阪急沿線文学散歩

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苦楽園にあった山口誓子旧居

 戦後の現代俳句を牽引した山口誓子は1901年京都市に生まれ、1922年高浜虚子と出会い師事します。東大を卒業後、大阪住友合資会社の本社に入社しましたが、胸部疾患が悪化し、1942年に勤続16年目で退社しています。「自叙伝」によりますと、太平洋戦争の始まった1941年に病気療養のため伊勢に移り、その後伊勢湾沿岸を転々としましたが、1953年の伊勢湾台風で被害を受け、苦楽園五番町に移ります。

 その後山口誓子が亡くなるまで住まれていた苦楽園の住居は阪神・淡路大震災で倒壊し、現在そこには句碑と記念碑が建てられています。

(航空写真の黄色く囲んだ位置です)


 そして苦楽園の住居について、次のように述べていました。

<私の現在住んでいるところは、兵庫県西宮市苦楽園五番町である。海抜百メートル、南面し。六甲の東の外れの山が三百メートルの低さとなって背後に屏風を立てている。夏は涼しく、冬は暖かい。私はここに住んで十年余、健康になった。>

この旧居は2001年に神戸大学文理農学部キャンパスに移設、数寄屋造りの母屋の面影をほぼ忠実に復元し、山口誓子記念館として公開されています。


10月20日まで山口誓子特別展「誓子と海 −神戸開港150年によせてー」が開催されており伺いました。


記念館の内部も見せていただけます。誓子は住居について次のように述べています。

<私の今住んでいる家は、昭和のはじめに旅館だったから、横山大観も来て、座敷で大きな絵を描いたそうだ。しかし私は大観のことは思わず、常に茂吉のことを思う。湯川秀樹も阪大助教授時代に苦楽園の終点の近くに住んでいた。とある夜明けに中間子理論を着想したのだ。苦楽園は芸術の山であったと同時に、ノーベル賞の山であった。>

横山大観も来たという元旅館だけあって、立派な住居でした。


庭も綺麗に整えられています。

残念ながら訪問した日は、雨で煙っていましたが、晴れた日は大阪湾まで見晴らせそうです。





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東郷青児と西宮

 今年は東郷青児生誕120年にあたり、新宿にある東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館で「生誕120年東郷青児展 抒情と美のひみつ 」が9月16日(土)から開催されます。


 東郷青児はとんでもないドン・ファンでありながら、多くの人を魅了する現代的なやさしい抒情をもつ女性を描いています。

 今年で創刊60周年を迎えた1957年創刊の『週刊女性』の表紙を飾ったのも東郷青児でした。

 またフランス文学の翻訳、小説やエッセイの執筆などされていますが、多くの装幀本ものこされています。

その東郷青児が西宮に現れたのは大正8年のことでした。  
宝塚歌劇団の仕事をしていた原田潤を頼って都落ちしてきた東郷青児は、一時中山太陽堂の図案係として勤めようとしますが、うまくいかず原田夫妻の家でしばらく居候となります。その頃西宮の杉山家に出入りするようになり、最初の結婚相手となる杉山夫人の妹の明代(はるよ)さんと知り合います。

『私の履歴書』からです。
<そこで私は、杉山の奥さんの妹の明代さんという少女と恋仲になってしまった。実家が西宮の六甲山山麓にあって、松林の中に白壁の土蔵が光る閑静な住まいだった。>
さてこの六甲山山麓の西宮の実家とはどこにあったのでしょう。

<六甲山山麓の明代さんの実家は小高い松林の丘の上にあり、丘の裾を小川が流れていて、眼下に広田神社の鳥居が見える美しいところだった。>


昭和11年の吉田初三郎鳥瞰図を見ても、広田神社を見下ろすような場所に大正8年に大きなお屋敷があったとは想像がつかないのですが、城山町あたりかもしれません。それとも苦楽園のあたりでしょうか。
<蔵の前の離れのようなところが子供部屋で、その広い部屋に、弟の中学生の明代さんと住んでいたのである。ところが、今考えると、彼女と恋を語らった記憶よりも、弟の中学生と近所を遊び回った記憶の方があざやかに残っているのはまことに不思議である。>

