阪急沿線文学散歩 |
昨年の夏、関西学院大学博物館で開催された「愛新覚羅家の人びと」展に行って、図録を購入したとき、「日中友好の朝顔」の種をいただいておりました。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11201270c.html
この朝顔は愛新覚羅溥傑・浩夫妻が北京のご自宅にて大切に育てたもので、溥傑夫妻の次女の福永嫮生(こせい)さんが引き続いて育てられ、今や日本各地に広がっています。
私が種を植えたのが7月の初めになってしまい、当然開花も遅く、我が家のベランダで今朝ようやく一輪咲きました。
最近の日中関係は悪化の一途をたどり、偏見を忌避し博愛主義と自負する私でさえ、擁護する気持ちが失せていました。
この花を見ながら、いつになったら日中間の懸案が解決し、溥傑・浩夫妻のように心が通えるのかと、思案しておりました。
でも花の力は偉大です。
ご夫妻の書画集の表紙の絵も「日中友好の朝顔」でした。
昨日、NHK歴史秘話ヒストリアで「満州のプリンセス 愛の往復書簡〜夫婦の心をつないだ55通〜」と題して愛新覚羅溥傑、浩夫妻の苦難と愛情の物語が放映されました。
発見された55通の書簡から紐解き、それまでの苦難の連続の流転の物語が紹介されました。
戦後、慧生さんの遺骨を胸に抱いた中国での再会シーンは胸に迫ります。
皆様ご存知のように、番組にも出演されていた二女の嫮生さんは現在西宮市在住。今回NHKで紹介された愛の往復書簡も、元々嫮生さんが保管されていたものです。
愛新覚羅家に関する手紙や写真、書画などの貴重な資料は2013年10月に関西学院大学博物館に寄贈され、今年の夏には、「愛新覚羅家の人びと」展が大学博物館で開催されました。
「愛新覚羅家の人びと」展の図録に、館長の河上繁樹氏が「愛新覚羅溥傑家関係資料の受贈について」と題して、受贈に至った経緯が紹介されています。
きっかけは、本岡典子さんが『流転の子 - 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』の執筆にあたり、嫮生さんの取材にあたる中で、自宅にある大量の歴史的な資料をどのようにして後世に伝えるべきか相談されたことからでした。本岡氏は河内厚郎氏に相談を持ちかけます。
(写真は関西学院大学講堂での本岡典子氏と福永嫮生氏の対談)
<本岡氏の著書を一読した河内氏は、愛新覚羅家の資料の重要性を認識すると同時にその散逸を防ぐべく、関西学院大学へ話を持ってこられた。というのも、本岡氏は関西学院大学の卒業生であり、また嫮生さんが西宮市に在住ということもあり、関西学院が大学博物館を開設しようとしているタイミングもあった。まさに運命に導かれたかのように資料寄贈の話が進んでいった。>
寄贈された資料は歴史的な価値をもつものばかりで、図録も大変充実していました。
< 河内氏からの一報を受け、2012年6月に博物館開設準備室では日本の近代史を専門とする本学文学部の高岡裕之教授とともに嫮生さん宅を訪問し、資料の内容を確認した。資料は溥傑が中国で収監されていた時に妻と交わした往復書簡や、夫妻が再開後に北京に永住することになり、日本に戻った嫮生さんと交わした書簡、清朝時代・「満州国」時代・戦後の家族写真など一家が歩んだ記録が中心をなし、他に書家として知られた溥傑の書なども含まれていた。それらの資料からは、時代の波に翻弄されながらも、日中友好を願った一家の様子がうかがえる。>
溥傑氏がよく口にした言葉、「相依為命(あいよっていのちをなす)」とは「時代が変わっても、相手を思いやる気持ちがあれば生きていける」という意味が込められているそうです。国と国の間も同じではないでしょうか。
関西学院大学博物館で「愛新覚羅家の人びと」展が7月18日まで開催されています。
福永嫮生さんから寄贈された約1000点の歴史的資料のうち今回は60点が展示されています。
貴重な写真が満載の図録も500円で販売されておりました。
嬉しいことに、購入すると愛新覚羅浩さんが日本から持っていかれて中国で育てられた朝顔の「日中友好朝顔のたね」も戴くことができました。
