阪急沿線文学散歩

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「マッサン」の感動の最終回はニッカウヰスキー西宮工場で!

 NHK朝ドラ「マッサン」も好調のようです。


これから山崎や余市に舞台は移るのでしょうが、ニッカウヰスキーの最後の仕上げともいうべきグレーン・ウイスキーとのブレンドに大きな役割を果たしたのが西宮工場だったのです。

 竹鶴政孝が日経の「私の履歴書」に連載した内容が、『ウイスキーと私』と題して出版され、
<戦後、西宮にニッカのグレーン工場をつくり、最初のバルブあけを私がしたが、この時のことを思い出し、感慨無量であった。>と西宮工場の思い出を感慨深く語っているのです。
 ただ現在の西宮工場は「樽ハイ倶楽部」(料飲店様向け樽入りサワー)を専門に製造しているとのことで、その機能は昭和44年にできた仙台工場宮城峡蒸溜所に移っているようです。


訪ねてみると小さな工場でした。


 川又一英が著した『ヒゲのウヰスキー誕生す』の第五章「キング・オブ・ブレンダーズ」では、西宮工場の稼動の様子を、次のように感動的に著されています。


<兵庫県西宮市にある念願のグレイン・ウイスキー工場を建設し、カフェ式連続蒸留機のバルブをみずからの手で開けた瞬間、竹鶴の脳裏をかすめたのは半世紀の昔、スコットランドの工場で深夜、蒸留主任の老人から手ずから教わった記憶であった。よもやあの老人は生きてはいまい。スコットランドへ遣ってくれた摂津酒造の阿部喜兵衛、山崎工場を任せてくれた寿屋の鳥井信治郎、余市に初めて竹鶴の城を築かせてくれた加賀正太郎、数億円の出資でカフェ式連続蒸留機導入を実現してくれた山本為三郎…..恩人は皆世を去っている。こうした先人を思い返すたびに、竹鶴はウイスキー一筋に生き、グレイン・ウイスキーまで造れるようになった僥倖を痛いほど感じるのだった。>

 


 西宮工場にカフェ式連続蒸留機が完成したのは昭和38年のことでした。


 

竹鶴リタさんが逝去されたのは昭和36年でしたから、悲しみから立ち上がる「マッサン」のラストの回想シーンには、昭和38年の西宮工場の出来事は持って来いではないでしょうか。

 


住吉酒造の田中大作(摂津酒造の阿部喜兵衛

鴨居商店の鴨居欣次郎(寿屋の鳥井信治郎)

 


実業家でアサヒビール大山崎山荘美術館の元の山荘所有者でもあった加賀正太郎

 


朝日麦酒の初代社長山本為三郎


 など『ヒゲのウヰスキー誕生す』に登場する恩人達は「マッサン」ではどんな人物像として、これから描かれるのか楽しみです。

 




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「マッサン」目が離せませんね。
ドラマの登場人物と実際の人物との関係などがよく分かるいい記事ですね。拍手!

[ たくじろう ] 2014/10/31 18:04:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

たくじろうさん お褒めいただきありがとうございます。私もこの先どんな展開になるのか楽しみにしています。

[ seitaro ] 2014/10/31 18:09:28 [ 削除 ] [ 通報 ]

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『マッサン』が新ブラックニッカを世に送り出した西宮の工場

『ウイスキーと私』では竹鶴政孝がグレーン・ウイスキーの実習のためグラスゴーの近くにあったジョニー・ウォーカー系の工場に通ったと述べられています。


 グレーンウイスキーとは、トウモロコシ、小麦などの穀類と麦芽を原料として発酵させ、連続式の蒸溜機で蒸溜したもので、風味が軽い穏やかな性格のため、サイレントスピリッツと呼ばれています。


 このグレーン・ウイスキーとモルト・ウイスキーをブレンドすることにより、ウイスキーは飲みやすくなり愛好されるようになったのですが、竹鶴はスコットランドでの修行の仕上げとしてブレンダーとしての特訓を受けます。


