阪急沿線文学散歩

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石野伸子さんの講演「阪神間ゆかりの作家たち」河野多恵子

 4月から芦屋市公民館で産経新聞編集委員の石野伸子さんによる「阪神間ゆかりの作家たち」(全4回)の講演が始まりました。

笹舟倶楽部さんもご出席でした。
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 石野さんは産経新聞で「浪花女を読み直す」というコラムを連載されています。その取材の過程で発見された阪神間について紹介され、第一回は戦後日本の女性作家の代表格で、少女時代に香櫨園に住んだ河野多恵子さんを取り上げられました。

(上の写真は石野伸子さんの産経新聞連載記事「浪花女を読み直す」より)

「河野多恵子における香櫨園」について次のように解説されています。
 <大阪の中心の典型的な老舗のいとはんである。もし書こうとすれば山崎豊子と同じく大阪商人ののれんにまつわるど根性哀話でも、織田作之助的な大阪の庶民の生活のかなしさも十分に書けるはずである。しかし彼女の小説的関心はそこにはない。ただ、河野多恵子の観念的本能的な異常性と生活的理性的な健全性との並存と調和は大阪商人の根源にある伝統的な人生観(保守性と進取性)と関係あるかもしれない
  けれど昭和十一年、彼女が十歳の頃、店と住居とを分離する当世の風潮によって、阪神の香櫨園に居宅を移してからの生活は(東京育ちの自分にとって)大体想像できる。郊外の文化住宅地への移転により西洋的なモダンな文化に無理なく接することができた。その頃のことを書いたものに佳作『みち潮』がある」(昭和46年学研「現代日本の文学50」「曾野綾子・倉橋由美子・河野多恵子集」奥野健男・評伝的解説)>
として、『みち潮』が描く世界についてお話いただきました。


(写真は「みち潮」の生原稿)

 また、異常性愛を描いた作品群「幼児狩り」「蟹」「不意の声」「みいら採り猟奇譚」も解説いただきましたが、今回初めて教えていただいて驚いたのは、雑誌『群像』に瀬戸内寂聴さんが連載小説「いのち」を執筆し、2年前に亡くなられた河野多恵子さんの秘密を暴露していること。

 連載第3回の2016年6月号から河野多恵子が登場し、丹羽文雄氏や大庭みな子とのライバル関係、、私生活までが小説として本名で書かれているのです。
 いずれ単行本になりそうですが、早速図書館から借りて読み出しました。文壇の関係を垣間見るこんな面白い連載小説はありません。

次回は5月18日(木)谷崎潤一郎です。




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織田作之助『六白金星』に描かれた昭和の初めの香櫨園

『六白金星』は、織田作之助の代表的な短編で、心根は優しいが頭が悪く強情な主人公楢雄と、ずる賢く冷淡な兄、身勝手でエゴイスティックな父、年とともに気弱になる母の関係を描いた作品です。


 要領の良い兄と比べ、出来も良くなく親に疎まれ育った弟は、香櫨園の海岸で自分が妾の子であることを知らされます。

<中学へはいった年の夏、兄の修一がなにを思ったのか楢雄を家の近くの香櫨園の海岸へ連れ出して、お前ももう中学生だから教えてやるがと、ジロリと楢雄の顔を覗き込みながら、いきなり、「俺たちは妾の子やぞ」と、言った。ふと声がかすれ、しかし、そのためかえって凄んで聴えたはずだがと、修一は思ったが、楢雄はぼそんとして、「妾て何やねん?」効果をねらって、わざと黄昏刻の海岸を選んだ修一は、すっかり拍子抜けしてしまった。>
父は芦屋の病院長で、芦屋に本宅があり、母と修一、楢雄が住む香櫨園の我が家が妾宅だったのです。

 主人公楢雄は織田作之助の中学の同級生がモデルとも云われていますので、舞台となったのは大正2年生まれの織田作之助が中学へ入学した大正14年か昭和初年頃の香櫨園浜でしょう。
 香櫨園海水浴場が開設されたのも、西宮回生病院が創立されたのも明治40年のことでした。

