阪急沿線文学散歩

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有島武郎が描いた札幌農学校と時計台

 札幌は何度も訪れているのですが、今回初めて日本3大がっかり名所の一つと言われている札幌時計台を訪ねました。

 きっかけは有島武郎が晩年取り組んだ未完の大作『星座』が明治時代の札幌農学校を舞台にした作品で、時計台の様子も描かれていたからでした。

 がっかりの理由は、現在の時計台が、あたかもバージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』の1シーンのように、高いビルに囲まれた場所にあり、広々とした「北海道的風景」をイメージしていた観光客は、その小ささにがっかりするとのことですが、行ってみると、夜景は美しく、中に入ると展示も充実したものでした。


 有島武郎は明治 29年(18歳)、札幌農学校予科に編入学し、母方の伯父である札幌の新渡戸稲造教授宅に寄宿しています。明治 34年(23歳)農学校卒業のとき、日記に「我が真生命の生まれし故郷は札幌なりき」と、農学校の5年間が生き方に決定的な影響を与えたことを記しており、その経験が『星座』を著わすきっかけになったようです。

『星座』は、札幌農学校を舞台に繰り広げられる青春の物語で、著者自身の同校での体験をもとに描かれた作品と言われています。
 園は、時計台の梯子を登って機械室まで行きます。
<段と段との隔たりが大きくておまけに狭く、手欄もない階子段を、手さぐりの指先に細かい塵を感じながら、折れ曲り折り曲りして昇るのだ。長い四角形の筒のような壁には窓一つなかった。その暗闇の中を園は昇っていった。何んの気だか自分にもよくは解らなかった。左手には小さなシラーの詩集を持って。頂上には、おもに堅い木で作った大きな歯車はぐるまや槓杆(てこ)の簡単な機械が、どろどろに埃と油とで黒くなって、秒を刻みながら動いていた。>

時計台の構造を示す展示がありました。

園はこの梯子段を登ったのです。

<四角な箱のような機械室の四つ角にかけわたした梁の上にやっと腰をかけて、おずおず手を延ばして小窓を開いた。その小窓は外から見上げると指針盤の針座のすぐ右手に取りつけられてあるのを園は見ておいたのだ。窓はやすやすと開いた。それは西向きのだった。そこからの眺めは思いのほか高い所にあるのを思わせた。じき下には、地方裁判所の樺色の瓦屋根があって、その先には道庁の赤煉瓦、その赤煉瓦を囲んで若芽をふいたばかりのポプラが土筆草(つくし)のように叢(むら)がって細長く立っていた。>

現在は二階で、実物大の時計が展示されています。

建設当時の札幌農学校、時計台の模型と写真がありました。


現在の時計台は、オリジナルの位置から1ブロックほど移動しています。

上側を北にした現在の航空写真。黄色の四角で囲んだ部分が、札幌農学校の敷地、中心の黄色の丸く囲んだ所が、元の時計台の位置です。

明治22年の地図にも札幌農学校、地方裁判所、同庁の位置が書かれていました。

 従って園が機械室の西側の窓を開けると道庁の赤煉瓦が見えたのも頷けます。

 時計台の鐘の音の美しさは次のように著されています。
<札幌に来てから園の心を牽きつけるものとてはそうたくさんはなかった。ただこの鐘の音には心から牽きつけられた。寺に生れて寺に育ったせいなのか、梵鐘の音を園は好んで聞いた。上野と浅草と芝との鐘の中で、増上寺の鐘を一番心に沁みる音だと思ったり、自分の寺の鐘を撞きながら、鳴り始めてから鳴り終るまでの微細な音の変化にも耳を傾け慣なれていた。鐘に慣れたその耳にも、演武場の鐘の音は美しいものだった。>

訪ねた時、丁度正午の鐘を聴きことができました。

<時計台のちょうど下にあたる処にしつらえられた玄関を出た。そこの石畳は一つ一つが踏みへらされて古い砥石のように彎曲していた。時計のすぐ下には東北御巡遊の節、岩倉具視が書いたという木の額が古ぼけたままかかっているのだ。「演武場」と書いてある。>

