阪急沿線文学散歩

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宝塚の阪急山本駅近くの"あいあいパーク"春のバラフェアへ

 ゴールデン・ウィークの陽気に誘われて、阪急宝塚線山本駅の近くの"あいあいパーク"の春のバラフェアへ行ってきました。阪急山本駅から約5分歩くと、池の向こうに建物が見えてきました。

 メインとなる建物は白地に濃茶の木組みで、ロンドン近郊の美しい都市 サリーの17世紀頃の佇まいをイメージしたハーフティンバー工法による本格イギリス式建物。
 どのようなつながりだったか知りませんが、イギリス総領事のバックアップを得て、設計から資材にいたるまでイギリスに依頼し建てられたものだそうです。"あいあいパーク"は宝塚市立宝塚園芸振興センターの呼称ですから、宝塚市も施設建設にあたっては、よく英断したものだと思います。

 調べてみると、サリー州にはRHS Garden, Wisley という19世紀に造られた広大な敷地のイングリッシュガーデンがあり、その建物とよく似た雰囲気です。

イギリス総領事はそのようなイングリッシュガーデンを日本に紹介したかったのかもしれません。

(写真はウイズリーガーデンの研究所)

 しかし宝塚山本はそれ以上の植木の歴史を誇る植木の町だったとは、近くに住んでいながら知りませんでした。その歴史は鎌倉時代に山本地区の植木産業が始まり、現在でも日本三大植木生産地として100件以上の植木屋さんや苗木畑などがあるそうです。

 建物の中に入ると、1階はガーデニングのショップになっていて、吹き抜けの天井。

 バラフェアには400種類ものバラが展示されているそうで、混雑もなくゆっくり楽しむことができました。

中庭です。

 今回はバラは遠慮して紫の花が綺麗なあじさいと、ベランダ菜園用のパセリ、夏に向かってミント・ジュレップを楽しむためペパーミントを買って帰りました。
今回は電車で行きましたが、駐車場も広く、車で行こうと思っています。




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本日、当選通知が届いていました。
定員を上まわる応募があったそうでラッキーでした!
7月2日(土)楽しみにしております。

[ 373 ] 2016/05/06 19:11:00 [ 削除 ] [ 通報 ]

373さんありがとうございます。ご期待に添えるか不安ですが、資料を作成し始めました。当日は是非お声がけください。よろしくお願いいたします。

[ seitaro ] 2016/05/06 20:46:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

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あにあん倶楽部で招待券が当たり「宝塚歌劇100年展」へ

 『阪急沿線文学散歩』と称しているものの、男性にとって近寄りがたい宝塚歌劇をテーマとするのは逡巡しておりました。しかし阪田寛夫の『わが小林一三』や『おお宝塚』を読んでいるうちに、挑戦する気になってまいりました。

 

 タイミングよく兵庫県立美術館で「宝塚100年展」が開催され、その招待券が最近会員登録した「あにあん倶楽部」(兵庫県阪神南県民センターが運営する尼崎・西宮・芦屋に関する観光・地域情報発信サイト)http://anian-club.jp/ で抽選で貰えると知り応募したところ、めでたく当選。早速出かけました。


 でかける前にまず、阪田寛夫『おお宝塚 シャイファーザー、娘を語る』での阪急電車と宝塚歌劇へのただならぬ心酔ぶりから紹介しましょう。


 阪田の家は子供の頃、大阪市の南端、阿倍野にあり南海電車の勢力分野でありながら、次のように語ります。
<これにくらべると、阪急電車の六甲山録地帯は誇り高い美人の顔のようなものであった。花崗岩質の山が暁方は茜色、夕方は紫に染まり、松林の奥の住宅街は、容易に俗塵を近づけぬ癇の強さを示さずにはおかなかった。しかし、とりわけ私が阪急沿線を尊敬した理由は、そこに宝塚歌劇があったせいである。>
 小学校時代から阪田は宝塚ファンであったそうですが、その理由を次のように述べています。
<小学校五年生の時、私のクラスの三分の二は宝塚ファンであった。それはたぶん、クラスを牛耳っていた早熟な分子が、その姉たちから受けたよくない影響を、学級の中にまで持ち込んだためだ。>
 文化的なクラスかと思いましたが、なるほど、よくない影響ですか。それでは阪田の影響を受けて遅まきながら、兵庫県立美術館に「宝塚歌劇100年展を訪ねてみましょう。


安藤忠雄設計のコンクリート打ちっぱなしの入り口に、宝塚風のデコレーション。


会場内では100年前の宝塚新温泉場での宝塚少女歌劇公演から、現在までの宝塚歌劇の歩みの資料や美術作品等が展示されていました。


「ベルサイユのばら」のセットを背景に撮影ができる場所もサービスされています。


タカラヅカスターになった気分で並んで撮影もできます。


 私が最も興味深かったのは「阪神間モダニズムとタカラヅカ」のコーナー。
「美術作品にみるタカラヅカ」と題して、宝塚歌劇草創期、都市化と郊外住宅地の開発によって変貌する阪神間の風景を描いた絵画や、宝塚歌劇の文化的背景である阪神間モダニズムの雰囲気を伝える美術、ならびに宝塚歌劇と関連した絵画が展示されています。
 嬉しいことに、小出楢重による風景画、吉原治良の作品、小磯良平の人物画と並んで大谷美術館所蔵の夙川パボー二の大石輝一の作品「西宮の街見ゆ」など3点も展示さていました。

(写真は堂島カーサ・ラ・パボー二 ホームページより借用)
また写真家中山岩太による宝塚歌劇のスター写真等、日本画家小倉遊亀、美術家横尾忠則による、宝塚歌劇をモチーフとした作品も展示されていました。


 見ごたえのあった「宝塚歌劇100年展」、2階の常設展で小磯良平の「斉唱」もゆっくり鑑賞できました。あにあん倶楽部さんありがとうございました。次の企画も期待しています。


 



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遠藤周作を小説家にした宝塚文芸図書館を残してもらえないのでしょうか?

