阪急沿線文学散歩

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『わろてんか』洋食店マンマンにエスプレッソマシン「ラ・パボーニ」登場

 夙川にあった喫茶店「ルージュ・ラ・パボーニ」の名前は、イタリアのエスプレッソマシン「ラ・パボーニ」に由来するものです。

 
 喫茶店「ルージュ・ラ・パボーニ」の物語は昭和の初めの尼崎出身のバリトン歌手小森譲氏のミラノ留学から始まります。

彼は帰国後もミラノの街で使っているエスプレッソマシン「ラ・パボーニ」の魅力が忘れられず昭和2年にミラノの店に注文し、昭和3年1月31日に郵船の香取丸で神戸に荷揚げされます。

そのエスプレッソマシンは大阪堂島仲町にあった初代CASA LA PAVONI茶房に収まり、おいしいコーヒーを出したそうです。

昭和3年に日本に到着したエスプレッソマシーンは現在も堂島パボーニの地階階段の踊り場にひっそりと保管されています。

 ラ・パヴォーニ社はイタリア・ミラノにある最も歴史ある、由緒正しきエスプレッソツールの専門メーカー。1901年にルイジ・ベッツァラが現在の全てのエスプレッソマシンの原型となるコーヒーの急速抽出の技術を世界で初めて発明し、この発明の販売権を譲り受けたPavoniにより製品化され、1905年パボーニより世界初のエスプレッソマシンが発売されたのです。

昔の業務用エスプレッソマシンは大型で一度に数人分の抽出ができるようになっていましたが、現在の物はコンパクトになっています。

写真は発明者の名を冠したラ・パボーニ社の最新モデルLA GRANDE BELLEZZA

 ところで、驚いたことにラ・パボーニ社製の大型エスプレッソマシンが連続テレビ小説「わろてんか」に登場していたのです。

万丈目歌子が経営する洋食店「マンマン」

カウンターの奥にクロムメッキで光っているのがラ・パボーニ社製の大型エスプレッソマシンです。

こちらは現在の堂島の「カーサ・ラ・パボーニ」のカウンター。

手前が小型のエスプレッソマシン。そこに置かれている椅子も「マンマン」に置かれている椅子と同じに見えます。
NHKの舞台デザインの方は、パボーニのお店を参考にされたのでしょうか。そうだとすれば、すごい時代考証です。





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 そうだったんですね ☆彡

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2018/03/03 17:50:46 [ 削除 ] [ 通報 ]

あの大型のエスプレッソマシンはどこで手に入れてきたのか不思議でなりません。日本にはほとんどないはずなのですが、パボーニの販売店が提供したのかもしれません。

[ seitaro ] 2018/03/03 21:43:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

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月刊神戸っ子KOBECCO3月号の特集は「文学を生み出す、夙川」

『神戸っ子KOBECCO』は1961年に創刊されたタウン誌の草分け的存在の月刊誌で、西宮ブログでお馴染みの今村欣史さんも「喫茶店の書斎から」と題したエッセイを連載されています。

その月刊神戸っ子3月号の特集は「文学を生み出す、夙川」
https://kobecco.hpg.co.jp/30962/

<井上靖は「小説の冒頭はいつも夙川にしてしまう」と語った。
上流から下流まで、阪急、JR、阪神へ南下すると景色も変化していく。
この地には、文学や文化が当たり前のように存在している。
それは、まるで夙川の清流のように。>
という紹介から始まり、次の記事が続きます。

「清らかな暮らしの中に文学が宿る “夙川と文学”」
https://kobecco.hpg.co.jp/30851/

小松左京が描いた夙川〜短編小説「歌う女」に滲む郷愁
https://kobecco.hpg.co.jp/30862/

夙川に文化の薫香を放った幻のカフェ パボーニ物語」
https://kobecco.hpg.co.jp/30881/
<多摩美術大学学長の建畠哲をして「阪神間の夙川に地上に存在していることが奇跡ともいうべき美しい喫茶店」と言わしめたパボーニ。阪神・淡路大震災で失われ、現在その場所はシンボルだった2本の棕櫚の木が残っているだけだが、店は大阪・堂島で受け継がれている。>

