阪急沿線文学散歩

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東京出身の作家吉田篤弘の『神様のいる街』は神戸賛歌

『神様のいる街』は東京出身の作家吉田篤弘(1962年生まれ)の青春時代を描いた自伝的小説。久しぶりに青春時代の心を思い起こさせてくれる小説に出会いました。

 冒頭は、次のように始まります。
<周波数を探っていた。日曜日の深夜だった。その時間帯だけ空気がきれいになる。壊れかけたラジカセのチューニング・ダイヤルを一ミリずつ動かし、東京から五百キロ離れた神戸のラジオ局の電波をとらえようとしていた。聴きたい番組があったわけではない。ただ、神戸の時間や空気とつながれば、それでよかった。>
 昔よく深夜にFEN(米軍放送)にチューニングしていたことを思い出します。
著者が二十歳だったと述べていますから、1982年のことです。
 それまで東京から「ひかり」で五度か六度神戸に来ていたそうですから、初めて神戸を訪れた時から神戸の街に惹き付けられたのでしょう。まだ「のぞみ」が走っていなかった頃のお話です。
 今回もビートルズのシングル盤をすべて売り払って、そのお金で神戸に向かいます。

 新神戸オリエンタルホテルが開業したのは1988年のことですから、まだホテルもマンションもない時代です。

 新神戸から三宮までの地下鉄が開通したのは1985年のこと、当時は地上を市バスで街の風景を見ながら三宮に向かいます。

<新神戸駅から三宮駅に向かうバスは満員で、乗客は皆、仕事や学校に出かける街の人たちだった。街の人々が一日を始めていく様子が快かった。駅を中心にして、若い人たちも老人たちも、皆、思い思いに街を歩いて行く。神戸の中心地区は、海側のオフィス街と山側の住宅地の距離が歩いて行ける距離にあった。東京には、なかなかそういう街はない。>
山と海に挟まれた神戸の街。その景色に惹かれたのでしょう。

 小説の最後では夫人となる人の東京の学校で出会いや、彼女もすぐに神戸を好きになったことなど書かれており、六甲山の山の上にある教会で結婚式を挙げられたそうです。

写真はクラフト・エヴィング商會の吉田篤弘・弘美夫妻のインタビュー記事から。

<お金を儲けることを考えなければ、人生には時間がたっぷりある。
お金なのか、時間なのか。本当に必要なのは、はたしてどちらなのか。答えは出なかった。>
 若者にとって、含蓄のある言葉。読んでいて、著者の生き方を羨ましく思いました。
 私も神戸の街が大好き。この本のお話をもう少し続けます。




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三宮神社の境内は歓楽街だった

 神戸大丸の向かいにある少し小さな三宮神社、開港直後に神社の前を通る西国街道で国際紛争に発展した神戸事件が発生し、鳥居の横には「史蹟神戸事件発生地」という立派な石碑が立っており、三宮の地名の由来ともなっている由緒ある神社です。


 先日、ノマドな神戸異人館ガイドさんに案内いただいて、境内に戦前は湊川新開地と並び称せられるほどの大歓楽街となっていたことがわかる全体図が掲示されていることを教えていただきました。


 航空写真の黄線で囲んだ部分が昔の境内となります。


 妹尾河童の『少年H』に、その歓楽街にいつも洋服を注文してくれるピエールさんのレストランがあり、少年Hが父親に連れられていった様子が描かれていました。

<そのレストランは、元町にある大丸百貨店の斜め前の、電車通りに面していた。二階がレストランで、一階が酒瓶がずっと並んだバーだった。二階への階段の手すりは金色の唐草彫刻がしてあって、少し円形を描きながら登っていた。>
入り口は通りに面してたようです。

全体図の「三宮バー」の二階にピエールさんのレストランがあったようです。(上の写真で黄線で囲んだ部分)
<「下へ降りて裏口から出たら、あんたの好きなものが見えるわ」と父親が言って笑った。Hはいわれた通りに、バーの裏口のドアを開けて外へ出た。すると狭い通路になっていて、向かい側にもドアがあった。それを開けてみて驚いた。映画館の中へ通じているドアだった。Hはそうかと思った。レストランと映画館は、同じ路地を挟んだ隣あわせの建物だったのだ。>
 三宮バーの裏口を出ると、三宮キネマに続きます。この映画館で少年Hは、チャップリンの『モダン・タイムズ』を見たのでした。