 東郷青児も香櫨園浜海水浴場に遊びに行っていました。
<丘の裾の小川をせき止めて、魚をとったり、裏山の池で釣りをしたり、香櫨園の浜に泳ぎにいったり、まるで子供の頃の夏休みの思い出のような記憶だけが次から次に回想されるのである。>

夙川の川口の香櫨園浜海水浴場は阪神電気鉄道の沿線開発の一環として、明治40年に開設されています。

 その後、東郷青児が明代さんと正式に離婚したのは昭和8年、その年に宇野千代と別れ、情死未遂事件の相手、みつ子と翌年結婚しています。



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おじゃまいたします。
京都・河原町にでると、ときどき「喫茶ソワレ」におじゃましています。
もちろん4月22日の『西宮文学案内』申し込ませていただきました。
夙川のサクラの開花ニュースとともに、きっと受講当選ハガキが届くはずでしょう!

[ 373 ] 2017/03/05 19:30:28 [ 削除 ] [ 通報 ]

喫茶ソワレは随分昔に入ったきりで、東郷青児の記事をアップするまでに行けるチャンスがあればと思っていたのですが、間に合わずです。
西宮文学案内でお会いできるのを楽しみにいたしております。

[ seitaro ] 2017/03/05 20:07:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

「東郷青児展」、昔「大谷記念美術館」で観た記憶があります。たしか三浦照子さんが学芸員をしておられた時に彼女が頑張って。

[ akaru ] 2017/03/07 11:14:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

akaruさん ありがとうございます。調べてみると、1979年に大谷記念美術館で「東郷青児遺作展 : 幻想とロマンの詩」が開かれていることがわかりました。また大谷記念美術館で企画していただくとありがたいのですが。

[ seitaro ] 2017/03/07 22:38:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

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東郷青児とクラブ化粧品

 西宮とゆかりのある東郷青児は、苦楽園に太陽閣を建てた中山太一の中山太陽堂(クラブ化粧品;現在株式会社クラブコスメチックス)で働いたことがあります。

(写真は大石輝一の描いた苦楽園の太陽閣)

 大正8年、宝塚少女歌劇団に転職した友人の原田潤を頼って宝塚へ都落ちした東郷青児は中山太陽堂の図案化募集に応募します。
『私の履歴書』からです。
<ある日、便所の中に置いてあった古新聞を何気なく見ていると、クラブ化粧品の中山太陽堂が図案化を募集している広告記事が目についた。その締切日がすぐ翌日になっていたので、原田夫妻には内証で、こっそり試験を受けてみたのだが、意外にも百人以上来ていた応募者の中から、採用になる二人のうちの一人に私が残ったのである。>
 中山太一社長から月給はいくらぐらいほしいかと聞かれて、当時の月給が二十五円か三十円だったころに、六十円くらいと答えたことに対し、中山社長は「よろし、それだけ出しましょう」と答えたのでした。

<双美人のマークで売り出したクラブ白粉は上昇の一途をたどる段階にあったし、中山太一社長の陣頭指揮は行くとして可ならざるはなかった当時のことだったから、たかが図案家一人の捨扶持ぐらい、特別意に介することもなかったに違いないが、結局はこれが私の命取りとなって、いつとはなしにやめてしまうことになった。おそらく二週間ぐらいしか出勤しなかったろう。>

 社員ではなくなったもののその後も青児は同社の顧問として、新聞広告や雑誌広告、パッケージ、劇場の緞帳にいたるまで多くのデザインを手がけたそうです。




 ところで株式会社クラブコスメチックスでは4月1日より第 14 回企画展「人によりそう〜中山太陽堂に見る販売促進・営業活動」展が開催されるそうです。



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大正時代末期の苦楽園ラジウム温泉に客を運んだ自動車フォードの写真

