阪急沿線文学散歩

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小林聖心女子学院見学ツアー

 10月31日の朝日新聞阪神版に小林聖心女子学院が11月22日に本館校舎なだを廻る見学ツアーが開催されるとの記事が掲載されていました。

 

本館校舎は東京女子大など数多くのモダニズム建築を残したアントニン・レーモンドで、国の登録有形文化財に指定されています。
堀辰雄「木の十字架」に登場する軽井沢の水車の道に沿った例の小さな教会もレーモンドの設計です。
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 遠藤周作の母、遠藤郁さんは小林聖心女子学院の礼拝堂で洗礼を受け、ヴァイオリンを教えられていました。また須賀敦子さんの母校でもあり、小林聖心女子学院での出来事を数々のエッセイで述べられており、是非とも参加したい見学ツアーです。
 しかし、よく見ると参加資格は宝塚市在住か在勤者限定と明記されており、西宮市民としては真に残念。いつもオープンなプロテスタント系の学校と違うのは、戒律の厳しさからでしょうか。次の機会があることを期待しております。




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遠藤周作の散歩道B逆瀬川へ

 さらに遠藤周作の好きだった散歩道をたどります。
小林聖心女子学院の裏山から、逆瀬川に向かいます。
宝塚ゴルフ倶楽部のロング4番コースのフェンス沿いの道を進みます。当時は山の上の林だったのでしょうが、今や開発され瀟洒な住宅がびっしりと建ちならんでいました。フェンスと道路の間には千種ヶ丘自治会の皆様が花壇を作られ、気持ちのいい散歩道になっています。



 千種ヶ丘自治会の住居案内図がありましたが、遠藤周作の散歩道はこの図の下部の左から右へ横切る道路で、この道を真直ぐ抜けると逆瀬川に突き当たります。
 交差点を超えると下り坂になっており、この道も当時は遠藤しか知らなかった裏山から逆瀬川に抜ける道だったのでしょう。しばらく下ると逆瀬川に出てきました。阪急逆瀬川駅へ下る道、振り返ると私の好きな甲山が見えていました。



 遠藤周作は、宝塚文芸図書館からの帰り、電車賃がないときはこの道を逆に、読んだ本のことを考えながら歩いて仁川まで帰って行ったとも述べていました。
 今や1940年前後の景色とまったく変った住宅地域となった散歩道でしたが、「仁川の村から」には次のように書かれていました。
<この経はほとんど誰も知らない。日曜日のハイキング客たちもまだ気づいていないようだ。けれどもこの経と、それをとりまく風景とは一種、特別な雰囲気を持っていて、ぼくは後年仏蘭西のサボア地方に遊んだ時しばしば、あの仁川の散歩道をよみがえらしたほど似ているものを感じたのである。>
フランスのサボア地方の風景と、今回歩いた風景を重ねるには相当の想像力が必要です。



 ウィリアム・ターナーの「モンブランの見えるサヴォワ地方のボンヌヴィル」という絵があります。私も、大昔この地方のアヌシーという町の近くにある電気炉工場を訪ねたことがありますが、アルプスに囲まれた美しい田舎町で、自然に恵まれ食べ物も美味しくずっと暮らしたくなる町でした。1940年代、まだ白い山肌が見えていた六甲山脈、弁天池、クリーム色の洋館のある仁川村、これらの風景がサヴォア地方を訪れた遠藤の脳裏に甦ったのでしょう。
 下の写真はGouldonさんが撮影した1955年の仁川村の写真です。



 今回の散策のあと、阪急逆瀬川駅から今津線で帰ったのですが、野坂昭如と遠藤周作で「阪急電車」の全ての駅の旅ができました。振り返りますと、
宝塚駅<遠藤周作を作家にした宝塚図書館、野坂昭如のタカラヅカ>


宝塚南口駅<遠藤周作が大阪へ来た時定宿とした宝塚ホテル>


逆瀬川駅<遠藤周作の好きな散歩道>


小林駅<遠藤の母郁が教えた小林聖心(須賀敦子の通った小林聖心とも書きたいのですが)>


仁川駅<遠藤週作の黄色い人の舞台(これからです)>


甲東園駅<黄色い人で関西学院の異人たちが住んだクリーム色の家>


門戸厄神駅<野坂昭如の神戸女学院>
 さて肝心の西宮北口駅が抜けていました。これは先日講演を聞かせていただいた’かんべむさし’さんの「決戦・日本シリーズ」を急遽追加いたしましょう。