昭和の初年の香櫨園の海岸の風景は、昭和11年の吉田初三郎の鳥瞰図とあまり違わないのかもしれません。

楢雄が家出する場面では、阪神香櫨園駅で、兄弟が顔をあわせます。
<ところが、阪神の香櫨園駅まで来ると、海岸の方から仮面のように表情を強張らせて歩いてくる修一とぱったり出会った。楢雄はぷいと顔をそむけ、ちょうど駅へ大阪行の電車がはいって来たのを幸い、おい楢雄とあわてて呼び掛けた修一の声をあとに、いきなりその電車に乗ってしまった。修一は間抜けた顔でぽかんと見送っていた。>

昭和初年の香櫨園の駅舎はどんなだったのでしょう。

著作権の切れた『六白金星』は青空文庫でも読ます。



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今、「六白金星」を読み終わりました。
織田作之助の作品も青空文庫も読むのは初めてでした。
(「夫婦善哉」は映画を観たことがあります。) 

[ 西野宮子 ] 2017/03/19 13:26:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

織田作の小説は現代人に好まれる小説ではないかもしれませんが、当時の日本の世相や、当時の人情などがよくわかる作品だと思います。コメントありがとうございました。

[ seitaro ] 2017/03/19 22:28:10 [ 削除 ] [ 通報 ]

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黒田征太郎の原風景のひとつは「きれいな夙川と美しい香櫨園の浜」

 今年で夙川公園80周年ということで、夙川にまつわる文学作品などを調べているのですが、私の子供の頃の記憶にある夙川の印象に最も近いのが、黒田征太郎さんの夙川のお話でした。
 黒田征太郎は1939年、大阪道頓堀生まれのイラストレーター、野坂昭如との親交が深く、戦争童話集『小さい潜水艦に恋をしたでかすぎるクジラの話』の絵などを描かれています。


フェリシモの神戸学校の講演で次のように話されています。
<5歳のときに夙川に引っ越ししました。夙川のすぐ近くに住んでいたんですが、5〜6歳ぐらいから戦争が始まって、だんだんひどくなりました。大阪が燃えている。神戸が燃えている。真っ赤になった空の色の記憶があります。そのころに読んだおどろおどろしい絵の孫悟空の絵本が大好きだったことも思い出します。>

 大阪の南で生まれた黒田征太郎ですが、昭和19年に夙川に引っ越し、まだ米軍の空襲が始まっていなかった頃の香櫨園の思い出を次のように話しています。

<香枦園の浜の思い出は、阪急のガード下から夙川の川原をお手伝いさんに手を引かれて川を下っていくと、水の中の砂に混じっている水晶体がキラキラ光って見えるのがとてもきれいだった。そしてあるところから潮のにおいがしてくるんです。だんだん潮のにおいが強くなって、曲がると突然海が見えるんです。小さかったからでしょうが、水平線が高いところに見えました。>

オアシスロードのあたりを歩いたのでしょうか。

 私も夙川の白い砂、夙川公園を下って海に近づくと潮の香りが漂ってきたのを覚えているのですが、現在は小さな入り江のようになったためか、潮の香りはあまりしません。

昔は階段を上がって堤防の上に出ると、水平線が見えたのです。


<右側に回生病院の赤い屋根、左に青い松林、興奮して振り返ると六甲山の山並み。とても美しかった。生まれて5〜6年の間にドロドロのどぶ川も見ているし西宮のきれいな風景も見ているし、両方を体験しているんですね。>

そして回生病院の赤い屋根。

わずかに残っていた回生病院の旧玄関も取り壊され、今日行ってみると上の写真のような姿になっていました。

 昭和20年、阪神間への空襲も激しくなり、7歳で安井国民学校に上がった黒田征太郎ですが、黒田にとって安井小学校が避難所だったそうです。
最後に次のように述べています。
<道頓堀川、きれいな夙川と香枦園の美しい浜、爆撃された野原、これが僕の原風景なんです。>

