阪急沿線文学散歩

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小川洋子さん以前に芦屋に南仏の風景を見ていた作家宇野浩二

 小川洋子さんは初めて芦屋の街並みを見た時の感想を次のように述べています。

<芦屋で家を探そうと、不動産屋さんの車に乗って、北から南に向かい芦屋川沿いに走ったとき「ここは南仏かな」と思うくらいに驚きました。自分が生まれ育った岡山とは、あまりにも風土が違う感触を得ました。松林がありテニスコートがあって、その反対側にはすごく大きなお屋敷が並んでいて、前を見ると海が見え、振り返ると山があり川が流れている。風景がとても洗練されていて、どこか外国にいるような、とても乾燥した新鮮な風景だなと思い、一度で芦屋が好きになりました。>

 ところで小川洋子さんより、ずっと昔、昭和の初めの頃の芦屋の風景を「南フランスのニースあたりに似ている」と述べた作家がいました。

宇野浩二『枯れ木のある風景』は芦屋にアトリエがあった小出楢重の同名の画を表題にした短編ですが、次のように書かれているのです。
<天気がよかったので、古泉の家のある住吉の一つ手前の芦屋で下りた。それから住吉の古泉の家まで小一里の道を歩いてみた。南はすぐ海で、北には六甲山が起伏し、その麓から海岸まで海岸までかなりの斜面をなしている。その地勢は島木が嘗て旅行した南フランスのニースあたりに似ているように思われた。小高い丘陵がつづく有り様、別荘の多いところ、自然が人工化されているところ、立派な国道が通じているところなど。>
 ここで、古泉圭造は小出楢重がモデル、島木新吉は、フランス留学の経験もあり宇野と親しかった画家の鍋井克之がモデルと言われています。

宇野浩二は鍋井克彦から聞いた芦屋の風景がニースあたりに似ているという印象を小説に書いたのではないでしょうか。

上の写真は阪神芦屋駅から見た芦屋川と六甲山。
下の写真は、11月に撮った芦屋マリーナと六甲アイランド、ポートアイランド。

写真の左下に見えているのは完成間近の完全会員制リゾートホテル芦屋ベイコート倶楽部です。

もう完成したような写真もあり、会員募集が始まっているようです。
さすがニースに似ていると言われた街です。




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クロード・チアリ氏も同じことをお感じになったそうですね。

[ せいさん ] 2017/11/22 22:14:31 [ 削除 ] [ 通報 ]

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今月の読書会は安野光雅さんお気に入りの『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』

 今月の読書会の課題図書は『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』。


いつものように芦屋マリーナを見下ろす部屋で、当日も快晴で甲山もよく見えます。


 パブロ・カザルスは20世紀最大のチェリストとして有名ですが、今話題のスペインのカタルーニャ生まれ、終生フランコ独裁政権への抗議と反ファシズムの立場を貫いた平和活動においても大きな社会貢献をした人物。

 私たちが購入したのは朝日選書版でしたが、日本著作権輸出センター創業者の栗田明子さんが持たれていたのは、1973年の初版の新潮社版。

 朝日選書の帯には次の安野光雅さんの推薦文が大きく載せられています。
<「なんと美しい言葉がそこに書きつけてあることだろうか。……カザルスが今世紀最大の音楽家だといわれる理由は、この本によってわかるはずである」安野光雅>
 
 安野光雅は著書『世界・わが心の旅 カタロニア カザルスの海へ』の冒頭でもこの本との出会いを述べています。

<わたしはパブロ・カザルスの弾く「無伴奏チェロ組曲」によってJ.S.バッハを知ったと言っていい。それまで、「ベートーベンだけが音楽だ」などと、勝手に考えていたことが恥ずかしくなる。
 その後、一冊の本に出会った。『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』という本で、いまは朝日選書に入っている。>

 この本を安野光雅さんに紹介したのは栗田明子さんでした。

 お話を伺うと、1971年の国連コンサートでカザルスが「カタロニアの鳥はピース、ピースといって鳴くのです」と語り、「鳥の歌」を演奏した場面をTVで偶然見ていた栗田さんが、そのあと『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』を読み、深く感動し、それを安野光雅さんに紹介されたそうです。

