阪急沿線文学散歩

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阪神大水害の時、神戸のドイツ人学校は何処にあったか?

 谷崎潤一郎『細雪』で、昭和13年7月5日の阪神大水害の日に、お隣に住むドイツ人一家の子供たちもドイツ人学校へ行っていて心配する場面があります。
<「わたしの旦那さん、ペータァとルミーを迎えに神戸へ行きました。大変心配です」
シュトルツ氏の三人の子供たちのうち、フリッツはまだ幼いので学校へ行っていなかったが、ペータァとローゼマリーは神戸の山手にある独逸人倶楽部付属の独逸小学校へ通っていた。>
 これはほぼ実際に起こった出来事を、谷崎潤一郎が小説に著わしたもので、倚松庵の隣に住むシュトルツ家の実名はシュルンボム家で、妻の名はフリーデル・シュルンボム、子供たちの名は本名が使われています。

写真は『細雪』のシュトルツ家のモデルとなった母フリーデル、長男ペータア、長女ローゼマリー、次男フリッツ(就学前)の4人です。この二人が独逸人倶楽部付属の独逸小学校へ通っていたのです。

 手塚治虫『アドルフに告ぐ』でも阪神大水害が描かれており、アドルフ・カウフマンが学校に出かける場面があります。


 ところがアドルフが通っていた小学校は神戸キリスト教学校となっているのです。

 おそらく、この学校は北野町にあり1893年に日本で最初に創立されたインターナショナルスクールの一校であるイングリッシュ・ミッションスクールのことでしょう。

場所は元・神戸市立北野小学校を利用した「北野工房のまち」の南隣にありましたが、現在は聖ミカエルインターナショナルスクールとして存続しています。
 しかし、ドイツ大使館員の息子であったアドルフが通うのは本来ならドイツ人学校で、手塚治虫はその存在を知らなかったのかもしれません。

 阪神大水害が発生した昭和13年に、ドイツ人学校はどこにあったのか知りたくなり、調べてみると、ドイツ人学校についての小冊子を見つけました。


 ドイツ居留民の増加に対応して、1909年山本通2丁目97に最初のドイツ人学校が設立されます。


その後、何故か転々と場所を変えており、

1912-1920 山本通2丁目77b

1920-1921 ドイツ領事館内

1922-1927 北野町2丁目56

1928 山本通2丁目30
これはドイツ人倶楽部のクラブ・コンコルディア内に作られました。ケーゲル場(ボーリングに似た競技)の上のクラブハウスが教室にあてられたそうで、ようやく自前の教室を持てたそうです。

 小冊子のドイツ人学校の紹介はここで終わていましたので、昭和13年もクラブコンコルディア内にあったと思っていたのですが、最近NEKONQUISTAさんから頂いたオットー・レファート原著『神戸のドイツ人 −旧き神戸への回想―』を読んでいると、その後も場所を移っていることがわかりました。
<1927年に「クラブ・コンコルディア」の新しい建物が建設された時、その一翼に学校も建てることをクラブと合意していたので、やっと自前の教室を持つに至った。しかし、間もなくここも手狭になると予想して、1936年北野町3丁目に土地を取得し、立派な近代的校舎を建てた。−1945年6月5日学校は爆撃で破壊された。>

地図の赤く丸で囲んだあたりが、北野町3丁目です。阪神大水害時に、ドイツ人学校はこのあたりにあったのです。

そのドイツ人学校も神戸大空襲で破壊されてしまいました。

現在は六甲アイランドに移り、神戸ドイツ学院ヨーロピアンスクールとして存続しています。





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伝統ある神戸レガッタ・アンド・アスレチッククラブへ

 神戸レガッタ・アンド・アスレチッククラブ(Kobe Regatta & Athletic Club, KR & AC)は明治3年、ラムネ飲料で有名なA・C・シムの提唱により、 居留地に住む外国人にリクエーション、スポーツを提供するために設立され、グランドの設置やその当時まだ日本には なかった近代スポーツの普及にも大きな役割を果たしてきました。

