阪急沿線文学散歩

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アンネのバラ教会と杉原千畝「命のビザ」

 甲陽園目神山に酔う意地がありアンネのバラの教会に立ち寄りました。

もう盛は過ぎたようですが、それでも手入れが行き届いて綺麗なアンネのバラが咲き誇っていました。

「アンネのバラ」はベルギーの園芸家ヒッポリテ・デルフォルヘ氏の手によって1955年に作出されたもので、アンネの父オットー・フランク氏と出会い、アンネのために彼らが持っていた最も美しい種類のバラの一つを捧げたことに始まるそうです。


一昨年ここを訪れたときは、杉原千畝が発給した命のビザが展示されていました。

スギハラ・ダラーを著した手嶋龍一氏のオフィシャルサイトを見ると、シカゴマーカンタイルのレオ・メラメド名誉会長から聞いた話を交え、次のように語っています。

http://www.ryuichiteshima.com/intelligence/sugihara/review08.php


<日本唯一のユダヤ人組織があり、同胞を支援していた。日米開戦前に渡米したユダヤ人たちは、神戸が夢のようなところだったと話している。異質な者への寛容さ、包容力など本当に国際都市だったのだろう。パンも祖国よりおいしかったと言い、ひとときの安息を得た。物語の主人公たちが出会い、人生を定めることになった約束を交わす地に設定した>


 神戸シナゴーグが神戸に設立されたのは大正元年(1912)のこと。1941年12月の太平洋戦争開戦までに、神戸に滞在したユダヤ難民は計約4600人に上るそうです。「異人館通り」で知られる北野・山本通に拠点を構えていた神戸ユダヤ協会が、同胞たちに宿舎や滞在費を提供しました。

手塚治虫『アドルフに告ぐ』でも一人のユダヤ人のアドルフは、北野町の近くのパンとケーキの店BLUMENの息子として登場していました

戦前から神戸は素晴らしい街だったようです。


2015年12月公開の映画「杉原千畝 スギハラチウネ」DVDレンタル&発売日は6月2日です。





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甲陽園 | コメント( 8 ) | トラックバック( 0)

昭和50年ごろから平成の初めまで実家が甲陽園目神山町の1番坂にありました。そのうち7年ぐらいは自分も実家に住んでいたので、とても懐かしいです。子供時代は大阪住まいでしたが、私の学生時代に、親が仁川のマンション住まい〜甲陽園の一戸建てに引っ越したのですが、駅からの道中に大司教館があり、茅葺屋根の家やアンネのバラ教会が建っていて、家の庭から海や大阪平野が一望できたのが、思い出の風景です。素晴らしいブログをありがとうございます。なんだか心が生き返ったような気がします。FBの「ヴォーリズ建築・大丸心斎橋店建て替えを惜しむ会」で北夙川不可止(足立直哉)さんから教えていただきました。

[ inking ] 2017/06/13 14:45:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

inkingさん、コメントありがとうございます。そんなに言っていただくと恐縮です。目神山は何度も訪ねていますが、景色もよく好きな場所です。大司教館のこともまた教えていただける機会があれば幸いです。

[ seitaro ] 2017/06/16 6:34:53 [ 削除 ] [ 通報 ]

返信ありがとうございます。実家は震災の少し前に茨木市に引っ越したのですが、その頃には少し有名人の家や新たな住宅が増えたものの、母屋は茅葺というような、昔からの豪邸が残るほどのゆったりした、単に高級住宅地というのでもない、風情のあるところでしたね。つる家も播半も繁盛していて、大正時代に喫茶店だった洋館がありました。本当に震災前頃までは、古き良き時代だったと思います。駅を降りると山側に大阪大司教館の白い四角柱の看板があり、奥まっていて建物はよく見えませんでしたが、大きな木造の洋館だったと思います。その後1985年頃「司祭の家」(研修所兼)を新築された時、旧館をたぶん取り壊されたと思いますが、別棟としての増築だったのか覚えていないです。「司祭の家」は、「目神山の一連の住宅」で日本建築学会賞を受賞された、石井修氏(美建設計事務所)の設計でした。仕事(デザイン関連)で石井先生と少し繋がりがあり、工事中は毎日側を通って見れたので、司祭の家はよく覚えています。石造のような仕上げの低層で半円形の洞窟を思わせるようなデザインの名建築でした。震災の被害もなく、年数も経っていなかったのですが、阪神淡路大震災で、他の教会の被害が大きく、復興に予算が必要との事情で売却されました。建物はそのまま生かして、企業の研修所として使うとの話を信じて決断されたと、石井先生から伺いました。でも口約束で、全く面影すら残さず緑も少ないマンションになって、全くディベロッパーというものはと嘆かれていました。旧館も「司祭の家」も、教会のアルバムや、美建設計事務所には写真があると思います。雑誌にも掲載されたので検索しましたが、Web上に画像はありません。大司教館のスケッチだけでした。昨年解体された喫茶店の記事や、播半関連のサイトはあるんですが…。たぶんご存知と思いますが、そのURLを記載します。
[Holy Ring]http://holyring.jp/?proc=japaneseslashokamoto_tamotsuslashkoyoen
[神戸新聞]https://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/201609/0009450353.shtml
[播半を偲ぶ]https://sites.google.com/site/harihankouyouen/

[ inking ] 2017/06/21 3:46:08 [ 削除 ] [ 通報 ]

inking様大変詳しくお教えいただきありがとうございました。また大司教館のスケッチ、説明など興味深いものばかりでした。
作家の文章としてでてくるのは、田中康夫の「神戸震災日記」くらいしか知らないのですが、小説の舞台にもなりそうです。
甲陽園、目神山のあたりは、昔住んでおられた方からコメントをいただくことがあり、皆様懐かしい思い出をお持ちのようです。

[ seitaro ] 2017/06/21 18:30:41 [ 削除 ] [ 通報 ]

こんばんは、「神戸震災日記」の一節を貴ブログで拝読し、知人や親戚の見舞いに走った、当時の事をありありと思い出しました。甲陽園は本当に小説の題材になりそうなところで、文才があれば書く題材に満ちているでしょう。特に播半辺りの緑濃い雰囲気、少し上に上がった目神山町からの見晴しは素晴しかったです。家の2階の窓から東・南方向には大阪平野と海が見渡せ、晴れた日には淡路島〜友ヶ島まで見えました。西側を見ると、将棋の内藤國雄九段宅が斜め上に見え、さぞ絶景だろうと思いました。豪邸も多いですが、近寄り難い町ではなく、京都の北白川辺りに見晴しをプラスしたような、生きる喜びの感じられる所だと思います(坂が多くて大変ですが)。石井先生のご自宅や、他の住宅作品の内部も見せて頂き、自然と設計について本当に勉強になりました。それは私も目神山の住人ということでの幸運でした。司祭の家は、キリスト教徒ではない私まで、ここは神との対話ができそうな場所だなあと感激したので、消失が返す返す残念です。石井先生の無念は、どれほどだったろうと思います。播半と司祭の家のマンション開発は、失われたものが大き過ぎ、書くときりがないので、この辺りにします(涙)。自分が運営中のサイトとブログも、貴ブログを目標に、内容を充実させたいと思います。これからも楽しみに読ませていただきます。