岩倉具視が書いた「演舞場」の文字は夜のライトアップの方が良く見えました。


 『星座』はもともと大正10年に発表された「白官舎」という作品を書き足したもので、構想としては四部作、あるいは五部作にまで及ぶ大長編小説になる予定だったそうです。残念ながら完成する前に、当時中央公論者の記者だった波多野秋子と心中してしまい、第一部で終わっていますが、それでも十分楽しめる小説でした。





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日本最北端の旭山動物園へ

 今回は文学散歩ではありませんが、いつか行ってみたいと思っていた旭川市の旭山動物園を訪ねました。

 旭川市の人口はわずか36万人で、札幌からバスで2時間40分という距離ですから、不利な立地条件で、2004年7月と8月の入園者数が、東京の上野動物園を抜き、私が訪ねた現在も多くの入園者を集めており、驚くべき集客力です。
 一時は閉園の危機に陥った旭山動物園が日本一の動物園になった道筋は、TVでも紹介されましたし、旭山動物園園長小菅正夫著『旭山動物園革命 −夢を実現した復活プロジェクト』に詳しく述べられています。
<「人生で動物園に三回行く」一般的に、動物園に行く機会は、人生のうちで三回あると言われる。一回目は、自分が子供のとき親に連れられて、二回目は自分がおやになったとき子供を連れて。そして三回目は自分がおじいちゃん、おばあちゃんになったときに孫と一緒に。>
 しかし今回は孫を連れて行ったわけではありません。少子化の時代、大人も動物園に呼ぶ秘訣は?
<私たちは考えた。動物たちの素晴らしさがお客さんに伝わる動物園とは、どんな施設だろうか。何度も足を運びたくなる動物園にするにはどうしたらいいのか。子どもだけではなく、大人になっても行きたいと思うような動物園とはどんなところだろうか、と。>
 その答えは「見せ方の工夫」であり、決して曲芸をさせるわけでなく、動物にとってもっとも特徴的な能力を発揮できる環境を整えることである、としています。

 動物園は旭日山の斜面にあり、立地条件はいいものではありませんが、とにかく中に入ってみましょう。

<ペンギンはただ歩かせると人間より遅いし、ヨチヨチ歩きで、どことなく頼りない。しかしいざ水中に入ると、驚くほどのスピードで、まるで空を飛んでいるように泳ぐ。ペンギンは空を飛べない鳥の代表だが、水中トンネルではやはり鳥類なんだなと改めて納得する。>


頭の上を、空を飛ぶように泳いでいくペンギンの姿は壮観でした。

<アザラシは泳ぎが上手い。あざらし館の透明な円柱トンネル(マリンウェイ)では、その秘密がよくわかる仕組みになっている。これまでの動物園では、アザラシは水槽の上からしか見えることができなかったので、どのように泳いでいるのかがわかりにくかった。しかし円柱トンネルをつくることで、360度、あらゆる角度からアザラシが泳ぐ姿を観察できるようになったのである。>


これも説明通り、円柱トンネルを泳ぐアザラシを間近に見ることができました。

 もっと驚いたのはカバの生態です。カバは一日の多くの時間を水中で過ごしているそうで、泳ぐ姿と水中の機敏さは、まるでアザラシのようでした。


素早い動きで、うまく写真が撮れていませんが、足でガラスを蹴って向こうに泳いでいく後ろ姿です。

オランウータンの姿も楽しく見せていただきました。

<こうしたそれぞれの動物の持つもっとも特徴的な動きなどを見せる展示の仕方を、「行動展示」と名付けた。参考のために記すと、動物の姿形で分類して、おもに檻に入れて展示するという従来からある展示方法を「形態展示」、動物の生息環境を園内に最大限再現して展示する方法を「生態的展示」と呼ぶ。>
 この行動展示を行うことで、動物がイキイキするそうです。そして、イキイキする動物を見ることで、人間小の側も嬉しくなり、元気になることもわかったと述べられています。

 園内の景色も北海道らしく白樺が美しく、ナナカマドの樹も赤い美しい実をつけていました。

 今回は札幌起点ととし、朝9時に出かけ、戻ったのは6時ごろでしたが、イキイキした動物の姿を見せてもらって、元気になって帰ってきました。




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確かにこの動物園は凄いです

 大学生の子供に動物園に久しぶりに行こうと誘ったのですが自分一人で行って来たらと言われました^^:

