阪急沿線文学散歩

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1980年代心に残る神戸のお店(吉田篤弘『神様のいる街』)

「神戸はどうして、これほど居心地がいいのか」と繰り返し自問していたという吉田篤弘さんは、『神様のいる街』で、神戸っ子以上に神戸通。神戸の歴史に残る名店を御存知でした。

『神様のいる街』からです。
<だから、本物もニセモノも、およそ、たいていのものは神戸で買っていた。同じものでも、東京で買うより神戸で買う方がふさわしいように思えた。食べることについても事情は同じで、何を食べてもいちいち美味しい。その秘密は神戸という街の懐の広さーではなく、程よい「狭さ」と云うべきかーによるのかもしれない。>
たしかにそのように思います。

こちらは先日私が行った三宮のビストロガニオン。このお店はエッセイにはでてきませんが、何を食べてもいちいち美味しい。

写真は前菜のタパス、いずれも満足できるお味でした。

<本を一冊買うのもまた同じで、古本は神保町でもとめたが、新刊書店に並んでいる現役の本は神戸で買うことにしていた。具体的に云うと、東京でも買える本を、元町の「海文堂書店」で買っていた。それは、そうした決まりを自分に課していたのではなく、ひとえに「海文堂書店」が、どこか古本屋のような新刊書店だったからである。本の並びの妙だった。>

海文堂は残念ながら2013年9月に閉店してしまいましたが、東京人の吉田篤弘氏もファンでした。

<そうした絶妙さを小さな店構えの棚に見つけたのではなく、「海文堂書店」という、それなりの広さを持った二階建ての新刊書店の棚から感じとった。稀有なことだった。海にほど近い場所の力もあったかもしれない。海の近くの本屋で、刷り上がったばかりのあたらしい本や、見過ごしていた本を手に入れる喜びー。>
 これを読んで、また懐かしさがこみあげて、現在どのようになっているか、元町商店街に足を運んでみると、大きなドラッグストアに変わっていました。


 他にも数々の知る人ぞ知る神戸の名店の名前が挙げられます。
<これは、通い詰めた店々に共通して云えることで、中古レコードの「ハックルベリー」も、古本の「後藤書店」も、「元町ケーキ」も「エビアン」も「明治屋神戸中央亭」も、いずれも「海側」にあった。それらの店から海が見えるわけではないが、外国の船が停泊する穏やかに晴れた海がすぐそこにあるということが、本やレコードに触れる時間や、気軽に食事をする時間を特別なものにしていた。>
吉田さんが神戸に通っていたのは1980年代のお話。

古本の「後藤書店」、モザイクにあった「明治屋神戸中央亭」は無くなりましたが、他の店は名店として現在も残っています。

 元町商店街の東側の入り口近くにある神戸最大の中古レコード店「ハックルベリー」。

2階に上がると、さすがの品揃え、価格も安く、もう一度ゆっくり見に来ることにしました。

その前にある「エビアン」。残念ながら今日は営業時間が終わっていました。

1952年に神戸で関西初のサイフォンカフェとして開店し、今でもアルコールランプのサイフォン式コーヒーが出てきます。


 吉田篤弘さんの『神様のいる街』、これほど神戸の魅力の本質を見事に綴ったエッセイは他にはないと思います。




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三条杜夫『夜明けのハンター』に日本で最初の喫茶店「放香堂」が登場

 三条杜夫『夜明けのハンター 文明開化物語』はフィクションではありますが、神戸文明開化物語といったところで、様々なエピソードをうまく織り込んだ小説となっています。


 表題となっているE・H・ハンターは、明治7年に神戸にハンター商会を、明治14年には大阪で大阪鉄工所(後に日立造船に発展)を創設し、この他、煉瓦や肥料、煙草、精米、損害保険など次々に事業を起こし、範多財閥を形成し、地元有志より北野天満神社の周辺一帯3000坪の土地を譲り受け、北野の地に自らの“理想郷”をつくりました。


 ハンターは広大な敷地内に最初、日本家屋を建て、少し後に、洋館を移築しています。(洋館は昭和38年に王子公園に移築され「旧ハンター住宅」として国の重要文化財に指定されています。)
 その日本家屋に住み始めたころのハンター夫妻の様子が、『夜明けのハンター』に面白く描かれています。
<留吉が音頭を取って、一世一代の働きで竣工させてくれた新しい家の住み心地は実に良かった。居留地のハンター商会で、来客をもてなす茶は英国の紅茶と決めていたが、自宅でゆっくり過ごす時間は、日本座敷で愛子に点ててもらう抹茶がハンターの口にあった。>

