阪急沿線文学散歩

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甲山のジグザグ登山道はいつから?

 甲山は明治維新で官林となり、当時大きな樹木はなく、灌木が群生する程度の貧弱な山で、伐採は禁止されていました。

明治中期までにアカマツの植林が進み、大正初年頃には全域がマツ林として緑化に成功したとされています

上の大正初期の写真では、甲山の頂上に従来からのマツの古木が数本残り、その足元は一面の低木で覆われ、後継樹が生育しているのが窺えます。
 北尾鐐之助の『近畿景観』によると、昭和の初めまで保安林保護のため入山が禁止されていた甲山に入山が許され、北尾は甲山の北側の登山道から頂上へ登っています。

 そうする、私たちが子供の頃よく登った、神呪寺から頂上に登る南側のジグザグの登山道はいつ頃できたのでしょう。(上の図の黄色の矢印の道)

 昭和29年に、西宮市は市制30周年記念事業として、香櫨園から夙川を上り北山から甲山に至る総合公園計画を発表しています。
 昭和30年になって甲山が再三、新聞紙面を賑わしたようで、パボーニ誌に大石輝一氏が「甲山ブウム」と題して寄稿し、次のように述べています。
<第一報は甲山の頂上まで、ジグザグコースを作って頂上に展望台を建て阪神風景を一望に楽しもうという迷案。
 さて甲山第二報は頂上に平和の塔をコンクリートで作って建て、会員によって集められて平和祈願の署名を祝い込もうとする趣向であります。>
この時は大石輝一は甲山の開発に批判的で、
<甲山展望台も思い付きですが、文化市にふさわしい国宝仏が鎮座する結構な甲山大師の頭上で、ミーハー族におしっこでもされようなら目もあてられません。>と述べています。
その後、昭和31年には六甲山が国立公園に指定され、この頃甲山周辺を訪れるハイカーも増え、4月には西宮市婦人連合会によって山頂に「平和の塔」が建立されています。

おそらくこの時に、ジグザグの登山道も整備されたのでしょう。

さて現在の甲山頂上に登ってみますと、木が茂って山頂からの視界は遮られています。

山頂南側のパノラマ写真。

山頂北側のパノラマ写真。

 ところが頂上は大きな平地になって開けており、航空写真で見るとよくわかります。

不思議な平地ですが、これは甲山展望台構想の名残ではないでしょうか。
 当時、甲山を西宮観光の目玉として揺るぎないものにするため、南面にロープウェーを計画していたそうですが、自然保護団体や文化人の反対により挫折しています。おそらく同時に展望台建設も計画されており、それを見越して頂上を平地にしたのではないでしょうか。

 甲山は戦後しばしば発生した山火事により、禿山状態で、下からジグザグの道も見えていましたが、現在は木が茂り途中の視界もよくありません。



 この道、以前今村欣二さんが「甲山のイナズマ模様」と題して、ブログにあげられていました。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061455/p10753632c.html


 昭和58年発行、文教住宅都市宣言20周年記念『市民文芸集』の表紙の絵、甲山に今村さんがイナズマと呼んだ、ジグザグ道が描かれています。
 絵の作者は、夙川小学校でも教えられ、淡路島に芸術空間「アート山大石可久也美術館」を築いた洋画家、大石可久也氏です。
 この文芸集に今村さんの「甲山」と題した詩もおさめられており、その一部を抜粋させていただきます。