 



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「うちの周ちゃん」

遠藤周作は小林聖心女子学院の卒業劇の脚本として「サウロ」を書いています。サウロはキリスト教迫害時代の悲恋物語で、遠藤周作文学全集14に掲載されていました。そこに書かれた苦悩は母親の苦悩にも通じていたのかも知れません。でも遠藤周作が卒業劇のための脚本を書いた学校があるなんて羨ましいですね。

 サウロが書かれた経緯は、「ホトトギス」主宰の稲畑汀子氏が書かれた「舞ひやまざるは」の「うちの周ちゃん」に詳しく書かれており、そこでは更にその性格がなぞであった母、遠藤郁氏についても述べられていました。
<そのころ聖心の音楽の教諭に遠藤郁先生という個性の強い先生がおられた。少々早とちりで、かんしゃく持ちであったが、感激家であたたかい心の持ち主であった。あだ名はグリーンピース。我々が上手に歌えない時はピアノのキイをはげしくたたき感情をあからさまにあらわし、出方が少しでもそろわないと何度も何度もやりなおしにする。>
周作さんが敬愛されていたお母様はそのような方だったのですか。


 上の稲畑汀子氏の写真は今年3月26日の朝日新聞夕刊「人生の贈り物」からで、ここでも「うちの周ちゃん」の話をされています。「うちの周ちゃん」続けます・
<女学校五年生の最後の劇に監督岡田利兵衛先生で「細川ガラシャ夫人」をやり、その練習を見られた遠藤先生は感激して最後のタブローの場面でアベマリアを高らかに歌って下さったのであった。それがご縁になり先生の口癖のように言われていた「うちの周ちゃん」に劇の台本を書いていただき、学制が変わった高三のときにそれを上演したのである。「うちの周ちゃん」それは今では知る人ぞ知る遠藤周作氏のことである。>
 大学入学までかなり心配させたと思われる遠藤周作ですが、この時は母から信頼されるようになっていたようです。
<周ちゃんも時々やって来ては腕組みをして恥ずかしそうに、うら若き女子学生が自分の書き下ろしの劇を一生懸命稽古するのに見とれていた。>この時の青年コルネリオを演じたのが稲畑汀子氏でした。
 この戯曲を遠藤に直接依頼したのはシスター三好切子で、母郁が毎朝通っていた小林聖心の修道会のミサには、仁川の母の家に帰省中の遠藤も時々来ており、その遠藤に洗礼名であるパウロ(ヘブライ語名ではサウロ)に関する劇を書いてほしいと頼んだそうです。
遠藤郁は58歳で突然脳溢血で亡くなりますが、遺品のひとつの財布の中から、不出来だった次男周作の大連の小学生時代の唯一の手柄ともいうべき、新聞に載った詩の切り抜きがみつかったそうです。その詩はなんと
シュッ、マッチ。
ポッ、ケムリ。
タバコ、ノミタイナ。
こんな詩、新聞に載せたら激怒する御仁が目に見えるようですが、母郁は、あなたは「大器晩成よ」と言い、周作は「ぼくはバンキタイセイだ」とふれまわっていたそうです。
ここまで子供を信頼していた母親と本当に大器晩成だった遠藤周作に免じて、この詩を新聞に掲載した記者を許してあげてださい。


ところでサウロは今でも演じられているのでしょうか。



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ようちゃんとの思い出の坂道

「ユルスナールの靴」の中の「一九二九年」と題したエッセイで同級生のようちゃん(しげちゃん)との思い出が書かれています。須賀とようちゃんは1929年生まれの同い年です。
「戦争がいよいよひどくなって、私は、もといた関西の学校に戻ることになった。戻る、とはいっても、その春、新学期が始まるとまもなく、教室の一部が作業場に改造され、女学校四年生の私たちは実習訓練を受けて六月には正式の工員に採用され、お給料をもらうようになった。

野坂昭如が書いていた神戸女学院とまったく同じ状況になっていました。
「郊外電車の駅にむかって桜並木の坂道を降りながら、ようちゃんが私とことばをかわすようになったのは、私が関西に帰って数ヶ月は経ってからのことだった。………どちらも本が好きだとわかっていたから、私たちは急速にしたしくなった。………本のことを彼女みたいに話せる友人には、東京にいた八年のあいだひとりも会わなかったから、私はようちゃんと出会えたのを、やっぱりもといた学校はいいと考えて、ほっとしていた。」