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/10/09 15:20:52 [ 削除 ] [ 通報 ]

なかなか子どもの希望と親の希望は一致しませんが、見る値打ちはありますよ。

[ seitaro ] 2017/10/09 19:44:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

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渡辺淳一『リラ冷えの街』鴨々川を歩く

 渡辺淳一『リラ冷えの街』で、主人公有津京介の妻の妹苑子は中島公園に続く西の一角にある貸家式アパートに住んでいます。

中島公園の西側の鴨々川沿いには渡辺淳一文学館があり、その近くに苑子のアパートを設定したようです。

写真は早朝の渡辺淳一文学館。今回は時間がなく入場しませんでしたが、建物は安藤忠雄設計です。

<電車通りから一丁半入っただけで、車の騒音は消え、静まり返った夜にはアパートの裏手を流れる川のせせらぎが聞えた。>

 川の流れは結構早く、せせらぎがはっきり聞こえます。
一丁という数え方は今や札幌独特の数え方のように思われますが、札幌市街の1ブロックを指しています。

<川の名は鴨々川といい、豊平川の取水口から公園の西を抜け、都心へ出て札幌を分つ創成川となる。川の両岸には柳が茂り、川の彼岸は公園の樹木となり、此岸は大きな邸宅や古い料亭がゆったりとした間合をもって建っていた。
この道だけはタクシーより人力車が、エレキより三弦が似合った。川にも道にも、家の構えにも、まだいくらか明治の札幌の名残りがあった。>
「鴨々川」の名は、明治期に京都の「鴨川」にちなんで名付けられたそうです。

今やビルが立ち並び、明治の札幌の名残を捜すのは難しくなっています。

 その鴨々川沿いを下流に向かって歩いていると、とんでもない建物に出くわしました。

 玄関には「北の海鮮炙りノアの方舟」と書いてあり、一瞬昔話題になったカルト集団「イエスの方舟」かと思いましたが、関係ないようです。

ホームページを読むと、
<英国人建築家「ナイジェル・コーツ」が手掛けたこの建物は、石化してしまったノアの箱舟をテーマに建てられ、その奇抜なデザインは建築物としても有名です。店内も英国人アーティストによるギリシャ神話をイメージした壁画や洗練された装飾が並び、まるで異国の地にいるよかのような不思議な感覚へと誘います。>
 食べログの評価も3.5点と、高評価。しかし、ここも時間がなくはいれませんでした。

 豊平川から分岐した鴨々川は、最後は直線状に札幌市街を東西に二分する創成川となります。


<この川沿いの道を苑子は好いていた。函館からでて来て、友達に誘われてこの道を歩いた時から好いていた。日ごとにリトル東京に変貌していく札幌の都市の近くで、ここだけはかすかな抵抗を示していた。>

 渡辺淳一がこの小説を書いた30年前と景色はかなり変わっているようですが、それでもまだ情緒が感じられる川辺でした。



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渡辺淳一『リラ冷えの街』札幌人の正規の東西南北とは?

 渡辺淳一は札幌医科大学医学部を卒業し、1969年までは医学部講師を続けながら、北海道の同人誌に執筆を続けていたこともあり、札幌を舞台とした小説をいくつも書いています。

『リラ冷えの街』では札幌の風景が情緒豊かに描かれ、開拓の歴史にまで触れられています。
<札幌の駅前通りを南へ下ると歩いて十分そこそこで、薄野の交叉点にぶつかる。ここで電車は左右へ分かれ、一方は豊平へ、一方は山鼻へ向かう。山鼻線は右へ三丁走り、そこで左へ曲がって再び南下する。山鼻はかつて山鼻屯田兵が入植し、開拓したところである。>

