阪急沿線文学散歩

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「暮らしの手帖」に掲載されていた西宮市の記事

  連続テレビ小説「とと姉ちゃん」ももうすぐ最終回。西宮市立中央図書館でも、29日まで「暮らしの手帖展」が開催されています。


創刊号から最新号まで全383冊を所蔵しているそうで、立派なコレクションになっています。


 展示ケースを見ると、まず目についたのが、昭和55年発刊の64号。

西宮市教育委員会の「ランドセル廃止」の記事が掲載されているではないですか。

当時の市教育の取り組みが評価され、記事になったようです。

私の小学校時代はまだランドセルでしたが、4年生くらいになって使わなくなったような記憶。娘たちは倉敷の小学校で育ち、6年間使ったランドセルの革を使ってミニチュアのランドセルを作ってもらい、残しています。

西宮市ではその後、ランドセルが復活したようですが、一時期でも斬新的な取り組みをされたことは、それなりに評価できると思います。


また西宮市消防局の救急車の写真があり、「医師同乗という価値ある試み」という表題がついています。


あの時代、西宮市の行政にも活力があったのでしょう。





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市制90周年記念写真集「西宮という街」

昨年の〜西宮市制90周年 西宮歴史資料写真展 「西宮という街」〜について、多くの方が訪ねられたようで、西宮ブログにもいくつか記事が掲載されていました。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061455/p11298956c.html


 残念ながら行くチャンスを逸してしまいましたが、その写真集が刊行され、市役所東館8階の情報公開課歴史資料チームと市役所本庁舎1階売店で一冊1000円で販売されていると知り、早速購入しました。

http://www.nishi.or.jp/contents/0003645600040004800085.html

その写真集から2,3ご紹介しましょう。



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諸事情が許すならぜひ購入したいです。そのためにも潰れずに生存しなければ。・・大袈裟ですみません。郵送購入できるようですね。

[ せいさん ] 2016/01/10 19:13:23 [ 削除 ] [ 通報 ]

郵送も受け付けているようです。情報公開課でもっと市民の間に埋もれている懐かしい写真を集めてもらえないものかと思ってしまいました。そのような積極的な発想をされる方は市役所にはおられないのでしょうか。

[ seitaro ] 2016/01/10 20:04:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

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ゴードン・スミスは明治38年に残り福の「えべっさん」を訪れていた。

『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』には、ゴードン・スミスが狩猟に西宮を訪れたことやニテコ池の怪談などが書かれています。

 


上の写真はゴードンスミスの日記の原本です。アジア旅行記として全八冊あり、ヴィクトリア・マンソープが日本に関する部分だけを編集し、英語版が1986年に出版され、その後翻訳版が出版されました。


 当時の日本の生活が、豊富な写真や日本の絵師に描かせた挿絵とともに日記として書かれています。

 


 しかし日記全体は膨大なもので、マンソープにより編集された『ニッポン仰天日記』では日本で体験した生活がかなり省かれており、西宮のえべっさんの部分は残念ながら省略されています。


 先日伊井春樹著『ゴードン・スミスの見た明治の日本』を読んでいると、明治38年の1月11日の残り福に西宮のえべっさんを訪れたことが記されていることがわかりました。


 日記の挿絵を描いてくれる梅芳が西宮の戎神社の近くにに住んでいたらしく、1月11日に梅芳の家を訪れようと神社の近くを通ると、境内は数千人の人であふれかえっています。
<彼が目にしたのは、人々が手にする餅菓子のつけられた笹で、その飾り一つ一つには様々な意味が込められているのだと聞く。お多福はふっくらとした顔立ちを喜び、お多福は冨、打出の小槌はお金の入った財布と幸せを呼び、さらに多数の宝船、小判、必ず鯛を手にした恵比寿、海老、赤い提灯も吊るされる。スミスは福笹の説明を梅芳から聞き、日記に早速その絵を描いてもらう。>

 

