阪急沿線文学散歩

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陳舜臣『神戸ものがたり』神戸的モダニズムの異人館地帯

 陳舜臣『神戸ものがたり』では海軍営の設置に始まる神戸の町の発展、魅力について語られたエッセイ集です。

「異人館地帯」の章では、明治以降急速に進んだ欧化の背景をもとにした神戸的モダニズムについて述べています。
<西欧文化の浸透には段階があった。しかし神戸の町には、居留地のなかに「西欧」が忽然と出現した。一般の民衆から隔離された居留地のなかに、それがとじこめられているうちはまだよかったが、雑居地域に指定されたところ、とくに山本通りから北野町にかけて、またしても「西欧の町」が、すっぽりとはめこまれたのである。>
 イギリスのノーベル賞作家キップリングには、「神戸はあの忌まわしいアメリカ的な外観だ」と酷評されたものの、英字新聞には「東洋で最も美しく、よく設計された居留地」と称賛されています。

 明治11年のC.B.バーナードによる忽然と出現した居留地の絵がありました。中央には西欧風の街にそぐわない籠かきの姿が描かれており、居留地の出現に当時の人々はどれほど驚いたことでしょう。


現在も残っている旧居留地の異人館は、ただ一軒TOOTH TOOTH maison15thというレストランとなっている15番館です。


 内外人の雑居が認められた異人館地帯では強烈なエキゾチズムとモダニズムが放射されていました。
<それは夢の世界に似ていた。異なる風土に、むりやり移植された、つくりものといったかんじもするのではないか。まだ、じゅうぶんには根付いていなかったのだ。手をかけて、ひきはがすことができそうな気さえする。苔むした庭石、煤けた壁、くろずんだ柱をもつ日本の家々にくらべると、異人館はガラスとセルロイドでできたおもちゃ、もしくは張り紙細工のように思えた。>

明治中期の山本通りと諏訪山。
北野町3丁目あたりの風景ですが、田畑の中に突然現れた異人館です。

<そうした背景をもつモダニズムは、必然的に一緒の薄さをもたざるをえなかった。が、同時に、あやしいまでに幻想的でもあった。薄さそのものが、ロマンだったからともいえよう。>
陳舜臣が述べているように大正時代の神戸の町を幻想的に捉えて数々の作品を発表したのが稲垣足穂でした。次回は『星を造る人』について。





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庄野潤三『早春』に三宮のキングスアームスが登場

 「私の神戸物語」と帯に書かれた庄野潤三の『早春』で、芦屋の叔父夫婦と庄野夫妻との神戸の話の中で、突然キングスアームスの話題がでてきます。


<このあと妻は、キングスアームスというお店が市役所の先にあるんですといい出す。へえ、キングスアームス?そこで私が、これは英国のどこかのパブリック・ハウスをそっくりそのまま真似て建てたものなんだそうです、八年ほど前に姪の結婚披露宴がオリエンタルホテルであった時、家内と二人でそこへ夕飯を食べに行ったんです、前の日にこちらへ来たもんですからと、いきなり妻が口にしたフラワーロードの店について手短に説明した。>

『早春』が書かれたのは昭和57年ですから、当時のオリエンタルホテルは神戸市生田区京町25にあった写真のホテルでしょう。

 私のキングスアームスの記憶は昭和45年ごろのこと、イギリスのパブそのものでした。

<壁なんかも何回も重ねて塗ってあって、二階へ上る木の階段が料理を運んで来る度にきしんで音を立てるんですとか、一階の隅は投げ矢をして遊べるようになっていて、東京ならきざでとても見ていられないのに神戸だとそうならないんですね、若い人が楽しんでいるんですけど、別に目障りではないんですといえば、叔父は珍しそうに聞き入った。>