この記憶は野坂昭如のそれとつながり、親交を深めていったのでしょう。


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香櫨園浜から無くなった海

 野坂昭如が夙川河口の堤防から大海原を眺めていたのは昭和20年のこと。


 その後賑わった海水浴場も海水汚染が進み、昭和40年に香櫨園海水浴場は甲子園海水浴場とともに閉鎖されました。
更に西宮浜の埋立が昭和46年から行われ、平成元年に完工しています。

私の少年時代は、夙川河口まで行けば大海原を見ることができましたが、今は閉ざされた入り江のようになってしましました。(矢印が現在の夙川河口)

村上春樹は、『辺境・近境』の「神戸から歩く」で次のように述べています。

<堤防を上がると、かってはすぐ目の前に海が広がっていた。なにも遮るものもなく。でも今は、そうそこには海はない。堤防の向こう側、かって香櫨園の海水浴場があったあたりは、まわりを埋め立てられて、こじんまりとした入り江(あるいは池)のようになっている。
 そこでは一群のウィンドサーファーたちが風をつかまえようと努力している。そのすぐ西側に見えるかつての芦屋の浜には、高層アパートがモノリスの群れのようにのっぺりと建ち並んでいる。>

 まったく同じ印象が書かれているのが平中悠一の『八年ぶりのピクニック』です。
(下の写真は白羽弥仁監督の映画『She's Rain』)

<その間に挟まれた、海はもはや海と呼べるものではなくて、ほとんど大きな水溜り、といった方が適切だった。貨物船の浮かぶ海はその水溜りの外にあった。

 あの日のこの浜が、僕の脳裏をちらりとかすめた。もっと海らしい海と、やさしい波。砂浜ではしゃいだ子供の僕ら。 ―でも、まあ、すてたもんじゃないさ>

 私も西宮に戻って、夙川の河口に立った時、海が無くなったように感じました。

 でも、平中悠一の言っているように、「まあ、すてたもんじゃないさ」と思うしかないでしょう。



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seitaroさん、こんばんは。
わたしは、その前を知りませんが、「まぁ、すてたもんじゃないさ」に同意です。
ネコの額のような浜でも宝物です。

[ もしもし ] 2017/02/08 21:16:53 [ 削除 ] [ 通報 ]

もしもしさん 昔に比べて海水の汚染は良くなったように思います。小学校の頃香櫨園の浜で泳いだ時は、水中めがねをしてもぐると視界は1mもありませんでした。渡り鳥が集まる今の砂浜もすてたもんじゃありません。

[ seitaro ] 2017/02/09 8:58:41 [ 削除 ] [ 通報 ]

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香櫨園浜海水浴場が初めて文学作品に登場したのは?

 夙川を舞台にした文学作品をまとめているところで、やはり河口の香櫨園浜を外すわけに行きません。香櫨園浜に海水浴場ができたのは明治40年のことですが、初めて香櫨園の浜を登場させた小説は何だろうと調べていました。

 香櫨園の松原として初めて小説に登場したのは、プロレタリア文学、細井和喜蔵の『奴隷』のようです。細井和喜蔵は1925年に亡くなっていますから、大正末期のお話です。

 舞台は、西宮砲台の北側にあった内外綿紡績工場。
<株主を同じゅうする浪華紡績西ノ宮工場は有馬山脈口を背景に兜山を背負って香櫨園の松原続きに在って、二百五十尺の円型五煉瓦煙突と百二十尺のタンクと塵突が辺りに一本の煙突も無い透徹した青空に向かって魔のように聳え、白砂青松の自然美を征服した王者の如く泰然と構えている。そして八万錘の紡績と一千台の織機が昼夜囂然と轟き、タンクの脇の塵突から間断なく綿粕の塵埃を強烈な風車で送り揚げて四方へ吹き飛ばすので、浜の老松はすっかり葉を鎖されて了い汚れた灰色の雪が積もったように見える。そうしてそのために枯死した木さえ数みられた。>
 浜の老松を灰色の塵埃で覆ったという記述があり、当時の香櫨園浜はどんなになっていたのでしょう。