 須賀は留学するまで日本には家族以外文学の話をできる人がいなかったとまで述べています。その須賀が自分以上と認め、尊敬していたようちゃんでした。
「1944年の秋、十五歳で女学生だった私たちにとって、軍用飛行機の部品を造る一日の作業を終えたあと、学校から駅までの紅葉しはじめた桜並木の坂道を降りながら本の話をするのは、こころからほっとする時間だった。」

「ようちゃんが彼女の大事な秘密を打ち明けてくれたのは、ちょうど私たちが掃除当番の日で、みんなにすこし遅れて坂を降りていた。はやくしないと駅に着くまでに日が暮れる。こわい男が出るという、そんなうわさがよくひろまった淋しい坂道で、私たちは早足でつま先だって歩いていた。そのとき、なんのまえぶれもなく、彼女が私に宣言をした。わたし、と彼女は話はじめて、ちょっと息をついた、その息のつき方がいつもとちがったから、彼女の顔を見ると、なにか目がしんとしているような、ふしぎな表情をしていた。こちらのそんな気持ちにはおかまいなく、ようちゃんはつづけた。わたし、K先生について、カトリックの教理を勉強しているの。だれにもいわないでね。でも、春になったら洗礼を受けるつもり。」
「修道女になったら、とようちゃんは、やはりなんでもないことみたいに、つづけた。多分もう会えないと思うよ。うん、わかってる。私はあかるく答えた。」
ようちゃんは戒律の厳しさで有名な北の島の修道院にはいり、25歳で天に召されます。その訃報を須賀は留学中のパリで受け取ります。


「もういいちど、私は、桜並木の坂道で、靴先をハの字につけて笑っている、ようちゃんを思い出した。ふみ子姉さんに見せてもらった、白い修道女のヴェールをつけて笑っている彼女には、とうとう会わずじまいだった。」



「ようちゃんてだれ」と妹の北村良子氏が須賀に尋ねると、「しげちゃんよ」と答えられたそうです。「遠い朝の本たち」の中のしげちゃんの昇天では1986年に北海道の修道院で亡くなられたことが書かれていました。どちらも悲しいエッセイでしたが、「ほんとうよねえ、人生てただごとじゃないのよねえ」というしげちゃんの言葉の余韻の中で、私も自分の人生を振り返らされました。



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小林聖心女子学院本館

ようやく小林聖心の正門に着きました。



 須賀がこのミッションスクールに通ったことがエッセイ「しげちゃんの昇天」に書かれています。
「しげちゃんと私はもともと、六甲山脈のはずれにあたる丘のうえのミッションスクールで、小学校からの同級生だった。とはいっても、いっしょに勉強したのは、二年生までにすぎず、三年のとき父の転勤で私が東京の姉妹校に移ったあとは、子供どうしの別れのあっけなさで、手紙を書きあうでもなく、それきりだった。」しかし、1944年に仕事のある父を東京に残して、西宮の家に帰り、もといた丘の上の学校に編入をゆるされ、もういちど、しげちゃんと同級生になるのです。
教室での須賀の様子は、エッセイ「となり町の山車のように」に書かれています。



「教室であの子はいつも気を散らしています。母が学校の先生に会いに行くと、いつもそういわれて帰ってきた。どうして、ちゃんと先生のいうことを聞いていられないの?母はなさけなそうに、私を叱った。聞いてないわけじゃないのよ。わたしにも言い分はあった。聞いてると、そこからいっぱい考えがわいてきて、先生のいっていることがわからなくなるの。そういうのを、脱線っていうのよ。お願いだから脱線しないで。脱線しないようにしよう。私は無駄な決心をした。」
この気持ちよく分かります。こんないっぱい考えがわく子供を持ったお母さん、将来は須賀さんのようになるかも知れませんから、叱らずに激励してあげてください。



 ところでこの写真の本館は新たに建て直したと思っていたのですが、帰って調べると国登録有形文化財、とてもそんなに古い建物には見えません。「レーモンドによる鉄筋コンクリート造学校建築。日の字型プランの2階建及び3階建校舎に教室、図書室、講堂、礼拝堂、寄宿舎などを巧みに納める。レーモンド&サイクス建築事務所時代の作品で、隅部に曲面を多用するなどライト式からの脱却の跡が窺える。」との説明。外壁の塗装や窓枠は新しくなっていますが、昭和2年の建築で神戸女学院より古い建物です。当時としては超近代的な建物だったのでしょう。私も須賀と同じ風景を見ることができました。