[ inking ] 2017/06/22 2:36:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

inking様 専門家ではありませんが、私も古い建物を見るのが大好きです。しかしながら開発の嵐で、ヴォーリズ建築やその他の歴史的建造物が次々と無くなってしまったのは残念でなりません。播半からの景色、宮本輝の『にぎやかな天地』にも登場しますが、マンションに変わってしまい、嘆かわしいことです。
inking様のサイトも拝見させていただきました。私などとても及びもしない立派なサイトです。これからもよろしくお願いいたします。

[ seitaro ] 2017/06/22 10:39:11 [ 削除 ] [ 通報 ]

大司教館の角を曲がった坂の上に祖父母の家があり、40年ほど前には、毎週のように週末は遊びに行っていました。森の奥深くの大司教館は子供心にも神秘的だったのに、開発で跡形もなくなったのはショックでした。現在調べてもあまり情報が出てこないので不思議に思っていましが、このブログでやっと経緯を知ることができ、思い出の1ピースをはめこめた気がします。
祖父母の家には現在も叔母がいるので、甲陽園にはときどき遊びに行き、あの頃の、なんともゆったりした雰囲気のかけらを探しています。

[ nene ] 2017/08/10 13:14:49 [ 削除 ] [ 通報 ]

neneさま甲陽園の思い出をお知らせいただきありがとうございます。戦後の甲陽園については、公になっている文書や写真が少なく、調べるのに苦労しますが、皆様にコメントいただき少しづつ当時の落ち着いた街の雰囲気がわかってきました。
また、大司教館の思い出などコメントいただければ幸いです。

[ seitaro ] 2017/08/10 21:56:26 [ 削除 ] [ 通報 ]

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38年前にお母様と訪ねられた甲陽園西山町

瑤さんから昨年の4月4日にいただいたコメントです。


<きょう甲陽園に行ってきました。つるや旅館周辺を歩き、昭和20年前後の甲陽園を知る方を探す訪問でした。↑の写真にある側溝のようになった川もありました。


母親と同世代の本庄町のご婦人、郵便局のみなさん、TSUMAGARIの2Fの女性従業員の方、駅前の写真屋さんのご夫婦・・・ありがとうございました。


また、郵便局近くの小さな公園で出会った紳士の方には、いろいろな話を伺いました。感謝の気持ちでいっぱいです。
甲陽園での母親の足跡を見つけることはできませんでしたが、甲陽園に行ったことは無駄ではありませんでした。>


 そして今年の4月1日に一年ぶりにコメントをいただきました。お母様の面影を求めて甲陽園を散策されたようですが、中村某という割烹旅館の跡地はわからなかったようです。

 

<時々こちらのブログに来ては、皆さんのお話を楽しく拝見させていただいております。
 甲陽園の町を訪れて早一年になりました。
実は38年ほど前に一度母のお友達を探しに、父の運転する車で甲陽園に行ったことがあるのです。
 甲陽園駅からつるや旅館に向かう道の途中で左折し、少しした場所で母が車をとめるように言いました。母だけが車を降り、細い坂道をのぼり姿が見えなくなりました。


 西山町2丁目辺りなんでしょうか。ただそこが昔のお友達の家の近所なのか、母が戦時中に預けられていた中村なんとかという割烹旅館のあった場所の近くだったのかはわかりません。
「つるやさんの近く」という言葉から、去年私は子孫周辺の本庄町を中心に歩いたのですが、ほんの少しズレていたようです。
 もう少しちゃんとしたものがあれば、資料探しもでき一気に調査もできるのでしょうけれども、なにせ何もかも曖昧で(´-`)
この一年間ほとんど何も進展せず。甲山に向かって道の左側で急な上り坂があったことを思い出したのと、甲陽園に引っ越そうかとマンションを検索していたせいか、ネットをやるとやたらマンション広告が表示されるようになったことぐらいです(◎_◎;)
あっ、それから…母は甲陽園線で通学していたようですが、その母から一度も夙川の桜並木の話やお花見の話は不思議に聞きませんでした。戦後タカラヅカを観に行った話やタカラヅカの狸御殿の話はしていましたが。
はて昭和20年前後の夙川の桜やお花見事情はどうだったのでしょうね。

西宮甲陽園郵便局の局長のお父様がお元気なうちに、また甲陽園に遊びに行きたいです。>


  お捜しの割烹旅館は、250畳の大広間のあった甲陽館やカルバス温泉のあったあたりなのでしょうか。ご存知の方が見つかるといいのですが。



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  なんだかコメントできずに3か月間も放置してました。
 
海軍と進駐軍の宿舎になった、とある割烹旅館を探し出すために、つたない投稿をまとめていただき、感謝の言葉がみつかりません。
 
今でいう中学1年生の真夏に終戦を迎えた亡母が生きていれば、今年で83歳になるんですね。
福岡からの転校生で、九州弁丸出しだったはず。
しかし母は亡くなるまで「・・・しとう」と神戸の言葉が入っていました。
母は神戸で暮らしたことがなく、甲陽園で暮らした数年間で身についた言葉なのでしょう。
ただ、私が言葉を交わした甲陽園の方々からは、神戸弁は聞かれませんでした。
転校生の母と仲良くしてくれていたお友達が、神戸出身だったのかもしれませんね。
 
 (ちなみに、私は母から標準語を強いられました(≧∇≦)‼)
 
さて、何気に、でも少し必死で、中村なんとかという割烹旅館のことを尋ねる投稿に、親身になって協力してくださったブログ主様に、この場をお借りしてお礼を申し上げます。
  本当にありがとうございました。
 

[ 瑤 ] 2015/07/09 19:09:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

瑤さま ご丁寧なお返事、本当にありがとうございます。何か新しい情報が得られないかと、瑤さまから戴いたコメントをまとめて掲載させていただきました。残念ながら情報は得られませんでしたが、変わりゆく甲陽園、また機会があれば是非お越し下さい。

[ seitaro ] 2015/07/09 21:16:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

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甲陽園つる家の近所にあった割烹旅館は?そして戦争中の甲陽園のお話

 瑤さんが探されている中村某という割烹旅館をご存知の方はいらっしゃらないでしょうか。

瑤さんからいただいたコメントです。
<つる家の近所に戦後まであった中村○(失念)という割烹旅館があったことを覚えている方がいらっしゃるでしょうか? 九州の福岡の士族の出身の女性が経営していました。
 母は戦争中、今でいう中学生時代を叔母が経営するこの中村○から学校に通っていて、当時の話をよくしていました。戦争中は陸軍が、戦後は進駐軍が滞在していたそうです。
 