甲山に登ると
西宮の屋根に
またがった気分になる
サラサラと光る家並みがある
水がある
緑がある
妻がいる
子どもらがいる
私の住む家がある

私も遠足で山頂に登って、自分の家はどこにあるのかと探していたことを思い出します。



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甲山神呪寺の開祖・如意尼と如意輪観音坐像

 北尾鐐之助『近畿景観』の「甲山頂上」には神呪寺の開祖・如意尼公のお話が簡潔に述べられています。

<如意尼公は淳和天皇第四の妃で、延暦二十二年(803年)に出生された。丹後余佐郡国府籠宮の祝部直海部(はふりあまでのあたい)の女(むすめ)、真井御前(まないごぜん)のことである。尼公のことは随分委しく小説のように書き残されている。二十歳で東宮妃となられたが、世に稀な美しい方であった。「甲山縁起」に、尼公の美しさを描いて
……儀容端麗にして玉をのべたる肌の光、あたり輝けり……沐浴したまはざれども、身體垢つくことなく、薫りを用いたまはざれども、異香自然に薫れり。常に肉味を嗜まず、ほどこしを行うを好み、如意輪尊の真言を念誦して日課とし給う。
と書いている。今の神呪寺の本尊である如意輪観世音は、弘法大師が、尼公のあまりの美しさに震感を催し、その姿をモデルにして、花顔柳腰を、そのまま写し奉ったというのである。>

 国指定重要文化財の像は神呪寺の本尊で桜財寄木造り彩色、像の高さ98.7cmで、河内の観心寺・大和の室生寺の観音と共に日本三如意輪と言われています。


 また、この伝承は鎌倉時代・元亨2年(1322)に京都東福寺の僧虎関師錬が撰進した『元亨釈書』の如意尼の伝に、詳しく出ています。
 しかし、西宮市教育委員会の調査では、如意輪観音坐像のもつ美は平安初期のものではなく、まさしく藤原期のもので、製作技法もまたそれを示しているので、弘法大師の年代から
約100年おくれた10世紀の中ごろの製作と推定されています。

北尾鐐之助は真井御前に心をはせます。
<二十六歳で山に入って、三十三歳で亡くなられた。その一代の麗人の墳墓としては、いかにもわびしい。悵然として傍らをみると、貼札がある。曰く「雨は天から、涙は目から、松茸とる人盗みから」と、この山にも松茸が出るとみえる。現実の世界だ。赤松が美しい。>
 現実の世界に戻った北尾鐐之助は、面白くこの話を結んでいます。
昭和の初め、甲山に松茸が生えていたとは。



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昔はトロイデ型火山と考えられていた甲山

 昭和4年に刊行された北尾鐐之助著『近畿景観』の「甲山頂上」の章の冒頭からです。
<この夏から、甲山へ登るのを許されることになった。もっとも、いままでとて、登れば登れたのであるが、林区署で保安保護を名として、一般に入山を許されてなかったので、私もつい、山に入ってみようともしなかったのだ。ただ山のぐるりを廻って、不思議な、この塊状火山の甲のあたまをながめて、またどちらかへ下って行った。>

 ここで述べられているように、甲山は私の小学生時代までは塊状火山、すなわちトロイデ型(つり鐘状)火山と考えられていました。確か、小学校のテストでも出ていました。
 
 ところが、多分昭和40年ごろに、「甲山はトロイデ型火山」は間違いで、浸食されてあのような形になったと教えられ、一時は火山でなかったのかと思っていた時期もあったのですが、火山であったことは間違いありません。甲山ファンとして、誕生の様子を整理しておきます。

 参考文献は種々ありますが、今回は西宮市立総合教育センター編『西宮の自然ガイド@甲山の自然』からです。

1200万年ほど前、六甲山系の花崗岩を貫いて甲山火山が誕生します。
 噴き出した溶岩は安山岩であり、トロイデ型になる流紋岩質ほど粘り気がなく、かなり遠くまで溶岩は広がったと考えられており、コニーデ型だったのかもしれません。

 その火山活動も1000万年ほど前には治まり、次に風化や浸食が始まり、500万年以上の長きにわたり、削り取られた結果、火口付近の火道のあたりだけが残り、現在の形になったそうです。(上の図の一番下の鎖線)