写真はレクレーション・グラウンド(現;東遊園地)、端がK.R.&A.C.のクラブハウスで右側の建物がコーベ・クラブ。

明治35年のK.R.&A.C.の運動会の写真もありました。奥に見える建物がコーベ・クラブ、左側がK.R.&A.C.のクラブハウスで劇場を兼ねた体育館になっています。クラブハウスの600名収容の体育館・劇場は神戸空襲で 消失するまで市民ホールとして約80年間、神戸の芸術文化のメッカとなっていたそうです。

K.R.&A.C.は昭和37年に磯上公園に移転しており、現在はメンバー以外でもレストランで食事ができると知り、早速行ってきました。

場所は三宮から歩いて約10分の磯上公園です。

会員専用施設となっていますが、レストランへの入場は可能です。

玄関を入ると、ペナントやトロフィーなどが展示されています。横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ(YC&AC)との交流戦は発足以来、盛んに行われてきたようです。

1890年にシムが創設してからのK.R.&A.C.の歴代会長の名前が掲示されたボードです。

こちらはレストラン入り口に掲示されていた平日のランチメニューです。今日はパスタ・ランチにしました。

 ランチの早い時間に伺いましたので、ゆっくり店内を見せていただきました。

朝日新聞に掲載されていた記事を見ると、メンバーがいる時はこんな雰囲気になるようです。

こちらはレストランに展示されていた写真から、明治18年に開催されたK.R.&A.C.のレガッタレースのメンバー。右端が創設者のA.C.シムです。

レストランの一階の部屋はコの字型になって奥も広く、メンバーが集まって団欒できるようになっています。

こちらは私が席をとった所で、バーカウンターもあります。

こちらが本日のパスタ・ランチ。
充分おいしく、K.R.&A.C.のメンバーにでもなった気分で、ゆっくりランチを楽しませていただきました。



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ポーラの夫は終戦までメルシェ神父と同じ尼崎の憲兵隊支所に拘留

『ある愛の旅路』から続けます。白系ロシア人のポーラ・ネニスキスはリトアニア人のジョーと結婚し、ポーラの母と共に神戸の山本通りに戦時中も暮らしていました。
 夫のジョーはユダヤ人ではありませんでしたが、ゲシュタポと噂されているドイツ人ミスター・Kが頻繁に家を訪れるようになります。
 戦時中の日本人にとって、ユダヤ人であろうとなかろうとドイツから来た人はドイツ人であり、ナチスの人種イデオロギーにほとんど無関心だったようです。しかし、ドイツ大使館を中心とするドイツ人社会ではナチスの日本支部が結成され、活発な活動が行われていました。


 上田浩二・新井訓『戦時下日本のドイツ人たち』によると、秘密警察ゲシュタポの大佐だったヨーゼフ・マイジンガーが大使館に赴任し、日本の特高と協力して在日ドイツ人に目を光らせていたことが記されています。
<マイジンガーは、ドイツの警察権の及ぶ場所でなら自分が指揮してとっくに直接行動に及んでいただろうが、日本では特高に協力して間接的に同国人を取り締まることしかできなかった。ただし、その実態がどのようなものだったかは詳しくはわかっていない。>

 スパイの巣窟だったと言われる戦時下の神戸でもゲシュタポは活動しており、ユダヤ人たちと親しくしていたポーラの一家は、夫のジョーがスパイの疑いをかけられ、ミスター・Kの密告により、昭和20年5月7日憲兵隊に捕らえられます。

