阪急沿線文学散歩

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灘中生の憧れのまと佐藤愛子(1970年『神戸っ子』4月号より)

 月刊『神戸っ子』1970年4月号の「遠藤周作氏をたずねて なにいうてけつかるねん」から続けます。

<灘中の頃は夙川で阪神電車に乗って岡本でおりるのだが、途中で甲南高女の生徒に会うんだな。あの「周作怠談」の佐藤愛子なんか、僕らの憧れのまとやったんや。それが別当薫(現大洋監督)に惚れててんやて。そやから大洋が負けるんや。この間、甲南高女の同窓会に招かれましてね。もう皆、オバハンやが感無量でした。握手してもらったら胸が震えて。>
当時灘中があった場所は現在と変わらず、神戸市東灘区魚崎北町。

 現在の甲南女子中学・高等学校は、東灘区森北町ですが、甲南女学校は、武庫郡本山村田中字手水(東灘区田中町4丁目12-1)にあり、跡地は本山南中学校となっています。

水色で囲んだところに灘中学校があります。

佐藤愛子さんが通われていた頃の甲南女学校の正門。

校舎です。

現在の跡地は本山南中学校になっていますが、立派な甲南女子学園発祥の碑が遺されています。

 佐藤愛子さんは甲子園から阪神電車か阪神国道電車で通っていたはずですが、遠藤周作は『神戸っ子』のインタビューで「夙川で阪神電車に乗って岡本でおりる」と話していることから、どうも阪急電車で夙川駅から岡本駅まで乗って、灘中に通っていたようです。

上は現在の航空写真。水色が灘中。赤が甲南女学校があった本山南中学校。黄色が遠藤周作が降りた阪急岡本駅。

 遠藤周作は『私の履歴書』でも、灘中で机を並べていた親友楠本憲吉氏と甲南女学校の女の子のあとをつけて行ったと述べています。
<姉上が部屋から出て行かれると私たちは再び灘中に近い甲南女学校の女の子たちの話を続けた。私たちは当時、彼女たちを尾行することを、「カメする」と言っていたが、その言葉は童話の兎と亀との話から生まれたのである。今の少年と違い、男女共学ではなく、女の子とデイトするなど不可能だった我々は、ただ甲南女学校の女の子達のあとを距離をとってついていくだけで、それ以上、何もできなかった。>
きっと甲南女学校の正門からあとをつけて行ったのでしょう。

 この話は遠藤周作『口笛を吹く時』にも出てきて、平目と小津は国道電車の芦屋川停留所で何日も待ち続け、ついに東愛子ら三人のセーラー服が降りてきたのを見つけ、カメするのです。
東愛子とは佐藤愛子さんをモデルにしたのでしょう。

佐藤愛子が憧れた別当薫は当時西宮市に住み、旧制甲陽中学校時に通い、エースで4番でした。




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阪神間が好きな遠藤周作は夙川生まれ?

 月刊『神戸っ子』アーカイブを見ていると、遠藤周作がしばしば登場しています。

1970年4月号には「遠藤周作氏をたずねて なにいうてけつかるねん」というインタビュー記事が掲載されていました。

当時の表紙は小磯良平。

 1970年というと大阪万博が開催された年。遠藤周作は大阪万博で、カトリックとプロテスタントの初の合同事業、基督教館のプロデューサーを阪田寛夫、三浦朱門とともにつとめています。

ミニスカート全盛時代でもあり、こんな広告記事も掲載されていました。

 さてインタビューで、記者から「そろそろ東京をひきはらって神戸にお住みになりませんか」という問いに対して、次のように答えています。
<中学時代の友達が阪神間に多いのので、はやく神戸に帰って来いと叱られるのですが、阪神間が好きだし、こちらに住む心の準備はある。関西にいても仕事にさしつかえはないかと瀬戸内晴美に相談したらOKとのことだったので阪神間に土地をさがしてもらっている。>
 1963年に遠藤周作は経堂から町田市玉川学園に転居していますが、阪神間への転居も考えていたようです。