本日の朝日新聞阪神版朝刊に「宝塚市、ガーデンフィールズ跡一部取得へ」(鈴木裕)という記事が掲載されました。


遠藤周作を小説家にしたという旧宝塚文芸図書館(元ロンファン)が残されるのかと期待したのですが、宝塚市の取得地からは外れており、「残りの約2ヘクタールでは、宝塚音楽学校の校舎に使われた戦前の洋館を解体し、近くにある音楽学校制の宿舎「すみれ寮」が移転する。」と書かれていました。

 


遠藤は色々なエッセイで宝塚文芸図書館について述べています。

 まず、夙川の教会とおなじようになつかしい場所と記している「私の履歴書」からです。
<信じて頂けないだろうが、アホなことばかりやってきた私は一体どうしたらよいのかわからなかった。そのため私は宝塚図書館に通いだした。当時、宝塚にはまだ植物園や動物園が残っており、図書館には演劇の本のほか色々な小説や書物が所蔵され、貸し出しを行っていた。>
<今にして思えばあの図書館は「本に接する」ことを教えてくれた点で私の人生にとって夙川の教会とおなじようになつかしい場所である。>


 次にエッセイ集「忘れがたい場所がある」からです。
<しかし、私が仁川とともに一番、思い出のあるのは宝塚の図書館である。あの宝塚動物園の奥にある小さな図書館は、私にとってははじめて小説の面白さを教えてくれた場所だった。夏休みの午後、セミの声を窓のまわりにききながら閲覧室で、一冊一冊日本や西洋の小説をむさぼるように読んでいた少年時代の自分の姿はいまでもはっきりとよみがえってくる。そして電車賃のない時、私は宝塚から仁川まで歩いて戻ったものだ。読んだ本のこと、その中に出てきたさまざまな人間のことを思い出しながら、逆瀬川をわたり、小林の聖心女子学院の裏をぬけ、そして夕暮れに仁川のわが家にたどりつく。
この間も私は大阪に行った時、昔と同じこの古ぼけた小さな図書館の前にひとりでたって、当時のことを心に噛みしめていたものだ。この小さな図書館とそして仁川の風景がなかったなら、私はひょっとして文学などやらなかったかもしれぬ。小説家などにならなかったかもしれぬ。>


遠藤は大阪に来た時は、宝塚ホテルに宿泊し、そっと忘れがたい場所を訪れたようです。
 次に「心のふるさと」からです。
<仁川から阪急電車で四つ目に宝塚がある。私は夏休みなど、ほとんど毎日、この宝塚にでかけた。駅から桜の路が大劇場まで続いており、図書館が劇場の庭にあった。


当時の私は宝塚のミュージカルには、まったく興味も関心もなく、女性が男性の真似をして恋を囁くのを気持ち悪いと思っていた。私が宝塚に通ったのは、そこの図書館が本をタダで貸し出ししてくれるからだった。トルストイもドストエフスキーの代表作も、モーパッサンも私はみな借り出して読んだ。当時、小説家になる意志など毛頭もなかったが、その小さな第一歩は仁川とこの宝塚ではじまったと言ってよい。
と小説家になる第一歩がこの図書館からはじまったと述べているのです。

 小説「砂の城」にも戦争中の宝塚文芸図書館が登場します。


 <春休みが来ました。母さんはその春休み、宝塚の図書館で本を借り出しては毎日、読みふけっていました。………図書館の周りは桜が満開でした。本を借りだすと、その霞のような花の下のベンチで胸をときめかせながら頁をくりました。………図書館を出て、植物園の方に行くと、戦争のため人手が少ないのか樹木は手入れをしていないようでしたが、桜や雪やなぎやれんぎょうが満開で、花の部屋にいるような感じです。劇場は閉鎖されて海軍の予科練習生の宿舎になっているため、ラッパを練習する音が時々遠くから聞こえてきました。>


 これほどまで遠藤の思い出がいっぱい詰まった宝塚文芸図書館の建物、解体してしまうのでしょうか。


小林一三様もう一度考え直してください。宝塚市の皆様、この旧図書館も買い取ってもらえないでしょうか。
 私は最近遠藤周作が述べている「眼にみえない力」があることを信じています。奇跡が起きますように。



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宝塚市長の中川さんは文学に理解のある人だと思いますが。杉山平一さんの熱烈なファンでもありました。

[ akaru ] 2013/12/22 10:10:57 [ 削除 ] [ 通報 ]