 この章の最後で、竹鶴は<戦後、西宮にニッカのグレーン工場をつくり、最初のバルブあけを私がしたが、この時のことを思い出し、感慨無量であった。>と西宮工場の思い出を感慨深く語っているのです。

<グレーン・スピリッツを日本製のアルコールの代わりに使いたいと言うのは、私の年来の望みであった。しかしその製造設備には多額の資金が必要であったから、希望の実現はのびのびにさっていた。
だが、この夢は実現した。朝日麦酒社長の故山本為三郎さんが、「スコッチに負けないようにするには…」と積極的に援助して下さったのである。こうして西宮にグレーン・スピリッツの工場が完成したのが昭和三十七年である。>

 ニッカウヰスキー西宮工場は、現在更地になっているアサヒビール西宮工場跡地の西側の津門飯田町にあります。

 昭和11年の鳥瞰図を見ると、当時は大日本ビール会社でしたが、大日本麦酒の山本為三郎専務が会社分割を推進し、朝日麦酒の初代社長に就任しています。

 

「ウイスキー品質競争時代」と題した章では更に西宮工場の果たした役割が述べられていました。
<西宮の工場でつくったカフェ・グレーンの熟成をまって市場に出したのが、五百円のハイニッカと千円のブラックニッカであった。両方とも許されるギリギリの原酒とカフェ・グレーンのブレンド製品であった。>


<それまで特級のウイスキーでなければつくれなかった味が、熟成カフェ・グレーンのおかげで、一級のウイスキーでも、さらにうまいと自負できるものが生まれたのである。これが千円のブラックニッカであった。まさにウイスキーの品質革命ともいえるものであった。>


マッサンには西宮工場にもドラマチックな思い出があったのです。



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しかしこの鳥瞰図はホントにスゴイですね。

[ akaru ] 2014/10/14 8:14:25 [ 削除 ] [ 通報 ]

マッサン、ニッカウイスキーいいですね。品質に重きを置く洋酒作りの精神が、大きな信頼感をもたらします。
某Sメーカーのスタンスとは大違いです。

[ Numa ] 2014/10/14 9:50:18 [ 削除 ] [ 通報 ]

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小田実による谷崎潤一郎「細雪」「猫と庄造と二人のおんな」評

小田実「西宮から日本、世界を見る」から続けます。
<こういう当時の超モダン、ハイカラな「昭和のモダニズム」に徹底して−いかれた−のが谷崎潤一郎だった。

彼の代表作「細雪」は、古い日本を愛着して書かれた作品ではない。彼がその中に住み、生きていた新しい日本にいかれて書いた作品だ。彼は芦屋、西宮に住み、そのあたりの事物をこよなく愛したらしくて、いや、そこに異常なまでに執着したらしくて、たとえば西宮のたたずまいの描写は「JR」線の下のちっぽけなくぐり抜けのトンネルに至るまで今行ってみてもその通りのかたちのものとして残っている。>


小田実は私のような文学散歩の趣味はまるっきりもってないと言っていますが、細雪のマンボウには行ったようです。
 このような文章を読むと小田は−いかれた−谷崎潤一郎が嫌いなのだと思ってしまいましたが、あとがきを読むと、まるっきり反対でした。
<私は谷崎の西宮から隣接の芦屋あたりのくらしのさまを克明に書き記した「細雪」と「猫と庄造と二人のおんな」の二作品をこよなく愛していて、また、その二作品を現代日本文学の傑作だとみなしているのだが(その証拠に、私は、今、アメリカ合衆国の大学で二つの作品の英訳を使って「現代日本文学」を教えている)>と述べているのです。
小田氏は1992〜1994年までロングアイランドにあるニューヨーク州立大学ストーニイ・ブルック校に客員教授として招かれています。

そこでのProfessor Odaの谷崎についての講義はどのような内容だったのでしょう。
ちなみに「細雪」は ‘The Makioka Sisters’

「猫と庄造と二人のおんな」は ‘A Cat,a man,and Two Women’でした。


「細雪」については、以前かなりくわしく探訪し、記事にいたしましたので、http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10764152c.html
次回から「猫と庄造と二人のおんな」の舞台も訪ねてみましょう。



