阪急沿線文学散歩

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昔住んだ倉敷の家が博物館風の愉快な家になっていた

 ゴールデンウィークに久しぶりに倉敷を訪問しました。

まず我が子のために文化学院を創立した西村伊作の設計による倉敷教会へ。

続いて大原孫三郎が作った旧倉紡中央病院の建物(現在は院内保育の建物として活用されているそうです)を見て、昔住んでいた倉敷の家を久しぶりに訪問しました。

玄関を入って迎えてくれたのは、羚羊や鹿の角。ぎょっとします。

頭上を見上げると吹き抜けには怪鳥が飛んでおりました。


階段にはずらりとアンモナイトの化石が並んでいます。


ご趣味は多彩で、帆船から江戸時代の時計のコレクションまで。

生物も猫に始まり、見かけない鳥が何種類も。


熱帯魚もあまり見かけない種類で、水族館に行ったようです。

下段の庭には、果樹や野菜も植えられ、昨年はぶどうが豊作だったとか。


 最後に庭でエジプトコーヒーをいただいてきました。昔、毎週手入れしていた広々とした芝庭も様変わり。現在は盆栽や、鳥小屋が所せましと並び、ここで奥様と食事をしたり、近所の人とバーベキューを楽しんでおられるとのこと。
 名誉教授になられて久しいご主人は、今も論文を執筆され、ペットや植栽のお世話も欠かさず、本当に楽しそうにお暮しでした。


まるで西村伊作の「愉快な家」になっていました。



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大原孫三郎の倉敷中央病院

 もうひとつ孫三郎の宣伝で、私も恩恵に与った倉中のお話です。



大原はクリスチャン・石井十次の影響で、独自の人道主義を育み、社会から得た富は社会に還元するという考えのもとに、労働環境の整備をはじめました。倉敷紡績従業員をはじめ広く地域住民の診療のために1923年(大正12年)に創設したのが倉敷中央病院です。



 病院創設の動機となったのは明治時代に倉敷紡績の 寄宿舎で起きた腸チフスによる従業員7人もの死亡だったそうです。
開設当時の建物は現在も残されており、保育園や看護専門学校として使われ、今でも立派なデザインです。この時代に紡績工場で働く従業員のために、理想的な病院を作るとは、さすが「わしの眼は十年先が見える」で、もっと先も見えていたのでしょう。
何事にも最高を求めた大原は、
「治療本位(研究目的でない、真に患者のための治療)」
「病院くさくない明るい病院」
「東洋一の理想的な病院」
という3つの設計理念を打ち出して病院を建設しました。



開院当日の新聞には「病院は明るく温かく、柔らかく住みよい住宅の如し。患者はここに来ると気が晴れ、心が和み陰鬱も憂愁も忘れ、自分が病人であることも忘れるほどの患者本位の病院」と絶賛されたそうです。


この基本理念は今も受け継がれ、全国病院ランキングでは常にトップクラスにランキングされています。



上の写真は開設当初から現在まで引き継がれてある、院内の大温室と噴水。



喫茶室やアクアリウム、図書室まであり、本当に「病院くさくない明るい病院」で患者の心を和ませてくれます。
医療技術においても当然トップクラスで、2001年には台湾から李登輝元総統が心臓治療のため来日し、東京からヘリコプターでわざわざ倉敷中央病院まで来て、光藤先生の心臓カテーテルによる治療を受けました。
 私も、心電図に少し異常が認められ、この病院でカテーテルによる心臓の検査を受けました。検査をしてくれたのは若い医師でしたが、翌日早朝7時から光藤先生が出てこられ、大勢待っている患者一人一人に、検査の映像を見ながら診断結果を説明してくれました。大先生でも常に医療現場の第一線に立ち、早朝から時間を割いて、市井の患者とも親しく話し、対応してくれる姿には頭がさがりました。私の心臓、異常なしと光藤先生が太鼓判を押してくれました。



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大原孫三郎の倉敷紡績

 大原孫三郎といえば、倉敷の大原美術館でご存知の方が多いのではないでしょうか。

 彼は倉敷紡績の2代目の社長でもあり、倉敷紡績の工場跡地は現在アイビースクエアとなり、多くの方が観光に訪れます。昨年プロ野球シーズン終了後は楽天の選手がここに宿泊し、倉敷マスカットスタジアムでキャンプを張っていました。


さて紡績業と言えば細井和喜蔵の『女工哀史』に描かれる女子労働者たちの劣悪な労働環境、苛酷な生活を思い起こしますが大原孫三郎は「従業員こそが会社を発展させる力だ。従業員の生活を豊かにすることは経営者の使命である。」と女工たちの生活改善に着手した人なのです。