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昭和の初め北尾鐐之助の歩いた宝塚

 北尾鐐之助「宝塚新繁盛記」から昭和の初めの歌劇場周辺の紹介をいたします。
<明治44年に、武庫川の両岸を埋立てて、東岸には歌劇場を、西岸には今の河岸に沿う旅館、料理店などができた。それより以前の武庫川と云えば、実に広漠たる大河であった。当時歌劇場附近の河岸には、わずか二、三軒の農家が点在していたのみで、あの辺一帯に寂しい松並がつづいていた。
いま電車を降りて土産物を売る店の前を通り、歌劇場に向う中央が、高いコンクリートの堤で、左右に道路を見下ろすようになっているが、あの堤こそ、以前の武庫川の堤防の名残である。>
 宝塚駅は地上駅から平成5年に高架となり、現在は駅ビルもでき、すっかり変わっていました。

ソリオを通って外に出ると花の道です。


花の道は少し高くなっています。

小さなお店が並んでしたような記憶がかすかに残っていますが、やはりかなり変わっていました。

花の道に沿った道です。この石垣の上が花の道で、明治44年の埋め立てまではここが武庫川の堤防だったとのこと。松は昔からのものでしょうか。
<温泉情緒の旧温泉から、道を宝塚ホテルの方へとっていくと、迎宝橋のところに出る。対岸には四千人の大劇場かが、うす桃色のやや褪せた色彩で、川岸一帯をふさいでいる。>


宝塚ホテルは大正15年創業でした。

 

 明治43年に完成した迎宝橋は、現在の阪急今津線から上流へ150メートル、写真の宝塚大劇場の裏から湯本町を結ぶ宝塚観光ダム付近にあったそうです。

 その後、昭和13年の阪神大水害、昭和20年の阿久根台風で流失し、その度に再建されましたが、昭和25年のジェーン台風で流出した後は、約200メートル下流に宝塚橋(現在の宝塚大橋の位置)が架けられていたこともあって再建されず幻の橋となりました。
<日のあたる高い硝子窓の中から、ピアノの律音。さわやかな女声合唱!。
オーケストラの賑やかな響き。べろべろに破れた背景、道具の山。ペンキの剥げた、四角い校舎の門。その門をくぐる蒼白い青年の顔。額に垂れかかる長い髪の毛。………
蝋細工のような白い顔の少女。青い袴。長い振袖。白足袋の五、六人。
日のあたる高い硝子窓の中から、ピアノの律音。女声合唱。オーケストラの賑やかな響。
「宝塚音楽歌劇学校」前の、ある日の正午ごろ。>


 宝塚音楽学校は、大正2 年に「宝塚唱歌隊」として創立され,本年は創立100周年を迎えます。正式に「宝塚音楽歌劇学校」となったのは大正7 年、その後、「宝塚音楽舞踊学校」、「宝塚音楽学校」と改称され、現在に至っています。

大正12年の火災では宝塚新温泉、宝塚音楽歌劇学校新校舎が焼失しました。
北尾鐐之助が歩いた昭和の初めはまだ同じ場所だったと思われます。
 その後、昭和10年3月に公会堂として建てられた建物が昭和12年に宝塚音楽歌劇学校に転用され、平成10年からは宝塚市の 文化施設として再利用されています。

 

 

写真は宝塚音楽学校旧校舎(現 宝塚文化創造館)

 

 定かではありませんが、昭和25年〜30年までは現ロンファン旧宝塚文芸図書館が宝塚音楽学校の校舎として使われていたという記述もありました。

 


現在の宝塚音楽学校は宝塚大橋と阪急今津線の間に建てられている建物です。
<昔の武庫川の堤であったという、高いコンクリートの道をあるきながら、私たちは、今日出来上がった宝塚を、何の気もつかずに見過しているが、世界に、これほど多角的な、人生のあらゆる享楽を集めているところもないなどとおもう。この土地の草分けで、同時にまた大地主である平塚嘉右衛門氏は、いつか私に語って、宝塚のすべては「モダーン」の一言に尽きる。阪急の小林一三氏と提携した時、すべて世の中の先端をいこうではないいか。モダーンだ。徹頭徹尾モダーンだ。その外には何もないと云ったのが、今日の宝塚だというのである。>

昭和32年宝塚市長が小林一三氏の胸像を建てていました。

 


宝塚大橋附近の武庫川ベリに立つと、そこからも甲山がはっきり見えていました。



北尾鐐之助 宝塚新繁盛記
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宝塚 | コメント( 9 ) | トラックバック( 0)

「リセット」を読んで、ちょっと違和感があったのは、宝塚が浅草みたいなところと書いてあったことです。浅草というのなら、神戸の新開地でしょう。どちらも良家の子女は行ってはいけないところ、宝塚はちがうと存じます。

[ アップルビー ] 2013/01/16 23:46:25 [ 削除 ] [ 通報 ]

下世話な話しですが、宝塚にはパチンコのお店があったんでしたでしょうか。温泉や遊園地、歌劇はありましたが...のんびりした街だったのでしょうか。浅草や上野に行くと、なんとなく天王寺や新世界と似ていると思う場所もあります。

[ ふく ] 2013/01/17 19:06:51 [ 削除 ] [ 通報 ]

宝塚のパチンコ屋さん、あまり覚えがありません。昭和の初め大地主の平塚嘉右衛門と小林一三は徹底したモダーンで、「あらゆる階級の人間を引くべく努力しているところは、一寸他にはあるまい。」と述べられていました。
しかし武庫川大好き人間の 北尾鐐之助は「自然を破壊して、何がモダーンの建設ぞ。宝塚の武庫川でなくて、永久に武庫川の宝塚であらしめたい」とも述べていました。

[ seitaro ] 2013/01/17 20:24:22 [ 削除 ] [ 通報 ]