マンボウ
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おはようございます。

『猫と庄造と二人のをんな』といえば、たぶん昨日あたりから書店にならんでいるはずの、中公文庫の新版には、安井曾太郎の挿絵が収載されているようです。
大谷崎の挿絵といえば、わたしは『蓼食ふ虫』の小出楢重ぐらいしか知らないクチので、とてもたのしみなんです。

小田実さんは、一時期、阪神西宮駅からすこし西へいったあたりで、よくお見かけしました。
近くに、ある政党の事務所があったからかもしれません。
いつも、なんだか「ねめつける」ような表情でしたが、おそるおそるお声をかけると、破顔一笑、人なつこい表情になられたことを鮮明におぼえています。

[ 373 ] 2013/07/25 6:02:37 [ 削除 ] [ 通報 ]

うちの娘も373さんと同じような経験をしたと昔言ってました。阪神西宮の南で。

[ akaru ] 2013/07/25 12:47:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

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「阪神風景漫歩」新国道と武庫川大橋

昭和4年発行の北尾鐐之助著「近畿景観」からです。
最初の章「阪神風景漫歩」は<いつからか、風景漫歩の癖がついた。>で始まり、阪神国道に沿って、大阪から順に景観が描かれ、武庫川にいたります。
<淀川大橋を起点として、阪神旧国道バスというものができた。新淀川の北岸を通って、東へ塚本、十三を経て木川まで、西は稗島、大和田を経て、新千船、辰巳橋まで通っているが、新国道以西は道路が狭いのと、川のため屈曲が多いのとで、沢山の車輌を運転することができない。車の走る道路は、灰のような砂ほこりをあげて、道傍の草の葉までまっ白になっている。>

上は昭和10年ごろの阪神バス沿線案内です。

 この時代まだ43号線はできていませんから、文中の新国道とは現在の2号線だと思われます。

辰巳橋は現在の43号線の橋ですが、大阪 - 西宮間は、往時の中国街道(中国路、浜街道)と重なる区間をとっているそうで、旧国道とはこの径路だったのかもしれません。


昭和5年の甲子園住宅経営地鳥瞰図がありました。やはり写真の斜めに真っ直ぐ走っている道路の武庫大橋のところに新国道と書かれていました。そして左下を斜めに走っている細い道路には旧国道と記されています。
「阪神風景漫歩」からです。
<ある日、私は武庫川大橋の上に立って、六甲山脈を眺めた。尼崎では、まだそうとは思われないが、この武庫川まで来ると、はっきりと、東西に文化の程度が変わっているのに気がつく。赤い、青い屋根は、武庫川を西に越すと著しく殖える。山が近いのだ。人間は、どうしても、山を背にして住もうという、先住民の心持を持つものだ。>


昭和初年もう阪神間モダニズムの始まっていた時代でした。

現在は高いビルに阻まれ、国道から赤い、青い屋根は見えませんが、武庫川大橋のたもとには菜の花が植えられ、冬の花のない時期に彩りを添えていました。
しばらく武庫川を歩いてみます。



近畿景観
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晩翠草堂と薄田泣菫への絵葉書

 みほぼんさんが「土井晩翠終焉の地」として昨年紹介されていた晩翠草堂を訪ねました。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061534/p10765502c.html
既に述べられているように、仙台駅近く、青葉通りに面した晩翠草堂、あたかも日本版バージニア・リー・バートンの「ちいさいおうち」を見ているようで、ビルの間に良く残されています。

ベルを押して中に入ると、管理されている方が出てこられ、説明していただけました。

もともとここには三階建ての晩翠の家があったそうですが、空襲で焼失、仙台二高の教え子が中心になって建てたのが晩翠草堂とのことです。

晩翠は東京帝国大学英文科卒で、詩人であり、英文学者でもありました。
明治34年から37年にかけてヨーロッパに私費留学したのですが、この時ローマから薄田泣菫に送った絵葉書に私は感激し、記事にしましたが、もう一度ご紹介します。
東大英文科卒の晩翠に対し、泣菫は、明治10年に岡山県で生まれ、中学を2年で中退した後、ほとんど独学で英語を勉強し、20才の時すでに英国人キーツの詩集を片時もはなさず、読み耽ったそうです当時既に新体詩を発表していた泣菫は大阪毎日新聞社に入社し、西宮にも長く住んでいました。

