阪急沿線文学散歩

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Helmet MountainとNetetotekoi Ikiと桜

夙川公園の桜も今日で満開となりました。


近くのニテコ池の桜です。

50年以上前は、ニテコ池周辺や満池谷公園(現在の震災記念公園)あたりの方が夙川の桜より多く立派で、桜の名所でしたが、震災が痛手だったのでしょうか、めっきり少なくなりました。


震災から21年が経ち、桜の樹が育ってきました。

人出も少ないので、花見にはいいコースです。


Seidenstickerが谷崎潤一郎『細雪』の翻訳でHelmet Mountainと訳した甲山を背景に、明治時代Gordon Smithら西洋人がNetetotekoi Iki と呼んだニテコ池の桜です。

私の一番好きな風景。

春霞か、黄砂のせいかわかりませんが、青空ですが甲山は少し霞んでいました。

こちらの桜は桜餅の葉に使われるオオシマザクラかもしれません。


 

上の写真は夙川公園で見つけたオオシマザクラ。


 

 こちらはニテコ池のほとりにある名次神社の桜。


 すぐ近くに松下幸之助夫妻が住まれていた名次庵があります。お二人は桜がお好きだったそうで、高橋誠之助『神様の女房』に、次のように書かれています。

<幸之助とむめのは、桜が大好きだった。毎年、春になると自宅近くの夙川の桜並木に必ず繰り出した。>

そして、<晩年の松下幸之助、むめの夫妻が愛したのは、二人で家の近くを散歩することだった。ちょっとした時間ができると、近くのニテコ池と呼ばれる、森に囲まれた周囲三キロほどの人工池を訪れた。あたたかな陽射しが降り注ぐ春になると、二人の姿がたびたび見られた。>

お二人が愛でた桜、老木になってきたせいか、華やかさに陰りが見えてきましたが、それでもニテコ池に面した桜では一番立派です。

 

『月刊神戸っ子』20171月号で「ぶらりニテコ池|神様に愛された地、夙川」と題してニテコ池周辺の紹介をさせていただきました。

https://kobecco.hpg.co.jp/7621/




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ニテコ池の上にあらわれたスーパームーン

 本日未明の満月が、今年の満月のうちで最大となる「スーパームーン」でした。
アメリカでは1月1日のスーパームーンということで、結構話題になっているようです。

こんなプロのような写真は撮れませんが、今晩の月もあまり変わりないだろうと、小さなデジカメを持ってスーパームーンの撮影を試みてみました。

ニテコ池で19時半頃撮影したものです。スタンドもなく相当な手振れ写真です。

夜景撮影モードで、絞りをいくら絞っても、月は真っ白。

やったことのないマニュアルモードにして、ズームアップしても手振れの影響が少ないように、シャッター速度を1/300秒〜1/500秒に設定して、絞りはF4程度で撮影してみました。

やはり手振れピンボケ写真ですが、なんとかウサギさんを写すことができました。
ところで1月31日には、皆既月食になるそうで、天気が良ければ撮影してみましょう。



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二テコ池の周りの林がまたしても消えていく

 西宮市内のグリーン地帯は次々と削られ、住宅地に転用されてきました。
『火垂るの墓』の舞台となった満池谷のニテコ池の周囲もその例に漏れません。


 一昨年だったでしょうか、光雲荘の北側にあったアメリカ領事館邸跡地に高級マンションが完成しました。


今朝、久しぶりに散歩して、東側に残されていた林もいよいよ今年で消え去ることがわかりました。


約8300平米の林が消え去り、対岸と同じ不動産会社のマンションとなるようです。


今年の8月から工事が始まり、完成はH30年5月。


野坂昭如が小説『火垂るの墓』で「ニテコ池を見下ろす丘」と書いているのは、満池谷墓地ではなく、この林のことではないかと、私が異論を唱えた場所です。

この丘に切通し道ができたのは、私が小学校の時でしたが、そこには戦時中作られた、軍部の大防空壕がありました。

上の写真は昭和23年の米軍による航空写真です。
そして、下は現在の航空写真。

ニテコ池の周りでは一番大きな林ですが、これが消え去るのです。

工場立地法では、一般企業に対し緑地面積率が厳しく定められており、簡単に木を伐採することもできず、緑地を他に転用すると、必ず新たに緑地を作る必要があります。
市町村にもこのような規制が必要な時代になっているのではないでしょうか。

窓からはどんな景色になるのでしょう。



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池越しに甲山と配水塔と緑を撮るいい撮影スポットだったのですが残念。
このマンションの北側の部屋は浄水場の桜が見えることがウリになるような
チラシになるのかな?と勝手に想像してしまいます。