 近くに地下壕があったこと、軍人さんがいるので食糧難の時代でも砂糖やパンがあったこと、敗戦間際に陸軍が庭で書類を焼いてたこと…など語っていました。焼却場所に叔母のこの旅館が選ばれたのは、中年過ぎても独身の叔母と母だけ、あとは料理人や使用人だけで秘密が漏れにくいと考えたからでは、と言っていました。
 その母も阪神大震災の翌年に亡くなり、どうして貴重な証言として聴いておかなかったんだろうと後悔しています。
 つる家では「中村のお嬢ちゃん」と可愛がっていただいたらしく自慢が入ったり、空襲の話では必ず涙したり。当時はそれが鬱陶しく感じたのです。
当時そのあたりに住んでいた方がまだご存命ならかなりのご高齢。私が懐かしい話を書き込むことで新しい証言が次々と出てきたら…と思い投稿しました。>

 

 
<また、母が疎開していたその割烹旅館は政治家や大学教授などが来ていたと言っていましたから、もっと大きな料理旅館なら著名人が利用していたと思われ、もともと口が固い土地柄商売柄だったことも、証言が集まりにくい要因なのでしょう。
 さて、地下壕と直接関係ないのですが、母は中村○の自分の部屋の前の庭にジョンという犬を飼っていて、母がお友達と遊びに行くと後を追いかけてついて来たそうです。
 こんなたわいもないエピソードでも、甲陽園の生き証人が何かを思い出すきっかけになればいいのですが…
終戦の時に13歳だった母が生きていれば80歳。12、3歳の少女でも甲陽園で起きていたことは鮮明に記憶していました。
中村○は進駐軍の宿泊施設になったというから、アメリカには記録があるのでしょう。
 でも戦勝国の調査・資料ではなく、やはり甲陽園の日本人が戦時中に何を見たかを記録に残していく作業が急務だと思います。>


<陸軍と書いてしまいましたが、戦中中村○にいたのが陸軍だったか海軍だったか…。
 母は海軍の兵隊さんの話もしてましたがそれこそ悲話で、証拠を焼却したイメージと結びつかなくて、私の頭の中で悪いことは陸軍の制服を着た人と決めつけてしまって…。
 生き証人から直接聞いた私がこのような記述をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。美化しないように注意せねばと思っていたら、悪い人間は××に決まっていると思い込みが働き、一番大事な事実を歪めるところでした。>

 

<その割烹旅館は泥棒に入られ(大事な布団等がごっそり持ち去られる)たことで気の強かった母の叔母も結婚をし、しばらくは商売を続けていたようですが、大阪市に移転しました。私の両親は昭和30年代半ばに結婚したのですが、父によるとその時はもう大阪にいたとのことです。
 ここからまた戦争中の話を。
母はお友達と二人で学校からの帰り道、急に空襲に遭い、自分は助かったものの隣にいたお友達が死亡。母はすぐにその子の家へ行きその子のお母さんを現場まで連れて行ったそうです。駅の近くの現場に戻るともうロープが張られていて人も集まっていて、でも自分が連れて行かなければならないとロープの中に入って行ったそうです。
 ロープの外からは「ユキちゃん、行ったらいかん!」と狂ったように何度も叫ぶ声がし、見ると気位が高く並外れた気の強さで決して取り乱すことのなかった母の叔母だったとのことでした。>


<空襲という言葉が誤解を招いているかもしれません。
 母は「バリバリバリバリ」という表現をしていましたので飛行機から撃ってきたのではないでしょうか。
 火垂るの墓などで観たヒューっと落ちてくる焼夷弾のような爆弾ではないと思われます。爆弾なら母は逃げきれなかったはずです。
 また、甲陽園で商売を営んでいる叔母さんが現場に駆けつけて来るぐらいですから、甲陽園の界隈で起きたと考えるのが合理的なのではないでしょうか。>

瑤さんから初めてコメントをいただいたのは小田実が残そうとしていた甲陽園地下工場跡地が埋められてしまうという記事からでした。



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戦後間もない甲陽園を訪ねる旅、そして親切だった街の人々

 大正から昭和の阪神間・西宮の風景に思いを馳せる記事が多い私のブログに、時々存じあげない方からコメントをいただくことがあり、いつも興味深く読ませていただいています。

 

 その中で、お母様が戦争中に甲陽園の割烹旅館から学校に通われていたという瑤さんから先日いただいた心暖まるコメントを、ご了承を得てそのまま貼り付けさせていただき、ご紹介いたします。

 

<昨日夕方、甲陽園を訪れました。
甲陽園西山町2丁目の急な坂道をのぼりながら、いろんなことを考えていました。
 戦中戦後の甲陽園のことは、やっぱりほじくり返さない方がいいのかな…とまで思ったりして、だんだん悲しい気持ちになり、もう帰ろうと思い帰りかけました。
 そんな中でも、今回も素敵な方々と出会いがありました。
甲陽マンションの辺りでウォーキング中のご婦人を呼び止めて、寒い中、10分近くお話を伺いいたしました。
 関西の方であるはずなのに、東京の山の手の奥様のような歯切れのいい口調で、私にとっては心地よく、ずっと話していたい気持ちになっていました。パワーをチャージ!
 もう大丈夫です! 楽しい会話のあと、一人で歩いているうちにすっかり体が冷えてしまったので、ツマガリの上にあるカブトヤマというカフェにお邪魔をし、ウィンナコーヒーをいただきました。


 そこでも大変親切な出会いがありました。
お客様の中に、結婚後甲陽園に来られたご婦人がいらっしゃって、甲陽園西山町がまだ住宅街になる前のことをご存知でした。
 その方がわざわざ自宅に戻られ、重い資料を持ってきてくださり、初対面の私にお貸しくださいました。
 今回出会った方々にはお話や情報とともに、ご提案などもいただきました。
「播半のお嬢さまがあの近くに住んでいらっしゃるから、訪ねてお話を伺ったらいい」「地主の○○のお嬢様は○○歳でお元気だから、聴いてみるといい」・・・
 こういう時にこそ、肩書きの必要性を痛感しました。いくら何でも無名の人間が、肩書きも、証拠資料もなしに、個人宅へ訪問できません(笑)
 夕方からの短い滞在時間でも、心が温まる時を過ごせました。   
播半の近くのマンションに住んでいるというご婦人、美容スルガの先生、カフェカブトヤマの店員のお二人、帰りに駅前派出所で親切にしてくださった若い警察官の方、皆さん本当にお世話になりました。


 お借りした大切な資料をお手元にお返しするために、5月の上旬の緑が美しい頃に、時間を作ってまた甲陽園を訪れるつもりです。
 苦楽園口は今、桜の絨毯が見ごろです。
イヤミじゃなく、本当に美しい桜の絨毯でした。桜もまだ残っていますが、今は阪急電車から見た「桜の絨毯」がオススメです。>


 瑤さんが甲陽園の坂道を登りお母様の面影を求めた旅、そしてそこで出会われたご婦人やカフェカブトヤマの店員の方々、心和む風景が目に浮かびます。瑤さんが探されている中村某という甲陽園の割烹旅館について、以前いただいたコメントからもう少し紹介させていただきたいと思います。

 



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おはようございます。

桜は満開の美しさの後にも、色々と楽しませてくれますね。
私も先日は近くの公園で桜の絨毯をワン連れでたのしみました。

ブログにも書きましたがお勧めのブラック クリアの
ポケット瓶を買いました☆~(ゝ。∂)ウイスキーは食後に
いただく飲み物ですよね?!眠れない時のナイトキャップに
良いと思いました^^

[ ショコママ ] 2015/04/10 7:55:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

あの瓶はまだ、買ったばかりです☆~(ゝ。∂)
ウイスキー初心者なので、まだあります^^

確か「シカゴ」だったと思います。日本でいろいろと
不便で困ったこともおありだったのですが、日本での活躍が
目に止まったとか・・・エリーの抜擢が、彼女の
運命を変えたようですね\(^^@)/可愛らしい方ですね!!