 写真集「西宮という街」を見ていると、苦楽園温泉に登ってきた自動車の写真が掲載されています。

 これを見ていて、当時の繁栄の陰の部分を描いたプロレタリア文学、細井和喜蔵の『奴隷』の一場面を思い出しました。
 西宮という街がプロレタリア文学の舞台として登場するとは思いもよりませんでしたが『女工哀史』の作者、細井和喜蔵による小説『奴隷』は香櫨園に実在した浪華紡績西の宮工場を舞台としています。


主人公三好江治は、香櫨園から苦楽園に歩いて登っていきます。
<今を盛りと咲き誇る躑躅(つつじ)が辺りの山々を時に染めて、逝く春の名残を飾っている。江治は今日もまた傷める胸を抱いて憂鬱な面持ちに鎖されながら、独り香櫨園を這い回った。そして暖かい春風が含む花の香と若葉の匂いに蒸されて過ぎし恋の日の追憶に耽り、甚く感傷的になって胸をふさがせつつ山の中腹へ登ってラジューム温泉旅館の在る六甲苦楽園の処まで遣って来た。碧海を背にした赤い瓦の家がきりたてたような断崖の上に幾つもの箱を据えた如く建って西洋の油絵を見るように美しい。玩具のような電車が長閑な村里を抜けてその山の端をぐるりと揺るやかに廻って行く。>


大正末期の山つつじと白い山肌が見えていた苦楽園、そこからは阪神間モダニズムの時代のブルジョアっぽい眺望が広がっていました。
<眼の下に続く蘆屋の絶景を木の間越しに眺めおろした。そうして幸い懐に一円ほどおあしが有ったので、来た序でだからラジューム温泉を一風呂浴びていこうかと思案していると、一台の自動車が唸りながら坂道を登って来た。>

<自動車は其処でぴったり停まって了い、詰襟の運転手がひらりと身を跳らせて先へ降りた。江治は見ることもなしに其方を向いて内裡の客が出て来るのを待った。「此処までしか登りません。」運転手がこう言って扉のハンドルへ手をかけた。>
苦楽園温泉開業当初は客を馬車で運んでいましたが、その後、大阪の勧業博に出品されたフォードを中村氏が購入し、自動車で乗合客を運んだそうです。

『奴隷』では、自動車から降りてきた客は江治と相思相愛であった菊枝と紡績工場の工場長で、金色夜叉のような悲恋物語が続きます。

 

西宮市制90周年写真集「西宮という街」は西宮市役所別館8階の情報公開課で販売されています。



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涼宮ハルヒの西宮北高ができる前にあった幻のゲンコツホテル

 西宮市制90周年「西宮という街」の写真集を見ていると、涼宮ハルヒの通う北高ができる前の航空写真があり、ゲンコツホテルのあった位置がはっきりわかりました。


 ゲンコツホテルと呼ばれていたのは苦楽園温泉があった時代に立てられた円柱形が特徴的な洋館ですが、実際にはホテルとして使われたことはありません。苦楽園温泉にあった長春楼のパンフレットには「望海円塔」と掲載されているそうです。

 湯川秀樹の散歩コースでもあり、『旅人』で魔女が住んでいると空想したと述べているように、その頃は既に寂れた雰囲気の洋館だったようです。

<家から東北の方に坂をあがってゆくと、木立はまばらになり、白い岩肌が露出している。ながめはますます広くなってくる。丘を上りきった所に、大きな池がある。真青な水をたたえて、静まりかえっている。周囲の白い岩山との対照が美しい。池の向うに、石造りの建物がぽつんとある。円柱形の洋館である。一見西洋の古城のような印象を受ける。その影が、池にはっきりとうつっている。私は小学生時代に愛読した、グリムの童話の世界にきたような思いであった。あの円柱形の洋館には、魔女が住んでいる。誘拐された王女があの中で眠っている。私はこんなことを空想してみたりした。>

 

 地図で見ると夫婦池と呼ばれていたこの二つの池は「角石池」と書かれており、最初の航空写真と見比べると、赤矢印の位置にゲンコツホテルがあったことが分かります。

 