現在の路面電車線はループ状に走っており、豊平へ向かう線はありません。

黄色で示したのが市電の路線で丸く囲んでいる所がすすきの駅です。

<今でこそ山鼻も札幌の中心地になってしまったが、明治の頃は札幌本府のあった今の時計台の辺りと、山鼻とは随分かけ離れた存在であった。本府の道は、正規の北へ向けて南北の道路を敷き、それに東西に走る道を交叉させ碁盤模様に造られた。>
ここで驚いたのは、札幌に長く住んでいた渡辺淳一が、「本府の道は正規の北へ向けて南北の道路を敷いた」と書いていることです。
 たしかに札幌は東西の基軸を創成川、南北の基軸を大通りとして街づくりが進められ、初めて訪れると、その碁盤の目が東西南北と一致しているようにも思われます。
 この碁盤の目は、開拓が始まった時幕末の慶応2年に、幕府の開拓御用を命じられた大友亀太郎が、飲み水や水運を確保するために引いた用水路が「大友堀」で、これが後に「創成川」と呼ばれ、札幌都心部の街路の基準になっているのです。

上の写真は札幌を東西に分ける基準となっている創成川。

最初の地図で青色が東西を分ける創成川、橙色が南北を分ける大通りです。

座標の原点になって居るのが地図で赤丸で囲んだテレビ塔です。

 さらに渡辺淳一は次のように続けます。
<これに対して山鼻村は南北の道路は北極星に向けて造られた。いわゆる地図上の北と、北極星の北とは七度の開きがある。本府側から伸びてきた道路と、山鼻村から伸びてきた道路は開拓が進むに従って接近し、最後に今の南七条辺りでつながった。山鼻電車線が東本願寺の先で軽く屈曲しているのはこのためである。>
 ここで「地図上の北と北極星の北とは七度の開きがある」と記されていますが、真北と北極星の方角は少しはずれていますが、真北に近く、七度の差はありません。

地図の黄色の丸で囲んだ東本願寺前駅で、軽く屈曲しているその方向がむしろ北に近いのです。

 考えてみると、札幌の地図は、観光地図をはじめとして、碁盤の目を垂直水平に書いた地図がほとんどで、北の方角が入れられていないのも多くあります。

上の観光地図など、北の方角が入っていますが、実際の北は右に7〜8度傾いているのが正しく、反対に傾けています。


 渡辺淳一はこれらの地図を見て、札幌市街の碁盤の目は東西南北方向にぴったり一致していると思い込んでいたのでしょう。
ちなみに京都の碁盤の目は東西南北と一致していますから、江戸時代の人より、1000年以上昔の平安時代の人の方が天文学に優れていたのかもしれません。しかし、少しの角度の違いなど気にしないのは、北の大地に育った人のうらやましい特性でもあります。



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渡辺淳一『リラ冷えの街』の舞台となった北大植物園へ

 渡辺淳一『リラ冷えの街』は、北の都・札幌の四季の移ろいを背景に、不思議な巡り合せの男と女の愛の行方を辿る物語。主人公の有津京介は北大植物学教室の研究者で、北大植物園に常勤しています。


<植物園事務室は白壁ぬりの二階建てで、正面玄関の上には三間幅のバルコニーがある。札幌農学校時代の植物学教室を原型のまま大学構内から移したもので、窓の細く長く、どっしりした構えはいかにも明治調の建物だが、バルコニーの床と手摺は一部朽ちかけていた。>

 植物園事務室とは、現在の宮部金吾記念館です。明治34年に建てられた洋風建築物で、北海道大学植物園の初代園長だった宮部金吾博士が、かつて教鞭をとっていた旧札幌農学校動植物講堂の東翼部を移築したもので、昭和63年まで植物園庁舎として利用され、現在は宮部金吾の記念館として遺品などが展示されています。
 『リラ冷えの街』は昭和62年に初版が刊行されていますので、執筆されたときは、植物園事務室だったようです。

当時の正面玄関は、書かれているようにバルコニーの下だったようです。

記念館に、1910年代の移築前の写真が展示されていました。

札幌農学校出身の有島武郎一家の植物園での写真も展示されていました。

<植物園事務所の右手には樹齢八十余年のライラックの老木がある。八十余年というのは明治二十五、六年ごろに、すでに大きな株のままソリに乗せて運び込まれたからである。詳しい樹齢は誰も知らなかった。高さ五メートルを越し、こんもりと枝が繁っているので花どき以外はライラックと気付かぬ人が多かった。>
ここに書かれているライラックの老木がどれか、よくわかりませんでしたが、記念館の前に「札幌で最古のライラック」がありました。