梅芳が描いた福笹です。
<なお、スミスは一月十日付の新聞記事を切り抜いており、そこには、
「昨日の火曜日は十日恵比寿の日で、神社には多数の参拝客がつめかけた。天候もよかったため、例年より多数の人々が押し寄せ、いつものように若い女性が神社に駕籠をかつぎ、はなやかさもひときわだった。」
と、戦争のさなかながら、人々の心を浮き立たせるように、前日のはなやかな祭礼の様子が報告される。>


現在の福笹は合成樹脂になってしまったようです。



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楽しみにしていた大阪春秋平成27年新年号読ませていただきました。

昨年凛太郎さんの西宮砲台の記事が掲載されると紹介され、
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061497/p11146390c.html
年初早々にもしもしさんがゲットと記事にされた大阪春秋です。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000080132/p11150720c.html
私も京都からの帰りに、梅田の紀伊国屋書店で入手。


 ―大阪の歴史と文化と産業を発信する− とされている大阪春秋の新年号の特集が「西宮ツーリズムまちたび事始[阪神間T]と西宮を取り上げていただいたのは感謝です。
 特集の最初は、「西宮流」編集室代表の岡本順子さん、洋菓子店「エルベラン」の二代目オーナー柿田衛二氏らの西宮じまん座談会。

 もしもしさんがおっしゃる通り、それぞれ興味深い記事で充実しています。
凛太郎さんの「西宮砲台を笑うな」だけではなく、詳しく知りたかった越水城、最近再訪している苦楽園温泉の記事。

涼宮ハルヒまで登場、存じあげている北夙川不可止伯爵の西宮船坂ビエンナーレ物語、やっこちゃんで皆さまお馴染みの「新しい分野を開拓し和樽の文化伝える株式会社田中製樽工業所」の記事などなど。

 

 それに付録が吉田初三郎画「西宮市鳥瞰図」昭和27年版。
どちらかというと昭和11年版のほうが面白いのですが、その後の発展の様子がよくわかります。
西宮の街歩きにはとても参考になる記事ばかりで、お勧めです。

 



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ガーデンズのブックファースト、今回はたくさんあるそうですが、押さえてもらってます。

[ 笹舟倶楽部 ] 2015/01/10 14:48:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

私もハルヒの記事で登場していますよ〜。

それと、「西宮市の昭和」という写真集が出るんですが、昭和の写真を募集しているのでお知らせしておきます。
http://d.hatena.ne.jp/keyboar/20150119/1421599016

ご存知かも知れませんが、11月に大映の細雪のDVDがようやく出ました。
火垂るの墓の調査にも役立つかも知れません。
http://www.amazon.co.jp/%E7%B4%B0%E9%9B%AA-DVD-%E8%BD%9F%E5%A4%95%E8%B5%B7%E5%AD%90/dp/B00NGFXP1C

[ きーぼー ] 2015/01/19 2:32:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

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昭和11年鳥瞰図をじっと見ていると西宮にも遊郭が

 昭和11年の吉田初三郎の鳥瞰図をじっと見ていると、敷島劇場から少し南東側に下がった所に「遊郭」と記されています。


 大正の終わりのこのあたりの風景が描かれている小説がありました。田宮虎彦『江上の一族』です。主人公博介は昔の恋人で、西宮の町の古道具屋の娘、杉野雪枝の影を追って西宮に来ます。


<西宮東口というところで降りて浜の方へ歩いていった。何故自分がそこをあるいているのかは −はっきりした考えはなかった。だが心の底にわだかまっているものはぼんやり意識していた。阪神電車から三、四町で海に出る。海に出る前に酒倉の並んだ暗いかげをとおる。そこまで来て博介は深い息をすった。芳醇な酒の匂いが冷たく漂っていた。嘉納吟醸銀正宗、そんな表札がかかっているころで旧山陽道が続いている。昔は松並木があっただろうような一間幅の道が細く曲がりくねっていた。>