 その後、300万年ほど前から100万年ほど前までは海に沈んでいたようです。

 ところが30万年ほど前に、日本列島各地が地殻変動をうけるようになり、六甲山は押し出されるように上昇し、この時代に、いたるところに断層ができたそうです。


 2万年ほど前の氷期には、海水面が100メートル以上下がり、大阪湾も干上がって陸地になりましたが、氷期が終わった1万年ほど前には、海水面が徐々にあがって甲山の麓まで海になり、その後、現在の国道171号線が海岸線になっていました。

平安時代の『梁塵秘抄』には、
“廣田より戸田へ渡る舟もがな浜のみたけへことづてもせむ”
とい歌が詠まれ、広田と戸田の間を舟で行き来していたことがわかります。

 このような歴史を調べていると、1万年単位で考えると、凄まじい気候変動があり、この先どうなって行くのかと考えてしまいます。



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甲山神呪寺の読み方

 西宮市の門戸厄神の東側に神呪町があるのをご存知でしょうか?


 ただ昭和10年の地図(左側が北)の地図を見ると、門戸厄神のあたりが甲東村の神呪部落となっており、位置が少し違います。


 渡辺久雄著『甲東村 −郷土研究の一例―』に、その発祥について述べられています。
<尤も今日の神呪なる文字を、カンノオと読ますことについては理由がある。これは明治七年五月の町村整理の際に、当時存していた神呪寺(じんじゅうじ)村と神尾(かんのお)村が合併され、文字は神呪寺村の神呪を採り、発音は神尾村の神尾(かんのお)を採ることによって、神呪村なるものが文字の上で出来上がったわけであった。故に古くは神呪寺村と神尾村とが存在していたのである。更に古く遡ると神尾村一村のようである。>
やはり明治時代まではシンジュジあるいはシンジュジと呼ばれていたようです。

 本来、神呪(「しんじゅ」あるいは「じんじゅ」)とは神秘な呪文(じゅもん)。陀羅尼(だらに)のことで、神呪寺はシンジュジと読ませたのでしょう。

 ところで、神呪寺村が甲山の神呪寺とは離れた場所になぜ出来たのでしょう。

 神呪寺発行の『甲山神呪寺史』によると、源頼朝が再建した中興時代は、七堂伽藍が完備し、壮大であったとしていますが、戦国末、天正年中(1573年)に荒木村重の反乱によって、その大部分の堂塔が焼き払われます。そして、
<文禄三年には太閤秀吉の検地によって寺領が武家支配となったので、寺は慶長四年(1599)やむなく神呪村へ下山し、その村の百姓を檀越として資糧を受け、ほそぼそながら寺の維持をして来た。隆盛であった昔の面影はさらになく、寺領どころか寺の存続さえも危ぶまれる有様となった。>
 ここには神呪村へ下山と書かれていますが、神尾(かんのお)村に下山し、そこに新たに神呪寺(じんじゅうじ)村ができたのではないでしょうか。

 神尾(かんのお)の由来については、『廣田神社を戴く』という意味に発すると、次のように説明しています。
<さていずれにしても、今日の神呪部落の前身は神尾であり、上ヶ原を最初の住地としていたものであり、上ヶ原が古く廣田神社の鎮座地であった縁から、この部落も『神』の字を戴き『尾』は『野』の転化であるとすれば、『廣田神社を戴く』というのが最初の地名の由来であったと思う。>

 また江戸時代に書かれた『摂陽群談』を引用し、神呪寺(しんんじゅじ)がカンノオジと呼ばれていた例を示しています。

<「感應寺、武庫郡神尾村にあり、神尾、感應並みに同音、山号摩尼山と称す。始号神呪寺」とあり、当時神呪寺が感應寺と書かれ、或いは文字はそう書かないまでも『カンノウジ』と呼ばれていたことがわかる。>

「シンジュウジ」が昔の呼び方と思っていましたが、江戸時代に神呪寺は「シンジュジ」とも「カンノウジ」とも呼ばれていたことがあったようです。




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甲山の神呪寺(カンノウジ)は元は「しんじゅじ」と呼ばれていた