 土井晩翠はまだ一度も会っていない泣菫に、絵葉書とキーツの墓から摘み取った花を送ります。泣菫の実力を認めていたのでしょう。

 

 

晩翠は次のように書いて送っています。

 

未だ御目にかからず候えども一筆
御免被下度(ごめんくだされたく)、昨日ローマ南郊外に遊び英の二大詩人のあとを弔い候。
別封の花はKeatsの墓よりつみとりしものに候。君が平生欽迎(きんぎょう)の処と承り候故、かたみとしてはるかにおくりまいらす。
墓は此図ピラミッドの左に隠れて、一の塀を隔てて、はるかに
Shelleyのそれと毎(つね)に思を替わしつつある哉に被存(ぞんぜられ)候。
大帝国二千年の廃墟 バイロンのいわゆる “A ruin! But what a ruin!”
野花春草一として感慨の種ならざるは無之(これなく)候。
小生三四ヶ月此地に滞在 可仕(つかまつるべく)、御用も在之候はば仰付被下度(おおせつけくだされたく)。

薄田泣菫様                     ローマにて 土井林吉

 

紀元前18年から12年の間に建造された古代ローマの執政官ガイウス・ケスティウス・エプロの墓としてのピラミッドは今ものこされています。

晩翠が書いている通り、キーツの墓は、ピラミッドの左に隠れている非カトリック教徒墓地にありました。


文中に出てくるバイロンの一節は「チャイルド・ハロルドの巡礼」の中のもので、土井晩翠は大正13年に翻訳し、出版しています。


 



チャイルド・ハロルドの巡礼
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二人にそんなつながりがあったとは知りませんでした。とても興味深いエピソードですね。

[ みほぼん ] 2013/02/11 23:18:12 [ 削除 ] [ 通報 ]

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遠藤周作のセンチメンタルジャーニー

遠藤周作は1935年灘中学に入学。当時は夙川の片鉾池の近くに住んでいたらしく、ここから国道電車で灘中に通っていました。



「口笛を吹く時」で友人の平目との思い出を振り返るため、主人公小津は、出張で関西に行った帰り、母校だった灘高を訪ねることにします。


<彼が母校をたずねようと思ったのは、自分や平目たちの思い出をもう一度、心に甦らせたかったからである。失われた少年時代。勉強もできぬ劣等性だった自分たちがそこで生活した校舎の跡や運動場を今一度、この眼で見たかったのである。彼はタクシーに乗って、国道の住吉川まで行ってくれと頼んだ。
「国道でっか」「そうだ。国道電車が走っている路があるだろう」そう言って彼はまぶたの裏に、古ぼけた褐色のあの電車を思い浮かべた。

平目や自分を毎日、乗せてくれたノロノロとした電車。その電車に愛子のように甲南の生徒たちも乗ったのである。>
 三田文学で知り合ったと思われる、同じ1923年生まれの佐藤愛子は当時甲南女子に通っていました。そこで東愛子という名で登場させたのでしょう。
<「ああ、あの電車やったら」と運転手はギヤを入れながら教えてくれた。「もうなくなりましてん」「廃線になったのか」「もう、あんな、のろい電車に乗る人もおりまへんやろ」しかし神戸から大阪に向かう国道だけはまだ残っていた。昔は空き地があり、野原があったその国道の周囲にはぎっしりと店やビルが並んでいた。「住吉川はまだあるんかね」「ありまっせ」彼はまた、白い川原に月見草が咲いていたあの川のことを心に甦らせたが、まもなく見えた住吉川は川原の姿を消して、ただ味けないセメントで固められた大きな溝に変わっていた。>