 収監されたのは、カトリック夙川教会のメルシェ神父の収監先と同じ、尼崎の憲兵隊でした。


<憲兵隊は、阪神間の海岸沿いを走る阪神電車の尼崎駅で降り、そこから私の足でたっぷり半時間のところにあった。駅より山寄りだったのか、それとも海の方に向いて歩いていったのか、思い出そうとしても思い出せない。駅から憲兵隊までは、野菜畑と、ところどころに水田の散らばる一本道で、バスも走っていなければ、田畑に出て働く人影もない。低い軒の農家が道沿いにポツンポツンと、うずくまるようにしてあるぐらいだったものだから、毎朝尼崎の改札口を出るたびに、空襲が心配でならなかった。>

 尼崎憲兵分隊は大阪憲兵隊築港憲兵分隊尼崎憲兵分遣隊として発足。昭和18年に尼崎憲兵分隊に昇格し、昭和20年には神戸地区兵隊尼崎憲兵分隊となり、終戦を迎えています。
場所は尼崎市崇徳院一丁目で、現在は尼崎拘置支所となっています。

上の航空写真の右下が阪神尼崎駅、左上が尼崎憲兵分隊跡地にある尼崎拘置支所です。
 ポーラが書いている一本道とは阪神国道のことで、今や周りに田畑などなく、当時の面影はまったく残っていません。

かろうじて石垣だけは当時のものだと思われます。

約三か月間の拘留の後、戦争が終わってようやくジョーは釈放されますが、拷問により肉体も精神も衰弱しきっていました。診察したドクター・ハイマーは次のように告げます。
<ざっと診断して、舌に薬を塗ってさしあげたが、とても悪い。憲兵隊で、相当打たれたんでしょうなあ、背中にムチの跡が無数に残っています。それに問題は、ひどく怯えていることです。人間が全く信じられなくなっている。ムチの傷跡の話にはみなさん触れないでいただきたい。知らん顔をしているように。>

 ジョーは十月半ば神戸から立川のアメリカ軍空軍基地病院に入院し、ようやく回復。
終戦後一年たち、大阪のアメリカ人専用百貨店となっていた心斎橋のそごう百貨店に時計修理の店を出し働き始めることができました。

大阪大空襲にも焼け野原に立つ「心斎橋大丸」と「そごう百貨店」。写真は戦前「カーサ・ラ・パボー二」を経営していた中村善太郎氏が撮影したものです。
 村野藤吾の設計による「そごう百貨店」は2003年に解体されてしまいましたが、空襲の被害は外観からはあまり受けていないように見えます。
 昭和10年に開業した十合百貨店はガラスブロックとモザイクタイル貼りの壁面上に長大なルーパーで正面全体を構成した藤吾のモダンなスタイルが、ヴォーリズの重厚なデザインの大丸と好対照だったそうです。

さて、ポーラはその後も厳しい人生を生き抜きます。

『ある愛の旅路』は戦時中神戸で過ごした外国人女性の、小説にも勝る数奇な運命の記録でした。



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戦時中の神戸の外国人たち(『ある愛の旅路』)

 ポーラ・ネニスキス『ある愛の旅路』に神戸に住む外国人たちの戦時中の生活が述べられています。
<開戦と同時に、神戸在住のアメリカ人やイギリス人、オーストラリア人など、日本と敵国の国籍を持つ外国人は、いっせいに、神戸のあちらこちらに設けられたキャンプに強制収容された。もちろん、わたしたちには、そのキャンプがどこにあるのか知らされていなかったけれど、六甲の山の中だとか、神戸市内のビルだとか、そんな噂が社交クラブや配給センターで会う友人たちからも伝わってもきた。>
 一方、敵国人でない外国人はそのまま滞留が許されていました。
<日本の敵でも味方でもない中間国の外国人は、ひとつところにまとめられるようなことはなかった。白系ロシア、リトアニア、ユダヤ人たちは中間国人と見なされ、ユダヤ人の社交クラブは戦時中も、つぶされずにあった。>

 上の写真のドイツ人倶楽部のコンコルディアは当然存続していましたし、すぐ近くにユダヤ人クラブ(ユダヤ人協会)があり、日本ではユダヤ人もドイツ人も違いなく接していたそうです。