残念ながら、宝塚に少なくとも1つ、花の道にあったと思います。南口か車で参るばかりで、本駅(当時は宝塚駅のことをこう呼んでおりました)に行くことは梅田に出るときしかに通らなかったのですけれども、宝塚歌劇から本駅に向かう左手の川側にありました。お笑い(吉本?)の方のお好み焼き屋さんや「いずみ」という喫茶点の花の道を挟んだ向かい、駅のそばにあったと思います。宝塚新芸座の方や、生徒でも年配の方(当時は定年制ではなかった)がされていると聞きました。
このあたりから本駅を過ぎたあたりはちょっと上級生の生徒達が住んでおりましたが、花の道以外はスナック?カラオケバ―?というのでしょうか、看板が出ていて、南口の上と同じ様で、結構、温泉風でした。夜はお嬢さんは通れないと思います。

[ ロックウェル ] 2013/01/17 20:43:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

アップルビーさまがおっしゃる通り、宝塚は沿線の方にとっては身近だったと思います。学校でも、御覧にならない方でもそう偏見はなく、クラスに2人母上がご出身だったり、後輩がいらしたり、ご近所にいらしたり、という感じでした。観たことがある方は4割前後、お好きという方はクラスの1割はいらしたと思います。嫌いでなくて知人のお嬢さんが入られたから、誘われてというのならもっといらしたか、と。
同級生の父上の親しいお医者さまのお嬢さんがとてもよい成績で卒業するから観に来てくれと言われて音楽学校の卒業公演に行くことになりましたが、何方かわからないわねと話しておりましたら、お見合い写真のような立派なお写真を渡されました。妹さんも入られよい役がつきましたが早くにお嫁にいらっしゃいました。

[ ロックウェル ] 2013/01/17 20:59:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

相当お詳しそうで、まだまだお店の名前とエピソードがでてきそうです。
姉妹でタカラヅカとは稀ではなかったのでしょうか。野坂昭如は奥様の暘子さんと娘さんお二人がタカラヅカで、三人は初めてと自慢しておりましたが、ひょっとすると他ににもいらしたのかも。

[ seitaro ] 2013/01/17 21:26:25 [ 削除 ] [ 通報 ]

やはりそうですか。写真見ましたが宝塚出身の美人母娘ですね。
お互い振り返るとは、ロックウェルさまにもオーラが。

[ seitaro ] 2013/01/17 22:57:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

いえ全然問題ございません。タカラヅカのこと、ほとんど良くわかっていないのですが、また新たな方、博物館まででてきましたので、どんな関係かと調べますと、元華族の家系、自宅を寄贈されたのでしょうか、立派な家系で、タカラヅカの人材豊富さには驚きました。また訪ねてみます。

[ seitaro ] 2013/01/19 18:37:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

ありがとうございます。渋谷のあたりを歩いてみようと思っております。

[ seitaro ] 2013/01/20 0:00:40 [ 削除 ] [ 通報 ]

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武庫川の西岸、ある日夕方の半時間

 宝塚温泉物語によると、近代宝塚温泉が開業したのは明治20年とのこと。明治44年には武庫川東岸に新温泉ができ、新・旧と呼ばれるようになったそうです。


現在でも宝塚にはホテル若水など伝統の温泉がありますが、現在温泉街と呼んでいるのは、宝来橋の道標の矢印方向を見ると、旧温泉をさしているようです。
 新温泉のその後については先日ピースさんからいただいたコメントでわかりました。
昭和35年武庫川東岸の温泉設備を拡張・整備して、「宝塚ヘルスセンター」(のち「宝塚大温泉」に改称)として開業、しかし昭和60年頃には役割を終えて閉鎖されたそうです。
 昭和の初めの北尾鐐之助「宝塚新繁昌記」から武庫川西岸、旧温泉街の風景をたどります。
<この川の西側を歩くと、いつの間にか、ずっと山の上にまで、別荘の立ち並んだことに驚くのだ。旧温泉前から、まっすぐに塩尾寺の方へ登っていく ―東六甲縦走路― の道は、十年ほど以前から、幾度も通ったことがあるが、いまでは、この塩谷川の両岸は、殆ど、家が立ち並んで、立派な町をつくっている。家と家との間は、細い路地なって、ここも、有馬のように、見上げるような高い石垣の谷を作っている。>


 塩谷川は強塩分の温泉の谷に流れるので塩谷川と名付けられたそうです。このあたりの両岸は震災の影響でしょうか、今やマンションに変わっています。


塩谷川沿いの東六甲縦走路、私も塩尾寺まで歩いて登ってみることにしました。
<両側にはコンクリート壁が、ずっと、二枚の屏風を折り廻したように続いている。細い坂道だ。向うから美しい丸髷の女が下りて来る。タオル、石鹸、化粧道具などを入れた、小さな箱を提げて、いかにも、以前は名妓なにがしと云ったような、静かな落ちついた、美しい裾さばきである。素足に塗下駄。白い貝殻爪が反り返る。>
この塩谷川沿いの坂道、現在は六甲登山のハイカーらしき人が行き交います。
しばらくこの塩谷川を登っていきますと、宝塚市が管理しているのでしょうか、現在の源泉がありました。

<その後から豆腐屋の喇叭。糠を売る男。自転車を押して、門燈の笠をもって行く電灯工夫。西岸の町は、みな旅館、料理屋に占められてしまった。しかし、どうかすると、その中に、新築の病院の西洋建てなどある。>