 北尾鐐之助著『近畿景観』の「甲山頂上」の章からです。
北尾鐐之助は昭和の初めに、入山許可がでたことから、甲山頂上に登ります。

<いつもよく行く、山腹の神呪寺(しんじゅじ)から、頂上まではわずかに四〇〇米ほどの道である。入山許可とともに、寺では登山路を改修して、頂上には茶店の設備までをした。以前から、山の北東に面する中腹に一基の五輪塔が立っていて、そこまでは細い道がついていた。保安林として入山を禁じられてからは、道も草に埋もれて、この墓に賽する人もなく、何人の墓碑とも判らないが、或いはこれが、神呪寺の開祖如意尼公の墓ではないかというので、参考地として附近を新たに改修した>

 この時代、まだ甲山南面のジグザグに登る登山道はできておらず、北尾鐐之助は神呪寺から東側を廻り、甲山自然の家方面から頂上に上がる道で頂上に向かったようです。

 途中で見かけた五輪塔は、「神呪寺の開祖如意尼公の墓ではないか」と考えたようですが、行ってみると源頼朝の塚と書かれた石碑がありました。

鎌倉時代初期に源頼朝が廃れていた神呪寺を、梶原景時を奉行として復興したことに対して頼朝に関係の深い人たちが建てたそうです。

 ところで、北尾鐐之助は昭和の初めに神呪寺を「しんじゅじ」と呼んでいます。江戸時代に描かれた摂津名所図会にも「しんじゅじ」とふりがながつけられており、開山当時の名称は神呪寺H.P.によると「摩尼山、神呪寺(しんじゅじ)」だったそうです。

 ではいつからカンノウジと呼称するようになったのでしょうか。調べてみると、郷土史家の田岡香逸氏の発案だったようです。田岡香逸著『西宮地名考』の「甲山」の項に、次のように述べられています。
<ここで、寺名の神呪寺について考えてみよう。以前は、一般の人々はもちろん、寺でも音読みしてジンジュ寺と呼んでいた。わたくしは、いろいろ研究した結果、カンノ寺と読むのが正しいと考えるようになり、これを先住の老僧に話したところ、これが受け容れられ、広くカンノ寺と、称するようになった。しかし、これも音便転訛し、いまではカンノウ寺と呼んでいる。>
そして、カンノと読むべきという田岡説が詳しく述べられていました。

これで、(おそらく戦後)カンノウジを正式呼称とした経緯についてはっきりしたのですが、渡辺久雄氏の『甲東村 郷土研究の一例』を読むと、江戸時代にカンノウジと呼ばれていたこともわかり、事態は少し複雑になりました。次回はそのお話を。




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誰が名付けた“Helmet Moutain” 甲山の英語訳

 西宮のシンボルともいえる甲山。欧米人にはどう映って、どう呼んでいたか気になるところです。

(上の写真はニテコ池から見た甲山)

 先日神戸女学院講堂の定礎石を調べていると、「神戸女学院定礎式記念絵はがき」が昭和6年に発行されており、建設中の神戸女学院から見える甲山の写真がありました。

その説明書きは、“Helmet Mountain" from the Observatory platform 
と甲山を“Helmet Mountain”と呼んでいるのです。

この呼び名は、後にEdward Seidenstickerが谷崎潤一郎『細雪』の英訳版’The Makioka Sisters’を著わした時にも使っています。

『細雪』で幸子が芦屋の家から、妙子の見舞いに西宮の一本松の家へ車で行く場面です。
<幸子はそんなことを考えながら、遠くの空に甲山が霞んでいる夙川の堤防の上を走らせて行った。>
この文をSeidenstickerは次のように翻訳しています。
<The cab moved along the embankment. In the distance, Helmet Mountain rose through a spring mist.>