上の図は山本通東公園の小磯良平邸跡の掲示ですが、ドイツ人クラブ・コンコルディアは小磯邸の西側、ユダヤ人協会は小磯邸の東側にありました。

 上田浩二・新井訓『戦時下日本のドイツ人たち』にはクラブ・コンコルディアでナチ党主催の感謝祭の集いが開催されていたことが記されています。

アーリア人種ではない日本人がナチスの人種イデオロギーにくみしなかったのは当然のようにも思われますが、日本でもナチ党が結成されていました。

 また神戸の町には、日本への忠誠を探るような「踏み旗」があったそうです。

<町で、踏み絵ならぬ、“踏み旗”がはじまったのに唖然としてしまった。外国の商館や船員クラブのある元町通りと、配給センターに近い加納町の通りだけしか見られなかった光景だが、アスファルトの通りに、ご丁寧にも色チョークで、星条旗と大英帝国旗が大きく描かれている。わたしは買い出しに行く途中、偶然目にしたのだが、チョークの国旗をよけて歩く日本人がいると、どこに隠れていたのか、日本の憲兵がばらばらとあらわれてひっ捕らえ、まとめてトラックに乗せ、どこかへ運んで行ってしまった。>

 当時東遊園地の管理棟付近にあった神戸レガッタ・アンド・アスレチック・クラブは戦時中も開かれていたようです。

<神戸にはKRAC(コウベ・リガッタ・アスレチック・クラブ)という外国人ばかりのスポーツ同好クラブがあった。このクラブのシャワーは、給水制限がはじまったというのに、いつでも不思議にお湯がたっぷり出る、と、友人たちから聞いていた。シャワーの好きな夫と私は、お湯を浴びたさに、さっそく入会する。>

明治3年に発足し、日本の近代スポーツ発祥とされるKR&ACは1962年からは磯上公園に拠点を移し、現在まで存続しています。

ポーラはKR&ACの女性会員からミスター・Kというドイツ人を紹介されますが、彼が実はゲシュタポだったのです。そしてそれが悲劇の始まりとなります。それは次回に。




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戦前、戦中のユダヤ人協会の様子(『ある愛の旅路』)

 白系ロシア人のポーラ・ネニスキスは昭和15年、新婚旅行と母の療養を兼ね、神戸・山本通りの借家に長期滞在します。
 昭和15年といえば、既に国際連盟を脱退し日中戦争が始まっていましたが、太平洋戦争突入前の年です。神戸では米やパンが配給制になっていたそうで、町には神戸に住んでいる外国人のための配給センターがあり、野菜やくだものはここで入手し、パンは外国人用のクーポンを発行してもらい、町で買ったそうです。
 ある朝のこと、ポーラが配給センターに行くと、ユダヤ人らしい女性から、ユダヤ人ばかりで作っている社交クラブへ来ないかと声をかけられます。カトリック教徒だったポーラの一家は断られるのでは心配しましたが、快く受け入れてもらいます。

ポーラさんの家と配給センター、ユダヤ人クラブ(ユダヤ人協会)の地図が掲載されていました。

<社交クラブは、うちから坂道を下ってすぐのところにあった。二階建てのごくありふれた洋館で、玄関を入ると、三十人ばかりが坐れる天井の高い広間があり、そこがみんなの集会場になっていた。コックもいて、コーヒー、紅茶、サンドイッチのサービスにあたっている。すでに二十人近くの会員が、あちこちのテーブルを囲み、チェスだのポーカーだのを楽しんでいた。言葉は英語だったが、メンバーの中にはロシア人もいて、大歓迎されたものだから、トランプの好きな母と私は大喜び。賭け事の苦手な夫までもが、女性ばかりのテーブルを選んでいそいそとポーカーをはじめたので、おかしくなってしまった。>

この頃ユダヤ人協会はユダヤ人の社交クラブとして使われていました。
 ポーラさんとご主人のジョーとポーラさんの母親の三人は、昼のうち中山手三丁目から市電で神戸探訪、夜になると社交クラブへ通ったそうです。