玉川学園のあたりの景色は、小高い丘になっており何となく夙川や仁川に似ていました。

続いて、
<夙川で生まれたのだが、あのあたりも仁川にいたるあたりもめちゃくちゃに変わったね。でも住むんだったら阪神間がいいね。>
と、驚いたことに「夙川で生まれた」と答えているのです。
遠藤周作は1923年東京巣鴨生まれ。

出生地を隠したり、間違えて答えたはずはありませんから、カトリック夙川教会で洗礼を受けたことが遠藤にとっての生誕と考えていたのかもしれません。



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何年も前に集中的に玉川学園付近をを仕事で歩き回ったことがありました。本当に夙川・上ヶ原・仁川地域に似ていました。

[ せいさん ] 2017/09/19 10:47:04 [ 削除 ] [ 通報 ]

やはりそのように感じられる方がいたと知って、喜んでいます。
ありがとうございました。

[ seitaro ] 2017/09/19 16:17:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

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芦屋マリーナが見える談話室で『木を植えた人』の読書会

 幸運にも『海の向こうに本を届ける』の著者栗田明子さんを囲む読書会に参加させていただきました。

場所は芦屋マリーナを見下ろす談話室、天気も良く大阪湾が見晴らせました。


 今回のテキストはジャン・ジオノの『木を植えた人』。

 フランスの山岳地帯にただ一人とどまり、希望の実を植え続け、荒れ地から森を蘇えらせた孤高の人の物語。ひたすら無私に、しかも何の見返りも求めず、荘厳ともいえるこの仕事を成しとげた老農夫、エルゼアール・ブフィエの半生が描かれています。

 元々は1953年に『リーダーズダイジェスト』誌が「あなたがこれまで会ったことがある、最も並外れた、最も忘れ難い人物」というテーマで執筆依頼したものですが、ジオノが描いたエルゼアール・ブフィエは実在の人物ではなく、そのことを村まで来て調べて知った『リーダーズダイジェスト』誌は掲載を拒否します。そこで、ジオノは著作権を放棄し、この物語を公開し、世界に広まったものです。

 フィクションとは言え人間の尊厳を改めて考えさせる人間賛歌でもあり、人々を感動させるだけでなく森林復興への具体的な行動に立ち上がらせました。ジオノは時代の趨勢に逆らい続けた自然思想家でもあり、亡くなった後もジオノの思想の実現に人々を動かした作品です。


 読書会の最後に栗田さんが、1994年に「こぐま社」からの日本語版の出版の交渉にプロヴァンスのジオノの資料館となっている旧居を訪れ、ジオノの次女のシルビアさんとお会いした時のお話などを伺うことができました。

ジオノの書斎。

ジオノと次女のシルビアさん。

1994年の訪問時の写真。


 1987年には、ジオノの小説を原作として、カナダのアニメーション作家フレデリック・バック監督・脚本で同名の短編アニメ "L'Homme qui plantait des arbres" が発表され、’87アカデミー賞短編映画賞を受賞しています。

そしてフレデリック・バックのアニメーションが放映されたカナダでは一大植樹運動がまき起こり、年間3000万本だったものがその年一挙に2億5000万本に達したそうです。


 また東京大学文学部仏文科卒でアニメ『火垂るの墓』や『かぐや姫の物語』などの監督として著名な高畑勲は『木を植えた男を読む』と題して、自ら翻訳、解説し、最後にはフレデリック・バックとの対談を掲載しています。


 バック監督のフランス語アニメーションは全編30分YOUTUBEでみることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=7Rn6trL3-54&vl=ja


日本語訳はコンピューターによるものなのか、ほとんど意味不明の文章になっていますので、本を読んでからご覧ください。

ご覧いただくとわかりますが、このアニメーションは手法も根底に流れるテーマも高畑勲監督の『かぐや姫の物語』に大きな影響を与えたと思われます。

 ジオノの『木を植えた人』は短編ですが、世界中の人々に感動を与えた作品です。




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ロンドン塔のカラス伝説を初めて著述したのは夏目漱石『倫敦塔』

