阪急沿線文学散歩

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谷崎潤一郎「赤い屋根」から「翠香園文化村」

 谷崎潤一郎の「赤い屋根」に戻ります。主人公繭子が住んでいた仁川の借家です。
<或る土地会社が「翠香園文化村」と云う名をつけて、此処を経営し始めたのは一年ばかり前のことだが、彼方の丘や此方の川縁にもう五六軒も家が増えた。彼女の借りたのは川を南に控えた場所の、疎らな松に囲まれた一軒で、庭から直ぐに石崖になり、水はその下を流れていた。外から見れば西洋間で、中へ入れば日本座敷の家のつくりは………>
 この描写、大正10年に開発された宝塚市仁川町の風景にぴったりなのですが、「翠香園文化村」が実際存在したのかよくわかりません。沿線開発で調べますと、大正13年阪神急行電鉄が開発した「仁川住宅地清風荘」とう名前がありましたのでその付近ことかもしれません。


 

東京の「文化村」は同時代に郊外住宅地として存在した目白文化村が知られています。

1922年に<第一文化村>の分譲が始まり、1929年の<第五文化村>で続いたそうです。
そもそも文化住宅とは主に大正時代中期以降に流行した、洋風生活を取り入れた一般向け和洋折衷の住宅。
1922 (大正11) 年に上野で開催された平和記念東京博覧会に、14軒の文化住宅を建てた「文化村」が展示されたそうで、これが「文化村」の由来でしょうか。


 文化村住宅設計図説 : 平和記念東京博覧会出品 / 高橋仁編


阪神間では芦屋川の西側にある「深江文化村」が有名です。
谷崎潤一郎は仁川の風景と芦屋川の風景を重ね、「深江文化村」から「翠香園文化村」という創作をしたのでしょうか。


芦屋川西岸には深江文化村の跡地を示す記念プレートが隣接する公園にあります。

 

 大正後期から昭和初期、面積3,000坪の敷地の中央に大きな芝生庭園が造られ、その周りに立派な西洋館が13軒囲んで建てられていたそうです。その中には、ロシア革命で逃れてきたピアニストのルーチンや指揮者のメッテルらが居られたとか。


その地を訪ねると現在は重要文化財となっている2軒のみ残っており、芝生庭園だったところはほとんど駐車場になっています。


現在もこの時代の洋館群が残っているのは、箕面市桜井の桜ヶ丘洋館通りではないでしょうか。
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ここも文化村と呼ばれてもおかしくありません。


赤い屋根の洋館も残っておりました。この赤い屋根の洋館を見ていると、現在ロードショーされている映画の原作、中島京子さんの「小さいおうち」を思い出しました。
次回はそのお話を。




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こんにちは。二十年ぐらい前までは、箕面牧落や池田満寿美町あたりには、たくさん残っていました。

[ アップルビー ] 2014/02/10 12:02:26 [ 削除 ] [ 通報 ]

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谷崎潤一郎「赤い屋根」と遠藤周作「黄色い人」に描かれた仁川の風景

 谷崎潤一郎の「赤い屋根」に描かれた仁川の風景から続けます。
<白いのは地面ばかりでなく、川床の砂や、護岸の石崖も白く、ところどころにチラホラ建っている文化住宅の壁も白い。その単調を破るものは、それらの住宅の屋根瓦の「赤」と、林の松の幹の「赤」と、濃い、新鮮な葉の「緑」とがあるばかり。見渡したところ、此の明快な三つの原色で成り立っているランドスケープは、油絵の具がまだ乾かないでいるかのように生々しく、初夏の晴れた日光の下では、照り返しが瞳に痛いくらいだった。>

 谷崎潤一郎により美しく描かれた仁川。現在の仁川を歩くと、松林はあまり見かけませんが、赤い屋根の洋館が少し残っており、珍しい木の扉のガレージまで。

 


いつ頃建てられた洋館でしょう、早川茉莉さんが「修道院のお菓子と手仕事」の中で紹介されているカフェ「ハッセルハウス」も仁川駅の近くです。


 遠藤周作「黄色い人」にも仁川の風景が描かれています。
<おなじ阪神の住宅地でも芦屋や御影とちがい、ここは空気も乾き土地の色も白く、不思議に異国の小さな田舎村のような風景を持っていました。それは武庫川の支流である仁川がそこから流れる、まるい死火山の甲山とそれをとりまく花崗岩質の丘のたたずまいのせいでした。>