 さらに昭和38年の航空写真と現在の写真を見比べると、ゲンコツホテルは赤矢印の位置にあり、現在の西宮北高に卒業生が残したモニュメント「ゲンコツ広場」の位置とほぼ一致します。

(写真は「長門有希ちゃんの消失」に登場したゲンコツ広場。)


 航空写真で右上から左下に斜めに走る道路が、西宮北高裏門の坂道です。


涼宮ハルヒシリーズのアニメにもしばしば登場しています。


湯川秀樹もこんな風になるとは思ってもみなかったことでしょう。



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クラブコスメチックス文化資料室からの年賀状

 小川洋子『ミーナの行進』で、ドイツからお嫁にきたローザおばあさんの双美人シリーズの化粧品として登場するクラブ化粧品。

 

 現在は株式会社クラブコスメチックスとなり、その文化資料室から年賀状をいただきました。

 

戦前、街を歩けば「仁丹」か{クラブ」か、と言われるほど、特に関西では「クラブ化粧品」の街頭広告が目に付いたそうです。


 クラブ化粧品は中山太一が明治36年に神戸花隈で化粧雑貨業「中山太陽堂」を開店したのがはじまりで、「クラブ洗粉」を発売し、双美人のシンボルマーク(原案は画家の中島春郊)で広く知られるようになりました。


 苦楽園にあった中山太一氏別邸の太陽閣跡地は現在堀江オルゴール博物館になっています。

 

 

 クラブコスメチックス文化資料室では常設展もされているようですが、企画展が4月に開催されるそうで、楽しみです。
http://www.clubcosmetics.co.jp/museum/



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苦楽園の堀江オルゴール博物館秋の特別庭園公開へ

 クラブ化粧品の中山太一氏別邸の太陽閣跡地にある苦楽園の堀江オルゴール博物館で秋の庭園特別公開が25日(水)まで開かれており、今年も紅葉を楽しみに訪ねました。


正面玄関の大扉の紋様は、ディスク・オルゴールの円盤。

 

玄関を入ると照明はエミールガレ。

 

堀江光男氏特注のオランダ製ストリートオルガンが迎えてくれます。

 

早速庭園にでてみると、つわぶきの黄色い花が咲いていました。

芝庭のテーブルでコーヒーを飲みながらゆっくり紅葉を楽しむことができます。

 

 太陽閣には大阪城築城に使われた苦楽園採石場の残石が使われたそうで、石切り場跡地を示す石碑もありました。

 


 3階からはアベノハルカスはもちろん、和歌山あたりまで見晴らせます。

今年の紅葉は少し遅れており、あと一週間くらい後が見ごろではないでしょうか。


庭園公開期間は25日に終わってしまいますが、紅葉が見ごろになるまでは庭園を見学させていただけるとのことでした。



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苦楽園で震災にあわれた黒岩重吾夫妻

 平成25年4月に西宮市立中央図書館でブックフェア「黒岩重吾展」が開催されていました。


 ご遺族から作品や執筆の際の参考文献など約500冊をご寄贈いただいたことがきっかけとなったようです。また平成25年9月号の西宮市立図書館だより『まつぼっくり』でも「西宮ゆかりの作家黒岩重吾」として紹介されていました。
<直木賞作家の黒岩重吾さんが亡くなられて10年。晩年の20年は西宮の苦楽園にお住まいで、高台の書斎から大阪平野を眺めつつ、古代ロマン小説を書かれていました。>

 

 

 そして苦楽園の自宅の書斎の写真とともに、次のような説明が。
<書斎机の隅に、苦楽園の自宅の窓から撮影した風景写真が置かれています。その虹がかかった写真を、黒岩さんはとてもお気に入りだったそうです。黒岩さんにとって秀子夫人は、この写真に写る虹のような存在だったのかもしれません。>と。

 