 その後しばらくして、一家は満州国ハルピンに帰国しようとしますが、母親のビザ申請がうまくいかず、しばらく日本に滞在することになり、覚悟を決め、同じ山本通の二階建ての洋館で部屋数の多い借家に引っ越します。
 昭和16年の秋、ドイツやポーランドからアメリカに亡命する数百人にのぼるユダヤ人を乗せた船が神戸に入港し、アメリカ行きの船が出るまで、神戸に滞在することになります。
その時神戸にそれだけ受け入れる施設もなく、ポーラさんも自分の家に11人ものユダヤ人を受け入れたそうです。
そして、その年の12月8日に日米開戦となるのです。

 さてこのユダヤ人協会は『アドルフに告ぐ』にも登場します。

手塚治虫のことですから、ユダヤ人協会の写真をもとに、絵を描いているのかもしれません。

どこにあったのか調べてみると、山本通一丁目の一宮神社北側の路地にあったそうですが、戦前の面影は残念ながらまったく残っていませんでした。

黄色の丸印のあたりです。

次回は太平洋戦争が始まってからのポーラのお話を続けます。



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戦時中神戸に住んでいた外国人の記録『ある愛の旅路』

 神戸の外国人倶楽部の歴史などを調べるうちに、戦時中の外国人の暮らしはどんなだったろうと興味を持ち始めました。
「これは、神戸に住む異邦人のわたしが歩んだ人生の偽りない記録である。第二次大戦中の神戸で、わが家を襲った悪夢のようなできごとをはさみ、わたしはここにしるしたままの日々を送ってきた」と述べられている、ポーラ・ネニスキス著『ある愛の旅路』はロシア人女性の数奇な運命の記録でした。

 
 著者の父ウラディミールは全ロシアの砂糖を一手に扱う大製糖会社を経営、母マリアは開業の歯科医でしたが、ロシア革命のすぐあと、ハルピンに居を構えていました。
 著者のポーラはハルピンのカレッジでリトアニアの名門の出のジョーと出会い、上海で暮らすようになりますが、新婚旅行とポーラの母親の転地療養を兼ねて神戸に滞在します。


<船は三日後、八月三日の早朝、神戸に入港する。港からの眺めはすばらしかった。目の前には、みずみずしい緑の山が、うしろにはおだやかな海が広がっている。ハルピンも上海も、まわりには緑が少なかったから、あたり一面をおおおう緑の豊かさには、母も私たちも声を飲んだ。港には、父の仕事の、取引相手のミスター・ハミルトンが迎えに来ていた。神戸でのはじめての夜は、港のすぐそばのオリエンタル・ホテルに泊まる。>
当時のオリエンタル・ホテルはまだ海岸通6番にありました。

そのパンフレットです。


 戦前の港からの風景は、パンフレットに描かれたそのままだったようです。
 その後夫妻と母親は、ハミルトンさんが準備していてくれた山本通の純日本風の家を借りてメイドも雇いしばらく暮らすことになります。

 ところで著者は執筆していた昭和53年当時もオリエンタル・ホテルに住んでいました。
海岸通りにあったオリエンタル・ホテルは神戸大空襲で半壊し、残念ながら取り壊されます。

京町筋に移転したのは昭和39年のこと、当時としてはモダンな外観でした。
<私はもう何年も、メリケン波止場に近いオリエンタル・ホテルの一室に住んでいる。日本人はもちろん、ヨーロッパ人やアメリカ人も、ホテル住まい、と知ると、ずいぶん、金持ちなんだなあ、といった顔をして私を見るけれど、ほんとうのところはその逆。日曜祭日も返上して、私はこのホテルで日本人たちに英会話を教えている。>
 シングルの部屋に長いこと暮らしていると息が詰まりそうになるとも述べていますが、ホテルの安全性を買ったようです。
<なにより安全なのがいい。たとえ病気になっても、大勢の人が働いているから、だれかが気付いてドクターを呼んでくれるだろうし、闖入者もレセプションで防いでくれる。私はこの安全を買ったわけだが、ソロバンをはじいてみても、アパートメントで生活するより安い。しかも、このホテルは神戸の中心、三宮や元町から歩いて十分そこそこの便利な場所にあり、ホテルまで英会話のレッスンに通ってくる生徒たちには好都合だし、ホテルに住んでいると、日本人はどういうものか、私を信用してくれる。>