境内に映画館は「三宮キネマ」「萬国館」「三宮倶楽部」があります。

「歌舞伎座」は明治以来の芝居小屋、隣接して芝居の「ときわ座」、講談などの寄席「雑居亭」がありました。

飲食店や珈琲店も数多く見られますが、眼を惹くのがカフェパウリスタ。

大正9年にここに新築移転しており、最先端の近代ビルディングでした。カフェパウリスタは珈琲だけでなく、麦酒やブランデーも提供する安価な飲食店として親しまれていたそうです。

三宮神社の境内は、なんとも奇妙な光景を呈していました。




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辻原登『ジャスミン』神戸の関帝廟へ

 辻原登『ジャスミン』は上海・神戸を舞台とした大人の冒険小説。


 主人公の脇彬彦と妹のみつるが関帝廟を訪れる場面が描かれています。
<許禮平の母親が亡くなった。許家の墓は神戸の滝谷の中華義荘にある。遺体は冷凍保存されてボストンから飛行機で運ばれた。葬儀は、中山手の関帝廟霊堂で営まれる。彬彦はみつるから電話で知らされ、数秒ためらったのち、参列を決めた。>
東京に住む彬彦は神戸オリエンタルホテル(ANAクラウンプラザ)でみつると会い、タクシーで関帝廟に向かいます。

 私は今回、“ノマドな神戸異人館ガイド”さんに案内していただき、久しぶりに関帝廟を訪ねました。
<ふたりはタクシーを降りて、視線を特に上げると、関帝廟本堂の屋根に飾られたまっ白な双竜が見えた。兄妹は会葬者の群にまじって、ゆっくり双竜をめざして歩きはじめた。>

双竜は青く塗られていましたが、小冊子『関帝廟』にも「なかでも屋根の上に飾られた、玉をつかんで両方からにらみ合っている白色の双竜が目を引きます」と書かれていました。昔はまっ白の双竜だったのかもしれません。

<彬彦とみつるは密になった弔問客の流れにまじって、まっ赤な柱に青瓦の角屋根を載せた山門をくぐり抜ける。>

山門の瓦は、青瓦ではありませんでした。これも小冊子『関帝廟』には、「入口にある山門は真っ赤な柱にツノの突き出た青い屋根が特徴」と書かれていましたので、やはり震災後の修復工事で、瓦の色が変わったようです。

山門の右隣にある禮堂の門の瓦は青瓦でした。

<数珠を手に掛け、合唱しながら次の登竜門へと進む。柱と鴨居はベイラの一刀彫りで、黄河・龍門の鯉が龍になる姿が描かれている。>

立派な中門ですが、ベイラという言葉、インターネットでも該当する言葉はでてきません。

小冊子『関帝廟』の解説を読むと、「登龍門とも言われる中門。タイワンヒノキ(ベイラ)の一刀彫で、黄河龍門の鯉が龍になる故事になぞらえて台湾で作られ船で運ばれました」とあり、タイワンヒノキのことだとわかりました。中国語:で紅檜と書くそうなので、ベイラと発音するのかもしれません。

<登龍門を抜けると、目の前に大香炉が立ちはだかった、恭しく焼香して、本堂に入り、座布団に跪き、主神関帝座像に三拝九拝する。それから右手にある礼堂に入る。>

大香炉は昭和20年に戦災で焼けた中華会館から移転したもので、本来は「鼎」といわれる宝器で香を焚くものではないそうです。

 右手の礼堂はメンテナンス工事で見れませんでしたが、小冊子の写真からです。

小説では礼堂の中の葬儀の様子も詳しく書かれており、著者の辻原登はここでどなたかの葬儀に参列されたのかもしれません。

<礼堂を出ると、出棺を見送る人々は中庭の四阿(あずまや)に入って腰掛け、あるいは周りに屯して待つ。彬彦とみつるが大香炉の前を横切って四阿に向かっていると、彼の名前がささやくような声で呼ばれた。>