 次に、香櫨園の海水浴場としての賑わいが初めて描かれたのは、昭和3年3月から「改造」に連載された谷崎潤一郎の『卍』のようです。

『卍』は香櫨園在住の柿内園子と、芦屋に住む船場の羅紗問屋のお嬢様、徳光光子との同性愛を中心に、彼女たちの回りにいた二人の男との関係を描いた作品です。

『卍』の、園子が光子を自宅に招いた場面からです。
<宅は海岸の波打ち際にありますのんで、二階はたいへん見晴らしがええのんです。東の方と、南の方と、両方がガラス窓になってまして、それはとても明うて朝やらおそうまでは寝てられしません。お天気のええ日イは松原の向こうに、海越えて遠く紀州あたりの山や、金剛山などが見えます。 はぁ?―はぁ、海水浴も出来るのんです。あそこらの辺の海はちょっと行きますと、じきにどかんと深うなってますので、あぶないのんですけど、香櫨園だけは海水浴場出来まして、夏はほんまに賑やかのんです。ちょうどその時分は五月のなかば頃でしたから、「早う夏になったらええのんになあ、毎日でも泳ぎに来るのに」と、部屋の中見廻しながら、「うちも結婚したら、こんな寝室持ちたいわ」などと云うたりしました。>

 園子の家は外壁が白壁の洋館。昭和11年の吉田初三郎の西宮市鳥瞰図にモデルになった家があるのではないかと探してみなしたが、残念ながら見つけることはできませんでした。

 戦前の文学作品に、もう一つ香櫨園の海岸が登場する小説がありました。

織田作之助が昭和15年に書き、戦後の昭和21年に発表された『六白金星』です。
<中学校へはいつた年の夏、兄の修一がなに思つたのか楢雄を家の近くの香櫨園の海岸へ連れ出して、お前ももう中学生だから教へてやるがと、ジロリと楢雄の顔を覗き込みながら、いきなり、「俺たちは妾めかけの子やぞ。」と、言つた。ふと声がかすれ、しかしそのためかへつて凄んで聴えた筈だがと、修一は思つたが、楢雄はぼそんとして、「妾て何やねん?」
 効果をねらつて、わざと黄昏刻たそがれどきの海岸を選んだ修一は、すつかり拍子抜けしてしまつた。>

 夙川河口近くに妾宅を設定し、主人公の楢雄が中学校に入った年に、香櫨園の海岸で兄から「俺たちは妾の子やぞ」と教えられるのです。

 この時代の香櫨園には高級住宅地として、多くのお屋敷がありましたが、時代を反映して、その中には妾宅もあったのが事実のようです。



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西宮芦屋 ―女たちがつくった町(丸谷才一山崎正和『日本の町』より)

 西宮文学案内『夙川ゆかりのヒロインたち』で石野伸子さんより紹介された丸谷才一と山崎正和の対談集『日本の町』。その帯には「その町をしてその町たらしめているものは何か。風土、歴史、文学から捉えた極めて造詣深い都市論」と書かれています。その町のひとつに西宮芦屋が採り上げられているのです。


 西宮市在住の山崎氏から丸谷氏に「阪神間を歩いたのは初めてじゃないんでしょうか」という問いかけからです。
丸谷 前に一度、野坂昭如さんの案内で歩いたことがあります。彼は、養子に行った先が石屋川辺のお屋敷で、つまり、あのへんのブルジョアの養子だった。それなのに身をやつして無頼の徒のごとく装っているのであって…。(笑い)>
と昨年亡くなった野坂さんと石屋川のあたりを歩かれたことがあったそうです。

 