懐かしいキングスアームスの内部の様子が、1959年版映画『細雪』に登場します。

蒔岡家の四女妙子の制作した日本人形の展示会の会場として選ばれたのが、キングスアームスの2階でした。

きしんで音を立てる二階へ上る木の階段が左側に写っています。

一階のバーカウンターの様子です。

「一階の隅は投げ矢をして遊べるようになっていて」のダーツをする様子は、『月刊神戸っ子』1999年2月号に掲載されていました。


1961年3月号の『月刊神戸っ子』「特集/世界一うまい神戸のビフテキ」では次のように紹介されていました。
<キングス・アームス@当店の呼びものはスペシャル・ビーフ・ステーキ、量といい、質といいデラックスなんです。A九割は外国人B五○○円C神戸市庁舎のすじ向かい。三角屋根のエキゾチックな店構えです>
昭和36年には、お客の9割が外国人、デラックスなビーフステーキが何と500円でした。

 更に1998年12月の閉店前の『神戸っ子』の取材記事がありました。
<1950年に東洋で最初のブリテッシュパブとして誕生。一階はパブ。二階はレストラン。三階には使われることがなかった小さなホテル。1パイントのビールとフィッシュ・アンド・チップスとローストビーフと友との語らいが作る小さな異国。世界各国の人々がそこで会い、そこで話し、そこで飲み、そこで別れる、神戸にふさわしいインターナショナルな空間。>

<フイッシュ・アンド・チップスのサマになった店、本場に負けないローストビーフを食べさせてくれた店、十八世紀のイギリスのパブを極東の港町で経験させてくれた店は、二十世紀の終末、1998年12月29日にあっさりと幕を降した。もう少しで二十一世紀がくるというのに……さいうなら、キングスアームス。またいつか……>

イギリスのパブそのものといった感じだったキングスアームスが神戸の街から消えてしまったのは残念です。




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なんと旧ハンター邸がトアロードのTORの語源だったとは!

 弓倉恒夫『神戸トアロード物語―その名の謎に挑むー』は、詳細な資料調査に基づいて、TOR ROADの由来を解明し、更に今でも神戸っ子でさえあまり知らない驚くべき事実を教えてくれました。


まずトアロードの由来の諸説を列挙し検証を進めています。
1.ホテル説 ロードの山手の突き当りにトアホテルがあっ たからとする。
2.英語説 torは古語で岩山を意味する。
3.ドイツ語説 TORは門の意味
4.東亜説 漢字説。
5.鳥居説 「とりい」のローマ字綴りtoriiからiiがぬけ 
  落ちた。

これらの説の検証が進められ、
・明治41年のトアホテル開業後かなりたった大正12年の
 ジャパン・ディレクトリーの神戸地図にはまだ「三ノ宮
 筋」と記載されていたこと。
・大正10年発行英字神戸案内の広告欄にTor Hotel Roadが
 5例出現していること。
・昭和4年発行神戸・大阪英字電話帳にTor Hotel Roadが多く
 現れ、Tor Roadが顔を出し始めたこと。
を資料とともに明らかにし、「ホテル説」が正解としています。


 次にTorの名が何処からとってきたのかが明かされます。
ホテル建築着工の少なくとも6年前から2年前までの5年間、英国人F.J.バーデンズなる人物が大邸宅を構え、これを”The Tor”と表示していたことが判明します。
これがトアホテルのルーツ、ひいてはトアロードのルーツだったのです。

 この館と、ホテルの敷地となった高い石垣と庭園を含む広大な土地などを築造したのは、A.グレッピー氏で、その2700坪の底地の名義は、明治23年から明治40年にホテルに売却されるまで、妻のS.M.さんでした。
このグレッピー氏が建てた大邸宅の末期に、住んだ英国人F.J.バーデンズ氏が、自宅に”The Tor”の名を付したのです。

その理由について、著者の弓倉恒夫氏は、
<山手に向かって辿る夕景、英国人の目に映る風化花崗岩の山肌や石垣が、ノスタルジアの念ひとしお、故国のTor(岩山)を思い起させたとしても不思議ではない。>
と、推定しています。

