阪急沿線文学散歩

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今村さんの『触媒のうた』喫茶輪でいただいて参りました

 喫茶・輪の今村さんが、月刊KOBECCOに連載されていた「触媒のうた」が単行本として神戸新聞総合出版センターから刊行されました。まだ店頭には並んでいないようですが、喫茶・輪を訪ねれば購入できます。

 帯には、<日本近代文学史の「生き字引」が語る博覧強記の文学談義>と書かれており、御年95歳の宮崎修二郎氏の、今なお衰えを知らない頭脳の明晰さがうかがえます。

 何度かKOBECCOの立ち読みで今村さんのエッセイを読ませていただきましたが、「宮崎修二郎翁の文学史秘話」と副題がつけられたエッセイを、このように単行本にしていただくと、文学散歩には大変重宝いたします。

「触媒のうた」の意味については最後の章で解説されていました。
<宮崎翁がまだ十七、八歳の若き日、“触媒”についての講義を聞き、「自分はこれだ、これで行こう。人間は偉くならなくったっていいじゃないか、人のお役に立てればいいじゃないか、と思うようになりました」>と、名声を求めず人と人とをつなぐ触媒に徹しようと決意され、その姿勢が今も変わらず続いていることが紹介されています。
 そして今村さんは、<しかし、わたしが「喫茶・輪」で徒然にお聞きした話には、翁が関わられた文学上の秘話がたくさんあった。これはのこしておかなくてはならないと思ったのである。それがこの連載「触媒のうた」になったわけだ。>と述べられているのです。
文学上の秘話、これから読ませていただくのが楽しみです。

「あとがき」には今村欣史氏と宮崎修二郎翁の出会いについても説明されています。

そのなかに、今村さんの「喫茶・輪」という詩(上の写真)に関わる感動的なお話がそえられていました。今村さんのお人柄がにじみ出ています。




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今津 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
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昭和48年の かんべむさし著『決戦・日本シリーズ』

 クライマックスシリーズ阪神優勝おめでとうございます。アンチジャイアンツファンにとっても嬉しい限りです。パリーグは今日の勢いからして、日ハムでしょうか。次はいよいよ日本シリーズですね。
 ずいぶん昔のことになりますが、今も私の心に残る日本シリーズというと高校時代、友人と西宮球場へ西本阪急―川上巨人のシリーズ第六戦を見に行き、王の満塁本塁打に始まる、長嶋、黒江の3連続ホームランでボコボコにやられ、目の前で巨人の優勝を見せていただいたことです。
 日本のプロ野球創生期から、ともに西宮市を本拠に活躍した阪神タイガースと阪急ブレーブスですが、昭和25年の2リーグ分裂以降、雌雄を決する機会は遂に訪れませんでした。 しかし、それを実現(?)させたのが、阪急ブレーブスが強かった時代の1973年、関西学院出身で現在は西宮にお住まいというかんべむさし氏が、早川書房SF刊行十五周年記念のコンテストの小説部門に応募した作品、『決戦・日本シリーズ』でした。


 物語は、関西を本拠とするスポーツ新聞「スポーツイッポン」が、発足25周年を記念してイベントを企画することから始まります。企画課員の俺は、当時「阪急ブレーブス」と「阪神タイガース」が、その年の開幕以来独走態勢に入っていたことから、「日本シリーズで両球団が戦い、敗北した方の会社の路線を勝利した会社の電車が凱旋走行する」という案を提案し、実現するのです。


 早川書房のコンテストでかんべ氏の作品は最終選考まで残ったものの、残念ながら落ちてしまいましたが、「爆竹みたいにつめこまれたギャグが実に面白い。このメチャクチャぶりのバイタリティは、一つの才能として評価できる。阪急・阪神電車の唯一の接触点を利用した着想も奇抜」と高評価を得ています。