ロンドン塔に行くと大きなカラスがいました。


こんな看板もあります。


 17世紀にチャールズ2世がロンドン塔に棲みついたカラスの駆除を命じますが、占い師がカラスがいなくなると英国が滅びると予言により、カラスは英国王室の守護神として大切に飼われているのです。
 今もロンドン塔では、ワタリカラス(raven)6羽が飼育されていて、1羽死ぬと野生のカラスを1羽捕えてきて加えるそうです。

 ロンドン塔のカラスについて更に調べていると、Culture TripというサイトでThe Six Ravens At The Tower Of London(ロンドン塔の6羽のカラス)という紹介がありました。
<One of the first descriptions of the Tower of London’s ravens was from a Japanese writer who wrote the 1905 novel Tower of London. >

 ロンドン塔のカラスについての最初の著作は1905年に日本の作家が書いた『倫敦塔』であると述べています。夏目漱石の名前はなく、単に日本の作家とされているのは少し残念ですが。

更に、
<He wrote that those executed in the tower were turned into ravens. It is a fascinating dark story that adds to the magic of the legend.>
 漱石が、処刑された人々がカラスになって帰って来ると書いていることが、この伝説に魅惑的な暗黒の物語を付け加えているとしています。

『倫敦塔』を読んでみましょう。
<烏が一疋下りている。翼をすくめて黒い嘴をとがらせて人を見る。百年碧血の恨が凝って化鳥の姿となって長くこの不吉な地を守るような心地がする。>
 処刑された人がカラスになって帰って来るという想像は日本人には容易に理解できますが、キリスト教徒のイギリス人にはどう映ったのでしょう。
<吹く風に楡の木がざわざわと動く。見ると枝の上にも烏がいる。しばらくするとまた一羽飛んでくる。どこから来たか分らぬ。傍に七つばかりの男の子を連れた若い女が立って烏を眺めている。ギリシャ風の鼻と、珠を溶いたようにうるわしい目と、真白な頸筋を形づくる曲線のうねりとが少からず余の心を動かした。小供は女を見上げて「鴉が、鴉が」と珍らしそうに云う。それから「鴉が寒さむそうだから、パンをやりたい」とねだる。女は静かに「あの鴉は何にもたべたがっていやしません」と云う。小供は「なぜ」と聞く。女は長い睫の奥にただようているような眼で鴉を見詰めながら「あの鴉は五羽います」といったぎり小供の問には答えない。何か独で考えているかと思わるるくらい澄ましている。余はこの女とこの鴉の間に何か不思議の因縁でもありはせぬかと疑った。彼は鴉の気分をわが事のごとくに云い、三羽しか見えぬ鴉を五羽いると断言する。あやしき女を見捨てて余は独りボーシャン塔に入る。>
 漱石は五羽の鴉と書いていますが、正しくは六羽のようです。

 漱石の幻想は、下宿に帰って主人から種明かしをされて破れてしまいます。
<無我夢中に宿に着いて、主人に今日は塔を見物して来たと話したら、主人が鴉が五羽いたでしょうと云う。おやこの主人もあの女の親類かなと内心大いに驚ろくと主人は笑いながら「あれは奉納の鴉です。昔しからあすこに飼っているので、一羽でも数が不足すると、すぐあとをこしらえます、それだからあの鴉はいつでも五羽に限っています」と手もなく説明するので、余の空想の一半は倫敦塔を見たその日のうちに打ぶち壊こわされてしまった。>

漱石の作品の中で、『倫敦塔』はあまり評価されていないように思いますが、英語版が出版されるくらい、本場のイギリスでは評価されているように思います。



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 カラスの話しは聞いたことがありましたが そう言うことだったんですか 日本人には向かないのでしょうかね・・・

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/09/16 8:57:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

この話、突然漱石の『倫敦塔』がでてきましたので、びっくりしました。

[ seitaro ] 2017/09/16 9:12:15 [ 削除 ] [ 通報 ]