[ にゃんこ ] 2016/06/05 9:22:46 [ 削除 ] [ 通報 ]

ニテコ池からあの緑が消えるのは残念としか言いようがありません。完成はまだ先のようですが、どんなチラシになるのでしょう。「窓から広がる『火垂るの墓』の風景!」では買う人がなさそうです。

[ seitaro ] 2016/06/05 10:30:45 [ 削除 ] [ 通報 ]

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満池谷界隈の桜

 桜も散りはじめました。名残惜しい今年の満池谷町界隈の桜です。


高橋誠之助『神様の女房』のエピローグからです。

<晩年の松下幸之助、むめの夫妻が愛したのは、二人で家の近くを散歩することだった。ちょっとした時間ができると、近くのニテコ池と呼ばれる、森に囲まれた周囲三キロほどの人工池を訪れた。あたたかな陽射しが降り注ぐ春になると、二人の姿がたびたび見られた>
 幸之助、むめの夫妻が愛した桜です。

越水浄水場の枝垂れ桜。

野坂昭如が実際に暮らした横穴豪があった満池谷町の桜も見事です。

このあたりの静かなお屋敷街の立派な桜。

 最後に赤瀬川原平『仙人の桜、俗人の桜』から、日本人の桜好きをよく表した文章を引用させていただきます。
<桜はつくづく好きだ。桜そのものを見るのが好きだし、桜のイメージが好きである。入学式や始業式の桜の記憶、桜は美しい世界を切り開くカーテンのように印象される。昔の引札や錦絵の中の桜、観光絵葉書の人工着色写真の中の桜などは、ほとんどそのままユートピアだ。この世に一瞬の空中温泉、春の一瞬の大浴場、それに酔ったと思ったらサッと消えて、そんなことがまるでなかったみたいに夏がくる。こんな風に感じるのはやはり日本人のせいだろうか。>

桜も次の日曜まででしょうか。


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どの写真も桜が綺麗で癒されます…^^

[ 篠崎駅 床屋 ] 2016/04/09 5:20:12 [ 削除 ] [ 通報 ]

思わぬところからコメントいただき、ありがとうございます。

[ seitaro ] 2016/04/09 6:40:58 [ 削除 ] [ 通報 ]

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大晦日の広田神社へ

 好天に誘われ、久しぶりに広田神社へ向かいました。

 

 いつも心を和ませてくれる二テコ池と甲山。戦時中あの上空を戦闘機が飛んでいたとは信じられない平和な風景です。

 


途中、越水墓地の六地蔵様にお参り。


1904年の12月4日、リチャード・ゴードン・スミスが狩の途中に立ち寄ったところです。

 


110年前は林に囲まれていたようです。

 


ようやく広田神社、沿道の屋台の準備も進んでいました。今晩は多くの参拝客が訪れることでしょう。

 

さすが辰馬酒造の阪神タイガース菰樽が一番上に。金本阪神はどうなることでしょう。

 


今年一年、文学散歩にお付き合いいただきありがとうございました。
皆様、良いお年をお迎えください。



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松下幸之助夫妻の散歩道、ニテコ池の桜

 高橋誠之助氏は『神様の女房』のエピローグで次のように述べています。
<関西有数の桜の名所、夙川は松下幸之助、むめの夫妻がこよなく愛した場所でした。春になると、私の足はついつい夙川の街に足が向きます。忘れがたい思い出が次々に浮かんでくるからです。>


 夙川の桜は去年も綺麗に咲き誇っていました。


 幸之助氏はさくらが好きだったそうで、松下電器本社の周囲には八重桜が植えられていたそうです。晩年の姿は次のように描かれていました。
<病院に戻る途中、もう一度、松下電器本社の前を通った。八重桜はいっそう咲き誇っている。(まるで幸之助さんを見送っているようやな)
 むめのは思った。幸之助とむめのは、桜が大好きだった。毎年、春になると自宅近くの夙川の桜並木に必ず繰り出した。>

 

 門真市の旧本社跡地は2006年4月に総面積16,200平方メートル、ソメイヨシノ190本を配したさくら公園として、開園されています。

<晩年の松下幸之助、むめの夫妻が愛したのは、二人で家の近くを散歩することだった。ちょっとした時間ができると、近くのニテコ池と呼ばれる、森に囲まれた周囲三キロほどの人工池を訪れた。あたたかな陽射しが降り注ぐ春になると、二人の姿がたびたび見られた。>