遠藤周作にとっても土地の白さは印象的だったようです。
<芦屋や御影に住む余裕のない階級が、阪急と当時流行の住宅会社の宣伝とで、いかにも成り上がり者の好みそうな、外観だけは派手な和洋折衷の家を競ってつくったのでした。
 阪急の駅に二年ぶりで降りたとき、ぼくはこれら仁川の風景の中に、子供の頃の自分をむなしく探そうとしました。赤松林や白い花崗岩の丘に結びついた幼年時代ではありません。日本の土地にありながら、にせの異国風景をいかにも小賢しく作りあげた仁川は、黄色人のくせに母や叔母の手によって、貴方の教会の洗礼をうけさせられた自分にそっくりでした。>


遠藤周作は宝塚市仁川月見が丘に母郁と共にしばらく住み、西洋の宗教に生きようとした東洋人の苦悩を仁川の風景に重ねました。



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早川茉莉さんが紹介されていた仁川のハッセルハウスへ

 早川茉莉さんが「修道院のお菓子と手仕事」のなかで、ハッセルハウスというカフェを紹介されています。


<西宮カルメル会修道院からの帰り道、こんな小さな洋館カフェでのお茶時間はいかが、ハッセルさんの居間で寛いでいるような、静かですてきなカフェ時間を過ごせます。>
 早川さんは著書「森茉莉かぶれ」で、「カフェなしでは一日もいられない」などでカフェ通いが天職とまで述べられています。


 その方のご推奨とあらば、と私も仁川まで足を延ばしました。
阪急仁川駅から徒歩2分のところにあります。

ご紹介どおりの洋館の居間という雰囲気のカフェでした。


 二階にはオーナーの描かれたアイルランドの風景画がかけられています。
関テレの「よーいドン」でも<週三日の日中しか開店しない喫茶店>
と紹介されたばかりで、私が訪れた日は多くのお客さんでいっぱいでした。
乗馬が趣味というご主人も、その日はお手伝いにかりだされたようです。


でもコーヒーを待つ間、二階のソファで本を読みながら、ゆっくり時間を過ごすことができました。


 山と渓谷別冊を読んでいると、そこに先日ウラン堂でお話できたWAKKUNのイラストとともに、オーナーのご子息で現代音楽作曲家という近藤浩平氏の六甲縦走のお話が掲載されていました。


 ところで仁川といえば遠藤周作が昭和14年から月見ガ丘にしばらく住んでいて、次のように述べています。

<ぼくは今日でも、仁川、十五年前のぼくに自然のうつくしさと、未知なものへの期待を教えてくれたあの仁川の村と自分とを割くことはできない。そこに育った少年が文学をやることを考えたのもこの村であり、そして彼がやがて書いた小説にその村の風景を入れるのを忘れなかったのも、そのためである。ぼくの「黄色い人」という作品はこの仁川の思い出の上に成りたったものである。>
「黄色い人」は遠藤の苦悩をモチーフにした作品ですが、当時の仁川から見える甲山や関学の風景が描かれていました。


現在の仁川の川岸の風景は大きく変わりましたが、遠藤はエッセイでも、次のように述べています。
<阪急の駅に二年ぶりで降りたとき、ぼくはこれら仁川の風景の中に、子供の頃の自分をむなしく探そうとしました。赤松林や白い花崗岩の丘に結びついた幼年時代ではありません。日本の土地にありながら、にせの異国風景をいかにも小賢しく作りあげた仁川は、黄色人のくせに母や叔母の手によって、貴方の教会の洗礼をうけさせられた自分にそっくりでした。>
 遠藤は仁川の風景の美しさに、青年時代のキリスト教信仰への苦悩を重ねていたようです。