鳥瞰図では正念寺の南側の広い道、本町筋が旧山陽道の起点です。
その更に南側に酒倉が多く見られます。

 小松左京『歌う女』では、このあたりの風景を次のように描いています。
<そこからさらに南に行けば、幕末、明治以来の酒屋、回船屋の白塗りの土蔵や煉瓦づくりの倉庫がならび、そのひんやりと小暗い倉と倉との間の道をたどる途中から、もう魚臭い磯の臭いがして、ぬければそこはかっと眼を射るような白浜の浜であり、漁船のもやう小さな港の、石をつんだ防波堤の先で釣りもできた。が 今は、酒造業はあっても、見上げるばかりの灰色の、窓のないコンクリート倉庫、そしてそのむこうは埋立てで、銀色の塔や、櫓やパイプ郡が空つくばかりに組み上がり、そこここから白い煙を吐く大工場が東西にきりもなくつづいている。>


昭和の初めの風景とはかなり変わりました。


田宮虎彦『江上の一族』に戻りましょう。
<海岸から戻って来ると、博介はその旧道を西宮の町の中へ折れた。銀正宗の酒蔵のきれたところから町屋となり、仁丹とかライオン歯磨きとかいた看板がのきにぶら下がっている賑やかな通りがつづく、そこには遊郭があった。博介はうつむいて遊郭を通り抜けた。そして足を止めた。眼の前に古道具屋があった。雪枝の家である。>


博介は海岸から旧山陽道まで戻り、西宮の町の中へと歩いたようです。当時はかなり賑わっていた通りのようで、戸田町あたりに遊廓がありました。


もうひとつ鳥瞰図で目に付くのが、遊廓の北側にある戎座です。
戎座は大正15年に寄席として誕生し、その後活動写真館に改造、年中無休で侠客物、武士物が多く上映されていたそうです。
しかしこのあたりは大空襲で完全に焼失してしまい、今ではまったく面影が残っていません。

 



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昭和11年西宮市役所あたりの鳥瞰図

 市庁舎が建つまでの六湛寺界隈は、緑ゆたかなクスの杜に包まれた、六湛寺と海清寺という臨済宗の大きな禅寺が、東西にきそいたつ寺町であったそうです。昭和11年の鳥瞰図を見ると、そのあたりには多くのお寺が見えます。

六湛寺は、1346年に創建され、その後如意、茂松のニ庵のみがのこり、やがてそれぞれ独立した寺となり、そこには広い共同墓地があったそうです。その後、共同墓地は昭和2年に阪神国道の建設と、市庁舎建設用地提供のため、満池谷に移転したのです。


鳥瞰図の市庁舎の南に見える如意寺は昭和35年に名次町へ移り、現在は茂松寺のみ残っています。
 
 次に目に付くのが、札場筋の阪神電車踏切の南側に見える敷島劇場です。昭和10年に灘中に入学した遠藤周作は、この鳥瞰図が書かれた頃、この敷島劇場に通っていたのです。


遠藤周作「私の履歴書」では、登校するふりをして映画館に行ったりしたと述べています。
<私はある日、面白くもない学校をさぼって敷島劇場に行った。三本立ての映画をすべて見て家に戻ると。既に登校しなかったことがばれていた。>と母親遠藤郁を落胆させ、心配させていたのでした。


<今でも私は当時西宮にあった敷島劇場の長椅子に腰掛けたあわれな自分の姿を思い出すことがある。補導連盟にみつからないかという不安と、学校の戒めを破った快感とを味わいながら、私は桑野通子や嵐寛寿郎に夢中になっていた。………十五歳にもなって学校から帰ると私は覆面代わりに風呂敷で顔を覆い、刀をさして近所の道を歩いていた。>
と鞍馬天狗の真似をしていた遠藤です。
<便所の匂いが漂っていた敷島劇場。あのなかで私は知らずして夢見たり、別の世界をうろついたりしながら、小説家になる種を心に埋めていたのかも知れぬ。>
どうも遠藤周作を小説家にする土壌となったのが敷島劇場のようです。


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敷島劇場にはわたしも多くの思い出があります。懐かしい。

[ akaru ] 2014/04/17 22:49:22 [ 削除 ] [ 通報 ]

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昭和11年の西宮神社周辺の鳥瞰図(傀儡師遺跡と阿波屋味噌製造所)