明治時代、Gordon Smithの‘The Japanese Diaries of Richard Gordon Smith’によると阪神間に住んでいた欧米人の間では‘Bismarck Hill’と呼んでいたそうですが、昭和になってからは‘Helmet Mountain’と呼ばれていたようです。




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甲山神呪寺の蓮の花が見ごろ

 今日は須賀敦子さんの取材に来られた方と甲山墓園を訪ねました。


写真は甲山墓園にあるカトリック大阪大司教区共同墓地です。


そのあと甲山の神呪寺に立ち寄りましたが、蓮の花が見ごろを迎えています。




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私も随分と前に参詣して見ました。きれいに育って広範囲に増えている様に見えますが・・・この画像見ていると心が癒されます
有難うございます。

[ チエリー ] 2017/07/24 23:24:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

コメントありがとうございます。今回は狙って行ったわけではないのですが、お昼前に行くと、蓮の花が咲き誇っており、ラッキーでした。

[ seitaro ] 2017/07/24 23:40:30 [ 削除 ] [ 通報 ]

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甲山神呪寺から見る初日の出

 明けましておめでとうございます。
 今年は、天気も良さそうなので、初日を楽しみに早朝から甲山登山です。
例年雲がかかっていて、山の端から昇る朝日はなかなか見れないのですが、今年は大丈夫でした。



しばらくすると、雲がかかりだしましたので、ラッキーでした。

ところで、
「高山から見るご来光は、お釈迦様が光背を負うて来迎するのになぞらえていったもので、信仰の対象は仏教。
初日の出は、豊作の守り神である年神が、初日の出と共に降臨すると信じられていたことから拝むようになったもので、信仰の対象は神道。」
という定義があるそうです。
 低山ではありますが、そうすると甲山神呪寺から見る日の出はご来光?

 アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」エンドレスエイトにも登場する甲山太師・神呪寺境内の鐘楼。

今日は多くの人が並んで鐘をついていました。

 
 帰りは甲山八十八か所巡りの石仏に新年のご挨拶をしながら、甲陽園目神山を通って帰ってきました。



山の向こうに先ほどの神呪寺の鐘楼や多宝塔が見えています。


途中大阪湾や、神戸港も見晴らせ、清々しい元旦でした。


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絵はがきにしたいくらいの初日の出です

美しいですね。

山から見下ろす街並みもいい感じです。

明石・加古川・姫路[ 姫路市 腰痛・肩こり 整体/カイロ クリニカルカイロしらい ] 2017/01/01 16:40:18 [ 削除 ] [ 通報 ]

ありがとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

[ seitaro ] 2017/01/01 20:30:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

2016年の日の出のブログを拝見し、
2017年の初日の出はぜひこちらに行こうと思いつつも、
土地勘のない場所への女性一人の登山は不安で断念しました。
でもこんなにお天気・気温に恵まれた年も珍しく、
勇気を出して行かなかったことを後悔しております。
 
ならば?ではありませんが、十日戎のきょう、
越木岩神社へ行って参りました。
地図を読むのは得意で、道に迷うこともない私ですが、
甲陽園駅から「あっち方面だろう」と歩くこと数十分。
往路も復路も迷いました。
心の支えは、帰りにツマガリの上のカブトヤマでお茶をして、
バターコーヒーをお土産に買って帰ること。
孤独と疲労に耐えながら歩を進めました。
しかし、やっとこさっとこカブトヤマにたどり着いたら、
1/9〜11は休業日でした。久し振りに訪れたのに試練が多すぎる!
結局、阪急オアシス2Fのコーヒー・ギャラリーHIROで座ることができました。
そこで「甲山ブレンド」なるコーヒーを発見( ;∀;)
「いながわブレンド」はわが町・千里中央のHIROでも買えますが、
甲山ブレンドは西宮市内でしか置いてないとのこと。
今回の甲陽園土産はHIROの「甲山ブレンド」となりました。
 