 その後、安野光雅さんは、当時ケルンに事務所を開かれていた栗田さんと、自動車でカザルスゆかりの地を巡られたそうです。


 すっかりカザルスファンになった安野光雅さんが、新潮社から出版されていたこの本を朝日選書に入れるべきだと強く主張し、1991年に朝日新聞社から出版されたのです。

こんなお話を聞くことができた楽しい読書会でした。


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宮本輝が描いたもう一つの阪急電車今津線の物語

 有川浩の『阪急電車』は阪急今津線を舞台にした物語。遠藤周作や阪田寛夫、山口瞳も阪急今津線の街を舞台にした作品をいくつか書いていますが、宮本輝の短編『不良馬場』も昭和50年代の阪急今津線の西宮北口、門戸厄神、仁川を舞台にした物語です。


 『不良馬場』の冒頭は次のように始まります。
<さみだれの中を、十五分ほど行くと、病院らしい白い建物が見えてきた。阪急電車の西宮北口から宝塚行に乗り換えてひとつめの駅で降りたが、満員電車を降りる際、片手にかかえていたケーキの箱がひしゃげてしまった。>

当時の阪急西宮北口駅では、神戸線と今津線がダイヤモンドクロスで交叉したえいましたが、駅の様子もかなり変わりました。

西宮北口駅からひとつめの駅とは門戸厄神駅のこと。

 この小説は主人公花岡勲が、友人で同僚の寺井隆志が入院している結核病棟に見舞いに行く場面から始まるのですが、その病院はやはり『北病棟』のモデルにもなり、宮本輝が結核療養した門戸厄神駅近くの熊野病院のようです。

<休診日で正門は閉ざされていたが、お見舞いの方はこちらからお入り下さい、という張り紙の矢印にそって病院の横手に廻ると、あけはなたれた頑丈そうな鉄製の扉に突き当たった。>

病院の裏側に廻ると、鉄製の扉が今もありました。

そして病棟の様子も、小説に書かれているとおりです。
<鉄筋の建物はまだ真新しいようだったが、それと棟続きになっている木造の結核病棟は、白いペンキで誤魔化してはいたものの、かなり老朽化して、歩くたびに強い軋み音が響いた。>

さて、競馬がある日は今津線の様子が一変します。
<「電車がえらく混んでてさあ、日曜日だってのに、降りるのに苦労したよ」「きょうは、競馬があるんだ」と寺井隆志は、息を大きく吐きながら言った。言葉が長く伸びて、いかにも疲労に覆われた人の物言いに思えた。「二駅向こうが仁川って駅で、阪神競馬場があるんだ」>


阪急西宮球場で競輪が開催される日の阪急神戸線の風景も様変わりです。

<「競輪のある日は、反対の線が混むんだよ。西宮球場の中にリンクを作ってやるんだ」「ずっと入院しているくせに、いやに詳しいじゃないか。滅多にやらないあなんて、怪しいもんだ。ときどき病院を抜け出して、遊びに行ってんだろう」>


 寺井と花岡は病院を抜けて門戸厄神駅から阪急電車で仁川の阪神競馬場に向かいます。
<西宮北口から乗り込んでくる競馬客で、電車はひどく混んでいた。立っている乗客も、坐っている乗客も、みんながみんな、窮屈な姿勢のままスポーツ紙か予想紙に見入っている。>
阪急仁川駅から競馬場に向かう場面です。

<その鼻をつく寒々とし風は、雨に濡れた人々の足元にまとわりつきながら、踏切を横切り、おけら坂と呼ばれる急な坂道を下り、ダフ屋やガードマンや警官や、息せききって入場券売り場へ駆けて行く酒臭い男たちで渦巻く広場へと、ぴったり寄りそいつづけていた。>
 現在の仁川駅は西側にも東側にも改札口があるので、踏切を横切る必要はありません。

現在では、競馬場に向かう東側の改札口がメインとなっているようです。
「おけら坂」を見つけたかったのですが、1990年から1991年にかけて阪神競馬場は全面改築され、「おけら坂」も無くなったのではないでしょうか。

