阪急沿線文学散歩

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三田アートガーデンに今なお残るブスケ神父の記念像

 夙川パボー二の大石画伯は、晩年三田にアートガーデンの創設に打ちこみました。

 アートガーデンは三田市の公園施設「淡路風車の丘」のすぐ近くにあり、現在は三田ユニヴァーサルヴィレッジとなっているようです。
https://sandauniversalvillage.wordpress.com/about/


 建築家毛綱モン太氏が雑誌「建築」1973年5月号「奇館異感」に、異形の建築として三田アートガーデンを次のように紹介しています。
<大石画伯なる人物、世に迎合することなく、画壇におもねることもなく、古希いくばくか過ぎるに、「アート・ガーデン」なるものを建造せり、画伯建設途上にて冥界の人となりしため口惜しき事態なり。五尺ほどのちいさきめの体格、老いに勝てぬ皺と白髪。質素な作業服姿で、レンガ・ブロック、小割の丹波石持ち運び添喰などぬりながらの社会への苦言、芸術界教育界を叱咤する容、ゴッホこよなく敬愛せし和製炎の人の風情あり。>

 大石輝一は1965年夙川カトリック教会の殉教の神父を偲び「シルベン・ブスケ師の記念像」を製作・建立しました。

現在も残されているブスケ神父像。

ブスケ神父の像の除幕式が盛大に行われた時の写真も残されていました。




 先日、夙川カトリック教会の信徒でもある五島真理為さんから伺った話では、現在もパリミッション会から日本に就く神父さんはアートガーデンを訪ねるよう勧められ、来られているそうです。

しかし、年月と共に少しづつ朽ちており、修復して、夙川カトリック教会に移設していただければと願っております。


8月6日(土)午後2時〜3時「ブスケ神父と大石輝一画伯の友情」と題した五島真理為さんの講演が開催されます。場所;芦屋市民センター203室 参加費無料 定員60名です。
問い合わせ先 芦屋市民センター公民館 TEL 0797-35-0700



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毛綱モン太「奇館異感」に紹介された大石輝一のアート・ガーデン(その2)

「奇館異感」に掲載された毛綱モン太氏による三田アートガーデンの平面図です。


<遠方より望む小高き丘に、腹割りさばいて臓物露出したごとく赤土めくれたり。近ずけば、4尺角のブロック塀の門柱ありて、そこより赤土300尺程の「アート・ガーデン」の導入部なり。>

その正面の門柱から入った突き当りにゴッホの碑があります。

<導入部と直交してアプローチあり、ゴッホの碑、柳宗悦の碑など七個ばかり配した、150尺、巨人国の墓地に参じた感あり。>

 


導入部と直交したアプローチにはブスケ神父像や柳宗悦の碑などが建てられています。

<その突き当たりはアポロ広場にして、アクセス転換の節に相当し、約30畳の広さあり、中央に4尺立方の祭壇のごときもの据え、右手に月面着陸の壁画配し、床は玉砂利、周囲に石貼りのカキ根めぐらしたり。>

 


アメリカ領事まで招いてお披露目した月面着陸の壁画も現在は無残な姿をさらけ出しています。

 

<広場の前方は、次の庭に通ずるゲートあり、石造の2本柱に藁屋根頂いて、向かい側にある同じスケール・格好のゲートと、奇妙な角度にて対岐して、大和民族らしからぬ造形的雰囲気盛り上げたるいとおかし。>


最初の図面でもわかるように小道を隔てた反対側には茶室や住居が建てられていました。


当時は休みの日には学生たちが集い、大石とともにアートガーデンを少しずつ整備したそうです。


毛綱モン太は次のように締めくくります。
<「アート・ガーデン」は「サイモンロディアの塔」や「理想宮」と同じ系列、すなわち実用離れた遊芸の相の下にあり。>と。
 「理想宮」とはフランスの郵便配達夫であるフェルディナン・シュヴァルが33年の歳月をかけて建設した「宮殿」。


 シュヴァル没後、シュールレアリスムの詩人アンドレ・ブルトンが「宮殿」を称賛、詩を作成。 現在、フランス政府により国の重要建造物に指定され、修復も行われているそうです。