 仁川に文学散歩などに出かけられたときは、温かく迎えていただいて寛ろげる場所としてハッセルハウスはお勧めです。



黄色い人
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「黄色い人」の仁川

 遠藤周作は「阪神の夏」で<六甲、夙川、仁川と転々として住んだが、一番ながく一番思い出深いのは、やはり仁川である。>と述べています。しかし、年賦を調べると仁川に住んでいたのは高々3年しかなく、夙川のほうが永いはずなのですが、母親の郁は9年間仁川に住んでおり、その間帰省したこともあるでしょうから、仁川が一番ながく感じるのでしょう。年譜では
1939年西宮市仁川の月見ヶ丘に転居。
1942年世田谷区経堂の父の家へ。
1943年慶應義塾大学文学部予科に入学
1948年母郁は小林聖心女子学院を辞し、四谷のカトリック・ダイジェスト社へ移ります。
 遠藤は「仁川村のこと」で<ぼくは今日でも、仁川、十五年前のぼくに自然のうつくしさと、未知なものへの期待を教えてくれたあの仁川の村と自分とを割くことはできない。そこに育った少年が文学をやることを考えたのもこの村であり、そして彼がやがて書いた小説にその村の風景を入れるのを忘れなかったのも、そのためである。ぼくの「黄色い人」という作品はこの仁川の思い出の上に成りたったものである。>と述べています。
 この小説では「仁川」が20回、「甲山」が8回、「仁川橋」が7回繰り返しでてきます。
まず仁川駅の風景です。
<むかし宝塚まで拡がっていたゴルフ・リンクには防空色彩をほどこした河西の飛行機工場がつくられ、朝晩、油で汚れた作業服やモンペをはいた関西学院の学生、それに糸子のいっている聖母学園の生徒までが小さな阪急の駅にあふれていました。>

聖母学園とは、小林聖心女子学院がモデルで、当時関西学院や小林聖心女子学院、神戸女学院の学生が川西航空機の工場に動員されていました。
次のような甲山と仁川橋の光景が繰り返し出て来ます。
<甲山から氷のように冷たい風が川面をわたって吹きおろしてきます。>


六甲おろしのことだと思うのですが、仁川では甲山からという感覚になるのでしょうか。
<曇った空の割れ目から、かすかな小さな星が一つ、はげしい風にあらがいながらかすかにまたたき仁川橋の裏の松林が悲しげな音をたててざわめいていました。>
<仁川橋まで来たとき、甲山から吹きおろす氷のような風が、物凄い勢いで顔にあたってきた。>



上の地図の赤い線が西宮市と宝塚市の境界で仁川の上流は西宮市ですので、仁川といえば西宮と思われる方が多いかもしれませんが、遠藤が住んだ仁川の月見が丘は宝塚市で、年譜の表記は間違っていました。そして仁川橋の南側半分は西宮市、北側半分が宝塚市です。



仁川橋といえば阪神競馬場に続く国道337号線の橋なのですが、「黄色い人」のストーリーからは仁川駅西口近くにある鶴の橋ではないかと思われます。鶴の橋の宝塚側柱には何故か「にがわ」と表記されており、宝塚市には「にがわばし」が二つあることになります。



ゴードンさんの写真の橋が、立て看板が少しうるさいですが背後に洋館も見え、小説にぴったりの仁川橋でした。



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「黄色い人」デュラン神父

「黄色い人」では背教者のデュラン元神父が最も重要な役割を果たします。
<ぼくは自分の洗礼証書にデュラン神父という署名をみつけ、母に尋ねたことを覚えています。「デュランさんが、ぼくの洗礼、授けてくれはったんやなあ。じゃあの人、神父様だったん」不愉快な顔をして母は横を向きました。………後年、ぼくはこの煙草の脂で頬髯が黄ばみ頭の禿げ上がった異国の老人が生涯、独身であるべきカトリックの司祭でありながら、日本の女と不倫な関係を犯し、教会から追放されたことを知りました。>

上の写真は夙川カトリック教会に保管されているという遠藤の受洗記録です。
遠藤の小説やエッセイには、しばしば背教神父が現れます。私はずっと遠藤の創作だと思っていたのですが、遠藤の作品を調べていると、遠藤母子が最も信頼し尊敬していた神父が背教神父となったことがわかりました。更に驚いたことに相手の女性は遠藤家に近しい人物でした。私でさえ、これを知った時は相当なショックだったのですから、遠藤の衝撃は如何ばかりだったでしょう。