 今回の取材をお手伝いして感じたのは、編集長の高橋直人氏が『月刊神戸っ子』を神戸・阪神間の芸術文化振興の為に、地域で育まれた素晴らしい文化を後世に伝えていくための媒体としたいという強い思いを持っておられることでした。それが今回21ページにもわたる夙川が育んだ文化特集を組んでいただけることにつながったようです。

3月号には他にも「阪神間モダニズムの中心として発展してきた御影・住吉」など興味深い記事が掲載されています。
『月刊神戸っ子』は最新号もバックナンバーも全ページ、インターネットで読むことができますし、美しい写真を手元に置きたい方はジュンク堂書店や旭屋書店、紀伊國屋書店で購入できます。




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月刊「KOBECCO」は西宮ではジュンク堂にありますのでよろしく。
特に今号は西宮特集のようになってますので。

[ imamura ] 2018/03/02 19:04:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

imamuraさんありがとうございます。

[ seitaro ] 2018/03/02 20:39:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

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黒田征太郎が阪神淡路大震災の後に描いた夙川パボーニ跡

 黒田征太郎が阪神淡路大震災の後、6月2日に夙川のパボーニの跡を訪ね、絵を描きました。その絵が現在、堂島のカーサ・ラ・パボーニに展示されています。

(クリックしてご覧ください)


黒田征太郎は太平洋戦争の頃、夙川に住み安井国民学校に通っていました。

戦後、野坂昭如と少年時代の想い出話をし、印象に残っていた夙川の喫茶店パボーニを野坂と共に訪れています。

雑誌CoyoteNo.47 Autumn/Winter2012で次のように述べています。
<野坂さんは神戸で育ち、僕も物心ついたころに大阪から神戸に引っ越した。泳ぎを覚えた海岸も一緒でした。火垂るの墓で書かれた場所へ、野坂さんは神戸大空襲から逃れてきた。そこに僕が住んでいたんです。そこは爆弾が落ちて焼け野原になった。野坂さんと妹さんが住んでおられた横穴の防空壕を知っています。もうずいぶん前に二人でその一帯を歩いたことがあるんです。かつて少年だった時の目線と大人になった時の目線がどう違うのか、何が写るのか、検証したことがあった。誰に依頼されたわけではなかった。ただ確認したいと思った。酒を飲んでいて少年時代の話になって、野坂さんに「蔦がからまっている変な家がありましたね」と言うと、「あれは有名な喫茶店だよ」と野坂さんに笑われました。「一緒に行こうか」と案内していただきながらその場所の野坂さんのエピソードを紐解いていった。>

多摩美術大学学長 建畠晢氏が「地上に存在していることが奇跡ともいうべき美しい喫茶店」と称した夙川のパボーニも震災で倒壊しました。

その直後の写真です。

跡地は現在も空き地になっており、黒田征太郎が描いた絵のように二本の棕櫚だけが高くそびえています。

黒田征太郎は、無くなったパボーニへの思いを込めて、絵に次のような文章を加えています。

パボーニのあと。 玄関のシュロだけが残っている
が こげているらしい… 大丈夫だろうか。

青い空がかえってむなしく見える。

あの楽しかった壁画。あのあたたかかった空気。
もう二度ととりかえせない。

僕は子供のころ この近くに住んでいた。
そのころは この家はなんなんだろうと思っていつも見ていた。
その家がパボーニだったのだ。
                           
              黒田征太郎

震災の翌年、大石邦子さんの又姪にあたるかたが、堂島にカーサ・ラ。パボーニを復活されました。

http://pavoni.jp/index.html



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山下清『ヨーロッパぶらりぶらり』旅立ちの服装は?