 ハンターさんが抹茶が本当に好きだったかはよくわかりませんが、ここで、元町商店街の「放香堂」が登場します。
<「とってもいいお茶を放香堂で買って来ましたよ」元町商店街の茶商「放香堂」が最近、喫茶室を設けて、人気を呼んでいた。特にコフィーを店の中で飲ませ、新しもの好きの神戸っ子たちの間で評判になっており、これが後に日本初の喫茶店として評価される。店頭でも抹茶の宣伝販売を行い、通りがかった愛子が試飲して気に入り、買い求めて来たものである。茶釜でしゅんしゅんと沸き立つ湯を柄杓ですくい、抹茶碗に注いで、茶筅で抹茶をのの字に練る。こうして時折り愛子がもうけてくれる茶の湯のひと時がハンターは好きだった。>


 私も放香堂を訪ねてみました。方香堂はもちろん今でも京都府の和束町に自社茶農園を有する伝統ある茶商ですが、元町ではコーヒーも楽しめます。

店内に入ると、明治7年の店舗風景が飾られています。

また明治11年の讀賣新聞の広告記事も掲示されており、そこには「焦製飲料コフィ―:弊店にて御飲用或は粉にて御求共に御自由」と書かれています。
日本で最初の喫茶店というのも正しいようです。

今でも臼で挽いた珈琲豆を販売していました。

お店にはいったからにはと、メニューを見て放香堂石臼珈琲明治復刻ブレンドにきめました。


 ポットでいただく明治のコーヒー。正直、現代のコーヒーにはかないませんが、明治の人はこんなコフィーを楽しんでいたのだなあと思いを馳せていました。




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吉田篤弘『神様のいる街』でも神戸の「海側」「山側」が話題に

 以前、神戸の南北の呼び方について、石田香織『きょうの日はさようなら』から引用し、「海側、山側」と表現することを紹介しました。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11768572c.html

 東京都出身で、神戸が大好きな作家・吉田篤弘さんも『神様のいる街』で話題にしていました。
<「海側」「山側」という言葉を初めて耳にしたのは、JR神戸線の高架下にある“丸玉食堂”のカウンター席においてだった。>
 これは、吉田篤弘さんの予備校時代の1980年頃に、なけなしのお金をはたいて神戸に来た時のお話です。

 丸玉食堂が今もあるのか心配でしたが、訪ねてみるとJR元町駅のガード下に今もありました。


 吉田は肉めしや餃子を食べて、<目尻に涙をにじませて、「うまい」と満足した。>と述べており、料理はかなりおいしそうです。
<一人客なので、カウンター席に陣取るのが決まりだったが、あるとき、店が混んでいて、カウンターのいちばん隅の席に追いやられた。いつもどおり、「肉めし」と注文すると、店のお兄さんが、もうひとりのお兄さんに、「肉めし。海側のお客さんと伝えた。(海側?)疑問はほどなく氷解した。五分後にあらわれた一人客が、僕が座っている席と反対に位置する端に座り、「豚足とビール」と注文すると、「山側のお客さん、豚足にビール」とお兄さんはそう云った。>

 ためしに入ってみると、山側、海側の会話は聞けませんでしたが、肉めしは今もありました。豚肉入り野菜たっぷりの中華丼で、満足できるおいしさでした。

 更に、吉田篤弘はJR線が神戸の山側と海側に二分していると解説します。
<神戸という街は、この食堂の頭上を走るJR線の鉄路によって二分されている。高架線から見て山の方 −すなわち「山側」であるー は、高架線の脇にある道を一本渡ると、そこからすぐに山手に向かうなだらかな坂が始まる。反対に、海のある側に出れば、まっすぐ歩いて十五分もあれば港に辿り着く。高架線の北側に居れば「山側」で、南側に居れば「海側」というわけである。>

確かにJR線の北側から山側に坂が始まり、雰囲気もJR線の南北で異なります。
そして、
<ということは、海と山の境界線に当たる高架下は、どちらの側にも属さないことになる。>
高架下を理解するのには、面白い見方です。