現在は東側の改札口を出ると、地下通路が阪神競馬場に直結しています。
このエスカレーターが「おけら坂」に代わって「おけらエスカレーター」になっているのかもしれません。

『不良馬場』の最後は本命馬がゴール直前のぬかるみで倒れ、前足を骨折する壮絶なシーンで終わります。誰かの人生を象徴したのでしょうか。



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『風よ僕らに海の歌を』神戸沖自沈未遂後の「カリテア号」の運命

 増山実『風よ僕らに海の歌を』はタカラジェンヌも御用達のイタリアン・レストラン宝塚南口「アモーレ・アベーラ」の創業者オラッツィオ・アベーラ(小説ではアリオッタ)さんをモデルにした物語。


 アリオッタが任務に就いていたイタリア軍の戦艦「リンドス号」は、日独伊三国同盟により日本軍占領地に物資を輸送する任務に就いていましたが、船が神戸に寄港中の1943年9月8日、イタリア政府は突如、連合国に「無条件降伏」を発表します。
<イタリア本国からリンドス号に指令が届いた。「日本軍と戦うか、さもなくば自沈せよ」昨日までの味方であった日本軍と戦うか、さもなくば武器を捨てて投降せよ。現場に混乱をもたらす、あまりに唐突で、矛盾をはらんだ指令だった。九月九日午前六時。艦長は自沈用の注水弁を開いた。>
 ここからアリオッタの数奇な運命が始まるのですが、この神戸沖で1943年に自沈した「リンドス号」のモデルとなった「カリテア号」の運命も調べてみると数奇なものでした。

元々の船名はRamb II。1937年進水。ソマリア〜イタリア〜南西ヨーロッパを航行するバナナの輸送船として建造されました。
1940年にイタリア海軍に徴用され、特設巡洋艦となります。艦長:C. Mazzella
1941年に「カリテア号」と改名。

小説では次のように紹介されています。
<父の乗っていた船の名前は「リンドス号」です。もともとはアフリカで穫れたバナナを欧州に輸送する、民間の会社の船だったそうです。それが戦争で「特務艦」としてイタリア軍に徴用されたんです。>

そして、
<「リンドス号」が紅海あたりを航行していた時、戦況が激しくなり、そのあたりの制海権をイギリス軍が握ったんです。父たちの船はイタリアに帰ることもできず、追ってくるイギリス軍からひたすら逃げ、インド洋を経て、南方までやってきました。そこで同盟を結んでいる日本軍の南方物資輸送船として転用されることになり、父たちイアリアの兵士は、そのまま乗組員として、アジアの海域を航行していたということのようです。>
このお話は、殆ど史実に則ったもののようで、「カリテア号」は1942年には日独伊軍事協定に従い日本海軍の管理下に置かれ、川崎重工で冷蔵庫増設工事の後、給糧艦として帝国海軍に協力し、南西方面司令長官の区処下に入り南西方面にて使用されます。

 さて、小説では1943年9月の神戸沖での自沈で終わる「カリテア号」ですが、その後直ちに日本軍によって引き上げられ、接収。1943年10月に「生田川丸」と命名され、11月に佐世保鎮守府所管の特設運送船(給糧船)となります。
 その後聯合艦隊南西方面艦隊所属の特設運送船として南方への輸送に携わりますが、1945年1月サイゴン港内右岸で米第38機動部隊艦載機による空爆で沈没してしまうのです。

上の写真は米第38機動部隊

 1937年にイタリアで進水したバナナ輸送船は、イタリア海軍、日本帝国海軍へと籍を移し、1945年にサイゴンで米軍により撃沈という、8年間の短いながらも波乱に富んだ運命を辿ったのでした。




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黒田征太郎が震災後描いた夙川パボーニの絵が見つかりました!