 大正11年生まれで、「裸の大将」と呼ばれ、日本全国を放浪した山下清は、念願かなって昭和36年に精神科医で日本ゴッホの会会長でもあった式場隆三郎氏らとともに約40日間のヨーロッパ旅行に出ます。 

その旅行記が『ヨーロッパぶらりぶらり』で、感じたままの素直な感想が述べられ、一つ一つのエピソードに思わずニヤリとしてしまいました。
 最初に書かれている「出発まで」の章では、放浪と自らの展覧会で「日本中ほとんど見てしまい放浪癖もなおり、式場先生がごほうびに、外国へつれていってくれることになった」と、経緯が紹介されています。

 西洋ではよその人に会うときはネクタイをすると聞いて、弟にネクタイの結び方を教えてもらうのですが、覚えることができません。
<式場先生にわけをはなすと、「清にネクタイをむすぶのはむりかも知れないから、蝶ネクタイのむすんであるのを買ってやろう。これなら首のうしろでひっかければいいから清にもできるだろう」といって蝶ネクタイを買ってくれたので、首にまきつけるけいこをすると、こんどはくるしくなかった。>と書かれており、洋服で出発したのがわかるのですが、やはりトレードマークは、着物に下駄履き姿の山下清。

山下清は、昭和31年西宮で開催された「ヴァン・ゴッホ展」に訪れ、夙川パボーニに逗留した際は、やはり着物で下駄ばき。

左横に立つのが式場隆三郎氏です。

夙川でスケッチする山下清。横で指導しているのがパボーニの大石輝一。

西宮の展覧会場で、大石輝一は山下清にズックの靴を贈りますが、足にあわず、結局元町丸善で同型の大きなものに変えてもらったそうです。

大石輝一は、その時のことをパボーニ誌に次のように綴っています。
<全部を観るに、とうとう時間がなくなったので、私の贈ったズックの靴を履いてみた。私が君がアメリカに行くのに下駄をはいていってはまずいからナ、といいうと清君はどもりながら、下駄をはいて行ったらアメリカ人はどうおもうだろうナ、とふくみ笑いをして……。>
 この時はシャツにズボン、下駄ばきだったようです。その頃は大石輝一が記しているようにアメリカに行くつもりだったのかも知れません。

 その5年後、山下清はヨーロッパに旅立ちますが、出発の壮行会も大したものだったようです。
<夕ごはんがすんでからみんなでタクシーに乗って羽田にいった。飛行場につくと、とくべつの部屋が用意してあって、ぼくの知っている人や知らない人がたくさんいて、やたらに写真をとっていた。>

 更にニューヨークのメトロポリタン歌劇場で日本人初の「蝶々夫人」を歌った今井久仁恵さんから花束をもらいます。

<今井くにえさんという、ふとった女の人がぼくに花束をくれたので、この女の人はうたの上手なおばさんです。おばさんといっても二十いくつかもしれないが、洋服をきた女の人の年はわからないので西洋の女の人はみんあ洋服なので、ヨーロッパへいっても、女の人はおばさんと呼ぶことにしている。今井さんがずっとまえにうたをうたう会をやったときに、ぼくがみにいって色紙にかたつむりをかいたのをあげたことがあるので、きょうの花束はそのときのお礼かもしれない。>
 山下清は、かたつむりの絵をかなりの数の色紙に描いたようで、西宮でその様子を写した写真がありました。


 花束を貰って、山下清は不遜にも、こんなことを書いていました。
<今井さんは唄がじょうずだから、花束のかわりに佐渡おけさか草津ぶしをうたってくれた方がいいと思ったが、そんなことをいってはわるいかもしれないので、どうもありがとうと言って花束をもらったら、また写真をとる人がきて、花束をもらうやりなおしをさせられた。>
素直な感想と言えばそうですが、世紀のプリマドンナに「草津ぶし」を歌ってもらいたかったとは。