 鳥瞰図には西宮戎神社の社殿が大きく描かれています。

表大門もはっきり描かれています。

江戸時代に四代将軍家綱の寄進による国宝の三連春日造の本殿の屋根も見えています。


西宮神社の北側を見ると、目に付くのが、傀儡師遺跡。

阪神電鉄の踏切の北側の産所町のあたりにとしてポツンと石碑のようなものが描かれています。
 西宮神社周辺には、室町時代から、人形芝居をしながら全国を行脚してえびす様の福を配ったといわれている傀儡師(くぐつし)が集まって暮らしており、このことから産所町には、首から箱を下げて人形を操る「箱回し」の傀儡師像と故跡の石碑が建てられたそうです。

現在も鳥瞰図に描かれているあたり、NTT西宮ビルの前に残されています。
現在の傀儡師の像は新たに作られたようですが、石碑はかなり古そうです。鳥瞰図に書かれていた石碑でしょうか?

裏に廻ってみると、昭和三年十一月大礼記念 西宮市連合青年と記されていました。鳥瞰図に描かれていたのはこの石碑ではないでしょうか。
 人形浄瑠璃の故郷といわれているのが西宮の傀儡師の「えびす廻し」あるいは「えびすかき」と呼ばれている人形廻しとのことだそうです。その歴史は「戎座人形芝居館」のホームページで詳しく説明されていました。
http://ebisuza.com/index.php?FrontPage

 

 もうひとつ目に付いたのが西宮神社の南側に描かれている阿波屋味噌製造所。

当時はかなり大きな味噌製造所だったようです。
その経営者は俳人でもあった福井治兵衛(艸公)氏。現在の大手前大学さくら夙川キャンパスのあるところに私邸を持たれていた方でした。

大手前大学のホームページには、
「現在のさくら夙川キャンパス本館の建つところには、西宮の実業家、福井治兵衛氏の私邸がありました。艸公(そうこう)という俳号を持つ彼は、文化への造詣が深く、俳人や画家、作家など、多くの文化人との交流を通して、西宮芸術講演会や美術展覧会などを開催し、地域の文化振興に情熱を注いでいました。」と説明されています。
 当時の田島西宮市長が福井氏の人物像を次のように紹介されています。


<君は西宮の旧家阿波屋の主として終戦まで味噌製造を業とし、かたわら市会の議席を有し私とは戦前からの古い政友であった。君はその頃から多くの画家の世話をしたり、俳句を作ったり、優雅な一面を持っていてつねづね敬意を表していたものであるが、私と相似るのは、どちらも酒都の住人の名に恥じず人一倍酒を嗜むことである。>


 また大村利一『西宮物語』では次のように紹介されていました。
<西宮に屋号阿波屋という大きな味噌製造業があって経営者を福井治兵衛氏と云った。関西一円にその販路を持っておられた大きな老舗であった。………
 百万長者に似合わず粗衣を纏い、店先などの火鉢の前で正座しておられる。未知の者が来て阿波屋の檀那さんに取り次いで欲しいというと、檀那さんは今留守ですと本人が平気で答えられるというそういう気さくな方だったと聞いている。>
とお酒が好きで、面白そうな方だったようです。



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現在の浜脇中学校の場所ですね。知りませんでした。

[ akaru ] 2014/04/14 9:01:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうなんです。私も阿波屋味噌製造所が、こんな所に広い場所を占めていたなんて思いもしませんでしたので、鳥瞰図を眺めていてびっくりしました。

[ seitaro ] 2014/04/14 19:15:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

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谷崎潤一郎が入院した西宮の病院

 imamuraさんから頂いたコメントで谷崎潤一郎が勝呂病院に入院したお話を思いだしました。谷崎松子著「葦辺の夢」からです。
<昭和12年4月17日(先々月潤一郎痔ろうをやみて勝呂病院入院当日の控えここにうつす)主の肛門周囲炎、御キュウもとうとう見限りをつけ、西宮勝呂病院に今一度診断を乞う事にする。>
 谷崎潤一郎、松子夫妻は昭和11年11月武庫郡精道村打出から住吉村反高林の倚松庵に転居していました。