 1990年前後のことでしょうか。昔はニテコ池の周りの桜も立派でしたが、震災で倒れてしまったからでしょうか、かなり少なくなりました。


ニテコ池の周りで一番立派に見えるのは、名次庵の桜です。

4月にはこのあたりの案内をさせていただく予定で、今年の名次庵の桜も楽しみです。

 



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名勝名次山の一本松と光雲荘、旧松下正治邸

 高橋誠之助著『神様の女房』を読みながら、今や松下家がほとんど買い占めたと思われる、古には名次神社の境内地であった名次山のあたりを散策しておりました。

 

ここには24時間公道にガードマンが立ち、アメリカ領事館邸並みの警備がなされています。下の写真の右手が光雲荘の白壁、左手は松下正治邸でした。

婿養子だった正治氏については、『神様の女房』で次のように述べられています。
<婿養子正冶は、日本画家である伯爵、平田栄二の次男として、大正元年に生まれ、東京帝国大学法学部卒業とともに、三井銀行に入った華族出のエリート銀行員だった。>


 戦前の華族と平民の結婚は大変だったようで、対応に西宮市役所もてんてこ舞いだったようです。
<結婚にあたっては、むめのには心外なことがたくさんあった。宮内省は松下家の家族、親族、財産にいたるまで、詳細な調査を行った。西宮市役所を訪れた宮内省の役人は、市役所始まって以来と言われるほど、徹底的な調査を行った。>
 ようやく、婚約は成立し、当初は正治、幸子の新居は光雲荘の二階部分にあつらえられたそうです。

 


NHK土曜ドラマスペシャルで放映された光雲荘の応接間でのシーン。写真背中が常盤貴子演じるむめの夫人、左が中西美穂演じる娘の松下幸子、そして右が渡辺大演じる娘婿松下正治氏です。

 上から二番目の写真の私の記憶で松下正治邸だったところ、表札を見ると今は亡き正治氏に替わって、長男松下正幸氏の表札になっていました。Wikipediaによると命名は正治が家長であった幸之助に名づけを依頼した際、「正治の“正”と幸之助の“幸”から一字ずつ取ったらええがな」という幸之助の言葉からだそうです。

 光雲荘跡と松下正幸邸との間に大きな一本松が聳えています。

 

その根元には「古跡 名次神社」と刻まれた石碑がありました。

 

 明治末期までこの名次山は名次神社の境内地であり、明治41年に神社はその北端に移されたそうです。


 ところで私は名次山の一本松と思っていたのですが、先日西宮市役所東館8階情報公開課 歴史資料チームで開催されていた歴史資料写真展で見せていただいた写真。二本松でした。現在は北側の一本が消えています。


随分古いTV番組で、ロミ山田さんが出演された「淳二のスターふるさと自慢」の映像でも、既に一本松になっていました。

 

名次山の二本松が一本松になってしまったのはいつからのことでしょう。

 



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高橋誠之助著『神様の女房』に登場する名次庵

 高橋誠之助著『神様の女房』に、むめのさんのお見送り風景が描かれていました。
<社業から離れたむめのには、ようやく多少の時間のゆとりが出てくるようになった。今度は家を守る役割となり、さらに西宮に住居を移すことになり、むめのは、ひとつ決めていたことがある。それは、運転手付きの車で出て行く幸之助を、毎朝必ず見送ることである。「行ってらっしゃい」朝七時、光雲荘の門の前で、執事や女中たちとともに、全員で深々と頭を下げて、幸之助を見送る、むめのの姿があった。>


この玄関前でお見送りしたのは、戦前までのことのようです。


<送るのやったら、玄関ではあかん。門まで行かないと。」玄関先で主人を見送るやり方もあるのかもしれない。だが、それはむめのの真意に反した。仕事をしている主人を立てる、というなら、仕事に出る主人を見送るのは当然の発想だった。「玄関はまだ外やない。一緒に外に出て、送るのが見送り、いうもんやないか」
それがむめのの考えだった。大邸宅である。玄関から門までは、かなり歩かなければならない。だが、せっかく造った光雲荘も、夫婦で住んだのは二年ほどだった。>

写真の正面が正門と土蔵を残すニテコ池に臨む光雲荘跡です。


<戦後、光雲荘のすぐ近くに新たに邸宅「名次庵」を建てた。後に日本一の長者と言われる家にしては、質素な家だった。しかもこの家は、自宅から門までは急な階段を上り下りしなければならなかった。だが、夏の暑さも、冬の寒さも、雨の日も雪の日も、むめのは門の外で幸之助を見送った。>

 名次庵は光雲荘の北側にあります。ニテコ池側から見た名次庵、私などからすると決して質素な家には見えません。朝はこのガレージから尾翼付きのキャデラックが出され、運転手が羽毛はたきでピカピカに磨いていました。五十年以上前の記憶です。