 しかし、三田アート・ガーデンの再建の見込みはありません。



フェルディナン・シュヴァル
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seitaroさん、こんばんは。
なぜか家にPAVONIと毛綱モン太に関する本がありましたので、ブログで紹介してみました。 
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000080132/p10991265c.html
LaPavoniは一度訪れてみたかったです。アートガーデンも・・・。

[ もしもし ] 2014/01/24 22:20:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

記事をアップしたばかりのところなので、びっくりしました。
コメントはそちらに伺って。

[ seitaro ] 2014/01/24 22:37:37 [ 削除 ] [ 通報 ]

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毛綱モン太「奇館異感」に紹介された大石輝一のアート・ガーデン(その1)

 建築家毛綱モン太氏は1965年神戸大学卒、神戸で設計活動や執筆活動を開始、その後活動の場を東京に移し、名前を毛綱毅曠(もづな きこう)と改めます。1980年代に入り、近代的な機能主義や合理主義への批判や展開を目指した新しい建築デザインを模索する若手建築家の1人として注目を集め、以来国内外で数多くの建築賞を受賞、1995年からは多摩美術大学の教授をされたそうです。

 
 その毛綱モン太氏が雑誌「建築」1973年5月号から連載を始めた「奇館異感」で異形の建築として最初に紹介したのがパボーニの大石輝一氏晩年の作品、三田アートガーデンでした。
個性のある文章です。
<大石画伯なる人物、世に迎合することなく、画壇におもねることもなく、古希いくばくか過ぎるに、「アート・ガーデン」なるものを建造せり、画伯建設途上にて冥界の人となりしため口惜しき事態なり。


五尺ほどのちいさきめの体格、老いに勝てぬ皺と白髪。質素な作業服姿で、レンガ・ブロック、小割の丹波石持ち運び添喰などぬりながらの社会への苦言、芸術界教育界を叱咤する容、ゴッホこよなく敬愛せし和製炎の人の風情あり。>


 大石氏はアルルの風景に似た三田市中内神に1万坪の敷地を購入し、学生たちの手伝いを得ながら、コツコツと独力でアートガーデンを築き始めたのです。


 現在、近くには三田市の「淡路風の丘」という公園が作られ、ホームページには次のように紹介されていました。
<この施設近くにあるアートガーデンにゴッホ由来の碑があり、この地域に残っている牧歌的な原風景は、日本の美にあこがれ、日本に来ることを夢見て果たすことの出来なかったゴッホが、これが我が愛する日本であれと願った南仏アルルに似ている事から、南仏風の施設や、付近には風車小屋が再現されています。>


下の写真は現在のアートガーデンからの景色ですが、工場や人家が見えるものの広い畑も残っています。


「奇館異感」に戻ります。
<ゴッホ没したアルルの地に似た兵庫県三田市郊外に、青年のための「アート・ガーデン」の設立決心せり。以前自邸の改築に従事した昭和6年より昭和38年以降のライフワークなり。自邸の33年間の年数はシェルブエル・サイモンロディアの期間とも一致して奇妙な符合なり。>
 ここで紹介されているシェルブエルとはフランスの郵便配達人。33年の歳月をかけて自力で巨大な城塞を建設し、今日ではシュヴァルの理想宮 (Palais idéal) として知られています。水木しげる「東西奇ッ怪紳士録」でも「フランスの妖怪城」として紹介されています。
 またサイモンロディアとはロサンゼルスのスラム街、ワッツ地区に33年かけてワッツタワーという30mの異様な建造物を作ったたという奇人ですが、その映像も紹介されていました。
http://atform.exblog.jp/17465459/

 


さて次回はゴッホに心酔し、和製炎の人と呼ばれた大石輝一が生涯をかけて築いた三田アートガーデンを毛綱モン太氏とともに歩いてみましょう。


 



炎の人
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朽ち果てた月面壁画



 大石輝一が永遠に残そうとした月面のフレスコ画は、今や漆喰が崩れ落ち無残な姿をさらしていました。上が現在の姿、下が完成当時の写真です。壁画として残っているのは月面のクレーターと足跡だけです。