<ペンキ塗りの郵便局。長唄の師匠、杵屋栄蔵門人。悉皆屋のしみ抜き。立派な窓飾りをもった宝塚写真館。ちょいとその中をのぞくと、レンブラント・ライトの洒落た奥様。そうかとおもうと国民座出勤水谷八重子嬢の大きな笑い顔。………
悉皆屋の表口に、遊んでいる女の児の洋服は、真赤な地色に、緑でふちをとっただんだら。どうしても、歌劇の世界だ、
武庫川の西岸、ある日夕方の半時間。>

 悉皆屋とは江戸時代、大坂で染め物・洗い張りなどの注文を取り、京都の専門店に取り次ぐことを業とした者で、転じて、染め物や洗い張りを職業とする人だそうですが、何故こんな名前がついたのでしょう。

 湯本町の風景、現在は住宅が立て込み、このような風景があったとはとても想像できません。塩谷川に沿った住宅はかなり上までありました。


 さてここから塩尾寺までは想像以上に急な登り道で距離もかなりありました。


途中休憩所があり、寄る年波には勝てず、休憩です。ここまで来てようやく塩尾寺が「しおおじ」ではなく「えんぺいじ」と読むことがわかりました。

この休憩所からは、広く仁川、大阪、生駒山まで見渡すことができました。


更に休憩所から700m上がり、ようやく着いた塩尾寺。


 元は聖徳太子が建立したと云われ、武庫の七寺の伝承で、塩尾寺には十一面観音菩薩がまつられたそうです。
塩尾寺にまつわる面白い民話も残っていました。
http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/sub_file/04030101000000-empei.html
 その昔、貧しい女の熱心な祈願で大柳の下から塩辛い霊水がわき出し、これが宝塚温泉の根源となったと言い伝えられています。古くは塩出観音として多くの信仰を集めたそうです。


 帰り道にこんな建て看板があり、寄ってみたくなりました。



塩尾寺
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↑さすがは関西人。抜け目ないが微笑ましい宣伝ですね。もちろん無許可の掲示でしょうけど。

[ せいさん ] 2013/01/12 21:18:53 [ 削除 ] [ 通報 ]

塩尾寺までは相当急な坂道で、私は六甲縦走したわけではないのですが、寒い日にもかかわらず汗をかき、魅惑的な看板でした。登る時はまったく気付かず、看板の向きもよく考えています。

[ seitaro ] 2013/01/12 23:00:58 [ 削除 ] [ 通報 ]

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昭和初めの宝塚景観「宝塚新繁昌記」を歩く

 昭和初期の阪神間の風景を描いた大阪毎日新聞社の写真部長、北尾鐐之助の著書「近畿景観」、その中の一編「宝塚新繁昌記」に風情があり興味深い景観が描かれており、現在の宝塚を歩きながらご紹介いたします。
 次のような宝来橋のいかにも温泉街らしい光景からはじまります。
 <宝来橋の細い欄干に灯がついた。顔に似つかぬ大きな桃割れ肩上げの目立つ小さな妓が、白く塗った細い首と、両手を振り動かしながら、おどりの身振りで橋を通る。………
向うから、人力車が一台。下ろした幌をすけて、芸妓らしい女の乗っている姿が。河の瀬が白く、暮れかかる。新しくできあがった、旧温泉の浴場から、はだかのまま、湯ほてりの顔をつき出して、川の流れを見ている、小半時の入湯気分である。
宝塚はなんと云っても武庫川だ。植物園もよい。歌劇も芝居も面白い。運動場も悪くない。しかし、何と云っても、それ等のものが、この川と、山との中にあるので、宝塚は都会人の遊楽気分をそそりたてる。>


 久しぶりに阪急宝塚駅に降りてみましたが、昔の駅とはかなり様子が変わっていました。

 


現在の宝来橋と武庫川です。大きな欄干のある橋になっており、当然人力車や芸妓、温泉客は見えません。現在は橋を渡った左手がホテル若水、右手がナチュールスパ宝塚となっていて、温泉が楽しめます。

 


 宝来橋から生瀬の方を見た武庫川ですが、今や両岸はマンションが立ち並んでいます。
 文章中にある「新しくできあがった旧温泉」という言葉は、なんとも理解しにくい表現でした。宝塚の温泉浴場は、武庫川東岸に新温泉や、パラダイス・宝恟ュ女歌劇が創られたことから、武庫川の両岸は共栄を願い、東岸の新温泉・西岸の旧温泉で発展への競争をはじめたそうです。

 

昔の西岸の旧温泉、「新装なれる旧温泉」と宝来橋の図です。


<よい気持ちで、ぶらりと旧温泉の入り口を出る。どこか遠い、温泉町にでも来た気分。宝塚のうちでは、この旧温泉の前の坂の上に立って、宝来橋の橋板を、直線に見下ろしたところが、ちょいと、よい温泉情景である。

 坂道は石敷き、雨でも降ると、左右の家の灯りが、濡れた鋪道に光って、下駄の響きが、なまめかしく聞こえる。
 いったい、宝塚ほど、川の東西の景情の変わっているところはない。東岸の新温泉、歌劇場は、どこまでもモダン気分、大衆気分、日帰り気分。それにひきかえて、西岸の旧温泉は、入湯気分、遊蕩気分、逗留気分。それからまた、南のほうの宝塚ホテル附近へ行くと、文化気分、別荘気分、妾宅気分である。言葉を変えていうと、東岸ではすべてのもののテンポが早く、西岸ではすべてのものの流動が遅々として動かない。>