 野坂昭如の『戦争童話集』の画を描いた黒田征太郎は5歳で道頓堀から夙川に移って来ました。

雑誌CoyoteNo.47 Autumn/Winter2012で次のように述べています。
<野坂さんは神戸で育ち、僕も物心ついたころに大阪から神戸に引っ越した。泳ぎを覚えた海岸も一緒でした。火垂るの墓で書かれた場所へ、野坂さんは神戸大空襲から逃れてきた。そこに僕が住んでいたんです。そこは爆弾が落ちて焼け野原になった。野坂さんと妹さんが住んでおられた横穴の防空壕を知っています。もうずいぶん前に二人でその一帯を歩いたことがあるんです。かつて少年だった時の目線と大人になった時の目線がどう違うのか、何が写るのか、検証したことがあった。誰に依頼されたわけではなかった。ただ確認したいと思った。酒を飲んでいて少年時代の話になって、野坂さんに「蔦がからまっている変な家がありましたね」と言うと、「あれは有名な喫茶店だよ」と野坂さんに笑われました。「一緒に行こうか」と案内していただきながらその場所の野坂さんのエピソードを紐解いていった。>


 その黒田征太郎が1995年6月2日に、阪神淡路大震災で倒壊し、更地になった夙川パボーニの跡地に立ち描いた画がでてきました。

そこには黒田征太郎の思い出が書かれていました。

パボーニのあと。 玄関のシュロだけが残っている
が こげているらしい… 大丈夫だろうか。

青い空がかえってむなしく見える。

あの楽しかった壁画。あのあたたかかった空気。
もう二度ととりかえせない。

僕は子供のころ この近くに住んでいた。
そのころは この家はなんなんだろうと思っていつも見ていた。
その家がパボーニだったのだ。
                           
              黒田征太郎

 現在も、千歳町のパボーニの跡地は空き地になっていて、2本の棕櫚だけが残っています。

黒田征太郎のパボーニの画は近々、堂島のカーサ・ラ・パボーニで公開される予定です。




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宮本輝『北病棟』の舞台となった阪急門戸厄神駅近くの病院

 宮本輝の短編集『星々の悲しみ』に収められている『北病棟』の舞台となった馬野病院は、小説を読み進むと描かれた情景から、阪急門戸厄神駅の近くの熊野病院とわかりました。


 後で、宮本輝の公式サイトThe Teru’s Clubを調べてみると、年譜に
<1979年(昭和54年)32歳
肺結核で伊丹市民病院に入院。その後、西宮市の熊野病院に転院。>
と書かれており、間違いありませんでした。

 小説では主人公尾崎は転院したことにはなっていませんが、
<はじめは、兵庫県のS市にある結核療養病院に入る予定だったが、普通の病院と違って、専門の療養院はおいそれとは退院させてくれないという話を誰かから聞きつけて、急遽知人の紹介でこの馬野病院医に変更したのである。>
と書かれており、同様の理由で昭和47年から伊丹市に住んでいた宮本輝は伊丹市民病院から熊野病院に転院したのかもしれません。

 さて、馬野病院は次のように説明されています。
<馬野病院は、もとは結核専門の病院だったのだが、患者数が減ってきたことと、予防法の設置によって医者にとってはあまり儲けにならない病気になったことで、いつの間にか胃腸科や他の外科とか肛門科などを主とする病院に変わってしまったのだった。>
熊野病院に行くと、小説通りの現在の診療科の掲示がありました。


 北病棟は次のようにうらぶれて寂しく描かれています。
<北病棟は、病院の中にあって、ぽつんと忘れ去られたような建物だった。広い敷地内の奥の、裏門の傍に建てられた小さなプレハブは、病院の器材や薬品を収納しておく倉庫みたいに見える。雨は、その雫をいつも天井に直接打ちつけてくるようだったし、風はガラス戸をやかましく鳴らして隙間から吹き込み、太陽は薄い屋根やら壁やらをじりじりと焦がすのである。>
 
 表玄関から北病棟があると思われる裏側にまわってみました。

 左手にはまだ畑が残っており、結核専門の病院だった頃は、周りには何もなかったのでしょう。

閉ざされた裏門からの病院の景色です。
プレハブのような病棟?が今も残っていました。


<ぼくはパジャマ姿のまま階段を降りて、病院の庭に出た。真新しい鉄筋の三階建ての病棟と、ぼくのいる北病棟との間は中庭になっていて、古い藤棚と丸い小さな泉水があった。>