 秀子夫人も『女房の狸寝入り』と題して、黒岩重吾氏と歩いた波乱万丈のドラマを作品にされていました。その帯には次のような説明が書かれています。
<二人は別々に結婚、離婚、運命の糸に導かれるように再会する。「自由がほしい」と叫びながら社会的常識に逆らっても、自分らしい生き方を求めていた私は、小説の夢を抱いて苦悩する青年と共に歩むことを決心する。作家の女房が遭遇する波乱万丈の人間ドラマ。>
 この書の終章では苦楽園での阪神淡路大震災の経験が詳しく述べられていました。
<私の住む苦楽園のこの辺りも激震のため全壊、半壊が多かった。私の家でも庭の端を活断層が走っていて地面は南から北へと割れていた。被災者達の挨拶は、「怖かったですね、お宅はいかがでしたか、お怪我は?」と庇い合い慰める言葉から始まる。
 ところが、揺れがやんで間もなく、「西宮へ行かなかったらよかったのに……ニュースを見て心配になって」と友人から声をぶつけるような電話があった。後の言葉は覚えていないが、まだ揺れがやんだばかり頃だった。率直な優しい思いがまだ恐怖に震える心に沁みてポロポロ涙が流れた。>
 震災後もかなり苦労された様子が述べられていました。


秀子夫人が<これまでの私は自分が選んだ人生だから夫の立場に立ってものを考えたり分析して結論を出してきた。それは自分を大切にするための努力でもあった。>と書かれているように、『女房の狸寝入り』の一つ一つのエピソードから、作家としての黒岩重吾を深く理解し、最後まで支えられたことがよくわかりました。


 黒岩重吾氏の遺品などは兵庫文学館にでも寄贈されたのでしょうか。

西宮にも強力なスポンサーが現れ、文学館ができればと夢見るのですが。



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波乱万丈の人生を送り、最後は苦楽園に住んだ作家黒岩重吾

 黒岩重吾氏の私の履歴書『生きてきた道』を読むと、自ら「作家になるまでの私の人生は、まるで作り話のように波乱万丈」と述べられている通りのとんでもない人生を歩まれたことがよく分かりました。
 黒岩重吾氏は小学生の一時期、苦楽園にあった六甲郊外学園で過ごし、そのとき歩いた甲山や奥池の風景の懐かしさもあってか、1980年頃から苦楽園四番町に移り住まれたそうです。


『生きてきた道』では「波乱万丈の幕開け」と題して六甲郊外学園の思い出が述べられています。
<大阪の各地から集まった見知らぬ少年達との団体生活が始まった。最初の一ヶ月ぐらいは家恋しさにめそめそしていたに違いない。だが勉学よりも雨以外の日は山で鍛えられる毎日は思い悩む時間など殆んどなかった。私達は就寝時間が来るのを待ち焦がれて泥のように眠った。郊外学園のある場所は、現在私が住んでいる西宮市苦楽園のすぐ傍だった。>

「ぶらりわがまち苦楽園」に掲載された絵地図を見ると、苦楽園中学校から少し下がった所に、六甲郊外学園があったことがわかります。

 

 黒岩重吾氏が住まれたのは苦楽園四番町ですから、そのすぐ近くでした。
<私達は暇さえあると山を歩かされた。四キロほど離れた甲山にはよく行った。
 甲は鎧の意味である。甲と書いて何故かぶとと読むのかには、神功皇后が東征の際、反対勢力を破り、敵の甲冑を山に埋めたという伝承と関係がある。山には大きな岩があり、今では考えられないような巨大な水晶がついていた。取るのは禁じられていたが、皆、石で叩き割って持ち帰った。六甲山系は神戸から大阪に通じる山だが、当時はまだ自然を残していた。>

 

当時の六甲郊外学園の写真を見ると、後ろの山は花崗岩の白い山肌が見える禿山でした。
 現在の苦楽園四番町のあたりを歩いて見ました。

 見晴らしのいい場所で、このような景色を見ながら執筆されたのでしょう。

 推理小説作家としてデビューされた黒岩重吾氏ですが、昭和40年代後半からは古代史に興味を持たれ、古代史小説を書き始められます。
その時、考古学者の森浩一氏を紹介され、知り合ったことが考古学小説を書く上で、非常に有益だった述べられています。