 塩尾寺に上がっていく、湯本町の坂道の情景が描かれているのでしょうか。

 

 
 山の上から見た武庫川の東岸と西岸、いまや宝塚大劇場のまわりも住宅地となって、昔の風情はほとんど残っていません。
 宝来橋旧温泉側の南詰め交差点に創業明治三十年本家炭酸煎餅黄金屋が今もありました。

店の中に入ると、手焼きの道具もあり、あまりにもいい匂いがして、お土産に炭酸煎餅と卵煎餅を買ってかえりました。おまけに割れた炭酸煎餅を一袋いただきましたが、おいしかったこと。



炭酸煎餅本家黄金屋
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無いものねだりか、過去の栄光か、新しくなる前の宝塚駅周辺やファミリーランドのほうが好きでした。子供の頃にはせき止めた武庫川でボートに乗ったり、ファミリーランドの奥では「世界はひとつ」があったり、今は大劇場の駐車場ですが、以前はヘルスセンターみたいな大浴場もありませんでしたっけ?宝塚駅から花の道を歩くのが好きでした。

[ ピース ] 2013/01/10 20:12:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

宝塚の駅も大きく変わっていましたので、花の道にはどう行けばいいのかと思ってしまいました。ファミリーランドに行けば古い阪急電車の車両の写真が撮れたと思うのですが、無くなってしまったのはブログを書く上でも痛手です。
そうでした。ヘルスセンターありました。新温泉はどうなったのだろうと考えていたのですが、多分あれが新温泉の最後だったのでしょう。

[ seitaro ] 2013/01/10 20:35:00 [ 削除 ] [ 通報 ]

thoroughbredと看板がありましたが、サラブレッドと結びつかずにすっとスルーブレッドってどういう意味だろうと思っていたのを思い出しました。

[ ふく ] 2013/01/11 20:41:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうですか、もう代変わりしたのか、やはりほとんど残ってないのですね。また話がとんで恐縮ですが、昨年暮れ、甲陽学院出身で、昔お世話になった会社の社長に久しぶりにお会いし、飲んでいたら雲井町のパスポートのことをよくご存知でした。雲井橋を渡った所すぐにあった一軒家で、豪華な雰囲気で、宝塚の人がしょっちゅう来ていたとのこと。皆様良くご存知なのに、足を踏み入れなかったのが残念です。

[ seitaro ] 2013/01/11 20:43:34 [ 削除 ] [ 通報 ]

馬つながりで、ご記憶でしたか。crazy horse画像検索していたらパリのキャバレーで、少し楽しんでまいりました。

[ seitaro ] 2013/01/11 21:01:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

昔のお店が次々閉店して無くなるのは、若い時の楽しい記憶がどんどんなくなるようで、寂しいかぎりです。
苦楽園に宝塚の方が来られるような、そんなにいいお寿司屋さんがあっただろうかと、今思案中です。

[ seitaro ] 2013/01/11 21:16:54 [ 削除 ] [ 通報 ]

前にも書いたかもしれませんが、阪神間のお嬢様とかいうマイナーな雑誌の取材が先輩のところに迷い込み、数人でパスポートにいって写真とったのがどこかに掲載されたような気がします。捨ててないのですが、いったいどこにいったのかミーハーな記事でした。

[ ふく ] 2013/01/11 21:33:40 [ 削除 ] [ 通報 ]

初めてお聞きしました。そういう雑誌大好きなんですが、残念です。

[ seitaro ] 2013/01/11 21:53:17 [ 削除 ] [ 通報 ]

Seitaroさま  苦楽園「大天」というお寿司屋さんです。並んでいたと思います。たぶんいまでもあると思いますが。。私は10数年前に伺ったのが最後(2度目)でございます。
ステーキ店名失礼致しました。私も書きながら??と思っておりました。調べてから書けばよかったのですが。。。とんだことで。
ふくさま マイナーなイメージはありませんが、「CLASSY」とか「VERY」ではありませんか? 時々掲載されています。大学生時代は「J J」に時折友人たちが掲載されていました。「婦人画報」「ミス家庭画報」にも友人の個人的なお稽古などが掲載されたりしていました。

[ ロックウェル ] 2013/01/11 23:13:36 [ 削除 ] [ 通報 ]

ロックウェルさま とんでもございません。名前の勘違いなどよくありますし、私もわずかながらおぼえている頃の雰囲気や景色が伝わってきますので、大変楽しませていただいております。

[ seitaro ] 2013/01/12 6:26:05 [ 削除 ] [ 通報 ]

大天はあまりに流行るようになってサービスが劣化したといわれていたのですが、数年前芦屋駅前にラポルテに移転されました。その後はどの程度流行っているのかあまり聞かなくなりました。

ロックウェル様が書かれているような誰でも知っている雑誌ではなく、雑誌の名前も最早思い出せません。友人のお姉様の同級生の方がライターだったと思います。メジャーな雑誌だと名前が出たらまずいので引き受けなかったと思います。

[ ふく ] 2013/01/12 10:21:51 [ 削除 ] [ 通報 ]

数年前に、竹園旅館の下の路地みたいなところにあったので入ったおぼえがあります。苦楽園の方が好きでしたが、お客さんはどんどんいらしていました。
いま、苦楽園で一押しのお寿司屋さんは、松もとさんです。