 ところで、昭和39年、京町筋に開業したオリエンタル・ホテルの屋上には日本で初めてとなるホテルの敷地内の灯台が設置されていました。

その燈台は現在神戸メリケンパークオリエンタルホテルに引き継がれて使われています。

 さて、興味深かったポーラさんの戦時中の話は次回に。



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神戸大丸前の三宮神社の大砲

 神戸大丸の斜め向かいに三宮神社があります。



 ここに「史蹟神戸事件発祥の地」と刻まれた石碑が立っています。

 これは神社の前の西国街道で、西宮の警備を命じられた備前藩の大砲隊と士隊の隊列を横切ろうとした外国人に切りつけ、騒乱に発展した事件です。

 神社に入ってみると、黒い大砲がありました。

神戸事件で使われた大砲ではないようですが、同じ年代に製造されたものだという説明書きがありました。

 神戸事件では、結局砲術隊長であった瀧善三郎が責任者として永福寺で切腹しますが、その経緯と切腹の様子が、英字新聞ジャパン・クロニクル紙が編集・発行した”Jubilee Number 1868-1918”や、アーネスト・サトウ日記に詳しく書かれています。
 切腹とその後の介錯の模様はあまりにも生々しく、ここでは引用しませんが、イギリス公使館からサトウとともに派遣され、処刑の場所に臨席したミッドフォードは、
「寺院という場所と夜おそい時刻とによって、厳粛な雰囲気をいやが上にも高めたこの切腹の儀式は、日本の身分ある紳士の顕著な特徴である威厳と礼節に満ちていた」と報告し、サトウは<感動はイギリス公使パークスにも伝わったようである。>と述べています。
この犠牲がなければ、日本は植民地と化していたという説もあるそうです。

 三宮神社に話を戻すと、小さな神社に見えますが、戦前は今と比べ物にならないくらいの広さを誇っていたそうです。

戦前の三宮神社の写真がありました。
境内には映画館や飲食店があり、一大歓楽地となっていたそうです。

昭和初期の地図を見ると、黄線で囲ったところが三宮神社の境内だったようです。

そしてここから山側に上る道トアロードは、大正時代はまだ三ノ宮道路と呼ばれていました。
現在の三宮駅からは少し離れていますが、三宮の歴史が詰まった三宮神社でした。



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南北を海側山側と表現する街

 先だって、東京にお住まいの方から神戸では今でも「海側、山側」と言うのですかと尋ねられました。現在でも変わりませんとお答えしましたが、自分自身普通に使っていました。
 
 いくつかの小説にもその表現は登場します。
原田マハさんの関西学院大学在学時代の経験をもとにした『おいしい水』では、阪急電車から眺める風景を次のように表現しています。
<あずき色の電車は、大阪・梅田から、私の住む西宮北口という駅を通って、神戸・三宮、新開地まで走っていた。特急ならば、西宮北口から三宮まで十分ちょっと。物足りなくて、私はしばしば普通電車に乗った。車窓から眺める風景が、何より好きだったのだ。山側は北。海側は南。方向音痴の私でも、神戸では方角を間違えようがない。そんな大らかな地図のような街が、大好きだった。>

上の図をご覧になると、海と山に挟まれた西宮北口以西では、南北より、海側山側の表現が判りやすいことが理解できると思います。

 昨年発刊された石田香織『きょうの日はさようなら』は作者自身が体験した阪神大震災から5年後の神戸を主な舞台に、社会の片隅で不器用に支え合って生きる人々を描いた作品。

