阪急沿線文学散歩 |
谷崎潤一郎の「赤い屋根」に戻ります。主人公繭子が住んでいた仁川の借家です。
<或る土地会社が「翠香園文化村」と云う名をつけて、此処を経営し始めたのは一年ばかり前のことだが、彼方の丘や此方の川縁にもう五六軒も家が増えた。彼女の借りたのは川を南に控えた場所の、疎らな松に囲まれた一軒で、庭から直ぐに石崖になり、水はその下を流れていた。外から見れば西洋間で、中へ入れば日本座敷の家のつくりは………>
この描写、大正10年に開発された宝塚市仁川町の風景にぴったりなのですが、「翠香園文化村」が実際存在したのかよくわかりません。沿線開発で調べますと、大正13年阪神急行電鉄が開発した「仁川住宅地清風荘」とう名前がありましたのでその付近ことかもしれません。
文化村住宅設計図説 : 平和記念東京博覧会出品 / 高橋仁編
阪神間では芦屋川の西側にある「深江文化村」が有名です。
谷崎潤一郎は仁川の風景と芦屋川の風景を重ね、「深江文化村」から「翠香園文化村」という創作をしたのでしょうか。
芦屋川西岸には深江文化村の跡地を示す記念プレートが隣接する公園にあります。
大正後期から昭和初期、面積3,000坪の敷地の中央に大きな芝生庭園が造られ、その周りに立派な西洋館が13軒囲んで建てられていたそうです。その中には、ロシア革命で逃れてきたピアニストのルーチンや指揮者のメッテルらが居られたとか。
その地を訪ねると現在は重要文化財となっている2軒のみ残っており、芝生庭園だったところはほとんど駐車場になっています。
現在もこの時代の洋館群が残っているのは、箕面市桜井の桜ヶ丘洋館通りではないでしょうか。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10763762c.html
ここも文化村と呼ばれてもおかしくありません。
赤い屋根の洋館も残っておりました。この赤い屋根の洋館を見ていると、現在ロードショーされている映画の原作、中島京子さんの「小さいおうち」を思い出しました。
次回はそのお話を。
いつ頃建てられた洋館でしょう、早川茉莉さんが「修道院のお菓子と手仕事」の中で紹介されているカフェ「ハッセルハウス」も仁川駅の近くです。
遠藤周作「黄色い人」にも仁川の風景が描かれています。
<おなじ阪神の住宅地でも芦屋や御影とちがい、ここは空気も乾き土地の色も白く、不思議に異国の小さな田舎村のような風景を持っていました。それは武庫川の支流である仁川がそこから流れる、まるい死火山の甲山とそれをとりまく花崗岩質の丘のたたずまいのせいでした。>
遠藤周作にとっても土地の白さは印象的だったようです。
<芦屋や御影に住む余裕のない階級が、阪急と当時流行の住宅会社の宣伝とで、いかにも成り上がり者の好みそうな、外観だけは派手な和洋折衷の家を競ってつくったのでした。
阪急の駅に二年ぶりで降りたとき、ぼくはこれら仁川の風景の中に、子供の頃の自分をむなしく探そうとしました。赤松林や白い花崗岩の丘に結びついた幼年時代ではありません。日本の土地にありながら、にせの異国風景をいかにも小賢しく作りあげた仁川は、黄色人のくせに母や叔母の手によって、貴方の教会の洗礼をうけさせられた自分にそっくりでした。>
遠藤周作は宝塚市仁川月見が丘に母郁と共にしばらく住み、西洋の宗教に生きようとした東洋人の苦悩を仁川の風景に重ねました。
<西宮カルメル会修道院からの帰り道、こんな小さな洋館カフェでのお茶時間はいかが、ハッセルさんの居間で寛いでいるような、静かですてきなカフェ時間を過ごせます。>
早川さんは著書「森茉莉かぶれ」で、「カフェなしでは一日もいられない」などでカフェ通いが天職とまで述べられています。
その方のご推奨とあらば、と私も仁川まで足を延ばしました。
阪急仁川駅から徒歩2分のところにあります。
ご紹介どおりの洋館の居間という雰囲気のカフェでした。
二階にはオーナーの描かれたアイルランドの風景画がかけられています。
関テレの「よーいドン」でも<週三日の日中しか開店しない喫茶店>
と紹介されたばかりで、私が訪れた日は多くのお客さんでいっぱいでした。
乗馬が趣味というご主人も、その日はお手伝いにかりだされたようです。
でもコーヒーを待つ間、二階のソファで本を読みながら、ゆっくり時間を過ごすことができました。
山と渓谷別冊を読んでいると、そこに先日ウラン堂でお話できたWAKKUNのイラストとともに、オーナーのご子息で現代音楽作曲家という近藤浩平氏の六甲縦走のお話が掲載されていました。
ところで仁川といえば遠藤周作が昭和14年から月見ガ丘にしばらく住んでいて、次のように述べています。