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夏目漱石が『倫敦塔』で見た「怖い絵展」のポスターの幻想

 ロンドン塔の処刑の様子を描いたポール・ドラローシュ 「レディ・ジェーン・グレイの処刑」 が9月18日まで兵庫県立美術館「怖い絵展」で展示されています。

 白いドレスを着て、目隠しをされ、今まさに断頭台の露と消えそうなうら若き乙女がレディ・ジェーン・グレーです。この時、弱冠16歳。イングランド初の女王となってからわずか9日後のことでした。

 漱石は『倫敦塔』でボーシャン塔(The Beauchamp Tower)を訪れた時、処刑の場面を幻想を見たように描いています。

<気味が悪くなったから通り過ぎて先へ抜ける。銃眼のある角を出ると滅茶苦茶めちゃくちゃに書き綴つづられた、模様だか文字だか分らない中に、正しき画かくで、小ちいさく「ジェーン」と書いてある。余は覚えずその前に立留まった。>
 ボーシャン塔の銃眼のところで「ジェーン」の文字を見つけた漱石は、その処刑の場面に思いを馳せます。

<英国の歴史を読んだものでジェーン・グレーの名を知らぬ者はあるまい。またその薄命と無残の最後に同情の涙をそそがぬ者はあるまい。ジェーンは義父と所天の野心のために十八年の春秋を罪なくして惜気もなく刑場に売った。蹂躙られたる薔薇の蕊より消え難き香の遠く立ちて、今に至るまで史を繙とく者をゆかしがらせる。希臘語を解しプレートーを読んで一代の碩学アスカムをして舌を捲かしめたる逸事は、この詩趣ある人物を想見するの好材料として何人の脳裏にも保存せらるるであろう。余はジェーンの名の前に立留ったぎり動かない。動かないと云うよりむしろ動けない。空想の幕はすでにあいている。>


 ここから漱石の空想の場面が広がります。
<始は両方の眼が霞すんで物が見えなくなる。やがて暗い中の一点にパッと火が点ぜられる。その火が次第次第に大きくなって内に人が動いているような心持ちがする。次にそれがだんだん明るくなってちょうど双眼鏡の度を合せるように判然と眼に映じて来る。次にその景色がだんだん大きくなって遠方から近づいて来る。気がついて見ると真中に若い女が坐っている、右の端はじには男が立っているようだ。両方共どこかで見たようだなと考えるうち、瞬たくまにズッと近づいて余から五六間先ではたと停まる。男は前に穴倉の裏で歌をうたっていた、眼の凹んだ煤色をした、背の低い奴だ。磨ぎすました斧を左手に突いて腰に八寸ほどの短刀をぶら下げて身構えて立っている。余は覚えずギョッとする。女は白き手巾で目隠しをして両の手で首を載せる台を探すような風情に見える。首を載せる台は日本の薪割台ぐらいの大きさで前に鉄の環が着いている。台の前部に藁が散らしてあるのは流れる血を防ぐ要慎と見えた。背後の壁にもたれて二三人の女が泣き崩れている、侍女ででもあろうか。白い毛裏を折り返した法衣を裾長く引く坊さんが、うつ向いて女の手を台の方角へ導いてやる。女は雪のごとく白い服を着けて、肩にあまる金色こんじきの髪を時々雲のように揺らす。ふとその顔を見ると驚いた。眼こそ見えね、眉の形、細き面、なよやかなる頸の辺に至るまで、先刻さっき見た女そのままである。思わず馳け寄ろうとしたが足が縮んで一歩も前へ出る事が出来ぬ。女はようやく首斬り台を探り当てて両の手をかける。唇がむずむずと動く。最前男の子にダッドレーの紋章を説明した時と寸分違がわぬ。やがて首を少し傾けて「わが夫ギルドフォード・ダッドレーはすでに神の国に行ってか」と聞く。肩を揺り越した一握の髪が軽くうねりを打つ。坊さんは「知り申さぬ」と答えて「まだ真の道に入りたもう心はなきか」と問う。女屹っとして「まこととは吾と吾夫の信ずる道をこそ言え。御身達の道は迷いの道、誤りの道よ」と返す。坊さんは何にも言わずにいる。女はやや落ちついた調子で「吾夫が先なら追いつこう、後ならば誘うて行こう。正しき神の国に、正しき道を踏んで行こう」と云い終って落つるがごとく首を台の上に投げかける。眼の凹んだ、煤色の、背の低い首斬り役が重た気げに斧をエイと取り直す。余の洋袴ズボンの膝に二三点の血が迸ばしると思ったら、すべての光景が忽然と消え失うせた。
 あたりを見廻わすと男の子を連れた女はどこへ行ったか影さえ見えない。狐に化ばかされたような顔をして茫然と塔を出る。>
この漱石が見た幻想は、まさにポール・ドラローシュ が描いた「レディ・ジェーン・グレイの処刑」の場面そのものでした。