トアホテルの跡地にある神戸外国倶楽部の石垣の上を見ると、AG1890という文字が彫られています。

AGはエー・グレッピー氏の頭文字で、1890は日本人妻のS.M.さんの名前が旧土地台帳に登記された年(明治23年)だったのです。

さらに驚かされたのは、現在王子公園内にある旧ハンター邸が元々ここにあり、この建物がThe Torだったことです。

昭和40年兵庫県教育委員会発行の「旧ハンター氏邸移築工事報告書」に、
「詳しいことはわからないが、ハンター氏は、この建物を新築したのではなく、トアホテルの建っていたところにあった。ドイツ人貿易商、エー・グレッピー氏の居宅を買い取り、これに改造を加えて移建したといわれている。グレッピー氏が、この居宅を建てたのは明治二十二年と伝えられ」
と書かれていたことから、移建直前の5年間、F.J.バーデンズ氏がThe Torと称して住んでいたことが明らかになったのです。

 この事実は生粋の神戸っ子でもほとんど御存知ないのではないでしょうか。

この名著、弓倉恒夫『神戸トアロード物語―その名の謎に挑むー』は残念ながら古本としては流通しておらず、購入できません。
西宮、芦屋の図書館にもありませんが、さすが神戸市立図書館で借りることができました。


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『少女の友』に松本かつぢが描いた女生徒は神戸海星女子学院?

 田辺聖子さんや須賀敦子さんが愛読していた『少女の友』。吉屋信子と川端康成の小説が人気だったそうですが、やはり引き付けたのは中原淳一の挿絵でしょう。


 その中原淳一と人気を二分していたのが松本かつぢの挿絵と漫画です。


「少女の友」創刊100周年記念号をめくっていると、松本かつぢの挿絵が掲載されていました。阪急電車でよく見かける制服です。

「戦ひの前」とうタイトルがついています。

 どこの学校かと思っていたら、先日神戸文学館・原田の森周辺を歩いていると、その制服を着た小学生が歩いていました。

 このあたりの風景、庄野潤三が奥様と友人の太地一郎氏の案内で原田の森の関西学院跡を巡った時の話として、『早春』に著しています。
<広い道路へ出た。向かいに海の方を向いてマリアの像が屋上に立っている校舎が見える。これが海星女子学院ですと太地。これを真直ぐに上がって行くと青谷ですよ。>


 一行は海星女子学院の前の交差点を右に曲がります。
<青谷一丁目という表示が出ている。静かな、いいところですねと妻。昔はこの上に神戸商大があったんですよ。親父が柔道を教えに行っていた報徳商業は商大の隣にあった。後に仁川に移って報徳学園になったんだけど。それから松蔭女子学院。これはミッション・スクールとしてはかなり古いんじゃないかな。もう少し先へ行ったら神戸高校がある。昔も今も文教地区ですね、このあたりは。右手は王子スポーツセンターの続きで、テニスコートやバレーボールのコートは金網越しに見える。女の子がテニスをしている。その向こうに海。空がさっきより曇ってきた。「これから下がおそらく関西学院の敷地だったんだろうね、ずうっと」と太地。>

上の地図で黄色く囲んだところが、海星女子学院、小磯良平の『斉唱』の絵の制服で有名な松蔭女子学院、村上春樹も通った神戸高校です。

 さて初めの松本かつぢが描いた女生徒の制服に戻りますが、神戸海星女子学院小学校の制服そのものなのです。

 しかし、この絵の初出は昭和10年5月号の『少女の友』なのですが、神戸海星女子学院の歴史を調べていると、『月刊神戸っ子』2017年5月号の次の記事から戦後間もなく創立されたことがわかりました。