 子供の頃の遠藤周作とも親交のあった元聖心女子大学学長の三好切子氏は追悼保存版「遠藤周作の世界」で「少年周作のあとを追って」と題し、次のように述べています。

<もう一つのこと。それはその頃の夙川教会に一見フランス人らしい初老の男性がいた。彼はよく教会に来て、二階の賛美歌隊のうしろに坐ってそっとミサにあずかっていた。きくところによると彼は巴里宣教会に属していて、かってミッショナリーとして日本へ派遣されてきたが後々司祭職をすてたという事だった。どのような印象を少年周作が彼から受けたかはわからない。しかし後日、同じ経路をたどった、遠藤一家とごく親しいドイツ人の司祭、H神父の面影がこのフランス人のと重なり合って、作家遠藤周作の中に人間の弱さ、特に背教者の人間的弱さへのあたたかい思いやりを養ったのではと思われる。彼の作品にはよくレノゲ(背教者)が出てくる。………その頃私は、遠藤郁子先生からレッスンを受けるため、よく夙川のお宅へ伺った。そこで小学生の周ちゃんに出合う機会をえたのだった。>
「黄色い人」でのデュラン元神父は、遠藤が夙川の教会で見た背教者とH神父を重ね合わせたように描かれています。
H神父と書かれているのは、Petrus Herzog(ペテロ・ヘルツォーク)神父で、小説「影法師」のモデルとなっている人物です。遠藤母子との関係は「明治大学教養論集」で久松健一氏が「遠藤周作の秘密」として詳しく書かれていました。


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遠藤周作が住んだ阪神間

久しぶりに遠藤周作「黄色い人」に戻ってきました。
「黄色い人」の舞台となったのは遠藤お気に入りの仁川。遠藤は1939年に夙川から仁川に引っ越しました。そして関学と仁川を挟んで向かいにある教会、二人の外国人牧師が登場します。小説のモデルとなった教会や牧師を探るため、まず遠藤周作が実際に阪神間で住んだ場所と、時期を年譜で調べてみましょう。
1933年 父母の離婚により、夏休みに母に連れられて兄とともに帰国。神戸市六甲の伯母(母の姉)の関川家で一夏同居後、西宮市夙川のカトリック教会近くに転居。
転居先どうも片鉾池の周りだと、どなたかが書かれていたのですが定かではありません。



 写真はグラフ西宮からと、現在の片鉾池の景色です。
1934年 四月、私立灘中学校に入学。母は同月、小林聖心女子学院の音楽教師になり、翌五月に学院の聖堂で受洗。六月に、周作も兄とともに夙川のカトリック教会で主任司祭永田辰之助神父より洗礼を受ける。洗礼名ポール(パウロ)。
1939年 仁川の月見ヶ丘に転居。
 したがって夙川に住んだのは1933年〜1938年の約5年間、後の年譜で、仁川に住んだのは東京への行き来を含めても1939年〜1942年の約3年間ですから、阪神間では夙川に住んだ期間の方が長いのですが、何故か夙川の光景については夙川カトリック教会のこと以外、あまり述べていません。



年齢からして夙川に住んでいた頃のいたずら坊主の写真はあるのですが、写真からは想像できない、つらい思い出ばかりだったようです。
エッセイ「六日間の旅行」では、<私は母と過ごした五年間を思い出して呟いた。父と離別して大連から神戸に引き上げた後五年間、私は母と二人で生活した。母がそれ以降カトリックの信仰に自分の生き方を選び始めた五年間である。彼女は私にも洗礼を受けさせた。そして毎朝どんな理由があっても朝のミサに行かせた。他の子供たちがまだ暖かな布団にもぐっている一月、二月の朝でも、私はまだ真っ暗な凍てついた道を半時間も歩いて母と一緒に早朝のミサに通ったのだった。寒い教会の中にはフランス人の司祭が一人だけミサをあげ、我々親子を除いては二人の老婆が祈っているだけだった。>と述べています。
 ただこの叙述のなかで、夙川の家からカトリック教会まで歩いて半時間というのが解せません。また他のエッセイで母は阪急の一番電車に乗って教会に通っていたとも書かれており、遠藤郁が早朝通っていたのは小林聖心かもしれません。
1940年 灘中学校卒業。この春も再度の三高受験に失敗、仁川での浪人生活が始まる。
1940年 上智大学予科に入学。周作は上智大学予科に籍を置いたまま、旧制高校を目指し仁川で受験勉強を続ける。その間宝塚文芸図書館に通う。二学期には上智大学予科に通い始める。
1942年  二月、上智大学予科を退学。旧制高校を目指して仁川で再び受験勉強を続ける
母に経済的負担をかけないためという理由で、世田谷区経堂の父の家へ。
1943年 四月、慶應義塾大学文学部予科に入学。