夏目漱石『倫敦塔』は青空文庫でも読めます。


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夏目漱石『倫敦塔』を歩く

 漱石は明治33年10月から明治35年12月までの2年間、文部省留学生としてロンドンに留学し、その時のロンドン塔見物を題材にした短編を書いています。

『倫敦塔』を読みながら、歩いてみました。
<二年の留学中ただ一度倫敦塔を見物した事がある。その後再び行こうと思った日もあるがやめにした。人から誘われた事もあるが断わった。一度で得た記憶を二返目に打壊わすのは惜しい、三たび目に拭い去るのはもっとも残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う。>
 二度と倫敦塔を訪ねなかったのは、下宿の主人に漱石の想像を悉くつぶされたことも一つの原因になっているようです。
漱石にはロンドンの喧騒が肌に合わず、神経衰弱に陥ったそうですが、次の文章にも表れています。
<表へ出れば人の波にさらわれると思い、家に帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑い、朝夕安き心はなかった。この響き、この群集の中に二年住んでいたら吾が神経の繊維もついには鍋の中の麩海苔のごとくべとべとになるだろうとマクス・ノルダウの退化論を今さらのごとく大真理と思う折さえあった。>
倫敦塔に行くのも、一枚の地図を頼りに歩いて行ったようです。
<無論汽車へは乗らない、馬車へも乗れない、滅多な交通機関を利用しようとすると、どこへ連れて行かれるか分らない。この広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も余には何らの便宜をも与える事が出来なかった。余はやむを得ないから四ツ角へ出るたびに地図を披らいて通行人に押し返されながら足の向く方角を定める。>

 私もホテルから地図を頼りに歩いて行きました。

歩いているとシティ・オブ・ロンドンの境界を示す守護獣のドラゴン像がありました。ロンドン塔はロンドンの中心といえど、正確にはシティ・オブ・ロンドンの境界から外れていました。

 さて漱石の倫敦塔の説明が始まります。
<倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである。過去と云う怪しき物を蔽える戸帳が自と裂けて龕中の幽光を二十世紀の上に反射するものは倫敦塔である。すべてを葬る時の流れが逆さかしまに戻って古代の一片が現代に漂よい来れりとも見るべきは倫敦塔である。人の血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。この倫敦塔を塔橋の上からテームス河を隔てて眼の前に望んだとき、余は今の人かはた古の人かと思うまで我を忘れて余念もなく眺ながめ入った。>

1902年に漱石が感動した光景は今も保たれています。

絵地図を見ながら倫敦塔の中に入ります。

<空濠にかけてある石橋を渡って行くと向うに一つの塔がある。これは丸形の石造で石油タンクの状をなしてあたかも巨人の門柱のごとく左右に屹立している。その中間を連ねている建物の下を潜って向こうへ抜ける。中塔とはこの事である。>