小松左京氏も話題に登場していました。
山崎 そのハイカラも大体半世紀以上たっているわけです。小松左京氏があの辺の出身で、彼に聞いたら、戦争中の、みんながモンペで防空頭巾の時期に、あの辺のお屋敷の中では、ショート・パンツを穿いて芝刈り機を押しているお嬢さんがいたそうですからね。>
「あの辺のお屋敷」とは、『歌う女』の舞台となった雲井町・殿山町あたりのことではないでしょうか。
 野坂昭如も『アドリブ自叙伝』で、「壕舎生活はしごくみじめだったと思うが、はたから見ていると、牧歌的であり、また、バケツを持って水汲みにいく娘の、赤いスカートが焼野の上を、ひらひらゆれるさまは、美しかった。」と語っており、芯の強い阪神間の女性たちの姿が垣間見えます。

 

 そして『日本の町』では近代の阪神間の町の成り立ちを次のように述べています。
山崎 それにひきかえ、阪神間は大阪の金持ちによって自然発生的に広がりました。彼らは近世以来の財力を持って大阪の町を復興し、大阪を煙の町にしてしまった。そして自分たちの住む場所として阪神間を選んだ。ある意味ではそれが大阪の不幸なので、町としての品格、落ち着きを失って、大阪は工場と商店の町になってしまった。いわば、それだけの代価を払ってつくり上げたのが、芦屋、西宮なんですね。>


 明治36年大阪生まれの谷崎潤一郎夫人の松子さんも、母が肺を煩い西宮に移られています。『蘆辺の夢』からです。
<父は母のために阪神間に別荘を持ちたいと知人に頼んでいたらしい。が、母の死後、香櫨園に庭もゆったりした、建物も悪くない家が見つかった。子供たちが母の体質を受けていたらとそればかり懸念して、できるかぎり香櫨園の家に暮らさせようとし、末の妹は、間もなく西宮の小学校へ転校させられた。>
 河野多恵子も大阪から香櫨園に移った一人で、『みち潮』で次のように述べています。
<一家は商家で。これまで都会のその問屋街に住み続けてきたが、今度郊外に別に居宅をもつことになったのだった。店と住居を別にしたい、空気のよい郊外に住もうという話は、前々から出ていた。それが、いよいよ、実現することになったのである。少女が、数えどし十一歳の夏のことだった。>

 

 明治41年に刊行された『市外居住のすすめ』では大阪長谷川病院院長が次のように述べています。
<抑も健康地即ち養生地なるものは、洋の東西を問はず、南に海を控え北に山を負ひ居る箇所を最良とすることは一般の定論になって居る、斯る箇所は冬暖かに夏涼しく、寒暖の差甚だしからざる為めであって西宮神戸間は実に此健康地として最良なる要素を具備して居る。併しながら神戸最寄の方で海岸に接する方は、人家接続して市街の体裁をなし、梢雑踏の傾きがあって面白くない。依て此部分を除き其山の手及び住吉魚崎辺より西宮迄は山の手、海浜共に宜しい。>


 湯川秀樹一家が義父の健康問題から東洋のマンチェスターと呼ばれた煙モクモクの大阪を離れ、苦楽園に引っ越したのは昭和9年のことでした。

 

『日本の町』に戻ります。
山崎 考えてみると、阪神間とは女性がつくった町じゃないかと思うんです。基本的には大阪の商人が住宅街としてつくったわけですが、旦那は昼間ずっと大阪へ行って働いている。夜は新地あたりで遊んでいるわけでしょう。ですから、あの町を愉しんでいる人といえば、女房子供なんですね。つまり、『細雪』の主人公たちが、あの町をつくっていたわけです。
丸谷 谷崎松子さんがつくった町なんだな。>
なるほどと思いました。