 



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坂道でたどる須賀敦子

 松山巌著「須賀敦子が歩いた道」第1章坂道でたどる須賀敦子からです。
「須賀が6歳から22歳までかよった学校はミッションスクールだった。でも、洗礼を受ける2〜3年前までは、カトリックの友だちに「どうして神さまなんか信じるの」などと言って困らせていたというから、そのあいだになにかがあったのだろう。その「なにか」のひとつは、親友「ようちゃん」の入信だった。そのころふたりがかよっていた小林聖心女子学院は、春は桜が咲きみだれ、秋は紅葉が空を染める、美しい坂道をのぼったところにあって、須賀はある日その坂道で、尊敬していたようちゃんに、カトリックになると告白される。おそらくそのとき彼女の中にキリスト教への関心が芽生えたのだろう。」とあります・
 私も小林聖心女子学院に向かって坂道を歩いて行きました。



しばらく行くと丘の上の塔が見えてきます。この塔からはやさしい鐘の音が響いてくるそうです。



ホームページには昨年12月の下校風景として「数日前から、坂道の木々が一気に色づきました。季節によって装いを変える坂道は、自然の美しさに感動する心を育ててくれます。」という説明文とともに載せられていました。



 橋の向こうから先は小林聖心女子学院の敷地内になるようですが、皆さん犬を連れて散歩されており、進んで行くことにしました。
須賀がようちゃん(本当はしげちゃんという呼び名)とお話しながら歩いた坂道です。



 松山巌が述べているように、この坂道は桜、紅葉の並木道ですが、先日私が歩いた冬の道は、すべて落葉し、左手の竹林の緑のみ残っていました。上の真ん中の写真は新潮社「須賀敦子が歩いた道」からで、夏服で歩く生徒達も写っています。



 竹林の間から白い校舎が見えていますが、校舎まではまだ坂道が続きます。


 



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須賀敦子の阪急電車小林駅

 中井久夫「阪神間の文化と須賀敦子」から続けます。
小学生の須賀は聖心女学院小林分校に向かいます。
彼女は切通しをゆっくり下ってくる神戸線梅田行きに乗って、一駅先の西宮北口で今津線・宝塚行きに乗り換える。今津線の電車はずっと旧式である。天井からは古風な鈴蘭灯が下がっていただろう。電車はゆっくりと六甲の東の急峻な山裾をめぐってゆく。二駅目の甲東園で関西学院と神戸女学院の生徒が降りて車内がすく。聖心小林分校は四駅目の「小林」にある。」

  

 神戸女学院の生徒が降りていくのは正しくは門戸厄神駅です。
当時の阪急神戸線は2両連結でした。また甲陽園線の車両は今津線より更に古い車両が使われていましたので、私でも写真のように丸い車内灯や中井久夫が鈴蘭灯と呼んでいるチューリップ状の傘のついた車内灯を覚えています。

 須賀は1943年14歳のとき、西宮の実家に疎開のため戻り、小林聖心女子学院高等女学部に16歳まで通います。野坂昭如は須賀の一歳年下で、1944年に神戸の中郷町から夙川を通って満池谷町の親戚の家に疎開しており、アニメでも当時の阪急電車が描かれています。
 阪急小林駅は映画阪急電車で宮本信子が中谷美紀に言った「もしよかったら、小林駅で一度降りて休んでいくといいわ。 あなた顔色も悪いし、あそこはいい駅だから」のセリフで一躍有名になりましたが、小林駅といえばやはり小林聖心でしょう。
 小林聖心女子学院の住所は「塔の町」という町名がついており、小林駅のトイレのタイルには塔の絵の化粧タイルが使われているほどです。


「須賀さんは「丘の上の学校」と書いておられるけれども、およそなだらかな丘などではない。駅を降りて線路を渡る。駅の出入り口はただ一つ、学校とは反対の東側である。線路に沿って南に少し戻り、ガードを潜ると急な登り道になる。」



 映画阪急電車の舞台とは反対の東側にある小林聖心女子学院にこのガードを潜って、坂道を登ります。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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