<ぼくは今日でも、仁川、十五年前のぼくに自然のうつくしさと、未知なものへの期待を教えてくれたあの仁川の村と自分とを割くことはできない。そこに育った少年が文学をやることを考えたのもこの村であり、そして彼がやがて書いた小説にその村の風景を入れるのを忘れなかったのも、そのためである。ぼくの「黄色い人」という作品はこの仁川の思い出の上に成りたったものである。>
「黄色い人」は遠藤の苦悩をモチーフにした作品ですが、当時の仁川から見える甲山や関学の風景が描かれていました。
現在の仁川の川岸の風景は大きく変わりましたが、遠藤はエッセイでも、次のように述べています。
<阪急の駅に二年ぶりで降りたとき、ぼくはこれら仁川の風景の中に、子供の頃の自分をむなしく探そうとしました。赤松林や白い花崗岩の丘に結びついた幼年時代ではありません。日本の土地にありながら、にせの異国風景をいかにも小賢しく作りあげた仁川は、黄色人のくせに母や叔母の手によって、貴方の教会の洗礼をうけさせられた自分にそっくりでした。>
遠藤は仁川の風景の美しさに、青年時代のキリスト教信仰への苦悩を重ねていたようです。
仁川に文学散歩などに出かけられたときは、温かく迎えていただいて寛ろげる場所としてハッセルハウスはお勧めです。
仁川橋といえば阪神競馬場に続く国道337号線の橋なのですが、「黄色い人」のストーリーからは仁川駅西口近くにある鶴の橋ではないかと思われます。鶴の橋の宝塚側柱には何故か「にがわ」と表記されており、宝塚市には「にがわばし」が二つあることになります。
ゴードンさんの写真の橋が、立て看板が少しうるさいですが背後に洋館も見え、小説にぴったりの仁川橋でした。
久しぶりに遠藤周作「黄色い人」に戻ってきました。
「黄色い人」の舞台となったのは遠藤お気に入りの仁川。遠藤は1939年に夙川から仁川に引っ越しました。そして関学と仁川を挟んで向かいにある教会、二人の外国人牧師が登場します。小説のモデルとなった教会や牧師を探るため、まず遠藤周作が実際に阪神間で住んだ場所と、時期を年譜で調べてみましょう。
1933年 父母の離婚により、夏休みに母に連れられて兄とともに帰国。神戸市六甲の伯母(母の姉)の関川家で一夏同居後、西宮市夙川のカトリック教会近くに転居。
転居先どうも片鉾池の周りだと、どなたかが書かれていたのですが定かではありません。
写真はグラフ西宮からと、現在の片鉾池の景色です。
1934年 四月、私立灘中学校に入学。母は同月、小林聖心女子学院の音楽教師になり、翌五月に学院の聖堂で受洗。六月に、周作も兄とともに夙川のカトリック教会で主任司祭永田辰之助神父より洗礼を受ける。洗礼名ポール(パウロ)。
1939年 仁川の月見ヶ丘に転居。
したがって夙川に住んだのは1933年〜1938年の約5年間、後の年譜で、仁川に住んだのは東京への行き来を含めても1939年〜1942年の約3年間ですから、阪神間では夙川に住んだ期間の方が長いのですが、何故か夙川の光景については夙川カトリック教会のこと以外、あまり述べていません。
年齢からして夙川に住んでいた頃のいたずら坊主の写真はあるのですが、写真からは想像できない、つらい思い出ばかりだったようです。
エッセイ「六日間の旅行」では、<私は母と過ごした五年間を思い出して呟いた。父と離別して大連から神戸に引き上げた後五年間、私は母と二人で生活した。母がそれ以降カトリックの信仰に自分の生き方を選び始めた五年間である。彼女は私にも洗礼を受けさせた。そして毎朝どんな理由があっても朝のミサに行かせた。他の子供たちがまだ暖かな布団にもぐっている一月、二月の朝でも、私はまだ真っ暗な凍てついた道を半時間も歩いて母と一緒に早朝のミサに通ったのだった。寒い教会の中にはフランス人の司祭が一人だけミサをあげ、我々親子を除いては二人の老婆が祈っているだけだった。>と述べています。
ただこの叙述のなかで、夙川の家からカトリック教会まで歩いて半時間というのが解せません。また他のエッセイで母は阪急の一番電車に乗って教会に通っていたとも書かれており、遠藤郁が早朝通っていたのは小林聖心かもしれません。
1940年 灘中学校卒業。この春も再度の三高受験に失敗、仁川での浪人生活が始まる。
1940年 上智大学予科に入学。周作は上智大学予科に籍を置いたまま、旧制高校を目指し仁川で受験勉強を続ける。その間宝塚文芸図書館に通う。二学期には上智大学予科に通い始める。
1942年 二月、上智大学予科を退学。旧制高校を目指して仁川で再び受験勉強を続ける。母に経済的負担をかけないためという理由で、世田谷区経堂の父の家へ。
1943年 四月、慶應義塾大学文学部予科に入学。
写真は遠藤が住んだ仁川月見が丘あたりです。
元々は外国人教員住宅として使われていたようですが、戦争末期は書かれているように、川西航空機工場で働く工員の寮となっていたのかもしれません。現在は一部空き家になっていたり、事務所に使われたりしていますが、どなたかが住んでおられる住宅もありました。
