阪急沿線文学散歩

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読売新聞名言巡礼「須賀敦子」で関西では読めなかった記事

 8月20日の読売新聞日曜版の名言巡礼 須賀敦子「きっちり足に合った靴さえあれば…」は東京では2面構成になっているのですが、残念ながら関西では「続きは「読売プレミアム」でと書かれて、2面側の記事は読めませんでした。
YOMIURI ONLINEでも1面側も記事しか読めません。
http://www.yomiuri.co.jp/life/travel/meigen/20170816-OYT8T50063.html?from=tw

2面側の記事を入手し、日にちも経過しましたので、貼り付けさせていただきました。

クリックすれば大きくなります。






松本由佳記者が、須賀さんの編集者のお話や、小林聖心女子学院、夙川、香櫨園、西宮神社など西宮の名所を含め、うまくまとめた記事を書かれています。




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関西圏では読めなかった『名言巡礼』須賀敦子さんと西宮案内

 8月20日の読売新聞日曜版『名言巡礼』、1面には大きくカトリック夙川教会の写真が掲載されましたが、1面の最後は、<※購読者向け有料サイト「読売プレミアム」でさらに詳しい記事を紹介しています。>
で終わってしまい、肝心の西宮市民として最も関心ある記事が読めませんでした。

「小説や映画、詩や歌に残された作家たちの名言。その舞台となった土地をたずね、言葉が生まれた物語や背景、今を生きる人々の記憶を紹介します」とした『名言巡礼』は、東京では2面仕立ての記事になっており、関東に住む人にとっての西宮観光案内となっているのです。

2面には、まず小林聖心女子学院のみこころ坂の写真とともに須賀敦子さんが通った小林聖心女子学院が紹介されています。

そして、イラスト地図が掲載され、西宮では須賀さんが眠る甲山墓園の近くにある甲山森林公園、夙川公園、夙川カトリック教会、西宮神社、宮水庭園、須賀さんが泳いだ御前浜公園などが紹介されています。
 本文では、「コスモスの海」で紹介されていた神戸北野町の大叔父のお屋敷についても触れられていますが、さすがそこまではイラストに入らなかったようです。

最後に「旅のアラカルト」として、東京から西宮へのアクセス、西宮のお土産として、西宮スタイルの岡本さんご推奨のペーパークラフト「西宮風景箱」が紹介されていました。

 大変うまく須賀敦子さんと西宮についてまとめられた記事ですが、西宮市民、須賀敦子ファンとしては肝心の2面が関西版にはなかったのが残念です。



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読売新聞日曜版『名言巡礼』に須賀敦子『ユルスナールの靴』が登場

 8月20日(日)読売新聞日曜版の『名言巡礼』で須賀敦子さんの言葉が取り上げられ、カトリック夙川教会や小林聖心女子学院、西宮が紹介されました。

読売新聞のウェブサイトYOMIURI ONLINEで、その動画を見ることができます。

http://www.yomiuri.co.jp/stream/?id=06968

名言巡礼 須賀敦子「ユルスナールの靴」から 西宮・宝塚
最初はカトリック夙川教会から始まります。

聖堂のステンドグラス。

美しいカリヨンの音も聴くことができます。


続いて夙川の映像。


夙川河口、御前浜の映像です。

西宮ヨットハーバーも。

最後はアントニン。レイモンド設計の小林聖心女子学院の校舎。

普段はなかなか見ることのできない内部の映像です。

須賀敦子さんが月曜日に上履きを忘れて赤い鼻緒の大きなゾウリをはかされて、ペタペタと音をたてて歩いた廊下。教室の扉は昔のままです。

須賀さんが通われていたころ、遠藤周作の母、郁さんが音楽を教えておられた頃の聖堂は現在は講堂として使われています。

最後のシーンはみこころ坂を小林聖心女子学院の生徒が歩いて帰っていく姿にかぶせられた名言、
「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」

胸にじんときました。
うまく纏められた3分22秒の映像、是非ご覧ください。


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昭和11年世界一周した須賀敦子さんの父豊次郎氏のSOUVENIR

 須賀敦子『遠い朝の本たち』父ゆずりに須賀さんの父親が世界一周の旅をしたことが述べられています。

<私が六歳のとき、父は、当時そう呼ばれた世界一周の旅をした。船でウラディヴォストックにわたり、そこからシベリア鉄道でモスコウを経てヨーロッパの国々やイギリスをたずね、さらにロンドンから船でアメリカに行き、大陸を列車で横断したあと、また船で太平洋を渡って帰るという、いまでは考えられないほどの、ゆっくりした旅行だった。行った先々で、父は日本で待っている人たちにおみやげを買った。とくに最後に寄ったカリフォルニアからは、おおきな木箱いっぱいのサンキスト・オレンジがとどいた。>