更に出発した飛行機の中で、スチュワーデスに向かって、こんな質問をします。
<「おばさん、おばさん、この飛行機はジェット機で、ジェット機はふつうの飛行機よりずっと早いので、ときどきかじを下にむけないと、地球のそとにとびだしゃしませんか」ときくと、きゅうに飛行機のなかがにぎやかになって、いままでねたふりをしていた人がみんな起きてしまった。>

 読んでいる方は、このあと続く40日間のヨーロッパ珍道中記、面白いのですが、付き添っていた式場隆三郎氏はさぞお疲れだったことでしょう。



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 山下清さんのことは若い人はご存知ないでしょうね〜よく父が真似をして山下清風の絵を描いていろんな人にプレゼントしていました。こんな 苦労した作品をぱっぱと人にやってしまう物欲の無い父親をちょっと理解できませんでしたが・・・

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2018/01/16 10:04:15 [ 削除 ] [ 通報 ]

父上も絵がお好きだったのですね。山下清の風貌はどうしても芦屋雁之助につながってしまいます。

[ seitaro ] 2018/01/16 11:58:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

 確かに

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2018/01/19 9:44:12 [ 削除 ] [ 通報 ]

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復元されていたゴッホの『跳ね橋』(『旅するフランス語』)

 常盤貴子さんの『旅するフランス語』第13章は南仏アルルのゴッホを巡る旅。

ゴッホファンにとっては貴重な数々の映像が紹介されます。

「夜のカフェテラス」が描かれたフォルム広場の前のカフェに続いて訪れたのは、ゴッホの『跳ね橋』。


 ところで、ゴッホに心酔し、夙川にあった喫茶店パボーニを文化・芸術の発信基地とした画家大石輝一はパボーニ会を結成し、機関紙『パボーニ誌』に「狂画人ゴッホ」と題して紹介記事を連載します。

 昭和30年第11号では、ゴッホが南仏アルルに移った経緯や、十数点描いた『跳ね橋』の紹介をしています。それによると、ゴッホは南アルルの風景に日本の美しさを見つけたようです。

ゴッホが親友ベルナールへ宛てた手紙からです。
<この土地の空気が綺麗で透明ななことと、晴れやかな色彩をしている点から推して、どうも僕は日本のように美しく思われる。水は我々が日本の錦絵で見て親しんでいる様な、蔭の濃い青か、乃至は華やかなエメラルドの布のように美しく見える。落日は濃いオレンジ色の太陽で大地は真っ青になってしまう。>

大石輝一は逆に、三田市の開拓村(現在の三田市淡路風車の丘)にゴッホが愛した南仏の風景を見て、晩年を「三田アートガーデン」の建設に捧げたのでした。

 ゴッホの描いた『跳ね橋』の一枚について、弟テオドルへ宛てた手紙で次のように説明しています。

<今日はF十五号の画布を持って帰った。それは青空の中に明瞭に浮き出ている『跳ね橋』の画で、小さな馬車が通りかかっている。空と同じに川も青。土手はオレンジで緑の草が生い茂っている。洗濯女の群れはとりどりの頭巾や上着を着ている。他にもう一点、田舎くさい橋と多くの洗濯女のいる風景……>

 他にもう一枚、大石輝一の「狂画人ゴッホ」に掲載されていた、1888年にゴッホが親友ベルナールに送った手紙に描かれた跳ね橋のスケッチについて調べていると面白いお話がありました。
https://www.excite.co.jp/News/photo_news/p-8068897/

1月8日まで東京都美術館で開催され、1月20日から京都国立博物館で開催されるゴッホ展で、ゴッホの幻の作品《恋人たちのいるラングロワの橋》を、一部分のみ残った作品の断片やスケッチ、手紙などを手掛かりに復元する試みを世界で初めて行われ、その画が展示されるそうです。