 <脇息にふとんをくくりつけたものを車中に持ち込み、住吉川堤を国道に徐行して貰う。
岸辺のさくらと屋敷の内より差出でた枝の交互に誇りあった花の奢りもきょうは朝の雨にいろ薄れて、はや葉桜によそおいをかえるのに追われている。>

現在の住吉川堤です。
<人間の体の中で最も痛いという部分を患い、この四五夜は安らかな眠りも覚束なかった主も、花を通りすがりにながめただけでも幾分心も和んだのであろう。珍しく打ち笑んでいる。
勝呂氏診断の結果、手術より方法がないと入院手術を進められる。寝台のない部屋が丁度あくので後刻入院の運びにする。>

勝呂クリニックは阪神西宮駅の直ぐ近く、朝日新聞阪神支局の南側にあります。
<勝呂氏より電話にて、明朝七時手術するから今夜晩くとも入院しておいて欲しいと。
御夕飯後、車に御布団その他の御荷物を詰め込んで出かける。午前に出かけた時よりも詰め込まれて帰って体が動かないで痛みが少ないらしく、ヒリョウズの中の銀杏のようと戯談口もきく。>


<庸子さん(勝呂先生夫人のねていらっしゃったところは御床も縁側もあって良いのであるが、隣の手術室の声等聞こえては心地悪いかと、ニ階の病室に決める。割合落ち着きそうなと氏も言う。手回りの品を片付け終わると、そろそろ明日の手術のこと案じられて動悸も高い。主はと見るとはや高鼾。>


多分震災で建て替わったのではないかと思いますが、谷崎が入院したのは二階の部屋で、現在は勝呂肛門科という大きな看板がでています。


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そうだったのですか?!
夫の弟、妹もこの病院に入院していました(^_-)-☆

[ ショコママ ] 2013/06/22 23:27:54 [ 削除 ] [ 通報 ]

芦屋高校出身の出身、勝呂誉が弟とも親戚とも伺いましたが真偽のほどはわかりません。

[ ロックウェル ] 2013/06/25 10:17:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

ありがとうございます。時間をみつけてブログを書くことが、現在の一番のリフレッシュ方法になっており、週一くらいは更新したいと思っています。

[ seitaro ] 2013/06/26 23:18:28 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪神西宮駅中央商店街の洋品店

 朋子が昭和37年、岡山の小学校卒業後、芦屋に来て、山芦屋町のミーナの家から通ったのがY中学、すなわち芦屋市立山手中学でした。


<Y中学校は家よりも更に海抜の高い場所にあった。通学路は坂道などという生半可なものではなく、ほとんど登山をしているのと同じだった。高座川のせせらぎが、木立の間から聞こえていた。伯母さんも私も息が切れ、いつしかうっすら汗ばむほどになり、せっかくの伯母さんのショールは半ばずり落ちそうになっていた。>
 西宮でいえば、涼宮ハルヒの北校と同じような坂の上、住宅は続くのですが、その一番山際に山手中学がありました。私も汗をかきかき中学校まで登らせていただきました。昭和44年の写真を見ると更に山の中という感じです。



<芦屋に来て三日目の土曜日、伯父さんと一緒に西宮の洋品店へ中学校の制服を作りに行った。私が入学するのは芦屋市立Y中学校なのに、どうしてそんな遠くのお店へ行くのか不思議だったが、西宮は私の想像よりずっと近かった。芦屋川沿いの道を南下し、高速道路の下の国道を五分も走らないうちに、たちまち西宮市になってしまった。>
山芦屋町から開森橋に出て、国道43号線まで南下します。
写真の阪神芦屋駅のガード下を潜り抜けると、阪神高速と43号線に交わります。