<戦後間もなく、「マリアの宣教者フランシスコ修道会」のシスターたちが別の修道会から旧制高等女学校を引き継ぎ、下山手に仮校舎を置いていました。新制高等学校として認可を受けるため広い土地を探していたところ、報徳学園さんのご厚意でこの素晴らしい環境のもと、土地を入手することができ、1951年に小・中・高等学校を開校しました。見渡す限りの焼け野原の中、戦後の神戸市で建設された最も大きな建物だったそうです。神戸港から校舎とマリア像がよく見え、シスターたちが出港して来たマルセイユの街並みを彷彿させたと聞いています。>

 そうするとどこの学校の制服を描いたのでしょう?
松本かつぢは神戸生まれの画家なので、関西の学校の制服かと思っていたのですが、やはり戦前からある関東のミッションスクールの制服でしょうか。もしご存知でしたらお教えください。




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どこの学校の制服かは分かりませんが、神戸海星女子学院の制服との違いは分かります。
海星のスカートはボックスプリーツ(箱ひだ)です。
海星のスカートのたすきは後がバッテン(交差している)になっています。

[ 西野宮子 ] 2018/07/09 11:44:34 [ 削除 ] [ 通報 ]

やはりそうですか。どこでしょうね。

[ seitaro ] 2018/07/11 15:28:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

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小泉八雲が『心』に著わした神戸居留地の風景

 神戸居留地の風景について、ジャパン・クロニクルの編集者だった英国人ロバート・ヤングは「夕暮れの海岸通は、まるで一幅の美しい西欧の名画のようであった」と絶賛していますが、ラドヤード・キプリングは旅行記『キプリングの日本発見』で、「正直言って、神戸は外見はおぞましいばかりにアメリカ風だ」と酷評しています。

 もう一人、居留地に批判的だった人物は明治23年に来日し、日本の文化をこよなく愛し、帰化した小泉八雲です。

彼が明治28年、神戸在住時代に執筆した随筆『心』で、居留地について次のように述べていました。
<開港場の外人居留地はその極東の周辺環境といちじるしいコントラストをなしている。通りの整然たる醜悪さには地球のこちら側のものでないなにかが感じられる。−西洋の断片が魔法のように海を越えて運ばれてきたかのようだ。>
と日本の伝統的な文化を破壊するもののように捕らえています。日本の文化の良さを日本人以上に理解していた小泉八雲だからこそ遠慮なく書けたのでしょう。

当時の神戸港の写真です。左上が居留地。その真中の広い道路が京町筋です。

<商業用建物は財力を誇示し威嚇するがごとくである。住宅は、ありとあらゆる様式が並び、刈り込まれた灌木の月並みな庭に囲まれている。白い道路は固くて平らでテーブルのようで、道沿いは箱植えの木が並ぶ。英米本国でおなじみのものは居留地にはまずなんでもある。>

当時の絵を見ると色々な様式の建物があります。
まるでテーマパークが忽然と現れたようなものです。

狭い範囲ですが、本当に何でもそろっていたようです。
<アマチュアの芝居や講演会、音楽会も開催され、そしてごくたまには本格的な劇団が、世界巡業の途次に立ち寄り、本国におけると同様、男客を報復絶倒させ女客の紅涙を絞る。クリケットのグラウンド、競馬場、公園、ヨット倶楽部、陸上競技同好会、水泳場もある。>


<極東という茫漠たる未知の砂漠の中でここだけは西洋風生活ができるオアシスで、このいかにも小さなコミュニティの中では、誰もが顔見知りだから、これら世界の主人公をもって任ずる人種のあらゆる欠点も多少の美点も、ここでは海の彼方の本国以上にとくと研究することができる。>
ジャーナリストとしての小泉八雲は居留地の人々に批判的な目を向けていました。


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明治時代から日本の街づくりに警鐘を与えていたロバート・ヤング