しかも、この復元を担当したのは、あの驚くべきゴッホの絵が動き出す映画「ゴッホ〜最期の手紙〜」の制作に世界各国から参加した120人余りの画家のうち、日本人として唯一参加した画家・古賀陽子さん。

しかも古賀さんは西宮市出身で、人物画を得意とする新進気鋭の画家です。

このような美しい画家に誘われると、ゴッホの京都展には是非行ってみたいと思ってしまいます。

 ところで常盤貴子さんの訪れた現在の「跳ね橋」はどうもレプリカのようです。
大石輝一の『狂画人ゴッホ』からです。
<その『跳ね橋』も、ゴッホが世界的に有名になるにつれ、田舎の運河に架かる木造の小さい橋も世界的に知られ有名になった。ところが第二次世界大戦によって爆撃されたものか、いまはコンクリートの寒々とした、無粋な橋に変わっていると式場氏は話されていた。>
 式場氏とは精神科医でゴッホ研究家としても名高く、『ファン・ホッホの生涯と精神病』を著した式場隆三郎氏です。
 またゴッホが描いた跳ね橋は1926年に壊されており、爆撃により破壊されたものではありませんが、現在の橋は間違いなく再建されたものでした。



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NHK『旅するフランス語』今月は南仏アルルのゴッホを巡る旅

 NHK教育テレビ『旅するフランス語』はフランス語が堪能な常盤貴子さんが案内する語学番組ですが、旅番組としても充分楽しめる番組です。

 常盤さんは西宮市立春風小学校から西宮市立上甲子園中学校を経て、市立西宮東高校にも在籍した西宮市にゆかりの深い女優。

 第13章は南仏アルルのゴッホを巡る旅。

 観光三輪車でのアルルの旧市街巡りで、ゴッホが「夜のカフェテラス」を描いたフォルム広場の前のカフェを訪れます。


1888年に開かれていた素敵なカフェが、今もあるとは驚きですが、きっとゴッホの絵のおかげでしょう。壁にはCAFÉ VAN GOGHと書かれております。


 カフェの壁の色は元は白色でしたが、ゴッホがガス燈の灯に輝く壁を黄色く描いたそうです。

その黄色と夜空の青色の明確な色彩的対照性に目を奪われます。

ゴッホの「夜のカフェテラス」に影響を与えたという歌川広重の名所江戸百景「猿わか町夜の景」。夜空を青く描いたのも浮世絵の影響かもしれません。

 夙川のパボーニの画家大石輝一も心酔していたフィンセント・ファン・ゴッホ。もう少し常盤貴子さんのアルルの旅について行きます。




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うっかりミスだと思うのですが、西宮東高校は県立ではなくて市立ですよ。

[ 西野宮子 ] 2017/12/29 21:56:48 [ 削除 ] [ 通報 ]

ありがとうございます。早速訂正しておきました。

[ seitaro ] 2017/12/30 7:45:45 [ 削除 ] [ 通報 ]

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谷崎潤一郎は歩いて夙川パボーニの前を通りおでん屋「京楽」へ

 華麗な職歴と小説や寓話を執筆されている岡本幹輝氏の懐想「夙川雑記」で、昭和47年1月2日に夙川の喫茶店「ラ・パボーニ」に年始挨拶に出かけ、大石輝一画伯とお話します。

<『ラ・パボーニ』には、新年を迎えて案の定、老画伯は在宅していた。画家は、私たちが再び関西に帰って来たことを喜んで、特にすぐ近くの芦屋に居を定めたことを歓迎してくれた。日本の中で、この西宮から芦屋、御影にかけての阪神間の山麓が最高であると彼は力説していたが、それには私も同感である。>

(大石輝一 教会の見える風景 昭和34年)