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神戸新聞阪神版で明日から[芦屋・西宮ウィーク]文学散歩

神戸新聞阪神版で明日から5日間芦屋・西宮文学散歩の特集が始まります。

<多くの文豪たちが愛し、その居住地にもなった芦屋、西宮市。文化や建築、街並みは、名作と呼ばれる文学作品の中に溶け込み、国内外に発信されてきました。「芦屋・西宮ウイーク」第3弾は、文豪たちが歩いた道をたどる「文学散歩」。そして、両市にある私立・公立美術館や博物館の秘蔵品を学芸員に紹介してもらう「蔵出し逸品」を、8日から12日までの5日間、お届けします。>とのこと。
http://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/201507/0008185763.shtml
明日は西宮芦屋研究所員さんも登場されると思います。



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DAHLEの長さ30cmのスクラップ専用鋏用意して待ってます。

[ 笹舟倶楽部 ] 2015/07/07 22:13:30 [ 削除 ] [ 通報 ]

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昭和15年聨合艦隊が西宮沖に入った理由(阿川弘之『山本五十六』)

 阿川弘之『山本五十六』に聨合艦隊が西宮沖に入り、長門の甲板に西宮の銘酒が並んだ様子が描かれています。

 

 昭和15年が神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事が計画されました。聨合艦隊司令長官山本五十六は、紀元節に全艦隊の将兵四万人を、橿原神宮及び畝傍、桃山の陵に参拝させるため聨合艦隊を大阪湾に入れようとして、大阪で海軍の評判が悪いと聞き、機嫌が悪くなります。
<「そんなら、大阪へは入らん」と言い出した。西宮沖へ入れるという。西宮は兵庫県であって、大阪ではない。大阪の府と市とは、怒ったり弱ったりで、すでに四万人分の土産物を用意しているからなどと苦言を言って来たが、山本は、土産がくれたければ西宮へ持って来たらいいだろうと言って、頑として諾かなかった。
 山本五十六弾劾演説会は、必ずしも大阪府当局や市当局の責任ではあるまいと思われるが、こういうところは、如何にも山本の傲岸な一面であった。
 そのかわり西宮市や兵庫県側は大喜びで、「長門」の甲板上には、灘や西宮の銘酒がたくさん持ちこまれ、四斗樽の山が出来たという。>


当時の西宮沖に聨合艦隊が揃ったときの様子は野坂昭如も湯川秀樹も見ていました。

 皇紀二千六百年の石碑が、野坂昭如が通っていた中郷町の成徳小学校の校庭の片隅に遺されていました。(当時小学四年生)

 現在は優雅にヨットが浮かぶ平和な西宮沖です。

 

 その時の様子が「無敵海軍の決意」と題して、昭和15年2月10日の神戸新聞の記事になっていました。


<九日朝堂々西宮沖に投錨した「くろがね艦隊」旗艦に連合艦隊司令長官山本五十六中将を訪えば、短躯ながらはち切れるばかりのガッチリした骨組は自信満々たる無敵艦隊の提督としてふさわしく、豊頬赭顔の面上には微笑さえ浮べて綽々たる余裕ぶりだ、記者団に囲まれた長官は先ず
 光輝ある紀元二千六百年を記念して艦隊乗員一同が橿原神宮をはじめ畝傍、桃山御陵に参拝するのが唯一無二の目的であって、時間、燃料をはじめ陸上関係当局者には御迷惑をかけなければならないが、艦隊全員の精神的修養に良かろうと判断してやって来た次第である。>
皇紀と言っても、戦後生まれの人にはほとんどわからないでしょう。



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河野多恵子と村上春樹が描いた阪神香櫨園付近の戦前、戦後の風景

 昭和11年の阪神香櫨園での郊外生活を描いた小説が河野多恵子の『みち潮』でした。


 建石小学校で出会った友人達の家庭について次のように述べています。
<新しい友達の中には、少女と同じように、他に店があり、そこが居宅になっている家庭の少女たちも幾人かいたが、大半は勤め人の子供だった。少女は節季の日でも友達と往来し、そして、ままごとをしながら、会社の部長さんとか、知事さんとか、ボーナスとか、転勤とかいうような言葉を知るようになった。授業参観の日、今度の学校では父親の姿は殆んどなく、母親ばかりだった。その中に、少女をびっくりさせたお母さんが二人いた。洋装で、朱色のふわふわした羽根を掲げた帽子をかぶり続けていたお母さん。もうひとりは、唱歌の時間に、一緒にハミングで歌いだしたお母さん。少女は以前に住んでいた都会の学校では、そんな突飛なお母さんは見たことがなかった。>
ままごとのお話は、彼女たちの家庭を想像させます。