中の大きな一軒には迎賓館という表示がありました。
下の写真のハミル館は文学部心理学科の研究施設として使われているそうです。
仁川から関西学院にまで来てしまいましたので、ヴォーリズの設計した日本で一番美しいと言われているキャンパスも見てみましょう。
この家は現在はキリスト教会関係の施設として使われているようでした。
また「異国情緒をいかにも小賢しく作りあげた」という辛らつな表現がありますが、このモダニズムの時代に全国で多くの洋館が建築されています。先日散策した田園調布の昭和10年の写真がありました。この写真を見ていると映画のセットのようで、確かに遠藤の表現があたらないとも言えません。
デュラン神父の日記には次のような描写もありました。
<あの昭和8年頃、私が一生を伝道に捧げようと決心してきたこの仁川の町は、まだ阪急電鉄が、阪神郊外の新興住宅地として、土地を分譲したばかりだった。駅前に一軒の雑貨屋兼煙草屋と、それから住宅会社の出張事務所があるぐらいなものだった。>
この小説では教会が重要な役割を担っています。
仁川の天主公教会といえば、仁川学院の近くの仁川カトリック教会なのですが、どうも違うようです。
関学と仁川をはさんで、あるのは幼きイエズス修道会でした。
ミサは毎日行われているとのことですが、一般の信者のミサはどうも受け入れられているようには思えません。小説の場としてこの修道会を天主教教会としたようです。紅葉が素晴らしいのではないかと思われる日本庭園もあります。
遠藤一家が仁川に引っ越したあと、遠藤郁、周作がそれぞれどこの教会に通っていたのかは、ずっと私の疑問でした。
遠藤周作が最も愛した仁川を舞台にした小説を残しておりました。
「黄色い人」は太平洋戦争下の仁川を舞台とし、教会を破門になった神父と彼を見つめる日本人青年の物語で、人間の根底に潜む邪悪な部分を抉り出すような重い作品です。更に調べるうちに、棄教神父や、遠藤郁の最後など衝撃的な事実を知り、あまりにも重く、ブログでうまく伝えることができるか悩んでおりました。しかし元聖心女子大学学長Sr.三好切子の「少年周作のあとを追って」という寄稿文を読ませていただき、ブログに書く勇気がわきました。
「仁川の村のこと」で、遠藤は仁川を舞台にしたこの小説について次のように述べています。
<ぼくは今日でも、仁川、十五年前のぼくに自然の美しさと、未知なものへの期待を教えてくれたあの仁川の村と自分とを割くことはできない。そこに育った少年が文学をやることを考えたのもこの村であり、そして彼がやがて書いた小説にその村の風景を入れることを忘れなかったのも、そのためである。ぼくの「黄色い人」と言う作品はこの仁川の思い出の上に成りたったものである。>
それでは遠藤周作が仁川に住んでいた当時のことと対比しながら話を進めましょう。
小説はB29の爆撃の場面から始まります。
<黄昏、B29は紀伊半島を抜けて海に去りました。おそろしいほど静かです。二時間前のあの爆撃がもたらした阿鼻叫喚の地獄絵もまるでうそのように静かです。三時間のあいだ河西工場を舐めつくしたどす黒い炎も消えましたが、なにが爆発するのでしょう、にぶい炸裂がひびのはいった窓にかすかに伝わってきます。>
ここで河西工場と書いているのは川西航空機宝塚製作所のことであり、空襲は1945年7月24日午前10時33分〜47分までのB29、77機による精密爆撃でした。他にも、一日中大量の小型機・艦上機による攻撃があったそうです。
当時の川西航空機工場の米軍による航空写真です。現在の航空写真と比較すると阪神競馬場の場所にあったことが良くわかります。下は現在のうぐいす台から見た阪神競馬場です。
遠藤周作は1943年慶応大学文学部予科に入学しましたが、父が命じた医学部を受けなかったため勘当され、学生寮に入っていました。そしてこの爆撃の日はたまたま仁川の母の家に戻っていました。「阪神の夏」からです。
<戦争が激しくなったころ、私は慶応予科生だったが、時折、満員の列車でここに戻ると、なんとなく暗く重苦しい雰囲気から逃れられたような気がしてホッとしたものである。だが終戦少し前に偶然この仁川の家へ帰っていた日、突然、B29の爆撃が線路の向こうにある川西の飛行機工場(現在の競馬場にあった)を襲ってきた。列車の通りすぎるような鋭い響きと地響きの中で私は工場を燃やす炎と煙とを見た。少年のころから自分にとっては一番なつかしい仁川がやられるようではもうこの戦争はだめだなとその時、思った。>
この時見た様子が、「黄色い人」の冒頭に描かれたのです。
戦後阪神競馬場は鳴尾からここに移るまで、紆余曲折があったようですが、アメリカ人ゴードン一家が楽しまれる写真や、着物の女性が馬の予想をする面白い写真がありました。
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