西側の通りに面した名次庵。

むめのさんはこの階段を上り下りし、毎日お見送りをされたようです。
今はどなたがお住まいなのでしょう。



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高橋誠之助著『神様の女房』に登場する光雲荘

 アニメ『火垂るの墓』や『とむらい師たち』に登場するニテコ池の光雲荘。


 当然ですが高橋誠之助著『神様の女房』には松下邸として建築された当時のことが詳しく述べられています。


 松下幸之助がちゃんとした家を建てようと決めたのは昭和10年のことでした。300年はもたしたいとむめの夫人に伝えます。
<「なんで300年ですの」「おそらくこれからの300年も先には、世の中がどんな建築になっているかわからない。ただ、そのときの日本の建築でも、日本建築というものが、いろいろな形で、吟味されたり、参考にされたりすることがあると思うんや。そのときに、十分参考にできるような建物を建てておきたい」>という意向でした。


さらに『神様の女房』から続けます。
<昭和12年の春に着工、14年の秋にほぼ完成し見た兵庫県西宮市の大邸宅は、ほとんどむめのが建築を主導することになった。幸之助の意をくみ取り、現場で細やかな指示を出し、現場監督を務めたのがむめのだった。‘理想の屋敷を完成させるには、少しでも問題があったらあかん。幸之助さんの思いが詰まってるんや。しっかり目を光らせないと。’
 この屋敷は「光雲荘」と命名された。光雲は、「あんたぐらいになったら、そろそろお茶くらいできんとあかん」という阪急グループの総裁、小林一三のアドバイスで始めた、幸之助の茶室の庵号である。新築披露には、近衛文麿、小林一三などが招待され、裏千家家元が茶室開きを行った。幸之助はこのとき、習いたての茶道を披露している。部屋数二十数余の中心にはむめのの居室が配置され、幸之助の主人室の脇から、全屋敷が目配りできる工夫がなされていた。>

 

 光雲荘は2008年のパナソニック創業90周年を機に,枚方市の同社研修施設内に移築・復元され、現在は正門だけが残されています。

 


 写真は枚方に移築された光雲荘と庭園ですが、『神様の女房』ではオリジナルの庭園について、次のように描かれています。
<宴席が行われる広間からは、日本庭園が見渡せる。縁側に続く流水を伴った庭は緑の木々に囲まれ、代理店の社長たちはその壮麗な雰囲気に驚きの声を上げた。「もとは赤松の林の真ん中に設けられた庭園です。沓脱ぎには、巨大な鞍馬石が二個、深く埋まってます」幸之助の説明に、ほぉーっと声が上がる。ため息の出るような見事な庭園だった。>

 

 光雲荘の完成からわずか二年後の昭和16年に太平洋戦争に突入、松下幸之助は戦時下での会社で仕事に没頭するため、終戦後のしばらくに至るまでの13年間、光雲荘に住まず、むめの夫人が屋敷を守ることになります。
<幸之助のいない間、光雲荘を託されたのが。むめのだった。空襲を逃れるため、自慢の白壁も黒くぬりつぶされた。>

 

 写真の右側の光雲荘の白壁は戦時中黒く塗りつぶされていたようです。

<激しい爆撃音が、鳴り響いていた。日本は都市部を中心に、空襲によって焦土と化した。むめのが守ることを命じられた光雲荘があった西宮も例外ではなかった。ところが。奇跡的にも、光雲荘は無事を守り通すことができた。しかし、戦中、戦後を通じて世情は殺伐としていた。「ここは、盗っ人に目をつけられやすいお屋敷や」不安を募らせたむめのは、一計をめぐらした。寝室を、母屋続きの土蔵に移したのだ。「これなら泥棒さんも寄り付けまへんやろ」さらに用心を重ねたむめのは、枕辺に小銭を用意して、泥棒への土産に備えたりしたのだ。>

母屋続きの土蔵とは移築前の航空写真で見ると、左上にありますが、この土蔵は現在も残されており、名次山を歩くと見えています。
むめのさんの用心深さは子孫にまで引き継がれているようで、このあたりの路上ではしっかりガードマンが夜昼となく不審者を見張っています。



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満池谷の貯水池を見下ろす会社社長の住宅を舞台とした『とむらい師たち』

 小松左京が野坂昭如の思い出の二テコ池を埋立ててSEXPO’69を開催するという『SEXPO’69<野坂昭如ふうに>』という小編を書いていることを紹介しました。一方、野坂昭如も『火垂るの墓』の発表の前年に満池谷を舞台にした『とむらい師たち』という小説を書いているのです。