写真は遠藤が住んだ仁川月見が丘あたりです。



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ヴォーリズ建築の外人教員住宅

 仁川の異国情緒ある洋館を探して、幼きイエズス修道会の仁川高台から見回しますと、仁川の対岸にある関学のところにヴォーリズ建築の住宅がいくつか見えました。

「黄色い人」からです。
<昭和七年ごろ故国を遠く離れたカナダ人たちがここに関西学院を創り、赤松の林の中に、秋になると、さまざまの色彩のコスモスが咲くクリーム色の洋館をたてて住み着きました。………だが戦争のためカナダ人たちが引き上げたこの村は、うつろな老人の顔に似ていていました。川はすっかり耕作地に埋められ、関西学院の異人たちの住んだクリーム色の家は工員の寮と変わっています。>


雲井町、殿山町には今やヴォーリズ建築の住宅は一軒しか残っていなかったのですが、航空写真から煉瓦色の屋根でおわかりの様に、何と関学の敷地の北端に九軒のヴォーリズ建築の洋館が残っていたのです。高校時代は近くの高校に通い、関学に何度も遊びにいきながら、こんなにヴォーリズ建築の住宅があったとは知りませんでした。



元々は外国人教員住宅として使われていたようですが、戦争末期は書かれているように、川西航空機工場で働く工員の寮となっていたのかもしれません。現在は一部空き家になっていたり、事務所に使われたりしていますが、どなたかが住んでおられる住宅もありました。



中の大きな一軒には迎賓館という表示がありました。
下の写真のハミル館は文学部心理学科の研究施設として使われているそうです。




仁川から関西学院にまで来てしまいましたので、ヴォーリズの設計した日本で一番美しいと言われているキャンパスも見てみましょう。



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仁川の風景に重ねた黄色い人の苦悩

 小説「黄色い人」で遠藤は洗礼をうけた自分自身の苦悩と当時の異国情緒ある仁川の風景とを重ねて文学的な描写をしました。
<これら二つの基督教の建物の間に、ずっと後になって、芦屋や御影に住む余裕のない階級が、阪急と当時流行の住宅会社の宣伝とで、いかにも成り上がり者の好みそうな、外観だけは派手な和洋折衷の家を競ってつくったのでした。
阪急の駅に二年ぶりで降りたとき、ぼくはこれら仁川の風景の中に、子供の頃の自分をむなしく探そうとしました。赤松林や白い花崗岩の丘に結びついた幼年時代ではありません。日本の土地にありながら、にせの異国風景をいかにも小賢しく作りあげた仁川は、黄色人のくせに母や叔母の手によって、貴方の教会の洗礼をうけさせられた自分にそっくりでした。>

 


 遠藤は「芦屋や御影に住む余裕のない」と表現しましたが、当時を偲び、現在の仁川を歩いていると、幾つも蔵が残されており、かなりの富裕層が仁川に住み着いたと思われます。
異国情緒ある仁川の風景というのは、あまり残されていませんが、わずかに洋館が残っています。



この家は現在はキリスト教会関係の施設として使われているようでした。
また「異国情緒をいかにも小賢しく作りあげた」という辛らつな表現がありますが、このモダニズムの時代に全国で多くの洋館が建築されています。先日散策した田園調布の昭和10年の写真がありました。この写真を見ていると映画のセットのようで、確かに遠藤の表現があたらないとも言えません。



デュラン神父の日記には次のような描写もありました。
<あの昭和8年頃、私が一生を伝道に捧げようと決心してきたこの仁川の町は、まだ阪急電鉄が、阪神郊外の新興住宅地として、土地を分譲したばかりだった。駅前に一軒の雑貨屋兼煙草屋と、それから住宅会社の出張事務所があるぐらいなものだった。>



この雑貨屋兼煙草屋の写真、戦後のものですがゴードンさんの写真がありました。



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「黄色い人」に描かれた仁川の風景と教会

 「黄色い人」にストーリー展開にあわせた仁川の風景の描写があります。
<おなじ阪神の住宅地でも芦屋や御影とちがい、ここは空気も乾き土地の色も白く、不思議に異国の小さな田舎村のような風景を持っていました。それは武庫川の支流である仁川がそこから流れる、まるい死火山の甲山とそれをとりまく花崗岩質の丘のたたずまいのせいでした。そのためか、昭和7年ごろ故国を遠く離れたカナダ人たちがここに関西学院を創り、赤松の林の中に、秋になると、さまざまの色彩のコスモスが咲くクリーム色の洋館をたてて住みつきました。
貴方の天主公教会はこのプロテスタントの学院と川を隔てた対岸にありました。>