 多くの在神華僑の人たちは、神戸の関帝廟で葬儀を行い、神戸市長田区にある中国人墓地「中華義荘」に埋葬されるそうです。何度も戦災や火災、震災の被害にあってきた関帝廟ですが、その度に甦り、中に入ると日本を離れて中国を訪れたような気分にさせてくれました。




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辻原登 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

ご無沙汰しています。ご紹介くださってる本を追っかけて読もうとしていますが、なかなか。。。
さて、紅檜ですが、中国語では「hong kuai」という発音になります。ちなみに最初のoが第二音(上がる音)で後ろのuaiは第四音(下がる音)です。したがってベイラと読むことはないでしょう。
ベイラ、いったい何なのでしょうか? 中国語じゃなくて台湾語(高雄族の言葉とか?)

[ ダンプ先生 ] 2018/09/19 14:46:36 [ 削除 ] [ 通報 ]

お久しぶりです。お元気ですか。
そうですか、ありがとうございます。ベイラで検索しても出てこなかったのですが、小冊子には台湾ひのきと書いてありましたので、中国人の間でそのように呼ばれているようです。どなたかご存じでしたら教えてください。

[ seitaro ] 2018/09/19 21:16:53 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪神大水害の時、神戸のドイツ人学校は何処にあったか?

 谷崎潤一郎『細雪』で、昭和13年7月5日の阪神大水害の日に、お隣に住むドイツ人一家の子供たちもドイツ人学校へ行っていて心配する場面があります。
<「わたしの旦那さん、ペータァとルミーを迎えに神戸へ行きました。大変心配です」
シュトルツ氏の三人の子供たちのうち、フリッツはまだ幼いので学校へ行っていなかったが、ペータァとローゼマリーは神戸の山手にある独逸人倶楽部付属の独逸小学校へ通っていた。>
 これはほぼ実際に起こった出来事を、谷崎潤一郎が小説に著わしたもので、倚松庵の隣に住むシュトルツ家の実名はシュルンボム家で、妻の名はフリーデル・シュルンボム、子供たちの名は本名が使われています。

写真は『細雪』のシュトルツ家のモデルとなった母フリーデル、長男ペータア、長女ローゼマリー、次男フリッツ(就学前)の4人です。この二人が独逸人倶楽部付属の独逸小学校へ通っていたのです。

 手塚治虫『アドルフに告ぐ』でも阪神大水害が描かれており、アドルフ・カウフマンが学校に出かける場面があります。


 ところがアドルフが通っていた小学校は神戸キリスト教学校となっているのです。

 おそらく、この学校は北野町にあり1893年に日本で最初に創立されたインターナショナルスクールの一校であるイングリッシュ・ミッションスクールのことでしょう。

場所は元・神戸市立北野小学校を利用した「北野工房のまち」の南隣にありましたが、現在は聖ミカエルインターナショナルスクールとして存続しています。
 しかし、ドイツ大使館員の息子であったアドルフが通うのは本来ならドイツ人学校で、手塚治虫はその存在を知らなかったのかもしれません。

 阪神大水害が発生した昭和13年に、ドイツ人学校はどこにあったのか知りたくなり、調べてみると、ドイツ人学校についての小冊子を見つけました。


 ドイツ居留民の増加に対応して、1909年山本通2丁目97に最初のドイツ人学校が設立されます。


その後、何故か転々と場所を変えており、

1912-1920 山本通2丁目77b

1920-1921 ドイツ領事館内

1922-1927 北野町2丁目56

1928 山本通2丁目30
これはドイツ人倶楽部のクラブ・コンコルディア内に作られました。ケーゲル場(ボーリングに似た競技)の上のクラブハウスが教室にあてられたそうで、ようやく自前の教室を持てたそうです。