 当時の資本家とプロレタリアートという考え方ではなく、両者平等の視点に立ち、労働環境の改善に尽力しました。城山三郎「わしの眼は十年先が見える−大原孫三郎の生涯」には、かなりの資金を労働者のために使っていたことが書かれています。「利益処分の中に、職工賃金調節資金、工場衛生研究費、職工組合基金、従業員退職手当資金などを次々に設け、積み立てをはじめた・・・他社は十割の配当を出したりしている中で、 孫三郎は配当を抑えると発表し、六割以内にとどめた」とマルクスの資本論ではまったく理解できない資本の配分をしました。また大原は驚くべきことに資本家でありながら、昭和初期の思想統制の厳しい時代に「大原社会問題研究所」を設立し、主として社会政策学会左派の研究者達が、社会科学の研究を続けることを支援しました。



 大原美術館を初めとして、文化・研究・福利・産業などの各方面に私財を投入し数多くの施設を残すなど、ノブレス・オブリージュを果した人として深く尊敬しています。また彼がいたからこそ、現在の趣のある倉敷の町ができあがったのだと思います。



 古い街並みらしく、京都と同様、建物の間に風情のある路地もいくつかあり、散策するのも楽しいです。ただ京都と異なり、道は碁盤の目のようにはなっておらず、何年住んでいても方角を失ってしまいます。



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薄田泣菫の詩碑

 薄田泣菫をめぐる散策も最後になり、生家の近くの厄神社の近くにある「ああ大和にしあらましかば」の詩碑を見に行きました。建立されたのは昭和29年(1954年)11月23日と古く、厄神社の下の民家には鄙びた案内板がありました。



 境内に上がっていくと、詩碑があり高さ120cm、幅160cmの白御影(しろみかげ)石6枚を屏風形に並べ、その2面に備前焼の陶板がはめ込まれています。陶板に焼き込まれた文字は、薄田泣菫自身の筆跡を拡大したものだそうです。



詩碑の横には次のような説明がありました。



「6枚の乱れ屏風の形よりなり、左から鋭角、直角、鈍角で、鋭角は泣菫の初期、直角は中期、鈍角は後期の作品を表現している。
その後期の部分には、泣菫の直筆で詩集『白羊宮』にのせられている代表作「ああ、大和にしあらましかば」が伊部焼として刻まれている。
詩碑の中央からやや左手に筆塚がある。これは橘太夫の厨子を最も単純美的に表現したもので、その地下には泣菫が生前使っていた筆を納めている。この詩碑は乱れ屏風の御影石の白と更緋折璧石でできている黒い筆塚のポイントは詩碑全体のバランスの美しさを示し、太陽の移動によって創られる陰影の変化は面白く、谷口吉郎博士の代表作の一つでもある。」
 『国文学研究資料館』の『電子資料館』の『近代書誌データベース』で、『白羊宮』
の映像を見ることができ、目次から「ああ大和にしあらましかば」を読むこともできます。
http://school.nijl.ac.jp/kindai/CKMR/CKMR-00075.html
すべての漢字にルビがふってあり、私でも読むことはできたので、少し安心しました。



この厄神社は、水島灘を望む小山の上にあります。
泣菫はこの地について「艸木虫魚」に「赤土の山と海と」と題し、次のように述べています。
「私の郷里は水島灘に近い小山の裾にある。山には格別秀れたところもないが、少年時代の遊び場所として、私にとっては忘れがたい土地なのだ。」
「私はまた海にもよく往った。多くの場合水島灘の浪は女のように静かだった。」
(最後の部分の比喩表現は現代日本にはそぐわないでしょうが)
「あの小高い赤土の松山と遠浅の海と。−思えばこの二つは、私の少年時代を哺育した道場であった。」と結んでいます。



現在は遠浅の海は埋め立てられ、大コンビナートとなり、泣菫の少年時代過ごした道場はなくなってしまいました。


 


 



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「茶話」のアイロニーに富んだ最高傑作

 薄田泣菫の「茶話」は大正5年から大阪毎日新聞に掲載され、その話題は極めて豊富で、広範な読者の歓迎を受けたとされています。「茶話は雨の降る静かな窓に凭れて、苦い茶を啜りながら、次から次へと頭に浮かんでくるいろんな事象に対して、微笑した筆者の境地をそのまま書いたものである。」という紹介文もあり、私も茶話全集を楽しく読ませていただきました。




 その中に、「手紙」と題した一編がありました。
大阪のある美術書画屋の前で、もと東京の新聞社の幹部だった人にあてた漱石の私信が売り物として並べられているのを見て、その感想を述べています。 
「よしそれが名高い小説家だったにしたところで、………つまらぬ事を書きつけた手紙を、大事そうに残しておく人の気持ちは、私達には一寸わかりそうにない。手紙が一つ一つ保存されるのを知ったら、どんな人だってあまり真実の事は書きたくなくなるに相違いない。
チャアルズ・ディツケンスは、死ぬ少し前にガツヅヒルの花園で篝火をたいて、自分が一生の間に受け取った名高い人達からの手紙をそっくりまとめて、その中で焼き捨ててしまった。………自分の知人の書信をも、そのいやな運命から救おうとしたのであった。」
と書いているのです。
 しかしながら、現在薄田泣菫の生家では大阪毎日新聞の学芸部部長だった泣菫にあてた手紙や葉書が大事に残され、公開されていました。