 当時は唯一の阪急・阪神電車の接触点だった今津駅について、小説では次のように説明されます。
<ただひとつの接点は今津である。西宮北口で神戸線と直角に交差し、宝塚と今津を結んで南北に走る阪急今津線の終点は、阪神今津駅と隣り合っている。双方のプラットホームは、金網のフェンス一つで区切られている。このフェンスだけが、阪神・阪急、ただひとつの共用設備なのである。>


 今津駅の開業は、阪急,阪神ともに大正15年。戦時中は、近くにあった軍需工場のため双方の線路がつなげられていたそうです。

 昭和11年の鳥瞰図のように阪急今津線は今津駅の手前で90度曲がり、阪神今津駅と平行に並んでいました。私の時代も、金網のフェンスは仕切られていたことは覚えています。

 


上の写真は平成3年の阪神・阪急の乗換え口。

 


 現在は阪神阪急ともに高架となり、離れた駅になってしまいました。しかし神戸高速ができてからは、山陽電車と阪神・阪急電車それぞれが相互乗り入れしていますので、阪急電車が阪神電車の線路を走ることは可能です。

 今年の9月8日の朝日新聞Degitalニュースにこんな記事がありました。
< この夏のある夜、阪急電車が阪神線を走った。阪急と阪神は経営統合しているものの、初めての「珍事」。運行は未公表で、終電後の未明だったが、インターネット上では鉄道ファンらが「相互乗り入れに向けた試運転か?」と勘ぐる事態に発展した。
 阪急電車が阪神線を走ったのは7月13日未明。営業運転が終わった後の午前0時15分ごろ、阪急電鉄西宮北口駅(兵庫県西宮市)を出発し、つながっている神戸高速線新開地駅(神戸市兵庫区)へ。ここで阪神線に入り、神戸三宮駅(神戸市中央区)を経て午前2時ごろに阪神尼崎駅に到着した。>

http://www.asahi.com/articles/ASG8V5VXRG8VPTIL02W.html



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今津 | コメント( 5 ) | トラックバック( 0)

阪急と巨人の日本シリーズ、西宮球場に何戦目かに父と行った記憶があります。チケットが巨人側しかとれなかったということでしたが、かなり前でした。我が家は祖父が阪神、父はアンチ巨人、叔父が阪急ファンでした。私はちょうど巨人の星などの漫画を読んだりしていて、野球選手の名前は覚えまくってましたが… 。巨人優勝の日は遠足に行っていたようなおぼろげな記憶があります。私が野球を観戦したのはその日本シリーズと吉田阪神の優勝の日本シリーズだけです。どちらもものすごく良い席でした。

[ ふく ] 2014/10/19 20:13:37 [ 削除 ] [ 通報 ]

いつもは空いている西宮球場でしたが、日本シリーズはさすが満席でした。ペナントレースの土曜日のデイゲームでは、7回位から外野は無料開放されていましたので、学校の帰りに寄っておりました。甲子園球場で見た試合は、ペナントレース終了近くに勝ち越せば阪神優勝という阪神ー巨人戦を見に行って、これまた巨人にやられてしまった思い出です。

[ seitaro ] 2014/10/19 21:08:28 [ 削除 ] [ 通報 ]

だいぶ前に言っておられた「かんべむさし」さんのことですね!
 明日 日ハムかホークスに決まりますが、もしバッファローズがCSを勝っていたら形の上では実現しましたね。
 でも、今のオリックスには「阪急ブレーブス」の面影がありませんから寂しいかぎりです。
 今、福本豊さんのコメントがよみがえりました「近鉄ファンには悪いけど、なんでバッファローズやねん」

 私は阪神ファンではありませんが、アンチ巨人なので、4連敗の原監督の顔が画面に映し出されたとき、思わずニヤっとしました。それにしても意外な結末でした。

[ さとっさん ] 2014/10/19 22:23:54 [ 削除 ] [ 通報 ]

私もなんでバッファローズやねんです。宿敵三原バファローズでした。オリックスになって、土井監督にもがっかりでした。何で土井やねん。

[ seitaro ] 2014/10/19 22:34:22 [ 削除 ] [ 通報 ]