日本にライラックの樹を持ち込んだのは、北星女学校の創始者であったサラ・クララ・スミス女史で、明治22年のことでした。

日本で初めてのライラックの苗木は北星女学校の校庭に植えられ、後にその一部が北大植物園へと株分けされたそうです。

 小説の最終章も植物園の風景で始まります。
<再び五月が訪れた。
植物園正面の花壇にチューリップが咲き、園内の樹木ではニレとコブシが花開いた。北海道の五月には本州のような季節のきめ細かさはないが、一度に訪れる春の喜びは、はるかに強い。まだ肌寒い日もあるのに、人々はコートを脱ぎ、求めて外へ出る。背を伸ばし、大股で歩く、道を行く人々の姿にも活気が溢れていた。>
 
 北大植物園には宮部金吾記念館以外にも、重要文化財に指定されている建物が残されています。


そのひとつ、明治15年に建てられた博物館本館は、今も現役で、日本で一番古い博物館として有名です。

 札幌駅の近くにありながら、広い園内にはハルニレの巨木が立ち、うっそうとした林も残されており、開拓以前の古き札幌の姿がしのばれる都会のオアシスでした。




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3月末再び札幌農学校と新渡戸稲造を訪ねる

先日札幌を訪れる機会があり、夏に見学した札幌農学校第2農場はどうなっているのだろうと訪ねました。


緑と赤い屋根と青い空が美しかった牧牛舎とモデルバーン、夏の牧草の緑は全て雪で覆われていました。

 


れんが造りの製乳所です。


ポプラ並木も葉を落とし、その手前にある新渡戸稲造像です。

 

 


夏にお会いした時より、気のせいか少しお年を召されたような。

 


最後に古河記念講堂と雪の中の北海道大学農学部を見て、クラーク像に別れを告げ、帰らせていただきました。

 

JR北海道車内誌3月号で新渡戸稲造の紹介がされています。

3月末再び札幌農学校訪れました。

東京は既に桜満開。

札幌もかなり暖かくなりはじめましたが、雪はまだ積もっていました。

 


 



モデルバーン
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こんばんは また、北海道にいらしたのですね。いいですね。
私は小学生のときに祖父母に連れて行って貰った以来、?ぶりの昨夏でございました。
美しい雪景色です。冬にも是非訪れてみたいと思いました。

[ ロックウェル ] 2013/02/03 23:25:25 [ 削除 ] [ 通報 ]

こんばんは、雪の北海道初めてだったのですが、夏に多くの方が絵を描かれていた第2農場の景色がどうなっているのか楽しみで、構内の雪道を滑りそうにながら見て参りました。観光客はませんでしたが、ご覧のように印象にのこる景色でした。

[ seitaro ] 2013/02/03 23:40:06 [ 削除 ] [ 通報 ]

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北大総合博物館と新渡戸稲造

 北大を歩くと緑と歴史の宝庫のように思えてきます。



正門を入り、左手にサクシュコトニ川を見て、古河講堂を右に曲がり、メインストリートをまっすぐ進むと、左手に古めかしいレンガ造りの旧理学部の建物があり、これが現在の総合博物館です。



 まず入るとすぐに、北大の歴史展示があります。125年にわたる北大の歴史が詳細に展示され、農学校時代の教育や、新渡戸稲造をはじめとする著名な卒業生の功績も振り返ることができます。ノーベル賞受賞の鈴木章名誉教授の部屋もありました。
 さらに1階と2階には、2000年の有珠山噴火や最新の遺伝子治療、情報技術、海洋に宇宙、サハリンやシベリアといった北方圏の研究から考古学に至るまで、様々な展示があります。3階では化石や鉱物、昆虫・植物の標本、恐竜をはじめとする動物の骨格標本などの資料展示が中心となっています。