 神戸大丸のエスカレーターの乗降口にある、「海側」「山側」の表示は、今まで全く気になりませんでしたが、どんな歴史があるのでしょう。




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吉田篤弘が書こうとしていた神戸を舞台とした二つの物語

 吉田篤弘の自伝的エッセイ『神様のいる街』からです。
吉田篤弘は予備校時代、神田の古書店に通い、「古本を買うこと」の意味を知ります。それからというもの「本をつくりたい」と強く思うようになり、ふたつの文章を書き進めていました
<ひとつはとても長い小説で、「ゴールデン・スランバー」あるいは「黄金のうたたね」と呼んでいた。いくつもの物語がつらなった、物語のかたまりのようなもので、冒頭は神戸をモデルにした港町の一角から始まる、旧居留地にある‘奇妙な惑星’という私設博物館に住む一家の話だった。>
『ゴールデン・スランバー』といえば2008年本屋大賞を受賞した伊坂幸太郎の小説を思い出しますが、吉田篤弘は1982年に同名の小説を書こうと思っていたようです。

「ゴールデン・スランバー」は、直訳すれば書かれているように「黄金のうたたね」ですが、元をたどれば、1969年に発表されたビートルズの最後のアルバム『アビイ・ロード』に収録された楽曲名。

更に遡ると、トーマス・デッカー(16〜17世紀に活躍した英国の劇作家)が書いた詩をもとに、ポールが作った曲ということです。
ビートルズの「ゴールデン・スランバー」は作家の創造意欲を刺激したようです。

<もうひとつは、それもまた神戸を背景にし、山手にある小さなホテルを舞台にした物語らしい物語が起きない会話だけで書かれているようなものだった。舞台が神戸であることは明記していたが、ホテルの名前は“ホテル・トロール”といって、架空のホテルである。>
小説の題名は「ホテル・トロール」となるのでしょうか。
<神戸に滞在しているあいだは、かならず、そのふたつの小説の断片や覚書をホテルの備え付けのメモパッドに書いた。自分のノートではなく、どういうわけか、ホテルのメモパッドを使うと、言葉がよどみなく出てきた。>

 そして、遂に吉田篤弘は架空の“ホテル・トロール”のメモパッドを自分でデザインし、父の印刷所で、そのメモパッドを作ってもらいます。

 いわば創作メモですが、それを「ホテル・トロール・メモ」と名付けて、限定一部の小冊子を作ります。
それが、『神様のいる街』に収められていました。
なかなかすっきりしたデザインです。

一番下を見ると、架空のホテル・トロールの住所が小さな字で書かれていました。
CHUOH-KU KITANO-CHO 4-16-12 TEL 078-891-308

 調べてみると、実在の住所。トーア・ホテル跡地の神戸外国倶楽部の東側の住宅地でした。

航空写真の左上がトアロードの突き当りにある神戸外国倶楽部。プールが見えます。
その右側がホテル・トロールがある北野町4丁目。きっと吉田篤弘はこのあたりの風景が好きだったのでしょう。
電話番号は一桁足りませんが、灘区の電話番号のようです。

 この二つの作品、完成したのかどうか分かりませんが、まだ出版はされていないようです。
吉田篤弘さんの神戸を舞台にした作品、期待しています。



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ポートライナーは横にまわる観覧車(吉田篤弘『神様のいる街』)

 吉田篤弘『神様のいる街』は、高校生の終わりごろから結婚するまでのあいだに起きたことを、神戸と神保町というふたつの街を中心に据えて綴った自伝的エッセイ。

<どうしても神戸に行きたかった。行かなくてはならない。(いま行かなくては駄目だ)と、どこからか声が聞こえてきた。>と、筆者の宝物のひとつと云っていいビートルズのレコードを売ってまで、東京から新幹線に乗って神戸を訪れたのは、創作意欲を掻き立てる街だったからではないでしょうか。


<この街には無数の物語があった。小さな箱におさまった物語が街の至るところに並びーそれはつまり小さな街に小さな店がひしめいている様そのものであったがー本棚に並ぶ書物のように、ページをめくれば、そこに尽きせぬ物語が隠されていた。>

と述べています。


ポートライナーにも、その物語を見つけにいったのでしょうか。

<街にいると、常に海の気配を感じた。だから。わざわざ、港まで出て、海を眺めることはまずなかった。ただ、神戸には出ベソのような人工島があり、街の大きさに見合った小ぢんまりとした島が海に突き出たいた。この人工島を一周する無人電車が走っている。>