記念講演会「愛新覚羅家の人びと」は、1200人収容の中央講堂で開催され、2階席にはまだ空席が残っていましたが、1階席はほぼ満席の盛況ぶり。マスコミ各社のカメラも回っていました。
最初、博物館館長の河上繁樹氏より、愛新覚羅家の貴重な資料が、博物館に寄贈された経緯の紹介がありました。
『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』を著された本岡典子さんが福永嫮生さんより、永く資料を残すため何処かに寄贈されたいという意向を伺い、河内厚郎氏に相談し、関西学院大学博物館への寄贈が決まったとのことでした。
講演は貴重な写真、フィルムを映しながら、福永嫮生さんと、本岡典子さんとの対談の形で進められました。
本岡典子さんはニュースキャスターを務められたこともあり、さすがプロの語り口、しかしながら感極まって時々言葉を詰まらせる場面もありました。
また福永嫮生さんの上品で穏やかな話しぶりには、そのお人柄が顕れていました。
嫮生さんが保管されていたフィルムに、愛新覚羅 溥儀が満州国皇帝となった翌年来日し、東京駅で出迎える昭和天皇と握手されるシーンが映されており、偶然発見された貴重なフィルムとのことでした。(博物館でも常時上映されています)
対談は本当に感動的なお話ばかりで、あっというまの2時間でした。
10月の初旬には、NHK歴史秘話ヒスとリアでも愛新覚羅 溥儀、浩ご夫妻の物語が取り上げられ、「満州のプリンセス愛の往復書簡 〜夫婦の心をつないだ55通〜 」と題して放映されるそうです。
先日、関西学院大学博物館を訪問し、2015年5月18日 (月)から開催される企画展
「愛新覚羅家の人びと—相依為命(あいよっていのちをなす)—」のパンフレットを頂いて参りました。
愈々、西宮市在住で愛新覚羅溥傑家次女の福永嫮生さんが、関西学院大学に寄贈された手紙や写真、書画などの貴重な資料が、「時代の波に翻弄されながらも、日中友好に尽力した一家の物語」として展示されるそうです。
いつかこの企画展が開催されることは、2013年10月に関学で開催された西宮文学案内秋季講座で本岡典子さんを紹介する際に、河内厚郎氏が披露されていましたので、楽しみにしていました。
また会期中に開催記念講演会が2回開催されるそうです。(事前申込要)
詳細はホームぺージをご参照ください。
http://museum.kwansei.ac.jp/exhibition/exhibition01/
@朗読講演 「流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生 −語り継ぐ歴史」
講師:本岡 典子 氏 (ノンフィクション作家)
2015年5月30日(土)13:30-15:00
この内容は、2013年10月の本岡典子氏の西宮文学案内秋季講座と同じ演題であり、ほぼ同じ内容だと推測されますが、参加されなかった方には聴講をお勧めします。
本岡典子氏は『流転の子』を著しており、その取材における感動的なお話、本文の涙ながらの朗読など素晴らしい講演でした。
(写真は2013年西宮文学案内秋季講座の関西学院での講演)
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10951187c.html
A講演会 「愛新覚羅家の人びと」
語り手:福永 嫮生 氏 聞き手:本岡 典子 氏
2015年6月20日(土)13:30-15:00
こちらの講演会は早速インターネットで申し込みました。
亡くなった姉の慧生さんのお話も伺えるかもしれません。
会場 西宮上ケ原キャンパス 社会学部101号教室
定員 各回300名(定員を超えた場合、抽選で受講者を決定、当落に関わらずご通知をお送りします。)無料
とのこと、当落結果の通知を楽しみにしております。
因みに福永嫮生さんは『流転の王妃愛の書簡』を著され、
本岡典子さんは『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』を著されています。