遠藤は日本経済新聞に連載した「私の履歴書」でも佐藤愛子に言及しています。

<また同じ通学電車のなかで、きたないものを見るように私たちを見る女学生たちだった。同業の佐藤愛子はその時、同じ電車で通学していた女学生の一人だったが、彼女も当時はうすぎたない中学生はゴミと思い、大学生たちにしか関心がなかったと言っている。>

   

 灘高訪問のあと、小津は「甲南という女学校があるだろう」とタクシーの運転手に甲南女子大に向かわせますが、「違うこんな上じゃなかった」「移転しましてん。ほれ、見えまっしゃろ。あの大きな白い建物」と言われ、そこから先日紹介した芦屋浜に行ったのです。


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満池谷から中郷町へB「住吉川と本住吉神社」

 甲南本通り商店街を過ぎると、遠藤周作の通っていた灘高が左手少しはいったところにあります。



「口笛をふく時」では灘高生の小津と平目の芦屋川上流のお邸に住む甲南女子学生の東愛子さん(佐藤愛子がモデル?)に対する切ない恋物語もあるのですが、今は響子さんと一緒ですので、そのお話はまたゆっくりと。その先がすぐ住吉橋です。



 住吉川が段々になっていますが、これはJRが住吉川の下をくぐる天井川となっており、阪神国道付近を浚渫したあとJRより下流が急流となるので河床を段々化したそうです。
また両岸に遊歩道が見えますが、1960年代、渦森山を切り開いて渦森台団地を造成する際、川の両岸の河川敷の部分にダンプ専用道路を建設し、造成が完成した後は「清流の道」という遊歩道になったそうです。



 橋を渡って更に西に向かうと有馬道の碑がありました。明治7年に大阪・神戸間に鉄道がとおり、住吉に駅舎ができ、それまでの有馬温泉への道にかわって、住吉駅から住吉川沿いに六甲山、有馬への道が利用されるようになったのが有馬道だそうです。



 更に本住吉神社のところに西国街道の碑もありました。京都東寺口から発した西国街道は、芦屋で浜街道と本街道にわかれ、生田神社の南側でまた合流しますが、浜街道は庶民の生活道路、本街道は西国大名の参勤交代として使われ、本住吉神社前には大名の休む本陣があったそうです。



 ようやく本住吉神社につきました。ここも大震災では塀も鳥居も崩れたそうですが、きれいに復旧しています。「わが桎梏の碑」では「芦屋川を過ぎてしばらくすると、濃密にたちこめる焼跡の臭い、住吉神社で水を飲み」と書かれています。また食料品を掘り出した後の帰り道でも、再び立ち寄り、「また神社の御手洗の水で、梅酒をうすめ共に飲む、練乳の缶を焼釘で穿ち、そのまま妹に与えた、乾燥卵を食べ、口に入り咀嚼できるものなら何でもいい。」と腹ごしらえです。私も自転車をおりてここで休憩です。


 



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満池谷から中郷町へA「業平橋、朱鳥居」

野坂昭如「わが桎梏の碑」からです。
大八車に響子と妹を乗せ、阪神国道を西へ進む、ほとんど人はいない、国道電車が揺れながら過ぎてゆく、これは満員。」



もう国道電車は走っていませんが、私もビゴの店本店から更に西に進みます。すぐにあるのは芦屋川にかかる業平橋。



石ノ森章太郎のくだんのははの話はさておいて、伊勢物語の在原業平です。伊勢物語には芦屋の様子を記した場面がいくつかあるそうで、現在のルナ・ホールや市民センターのあるあたりが「業平町」、その近くの芦屋川にかかる「業平橋」と、その名をとどめています。



 更に西に進むと大きな朱鳥居がありました。神社はどこにあるのかまったく見えません。後で調べると阪急のガードをくぐった上の森稲荷神社の一の鳥居として昭和2年(1927)に建てられ、北へ上がる道は古くから「稲荷筋」と呼ばれているとのこと。 5月3日には、阪神深江駅の北側に、青木、深江、森の各地区のだんじりが集結し、練り回しをしたあと朱鳥居をくぐり、森稲荷神社に向かって行くそうです。
 この大鳥居は昭和20年5月の空襲の際、青木にあった川西航空機甲南製作所の攻撃目標の目印にされたとの説明書きが横にありました。