<無人電車は三宮の街中から出発して、海を渡り人工島に出る。アルファベットのEのかたちをした島の中を一周し、また海を渡って三宮まで戻ってくる。運賃は百九十円で、どこにも降りなければ、百九十円で一周できた。安上がりな時間つぶしであり、いったん街を離れて、街を俯瞰するには好都合だった。>

 現在は神戸空港ができて、空港行きの路線も増えましたが、ここに書かれているのは路線図の橙色のポートアイランドを廻って三宮に戻る路線です。


<あるとき。いつもどおり三宮駅で無人電車に乗り、出発を街を待っていると、制服を着た女の子が一人で乗ってきた。学校帰りのようだった。人工島には大きな団地がある。団地に帰るのだろうと思っていた。が、彼女はどの駅にも降りなかった。ひたすら窓の外の海を見ている。海へ出ていくときは視界がひらけて気が晴れるのだが、街に戻っていくときがまたいい。ひととき、街の喧騒から離れ、ぼんやりと頭をからっぽにしたら、また喧騒が恋しくなってくる。>

神戸大橋を渡る辺りで海が良く見えます。


 1981年には神戸ポートピア博覧会が開催され、ポートライナーは、それに先立って日本初の実用的な新交通システムかつ世界初の自動無人運転方式として開業しています。

<この人工島の突先には遊園地があり、海風に吹かれながら大きな観覧車が回っていた。観覧車のゴンドラの中にもー当然ながらー人はいる。目をこらすと、やはり一人で乗っている人がいた。「ときどき、一人で観覧車に乗って考え事をするんだけどー」街なかの喫茶店んで誰かがそう話しかけているのを耳にしたことがあった。そうかー。無人電車は、縦にではなく横にまわる観覧車なのだった。>

 今ではモザイクの観覧車が目を引きますが、1982年のことですから、博覧会に合わせて開園した神戸ポートピアランドの観覧車のことです。


今はその観覧車も無くなり、ポートピアランドの跡地は

IKEAとなって人を集めています。

 でも「横にまわる観覧車」とはよく言ったものです。目的もなく乗って、車窓からの景色を楽しむのもいいかもしれません。





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東京出身の作家吉田篤弘の『神様のいる街』は神戸賛歌

『神様のいる街』は東京出身の作家吉田篤弘(1962年生まれ)の青春時代を描いた自伝的小説。久しぶりに青春時代の心を思い起こさせてくれる小説に出会いました。

 冒頭は、次のように始まります。
<周波数を探っていた。日曜日の深夜だった。その時間帯だけ空気がきれいになる。壊れかけたラジカセのチューニング・ダイヤルを一ミリずつ動かし、東京から五百キロ離れた神戸のラジオ局の電波をとらえようとしていた。聴きたい番組があったわけではない。ただ、神戸の時間や空気とつながれば、それでよかった。>
 昔よく深夜にFEN(米軍放送)にチューニングしていたことを思い出します。
著者が二十歳だったと述べていますから、1982年のことです。
 それまで東京から「ひかり」で五度か六度神戸に来ていたそうですから、初めて神戸を訪れた時から神戸の街に惹き付けられたのでしょう。まだ「のぞみ」が走っていなかった頃のお話です。
 今回もビートルズのシングル盤をすべて売り払って、そのお金で神戸に向かいます。

 新神戸オリエンタルホテルが開業したのは1988年のことですから、まだホテルもマンションもない時代です。

 新神戸から三宮までの地下鉄が開通したのは1985年のこと、当時は地上を市バスで街の風景を見ながら三宮に向かいます。

<新神戸駅から三宮駅に向かうバスは満員で、乗客は皆、仕事や学校に出かける街の人たちだった。街の人々が一日を始めていく様子が快かった。駅を中心にして、若い人たちも老人たちも、皆、思い思いに街を歩いて行く。神戸の中心地区は、海側のオフィス街と山側の住宅地の距離が歩いて行ける距離にあった。東京には、なかなかそういう街はない。>
山と海に挟まれた神戸の街。その景色に惹かれたのでしょう。

 小説の最後では夫人となる人の東京の学校で出会いや、彼女もすぐに神戸を好きになったことなど書かれており、六甲山の山の上にある教会で結婚式を挙げられたそうです。

写真はクラフト・エヴィング商會の吉田篤弘・弘美夫妻のインタビュー記事から。

<お金を儲けることを考えなければ、人生には時間がたっぷりある。
お金なのか、時間なのか。本当に必要なのは、はたしてどちらなのか。答えは出なかった。>
 若者にとって、含蓄のある言葉。読んでいて、著者の生き方を羨ましく思いました。
 私も神戸の街が大好き。この本のお話をもう少し続けます。