左折して43号線を走ると5分もしないうちに宮川町を抜けて、西宮市に入ります。えびすさん筋を曲がり、車を止め、中央商店街にいったのでしょう。



昔アーケード商店街だった西宮中央商店街、現在はほとんどマンション街となっています。今はプレイタウン一番街というのでしょうか、まだいくつかのお店があります。そして物語に登場する洋品店「ハタ」もちゃんと残っており、既に西宮芦屋研究所員さんが記事にされています。
http://nishinomiya-style.com/blog/page.asp?idx=10001166&post_idx_sel=10048235
日曜日は休みで写真のようにシャッターが閉じていましたので中のようすがわからず、お店のホームページの写真を借用いたしました。



<そのお店は学校の制服を専門に扱っているらしく、甲南女子中学、夙川学院、仁川学院などと名札の付いたお洒落な制服がいくつも飾られていた。ところが肝心のY中学は、つりスカートに友布のベスト、もっさりしたブレザー、というあまりパッとしないデザインだった。>
 朋子は最初Y中の制服のデザインがやぼったいと嘆きます。ところで「芦屋今昔」を調べていると、芦屋高校の女生徒の制服は田中千代のデザインだったとか。今の制服はどうなっているのでしょう。



西宮中央商店街
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西宮戎バス停とマンボウ

「細雪」で女中のお春が自分の父を見舞いに行ったとき、バス停で啓坊に会います。
<お春の云うところに依ると、………病院は西宮の恵比須神社の近くにあったので、いつも彼女は国道の札場筋から尼崎までバスに乗って行ったが、その往復の道で三度奥畑に邂逅した。一度は彼女が乗ろうとするバスから降りて来て擦れ違い、二度は停留場でバスを待つ間に出遇ったのであったが、奥畑は彼女と反対の方向、神戸行きにばかり乗って、野田行きに乗ったことは一度もなかった。>
このバス停は現在の阪神バス(当時阪国バス)西宮戎バス停です。

写真上が奥畑が乗った神戸方向のバス停です。
<バスを待つのに、彼女は国道を南から北へ横切って、山側の停留場に立つのであるが、奥畑は、その山側の停留場のうしろの方のマンボウから出て来て、国道を北から南へ横切って、浜側の停留場に立つのであった。(お春はマンボウと云う言葉を使ったが、これは現在関西の一部の人の間にしか通用しない古い方言である。意味はトンネルの短いようなものを指すので、今のガードなどと云う語がこれに当てはまる。もと和蘭陀語のマンプウから出たのだそうで、左様に発音する人もあるが、京阪地方では一般に託って、お寺が云ったように云う。阪神国道の西宮市札場筋附近の北側には、省線電車と鉄道の堤防が東西に走っており、その堤防に、ガードと云うよりは小さい穴のような、人が辛うじて立って歩けるくらいな隧道が一本穿ってあって、それがちょうどそのバスの停留場の所へ出るようになっている)>

マンボウの入り口、南側からの写真です。

北側から見ると、背景に以前みほぼんさんが紹介された巨大建造物?が見えていました。
れんがへの落書きは余分です。

 この低いマンボウ、これなら少なくとも上から黄金の飛沫をあびることはありません。私は幼い頃、父親の自転車の後ろに乗せられて、ゴジラの映画を見に、ここを潜って行ったことを憶えています。以前西宮芦屋研究所員さんに教えていただいたのですが、ゴジラが封切された映画館は遠藤周作の敷島劇場ではなく、東宝系の西宮劇場だったとか。記憶が定かではないのですが、西宮劇場は突然現れたあの巨大建造物のあたりだったのではないでしょうか。
 ところで細雪を読むまでこのトンネルがマンボウなどと呼ばれていたとは知りませんでした。 調べてみると、<「マンボ」とは日本で独自に発達し、人工的に作られた地下水路のことです。研究者によると,マンボの呼称は鉱山用語の「まぶ(間府)」に由来するという説があり,まぶが転じてマンボとなったといわれる。『広辞苑』によれば,「まぶ〔鉱・間府〕鉱山の穴,坑道,鉱脈」とあり,マンボが鉱山用語からの派生とする説は説得力に富むが,一方,マンボの語源はオランダ語,スペイン語に由来する説もあり,語源の解明は今後の研究課題とされている。>とのことでした。


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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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