今日は鳴尾遠征の日でした。
北口の定期券売り場の前を通ったとき昔の指先真っ黒けの売り場を思い出しました。

[ 笹舟倶楽部 ] 2014/10/19 22:41:04 [ 削除 ] [ 通報 ]

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昭和11年の吉田初三郎西宮市鳥瞰図から消え去った鳴尾ゴルフ場の謎

昭和11年吉田初三郎の西宮市鳥瞰図の甲子園付近です。

 
昭和11年といえば谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』が発表された年でもあり、甲子園がレジャーゾーンとしてもっとも賑わった頃です。 昭和10年前後の今津、甲子園の情景が次のように描かれていました。


<庄造が行くと、伯父や福子までが一緒になって引き止めて、晩になっても帰してくれない。それには何か魂胆があるらしいことは、庄造もうすうす気が付いていながら、甲子園の野球だの、海水浴だの、阪神パークだのと、福子に誘われるままに、どこへでもふらふらとくっ付いて行って、呑気に遊んでいるうちに、とうとう彼女と妙な仲になってしまった。>
 甲子園球場が完成したのは大正13年ですが、球場完成後も周辺の開発が阪神電鉄によって進められ、遊園地、動物園、水族館、総合競技場(甲子園南運動場)、テニスコート、競技用プール(甲子園水上競技場)などが設けられ、それより前から存在していた鳴尾競馬場とゴルフ場(現在の鳴尾GCコースの前身)を含め一帯は阪神間モダニズムを代表する一大レジャーゾーンとなったそうです。


 ところで昭和11年の西宮市鳥瞰図に目をこらして見ても、鳴尾ゴルフ場が描かれていないのです。

鳴尾ゴルフ場は昭和14年に軍に接収され、閉場するのですが、それまでは敷地は残っていたはずです。


昭和4年の西宮市今津土地及付近略図を見ると鳴尾競馬場と海岸線の間に鳴尾ゴルフ場が描かれていますが、不思議なことに正確なはずの吉田初三郎の昭和11年の鳥瞰図からは消え去っているのです。昭和11年にはゴルフ場は既に埋め戻されていたのでしょうか。

鳥瞰図の武庫川河口には川西航空機会社が描かれています。
昭和18年には、水上機のみを製作していた川西航空機は陸上機「紫電」を製作することとなったため、付近に存在した鳴尾競馬場)、阪神パーク、甲子園南運動場を軍が接収し、鳴尾飛行場が建設されました。


その頃の歴史は凛太郎さんの「ちょっと歴史っぽい西宮」に詳しく書かれています。
http://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/archives/55485222.html


いちご畑があった鳴尾村近辺は軍需村となり、国民徴用令で従業員は6万人を超えたそうです。



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今津 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

これはどうもありがとうございます。
鳴尾ゴルフ場は、難しいですよね。昭和11年ですと、あったことはあったらしいんです。
ただ所有者の鈴木商店の倒産で管理物件扱いになってから、規模は半分に縮小します。そして川西に新コースを設け、ゴルフ倶楽部の活動はそちらに徐々に移されたようです。初三郎さんの鳥瞰図には川西航空機の北にスペースがありますが、ゴルフ場はそのあたりなんでしょうか。
西宮でも「耕地整理」という名の都市計画が始まり、街の更新がどんどん加速され地図も一年前のはもう古い、みたいな状況になりますと、時間をかけて鳥瞰図などを作られる側はたまったものではありませんね。

[ 凛太郎 ] 2014/04/06 6:31:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

凛太郎さんのブログは大変参考になります。初三郎の鳥瞰図を見ながら当時の風景に思いを馳せております。

[ seitaro ] 2014/04/06 20:24:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

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「猫と庄造と二人のおんな」の舞台は芦屋・六甲・西宮(その3西宮)