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三宮神社の境内は歓楽街だった

 神戸大丸の向かいにある少し小さな三宮神社、開港直後に神社の前を通る西国街道で国際紛争に発展した神戸事件が発生し、鳥居の横には「史蹟神戸事件発生地」という立派な石碑が立っており、三宮の地名の由来ともなっている由緒ある神社です。


 先日、ノマドな神戸異人館ガイドさんに案内いただいて、境内に戦前は湊川新開地と並び称せられるほどの大歓楽街となっていたことがわかる全体図が掲示されていることを教えていただきました。


 航空写真の黄線で囲んだ部分が昔の境内となります。


 妹尾河童の『少年H』に、その歓楽街にいつも洋服を注文してくれるピエールさんのレストランがあり、少年Hが父親に連れられていった様子が描かれていました。

<そのレストランは、元町にある大丸百貨店の斜め前の、電車通りに面していた。二階がレストランで、一階が酒瓶がずっと並んだバーだった。二階への階段の手すりは金色の唐草彫刻がしてあって、少し円形を描きながら登っていた。>
入り口は通りに面してたようです。

全体図の「三宮バー」の二階にピエールさんのレストランがあったようです。(上の写真で黄線で囲んだ部分)
<「下へ降りて裏口から出たら、あんたの好きなものが見えるわ」と父親が言って笑った。Hはいわれた通りに、バーの裏口のドアを開けて外へ出た。すると狭い通路になっていて、向かい側にもドアがあった。それを開けてみて驚いた。映画館の中へ通じているドアだった。Hはそうかと思った。レストランと映画館は、同じ路地を挟んだ隣あわせの建物だったのだ。>
 三宮バーの裏口を出ると、三宮キネマに続きます。この映画館で少年Hは、チャップリンの『モダン・タイムズ』を見たのでした。

境内に映画館は「三宮キネマ」「萬国館」「三宮倶楽部」があります。

「歌舞伎座」は明治以来の芝居小屋、隣接して芝居の「ときわ座」、講談などの寄席「雑居亭」がありました。

飲食店や珈琲店も数多く見られますが、眼を惹くのがカフェパウリスタ。

大正9年にここに新築移転しており、最先端の近代ビルディングでした。カフェパウリスタは珈琲だけでなく、麦酒やブランデーも提供する安価な飲食店として親しまれていたそうです。

三宮神社の境内は、なんとも奇妙な光景を呈していました。




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阪神大水害の時、神戸のドイツ人学校は何処にあったか?

 谷崎潤一郎『細雪』で、昭和13年7月5日の阪神大水害の日に、お隣に住むドイツ人一家の子供たちもドイツ人学校へ行っていて心配する場面があります。
<「わたしの旦那さん、ペータァとルミーを迎えに神戸へ行きました。大変心配です」
シュトルツ氏の三人の子供たちのうち、フリッツはまだ幼いので学校へ行っていなかったが、ペータァとローゼマリーは神戸の山手にある独逸人倶楽部付属の独逸小学校へ通っていた。>
 これはほぼ実際に起こった出来事を、谷崎潤一郎が小説に著わしたもので、倚松庵の隣に住むシュトルツ家の実名はシュルンボム家で、妻の名はフリーデル・シュルンボム、子供たちの名は本名が使われています。

写真は『細雪』のシュトルツ家のモデルとなった母フリーデル、長男ペータア、長女ローゼマリー、次男フリッツ(就学前)の4人です。この二人が独逸人倶楽部付属の独逸小学校へ通っていたのです。

 手塚治虫『アドルフに告ぐ』でも阪神大水害が描かれており、アドルフ・カウフマンが学校に出かける場面があります。


 ところがアドルフが通っていた小学校は神戸キリスト教学校となっているのです。

 おそらく、この学校は北野町にあり1893年に日本で最初に創立されたインターナショナルスクールの一校であるイングリッシュ・ミッションスクールのことでしょう。

場所は元・神戸市立北野小学校を利用した「北野工房のまち」の南隣にありましたが、現在は聖ミカエルインターナショナルスクールとして存続しています。
 しかし、ドイツ大使館員の息子であったアドルフが通うのは本来ならドイツ人学校で、手塚治虫はその存在を知らなかったのかもしれません。