 小泉八雲も勤めたことのあるコーベ・クロニクルから名前を変えた神戸の英字新聞ジャパン・クロニクルが、大正7年(1918)に50周年を記念して発行した“JUBILEE NUMBER 1868-1918”で、創業当時からの経営者で編集長でもあった英国人ロバート・ヤングが神戸外国人居留地の歴史について詳しく述べています。


 神戸の外国人用居留地の建設に伴い、居留地会議が誕生します。そこでは居留地の特権を日本政府の侵害から守るということも大きなテーマであったようですが、砂原に忽然と姿を現しつつある街の美化問題に精力的に取り組んでいます。

<1868年11月13日、早くも居留地の街路沿いに植える樹木購入の提案がなされた。数か月後、再び審議され、これが採決されて、ようやく居留地に街路樹がお目見えした。この街路樹のおかげで、神戸の居留地は、まるで英国の田園都市のような雰囲気を長い間ただよわせていた。>

神戸市立博物館に展示されている居留地復元模型を見ますと、英国の田園都市とまではいきませんが、街路樹が植えられているのがわかります。

更に、
<バンドができてから、護岸壁と道路の間の細長い場所に芝生が植えられた。海に面して建つ田園風の建物に芝生の緑がとけ込んで、実に美しい眺めであった。二、三十年前まで居留地の外国人たちは、夕方になるとこのプロムナードに集まってきて、気ままに散歩を楽しんだ。ベンチに腰をおろし、視界を妨げるものがすっかり取り除かれ、見晴らしのよくなった海を、いつまでも眺めていたものである。なかなか上手なポルトガル人の素人楽団が美しい旋律を奏でるなかを、華やかで魅力的な衣装の淑女たちがそぞろ歩いている夕暮れの海岸通は、まるで一幅の美しい西欧の名画のようであった。>

海岸通りの芝生とベンチが写っています。

一幅の美しい西洋の名画とまではいきませんが、当時の居留地の絵がありました。

 また居留地会議は東の境界になっていた旧生田川の堤防一帯を遊園地にしています。

<堤防の樹木はそのまま残し、低いところを整地して芝生を植え、クリケットやフットボールのグラウンドが完成した。さらにローンテニスやその他のゲームができる設備も整った。すっかり完成したこの遊園地は、神戸でもっとも魅力のある美しい広場になり、今では広く外国人にも日本人にも利用されている。>

当時の遊園地でクリケット楽しむ様子です。(現在の東遊園地)
 
 しかし、居留地時代外国人によってみごとに手入れされていた街路樹も、日本人が管理するようになると荒れるに任されてしまい、ロバート・ヤングは次のように嘆いています。
<日本人たちは、環境の美化に税金を充当するのは、“物質主義的”な外国人のすることであると思ったのであろうか。日本人は将来“美”を愛する国民だと思い込んでいる日本びいきの人たちも、少しはその考え方を改めなければなるまい。日本人は外国人たちが示したこのお手本を見習うどころか、逆に、せっかく苦労して美化した街の環境を破壊してしまったのである。>
これをヤングが書いたのは大正7年のことですから、その頃の海岸通の景観はひどくなっていたようです。

更に、次のような警句で結んでいます。
<ヨーロッパでは、大都市の中心部に必ずといってよいほど、よく手入れされた美しい公園を見かけるのであるが、日本人はこのような広場などにはほとんど無頓着で、関心すら示さなかった。人口いまや五十万人に達しようとする神戸の街に、かつて外国人が造り上げたあの居留地の遊園地を除いては、本当の意味で都市公園と呼べる広々とした場所はただの一ヵ所もない。>

写真は現在の東遊園地。

 日本固有の自然美を愛する美意識と、造形美を愛でる西欧人の美意識の差があったのかとも思いますが、それにしても日本人の都市景観に関する意識の希薄さは反省させられます。
 決して欧米風の都市景観を目指す必要はないと思いますが、いったいどうすればいいのでしょう。




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ラフカディオ・ハーンが勤めたKOBE CHRONICLE