[ ショコママ ] 2015/04/10 11:56:44 [ 削除 ] [ 通報 ]

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甲陽遊園地の大すべり台を楽しんでいた河野多恵子(『みち潮』より)

 学習研究社『現代日本の文学 第五十巻』に掲載されている河野多恵子年譜によると、「昭和8年大阪市立日吉小学校に入学、昭和11年の夏休み、阪神香櫨園の居宅に移る。」と書かれています。

 日吉小学校は調べてみると、明治7年創立、今年140周年を迎えた、由緒ある小学校でした。

 『みち潮』で、少女は日吉小学校が夏休みに入り、秋になっても、もうこの学校には来ないのだと感傷に浸っています。
<一方では、少女の心は今度住むことになった郊外へ飛んでもいた。少女は以前に、そこへ二、三度家族と遊びに行ったことがある。海に臨み、山も近く、双方を繋ぐ洲の多い川の両側には、美しい松並木の芝生の土手が続いていた。>


描かれているのは美しい夙川の風景です。


<川上の山裾には、日本一高いすべり台で有名な遊園地があった。少女は帰りを強いる親たちに、「もういっぺんだけ」と言い置くなり、春の西日を受けて聳え立つ、そのすべり台へ駆け寄った。少女はその時の激しい未練が蘇るような気がした。少女はまた、夏、松並木の土手を行くにつれて潮の香を知り波音が次第に近くなるときの心のときめきを、潮に濡れたゴムの海水帽の匂いと一緒に思い出した。>
 川上の山裾にある日本一高いすべり台とは、一瞬香櫨園遊園地にあったウォーターシュートかと思ったのですが、その頃は既に無くなっていたはずです。


よく考えると、甲陽遊園地の大すべり台のことでした。

 


回想図では大つり橋の下側にあります。


甲陽園は大正7年、「甲陽土地」が甲陽地区を買収し、レジャー施設を建設したのが始まりです。「東洋一の大公園」と銘打ち、遊園地、温泉、劇場、そして映画スタジオまで内包する施設でした。


しかし、昭和大恐慌を機に遊園地は衰退し、昭和12年には撮影所も閉鎖され「甲陽遊園地」の歴史は幕を閉じたそうです。


(写真の右側に甲陽遊園地は広がっていました。)


 したがって河野多恵子は大すべり台を楽しんだのは閉園寸前のことだったようです。


甲陽遊園地が登場する文学作品をみつけたのは、この作品が初めてです。



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西宮にあった遊園地と文学というテーマも面白そうですね。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2014/08/20 20:57:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

なるほど、どの程度みつけられるかわかりませんが、注意しておきます。

[ seitaro ] 2014/08/20 21:24:38 [ 削除 ] [ 通報 ]

よく見つけて来はりますね。

[ akaru ] 2014/08/21 13:55:41 [ 削除 ] [ 通報 ]

はい、これはまったく偶然でした。曽野綾子さんの『遠来の客たち』が掲載されている現代日本文学全集に河野多恵子さんの作品も掲載されており、ついでに読んでいるうちに見つけました。ラッキーです。

[ seitaro ] 2014/08/21 18:01:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

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宮本輝『にぎやかな天地』甲陽園から甲山森林公園(アンネのバラ教会に寄道)

『にぎやかな天地』第六章では発酵食品の一つとして鰹節が取りあげられ、聖司は鹿児島県枕崎の丸久鰹節店の取材に行きます。

その帰り、丸久鰹節店の主人夫婦が勧めてくれた鰹節を母と姉に味見させるため、伊丹空港から甲陽園の実家に戻ります。


 実家の鰹節削り器に残っていた五センチ四方のかけらを蛍光灯の光に透かしながら「ルビー色のお星さまって感じやなァ…」と感嘆した聖司は、思い立ってルビー色の星を見ようと甲山森林公園へ向います。
<妙に息苦しくなってきて、聖司は、五センチ四方ほどの鰹節を拳に握りしめ、家から出た。空気は澄んでいて、星がいつもより多かった。
 聖司は、きっとこんな夜は、甲山森林公園からの夜景が美しいことだろうと思い、坂道を歩き始めた。>

    
この坂道の入口あたりツマガリの甲陽園本店があります。


<坂道をのぼり始めてニ、三分ほどたつと、甲陽園駅に電車が入ってくる音がした。ここから料理旅館の「播半」までの道がきついのだ。そう思うと、聖司の行き足が鈍った。

ふいに億劫になり、家に帰ろうかと立ち止まったとき声をかけられた。
いま駅に着いた電車から降りて来たらしい大前美佐緒が近づいて来た。
美佐緒は、大きな包装紙で何重にも巻きつけた丸い筒のようなものを大事そうに持っていた。「お散歩ですか?」と美佐緒は言った。
「甲山森林公園で星を見ようかと思って」と聖司は応じ返し、掌のなかの小さな鰹節を見せた。「ルビー色の星です。」>
なかなかいいシーンですが、駅から少し坂道を上がった、しゃん亭のあたりのようです。


ちょっと逸れますが、しゃん亭から北側の急な坂道と階段を登ったところに「アンネのバラの教会」があります


最近、小川洋子さんの『アンネ・フランクの記憶』を読んで、彼女にとって「アンネの日記」とは最初に言葉で自分を表現することの原点になった作品だったと述べられており、関心を深めていた私は、急な坂道をあがって訪ねてみることにしました。


今はアンネのバラが満開でいい香りを放っています。

「アンネのバラ」はベルギーの園芸家ヒッポリテ・デルフォルヘ氏の手によって1955年に作出されたもので、アンネの父オットー・フランク氏と出会い、アンネのために彼らが持っていた最も美しい種類のバラの一つを捧げたことに始まるそうです。

 


http://www.roseraie.jp/knowledge/annefrank.html

 
 

日本各地で育てられているそうで、私もウィリアム・メレル・ヴォーリズが一柳満喜子さんと結婚式を挙げたチャペルのある明治学院大学を訪ねた時に、記念館の前で育てられていたのを覚えています。