 前回のブログでも紹介させていただいた谷崎潤一郎や武者小路実篤の他にも与謝野寛、晶子、菊池寛、志賀直哉、川田順をはじめそうそうたる作家達との興味深い書簡が展示されていました。泣菫さんは、ディケンズのように手紙を焼き捨てることはできなかったようです。
 私自身は泣菫の考えとは異なり、著名な作家の書簡は、それぞれの背景が偲ばれる大切な資料として保管され、公開されるのが望ましいと考えております。それに土井晩翠の素晴らしい絵葉書には大変啓発されました。
 泣菫は生家の裏にあるお墓の下で、この展示に見いっていた私の姿をどう思っていたのでしょう。生家を訪れた後、茶話全集の「手紙」を読んだのですが、出版後100年近く経った現在、泣菫が巧まずしてアイロニーに富んだお話になっており、思わず大笑いしてしまいました。



 



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谷崎潤一郎と武者小路実篤からの書簡

 土井晩翠の葉書より、内容はかなりせこくなるのですが、谷崎潤一郎、武者小路実篤の手紙や葉書も薄田泣菫の生家に展示されています。
谷崎の手紙の日付は大正6年10月21日、住所は東京小石川区原町13となっています。



 内容は和紙巻紙に毛筆で次のように書かれています。
「旅行して居たので返事がおくれました 申訳がありません。書いてもよろしうございますが原稿料はどのくらいでしょうか、前以てお伺いしたいと存ます 今一応折返し御返事を願います
十月二十一日 谷崎潤一郎 
」(現代かなづかいに改めました。)


次に面白かったのが武者小路実篤の葉書です。



谷崎氏のくだらぬ小説
はあと何日位つづき
ますか、一週間以上のび
るようでしたら一先づ私の
原稿ご返送願います
あまり前のですからよみなおしたく
思っています


と毛筆墨書してあり、行間に鉛筆書きで次のように付け加えられています。 
それに本にしようかと思っています。
御社で出るよりさきには出さないつもりですが
あんまりおくれるようでしたら稿料もおかえししたく思います


武者小路実篤と谷崎潤一郎の間には倫理観に大きな差があったのか、谷崎の小説を酷評しています。
作品には表れない作家の裏側を垣間見ることができました。



 



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薄田泣菫生家

 泣菫は生家について「私の郷里の家は、見る影も無い小家ですが、それでも祖父も父もが風雅の心があつただけに家のうちが暗くなるのも厭わないで、軒にはわざわざ板造りの孫庇をつけていました。」と書いていますが、決してそんなに小さな家ではありません。



 




 裏庭は広く、いろいろ実のなる樹が植わり、広い畑もあります。



 畑には梅の木が植えられており、「艸木虫魚」では「私が梅の実の熟れて落ちる音を好むのもつまりそれで、その音を聞くと、忽然として閑寂のふところに侘びの心持を味わうことが出来るからである。私が梅の樹に取り囲まれた郷里の茅屋に、いまだに断ちがたい愛着を感じているのもそれ。」とその愛着を述べています。



上の写真は外から見た、柿の木、奥には離れ風の一棟があり、二階が泣菫の勉強部屋でした。その奥の山の麓に泣菫のお墓がありました。


 



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泣菫饅頭

 薄田泣菫の生家は倉敷市連島町にあります。最近ではフィギュアスケートの高橋大輔選手もこの地の出身で有名になりました。



 泣菫の生家の近くにキューキンドーという和洋菓子屋さんがあります。素朴な店構えですが、倉敷では評判の良いお店の一軒です。



中に入ると泣菫の写真や何故か西宮神社の福笹までありました。そのオリジナル商品が泣菫最中、泣菫饅頭、泣菫煎餅です。



 最中の皮には泣菫の字が。泣菫饅頭は泣菫の原稿をデザインした紙に包まれています。



外はかための焼き皮、割ってみると中はこしあんでふわりと芳ばしい香りが立ちのぼります。昔ながらの味でした。



泣菫煎餅は、地元でとれた南京豆の粉末をいれた香ばしいパリパリの食感です。泣菫詩碑のお話はまた次に。
このオリジナル和菓子、泣菫は食べたことは無いのですが、泣菫を偲んでいただきました。
泣菫さんあってのキューキンドーですが、この和菓子で地元の皆さんも泣菫さんを覚えてくれているのかも。
 


 



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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