主人公は神戸で暮らす事務員です。
<私は海と山に囲まれた街で事務員として働いていた。昔は外国人の居留地だったその街は洋風石造りの建物が多く、異国情緒があった。大きな震災から五年経って、街は何事もなかったように活気が戻っていたが、ビルとビルの間にぽっかりと出来た空き地や、改修の目処が立たず閉鎖され錆びれたホテルがまだ残っている。>

写真は旧居留地明石町筋。前方が海側(南側)。

そして、次のように海側山側の表現が出てきます。
<この街の人達は「南北」を「海側か山側か」で表現する。港へ続く平坦な道の「海側」と山に向かうなだらかな道が続く「山側」。楽ちん湯は山側にあり、遠くに山の緑を眺めながら自転車を立ち漕ぎして坂を上って行かなければならない。>

海岸通りの写真。左手が山側。右手が海側。

トアロードで、山側を見る。

 普段はまったく気にしていなかったのですが、神戸大丸の各階のエスカレーター入口には海側・山側の表示があります。

エスカレータの上に方角の表示が必要かとも思いますが、このような表記は神戸以外では見られないでしょう。
尋ねられるまでは、関西育ちの私はまったく気にしていませんでした。


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江戸川乱歩『人間椅子』の構想はトアロードの家具店で

 江戸川乱歩の不朽の名作といわれる『人間椅子』は川口松太郎が編集していた雑誌『苦楽』1925年(大正14年)9月号に掲載された作品です。


 容貌が醜いため周囲の人間から蔑まされていた椅子専門の家具職人である「私」が、外国人専門のホテルに納品される椅子の中に人間が一人入り込める空洞を作り、水と食料と共にその中に入り込み、そこに座る人の感触を楽しむという少し変態チックな物語。

YouTubeで佐野史郎さんの朗読を聞くこともできます。
https://www.youtube.com/watch?v=8azhg305nbY

青空文庫でも読めますし、短編にもかかわらず映画や漫画にもなっているようです。やはり着想とストーリー展開の素晴らしさからでしょう。

 川口松太郎からの注文で書いた『人間椅子』について、江戸川乱歩は『探偵小説四十年』で次のように述べています。

<川口君から頼まれても、無論持ち合わせの筋なんてないので、夏のことで、二階の部屋で、籐椅子に凭れて、目の前に置かれたもう一つの籐椅子を睨んで、そして、口の中で椅子、椅子とくりかえしているうちに、ふと、椅子の形と人間のしゃがんだ形と似ているなと思い、大きな肘掛椅子なら人間がはいれる、応接間の椅子の中に人間が潜んでいて、その上に男や女が腰をかけたら、怖いだろうな、という風に考えて行ったのです。>

 しかし、肘掛椅子のなかに人間がはいれるものかどうか気になりだした乱歩は、神戸に洋家具の競り市があると聞いて神戸の横溝正史を訪ねます。
<結局せり市が見つからなくて、横溝君と二人で神戸の町を散歩して、とある家具店の店先に、大きな肘掛椅子が陳列してあるのを見つけ、私はいきなりその店へ入って行って、「この椅子の中へ人間が隠れられるでしょうか」と聞いたものである。何というものだ。横溝君はそのころから、私の少々突飛なくせを、恥ずかしがってくれていたものである。>

神戸の町のとある家具店はトアロードにありました。

写真は現在のトアロード。

横溝正史は呼応するかのように次のように語っています。
<外人が引き揚げるときに売っていく、そういう店がどっかないかっていうもんだから、トーア・ロードにそういう店があるってつれていったの。そうしたら、この中に人間が入れるだろうかと聞いて、こっちはきまりが悪くってさ。>