 小冊子のドイツ人学校の紹介はここで終わていましたので、昭和13年もクラブコンコルディア内にあったと思っていたのですが、最近NEKONQUISTAさんから頂いたオットー・レファート原著『神戸のドイツ人 −旧き神戸への回想―』を読んでいると、その後も場所を移っていることがわかりました。
<1927年に「クラブ・コンコルディア」の新しい建物が建設された時、その一翼に学校も建てることをクラブと合意していたので、やっと自前の教室を持つに至った。しかし、間もなくここも手狭になると予想して、1936年北野町3丁目に土地を取得し、立派な近代的校舎を建てた。−1945年6月5日学校は爆撃で破壊された。>

地図の赤く丸で囲んだあたりが、北野町3丁目です。阪神大水害時に、ドイツ人学校はこのあたりにあったのです。

そのドイツ人学校も神戸大空襲で破壊されてしまいました。

現在は六甲アイランドに移り、神戸ドイツ学院ヨーロピアンスクールとして存続しています。




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『華麗なる一族』に登場していた思い出のカイザー・スチール

 山崎豊子『華麗なる一族』では、万俵家の次女・万俵二子と阪神特殊鋼の社員で鉄平を慕う一之瀬四々彦は密かに交際しており、二人が神戸の南京町で食事をする場面があり、こんな会話が交わされます。
<「いいお店ね、よくいらっしゃるの?」「ええ、時々―、僕はこうした、熱気が漲っているような町が好きなんですよ、去年の春、ロスアンゼルスのカイザー・スチール社へ出張した時も、ロスのチャイナ・タウンへ晩飯を食べに出かけたんです」>

 日本ではほとんど知られていないカイザー・スチールの名前が出てきたのには驚きました。

上の写真は昭和49年の映画で、一之瀬四々彦を空港で万俵二子が迎える場面です。
 

 一之瀬四々彦は鉄平と同じ東京大学工学部冶金学科に進み、卒業後はマサチューセッツ工科大学へ留学した経験を持ち、東大在学中から鉄平を慕っていた人物として描かれ、映画では北大路欣也が演じていました。

 一之瀬四々彦がカイザー・スチール社へ出張した理由は、阪神特殊鋼で建設中の高炉操業の技術を習うためと述べられています。
<四々彦は、昨年の末にロスアンゼルスのカイザー・スチール社へ高炉操業の技術指導を受けに渡米した時、シカゴへも寄り、南駐在員と会って、現地の事情をよく知っていたが、阪神特殊鋼の優れた技術に自信を持っていたから、最後まで事態の好転を信じているのだった。>
 カイザー・スチールは、第二次世界大戦中に船舶や武器製造のための鉄を供給するため西海岸に、初めて建設された製鉄所です。 ロサンゼルスのフォンタナにあるこの工場は、戦後も操業していましたが、1980年代に破産を宣言し、工場の多くは解体されました。

上は1943年に稼働を開始した第1号高炉とエンジニアたちの写真です。

 この日本ではあまり知られていないアメリカの製鉄所を山崎豊子さんがなぜ御存知だったのか不思議でなりませんでした。
 調べてみると、神戸製鋼が神戸製鉄所の第1号高炉に火入れを行い、銑鋼一貫メーカーとなったのは1959年でしたから、神戸製鋼のエンジニアが高炉操業についてカイザー・スチールに指導を仰いだことは十分可能性があり、山崎豊子さんは取材時にそれを聞いて、小説に織り込んだのかもしれません。

カイザー・スチールはハリウッドに近いことから、映画「ターミネーターU」のサイボーグとシュワルツェネッガーの対決の場面がここで撮影されています。


 その後1990年代に工場設備の一部は、中国の製鉄所に売却され、中国人が乗りこんで分解し、中国に輸送し再組み立てされました。
 残りの部分はカリフォルニア・スチールに売却され、現在も圧延工場として稼働しています。
私は、20年以上前になりますが、あるプロジェクトで2週間ほどカリフォルニア・スチールに滞在したことがあり、丁度中国人部隊が乗りこんで、製鋼工場の解体をしている時でした。