エントランスの向こうに見えるのが中塔(Middle Tower)です。

<また少し行くと右手に逆賊門がある。門の上には聖セントタマス塔が聳えている。逆賊門とは名前からがすでに恐ろしい。古来から塔中に生きながら葬られたる幾千の罪人は皆舟からこの門まで護送されたのである。彼らが舟を捨ててひとたびこの門を通過するやいなや娑婆の太陽は再び彼らを照らさなかった。テームスは彼らにとっての三途の川でこの門は冥府に通ずる入口であった。>

テムズ川につながる逆賊門(Traitor’s Gate)です。

テムズ川と堀に囲まれた中世の倫敦塔の絵がありました。逆賊門から船が入ろうとしています。

<左へ折れて血塔の門に入る。今は昔し薔薇の乱に目に余る多くの人を幽閉したのはこの塔である。草のごとく人を薙、鶏のごとく人を潰し、乾鮭のごとく屍を積んだのはこの塔である。血塔と名をつけたのも無理はない。>

血塔(Bloody Tower)です。

<血塔の下を抜けて向うへ出ると奇麗な広場がある。その真中が少し高い。その高い所に白塔がある。白塔は塔中のもっとも古きもので昔むかしの天主である。竪二十間、横十八間、高さ十五間、壁の厚さ一丈五尺、四方に角楼が聳えて所々にはノーマン時代の銃眼さえ見える。千三百九十九年国民が三十三カ条の非を挙げてリチャード二世に譲位をせまったのはこの塔中である。>

倫敦塔の中心に来ました。

白塔(White Tower)です。中に入ってみましょう。

<南側から入って螺旋状の階段を上るとここに有名な武器陳列場がある。時々手を入れるものと見えて皆ぴかぴか光っている。日本におったとき歴史や小説で御目にかかるだけでいっこう要領を得なかったものが一々明瞭になるのははなはだ嬉しい。しかし嬉しいのは一時の事で今ではまるで忘れてしまったからやはり同じ事だ。ただなお記憶に残っているのが甲冑である。その中でも実に立派だと思ったのはたしかヘンリー六世の着用したものと覚えている。全体が鋼鉄製で所々に象嵌がある。もっとも驚くのはその偉大な事である。>

漱石もこの陳列には目を見張ったようです。

 下宿に戻った漱石は主人に倫敦塔の話をしますが、中世の倫敦塔の空想を打ち破られ、最後に次のように述べています。
<これで余の空想の後半がまた打ち壊わされた。主人は二十世紀の倫敦人である。それからは人と倫敦塔の話しをしない事にきめた。また再び見物に行かない事にきめた。>

さて漱石の『倫敦塔』、イギリスではロンドン塔のカラスについて初めて記述した作品として評価されていることがわかりました。それは次回に。



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涼宮ハルヒの溜息Wで登場した西宮市高座町の新池

 BSプレミアムで再放送中の『涼宮ハルヒの憂鬱』第23話「涼宮ハルヒの溜息W」でSOS団が向かったロケ先は高座町の新池でした。

後ろに見えているのは甲山と市立西宮高校。

SOS団のロケシーンです。


 さて現地にはないシーンが登場します。
新池の周りを高いフェンスが囲っていて、立ち入り禁止となっているのです。

 新池には張り出しデッキがあるくらいですから、そこまでは自由に入れるのです。

 何故このようなシーンが入ったのか。原作を読むと明らかになります。
<三十分くらい徒歩で移動し、着いたところは池の畔だった。丘の中ほどにある、ほぼ住宅街の真ん中である。池と言ってもけっこう広い。冬になれば渡り鳥がやってくるほどのデカさであり、古泉が言うところによるとそろそろ鴨だか鴈だかがやってくる頃合いだそうだ。
 池の周囲には鉄製フェンスが施され、侵入禁止を明示している。>
このよう原作では鉄製フェンスが登場し、これを乗り越えようとしたハルヒに対し、長門が簡単にこじ開けてしまうという場面が描かれており、それに忠実にアニメを制作しているのです。

したがって、谷川流が原作を書いたきの池のイメージは新池ではなかったのでしょう。
フェンスがある夫婦池か五ケ池でしょうか?