 三宮神社のすぐ北、トアロード沿いにモダニズム時代を象徴する建物がありました。

 ヨーロッパ舶来家具、雑貨店『河南工芸社』です。

 聞くところによると創業100年以上の歴史があるそうで、ひょっとすると訪ねたのはこのお店かも、と想像をふくらませると楽しくなります。




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YouTubeで佐野史郎さんの朗読を聞きました。
佐野史郎さんの朗読は小説にぴったりでした。
それにしても気味の悪い小説だこと。

[ 西野宮子 ] 2018/08/09 20:41:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

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丸谷才一『食通知ったかぶり』での神戸評と訪ねた店は

 丸谷才一の『食通知ったかぶり』は「神戸の街で和漢洋食」から始まります。


 食の話だけではなく、まず神戸の印象が綴られています。(特徴ある歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに変換いたしました)
<神戸の人は愛郷心が強い。わたしはかねがねそう思っていたのだが、数年前、野坂昭如と、戦前戦後の日本風ゾクの移り変りをのんびりと語りあっているときのやりとりで、この感想はほとんど信念と化した。>
 丸谷才一はある話から野坂の神戸を愛する心に感心してしまいます。さらに万事につけハイカラと、神戸の街を礼賛しています。

<もっとも、あれはたしかに自慢するにふさわしい街で、わたしは昔から気に入っていた。山と海にはさまれた地形がいいし、開港場だけあって万事につけてハイカラだし、それでいて一つの街という個性とまとまりを身につけているし、美人が多い。つまり文句のつけようがない結構な街で、老後はひとつここで暮らそうかという気になるくらいである。>
神戸の人だけでなく、誰もが認める結構な街です。

 更に、和漢洋どれをとってもうまい店に不自由せず、それが『食通知ったかぶり』を神戸から始めた理由だと明かしています。
 そして最初に訪ねた店は陳舜臣氏ご推奨の別館牡丹園。


 丸谷才一はここで、日本料理の原型は広東料理にほかならないと考えるのですが、その説の真偽はさておいて、褒めちぎった一品は、「炒鮮奶(チャウシンナイ)」
<しかしこの別館牡丹園で随一の料理は炒鮮奶(チャウシンナイであつた。これはいためた鶏と海老をつぶし、その上に牛乳と卵白のまぜたものをかけ、つぶしたピーナッツをあしらったもので、揚げたビーフンを敷いた上にのせて供する。従つて、ほとんど白一色の料理で、見た目にもきれいだが、味の上品で風流なことは言うまでもないし、あつさりしていてしかもエネルギーにみちている。高雅で、凛然として、艶麗なること、さながら貴女のような趣の一皿。>
 元町の別館牡丹園は私も何度か訪ねましたが、炒鮮奶は食べたことがなく、お昼に確かめに行って参りました。

ご覧のように、丸谷才一が書いている通りの料理、それ以上説明しようがありません。話のタネに一度お試しを。

 丸谷才一の翌日の昼食の予定は「青辰の穴子ずし」でしたが、休業中のため「魚亭うをじま」に変更。

 最後の夕食は「麤皮(あらがわ)」。
東京の田村町にも店を出しているそうですが、野坂昭如の友人から東京の麤皮をもって神戸の麤皮を論じられては困るとたしなめられ、本家本元へ向かいます。
<東京の店もそうだけど、神戸の麤皮はいっそうひっそりと、人目につかない、ささやかな店がまえで、これを逆に言うと、一流の料理屋という矜恃にあふれている。わたしはさんざんに道に迷ったあげく、ようやく探し当てて、イギリス風の渋いつくりの店にはいった。>
「麤皮」を調べてみると中山手通2丁目にあり、1956年の創業以来、神戸の炭焼きステーキの文化を創造し、ミシュランガイド二つ星を獲得した名店。

表はこんな雰囲気です。
丸谷才一が食べたコースの最後は二十四オンスのサーロインステーキ。
文章を読んでいると一度食べてみたいと思いましたが、お値段もそれなり、シェフのおすすめコースが35,640円。さすがこちらはあきらめました。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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