 阪神大水害が発生した昭和13年に、ドイツ人学校はどこにあったのか知りたくなり、調べてみると、ドイツ人学校についての小冊子を見つけました。


 ドイツ居留民の増加に対応して、1909年山本通2丁目97に最初のドイツ人学校が設立されます。


その後、何故か転々と場所を変えており、

1912-1920 山本通2丁目77b

1920-1921 ドイツ領事館内

1922-1927 北野町2丁目56

1928 山本通2丁目30
これはドイツ人倶楽部のクラブ・コンコルディア内に作られました。ケーゲル場(ボーリングに似た競技)の上のクラブハウスが教室にあてられたそうで、ようやく自前の教室を持てたそうです。

 小冊子のドイツ人学校の紹介はここで終わていましたので、昭和13年もクラブコンコルディア内にあったと思っていたのですが、最近NEKONQUISTAさんから頂いたオットー・レファート原著『神戸のドイツ人 −旧き神戸への回想―』を読んでいると、その後も場所を移っていることがわかりました。
<1927年に「クラブ・コンコルディア」の新しい建物が建設された時、その一翼に学校も建てることをクラブと合意していたので、やっと自前の教室を持つに至った。しかし、間もなくここも手狭になると予想して、1936年北野町3丁目に土地を取得し、立派な近代的校舎を建てた。−1945年6月5日学校は爆撃で破壊された。>

地図の赤く丸で囲んだあたりが、北野町3丁目です。阪神大水害時に、ドイツ人学校はこのあたりにあったのです。

そのドイツ人学校も神戸大空襲で破壊されてしまいました。

現在は六甲アイランドに移り、神戸ドイツ学院ヨーロピアンスクールとして存続しています。




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伝統ある神戸レガッタ・アンド・アスレチッククラブへ

 神戸レガッタ・アンド・アスレチッククラブ(Kobe Regatta & Athletic Club, KR & AC)は明治3年、ラムネ飲料で有名なA・C・シムの提唱により、 居留地に住む外国人にリクエーション、スポーツを提供するために設立され、グランドの設置やその当時まだ日本には なかった近代スポーツの普及にも大きな役割を果たしてきました。

写真はレクレーション・グラウンド(現;東遊園地)、端がK.R.&A.C.のクラブハウスで右側の建物がコーベ・クラブ。

明治35年のK.R.&A.C.の運動会の写真もありました。奥に見える建物がコーベ・クラブ、左側がK.R.&A.C.のクラブハウスで劇場を兼ねた体育館になっています。クラブハウスの600名収容の体育館・劇場は神戸空襲で 消失するまで市民ホールとして約80年間、神戸の芸術文化のメッカとなっていたそうです。

K.R.&A.C.は昭和37年に磯上公園に移転しており、現在はメンバー以外でもレストランで食事ができると知り、早速行ってきました。

場所は三宮から歩いて約10分の磯上公園です。

会員専用施設となっていますが、レストランへの入場は可能です。

玄関を入ると、ペナントやトロフィーなどが展示されています。横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ(YC&AC)との交流戦は発足以来、盛んに行われてきたようです。

1890年にシムが創設してからのK.R.&A.C.の歴代会長の名前が掲示されたボードです。

こちらはレストラン入り口に掲示されていた平日のランチメニューです。今日はパスタ・ランチにしました。

 ランチの早い時間に伺いましたので、ゆっくり店内を見せていただきました。

朝日新聞に掲載されていた記事を見ると、メンバーがいる時はこんな雰囲気になるようです。

こちらはレストランに展示されていた写真から、明治18年に開催されたK.R.&A.C.のレガッタレースのメンバー。右端が創設者のA.C.シムです。

レストランの一階の部屋はコの字型になって奥も広く、メンバーが集まって団欒できるようになっています。

こちらは私が席をとった所で、バーカウンターもあります。

こちらが本日のパスタ・ランチ。
充分おいしく、K.R.&A.C.のメンバーにでもなった気分で、ゆっくりランチを楽しませていただきました。



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ポーラの夫は終戦までメルシェ神父と同じ尼崎の憲兵隊支所に拘留