5月9日 (土)まで関西学院大学博物館の特集陳列「時計台を描く」にパボーニの大石輝一氏の時計台の絵が展示されていると聞いて、慌てて行って参りました。
久し振りの関西学院ですが、気候も良く、芝生広場まで来るとカリフォルニアに来たような気分になります。
平常展は「Gift for the Future 関西学院のあゆみ –学院創立にかけた情熱−」
そして特集陳列「時計台を描く」が展示室3で開催されていました。
上ケ原キャンパスのシンボルであり、現在は大学博物館の建物として使用されている時計台の絵を学院ゆかりの美術家たちが描いています。
大石輝一の1929年の時計台。「大胆な筆遣いで描かれた時計台。学院が上ヶ原に移転した年の作である。……」と解説されています。
吉原治良のスケッチも展示されていました。
川西英の子息である川西祐三郎の作品です。
多くの画家が甲山を背景にしたヴォーリズ設計の時計台に魅せられたことがよくわかります。
竣工した1929年の時計台の写真がありました。驚いたことに、時計に針がなく、1933年になって学生会の寄贈により、ようやく針が取り付けられたそうです。
2月19日のNC9で大越キャスターが『知日』という題名の本の紹介をしていました。
この雑誌の創刊に関わり、現在も主筆として寄稿しているのが、西宮市在住、神戸国際大学の毛丹青教授。
毛教授は、恵恵・岡崎健太・付楠・著『恵恵 日中の海を越えた愛』の主人公で関西学院大学に留学していた恵恵さんの伯父にあたる方です。
この作品も以前、大越キャスターによりNC9で紹介されていました。
その時のつながりからでしょうか、再び大越キャスターが中国に飛び、『知日』を取材していました。NC9の内容は動画で見ることができます。
http://cgi2.nhk.or.jp/nw9/pickup/
<「中国で人気 月刊誌『知日』なぜ知りたい?“日本”」として中国で毎月1回の割合で刊行されている、実はいま、この本が中国でじわりと売れています。中国といえば、反日感情が強いのだろうなあと想像したり、いや、親日の人もいるはずだと考えてみたりもするのですが、本の題名は、「反日」でも「親日」でもなく「知日」。「日本を知る」というこの本が売れる理由を、北京で取材してきました。>
日本語のできない若い編集者らが「猫」「鉄道」「制服」「禅」「明治維新」「妖怪」などのテーマを自らの感性で取り上げ、特集した『知日』は月一冊ペースで出版され、十万単位の読者が購入しているそうです。
現代日本のライフスタイルに強い関心を持つ中国の若者像が紹介されていました。
毛丹青・ 蘇静・ 馬仕睿著『知日 なぜ中国人は、日本が好きなのか! 』も出版されているそうなので、これから読んでみます。
楽しみにしていた関西大学博物館が、ようやくオープンし、早速伺いました。
9月28日 (日)〜11月22日 (土)は平常展『未来への125年 −関西学院のあゆみ−』を見学できます。
http://museum.kwansei.ac.jp/guidance/
大学博物館はこの時計台の二階にあります。大学紛争で占拠されていたときは、Master for Serviceのエンブレムの上にゲバラの肖像が掲げられていた写真を思い出します。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10762572c.html
時計台塔の最上部は、よく見るとモザイクタイルの小ドームがあり、頂きには新月を冠したクロスがあります。
初めてこの中に入りました。1階ロビーには可愛い模様のタイルが敷き詰められており、さすがヴォーリズ設計の落ち着いた雰囲気です。
正面の階段を上ると壁に堀口泰彦氏による上ヶ原移転当時の学院風景の油絵が掲げられています。手前に描かれているのは外国人教員用住宅でしょう。
2階展示室(旧図書館閲覧室)に入ると、上ケ原移転直前の原田の森キャンパスのジオラマと、移転直後の上ケ原キャンパスのジオラマが並べられています。