さて甲陽園通りに戻ります。


<そうしながら、聖司は美佐緒が自分と一緒に甲山森林公園への急な坂道を歩き出しているのに気づいた。
「これを持って、どこへ行くんです?公園に?」「ええ、きょうは暖かいし、空気も澄んでいるようですから、久しぶりに星を見ようかなっと思って」「今夜は、和歌山の沖のほうまで見えますね」>


甲山大師道を播半跡地の前まで上がってくると見晴らしが開けてきます。
<播半の前には、タクシーが五台停まっていて、門から出て来た客たちがそれに乗り込んでいた。>


このあたりにタクシーが停まっていたのでしょう。



アンネのバラの教会
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甲陽園から苦楽園口まで歩いて通った道@(宮本輝『にぎやかな天地』)

 宮本輝『にぎやかな天地』では、祖母が聖司のためにエメンタル・チーズを買いに、離婚したときに残してきた子供、大前彦一が経営する苦楽園口の「トースト」まで三十二年前からずっと、歩いて買いに行っていたことが語られます。


 それを知った聖司も苦楽園口駅からほんの少し夙川駅のほうに下ったところに並ぶ住宅街の細道を入ったところにある「トースト」を訪れ、大前彦一の息子道明の妻美佐緒から話を聞きます。


<「私がお店を手伝うようになってすぐのころですけれど。五月の半ばやのに真夏みたいに暑い日に、そのおばあさまがチーズを買いにお越しになったんです。もう異常なくらいに暑い日で、おばあさまがチーズを買って出て行かれて、私、用事があって店の車でゴルフ場の近くまで行こうとしたら、坂道を甲陽園のほうにゆっくりのぼっていく姿が見えたもんですから、車を停めて、お送りしましょうか?って声をおかけしたんです。遠慮なさったんですけど、私が何度かお薦めしたら、やっと車に乗ってくださって…..」
「へえ、車で送ってくださったんですか」
「はい甲陽園駅の前まで。車ですからほんの五、六分ほどでしたけど、地震の被害はどんなものやったのか、とか、誰も怪我はしなかったのか、とかをお訊きになりました」>

 甲陽園駅近くの実家から苦楽園口の「トースト」まで祖母が歩いて通ったという道を私も歩いてみました。その道は劇場版『涼宮ハルヒの消失』に描かれたシーンとどうしても重なってしまいます。


実家は現在マンション建設中の旧若江邸跡の近くにあり、阪急甲陽線沿いの道を歩いて苦楽園口に向います。

この道はキョンが走った道でもあります。

 


長門の住むマンションを横目に見て更に南に下ると水道路踏切です。

 

 

 さて苦楽園口へ歩いた坂道とは、次のような急勾配という表現があり、水道路踏切は渡らずに夙川学院正門前を通る甲陽線北側の坂道のようです。


<甲陽園から苦楽園までの坂道は、大地震のあと何度も徒歩で行き来していたし、以前にも、たったの一駅のために電車を使う気になれなくて、歩いたこともあった。
自転車は、苦楽園からの昇り道がつらいので高校生のときは使わなかったが、小学生のときはどっちが速いか友達と急勾配を自転車で競ったりしたんものだった。>
 この『にぎやかな天地』の坂道も『涼宮ハルヒの消失』の舞台となっており、プランツプランツや夙川学院(光陽園学院)が登場します。


更に苦楽園口に向って歩いて行きましょう



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宮本輝『にぎやかな天地』主人公聖司の甲陽園の実家は何処?

 主人公船木聖司の実家は阪急甲陽園駅の近くにあり、父親を事故で早くに亡くした家族は、祖母の篤子、母の路子、姉の涼子と暮していました。


祖母は聖司が25歳の時亡くなり、震災後の母は夙川駅と苦楽園口駅のちょうど中間あたりにある守口医院の看護師をしており、姉の涼子も看護師という家族です。


『にぎやかな天地』第一章では阪神淡路大震災での甲陽園、苦楽園口の様子が「甲陽園自治協議会」、「越木岩自治会」の記録とともに、詳しく描かれています。
<大地震が起こった翌日の真夜中に、京都からやっとの思いで実家に辿り着いたとき、祖母は甲陽園小学校に設置された避難場所にいた。母と姉は、当所は同じ避難場所にいたが、それぞれ徒歩で、自分の勤める病院に行き、緊急医療チームの一員としてほとんど不眠不休の活動にあたっていたのだ。
 聖司と祖母が甲陽園駅西側の、半壊した家に戻ったのは一月末で、自治会の人々に手伝ってもらって二階の家具などをすべて一階に移し、祖母と聖司がなんとか眠れる空間を作ると、聖司は自治会の青年団員として復興作業に従事した。>

阪急甲陽線の東側に避難所となっていた甲陽園小学校があります。


<電車が甲陽園駅に入ってくる音が聞こえたので、聖司は自分の腕時計を見た。最終よりも一つ前の電車だった。>

聖司の実家は電車が駅に入る音が聞こえるくらいのところです。

写真のオレンジの赤松バレエ学園より更に、甲陽園駅寄りにあるのでしょう。

 

甲陽園駅西側は甲陽園若江町であり、その町名に名を残す広大な旧若江音次郎氏邸がありましたが、ここも取り壊されマンション建設が進んでいます。

この左手の坂を少し上がったあたりが聖司の実家のある場所でしょうか。


<いまは、一階の部屋は、たまに帰ってくる聖司の部屋兼物置きのようなものと化している。聖司は、暖房を入れるほどではないにせよ、南側の国道2号線あたりよりもかなり標高の高いところにあるせいか、ふいに冷え込んでくる甲陽園の初冬が好きだった。>
と甲陽園の実家の様子が描かれていました。

 

 伊丹市で阪神淡路大震災を被災され、現在も伊丹市に住まれる宮本輝氏ですが、甲山から香櫨園に至る夙川の風景、震災時の西宮の風景は、輝氏が西宮市在住ではなかったのかと感じさせるような描写で、いくつかの小説に登場します。



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写真の4作品、どれも以前に読了しています。
鎌倉の銭洗弁天近くに『モーツァルト』という小ぶりなカフェがあり、そこへ行った際に当時のご主人に【錦秋】に出てくる同名の喫茶店の話をしましたら、ちゃんとご存知でした。

[ せいさん ] 2014/05/09 18:44:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

『錦繍』にでてくるご夫妻で経営している喫茶「モーツァルト」、残念ながら香櫨園にはそれに似た喫茶店はみつけることができませんでした。鎌倉の「モーツアルト」どんな喫茶店、雰囲気がありそうですね。

[ seitaro ] 2014/05/09 19:46:58 [ 削除 ] [ 通報 ]

にぎやかな天地は以前読みました。主人公は私のことじゃないかと思うくらいに設定されていて驚きを感じたくらいです(笑)
話中の描写では苦楽園から甲陽園に至る坂道がものすごく短距離に思えましたが、実際は結構ありますよね。
GWに甲陽園に帰省しましたが、すでにライオンズマンションの躯体が立ち上がってきており、相当な圧迫感がありました。

[ がっさん ] 2014/05/23 17:28:58 [ 削除 ] [ 通報 ]