十日戎といえどもひっそりとした越木岩神社。
どの祠にもゆっくり手を合わせることができました。
神呪寺さまのことを読んだことで、甲山大師さまが無理なら
ほかはどこかないかしらと調べるきっかけになりました。
ブログ主さまのおかげです。


[ 瑤 ] 2017/01/10 22:44:15 [ 削除 ] [ 通報 ]

瑤さま お久しぶりにコメントいただきありがとうございます
阪急オアシスの2階には喫茶店があったのですね。越木岩神社からですとかなり歩かれたことと思いますので、よかったです。
千里中央といえば、北千里に通っていた学生時代に、セルシーができて、友人の車で遊びに行っていたことを思い出しました。
でもあの頃とは随分変わっているのでしょうね。

[ seitaro ] 2017/01/11 13:02:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

はい、税収を得るために企業を誘致し、ビルが増えました。
阪急蛍池→万博公園へ行く大阪モノレールから千里中央を
見ると、もはや千里ニュータウンの面影は消え、
ちょっとした都市の風景です。
 
さて、甲陽園のカフェパウリスタの建物解体のことを知ったのが昨年末。
私にとっては回生病院の解体よりショックなニュースでした。
むかし幼き母が見たであろう建物を、現代の私が甲陽園で
見ることはできなさそうです。

この日本では観光地でない限り、歴史ある建築物は取り壊しに
なる運命なのだと感じました。
なら、西宮はどこかに明治村のような観光地を作っておくという
方法で、歴史ある建築物の移築先になることもできたのでは、
と思ってみたり。
かつてあった大人の歓楽地に対する拒否感から、観光地開発より
高級住宅地をひろげることに官民ともに動いたのも理解できます。
私が都市計画の担当者でも「観光は神戸でいい」と観光を軽視したと思います。
保存の財源を観光の名で確保するという発想がなかった・・・。
 
ただ、救いは、seitaroさまをはじめ、研究熱心な方々が
いらっしゃること。人的財産です。


[ 瑤 ] 2017/01/11 22:49:10 [ 削除 ] [ 通報 ]

瑤さま カフェパウリスタも残念でした。ヴォーリズ住宅や播半などの歴史的建造物が次々と消え去るのは残念でなりません。
行政も、もう少し考えてくれればと思うのですが、市長にも期待できない西宮です。

[ seitaro ] 2017/01/14 17:47:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

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朝日新聞でも紹介された「くだんのはは」伝説

 1月6日の朝日新聞阪神版に「ひょうごの謎スペシャル其の五 甲山に妖怪・たたりの巨岩」という記事が掲載されていました。


小松左京『くだんのはは』は太平洋戦争末期の芦屋市が舞台となっていましたが、『新・耳・袋第一夜』では第十二章“くだん”に関する四つの話で西宮市の甲山周辺に伝わる牛頭人身の化け物について紹介されています。


 更にインターネットで調べると、くだんに纏わる都市伝説は1980年代にエスカレートしたことが、「牛女伝説の真実」と題して述べられていました。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~jurinji/ushionnadensetsu.html


 当時、その寺に「牛女がいる」という噂がまことしやかに囁かれ、多くの若者が肝試しにやってきては、夜中に大騒ぎしたそうです。地元に大きな迷惑をかけたことに業を煮やしたお寺の住職は噂を完全否定し、「“牛女”は残念ながら引越しされました」なる看板まで立てて、ようやく騒ぎを終息させていったそうです。
 きっと一休さんのような頓知とユーモアのある和尚さんだったのでしょう。

 

 もうひとつ、県道大沢西宮線の道路の真ん中にある、通称「夫婦岩」と呼ばれている二つの巨大な岩に関する不思議な話が紹介されていました。

 