その横にThe Men of Apollo 11の名前が刻まれた碑がありました。



大石はアメリカ領事を通じて、アポロ11号のクルーに壁画の写真と絵皿を送りました。



上の写真は左から、 ニール・アームストロング(Neil A. Armstrong) マイケル・コリンズ(Michael Collins)、 エドウィン・オルドリン(Edwin E. Aldrin Jr.)の3飛行士です。
Aldrin Jr.からの御礼の手紙と、大石の返事の手紙の日本語訳をご紹介します。
親愛なる大石氏へ
アポロ11号の使命を表現した貴方の彫刻の写真を宇宙飛行士アームストロング、コリンズ、そして私にお送り下さったことに対して、深く感謝の意を表します。
このような立派な作品は、人類の最初の月訪問という出来事にふさわしく、また永遠に残る記念碑だと思います。さらにあの三枚の美しいお皿にも御礼を申し上げます。
私たちに対する貴方の大変なお心遣いに、深く感謝いたします。
感謝と敬意をこめて                Aldrin Jr.


 


親愛なるオルドリン様
 月面壁画写真および菓子皿をお納めいただいた貴方の理解あるお手紙に心から感謝いたします。
 人類最初の月面着陸を記念しての壁画は貴方のお手紙の如く永遠に残る記念碑として平和に役立つ記念碑であることを祈っております。
平和を訴えるシェパード船長の心情も嬉しく思います、
アポロ14号の成功もアポロ計画の意義を一層強くしたことと祝福申し上げます。
月面壁画制作にあたり、貴方がたが地球に持ち帰った石の一つを参考にいたしました。その他は画家である私の想像であります。
月で貴方が経験された風景に壁画の感じが正しく似ていれば、偶然の幸いであります。
尤も美術としての表現を計算して製作いたしましたが。
アームストロング、コリンズ様、貴方の奥様へも私の敬意をお伝えください。
貴方の健康と敬意を込めて                      大石輝一



米ソ冷戦の最中に「ソ連に負けるな」と宇宙開発に乗り出したものの、その後の冷戦緩和で米ソが宇宙協定を結び、アポロ計画もその役目を終えました。大石は月面に人類が初めて降り立ったのを目にして、けがれない心で平和の象徴ととらえました。あまりにも純粋であったがために、彼の活動は世間一般に広く理解されることがなく、発展できなかったのかも知れません。
月面壁画は大石’76歳の最後の作品でした。



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アポロ11号の記念碑

 人類の月面着陸の成功と「地球こそ楽園だ」という言葉に感激した大石輝一は三田アートガーデンにアポロ11号3飛行士記念碑及び月面野外壁画「月に立つ影」を完成させました。

 その後のアポロ計画の中止や宇宙開発の状況を考えれば、当時生まれていなかった方々には信じられないかもしれませんが、この瞬間世界中が沸き立ったのです。

 ロマン・ロランを信奉し記念碑まで建て、世界平和への関心が人一倍強かった大石です。

 月面着陸についても宇宙平和の幕開けと信じ「機械と科学の芸術であり、人類史上のピラミッドであります。」と賞賛しています。
 アームストロング船長が月面に降り立ったのは1969年日本時間7月21日(月) 午前11時56分、高校は夏休みに入っていましたから私もテレビに釘付けとなり、西山千さんの同時通訳を聞きながら興奮していました。そして有名な次の言葉が聞こえてきたのです。
「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である (That's one small step for man, one giant leap for mankind.)」

読売新聞の夕刊の見出しは「人間、初めて月を踏む」でした。
記念碑は翌年完成し、その除幕式は米国総領事ロドニー・E・アームストロング氏、金井元彦兵庫県知事、辰馬龍雄西宮市長、朝倉斯道朝日新聞社客員らを来賓として迎え、いつものように雨が降る中、盛大に開催されました。除幕委員には小磯良平氏、竹中郁氏らも名前を連ねています。