主人公はなかなかロマンチックな経験をしますが、羨ましいところです。工事が始まると、速くて、あっという間に景色が変わってしまいます。聖司の家はきっと若江町にあったのだろうと想像しています。

[ seitaro ] 2014/05/23 17:35:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

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宮本輝『にぎやかな天地』を再び歩く

 私が3年前、文学散歩のブログを始めて最初の題材としたのは甲陽園から苦楽園口、甲山の風景が描かれている宮本輝『にぎやかな天地』でした。

(上の絵は甲陽園駅)

 

「にぎやかな天地」は2004年から2005年にかけて読売新聞に連載された作品ですが、その舞台となった西宮の風景は、小説に描かれた頃から、私が2011年にその舞台を訪ねた時、更に現在へと、急速に変化しています。

坂上楠生画伯の挿絵を参考に、今回あらためて、その舞台を訪ねてみました。


 主人公船木聖司は編集の仕事をしており、京都市左京区の地下鉄烏丸線「松ヶ崎駅」から歩いて1分にあるワンルームマンションの一室を住居兼仕事場にしています。月に一度阪急甲陽園駅のすぐそばにある実家に、自分の四輪駆動車で帰るのですが、途中通る大師道の「播半」のお話がでてきます。
<茨木インターを過ぎてすぐに中国自動車道のほうに入り、宝塚インターで降りて、逆瀬川の川べりを少し走り、六甲山系への曲がりくねった道を行くと、昔から名門と称されるゴルフ場の横を通って、さらに昇ったり下ったりする甲山森林公園の横の道を甲陽園駅まで速度を落として進んだ。
 途中に「播半」という有名な料理旅館がある。>


Google Earthで航空写真を見ますと、左上の北山貯水池からうねうねと右下に下がって行く道が大師道で、右下の土色の部分がマンション建設中の播半跡地です。


現在既にそこには巨大マンション群が完成していました。

<創業して半世紀にもなる和風の、広い庭に幾つもの棟を持つ旅館だが、宿泊せずに料理だけを目当てに訪れる客も多い。棟のなかには、どことなく中国風の白い楼門を持つものもあって、聖司はこの播半という空間が好きだった。>


昭和11年の吉田初三郎の鳥瞰図にも播半が詳しく描かれています。

中国風の白い楼門とは清風門のことのようですが、文化財としても価値のある播半の門や一部の建物は、丹波市山南町の牟三荘芸術村に移築されています。
http://sunnyside-nn.net/musansou/

 

「はり半の自然を残そう!」と立ち上がられた‘はり半跡地開発問題対策委員会’も昨年建設差し止め訴訟が敗訴に終わり解散されたそうです。

 

<子供の頃、阪急電鉄の甲陽線の甲陽園駅に近い家から甲山大師道をのぼって、播半の前をさらにのぼり、甲山森林公園のあたりで遊んだものだが、一度だけ門のあいている播半の庭に忍び込んだことがあった。みつからないように庭木の陰に隠れて、苔の生えた細い径を這って進むと、ふいに目の前が展けて、神戸の海だけではなく、遠くに島が見えた。あとになってそれが淡路島だと知った。>


大師道を少し上ると、昔からの箪瓢橋があります。

そこから更にしばらく上ると播半がありました。

淡路島が見えたという播半跡付近からの現在の眺望です。

 

巨大マンション群を横目に見て、もう少し上がりますと東山大師道公園という小さな公園スペースに、播半の赤蔵と茅葺き門が移設されていました。

 


はり半跡地開発問題対策委員会のサイトに掲載されていた2008年春の光景です。
赤蔵が右下の方に写っています。

上の写真は西宮文学回廊『にぎやかな天地』より借用した在りし日の赤蔵です。

http://nishinomiya.jp/bungaku/work/work-n2.html

 

 

公園には播半については何の掲示物もなく、モニュメントとなってしまった門からは昔の重厚さも失せ、私には空しい風情のように感じられました。

 



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わたしも播半の門を観るにつけ何の意味があるのやらと感じてしまいます。

[ 二埜り音 ] 2014/05/07 1:23:10 [ 削除 ] [ 通報 ]

文章はできるだけ感情をおさえて書かせていただきましたが、本当にそのように感じております。

[ seitaro ] 2014/05/07 21:36:23 [ 削除 ] [ 通報 ]

マンション、もう完成したのですね!
昨年、たまたま通りかかった時は建築中で「あ〜ぁ、ここが…」って寂しく眺めました。
↓雪景色の画像、とっても素敵。古都・京都や金沢の風情。

昔、編集の仕事をしていた時“あの”播半がフリーペーパーと組んでイベントをしたことがあり、
とても驚いたことを今も覚えています。
残念ながら、担当ではなかったので取材はできませんでしたが…
強引にでも、同行させてもらっておけばよかった(T_T)
長々、失礼いたしました<(_ _)>

[ Lady J ] 2014/05/08 9:02:38 [ 削除 ] [ 通報 ]

最近甲山に行く機会が多く、大師道を車で何度も通りました。朱色の建物には気づいていましたが、何だろうなあと思いながら通り過ぎていました。赤蔵と茅葺き門は幡半を象徴するものだったのでしょうか。茅葺き門は何となくですが、赤蔵は昔のイメージが思い出せません。

[ さとっさん ] 2014/05/08 14:57:39 [ 削除 ] [ 通報 ]

Lady Jさんコメントありがとうございます。私も播半の内部は見たことがない口で、も少し長く残されていればと残念です。

[ seitaro ] 2014/05/08 20:32:44 [ 削除 ] [ 通報 ]

さとっさん 私も子供の頃何度もこの道を上っていながら、はっきりした記憶がありません。西宮文学回廊に写真がありましたので、本文に追加いたしました。

[ seitaro ] 2014/05/08 20:45:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

seitaroさん、写真をじっと見つめていましたが、記憶がもどりません。あんな大きなものだから見ているはずだけど、歳をとって忘れたのでしょう。
写真の紹介ありがとうございました。

[ さとっさん ] 2014/05/08 23:31:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

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昭和11年の甲陽園(吉田初三郎西宮市鳥瞰図より)

 吉田初三郎の鳥瞰図から、甲陽園を覗いてみましょう。


甲陽園の開発は大正7年に、本庄京三郎の設立した「甲陽土地」により始められました。大正9年には「東洋一の大公園」と宣伝された「甲陽遊園地」が開園し、温泉、旅館などを有する一大商業ゾーンとなり、大正13年頃には甲陽線が開通しました。


(上の写真は大池に飾られている陶板の絵)

 大社村誌には次のように書かれています。
<又大池附近不毛の丘阜を開拓して池の浅所を埋め以て広大の平地を作り、グラウンド、歌舞劇場、花壇、動物園を築造し、事務所、倶楽部、旅館、温泉浴場を新築し且上水道、電燈等を布設す。東本願寺大谷法主、横綱大錦、名優中村鴈次郎、喜劇王曾我廼家五郎其他阪神の縉紳相踵で別荘、居宅を建築し、東亜キネマ亦撮影所を設備し、荒涼の地は一変して一大歓楽境を現出するに至り甲陽園の名声世に膾灸せらる>
 当時、はり半、つるや、花月、子孫、水月などの料理旅館も開業されましたが、昭和大恐慌の煽りで娯楽施設は次々と閉鎖してしまいました。