 ラフカディオ・ハーンは明治28年に熊本から 神戸市の
コーベクロニクル社に就職し、2年間神戸に住んでいました。


 ハーンが勤めた神戸クロニクル社は明治32年には紙名を『ジャパン・クロニクル』と変え、その後、旧外国人居留地の浪速町65番地(現在のNTT三宮電電ビル)へ移転しています。下の黄色四角の位置。



異人館の画家として知られる小松益喜が、『小松益喜画文帖』にその建物の絵を描いていました。

<この英字新聞社は、電々会館が建っているその東北角から、三十歩もいった辺りにあった。三階が出窓になっているちょっと風変わりな英国風建物だった。
 この新聞は、最初は明治二十年「ヒョウゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」という名前で発行され、明治24年「コウベ・クロニクル」と合併、明治32年焼失、33年「ジャパン・クロニクル」と改称したもので、この画を描いた昭和18年頃は、まだ昔のままの姿で残っていた。そしてこれも昭和20年の戦災で焼失してしまった。>

その写真もありました。

 ここへ移転する前のコーベクロニクルの写真が神戸文学館に展示されていました。

中央奥の白っぽい建物です。
ここにハーンは勤めていました。

場所は旧居留地西側の境界・鯉川筋(現メリケンロード)


クロニクル社は栄町通一丁目7番地に所在していました。
赤の位置です。

『小説ラフカディオ・ハーン 旅する帽子』ではその窓から見える風景について次のように述べています。
<わたくしの机は壁に面していたが、その壁の上に大きな窓があった。そこから通りをいくひとを眺めることができた。これまで日本において見てきた風景とはひどくかけ離れた光景がそこに広がっていた。ダブリン、ロンドン、ニューヨーク、シンシナティ、ニューオーリンズ、フィラデルフィア……そうしたところで見てきた光景にかなり似ていた。いや、正確に言えば、似せるように試みていた。こうした光景はもはやわたくしにとっては別世界のものであり、わたくしが日本人でなかったときの生活を思い起こすだけのものになりつつあった。>
居留地の西欧風の風景に不満を漏らしていました。


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『評伝竹中郁』に描かれた昭和の初めの原田の森・関西学院

 明治22年に原田の森に誕生した関西学院は昭和4年に上ヶ原キャンパスに移りましたが、竹中郁や稲垣足穂をはじめ多くの芸術家たちが原田の森のキャンパスに通っていました。
 同じく原田の森・中学部に通った足立巻一は『評伝竹中郁』で当時の関西学院の風景を次のように述べています。
<神戸の街は海へ向って傾斜しているのでどこでも明るいけど、ことに海を見おろす高台のその一帯には関西学院のほかに県立神戸高等商学校もあり、いつも学生の群れが往き来しているので若やいで華やかな、特別の空気がゆれているようであった。>

写真は昭和4年の関西学院全景です。

<石の門を入ると、学院は植物の緑に包まれている。ポプラ・ヒマラヤ杉・サクラが多く、そのとりあわせが異国の風景を思わせる。その木立の中に、チャペルや神学部・高商部・文学部・中学部の赤レンガの校舎がそれぞれ独立して散らばり、いつも紺サージの学生たちが光のように動いて居る。徽章は三日月にK.Gとローマ字を打ち出している。その三日月も中学部は金メッキだが、文学部は黒のモールに金文字を刺繍しており、それに学帽のひさしがいやに長くて、とてもハイカラに見えた。>