<谷崎の『細雪』を引用して私は、戦前の芦屋、夙川界隈の描写が今でもそのまま通用するほどに、その頃の面影がまだまだ色濃く残されていることを述べたところ、老画伯は「大谷崎」と往時の呼称を用いて、文豪兄弟の兄「潤一郎」の方を弟の「精二」と区別する言い方をして、谷崎と言えば潤一郎のことと決めていた私を少なからず感心させた。>

1959年版映画『細雪』では夙川のこほろぎ橋が登場しています。

<その大谷崎が昔よくこの『ラ。パボーニ』の店の前を歩いて馴染みのおでん屋に通っていた姿をよく見かけたものだと言う。そのおでん屋とは何処にあるのだろうか?『細雪』にも確かにこの辺り、特に一本松から国鉄の土手の横腹をくぐり抜いたマンボウを潜って阪神国道に出る描写があるので、その近くかも知れぬ、などと私は勝手に想像した。> 

森田たまも一時目の前に住んでいた一本松です。

そして有名なマンボウ。

 宮崎修二朗氏が『文学の旅・兵庫県』で大谷崎が通っていたおでん屋の場所を明らかにされていました。

<「一本松」といい、この「マンボウ」といい、谷崎潤一郎氏の足跡がこの市中を行きわたっているのも道理、氏はしばしば与古道町──そこの六湛寺川を南に渡ったところにあった酒場「京楽」を訪れているのである。郷士研究家浅田柳一氏は当時の谷崎氏をつぎのように回想している。
 「京楽」はいまの神戸新聞中央販売店から三、四軒南にあたり、酒蔵に直結した「日本盛」を飲ませて通者を喜ばせた。谷崎氏は長くこの店を贔屓して「東西南北人爭春夏秋冬客不絶」という顔を揮毫して掛けたり、素晴しい檜の台をみずから担いで来て寄贈したりするという気の入り方だった。その店の、油揚げで野菜を包んだガンモドキを、関西で「ヒリョウズ」と呼ぶのが興味をひいたらしく『中央公論』に『京楽のあげ袋』という一文を書いたりした。

京楽は与古道町にありました。(上の地図の黄色の丸印)

 大谷崎は雲井町の根津家別邸に住んでいた頃、羽衣橋を渡り、夙川のラ・パボーニの前を通って歩いて京楽に向かったようです。

 その後は、マンボウを通り、阪神国道に出て、与古道町の「京楽」に向かったのでしょう。


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夙川育ちのロミ山田さんは今もご活躍!

 夙川ミッシェルバッハのクッキーローゼを日本中で一番おいしいクッキーと紹介されていたロミ山田さんは、オフィシャルサイトを見ると、「芦屋市で育つ」と書かれていますが、自伝『楽譜を抱いて』を読むと、小学校四年で芦屋から夙川に移られていたことがわかりました。

http://www.romi-yamada.com/index.php?FrontPage

 ロミさんは昭和8年実父の赴任地、朝鮮の京城に生まれ、一歳のとき、父親の朝日新聞京城支局から大阪本社への転任により帰国されています。

『楽譜を抱いて』によると、
<帰国後は大阪と神戸の間の宝塚、神戸、甲子園のあたりを、三、四回は引越ししたようです。うちの母、引っ越しが好きだったんですね。胃がんのために三十三歳で父が亡くなったのは、その間のことです。>
和辻哲郎は亡くなられた実父の従兄弟でした。

 母親の初子さんは、籍を抜いて実家に帰り、田中千代洋裁学院で洋裁を修め、デザイナーとして神戸の大丸百貨店に就職されます。


上の写真は田中千代洋裁学院発祥の地に建つ棕櫚と碑。

十歳のとき、母親が毎日新聞の山田眞一氏と再婚。
<再婚後は、母と祖母と私で住んでいた芦屋を離れ、夙川の新しい一軒家に移り、また、小学校四年で、芦屋市立岩園小学校から、小林聖心女子学院の小学部に編入しました。>