吉田初三郎の昭和11年の鳥瞰図で甲陽園を見ると、既に閉鎖されていたと思われますが、阪急甲陽園駅のあるあたりの横に、少女歌劇や映画の上映がなされた甲陽劇場の建物が描かれています。


昭和9年に出版された北尾鐐之助『近畿景観』の「甲山頂上」では衰退した遊園地の様子が書かれていました。
<それでも遊園地だけは、入園料を徴して、ボートや、揺動円木や、鍬韆などに多くの子供たちを遊ばせているが、一時女優などの盛んに出入りをした、甲陽劇場や、東亜映画のスタヂオなどは、すっかり壁の落ちた残骸を、怪しく白昼にさらけ出している。そこ等の西洋料理店へ入ってみても、コーヒー一杯に三十分も待たされる。雨漏りのしみでよごれた周囲の壁紙に、煤けた岩山の写真などが傾いてかかっている。>
更に昭和大恐慌の厳しい様子まで書かれていました。
<いま甲陽園一帯約四十一万坪の住宅地と、苦楽園、甲東園にかけて、約千二三百戸の家が立っている。いずれも立派な別荘、料理店、旅館、住宅である。甲陽土地会社の土地は、以前景気の良い時は、いまの甲陽温泉のある谷の中央地で、坪百五円で売買していた。劣等地も十円を呼んだ。それがいまでは、会社の整理がつくまで、土地の売買は停止されて、ただじっと、打ちのめされたような休憩状態に入っている。>
昭和9年、甲陽土地は会社の整理に入っていたようです。

 また鳥瞰図には甲陽浄水池からの川に沿って甲陽旅館、鶴家旅館が描かれています。


甲陽旅館には500畳の大広間があったそうです。


上は子孫ヶ池と鶴家旅館です。

ここを通っている川は、今やマンションに囲まれた側溝のような存在になっていました。


この川に大きなつり橋がかかっていたとは信じられないくらいです。


播半も大きく描かれています。


鳥瞰図でも谷川と橋が描かれていますが、大師道側に「番人小屋」「表門」「東・西蔵」「本館」、 谷川に「観合橋」、そして橋を挟んで東に「竹山亭」「新館」「舞台」「白雲居」「展望台」「千代の間」が点在し、数寄屋建築と、渓谷美あふれる庭園で有名で客室はすべて違う意匠だったそうです。

また、阪神山手の高台にあるため、ここから阪神の景色を一望することもできたそうです。


宮本輝『にぎやかな天地』でも次のように播半が登場します。
<創業して半世紀にもなる和風の、広い庭に幾つもの棟を持つ旅館だが、宿泊せずに料理だけを目当てに訪れる客も多い。棟の中には、どことなく古い中国風の白い楼門を持つものもあって、聖司はこの播半という空間が好きだった。子供のころ、阪急電鉄の甲陽線の甲陽園駅に近い家から甲山大師道をのぼって、播半の前をさらにのぼり、甲山森林公園のあたりで遊んだものだが、一度だけ門のあいている播半の庭に忍び込んだことがあった。みつからないように庭木の陰に隠れて、苔の生えた細い径を這って進むと、ふいに目の前が展けて、神戸の海だけではなく、遠くに島が見えた。あとになってそれが淡路島だと知った。>
残念ながら播半は廃業し、広大な庭園は無くなってしまい、現在はマンションに変わってしまいました。

(上の写真は工事中の時の播半跡地)



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30代〜50代の頃です。仕事の関係で子どもを引率して森林公園、甲山によく行きました。いつも甲陽園から歩いていたので、はり半の辺りはよく覚えています。そのはり半がなくなったのを知ったのは、つい最近の西宮ブロガーさんの記事からでした。
 今読ませていただき、宮本輝の小説の一部に「播半の庭に忍び込んだ」と紹介がありましたが、引率していた子どもが、全く同じ事をしたのを思い出しました。

[ さとっさん ] 2014/03/28 21:11:25 [ 削除 ] [ 通報 ]

↑ヒヤッとしましたが、誰でも忍び込みたくなりますよね。なんともいえないおもむきがありましたから。

[ さとっさん ] 2014/03/28 21:19:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

私も小学校の時、甲山登山に大師道を通ってよく行きました。残念ながら忍び込めず、成人してからも正規料金を払って食事したこともなく、美しい庭を見れなかったことが悔やまれます。

[ seitaro ] 2014/03/28 21:37:18 [ 削除 ] [ 通報 ]

きょう甲陽園に行ってきました。つるや旅館周辺を歩き、昭和20年前後の甲陽園を知る方を探す訪問でした。↑の写真にある側溝のようになった川もありました。
母親と同世代の本庄町のご婦人、郵便局のみなさん、TSUMAGARIの2Fの女性従業員の方、駅前の写真屋さんのご夫婦・・・ありがとうございました。
また、郵便局近くの小さな公園で出会った紳士の方には、いろいろな話を伺いました。感謝の気持ちでいっぱいです。
甲陽園での母親の足跡を見つけることはできませんでしたが、甲陽園に行ったことは無駄ではありませんでした。

[ 瑤 ] 2014/04/04 0:22:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

昔の風景を思い浮かべ、お母様の足跡を尋ねる一日、なんと素晴らしい一日を過ごされたことでしょう。甲陽園駅の西側の若江町の旧若江音次郎邸のマンション工事も始まり、どんどん昔の風景は失われていますが、お会いされお話された多くの住民の方々がこの街の落ち着いた雰囲気を守っていかれること思います。 瑤さんから頂いたコメントから、その一日を想像していると、まるでNHKのドキュメンタリーを見ているようで、感動いたしました。

[ seitaro ] 2014/04/04 6:29:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

偶然ブログを拝見して懐かしく読ませていただきました。当方、甲陽園駅前で生まれ育ちました。赤井さん宅のどデカイ松ぼっくりも懐かしい話です。セミ取りのため庭師のおじさんには何回か庭に入れていただきました。西山町側の教会の中から駅前に至る川でも沼エビや沢蟹、ザリガニなどを取りました。ヒルなんかもいましたが(笑)。駅前にあったあさくら寿司さんが、川でアヒルを飼っていましたね。丸長前のマンションができる前には池があって、そこでもザリガニ取り合戦をしたものです。
また、ご近所の縁もあって、大学時代4年間ずっとはり半でアルバイトをしていました。就職のため故郷を離れて四半世紀が経ちますが、昭和天皇がお泊りになった千代の間をはじめ花衣や絵島、井筒など新館の各部屋、展望台からの眺め、すべてが懐かしい思い出です。当時の料理長が市役所の近くで割烹を営まれていると聞き、一度訪問したいなと思う今日このごろです。
駅至近の実家も引っ越すことになり、ますます遠ざかる故郷です。