原作でハルヒがディレクターズチェアを置いた場所も、


<ぬかるみ気味の地面にディレクターズチェアを置き、ハルヒはスケッチブックにセリフと思しき文章を書きなぐっていた。>とされており、アニメのシーンとは違っているのです。
新池は広田神社のすぐ近くにありますので、広田神社のロケハンの時に、あわせて近くの新池を採用したのではないでしょうか。

ところで新池は西宮市民にとってもあまり馴染みがない池です。

明治時代は岩ケ谷下池の井一部だったようです。岩ケ谷上池はかなり早い時期に埋め立てられ、無くなっています。
昭和45年には、新池(旧岩ケ谷下池)の北半分が埋め立てられ、市立西宮高校が移転してきます。
新池が改修、整備され現在の姿になったのは平成4年(1992年)のことだったようです。

宮っこ1992年11月号に「わがまち自慢 美しく変身『新池』」という記事が掲載されていました。



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谷川流 | コメント( 1 ) | トラックバック( 0)

よくわかりました〜ありがとうございました。
スッキリです。

[ ちゃめ ] 2017/09/12 21:30:48 [ 削除 ] [ 通報 ]

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遠藤周作がいたずらしたカトリック夙川教会の鐘は日本最古のカリヨン

 先日雑誌の取材に同行させていただき、カトリック夙川教会の鐘楼に登り、カリヨンを見せていただきました。

このカリヨンをいたずらに鳴らしたのが遠藤周作です。


 加藤宗哉著「遠藤周作」では次のように書かれています。
<一方、この少年は母と一緒に預かるミサにおいても不真面目だった。教会のなかに捨犬をひそかに導き入れて神父の説教中に解き放って信者達を驚かせたかと思うと、あるときは聖堂の鐘楼にのぼって勝手に鐘を鳴らした。奇声を発したり、司祭館のガラス窓を破ったりするのは日常茶飯だった。>
相当のいたずらっ子だったようです。

遠藤周作はここでロープを引っ張り、鐘を鳴らしたのでしょうか。

 さてこのカリヨンは昭和7年の聖堂完成直後に据え付けられたもの鐘は11個あります。

時計からの信号により、アンジェラスの鐘演奏が自動的に行われます。

これが2009年に修復され、昔の姿のまま動いている自動演奏装置です。

フランス語の銘板が付いていました。

フランス出荷前の仮組の写真がありました。

 日本最古のカリヨンの音はYOMIURI ONLINE「 名言巡礼 須賀敦子『ユルスナールの靴』から 西宮・宝塚(兵庫県)」でも美しい夙川教会の映像とともに聴くことができます。
http://www.yomiuri.co.jp/stream/?id=06968



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昭和7年カトリック夙川教会の住所は西宮市外香櫨園夙川

 今年、カトリック夙川教会のアルコーブに聖テレジアの像が戻されたことを前回紹介させていただきました。

 夙川教会の歴史を読むと、夙川にネオ・ゴシック様式の聖堂が完成したのは昭和7年4月。新聖堂はブスケ神父が敬愛してやまなかった聖テレジアに献げられ、「幼きイエズスの聖テレジア教会」と呼ばれたそうです。
 初代主任司祭のブスケ神父が翻訳した『小さき花 聖女小さきテレジアの自叙伝』を見ると、昭和四年第十五版の奥付には
「兵庫県西之宮市香櫨園(夙川阪急停留所西) 訳者兼発行者 シルベン・ブスケ」
と記されています。


更に昭和五年に発行された『幼な子に倣いて』の奥付には
「著者発行者 西宮市外香櫨園夙川カトリック教会 シルベン・ブスケ」
と記されています。

昭和11年の鳥瞰図でもカトリック夙川教会、阪急夙川駅、阪神香櫨園駅の位置関係がわかるように、現在の阪神香櫨園駅に馴染みのある我々にとって、少し奇異に感じますが、カトリック夙川教会が昭和7年に建堂された場所は、正に香櫨園の中心地だったのです。