『ある愛の旅路』から続けます。白系ロシア人のポーラ・ネニスキスはリトアニア人のジョーと結婚し、ポーラの母と共に神戸の山本通りに戦時中も暮らしていました。
 夫のジョーはユダヤ人ではありませんでしたが、ゲシュタポと噂されているドイツ人ミスター・Kが頻繁に家を訪れるようになります。
 戦時中の日本人にとって、ユダヤ人であろうとなかろうとドイツから来た人はドイツ人であり、ナチスの人種イデオロギーにほとんど無関心だったようです。しかし、ドイツ大使館を中心とするドイツ人社会ではナチスの日本支部が結成され、活発な活動が行われていました。


 上田浩二・新井訓『戦時下日本のドイツ人たち』によると、秘密警察ゲシュタポの大佐だったヨーゼフ・マイジンガーが大使館に赴任し、日本の特高と協力して在日ドイツ人に目を光らせていたことが記されています。
<マイジンガーは、ドイツの警察権の及ぶ場所でなら自分が指揮してとっくに直接行動に及んでいただろうが、日本では特高に協力して間接的に同国人を取り締まることしかできなかった。ただし、その実態がどのようなものだったかは詳しくはわかっていない。>

 スパイの巣窟だったと言われる戦時下の神戸でもゲシュタポは活動しており、ユダヤ人たちと親しくしていたポーラの一家は、夫のジョーがスパイの疑いをかけられ、ミスター・Kの密告により、昭和20年5月7日憲兵隊に捕らえられます。

 収監されたのは、カトリック夙川教会のメルシェ神父の収監先と同じ、尼崎の憲兵隊でした。


<憲兵隊は、阪神間の海岸沿いを走る阪神電車の尼崎駅で降り、そこから私の足でたっぷり半時間のところにあった。駅より山寄りだったのか、それとも海の方に向いて歩いていったのか、思い出そうとしても思い出せない。駅から憲兵隊までは、野菜畑と、ところどころに水田の散らばる一本道で、バスも走っていなければ、田畑に出て働く人影もない。低い軒の農家が道沿いにポツンポツンと、うずくまるようにしてあるぐらいだったものだから、毎朝尼崎の改札口を出るたびに、空襲が心配でならなかった。>

 尼崎憲兵分隊は大阪憲兵隊築港憲兵分隊尼崎憲兵分遣隊として発足。昭和18年に尼崎憲兵分隊に昇格し、昭和20年には神戸地区兵隊尼崎憲兵分隊となり、終戦を迎えています。
場所は尼崎市崇徳院一丁目で、現在は尼崎拘置支所となっています。

上の航空写真の右下が阪神尼崎駅、左上が尼崎憲兵分隊跡地にある尼崎拘置支所です。
 ポーラが書いている一本道とは阪神国道のことで、今や周りに田畑などなく、当時の面影はまったく残っていません。

かろうじて石垣だけは当時のものだと思われます。

約三か月間の拘留の後、戦争が終わってようやくジョーは釈放されますが、拷問により肉体も精神も衰弱しきっていました。診察したドクター・ハイマーは次のように告げます。
<ざっと診断して、舌に薬を塗ってさしあげたが、とても悪い。憲兵隊で、相当打たれたんでしょうなあ、背中にムチの跡が無数に残っています。それに問題は、ひどく怯えていることです。人間が全く信じられなくなっている。ムチの傷跡の話にはみなさん触れないでいただきたい。知らん顔をしているように。>

 ジョーは十月半ば神戸から立川のアメリカ軍空軍基地病院に入院し、ようやく回復。
終戦後一年たち、大阪のアメリカ人専用百貨店となっていた心斎橋のそごう百貨店に時計修理の店を出し働き始めることができました。

大阪大空襲にも焼け野原に立つ「心斎橋大丸」と「そごう百貨店」。写真は戦前「カーサ・ラ・パボー二」を経営していた中村善太郎氏が撮影したものです。
 村野藤吾の設計による「そごう百貨店」は2003年に解体されてしまいましたが、空襲の被害は外観からはあまり受けていないように見えます。
 昭和10年に開業した十合百貨店はガラスブロックとモザイクタイル貼りの壁面上に長大なルーパーで正面全体を構成した藤吾のモダンなスタイルが、ヴォーリズの重厚なデザインの大丸と好対照だったそうです。

さて、ポーラはその後も厳しい人生を生き抜きます。

『ある愛の旅路』は戦時中神戸で過ごした外国人女性の、小説にも勝る数奇な運命の記録でした。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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