 この岩にまつわる伝説は貴志祐介著『十三番目の人格ISOLA』にも登場していました。


由香里がタクシーに乗って鷲林寺町にある私立西宮大学に向かう場面からです。
<由香里が「あれ、古墳か何かですか?」とたずねると、小太りで赤ら顔おタクシーの運転手は、「あれは夫婦岩ですわ」と答えた。「みょうと岩?」見やすいようにわざわざ徐行してくれたので、横を通り過ぎるときによく見たが、木や草が生い茂っているので、どこに岩があるのかわからない。「こんなところに岩があったら、不便じゃないですか?」>

<ここには昔から、蛇神さんが住んどると言われとんですわ」
由香里は、またもや自分の現実認識があやふやになっていくような気がした。二十世紀も終わりに近づいている今、そんな馬鹿なこととは思うものの、現実に、夫婦岩は道路の半分以上を塞ぐ形で残されている。>

 

 鷲林寺の和尚さんは「夫婦岩の意味」と題して次のように述べられていました。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~jurinji/meotoiwa.html

 


<その後「夫婦岩」を爆破しようという計画はあがらなくなり、現在も道の真中に陣取っています。しかし考えようによっては、「夫婦岩」のあたりはまっすぐの道から急に大きなカーブとなる場所で、むしろ「夫婦岩」があることで減速してかえって事故が少ないのかもしれません。悪いように考えれば邪魔になる岩も、良い方向から見ればれば私たちを守ってくれている大切な岩なのです。決して、心霊スポットになるような無気味なものではありません。>
確かに残しておいて良かったと思います。



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110年前の甲山に登っていたリチャード・ゴードン・スミス

写真集「西宮という街」に何枚か懐かしい禿山だった頃の甲山の写真が収められています。


(上は昭和28年の甲山の姿)

 

 甲山は明治時代も禿げていたようで、当時神戸に居た欧米人はビスマルク・ヒルと呼んでいました。

『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』で、明治37年12月2日の日記に甲山の麓まで狩猟に行ったことが述べられています。
<その後、ビスマルク・ヒル(頂上の四本の松の木が、毛が四本のビスマルクの頭に似ているため、ヨーロッパ人はそう呼んでいる)のふもとにあたる、鉄道の西側と北側へ行った。>


 そこにタダマツから聞いたネテトコイ池の怪談話が記され、挿絵の背景に甲山が描かれていました。


 そして約1年後の明治29年(1906年)1月15日の日記のあとに注釈があり、甲山に登ったようです。
<それから数日は狩りの形跡はなく、ゴードン・スミスはビスマルク・ヒルに探検にでかけ、景色を堪能する。>
原文;Gordon Smith makes an exploratory hike up Bismark Hill to admire the scenery.)
 hike up Bismark Hillと記されており、ちょうど110年前に、ゴードン・スミスは山頂まで登って景色を堪能したのでしょう。


 現在は山火事もなくなり、木が生い茂っています。

 ゴードン・スミスが見たら、ビスマルクヒルに毛が生えたと驚くことでしょう。


 私も久しぶりに山頂まで登ってみることにしました。
昔は平地からでも稲妻城に見えた山頂に続くジグザグ階段。

今は木が視界を遮ります。

 


途中、少しだけ大阪湾が見える場所がありました。


フーフー言いながら急なジグザグ階段を登っていくと、やっと山頂が見えてきました。


 昔はこの階段を登りきると360度に近い大パノラマだったのですが。

 


ようやく山頂です。

 


落葉した枝の間から少し下界の景色が見えていました。
110年前、ゴードン・スミスが山頂で見た景色はどんなだったでしょう。



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そうですか、今は少し下界が見えるんですね。でも春になると葉が繁って見えなくなります。何の値打もなさそうな雑木ですから伐採してほしいのですがねえ。一度、市長も登ってみたらいいのに。

[ k.imamura ] 2016/01/19 23:36:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

akaruさん、下から見ると甲山の頂上のあたりの木々がまばらになっていましたので、どうかなと登ってみました。でも残念ながら写真の程度でした。昔の景色なつかしいです。

[ seitaro ] 2016/01/21 19:55:57 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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