裏門の左手にパイプ製の藤棚がありました。

 泉水は見えなかったので、航空写真で見てみると、プレハブの棟に囲まれた中心部に今も残っているようです。


 航空写真を見ていて気付かされたのは、実際の熊野病院の鉄筋コンクリート3階建ての病棟が敷地の北端にあり、宮本輝が入院していた病棟は南側の端にあったこと。

でも「南病棟」では、この小説のテーマの表題にすることはできなかったでしょう。

 




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宮本輝『北病棟』の舞台となったのは西宮市の熊野病院

 宮本輝の短編集『星々の悲しみ』に収めらている『北病棟』は、主人公の病室の真下で暮らす58歳の女性の死と、彼女が残した『宇宙の精力』という言葉によって「生きる」ことの意味をあらためて考えさせる物語。


 小川洋子さんは、『物語の役割』で「人の死が、いかに論理的に説明不可能なもので、この言葉にはできない問題を繰り返し言語化しようとしているのが物語だ」と述べていますが、正にそのような作品でした。

 ところで、宮本輝は昭和54年32歳の時、結核にかかり約1年間の闘病生活を送ります。『北病棟』の主人公尾崎は24歳という設定ですが、その時の経験をもとに創作されたものと思われます。
 小説の冒頭は入院した病院の棟の説明から始まります。
<馬野病院の北病棟は、広い病院の敷地の奥に、他の新しい鉄筋の病棟からぽつんと離れた格好で立っていた。結核患者だけを収容する小さな二階建てのプレハブで、ぼくが入院した頃は……>
 この表現だけでは、舞台となった馬野病院がどこにあるのかわかりませんが、次の描写で明らかになりました。
<病院の近くに西宮球場があり、いまテレビで観ていた試合が、まだそこでつづけられている。球場の明かりが、廊下の向こうの夜空を照らしていた。近くといっても、球場は何キロも先で、ぼくのいるところからは見えないのである。>

ここで、現在は阪急西宮ガーデンズに生まれ変わった西宮球場から数キロの距離にある病院であることが分かります。


 更に、<建物の屋上にネオンが点っていたので、ぼくは寝転がったまま、目を凝らした。市立中央病院という文字が読み取れた。そういえば、この附近に市立の病院があると誰かから聞いたことを思い出し、ああ、あれがそうなのかと思いながら、ぼんやり眺めつづけた。>
これは六階建ての西宮市立中央病院に違いありません。

<六階建ての、大きな白いビルがあり、そこにたくさんの病人が寝ている。その病院は遠い背後から、大観衆で埋まった球場の光を浴びている。それを、ぼくは別の病院のベッドから見つめているのだ。ただそれだけのことが、ぼくの心をゆったりとさせてきたのだった。ぼくは長い間、市立病院の窓の灯と、背後に茫洋と浮かびあがるナイターの照明を見ていた。>

 このような位置関係から呼吸器科のある総合病院を探してみると、熊野病院であることがわかったのです。

それで小説では「馬野病院」と名付けたことも合点がいきました。

航空写真で黄色の丸で囲ったのが、熊野病院、下のオレンジの丸で囲ったのが、西宮球場跡地にできた阪急西宮ガーデンズです。蛇足ですが、熊野病院の左手の緑の中の学校が神戸女学院です。

現在の北病棟はどうなっているのかと、熊野病院を訪ねてみました。それは次回に。



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『星々の悲しみ』宮本輝が通った頃の中之島図書館

 宮本輝『星々の悲しみ』は宮本輝の予備校通いの日々をそのまま小説にしたような物語。

 自身で、「高校時代は読書に精を出し、勉強は二の次だったから、大学受験は失敗しました。1年だけの約束で浪人させてもらいましたが、予備校に3日通っただけで、自分には合わんと思いました。もっとも、合うという人はいないでしょうが。大阪の中之島図書館に通い、勉強はせず、ロシアやフランスの小説を時間を忘れて読みふけった。」と語っています。