[ アップルビー ] 2013/01/12 18:08:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

近くなのに全然知らずにおりましたが、ミシュランにのったお寿司屋さんが苦楽園口にあったとは。まだまだ新参者です。アップルビーさまも苦楽園のことまで良くご存知です。

[ seitaro ] 2013/01/12 20:31:58 [ 削除 ] [ 通報 ]

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ラジウム入り清涼飲料水はウィルキンソンタンサン

 昨日、フレッシーのモデルはプラッシーというお話をさせていただきましたが、もう一つ隠れたモデルがウイルキンソンタンサンではないかと勝手に思っております。

小川洋子さんが当時ご存知であったかどうか不明ですので、私の願望的な憶測です。

「宝怏キ泉の今昔」によれば、ウヰルキンソンタンサンで有名なウヰルキンソンは、明治22年温泉会社からラムネ部を譲り受け、温泉場の近くを流れる塩谷川沿いの紅葉谷に工場を設けて事業を開始。同25年にタンサンホテルと名づけた欧風建築を建て、宝怩フ発展に寄与したとあります。(場所は宝塚駅のすぐ北で、私も宝塚と思っていましたが、現在の住所は西宮市名塩町生瀬でした。)
この付近の温泉、有馬温泉から武田尾温泉までラジウム泉として名高いのです。
西宮市文化財資料第41号「ウイルキンソンタンサン鉱泉株式会社宝塚工場調査報告書」によれば、<明治22年 鉱泉水を発見、源泉を英国本国に送り分析したところ、31マッへのラジウムを含み清涼飲料水に適していることから、>というメモがウイルキンソンタンサン社に残されていたと書かれており、「フレッシー」そのものなのです。

 この歴史有る美しい工場を何故残せなかったのかと思いますが、1994年解体されマンションとなった後も、記念館がわずかに残っているとのことで訪ねてみました。

小さな記念館ですが、外装は昔の工場の面影を残しています。工場の模型は二階の卓球室の片隅にひっそり残されていました。
ウィルキンソン記念館には模型が残されているだけでしたので、現地や記念館になかった昔の写真は、前述の西宮市教育委員会発行の調査報告書の写真を掲載させていただきました。貴重な資料であり、西宮市立中央図書館の郷土資料として保管されています。このような優れた報告書が埋もれてしまわないよう、一部写真を借用し紹介いたしましたので、ご容赦ください。

 上に並べた写真の一番上は工場の全体写真で報告書からです。二番目、三番目は私が撮影した模型の写真。最下段二枚も昨日撮った工場跡地のマンションです。
ウイルキンソン家の人々の写真もありました。ミーナの家族といったイメージはないでしょうか。

対岸を歩いていると、門扉と石垣だけが残ったお屋敷跡がありました。この門扉の色合い、工場のカラーを思い出すのですが、ウイルキンソン家と何か関係があったのでしょうか。



ウイルキンソン・タンサン
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二百年前の逆瀬川から見た甲山

 本日「犬と歩く夙川」の「六甲山谷文晁の名山図会」という記事で谷文晁が描いた私の大好きな甲山の絵が紹介されました。その絵は、「逆瀬川あたりから南方をのぞんだ景観で、長くのびた六甲の山すそに突き出るように隆起した甲山をえがいてある。」という解説でした。しかし先日私が遠藤周作の散歩道をたどり、逆瀬川からはっきり見えた甲山とはまったく違う景色で、俄かには信じることができませんでした。




 いつものグーグルアースのストリートビューでその景色を探し始めたのですが、現在は高いビルが視界をさえぎり、二百年前の景色をうまく見つけ出せません。そこでグーグルアースでストリートビューにはならない地点での地上の景色を探すと、都合よく高いビルは省略され、二百年前に描かれた景色と同じような風景を見ることができました。



 



2枚とも阪急逆瀬川駅付近からのグーグルアースによる地上からの景色です。「この大きな山が六甲山で、左の端にぷちっとでてる黒いものが甲山です。」という絵の説明とも合致いたしました。



上の写真は、あまり変り映えしませんが、宝塚大劇場あたりからの景色です。


明治34年の摂津宝塚温泉の実際の写真がありましやので追加いたします。


http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/data/289/m.html



どうか谷文晁の描いた六甲山と甲山の絵と見比べてみてください。


http://nishinomiya-style.com/blog/page.asp?idx=10001865&post_idx_sel=10047293



 



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遠藤周作を小説家にした宝塚図書館

「私の履歴書」を読んで、宝塚ガーデンフィールズにあったロンファンが遠藤周作が通った宝塚文芸図書館であったことを知りましたが、ついにその建物も撤去されることになりました。(2014年2月加筆)
 さて宝塚図書館について、遠藤周作は二つのエッセイ集に、その思い出を書いていましたので、紹介いたします。まず「心のふるさと」からです。

<仁川から阪急電車で四つ目に宝塚がある。私は夏休みなど、ほとんど毎日、この宝塚にでかけた。駅から桜の路が大劇場まで続いており、図書館が劇場の庭にあった。当時の私は宝塚のミュージカルには、まったく興味も関心もなく、女性が男性の真似をして恋を囁くのを気持ち悪いと思っていた。私が宝塚に通ったのは、そこの図書館が本をタダで貸し出ししてくれるからだった。トルストイもドストエフスキーの代表作も、モーパッサンも私はみな借り出して読んだ。当時、小説家になる意志など毛頭もなかったが、その小さな第一歩は仁川とこの宝塚ではじまったと言ってよい。>