  さて現在の仁川と甲山の風景です。正面に少し関西学院の建物が見えています。またこの小説を書いたとき、遠藤はまだ甲山は死火山と思っていたようです。
 いまや六甲山系の白い山肌は木々に覆われてしまい、白い土地の色を実感される方は少ないかもしれませんが、ゴードンさんの昔の仁川の風景の写真に、少しその景色を感じさせる写真がありました。




 この小説では教会が重要な役割を担っています。



仁川の天主公教会といえば、仁川学院の近くの仁川カトリック教会なのですが、どうも違うようです。
関学と仁川をはさんで、あるのは幼きイエズス修道会でした。



ミサは毎日行われているとのことですが、一般の信者のミサはどうも受け入れられているようには思えません。小説の場としてこの修道会を天主教教会としたようです。紅葉が素晴らしいのではないかと思われる日本庭園もあります。
遠藤一家が仁川に引っ越したあと、遠藤郁、周作がそれぞれどこの教会に通っていたのかは、ずっと私の疑問でした。



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遠藤周作「黄色い人」

 遠藤周作が最も愛した仁川を舞台にした小説を残しておりました。



「黄色い人」は太平洋戦争下の仁川を舞台とし、教会を破門になった神父と彼を見つめる日本人青年の物語で、人間の根底に潜む邪悪な部分を抉り出すような重い作品です。更に調べるうちに、棄教神父や、遠藤郁の最後など衝撃的な事実を知り、あまりにも重く、ブログでうまく伝えることができるか悩んでおりました。しかし元聖心女子大学学長Sr.三好切子の「少年周作のあとを追って」という寄稿文を読ませていただき、ブログに書く勇気がわきました。
「仁川の村のこと」で、遠藤は仁川を舞台にしたこの小説について次のように述べています。


<ぼくは今日でも、仁川、十五年前のぼくに自然の美しさと、未知なものへの期待を教えてくれたあの仁川の村と自分とを割くことはできない。そこに育った少年が文学をやることを考えたのもこの村であり、そして彼がやがて書いた小説にその村の風景を入れることを忘れなかったのも、そのためである。ぼくの「黄色い人」と言う作品はこの仁川の思い出の上に成りたったものである。>
それでは遠藤周作が仁川に住んでいた当時のことと対比しながら話を進めましょう。
小説はB29の爆撃の場面から始まります。



<黄昏、B29は紀伊半島を抜けて海に去りました。おそろしいほど静かです。二時間前のあの爆撃がもたらした阿鼻叫喚の地獄絵もまるでうそのように静かです。三時間のあいだ河西工場を舐めつくしたどす黒い炎も消えましたが、なにが爆発するのでしょう、にぶい炸裂がひびのはいった窓にかすかに伝わってきます。>
ここで河西工場と書いているのは川西航空機宝塚製作所のことであり、空襲は1945年7月24日午前10時33分〜47分までのB29、77機による精密爆撃でした。他にも、一日中大量の小型機・艦上機による攻撃があったそうです。



 当時の川西航空機工場の米軍による航空写真です。現在の航空写真と比較すると阪神競馬場の場所にあったことが良くわかります。下は現在のうぐいす台から見た阪神競馬場です。



遠藤周作は1943年慶応大学文学部予科に入学しましたが、父が命じた医学部を受けなかったため勘当され、学生寮に入っていました。そしてこの爆撃の日はたまたま仁川の母の家に戻っていました。「阪神の夏」からです。
<戦争が激しくなったころ、私は慶応予科生だったが、時折、満員の列車でここに戻ると、なんとなく暗く重苦しい雰囲気から逃れられたような気がしてホッとしたものである。だが終戦少し前に偶然この仁川の家へ帰っていた日、突然、B29の爆撃が線路の向こうにある川西の飛行機工場(現在の競馬場にあった)を襲ってきた。列車の通りすぎるような鋭い響きと地響きの中で私は工場を燃やす炎と煙とを見た。少年のころから自分にとっては一番なつかしい仁川がやられるようではもうこの戦争はだめだなとその時、思った。>
この時見た様子が、「黄色い人」の冒頭に描かれたのです。
戦後阪神競馬場は鳴尾からここに移るまで、紆余曲折があったようですが、アメリカ人ゴードン一家が楽しまれる写真や、着物の女性が馬の予想をする面白い写真がありました。




 



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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