 ご存知のように、香櫨園の名前は明治40年に、大阪の商人である香野蔵治氏と櫨山慶次郎氏の手によって開設された香櫨園遊園地に始まりますが、場所は現在の阪急夙川駅の西側、羽衣町、霞町、松園町、相生町、雲井町、殿山町一帯でした。

 さて、香櫨園遊園地は大正2年に廃園となり、サミュエル商会から大神中央土地(株)の手にわたり、住宅地経営が始められます。
当時は武庫郡大社村森具でしたが、大正12年には羽衣町、霞町、松園町、相生町、雲井町、殿山町一帯を森具区から分離独立させ、香櫨園区と命名されたのです。

大正末の地図を見ると、香櫨園と記されています。
この地図には、高塚山のあたりに香櫨園鉱泉と記されており、それも興味あるところです。

 夙川自治会発行の『夙川地区100年のあゆみ』によりますと、「昭和7年に阪急電車の駅名と区名を一致させるために、香櫨園区は夙川区と改称され、長く親しまれていた香櫨園は名実ともに発祥地から姿を消した」とされています。大社村が西宮市と合併したのは翌年の昭和8年のことですから、西宮市香櫨園という地名は存在しなかったので、昭和4年のカトリック夙川教会の住所は「西宮市外香櫨園」という方が正しいようです。

しかし、合併後の昭和8年の西宮市全図を見ると、そこにはまだ香櫨園と書き込まれていて、香櫨園の名称がしばらく使われていたと思われます。

 大社村の正式合併前から、既に西宮市と呼んでいた可能性もあり、上のブスケ神父の印に記されているように、西宮市香櫨園という住所が一般に通用していたのではないでしょうか。

最後に、夙川自治会長さんに、夙川地区というのは、上の昭和8年の夙川区平面図に示されている、羽衣町、霞町、松園町、相生町、雲井町、殿山町一帯のことであるとお教えいただいたことを申し添えておきます。



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『涼宮ハルヒの溜息』で登場した甲山森林公園と広田神社

 毎週金曜午後11時45分からBSプレミアムで再放送中の「涼宮ハルヒの憂鬱」からです。
第21話で、団長・涼宮ハルヒの思いつきで文化祭に向けて「朝比奈ミクルの冒険」という自主制作映画を作ることになったSOS団。

祝川商店街のロケに次いで向かったのは甲山森林公園。

やはり登場するのはシンボルゾーン記念碑広場の「愛の像」。
アニメでは甲山の頂上が見えないのが、やや不満。

「愛の像」は白大理石で台座はポルトガル産赤御影石とのこと。

ところで記念広場の南側に、このような野外ステージがあったのはご存知ですか?

何度も森林公園を訪れている私ですが、この存在はアニメを見て初めて知りました。

この野外ステージで繰り広げられる撮影風景。

約1,000人が収容でき、コンサートや集会に使用されると説明されています。


しかし、それ程の観客を集める駐車場はないし、少なくとも最近はそのような催しが開催された記憶はないのですが。

SOS団がそばを食べるのは神呪寺の手前にある「お食事処 好の家」でした。


さて、甲山森林公園の近くの(?)神社として登場する広田神社。






光(甲)陽園駅のシーンも登場。


このシーンは朝比奈ミクルがバニーガール姿で立つ後ろに「祝川オアシスロード」の表示があり、西宮市立中央図書館の西側のようです。

アニメではこのように多くの西宮市内のシーンが登場するのですが、次回は谷川流の原作も読みながら比較してみたいと思います。




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谷川流 | コメント( 3 ) | トラックバック( 0)

昨夜の池はどこなんでしょう。周りに住宅があるお池でしたね。

[ ちゃめ ] 2017/09/09 23:50:48 [ 削除 ] [ 通報 ]

高座町の新池ですね。私もあまり行ったことのない溜池、今度見に行ってきます。

[ seitaro ] 2017/09/10 7:37:10 [ 削除 ] [ 通報 ]

ありがとうございます。横の道はよく通っています。私も見に行ってみます。

[ ちゃめ ] 2017/09/10 11:05:25 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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