんて。
聖堂に入られる機会があれば、遠藤周作が入ったという告白室もご覧ください。



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アール・デコ・リヴァイヴァル!東京都庭園美術館へ

 Twitterで庭園美術館で、「フランス絵本の世界」展が開催されていると知り、訪ねてきました。


同時に、「旧朝香宮邸物語」として建物公開されています。


 今回は二度目の訪問になりますが、前回購入した『庭園美術館へようこそ』を片手にゆっくりと見学させていただきました。
<五月、目黒通りに面した庭園美術館の門を私は歩いて通り抜ける。アスファルト敷きの小道がゆるやかなカーブを描いている。

木々が青い葉を広げ始めていて、その向こうには、四角い窓とカーブを描くバルコニーの並ぶ白い洋館が見える。車寄せのアーチの向こうにある玄関が開かれている。>
(『庭園美術館へようこそ』小林エリカ「はじまり」より)

その玄関から早速中に入ってみましょう。

 
 『庭園美術館にようこそ』で朝吹真理子さんが「かわらないもの」と題して、ルネ・ラリックのガラスの女性像について、面白い説明をされています。

<まずは車寄せの対になった唐獅子像を背に、玄関のルネ・ラリックのガラス扉をみる。何体ものガラスの女性像。当初は裸像だったのだが、お公家さんの玄関が女性の裸像はどうだろうか、と誰かが苦言を呈したことで、急遽、裸身だった女性たちはローブを纏った姿にかわった。目を近づけてゆくと、半透明のガラスに近づくと、胸のあたりに、ぽちりと、乳首の名残のような突起があるように見えた。もしかしたらそのエピソードを聞いたことによって目がみせたふくらみなのかもしれないが、肌にはりつくようなローブによって、かえって女性像はエロティックになっている。>

今回は繁々と胸のあたりのぽちりを探してみたのですが、はっきりしません。着衣像は新たな作品に取り換えたということなのでしょう。

 そして、4体の像の一番右端の女神像のガラスにヒビが入っているのですが、これは近年のものではなく、朝香宮家が住まれていたときにできたものでした。
朝香宮家第二女王の大給湛子著『素顔の宮家』に、次のように述べられています。
<玄関を入るとすぐに、女神像のレリーフが美しいガラス扉四枚、大きな光輪を背に両手を広げて訪れた人を歓迎しているかのようです。入口に続く大広間からの照明を受ければ、黄金色に輝きます。室内に入って振り返れば、外の光があたって、穏やかな曇りガラスのなかで、まるで女神が外敵から守ってくれるような優しい安堵感を与えます。アール・デコを代表するルネ・ラリックの作品です。
 このガラスには、いまもひびが入ったところがそのまま残っています。建てて間もないころに、二番目の兄が帰宅してバタンと元気よく閉めた時に入ってしまったものです。以後、お客様以外は開けないことになって、右側から出入りするようになりました。>

扉の裏からの写真。

 あまりにも装飾的なので、これが玄関の大扉とは気づかなかったのですが、私も玄関ホールの右手にある入り口から入らせてもらいました。




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丸の内の重要文化財、明治生命館へ

 東京駅で時間ができたので、KITTEで昼食後、一般公開されている明治生命館に行ってみることにしました。


KITTEの屋上テラスからの東京駅です。

その後、お堀端の重要文化財、明治生命館(昭和9年竣工)へ。

5階分を貫くコリント式列柱が立ち並ぶ古典主義様式に則ったデザインが目を惹きます。

1階は大理石の柱が林立する吹き抜けの大空間となっており、中央部からガラス屋根のトップライトが注いています。

二階への階段にある窓の意匠も古典様式。

天井には漆喰と石膏彫刻が精緻に施されています。

二階から見た一階店頭営業室(丸の内お客様ご相談センター)。平日実務をされている様子はどんなでしょう。

二階の回廊は一階と同様、壁、柱、柱型に大理石が用いられています。

ブロンズ製の手すりは、戦時中の金属回収令で供出されましたが、昭和31年の改修工事で復元。

応接室。

執務室は木製パネルによる内装。

会議室です。

戦後、GHQ(連合軍最高司令官総司令部)にアメリカ極東空軍司令部として接収され、昭和21年には第一回対日理事会が開かれたそうです。

立派な食堂です。

 東京駅に近くて、建物好きには見ごたえのある観光スポットでした。チャンスがあれば一般公開する日が限られているそうですが、第一生命ビルのマッカーサー総司令官室も見てみたい。





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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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