Herb Gouldonさんの公開写真集に1956年頃の阪急宝塚駅、ファミリーランドの写真がありました。
http://www.flickr.com/photos/herb450/sets/72157604033487897/
 またロンファンの建物については、ホームページで次のように説明されています。「宝塚歌劇の文芸図書館として建設されたセセッション様式の洋館。アールヌーヴォーからモダニズムへの過渡期に生まれ、優雅さとモダンさを兼ね備えたデザインが特徴です。」


 セセッション様式の特徴は、平面性を強調すること、直線を多用することで、平面や直線による単純な抽象的構成に美を見出すことにあるそうで、壁に並んでいる幾何学模様も特徴となっています。


 次にエッセイ集「忘れがたい場所がある」からです。
<しかし、私が仁川とともに一番、思い出のあるのは宝塚の図書館である。あの宝塚動物園の奥にある小さな図書館は、私にとってははじめて小説の面白さを教えてくれた場所だった。夏休みの午後、セミの声を窓のまわりにききながら閲覧室で、一冊一冊日本や西洋の小説をむさぼるように読んでいた少年時代の自分の姿はいまでもはっきりとよみがえってくる。そして電車賃のない時、私は宝塚から仁川まで歩いて戻ったものだ。読んだ本のこと、その中に出てきたさまざまな人間のことを思い出しながら、逆瀬川をわたり、小林の聖心女子学院の裏をぬけ、そして夕暮れに仁川のわが家にたどりつく。
この間も私は大阪に行った時、昔と同じこの古ぼけた小さな図書館の前にひとりでたって、当時のことを心に噛みしめていたものだ。この小さな図書館とそして仁川の風景がなかったなら、私はひょっとして文学などやらなかったかもしれぬ。小説家などにならなかったかもしれぬ。>
 さすが大器晩成型遠藤周作です。多くの著名な作家の子供時代の読書量と内容を知るといつも圧倒されていましたが、周作が読書に目覚めたのは18歳からでした。また二つのエッセイを読んで、宝塚図書館への思い入れがそんなに強かったのかと今更ながら感心いたしました。大阪へ仕事できた時は、わざわざ宝塚ホテルに泊まったそうです。



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遠藤周作も通ったロンファン?

宝塚ガーデンフィールズにある龍坊(ロンファン)宝塚については、ショコママさんの美しい写真と、誰もが行ってみたくなる文章で二度にわたって紹介されています。
 
http://nishinomiya-style.com/blog/page.asp?idx=10001323&post_idx_sel=10045832
この建物、ロンファンとなる前は、ショコママさんが紹介されているように宝塚歌劇記念館として使用されていました。記事のコメント欄を読ませていただくと「この建物は戦前図書館だった建物のようです。」とのこと。私も調べますと、次のような説明がありました。
「この歴史と風情ある建物は、宝塚文芸図書館として建てられました。宝塚歌劇をはじめ、演劇関連の資料を多くそろえていた同館の所蔵品は、1949年に新しく開館した池田文庫に移管され閉館となります。1950年〜1960年までは、タカラジェンヌを輩出する宝塚音楽学校の校舎として使われていました。その後、1996年までの長きにわたり宝塚歌劇記念館として使用され、宝塚ガーデンフィールズのオープンにより、龍坊宝塚となり、現在に至っています。」

 さて小林一三が設立した、セセッション様式の宝塚文芸図書館ですが、遠藤周作が私の履歴書に浪人時代通っていたことを書いており、演劇関係の資料だけではなく、色々な小説も所蔵されていたようです。
遠藤周作の「私の履歴書」からです。
<信じて頂けないだろうが、アホなことばかりやってきた私は一体どうしたらよいのかわからなかった。そのため私は宝塚図書館に通いだした。当時、宝塚にはまだ植物園や動物園が残っており、図書館には演劇の本のほか色々な小説や書物が所蔵され、貸し出しを行っていた。>
<今にして思えばあの図書館は「本に接する」ことを教えてくれた点で私の人生にとって夙川の教会とおなじようになつかしい場所である。>
私がこれを読んだときは、てっきり宝塚図書館とは宝塚市立図書館だと思い、地図を調べたのですが、宝塚駅近くではありません。年譜を調べると、「18歳周作は上智大学予科に籍を置いたまま、旧制高校を目指し仁川で受験勉強を続ける。その間宝塚文芸図書館に通い、洋の東西を問わず名作をむさぼり読んでもいる。」と書かれており、ようやく宝塚文芸図書館であることがわかりました。それが現在はショコママさんお勧めのロンファンと分かった時はもっと驚きました。
遠藤周作の夙川教会については、私もかなり記事を書きましたが、同じように懐かしいと述べており、彼の人生の中で大きな位置を占める宝塚文芸図書館です。
 このゴールデンウィークにはランチに行ってみましょう。
さてこれで記事をいれようとして、紹介されていたリンクに気づき見てみました。
http://d.hatena.ne.jp/foujita/2012020
宝塚について、これほど昔の資料を集め、写真と共に詳しく書かれたブログは初めてです。Twitterまで読ませていただくと、興味の対象が似ているのですが、全然レベルが違います。世の中にはこのような方がおられるのかと、この年になり大変なショックでした。


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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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