 


写真は『みち潮』の舞台となった、昭和11年の夙川下流の鳥瞰図です。夙川に架かっている橋は下流から葭原橋 翠橋でしょう。

(写真は現在の翠橋)

 阪神間モダニズムと呼ばれた時代に、風光明媚な六甲山南斜面の阪神間で郊外住宅の開発が進められました。そして鉄道の発達とともに、富裕層だけでなく、当時の新興階級であったインテリサラリーマン層、すなわち中流階級の住宅地として発展したのです。

 

 阪神香櫨園付近の住宅街は、戦災にあった後も、昭和の初めの面影が保たれていたのではないでしょうか。少年時代に西宮市川添町に住んでいた村上春樹は『国境の南 太陽の西』でその町の雰囲気をベースにした小説の舞台を創り上げています。


上の写真は村上春樹『ランゲルハンス島の午後』に出てくる葭原橋で、川添町は写真の右手から翠橋にかけてです。

 主人公は1951年生まれ、父親は大手の証券会社に勤める会社員、母親は普通の主婦という設定です。


<でも僕が生まれた頃には、もう戦争の余韻というようなものはほとんど残っていなかった。住んでいたあたりには焼け跡もなかったし、占領軍の姿もなかった。僕らはその小さな平和な町で父親の会社が提供してくれた社宅に住んでいた。戦前に建てられた家でいささか古びてはいたが、広いことは広かった。庭には大きな松の木が生えていて、小さな池と灯籠まであった。>


今や、西宮市内では村上春樹が描いているような家は少なくなりましたが、散策していると、大きな松や石灯籠の庭園があった邸宅跡をみつけることができます。


< 僕らが住んでいた町は、見事に典型的な大都市郊外の中産階級的住宅地だった。そこに住んでいるあいだに多少なりとも親交を持った同級生たちは、みんな比較的小奇麗な一軒家に暮らしていた。大きさの差こそあれ、そこには玄関があり、庭があり、その庭には木が生えていた。友達の父親の大半は会社に勤めているか、あるいは専門職に就いていた。母親が働いている家庭は非常に珍しかった。おおかたの家は犬か猫かを飼っていた。アパートとかマンションに住んでいる人間を、僕はその当時一人として知らなかった。>
 村上春樹は1960年代の香櫨園近辺の住宅地の記憶から、典型的な大都市郊外の中産階級的住宅地を小説の舞台として創りあげたのです。

「国境の南、太陽の西」に登場するジャズを集めた特別編集CDがありました。

 



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夙川・香櫨園を舞台にした河野多恵子『みち潮』の生原稿がオークションに!

 阪神間モダニズムの時代の阪神香櫨園付近での郊外生活の様子が、河野多恵子著『みち潮』に描かれています。
そこに登場するのは、これまでご紹介したように、

甲陽遊園地、

 

 


香櫨園浜海水浴場

 


夙川と甲山の風景などです。

 

 なんとその直筆、生原稿が今年の4月にオークションに出品されていたのです。


『 河野多恵子 直筆肉筆 生原稿 小説「みち潮」33枚一括』

既に落札され、落札価格は25260円

 


うーん残念。阪神間モダニズムの香櫨園付近の様子を描いた芥川賞受賞作家の生原稿がそんな値段で入手できたとは。
もう一度オークションに出てこないでしょうか。



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それは安い!
と言っても、こういうのは欲しい人の価値観次第ですからね。

[ akaru ] 2014/08/27 18:49:52 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうですね。夙川や甲山の風景が描かれていますので、知っていれば落札して家宝にしたのですが。

[ seitaro ] 2014/08/27 19:02:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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