 仲間と葬儀社を起こした主人公は、死顔がもっている威厳と迫力に魅せられ、大阪万国博に対抗して葬儀博覧会開催を思い立ちます。その資金を作るためデスマスクの展示会を続けるうちに、これを御神体とする新興宗教「死顔様」を設立するのですが、小説の最後では主人公「ガンめん」が新興宗教の教祖となる死顔様に祭上げられます。
<二年後、死顔様は、西の宮満池谷の貯水池を見下ろす高台に本拠をかまえ、といってもそれまで会社社長の住宅であったのを提供されたので、特に宗団らしい構えはなく、ただ見事に手入れされた庭園を通って玄関へ入ると、すぐ四つの部屋をぶち抜いた板敷きがあり、その奥にいちいちうす絹で包まれたおびただしいデスマスクが飾られ、それを背負って、白装束のガンめんが座っている。>
「満池谷の貯水池を見下ろす高台」の「会社社長の住宅」とは光雲荘でしょうか。

二テコ池の畔にあった元アメリカ領事邸は取り壊され、現在はマンションが建てられていますが、その向うが光雲荘です。

 


 

現在の光雲荘の表門です。


光雲荘の裏門に上る坂道はアニメ『火垂るの墓』にも描かれています。

 

光雲荘は昭和14年に建てられましたが、母屋は2008年のパナソニック創業90周年を機に、枚方市の同社研修施設内に移築されたそうで、現在二テコ池の畔に残っているのは外郭だけでしょうか。


 光雲荘について高橋誠之助『神様の女房』で次のように述べられています。


<この屋敷は「光雲荘」と命名された。光雲は、「あんたぐらいになったら、そろそろお茶くらいできんとあかん」という阪急グループの総裁、小林一三のアドバイスで始めた、幸之助の茶室の庵号である。新築披露には、近衛文麿、小林一三などが招待され、裏千家家元が茶室開きを行った。>

 

 だいそれたことに、野坂はここを新興宗教の本拠とイメージしたのではないでしょうか。ここで教祖自ら死顔のご本尊となる行事、すなわち棺の中で二十一日間過ごして、一度死んで甦ったことにし、教祖からさらに高い地位へ神格化させる行事をとり行うことになります。
 信者達が掘った墓穴に<水や空気の入るようにしてもろて、まあ、くたびれたらそっと抜け出るくらいのしかけはつくって。>入れてもらおということになりました。
「ちゃんと出られるんやろうな」という心配には、<「平気ですよ、穴が完成したら、二人で横穴掘ってすぐ横の茶室へ抜けられるようにしときましょ」>となります。
 いよいよ儀式を執り行い、ガンめんは何日たったか忘れるほど暗闇の中にすごして、手筈どおり横穴からすぐ横の茶室へ。なんとか地上へ抜け出します。
しかし<とたんにハッと、これは戦災のにおいや。どないしてんと体をずり上げ見わたせば、教団の建物は影も形もなく、庭一面に草の一本すら見えず眼前に広がる平地に一軒の家も木立も消えて、山肌は赤くただれ、ただしんかんとしずまりかえり、貯水池の水の上におびただしい材木のむれが重なり合ってうかんでいる。「地震でもあったんか」それにしては人一人もおらんし、とにかく、ようみてみよと倒れた石の塀をまたいで…………>


まるで阪神淡路大震災後の二テコ池の姿を予見したかのような光景が描かれています。
しかし、小説では阪神国道まで続くもっと悲惨な光景が描かれています。
<水爆の炎が地球を灼いたとは露知らず……>と最後は、ガンめんが地中に隠れている間に水爆が落ちて、出てきたら世界が消滅していたという結末でした。


 水爆の結末については、戦争を体験した野坂の原爆恐怖症が書かしめたようです。『わが桎梏の碑』にも、「爆発音の後遺症」として

<朝鮮戦争の戦火は必ず米ソの対立となり、米軍基地の数多くをひっかかえた日本列島はソ連の原爆目標となろう、ぼくはその足で、上野駅へ向い、越後湯沢へ逃げた。>
<ぼくはじっと、東京が、もう一度、「なくなってしまう」のを待っていた、一面の、徹底的に滅びてしまった跡を、歩きまわりたかった、「いやぁ、えらいこっちゃなぁ」「ほんま気の毒に」と、つぶやきつつ。>
<時、場所、自分の精神状態と関わりなく、大きな爆発音の予感に、周辺が白っぽくみえてしまうのは、「原爆恐怖」あるいは、「待望」の後遺症に違いない。>
と『とむらい師たち』と同じ光景を書いています。
 



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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