この石の門は上ヶ原キャンパスに移設され、現在も正門の門柱として残っています。

 関西学院博物館に展示されている原田の森キャンパスのミニチュアです。

手前の正門から入るとすぐ左手がチャペル。

斜めの道を更に進むと左手に神学館があります。

こちらは文学部。

中学部です。

<門を抜けて緑陰のなかをしばらく歩くと、チャペルの前に出る。赤レンガはセピア色に沈み、尖った三角屋根がそびえ、その天辺には大きな十字架が光っている。>

関西学院出身の画家神原浩のエッチング。

 さて先般話題になった関西学院の読み方、『評伝竹中郁』では次のように説明されていました。
<校歌も“OLD KWANSEI”という英語だった。「関西」は普通「カンサイ」と読むけれど、それを「クワンセイ」としたのは、関西を冠した固有名詞がこれからいろいろあらわれるだろうから、それとまぎれないためにそう訓じたということだった。>
正しくはクワンセイとのこと。

 著者の足立巻一氏は、キャンパスの光景と校風はアメリカの風が沁んでいて、キリスト教に根差す自由と文化とが匂っていたと述べています。明治時代田舎の村に突然現れた関西学院は、当時の学生たちにとって、きっと桃源郷のような世界だったのでしょう。



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原田の森旧関西学院のSHINTO SHRINE

 王子動物園の隣にある神戸文学館で開催中の企画展「昭和レトロ〜40年代の神戸と文学」に行ってきました。


 展示室に入ると、今回の企画ではありませんが、小金丸勝次のイラスト「原田の森関学時代 思い出の地図」が目につきました。

 
 この絵で気になったのが正門のように見える鳥居です。
ところが、本当の正門は西側にあるのです。

キャンパスマップを見てみると、斜線部は関西学院の敷地ではなかったのでしょう、SHINTO SHRINEと記されています。

 この神社、自身が関西学院中学部に通っていた今東光の小説『悪太郎』の冒頭に登場します。
<森の中は昼でも薄暗かった。校庭寄りに古ぼけた社があったが、いつも神主など居たことはなく、祭礼の様子もなかった。年取った神学生などの話を聞くと、恰度、その森の前あたりに神学生の寄宿舎があったが、夏の終わり頃、祭礼らしく太鼓の音がして、夜は三つ五つの提灯に火がともっていることもあるが、お参りする人もなく、いつの間にかお祭りも終わって仕舞うらしいということだった。村社か何かもわからない。>

神学生の寄宿舎とは、イラストでハミル館の下に描かれている啓明寮のことのようです。

 この寂しげな神社、今はどうなっているのか調べましたら、すぐ目の前にある王子神社とのこと。
関西学院のホームページ「関西学院辞典」からです。
<原田の森は本来は建御名方尊神社(通称原田神社、現、王子神社)の神域の松林を指し、当初、関西学院の校地はその地域を除いてそれを取り囲む形となっていた。>

地図の黄色の丸の位置です。

現在の原田神社の写真。

社殿脇には立派な御神木がありますので、本殿は昔からここにあったのではないでしょうか。

 ところで、足立巻一著『評伝竹中郁』にも関西学院について述べられています。
<学院の創立は明治二十二年九月二十八日である。そのころの原田は西灘村に属し、原田神社のあるあたりは昼も暗い大森林であり、その東方一帯は蜜柑畑と苺畑とがつらなり、農家も四十軒ほどしかなく、キツネやタヌキが名物であった。>

 そのタヌキについて、今東光『悪太郎』の最初の章でも、
<原田の森に狸が住んでいることは古い関西学院の伝説だった。脇ノ浜を山側にのぼると侘しい村落があった。そこに碧眼の人々がやって来て、黄色いペンキ塗りの木造三階建ての校舎を建て、その傍に可愛らしい尖塔を持つ赤煉瓦のチャペルが建った。>
とし、この後狸穴を見つけて狸退治する様子が描かれています。
これらを読んでいると明治時代は森林の中の田舎の村だったようです。
もう少し原田の森のキャンパスの散策を続けます。


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明治22年キプリングは神戸駅から汽車に乗って大阪へ

 『ジャングル・ブック』の著者としても有名なイギリス人でインド生まれのノーベル賞作家ラドヤード・キプリングは明治22年にインドから英国へと向かう途中に日本に立ち寄り、長崎から神戸、大阪、京都、名古屋を経て東京まで旅をし、『キップリングの日本発見』を著わしました。