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「山には大きな岩があり・・・巨大な水晶がついていた・・・」この巨大な岩とは。むかし山頂に磐座あったとも聞きましたが。水晶岩がこの近辺にあるんでしょうか、六甲山には水晶山がありました。甲山は想像を刺激する神秘な山ですねー。

[ だんご ] 2015/05/21 12:55:37 [ 削除 ] [ 通報 ]

昔は水晶が採れたと聞いたことがあるのですが、私も実物にお目にかかったことはありません。黒岩重吾氏に甲山を舞台にした古代史小説を書いてもらったらと、残念でなりません。

[ seitaro ] 2015/05/21 20:02:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

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苦楽園の黒岩重吾邸と大阪市立六甲郊外学園

涼宮ハルヒで一躍有名になった西宮北校と苦楽園中学の間の道を下った突き当たりの右側の角に。かつて大阪市立六甲郊外学園がありました。


 大阪春秋N0.157「特集西宮ツーリズムまちたびことはじめ」でも、三島佑一氏が「苦楽園・六甲郊外学園の思い出」と題して詳しく紹介されています。

<戦前苦楽園に、煙の都大阪から虚弱児童を保護するために、全寮制の大阪市立六甲郊外学園があったことをご存知だろうか。>

 

 昔は東洋のマンチェスターと言われた大阪、相当空気が悪かったらしく、肺門リンパ腺を患われて入園されたそうです。
<まず空気がピカピカ光って手で触りたいくらい。朝食前夫婦池まで散歩に行く。晴れた日でもどんより曇った大阪の街の上に、大阪城が正三角形の定規のようにくっきり見えた。>

 ここで述べられている夫婦池とは、今は西宮北校となっている場所にあったゲンコツホテルの前の二つの池のことです。


<そこには西洋のお城のような円筒形の建物が立っていて、私たちはお化け屋敷と呼んでいた。同じ頃近くに住んでいた湯川秀樹の『旅人』にもこんなことが書いてある。>
と当時苦楽園に住まれていた湯川秀樹の『旅人』を引用されています。


 黒岩重吾もまた小学生の時、六甲郊外学園で過ごし、昭和50年代にはその跡地近くに新居を構えました。


 黒岩重吾全集22『北満病棟記 暗い春の歌』の作品群の最後で、「深い傷」と題して次のように述べています。
<私が昨年移転した現在の住居は、兵庫県の西宮市だが、私は大阪市の小学校五年生の時、虚弱児童という理由で、大阪市が運営していた六甲の郊外学園に半年間行かされた。父の意思だったと記憶しているが、行かされた理由は、私がたんに虚弱児童だったからではない。当時の私は両親の手に負えない、腕白少年だったのである。真面目な電気技師だった父と、将来、放蕩無頼な生活を送り、作家になった私が合う筈がない。私は小学生時代から両親に反抗し続けた。>


 黒岩重吾にとって郊外学園の思い出は決して楽しいものではなかったようです。
<父が私を六甲の郊外学園に入れ、集団生活の中で、性格を叩きなおそうと考えたのも無理はないだろう。つまり私は、小学五年生の時、家を放り出され郊外学園で鍛えられたのである。入園の児童たちは殆んど勉強させず、山を歩かされたり、野菜を作らされたりした。幾ら腕白でも小学校の五年生といえばまだ家が恋しい年齢である。私は就寝の前になると、家に戻ったなら両親にあまりさからうまい、と誓った。
 その六甲郊外学園は、今度の新住居の近くにあったのだ。偶然といえば偶然だが、私の人生は、そういう偶然の積み重ねによって成り立っているようなところがある。>

 ぶらりわが街苦楽園地域の絵地図を見てみると、黒岩邸は六甲郊外学園の跡地に建てられているように見えますが、この場所ではなく少し離れたところのようです。しかし苦楽園で子供の頃に見た景色に愛着があったからこそ近くに住まれたのではないでしょうか。
 絵地図を頼りに歩いてみました。

 

 写真の右手が苦楽園中学と西宮北校の正門につながる道です。六甲郊外学園の跡地には住宅がぎっしり建てられていました。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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