 さて現在の妻福子は庄造のいとこで、福子の父は庄造の伯父にあたります。
<この伯父というのは今津で菓子の製造販売をしていて、今津の町に小さな工場を持っていたばかりでなく、国道沿線に五六軒の家作を建てたりして裕福に暮していた>
そして
<庄造が行くと、伯父や福子までが一緒になって引き止めて、晩になっても帰してくれない。それには何か魂胆があるらしいことは、庄造もうすうす気が付いていながら、甲子園の野球だの、海水浴だの、阪神パークだのと、福子に誘われるままに、どこへでもふらふらとくっ付いて行って、呑気に遊んでいるうちに、とうとう彼女と妙な仲になってしまった。>
ここでは昭和10年前後の今津、甲子園が舞台となっています。


 ところで先日西宮芦屋研究所員さんにご紹介いただいた舞坂悦治著「甲子の歳」によると、阪神電鉄専務の三崎省三がヤンキーススタジアムにも負けないような野球場の建設を指示し、完成したのが大正13年の甲子の年でした。そして1867年(慶応3年)に生まれ、明治時代に留学しスタンフォード大学、パデュー大学に学んだ三崎省三の夢は
<例えば武庫川を改修して、鳴尾に築港をなし、即ち武庫川をハドソン河、またはテームズ河にするのである。しかも、現今の枝川及び武庫川河畔は、住宅地にするのである。更に鳴尾より西宮の海岸を、遊覧地、即ちブリックプール及びブライトンまたはコニー・アイランドにするのである。>というものでした。


写真はニューヨークのコニーアイランドです。
 阪神電鉄は、この構想のもとに、球場完成後も周辺の開発を進め、遊園地、動物園、水族館(この3つは甲子園娯楽場として)、総合競技場(甲子園南運動場)、テニスコート(甲子園庭球場、甲子園国際庭球場)、競技用プール(甲子園水上競技場)などが設けられ、以前から存在していた鳴尾競馬場とゴルフ場(現在の鳴尾GCコースの前身)を含め一帯は阪神間モダニズムを代表する一大レジャーゾーンとなりました。


写真は昭和5年の甲子園住宅経営地鳥瞰図で、甲子園娯楽場が浜甲子園阪神パークと改称されたのは昭和7年のことでした。
このあたりの現在の様子は凛太郎さんが「ちょっと歴史っぽい西宮」で詳しく述べられていました。
http://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/archives/55485222.html
 

小説「猫と庄造と二人のおんな」が発表された昭和11年といえば、甲子園附近がレジャーゾーンとしてもっとも賑わった頃かもしれません。


そうすると省三と福子が遊んだ海水浴場とは甲子園浜海水浴場だったのでしょうか。


そろそろ小田実に戻りましょう。



甲子の歳
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一番上の地図の海側にある阪神パークのプールでは鯨が泳いでいたそうです。
阪神パークと同様、コニーアイランドも閉園されてしまったとのことです。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2013/08/04 20:46:30 [ 削除 ] [ 通報 ]

阪神パークには鯨までいましたか。戦前に作られた遊園地としては最先端のものだったと想像しています。

[ seitaro ] 2013/08/04 20:54:38 [ 削除 ] [ 通報 ]

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小松左京「今津の家」

 1月29日の記事でも紹介しましたが、「歌う女」で述べられている「今津の家」です。
「私たち一家が、戦時中うつりすみ、戦後もしばらく半焼けを修復して住んでいた家のあったあたりは、もちろんこの巨大な国道の下になってしまい、家の近所のたたずまいなどもあとかたもない。」



上の写真はグラフ西宮より、まだ阪神高速道路がなかった頃の第2阪神国道です。
下は昭和46年の写真で、この頃の様子を小松は書いています。



 主人公の家は、この国道の下になってしまったとありますが、小松左京の家はもう少し北側の宝津町にありました。
 今津っ子さんから、「今津の小松旧邸は、今津駅から蝸牛に行く途中のクリーニング屋さんとその裏のマンションです。」と教えていただき、早速探しに行きました。私の知っていた今津と様変わりして、現在は阪神も阪急も高架になり、雑多な町からスッキリした町に変身していました。駅から少し北に向かい、津門川がカーブするあたりが小松邸のあったところで、古い住宅地図でも小松という家が確認できました。