 小説では、予備校に通い始めて四日目に最初の実力試験があり、その二日後に結果が掲示板に張り出された日のことから始まります。

<図書館の真ん中の石段に腰かけて、ぼくは煙草をすった。中之島公園の方から、無数の鳩が飛んできて、図書館の窓や丸いドーム型の屋根にとまったのを見つめているうちに、ぼくの中のあるものが突然萎えていった。受験勉強など、もうどうでもよくなってしまったのだ。それできょう一日だけ休憩だと思った。きょう一日だけ、好きな本を読もう。勉強はあしたからだ。>

正面の石段の赤いコーンのあるあたりに腰かけたのでしょう。

 鳩の糞の話が出てくるのですが、季節によるのかも知れませんが、最近は鳩をほとんど見かけませんし、糞害もなさそうです。


<図書館には入口が二つあった。むかって右側が自習室で、左側は一般閲覧室だった。自習室は高校生や浪人たちで満員になるから、朝早くから開館の時間まで並んでいなくては到底はいることが出来ないのだが、一般閲覧室の方はたいていの場合は空席があった。>

 現在の中之島図書館の配置図ですが、自習室は残っていません。1996年に大阪府立中央図書館が開館したのに合わせて、中之島図書館がリニューアルしたそうなので、その時に自習室も無くなったのでしょうか。


<ぼくは階段をのぼって二階のがらんとした丸い部屋に行った。天井のステンドグラスから光が降りていた。正式には、そこが玄関の大広間で、突き当りに小さな受付台があるのだが、係の人の坐っているのを、ぼくは一度も見たことがなかった。ぼくは長い間ステンドグラスの赤や青のかけらを見上げた。黒い影が、ステンドグラスの上を歩いていた。鳩がいるのだ。>

正面の玄関から入った二階のホールです。


見上げると天井のステンドグラス。鳩の影は見えませんが。


<三階の廊下が、大広間を取り囲むように円型に突き出し、そこをひとりの女子大生らしい娘が足音を忍ばせて歩いていた。手すりから顔をのぞかせて、見あげているぼくを一瞥しどこかの部屋に姿を消した。>

三階の廊下です。ここを女子大生らしい娘が歩いていたようです。


小説には出てきませんが、二階ホールにこんな掲示がありました。

八哲の名前が記されているそうなので、中間帯とはどこかとキョロキョロ見廻すと、ありました。

これはDARWINの銘板です。


 小説に戻ります。三階の「外国文学」の部屋で、彼女を見つけ、話しかけます。ぼくはその後、彼女に会うのが目的なのか、毎日図書館通いすることになります。

<ぼくはまい日図書館に通った。そしていつも同じ場所に坐った。目の前の書架には、ぼくが受験勉強を放擲して、意地でも全部読み切ってやろうと思っている二百数十冊の本があり、湿気に満ちた紙臭い色褪せた背表紙が、年代物の木製の書架の中で押し黙っていた。>


 現在の中之島図書館は府立図書館と機能分担しているため、中之島図書館の蔵書は大阪、古典籍およびビジネス関係資料に限られ、外国文学はありません。

 宮本輝が通った1965年の頃は外国文学も置かれていたようで、その頃の読書量が宮本輝の小説家への素地を創ったに違いありません。




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宮本輝『星々の悲しみ』図書館への古い石の橋とは?

 宮本輝『星々の悲しみ』で、「ぼく」が中之島図書館に向かう場面で、古い石の橋が登場します。
<老舗の漢方薬店の二年前と少しも変わらぬ店構えを眺めながら、車の通りの激しい広い道に出て、ぼくはまた飛び跳ねるような歩き方で、図書館へ古い石の橋を渡った。>
 漢方薬店もきっとどこかにモデルとなった店があるのでしょうが、見つけることはできませんでした。

 大阪高等裁判所のあたりから、中之島図書館に向かう古い石の橋とは、中之島公会堂に向かう鉾流橋(オレンジ色矢印)か、図書館の正面玄関につながる水晶橋(水色矢印)かと思ったのですが、次のように獅子の座像がでてきます。
<橋の名が刻まれた四角い石の上に、大きな獅子の座像があり、鳩の糞にまみれて四頭とも表情は判別できなくなっていた。見ると、獅子だけではなく、図書館の屋根も、そのむかい側の裁判所の古めかしい建物も、いたるところ鳩の糞だらけで、盛りあがっている筈なのに、光をあびて弾痕みたいにえぐれて映っているのだ。>
 ここまで読むと、登場した古い石の橋は獅子の座像がある「なにわ橋」に間違いなさそうです。