[ がっさん ] 2014/04/30 17:20:23 [ 削除 ] [ 通報 ]

がっさん、コメントありがとうございます。甲陽園のお話、たいへん詳しいので驚きました。 瑤さんの探されている旅館もご存知かもしれませんね。はり半の跡地は巨大マンション群にかわってしまいました。先日訪ねると門だけがモニュメントとして帰ってきておりました。内部の様子までよくご存知なのでうらやましいです。元料理長の割烹は立峰だと思います。一昨年お昼に行かせていただきましたが、ライフのはり半の写真がありました。
今度宮本輝「にぎやかな天地」の再訪を始めますので、はり半跡地の現在の様子もまたご紹介させていただきます。

[ seitaro ] 2014/04/30 20:30:00 [ 削除 ] [ 通報 ]

時々こちらのブログに来ては、皆さんのお話を楽しく拝見させていただいております。
 
甲陽園の町を訪れて早一年になりました。
実は38年ほど前に一度母のお友達を探しに、父の運転する車で甲陽園に行ったことがあるのです。
甲陽園駅からつるや旅館に向かう道の途中で左折し、少しした場所で母が車をとめるように言いました。母だけが車を降り、細い坂道をのぼり姿が見えなくなりました。
西山町2丁目辺りなんでしょうか。ただそこが昔のお友達の家の近所なのか、母が戦時中に預けられていた中村なんとかという割烹旅館のあった場所の近くだったのかはわかりません。 
「つるやさんの近く」という言葉から、去年私は子孫周辺の本庄町を中心に歩いたのですが、ほんの少しズレていたようです。
 
もう少しちゃんとしたものがあれば、資料探しもでき一気に調査もできるのでしょうけれども、なにせ何もかも曖昧で(´-`)
この一年間ほとんど何も進展せず。甲山に向かって道の左側で急な上り坂があったことを思い出したのと、甲陽園に引っ越そうかとマンションを検索していたせいか、ネットをやるとやたらマンション広告が表示されるようになったことぐらいです(◎_◎;)
あっ、それから…母は甲陽園線で通学していたようですが、その母から一度も夙川の桜並木の話やお花見の話は不思議に聞きませんでした。戦後タカラヅカを観に行った話やタカラヅカの狸御殿の話はしていましたが。
はて昭和20年前後の夙川の桜やお花見事情はどうだったのでしょうね。
 
西宮甲陽園郵便局の局長のお父様がお元気なうちに、また甲陽園に遊びに行きたいです。

[ 瑤 ] 2015/04/01 16:36:26 [ 削除 ] [ 通報 ]

瑤さん、お久しゅうございます。読ませていただいて甲陽園を懐かしまれるお気持ちがひしひしと伝わり、何とかお手伝いできないものかと思ってしまいます。甲陽線を挟んで本庄町の反対側にある若江町の開発者旧若江邸跡地にもマンションが完成しました。目神山の播半跡地に完成したマンションもまだ空いているようで広告をみかけます。
 私がまだ小学生だった昭和30年代から40年にかけて、夙川には現在ほど桜はなかったように記憶しており、花見が盛んだったのは満池谷、ニテコ池の周りでした。お母様の時代にはまだ夙川のお花見はなかったのではないでしょうか。
まだまだ瑤さんの懐かしいお話をお聞きできることを期待しております。

[ seitaro ] 2015/04/01 21:12:17 [ 削除 ] [ 通報 ]

昨日夕方、甲陽園を訪れました。
甲陽園西山町2丁目の急な坂道をのぼりながら、いろんなことを考えていました。
戦中戦後の甲陽園のことは、やっぱりほじくり返さない方がいいのかな…とまで思ったりして、だんだん悲しい気持ちになり、
もう帰ろうと思い帰りかけました。
 
そんな中でも、今回も素敵な方々と出会いがありました。
 
甲陽マンションの辺りでウォーキング中のご婦人を呼び止めて、寒い中、10分近くお話を伺いいたしました。
関西の方であるはずなのに、東京の山の手の奥様のような歯切れのいい口調で、私にとっては心地よく、ずっと話していたい気持ちになっていました。パワーをチャージ!
  
もう大丈夫です! 楽しい会話のあと、一人で歩いているうちにすっかり体が冷えてしまったので、ツマガリの上にあるカブトヤマというカフェにお邪魔をし、ウィンナコーヒーをいただきました。
そこでも大変親切な出会いがありました。
 
お客様の中に、結婚後甲陽園に来られたご婦人がいらっしゃって、甲陽園西山町がまだ住宅街になる前のことをご存知でした。
その方がわざわざ自宅に戻られ、重い資料を持ってきてくださり、初対面の私にお貸しくださいました。
 
今回出会った方々にはお話や情報とともに、ご提案などもいただきました。
  「播半のお嬢さまがあの近くに住んでいらっしゃるから、訪ねてお話を伺ったらいい」「地主の○○のお嬢様は○○歳でお元気だから、聴いてみるといい」・・・
 
こういう時にこそ、肩書きの必要性を痛感しました。いくら何でも無名の人間が、肩書きも、証拠資料もなしに、個人宅へ訪問できません(笑)
 
夕方からの短い滞在時間でも、心が温まる時を過ごせました。   
播半の近くのマンションに住んでいるというご婦人、美容スルガの先生、カフェカブトヤマの店員のお二人、帰りに駅前派出所で親切にしてくださった若い警察官の方、皆さん本当にお世話になりました。
 
お借りした大切な資料をお手元にお返しするために、5月の上旬の緑が美しい頃に、時間を作ってまた甲陽園を訪れるつもりです。
 
 苦楽園口は今、桜の絨毯が見ごろです。
イヤミじゃなく、本当に美しい桜の絨毯でした。桜もまだ残っていますが、今は阪急電車から見た「桜の絨毯」がオススメです。
 

[ 瑤 ] 2015/04/08 16:06:53 [ 削除 ] [ 通報 ]

瑤さま 本当に心あたたまるお話ありがとうございます。西宮に暮す人々の優しい心遣いが嬉しくてたまりません。お願いですが、 もっと多くの人達、できれば今回お会いされた甲陽園の人達に何とか伝わるように、いただいたコメントをこのままコピーさせていただき、私のブログ記事にさせていただけないでしょうか。よろしくお願い申し上げます。

[ seitaro ] 2015/04/08 19:40:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

seitaroさま
 
わたくしのコメントなら、コピーは構いません。どうぞ \(//∇//)\
 
(ブログ汚しにならなければよいのですが・・・そこだけが心配です)
 
というか、いつもこの西宮ブログを使ってすみません。

[ 瑤 ] 2015/04/08 20:59:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

ありがとうございます。早速数日中に記事にさせていただこうと思います。もう一度甲陽園を歩いてみたいのですが、記事にするまでには間に合わないかもしれません。これまでいただいたコメントには、いつも心を動かされております。

[ seitaro ] 2015/04/08 21:18:01 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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