原田の森キャンパスのジオラマを見ると、中央に鳥居のあるメインストリーが目を引きます。ミッションスクールに神社の存在。神戸女学院にある広田神社の摂社を思い出しました。
足立巻一著 「評伝竹中郁 その青春と詩の出発」に原田神社について述べられていました。
<いま、関西学院は西宮市上ヶ原一番町の広大な校地に新制中学から大学院までをつらねる学園となっているが、竹中が在学していたころは、神戸東端の山手、上筒井通りにあり、「原田の森」といわれていた。敷地のすぐ南に原田神社があり、一帯に森が深く茂っていたからである。>
原田の森とは鎮守の森だったのです。ジオラマでは神社を取り囲むように関西学院があるように見えます。
小金丸勝次氏のイラスト「原田乃森 関学時代…思ひ出の地図」も展示されていました。
この絵に描かれたお店について、『評伝竹中郁』では次のように説明されています。
< その駅のあたりから、もう学院の正門が見通せ、道の両側には学生相手の店屋が並んでいる。‘アカデミー’というバー、‘満月’というしるこ屋、‘助六豆’が売り物の菓子屋、‘東京庵’‘ハイカラ堂’という食べ物屋が山側(北側)につづき、浜側(南側)には学生靴を一手に売る店や‘立花’という学帽屋、‘山根’‘大高’という学生服専門店などがならんでいる。>
ジオラマでは参道が関学のメインストリーに見えますが、正門への道は西側からのようです。
移転直後の上ヶ原キャンパスのジオラマです。
1970年代―1980年代の周辺の食事処が描かれたイラストも展示されています。
原田の森から上ヶ原に移設され現存する唯一の建物がハミル館です。
上は原田の森のジオラマのハミル館。
下が心理学教室の三宅教授らが日本のパブロフたらんと日夜研究に励んだ上ヶ原のハミル館です。
三宅進著『ハミル館のパブロフたち』ではハミル館は次のように説明されています。
<ハミル館と命名されたこの建物は、1918年神戸原田の森、関西学院敷地内に………
設計は1905年に宣教師として来日し、数多くの名建築を手がけたアメリカ人ヴォーリズである。………木造八角形の二階建ての洋風建築は、当時の人たちの目を引き、モダンで斬新なものとして映っていたことだろう。そしてそれらの建物は日曜学校、神学部の教室などに当てられたいた。1923年に、この館の二階に関西学院初代心理学科教授今田恵が図書費300円、実験装置購入費400円で心理学実験室(3室)を開いた。>
この本、最後の望みをかけて関西学院大学図書館で蔵書を調べてもらいましたが、残念ながらありませんでした。
関西学院大学博物館はまだ開設されたばかりですが、多くの文化人・画家・経済人を輩出している歴史ある大学です。これからの企画展・講演会などで関西の文化の情報発信基地として益々充実されていくことを期待しております
(特に今回引用した竹中郁氏、三宅進教授、かんべむさし氏の企画展など期待しております。また博物館内の写真撮影が許されていたことはブロガーとして大変助かりました。ありがとうございました。)
西宮文化振興財団主催の西宮文学案内秋季講座第一回が関西学院大学で開催されました。
タイトルは「愛は裏切らない 心を揺さぶる実話はここ関学から始まった」
講師は作家で神戸国際大学教授の毛丹青氏です。
6月に出版された恵恵、岡崎健太、付楠・著『恵恵 日中の海を越えた愛』をめぐり、恵恵さんの伯父にあたる毛氏が出版にいたる経緯、日中の壁を越える家族、愛について熱く語られました。
この本の内容については毛氏と親交のある西宮芦屋研究所員さんから伺っており、出版と同時に購入し、読ませていただきました。しかし、関西学院が舞台とはいえ、あまりにも切なく悲しい実話であり、しばらくブログにするのは躊躇しておりました。
今回の講演で、毛氏は日本と中国の関係について「このままでいいのか?今の時代に一石を投じたい」と語られ、西宮発の全世界に知ってもらいたい実話として発信されていることに強く共感しました。
『恵恵 日中の海を越えた愛』は民族、人種、国境を超えた愛の物語です。
北京で激しい反日暴動が起きた2004年夏。その4カ月後のクリスマスに、美しい関西学院大学のキャンパスで、ある高校教師の日本人青年と中国からの女子留学生が偶然出会い、恋に落ちることから物語は始まります。