その解体される製鋼工場を背にして撮った写真です。
「ターミネーターU」はこの工場の解体前に撮影されています。

 色々思い出のある、カイザー・スチールの名前が『華麗なる一族』に登場していたのには驚きました。


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伝統ある神戸レガッタ・アンド・アスレチッククラブへ

 神戸レガッタ・アンド・アスレチッククラブ(Kobe Regatta & Athletic Club, KR & AC)は明治3年、ラムネ飲料で有名なA・C・シムの提唱により、 居留地に住む外国人にリクエーション、スポーツを提供するために設立され、グランドの設置やその当時まだ日本には なかった近代スポーツの普及にも大きな役割を果たしてきました。

写真はレクレーション・グラウンド(現;東遊園地)、端がK.R.&A.C.のクラブハウスで右側の建物がコーベ・クラブ。

明治35年のK.R.&A.C.の運動会の写真もありました。奥に見える建物がコーベ・クラブ、左側がK.R.&A.C.のクラブハウスで劇場を兼ねた体育館になっています。クラブハウスの600名収容の体育館・劇場は神戸空襲で 消失するまで市民ホールとして約80年間、神戸の芸術文化のメッカとなっていたそうです。

K.R.&A.C.は昭和37年に磯上公園に移転しており、現在はメンバー以外でもレストランで食事ができると知り、早速行ってきました。

場所は三宮から歩いて約10分の磯上公園です。

会員専用施設となっていますが、レストランへの入場は可能です。

玄関を入ると、ペナントやトロフィーなどが展示されています。横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ(YC&AC)との交流戦は発足以来、盛んに行われてきたようです。

1890年にシムが創設してからのK.R.&A.C.の歴代会長の名前が掲示されたボードです。

こちらはレストラン入り口に掲示されていた平日のランチメニューです。今日はパスタ・ランチにしました。

 ランチの早い時間に伺いましたので、ゆっくり店内を見せていただきました。

朝日新聞に掲載されていた記事を見ると、メンバーがいる時はこんな雰囲気になるようです。

こちらはレストランに展示されていた写真から、明治18年に開催されたK.R.&A.C.のレガッタレースのメンバー。右端が創設者のA.C.シムです。

レストランの一階の部屋はコの字型になって奥も広く、メンバーが集まって団欒できるようになっています。

こちらは私が席をとった所で、バーカウンターもあります。

こちらが本日のパスタ・ランチ。
充分おいしく、K.R.&A.C.のメンバーにでもなった気分で、ゆっくりランチを楽しませていただきました。



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山崎豊子の驚くべき取材力(『華麗なる一族』熱風炉爆発)

 山崎豊子さんの取材力には驚きますが、『華麗なる一族』の阪神特殊鋼の高炉建設完成まぎわでの熱風炉爆発事故の場面も迫真の描写です。


 あと二か月で高炉完成に漕ぎつけ、万俵鉄平が神戸灘浜の事務所から高炉建設現場を見ていると、突然爆発音が鳴り響き、高炉建設現場で爆発事故が起こったと報せが来ます。

映画では、どこかの製鉄所の高炉改修工事現場を撮影したようです。
<高炉建設現場に近付くと、高炉と熱風炉のあたりから濛々と土煙がたっているのが見えたが、そこで何が起こっているのかは解らなかった。……
 「熱風炉が、爆発したのか!」「そうです、専務、危ない、近寄らないで下さい!負傷者がたくさんいるんです!」>

 写真の4本の円筒状の構造物が灘浜にある某製鉄所の熱風炉と高炉です。
<「こんな大事故を起こして申し訳ありません、実はうちの作業員が、明日から炉内の煉瓦乾燥作業に入る準備のために、熱風炉の点検窓を開いた途端、熱風炉の上の方で給水塔へ続く水パイプの取付作業をしていた溶接の火花が落ちて引火し、あっという間に爆発を起こしたのです」>

映画の熱風炉爆発の場面ですが、中の耐火煉瓦も映し出されて、現実味があります。

山崎豊子さんは熱風炉の構造もよく勉強されています。
<熱風炉は蜂の巣のように穴が通る空気も熱せられ、穴を通る空気も熱せられ、その熱風が高炉に入って鉱石を溶解し、鉄をつくるのだった。>