 しかし私がアートガーデンを訪れた時は、残念ながらこのフレスコ画は朽ち果てており、大石の邪心のない作品なのですが、アートガーデンの辿った運命を象徴するかのようでした。朽ち果てた壁画の前にしばらく佇んでいると、美しいものを世に広めようと情熱を注いだ大石ですが、次の世代にアートガーデンを引き継ぐことができなかった理由もわかるような気がしてきました。


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ブスケ神父像

 久しぶりに三田アートガーデンに戻ります。
 大石輝一は1965年夙川カトリック教会の殉教の神父を偲び「シルベン・ブスケ師の記念像」を製作・建立しました。現在残されているブスケ神父像と、製作当時の大石の写真です。




 ブスケ神父は夙川カトリック教会の創立者でした。大石は像の建立の4年前の1961年にブスケ神父の肖像画を完成させ、クリスマスの日に夙川教会に捧げたことを今年2月24日17:30にブログでご紹介いたしました。そのまったく同じ日の16:00の神戸新聞ニュース社会面に「聖堂建設時のフィルム発見 西宮・カトリック夙川教会」という記事とブスケ神父の写真が掲載されたという偶然は、心霊的な話は信じない私ですが、あまりにも衝撃的でした。



http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004837868.shtml
http://nishinomiya-style.com/blog/page.asp?idx=10001713&post_idx_sel=10044430
ブスケ神父の像の除幕式が盛大に行われた時の写真も残っていました。除幕式には必ず神主さんを呼んでいた大石ですが、さすがこの時は夙川教会の神父さんにお願いしたようです。



ちなみに遠藤周作が教会でしばしばいたずらをして叱られたと述べている神父は第3代主任司祭メルシェ神父のことで、彼も戦争中無実の罪で憲兵に連れて行かれました。



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立杭に遊ぶ

 アートガーデンには日本家屋や茶室もありました。ここで蒐集した民芸品を飾っていたのでしょうか。


パボー二会では何度も丹波焼きの窯元を訪れており、陶芸の美を求めて市野窯に寄宿していたアメリカ人ジャネット・ダーネル嬢の’Impression of life in rural Japan’という寄稿もありました。

 朝倉斯道氏が大石らとともに丹波焼きの窯元を訪れたときのことを書かれていました。
<同好の士十数名打ち揃って丹波焼きの本場である立杭へ半日の清遊を試みた。………地理に詳しい富田砕花さんが何くれとなく説明される。狭い道へ折れ込んでいよいよ本場の上立杭に入り、窯元の市野家の前で下車、ドヤドヤと同家に入り込む。………
まことに素朴そのものの民芸品だが、それだけに感じも身近なものがあり、窯元だけにお値段も安いので、みんながお土産にとさかんに漁る。大石君なんかローソク徳利を幾つも抱えて悦に入る。
 この座敷から見る風光はまたすて難いものがある。………陽光は一面にふり注ぎ清浄閑寂の境地である。「安物ばかりを漁らずに少しは風光も愛でたらどうだ」と砕花さんが嘆息する。天恩に恵まれたる芸術境、何としてもいい気持ちである。>
昭和29年のことでした。

 丹波焼きに囲まれ風光を愛でる砕花氏の写真がありました。皆さんに苦言を呈した後の写真でしょうか。


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民芸の父 柳宗悦の讃碑



 民芸という言葉は、決して古くから使われていた言葉ではなく、思想家の柳宗悦や陶芸家の河合寛次郎、濱田庄司らによって作られた概念、造語です。民芸運動の父と呼ばれる柳宗悦は戦前に日本中を行脚し、生活の中にある「美しいもの」を探す旅に出かけました。



 そして篠山の美術商や所蔵家らから丹波焼の優品を買い求め、「丹波の古陶は、 私の見るところでは、 最も日本らしき品、 渋さの極みを語る品、 貧しさの富を示す品と思われてならぬ」 と 丹波焼をたたえました。さらに彼の「丹波の古陶」という本が出版された事を機に丹波焼に対する認識が高まりました。
 大石の活動の一つに柳宗悦らが 進める民芸運動の一端を担い、伝統文化を探る行動をとることがありました。パボー二会では何度も丹波立杭焼きの窯元を訪れています。
冨田砕花氏、朝倉斯道氏なども加わり、立杭に遊んだ時の様子なども残されており、次回ご紹介いたします。
 そして情熱家の大石は、ついに柳宗悦の讃碑をアートガーデンに建立してしまいます。