 最後に玄関に戻る時通るのがアインシュタイン・ドームの三階まで吹き抜けになった階段です。理学部教授堀健男がポツダムにある「アインシュタイン塔」を訪問した時、北大理学部のドームは、「アインシュタイン塔」の吹き抜けやドーム状天井によく似ていたので、帰ってからアインシュタイン・ドームと呼んだそうです。大学の総合博物館としては東大の総合博物館よりはるかに広く、親しみやすい展示でした。
私がこれらの展示のなかで深く感銘したのは、札幌農学校の二期生であり、英文のBushido: The Soul of Japanを著し、世界に日本の精神文化を紹介した新渡戸稲造の功績の一つ、「遠友夜学校」に関する資料でした。



「遠友夜学校」とは、明治24年に母校札幌農学校の教授として札幌に戻った新渡戸稲造が、その2年後に私費で創設した夜学校です。
留学中に結婚し、札幌の官舎に共に住む妻のメリー夫人に届いた1000ドルの遺産で、稲造の夢であった、学校に行こうとしても行けなかった子どもたちのための夜学校を実現したのです。
校名の由来は論語の「友あり、遠方より来たる。また楽しからずや」で、遠い国から届いた遺産を役立てたことの喜びが表現されています。
 新渡戸はクラークの強い影響を受け、リンカーンの"With malice toward none, With charity for all."「何ぴとに対しても邪な心を抱くことなく、すべての者に慈愛の心を持て」を座右の銘としておりました。



また、この学校で新渡戸が掲げた教育理念は、「学問より実行」、「知識より見識」、「人材より人物」でした。
 授業料は勿論無料、学用品も無料提供、講師は稲造自身や稲造の友人、札幌農学校の教え子の学生たちの奉仕でした。彼が特に意を用いたのは、貧しい家庭の、学校に行かせてもらえない恵まれない女子への教育で、遠友夜学校は男女共学でした。
 「願わくはわれ太平洋の橋とならん」と言われた新渡戸のように、奉仕の精神と広い心を持った、世界でも通用する人物は現代の日本にいないのでしょうか。私が知らないだけならいいのですが。



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北大キャンパス散策

 厳しい残暑が続きますが、ここで少し文学散歩を休憩し、北大キャンパスの散策をさせていただきます。北大のキャンパスに入るのは数十年ぶりでしたが、依然変らぬ緑に溢れたキャンパスに、新たに総合博物館ができていました。キャンパス内には歴史的建造物も多く残され、美しい風景を保っています。



北海道大学の歴史は明治9年の北海道開拓に必要な人物養成のための札幌農学校開校に始まります。その時、マサチューセッツ農科大学長ウイリアム・クラークが札幌農学校教頭として派遣されてきました。クラークはわずか八ヶ月しか在任しませんでしたが、残したものは大きく、’Boys,be ambitious!’はあまりにも有名です。しかし今の青少年が大志と聞いても何のことか理解できないのではないでしょうか。
 着任の時、第一期生16名に述べた言葉も’Be gentleman!’であり、「ジェントルマンというものは、規則に縛られて守るものではなく、自分の良心に従ってそれを行うものである。だからこの学校にはやかましい規則を作る必要はない。」と述べたそうで、学生だけでなく社会人としてもそうありたいし、日本の社会もそうあってもらいたいという素晴らしい言葉を残しています。



 明治40年札幌農学校が東北帝国大学農科大学に改組されますが、それに伴い明治42年に古川家寄贈により旧東北帝国大学農科大学林学教室として建てられた、古川講堂です。



さらに進むと明治34年竣工の旧札幌農学校昆虫及養蚕学教室があります。これは札幌農学校(現:北海道大学)の校舎として現存する最古の建物です。



 その先にあるのが明治35年竣工の旧札幌農学校図書館読書室と書庫です。昭和40年まで中央図書館として、 その後昭和61年まで農学部図書室として使用されていました。



昭和10年竣工の旧北海道帝国大学農学部本館です。この建物は、札幌農学校農学教室を取り壊し、その跡地に建てられたものです。中央正面の主屋の左右の翼屋は、当初「北」の字をかたどって計画されたのですが、増築過程で左右とも「ロ」の字形となっています。
 農学部の前では、学生たちがバーベキューをしたり、日曜画家の方がおられました。
 美しい建物ではヴォーリズ建築の神戸女学院のキャンパス、歴史的建造物では学習院大学もそろっていますが、これほど広々とした緑のキャンパスに美しい建造物がそろったキャンパスは国内では他にないでしょう。
 今回の久しぶりの訪問で一番驚いたのは旧理学部が総合博物館となっていたことでした。次回はその紹介です。