小松左京自伝にはこの家の前での集合写真がありました。
今津の家は、空襲で廻りは一面焼け野原になったにもかかわらず、奇跡的に焼け残っていたそうです。「やぶれかぶれ青春期」には次のように小松が焼夷弾と戦った様子が述べられていました。
「私の家にも、数発のエレクトロン焼夷弾と、庭や屋根をふくめて十発以上の油脂焼夷弾がおちたのだが、とうとう最後まで焼け残った。………父も旅行中で、私がたった一人で消しとめたのである。玄関先におちた二発をぬれたむしろで消しとめ、軒下でもえはじめたのをひっつかんで裏の畠に放り出し、軒びさしの一発を庭へはたきおとし、最後に二階の大屋根につきささってもえはじめたのを、のぼっていってひたたきの棒で道路へたたきおとした。」
これを読んでいると、野坂昭如の火垂るの墓の空襲の様子やぬれむしろ、火たたき棒といった戦争中の防災グッズを思い出しました。
結局戦中、戦後小松はこの今津の家で暮らしたのですが、この頃の思い出から「くだんのはは」を書いたようです。次は芦屋の「くだんのはは」の家を探しに行きます。



小松左京の「歌う女」に関する記事はこれで終わりますが、最初主人公茂木がパイプをふかすシーンで、私は小松左京はパイプ派ではなかったような記事を書いてしまいましたが、実際はパイプをふかす写真や愛用のパイプの写真がありましたので、転載いたします。



 



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今津の家

 imamuraさん、西宮芦屋研究所員さんにコメントいただき、小松左京の「歌う女」を読み返すと、主人公の今津の家らしき詳しい描写がありました。小松左京が今津に住んだのは昭和19年から昭和32年まで、かなり小説での記述は事実に近いと思われます。
主人公茂木が語ります。
「下町の、かなり繁華な地域へひっこしたが、それも戦争の影響だった━といっても、別に焼け出されたわけでなく、大戦がはじまって、軍需関係でかなり儲けた父が、地方に疎開する人の邸を買ったのである。父にしてみれば、漁村地方で高等小学校を卒業し、東京へ出て苦学力行し、一応自分の会社をおこして以来、はじめて入手した「自分の家」だったわけだが……….」
「間数も倍ほどになり、庭のほかに、テニスコートのできそうな空き地のついた家の中で、年上の子供たちはめいめい個室をもらい、まずは当座満足した恰好だった。だが、その家は、昭和二十年夏、終戦間際の空襲で半分が焼けた。」
 今津の家はかなり広い土地の邸だったようです。
「父の会社が、戦後のはげしいインフレと税金攻勢のためにつぶれ、世の中に景気が出はじめる昭和三十年代の前半に、戦後修復した家屋も、ひろかった土地も、人手にわたさねばならなかった。」


 どこまで事実と合致しているのでしょうか。実際に小松の父の会社が倒産したのは昭和34年のことでした。
小説では、戦後三十年近く経過して、茂木は再びN市を訪れ、住んでいた家のあたりを散策します。
「南へさがって、昔の国道を一本こえると、そこはもうもとのN市と別の世界だった。………その広い国道のもう五百メートルほど南に、新しい国道が、幅員にして片道四車線だから、旧国道の倍、しかもその中央に、もう三、四車線幅の分離帯があり、巨人の列のような巨大な橋脚がずらりとならんで、その上を東の大都市と西の大都市をむすぶ自動車専用路がかかり、………」



「私たち一家が、戦時中うつりすみ、戦後もしばらく半焼けを修復して住んでいた家のあったあたりは、もちろんこの巨大な国道の下になってしまい、家の近所のたたずまいなどもあとかたもない。」
 主人公の家は、国道の下になってしまったとありますが、小松左京が住んだ家は西宮芦屋研究所員さんによると宝津町とのこと、人手に渡った後はどうなっているのでしょう。



地図で宝津町探していると、imamuraさんの喫茶「輪」のすぐ近くですね。


 



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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