現在もアートガーデンの中央付近に、寂しい姿ではありますが、威厳をもって残されていました。



1966年5月またもや雨の中、除幕式を挙行した時の写真を見つけました。



 



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ゴッホの詩

 アートガーデンに「炎の人」と書かれた石板の右上に、ゴッホが書いた詩が刻まれていました。



次のように翻訳された詩です。



死者を死せりと思うなかれ
生者あらん限り
死者は生きん
死者は生きん


 



 ちょっと読んだだけでは理解できません。


このゴッホの詩、大江健三郎が1963年2月号から 『文学界 』に連載.した「日常生活の冒険」という小説の中で、冒頭、中盤、最後に、あたかもテーマのように繰り返し引用されている詩です。


 小説の最初の部分では、主人公斉藤犀吉(伊丹十三がモデルという説もあります)が北アフリカのホテルで自殺した話に続き、ゴッホの詩が出てきます。
<ぼくは、この詩を斉藤犀吉におしえられたのだった。………ゴッホの≪花咲ける木≫という絵については特別だった。アルルの涙ぐましい初春の空のもと、雪の残っている畑の一本のハタンキョウの木に花が咲きにおっている。この絵にはモーブの思い出という言葉が書きつけてあるのだが、そのモーヴ、従姉の夫の死にあたって画家は短い詩を書いた手紙と一緒にこの絵をその未亡人に送ったのだ。………ヨーロッパへ発つまえに、彼はアルルにも行ってみるつもりだといっていたが、彼は花咲いたハタンキョウの木をみただろうか?死者を死せりと思うことが、不可能な場合がある、そのような時、生者のあらん限り、死者は生きん、死者は生きん…>




詩の意味は
『死者を死んだものと思わぬことだ
 生きている者がいる限り
 死者はその心の中で生きつづける
(君は死んでなんかいない ぼくが生きている限り 君は、ぼくの中で生きつづけるのだから)』
ということのようです。
この詩、大石はどこでどのように知ったのか不思議でした。東大仏文科卒の大江健三郎が自分の言葉で翻訳したとのことであり、「日常生活の冒険」が発表された時、引用されたゴッホの詩を見つけたのだと思われます。あるいは当時そばにいたYさんがお教えしたのかも知れません。



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武者小路実篤とゴッホ 

 ゴッホが日本において知られるようになったのは、1911年に武者小路実篤が文芸誌『白樺』に紹介したのが最初と言われています。『白樺』の同人たちは、ファン・ゴッホやセザンヌの実物を日本で見たいという思いから寄付を募ります。
実篤はファン・ゴッホの《ひまわり 5本》(1945年芦屋で空襲により焼失)を、芦屋に住んでいた実業家山本顧弥太氏に購入してもらい1921 年3月「白樺美術館第一回展覧会」で、日本で初めてファン・ゴッホの作品を紹介しました。



次の詩は1911年白樺に掲載されたものです。


 


バン、ゴッホ           武者小路實篤


 


バン、ゴッホよ
燃えるが如き意力もつ汝よ
汝を想ふ毎に
我に力わく
高きにのぼらんとする力わく、
ゆきつくす處までゆく力わく、
あゝ、
ゆきつくす處までゆく力わく。


 


大石は武者小路実篤とも交流があり、昭和41年(1966)年には武者小路実篤より贈られた1911年作の詩を石碑とし「ゴッホを想う詩碑」を建立しました。



アートガーデンに今も残っている石板です。
武者小路実篤といえば、薄田泣菫に谷崎氏のくだらぬ小説は云々としたためた人。



 


ゴッホに心酔した大石から調べだすと、佐藤春夫、武者小路実篤、谷崎潤一郎と同時代を生きた作家達が、いろいろ繋がり面白い関係です。
 



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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