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札幌農学校第二農場(その2)

 牧牛舎の東側南寄りには、同時に建てられた「根菜貯蔵庫」が建てられており、ビートや飼料用のカブなど多汁質飼料を蓄え、東側北寄りには「緑飼貯蔵室」が同時に建てられています。この言葉、何のことかと思いますが、後にサイロの名前で定着したものです。当時は英名サイローと注記しながら、和名では「緑飼貯蔵室」としていたそうです。



この建物は当時としては最大級の石造サイロで、盛岡市の小岩井農場にある煉瓦造り角形サイロに次ぐクラスということでした。
モデルバーン



 この建物は明治9年に新築され、クラーク博士が、北海道農業の模範となるようにと「モデルバーン」と呼んでいました。1階は牛馬舎で、46頭の成牛と育成牛室、10頭の耕馬室、7つの産室があります。2階は馬車道を使って乾草運搬車が直接進入できるようになっていましたが、平地に移設されたため取り払われました。さらに3階に相当する床もあり、膨大な量の乾燥草が貯蔵できるようになっています。
コーンバーン、収穫室、脱ぷ室



コーンバーンは、コーンを貯蔵する施設として建てられ、建物全体は、高床式構造になっています。貯蔵庫に鼠1匹も入れないよう配慮がされ、隣接する収穫室の2階から穀物を直接撒送できるように高架式廊下が架けられています。
 収穫室は後半の脱穀から籾摺り迄の作業を行う部屋で、脱穀機などを収容した作業場で、脱ぷ室は籾摺り部屋です。



 写真手前は製乳所で、搾乳した牛乳を加工する場所です。
その奥が釜場で、名の通り大きなかま)と釜を備えて豚などの餌を煮こみ、その隣の囲いのある床に広げて混和した家畜飼料の加工場です。この建物は、どっしりとした重量感があり、画家や写真家に好評で、そのモチーフが札幌駅前通りの歩道にタイルで描かれているそうです。



 この札幌農学校第2農場、少しの時間の散策でしたが、札幌市内にありながら北海道感が満喫できる穴場でした。



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札幌農学校第二農場(その1)

 暑い日々が続きますので、少し阪急沿線から離れて北海道札幌の風景をお届けします。
札幌で時間が取れましたので、何十年ぶりでしょう、北海道大学キャンパスツアーに出かけました。その広々とした緑のキャンパスについては、またゆっくりお話するとして、北端の北18条通りまで歩くと、以前は公開されていなかった国登録文化財の札幌農学校第2農場があり、無料開放され見学できるようになっていました。

 札幌農学校第2農場は、ウィリアム・スミス・クラークの大農経営構想に基づき、明治時代に建てられた木造の畜舎などの建築物群です。一部の建造物は内部が一般公開され、北海道開拓時代の農具など展示されていました。1969年には農場の建造物9棟が国の重要文化財に指定され、さらに2001年には北海道遺産にも登録されています。

 入り口右手にある事務所は、明治12年に第2農場派出所の名で新築されたものです。

 事務所の少し先に池があり、この木陰にイーゼルを立て絵を描いている方がおられました。またその他の場所でも、所々でスケッチされており、第2農場には画家たちの心をくすぐる風景が広がり、豊かな時間を過ごされているようでした。

 池の向うにある種牛舎は、明治12年に新築されたもので、繁殖用の種牛を飼育した場所です。

 第2農場で一番目立つ牧牛舎です。この建物は、明治42年に当時の最新技術を使って新築され、建物正面は、左右対称で落ち着いた外観であるため、写真・スケッチの題材としても多く使われています。屋根は人造石綿スレート茸で、8基の換気筒と屋根裏に採光のため4つの窓があります。
 内部の見学もでき、1階は搾乳牛が向かい合って各10頭毎並ぶ対頭式の牛床が並んでいますが、左右の設備の種類を変えたり、向かって右側の床を高くするなどで形態を大きく変え、両者で作業性の比較試験を行ったそうです。
写真枚数制限のため(その2)に続きます。


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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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