 
 神戸ではオリエンタル・ホテルの食事を楽しんだことが記されていますが、ある日旅の同行者ヒル先生から「一緒に大阪に行こう。二時間に一本汽車があるし、大阪は煙突がたくさんある工業の町なんだ」と誘われます。
<というわけで、私は神戸のオリエンタル・ホテルで西洋料理を味わいながら、日本からの報告記はガイドブックを見てごまかすつもりでいたのだが、心ならずも雨の降る戸外に引きずりだされ、人力車に乗せられ、神戸駅まで連れてこられた。>

写真の神戸停車場は明治7年に誕生しています。

<駅舎は木目のあざやかな木造建築だった。とはいえ、日本人が最大限の努力をしたところで、駅とはどこまでもつまらぬところだった。>
開業当初、神戸―大阪間32.7kmの間には、三ノ宮と西ノ宮の2か所の停車場があり、その後、住吉、神崎が加わったそうです。

写真は三ノ宮停車場

<しかし、汽車の到着を待っていたのは愛すべき人たちだった。ほとんどがヨーロッパ人のちょっとした変種といった具合で、テニエル氏の描く『不思議の国のアリス』の冒頭に登場する、あの白うさぎ氏の洋装姿を想像してくだされば、あたらずとも遠からずである。>

キプリングには汽車を待つ洋装姿の日本人がうさぎの絵のように見えたようです。

<ちょうどその時瑠璃色をした機関車が、偶然かもしれないが男女混合利用の客車を引っ張りながら、悠々とプラットホームに姿を現し、私たちはイギリス製の一等車用コンパートメントに乗りこんだ。>

イギリスから導入された機関車、確かに瑠璃色です。

<ご存じないだろうが、神戸と大阪の間は、山あり、浜ありという地形で、川の流れの急なことは、北インドのサハーランプルやアンバーラあたりとはくらべものにならない。谷川は自らが運んだ土砂でどんどん高くなってしまった川床を、奔流となって下っている。鉄道はそうした川の両側の土手を大きな梁桁の橋で跨いで汽車を渡していかねばならない。>

上の写真は明治時代の武庫川橋梁です。

その後架け替えられていますが、現在も味のある武庫川橋梁です。
 神戸―大阪間の武庫川、神崎川、十三川の三橋梁は日本最初の鉄道鉄橋となったそうです。

<場合によっては川底をトンネルで潜らねばならないのだ。最後に言ったことは間違っているかもしれないが。ともかく私たちは松と竹で作った大きな橋の下を三回もくぐった。そこには川が流れていたにちがいない。>
 阪神間特有の天井川。キプリングは間違っているかもしれないがと断っていますが、石屋川、住吉川、芦屋川は間違いなく天井川で、その下のトンネルを鉄道が走っていました。

写真は創設当時の石屋川トンネル。

 キプリングは鉄道の橋梁と天井川の下をくぐるトンネルに驚いたようですが、更に驚かせたのは車窓から見える田畑でした。
その面積はは広くないものの、
<しかしそれから先、その畑がどのくらい途方もなく几帳面に手入れされているか、どのくらい見事な灌漑システムをもっているか、どのくらい数学的に正確な間隔で苗が植えられているかが皆さんの目に浮かぶように、私の筆の力でいったいどこまで描写できるだろう。苗は種類ごとにきちんと区分けして植えられ、境界線は人の通る通路として無駄なく利用され、どの畑も隣に負けない収穫量をあげている。>
と日本人の几帳面さ、繊細さに驚いています。

『キプリングの日本発見』は西洋人が見た日本のことが書かれているのですが、アメリカナイズされた現代の日本人にとっては、明治時代の日本の文化を理解するのに大変役立ちます。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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