 普通に考えると、高炉が稼働していないとガスが熱風炉のなかに通っているはずはないので、建設中に大爆発が起こるはずがありませんが、原因もうまく考えられています。

<「しかし、爆発が起きたということは、炉内にガスが充満して爆発限界に達していたことになるが、どうしてガスが充満したのだ」「そこが、私にも解らないところですが、思うに炉の外側に接続しているガス・バーナーのバルブが緩んでガス漏れし、爆発限界になっていた時、たまたま作業員が点検窓を大きく開けたことによって、外で溶接作業中の火花が引火したのだと思います」>
 きっと山崎豊子さんは製鉄所での実際に起こった熱風炉の爆発事故を聴き、熱風炉の仕組みも勉強されたうえで、このストーリーを組み立てられたのでしょう。
専門家でもないのに、驚くべき理解力です。



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山崎豊子の驚くべき取材力・理解力(『華麗なる一族』)

 山崎豊子さんは「私の作品は、取材が命」と語るほどしっかりした取材をされています。銀行の合併をテーマにした『華麗なる一族』の取材ノートでは、銀行や大蔵省の取材の難かしさを述べられていますが、作品を読むと鉄鋼業界の取材にも熱心だったことがよくわかります。

 例えば阪神特殊鋼の工場や操業の描写、様々なエピソードは、鉄鋼業に携わった者が読んでも、現実味があり、取材の細やかさに驚かされます。
 まず万俵家から見える阪神特殊鋼の工場風景。


 これは山陽特殊製鋼がモデルとなった阪神特殊鋼の場所を、灘浜の神鋼神戸製鉄所に移し、高炉建設の様子を次のように描いています。
<裏山の谷川から引いた流れにかかっている石橋のところまで来ると、眼下に芦屋、岡本、御影の住宅街が一望のもとに見渡され、その先に灘浜臨海工業地帯が拡がって、工場群の煙突が林立しているのが見える。
 「臨海工業地帯の東端がうちの会社ですが、海岸よりに一際高く聳えたっているのが高炉です。そしてその横の円筒状の高い構造物が熱風炉、その向こうが転炉の建屋、向かいは送風機の建屋―」鉄平は、この一年余、全力を傾け、今一息というところに迫った高炉建設現場を一つ一つ、いとおしむような熱っぽさで説明した。>
 これは多分、神戸製鋼神戸製鉄所に取材して書かれたものと思われますが、高炉・熱風炉・転炉などの建屋を正確に描写しており、山崎豊子さんはきっと神戸製鉄所の設備を見ながら説明を受けたのでしょう。

上の写真は以前の神戸製鉄所。中央に高炉が見えています。

 時代の移り変わりは早く、2017年10月末に神戸製鋼所神戸製鉄所の高炉、製鋼工場は休止し、加古川製鉄所に集約されました。
最近の航空写真がありました。高炉と周辺設備が撤去されて更地になりつつあります。

かろうじて中央に熱風炉がまだ解体されず残っているようです。その後ろに見えるのは、転炉・連続鋳造設備などがある製鋼工場で、ここも既に休止されており、この建物もやがて撤去されるのでしょう。
 この高炉跡地には発電規模130万kWの火力発電所が増設される予定です。
 この写真の説明を長々としたのは、あたかも小説の阪神特殊鋼が高炉建設を始める前の姿を彷彿とさせるからです。

在りし日の高炉、熱風炉、手前が製鋼工場建屋。

3号高炉建設直後と思われる写真もありましたが、これも阪神特殊鋼が建設した高炉と熱風炉(4本の円筒状の青く塗られている設備)のように見えてきました。

小説ではこの熱風炉が爆発するのですが、次回にさせていただきます。



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須賀敦子さんが子供の頃見た神戸の坂道の風景を探して

 須賀敦子『トリエステの坂道』はイタリアの詩人ウンベルト・サバが生まれ育った辺境の町トリエステを訪ねる紀行文ですが、印象に残るこんな名文を書かれています。
<丘から眺めた屋根の連なりにはまるで童話の世界のような美しさがあったが、坂を降りながら近くで見る家々は予想外に貧しげで古びていていた。裏通りをえらんで歩いていたせいもあっただろう。…………軽く目を閉じさえすれば、それはそのまま、むかし母の袖につかまって降りた神戸の坂道だった。母の下駄の音と、爪先に力を入れて歩いていた靴の感触。西洋館のかげから、はずむように視界にとびこんできた青い海の切れはし。>