岩園小学校の学区にあった実家から夙川ですから、距離は近くでした。

その頃のことだったのでしょう、夙川のパボーニにお母様とロミさんが頻繁に通っていたのは。

ロミさんが懐かしんで、稲川淳二と夙川のパボーニを訪れた映像がありました。

名次山を歩くロミさん。

夙川べりを歩くロミさん。

その番組で、お母様は活発な女性で、モダンガールだったとロミさんが語られていました。

 さてそのロミ山田さんの近況。

驚いたことに、昨年の6月にオリジナルシングル「さらば燃えた日よ〜モルダウ(我が祖国)より〜」を発売されていました。

CD発売記念ディナー&トークショーまで開かれたようです。

夙川育ちのロミ山田さん、益々お元気にご活躍ください。



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来年のパボーニ・カレンダー

 もう師走が目前! 1年過ぎるのが、年々早くなる気がします。

今年もカーサ・ラ・パボーニのカレンダーの最後に、「生涯をゴッホに捧げた画家大石輝一」と題した拙文を書かせていただきました。

写真は大石邦子さんが作られたゴッホの人形。


12月は村上征生さんの温もりを感じる「クリスマスの街角」


3月は三木衛さんの「関西学院外人教師宿舎1号館」


お正月の絵は「4こうねんのぼく」など心温まる絵本を書かれている、ひぐちともこさんの「東風の吹く」。

<カエルも おけらも ミミズも ピーマンも 小イモも 

人参も たんぽぽも すみれも わたしも、心がざわざわ浮き立つよ。東風吹かば。>

と、満開の梅の花だけでなく、ひぐちさんらしい文章を添えられています。

 

画廊喫茶・パブ 堂島のカーサ・ラ・パボーニでは1128日から1229日まで「すてきなクリエーターによる PAVONI ART CHRISTMAS 2017

の展示がされています。



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黒田征太郎が震災後描いた夙川パボーニの絵が見つかりました!

 野坂昭如の『戦争童話集』の画を描いた黒田征太郎は5歳で道頓堀から夙川に移って来ました。

雑誌CoyoteNo.47 Autumn/Winter2012で次のように述べています。
<野坂さんは神戸で育ち、僕も物心ついたころに大阪から神戸に引っ越した。泳ぎを覚えた海岸も一緒でした。火垂るの墓で書かれた場所へ、野坂さんは神戸大空襲から逃れてきた。そこに僕が住んでいたんです。そこは爆弾が落ちて焼け野原になった。野坂さんと妹さんが住んでおられた横穴の防空壕を知っています。もうずいぶん前に二人でその一帯を歩いたことがあるんです。かつて少年だった時の目線と大人になった時の目線がどう違うのか、何が写るのか、検証したことがあった。誰に依頼されたわけではなかった。ただ確認したいと思った。酒を飲んでいて少年時代の話になって、野坂さんに「蔦がからまっている変な家がありましたね」と言うと、「あれは有名な喫茶店だよ」と野坂さんに笑われました。「一緒に行こうか」と案内していただきながらその場所の野坂さんのエピソードを紐解いていった。>


 その黒田征太郎が1995年6月2日に、阪神淡路大震災で倒壊し、更地になった夙川パボーニの跡地に立ち描いた画がでてきました。

そこには黒田征太郎の思い出が書かれていました。

パボーニのあと。 玄関のシュロだけが残っている
が こげているらしい… 大丈夫だろうか。

青い空がかえってむなしく見える。

あの楽しかった壁画。あのあたたかかった空気。
もう二度ととりかえせない。

僕は子供のころ この近くに住んでいた。
そのころは この家はなんなんだろうと思っていつも見ていた。
その家がパボーニだったのだ。
                           
              黒田征太郎

 現在も、千歳町のパボーニの跡地は空き地になっていて、2本の棕櫚だけが残っています。

黒田征太郎のパボーニの画は近々、堂島のカーサ・ラ・パボーニで公開される予定です。




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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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