講演では、中国人留学生恵恵が毛氏の姪にあたることや、昔の写真、日本に留学するに至った経緯などが紹介されました。
(上の写真の右端が毛氏、左から二番目の小さな可愛い子が恵恵さん)
病魔と闘いながらも恵恵さんの明るく懸命に生き抜く姿は多くの感動を呼び、6月26日放送のNHKの「ニュースウオッチ9」でも中国取材を交えて大きく報道され、その時の映像も紹介されました。
大越健介キャスターが、現在北京にいる健太さんと、健太さんが共に暮らす中国人の両親を自ら訪ねてインタビューしています。
大越キャスターは「2人をここまで強く結び付けたもの、それは男女の情愛に加えて、互いへの『敬意』ではなかったか」「今という時代だからこそ、なおのこと胸を打つ」と結ばれていました。
また香港の世界的プロデューサーで、映画「グリーン・デスティニー」、「HERO」などのプロデューサーとして知られるビル・コン氏が昨年、映画化権を買い取ったそうです。
毛氏もその脚本チームの一人であり、関西学院のロケも計画されているそうです。二人はランバス記念礼拝堂で結婚式を挙げており、そのシーンもあることでしょう。
(写真は昨年の西宮文学案内、岡本典子さんの講演『流転の子最後の皇女・愛新覚羅嫮生』で関西学院を訪れた際に、偶然挙式されていたものです)
この映画が公開されれば、関西学院が愛の聖地として世界に発信されると豪語する毛氏。公開が楽しみです。
「人間同士とは何か。国家とは何か。このままでいいのか?今の時代に一石を投じたい」と力強く熱弁された毛丹青教授の素晴らしい講演でした。
門の中はどうなっているのか、次のように述べられていました。
<重い扉を開けて木漏れ日のなかを進むと、駅から数分歩いただけなのに、秘密の花園に迷い込んだような気分。時折聞こえる木々の葉が風に揺れる音と小鳥の鳴き声に導かれた先には、水色の窓枠の洋館が建っていました。>
早川茉莉さんも大分カルメル会修道院の紹介の部分で、須賀敦子さんの「しげちゃんの昇天」について触れられていますが、私もこの塀と高い木立に囲まれたカルメル会修道院の塔を見上げながら、須賀さんの作品を思い出していました。
「しげちゃんの昇天」から、聖心女子大寄宿舎での会話です。
<そのとき、しげちゃんが低い声で言った。私は来年卒業したら、たぶんカルメル会の修道院にはいる。えっ?と私は問い返した。その修道会の戒律が厳しくて、一度入会したら、もう自由に会うこともできなくなるのを知っていたからである。一日中、沈黙の戒律を守り、食事の時も黙って聖書の朗読を聴きながら食べるという話は、中世みたいで恐ろしくさえあった。>
その三十五年後、須賀さんはしげちゃんに会いに調布のカルメル会修道院を訪ねます。
<しげちゃんに最後に会ったのは、一九五一年に私が女子大を卒業して三十五年もたってからで、場所は調布のカルメル会修道院の面会室だった。修道女たちと客を隔てる広い格子窓の向こう側にいる彼女の、白い布にきっちりとふちどられた頬は、熱のせいなのか、まぶしいほど桃色に輝いていた。函館の修道院にた彼女が数年前から膠原病をわずらっているとは聞いていたが、夫の死後長年暮らしたイタリアを離れて、日本での生活のたてなおしに夢中だった私には、経済的にも、精神的にも、北海道までお見舞いに行く余裕はなかった。しげちゃんが東京の病院で治療をうけるために調布の修道院に来ている、そう聞いて私はさっそく出かけて行ったのだった。>
調布のカルメル会修道院も高い塀で囲われていました。
ひと月ほど調布の修道院にいて、しげちゃんは元気になって北海道に帰ったのですが、その年の暮れ、あさ子姉さんから電話があります。
<しいべが今朝はやく死んだの、これから私たち北海道へ行く、あさ子姉さんの声が、小さい頃からの彼女の愛称をいって、そう伝えた。>
しげちゃんがいた函館のカルメル会修道院はどこのことなのかまだよくわかりません。
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