 トリエステの坂道の風景、須賀さんが思い出したのは子どもの頃、母親と歩いた神戸の坂道でした。

 実は須賀さんの大叔父にあたる方が、当時神戸北野町の風見鶏の館の西隣の大きなお屋敷に住まれていたので、そこからの帰り道のことを思い出されたのでしょう。
 しかし現在は神戸には高層ビルが立ち並び、北野町の坂道からは、なかなか「青い海の切れはし」を見ることができません。

不動坂からの景色です。

北野天満神社にまで登ると、見晴らしはいいのですが、海までは。

「うろこの館」の更に上にある港みはらし台まで登ると、ようやく海まではっきり見渡すことができました。

 須賀さんの記憶にあった北野町の坂道の景色は、夙川に住まれていた昭和10年ごろのお話です。
先日、川西英さんの『神戸百景』を見ていると、戦後(1952〜1961年)描かれた神戸風景の中に、海が見える北野町の坂道がありました。

須賀さんはこんな坂道をお母様に手を引かれて、つま先に力を入れて下って行かれたのでしょう。



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小出楢重が綴った昭和の初めの芦屋風景

 小出楢重は昭和初年から阪神芦屋駅のすぐ近くの川西町にアトリエを構えていました。


 小出楢重は『芦屋風景』で次のように述べています。
<芦屋という処に住んで二年になる。先ず気候は私たちの如くほそぼそと生きているものにとっては先ず結構で申し分はない。そして非常に明るい事が私たち淋しがり屋のために適しているようだ。>
芦屋に住んで、大変気に入られていた様子です。

上の写真は阪神芦屋駅ホームから見た風景。

<南はすぐ海であり、北には六甲山が起伏し、その麓から海岸まではかなりの斜面をなしている。東には大阪が見え、西には神戸の港がある。電車で大阪へ四十分、神戸に二十分の距離である。>

芦屋市民センターより海を望む。

芦屋市民センターから見る六甲山系。

<その気候や地勢の趣が南仏ニースの市を中心として、西はカーニュ、アンチーブ、キャンヌ東はモンテカルロといった風な趣きにもよく似通っているように思えてならない。>


南仏ニースの海岸とまではいきませんが、芦屋ヨットハーバーの景色。


こちらは西宮新ヨットハーバー、大阪湾を望みます。


<殊に山手へ散歩して海を眺めるとその感が深い。小高い丘陵が続く具合、別荘の多い処、自然が人間の手によってかなり整頓されている処、素晴らしいドライブウェイがあり、西洋人夫婦が仲良く走る有様なども似ている。私は散歩するたびに南仏を思い出すのである。>

現在の景色は当時とかなり変わっていますが、そういえば小川洋子さんも、同じように
<芦屋で家を探そうと、不動産屋さんの車に乗って、北から南に向かい芦屋川沿いに走ったとき「ここは南仏かな」と思うくらいに驚きました。>
と述べられています。

 しかし、小磯楢重は当時の住宅について、次のように苦言を呈しています。
<それから風景としての重大な要素である処の建築が文化住宅博覧会であるのだ。或る一軒の家は美しくとも、その両隣りがめちゃなのだ。すると、悉くめちゃと見えてしまう。その家があるために風景がよく見えるという位の家が殆どない。これは何も芦屋に限らない、現代日本の近郊の大部分は同じ事であるが。それにつけても羨ましいのはモンテカルロ辺りの古風な石造りの家や別荘の積み重なりの美しき立体感である。マッチの捨て場所のない清潔な道路である。>
これは今でも変わりません。
どうしてヨーロッパの町並みはあんなに美しいのでしょう。



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芦屋 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

 ヨーロッパは厳格に規制しているからではないでしょうか☆彡

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2018/09/12 9:17:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

きっとそうなのでしょうね。どこも日本より、精神的に豊かな国に思えてしまいます。

[ seitaro ] 2018/09/12 15:11:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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