 アドリブ自叙伝にその昭和20年5月11日の空襲の様子が書かれていました。
「未明に久しぶりの空襲警報が響き、これはすぐ解除となって、ぼくは平常どおり登校し、中学本部の清掃を行っている時、再び警報が発令された。」「上空を西へ向かうB29編隊の轟音が、あたりにみちて、本部前の壕へ入ると、すでに中はいっぱいだった。この日は朝、晴れていたのだが、丁度、雲がかかりはじめて、機影は見えず、しかし、ドドドドドッとこれまで聞いたことの無い地響きが伝わり、壕の壁がゆれる。」「爆弾攻撃や、川西航空機の甲南工場がやられてんねんわ」一人がつぶやいた。


野坂が6月にここを通った時も、この大鳥居を見て行ったことでしょう。



 更に西に進むと、左手に大きなアーケード商店街が見えてきました。甲南本通商店街で大きな兜のデザインのアーケードが印象的です。甲南本通商店街は、東灘区で唯一のアーケードを有する全天候型商店街です。阪神淡路大震災には、アーケード及び商店が全壊、すぐさま復興事業に着手し、平成10年にはほぼ震災復興を成し遂げたそうです。
 数少なくなったアーケード商店街ですが、是非この地域でこれからも賑わってもらいたいと願っております。


 



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満池谷から中郷町へ@ 「大楠公戦跡碑とビゴの店」

 野坂は妹と満池谷の親戚の家に疎開した後、空襲で焼けた中郷町3丁目の家に埋めてあった食料をとりに戻ります。小説「火垂るの墓」や、エッセイ「私の小説から」には昭和20年6月8日にすぐ引返したことになっていますが、「わが桎梏の碑」では空襲から丸一週間後、大八車に響子(二歳年上の神戸女学院五年生)と妹を大八車に乗せ、中郷町に向かいます。
 大八車を引いて満池谷から中郷町までは約10kmの道のりで、大変だったと思います。当時、小松左京が川重の工場から今津まで歩いた距離の半分くらいですが、どんなものなのか確かめるため、私は少し楽をさせてもらい満池谷から自転車で中郷町に向かいました。



 ルートは満池谷から蛍の飛んでいた小川伝いに旧西国街道まで下り、その後建石筋の大井手町交差点に出ていきます。



 まっすぐ夙川堤防に上がったか、建石筋を下がったかわかりませんが、阪神国道まで出て、国道を西に向かいます。



 夙川橋を少し下ると、最近できたらしく松下町にビゴの店「オーボン・ガトー・ビゴ」と「オーボン・グー」が並んでありました。レストランとケーキ部門のお店のようです。



 更に西に向かい、旧武庫群精道村に入ると、現芦屋市楠町に大楠公戦跡碑がありました。立派な花崗岩で出来た堂々とした碑で、国道沿いにもかかわらず、沢山の樹木に囲まれています。この辺りは、西国街道が最初に海上ルートと交わる場所であったから、戦国動乱の時代にはしばしば京都防衛の拠点として、芦屋を舞台とした古戦場の一つとなっていたそうです。楠木正成は1336年足利尊氏と打出、西宮で戦ったのですが、この時の様子は詳しく太平記に書かれています。



 更に宮川を越えて西に進むと、右手にビゴ本店がありました。
ここで外すことができないのが、昨年NIKKEIプラス1 行楽のお供のサンドイッチ何でもランキングで全国1位となったカスクルートハムです。色々な種類のサンドイッチがありトライしてみましたが、やはり納得したのは、自慢のフランスパンにバターを塗り、ハムを挟んだだけで、パンのおいしさが充分味わえるカスクルートでした。
次回は芦屋川を越えて更に西に進みます。


 


 



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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