 ところが、更に読み進むと、ぼくが予備校で顔見知りの二人に出会う場面があります。
<汚れた獅子の座像を両端にすえた石の橋の真ん中で、二人の青年が小石を投げ合って遊んでいた。二人は欄干を背にして、向かい側の欄干の下に置いた牛乳瓶の中に小石を放り込もうとしているのだった。>
この場面は、どう考えても幅が広く車が頻繁に通る「なにわ橋」では考えられません。

中央公会堂に通じる「鉾流橋」も車道があり、この橋でもなさそうです。(上の写真)

 やはり歩行者専用の「水晶橋」をイメージして書いたのでしょう。(下の写真)

そうすると、
<獅子だけではなく、図書館の屋根も、そのむかい側の裁判所の古めかしい建物も、いたるところ鳩の糞だらけで>
という描写も、獅子以外は、水晶橋から見える図書館のドーム、中之島中央公会堂(裁判所ではなく)の建物を描いたものだと理解できます。


宮本輝はきっと、印象に残る「獅子の座像を水晶橋に持ってきて、小説を書いたのでしょう。



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宮本輝『星々の悲しみ』の喫茶店「じゃこう」を探して

 宮本輝『星々の悲しみ』は主人公の「僕」が、絵画と文学、友人の有吉・草間を通して「死」と「生」について考える物語。


 小説の冒頭は次のように始まります。
<その年、ぼくは百六十二篇の小説を読んだ。十八歳だったから、一九六五年のことだ。大学の入試に落ちたので、高校の卒業が済むと、ぼくはすぐに大阪の梅田にある予備校に入る手続きをして、授業の始まる四月半ばまで家に閉じこもって寝てばかりいた。>
 この「僕」とは宮本輝自身の浪人時代をモデルにしているようです。
 2012年10月3日日経新聞夕刊で、宮本輝は次のように述べています。
< 1965年、関西大倉高校を卒業。受験に失敗し、1年間浪人する。
 高校時代は読書に精を出し、勉強は二の次だったから、大学受験は失敗しました。1年だけの約束で浪人させてもらいましたが、予備校に3日通っただけで、自分には合わんと思いました。もっとも、合うという人はいないでしょうが。大阪の中之島図書館に通い、勉強はせず、ロシアやフランスの小説を時間を忘れて読みふけった。>
その通りのことが、『星々の悲しみ』にも描かれているのです。

 日経新聞に続くかのように、小説では予備校に通い始めて四日目の様子が冒頭に書かれています。
<梅田新道の交差点を横ぎって淀屋橋に向かう道の一角に左に折れ、細い露路に入って行った。質流れの品を専門に売っている店の前に来て、そこで歩調を弱めた。>

梅新交差点を過ぎて、写真の左手の方に入って行ったのでしょう。
<近くに裁判所があるので、附近には司法書士事務所がたくさん看板を出していた。四つ辻のところに大きな漢方薬店があり、その二階では「じゃこう」という名の喫茶店になっている。>

 私も左手に折れて入って行くと、最初に目についたのが、このレトロな大江ビルヂング。大阪高等裁判所に近いことから、大正時代に大江という弁護士が建てた法律家向けのテナントビルで、現在も法律事務所が多く入っているそうです。

 上の写真の右側のビルが大阪高等・地方・簡易裁判所合同庁舎ですが、この建物の北側あたりに喫茶店「じゃこう」を設定したのではないでしょうか。

 行ってみると、画廊喫茶や法律事務所が軒を連ねており、本当に「じゃこう」がありそうな雰囲気でした。

小説に戻りましょう。
<ぼくは高校二年生のときも、ときどき学校をさぼって中之島の中央図書館へ行き、外国の古い小説を読みふけったことがあり、帰りにこの「じゃこう」で紅茶やジュースを飲んだりしたのである。>
日経新聞に宮本輝が語った通りのことが、小説になっていました。
きっと「じゃこう」のモデルとなった喫茶店も実在していたのでしょう。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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