 この世界一周の旅の旅の始まりは、昭和11年7月12日のこと。豊次郎氏は日本貿易振興協会主催による世界一周実業視察団体旅行に参加します。船で神戸港を発ち、ウラジオストックからシベリア鉄道に乗り、モスクワを経由し、ワルシャワ、ブダペスト、プラハ、イスタンブール、ヴェネツィア、ローマ、フィレンツェ、ウィーン、パリ、ロンドン、サンフランシスコなどを巡り、翌年5月に帰国しています。

この視察旅行は須賀工業90年史にも記載されていました。

<昭和11年7月中島彦六常務・須賀豊治郎取締役、日本貿易振興協会主催の世界一周実業視察団体旅行に参加>と須賀工業から中島彦六常務と共に二人で参加されていますが、(12.12帰国)と書かれており、中島常務は12月12日に帰国し、豊治郎氏は翌年5月まで旅を続けられたようです。

 先日、須賀敦子さんのご実家を訪問させていただき、豊治郎氏の素晴らしいコレクションを見せていただきました。
その一つが世界中のスプーンのコレクション。

豊次郎氏が訪問した都市の合計24本のスプーンのコレクションです。


おみやげはおおきな木箱いっぱいのサンキスト・オレンジだけではなかったようです。
コレクションの下には、「SOUVENIR 1936 TOYOJIRO SUGA」の銘板が今も光り輝いていました。

1936年といえば、8月1日から8月16日にかけてナチス政権下で、ベルリンで夏季オリンピック大会が開催されており、そのスプーンもありました。


 須賀敦子さんの回想的エッセイ『ヴェネツィアの宿』の最終章「オリエント・エクスプレス」の冒頭は、父豊治郎氏が世界一周の旅で訪れたエディンバラに行きステーション・ホテルに泊まるよう言われた話から始まります。
<「朝、九時にキングス・クロス駅から、『フライング・スコッツマン』という特急列車が出ているはずです。それに乗ってエディンバラまで行ってください。パパも同じ列車でスコットランドへ行きました。エディンバラでは、ステイション・ホテルに泊まること」>

そのエディンバラのスプーンもありました。

真ん中のスプーンですが、絵はエディンバラ城の入口の塔を模したのでしょう。


 その左隣のスプーンには、シェークスピアの故郷ストラットフォード・オン・エイボンと書かれています。

 右隣りのスプーンに書かれているRMS Aquitaniaが何かわからず、調べてみると、

イギリスのキュナード・ラインが建造した北大西洋航路客船の名前で、大きさはタイタニック号とほとんど変わらず、エンジン出力はタイタニックを上回るものでした。

このような当時の豪華客船でイギリスからニューヨークに渡ったのでしょう。

ちなみに、RMS Aquitaniaのスプーンの右隣は、ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングのスプーンでした。

何と豪華な旅だったのでしょう。このような視察団があったことは昭和11年の頃の日本の国力を表しているのかもしれません。




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凄いなあ!

[ akaru ] 2017/07/31 6:48:41 [ 削除 ] [ 通報 ]

はい。昭和11年の豪華世界一周の旅、ビックリです。

[ seitaro ] 2017/07/31 16:20:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

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須賀敦子さんが植えたネムノキが夙川の須賀邸で満開です

 須賀敦子さんは、お母様の看病に夙川に戻られた当時、実家の庭にネムノキを植えられたそうです。
ネムノキは『ヴェネツィアの宿』の「旅のむこう」に書かれているようにお母様が好きな花木でした。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11461487c.html
 ちょうど今週、須賀邸のネムノキの花が満開を迎えているとのお知らせいただき、見せてもらいに行ってまいりました。
2階のベランダから撮影した須賀敦子さんが植えられたネムノキです。


 ベランダから西側を見ると、須賀さんの『遠い朝の本たち』の「小さなファデット」に描かれた景色からすっかり変わってしまった現在の光景を見ることができました。
「小さなファデット」からです。
<私たちが幼年時代をすごした家は、六甲山の山すそがもうすこしで海にとどいたという、起伏の多い土地にあった。藤棚につづく茶の間にすわって、細い小川が流れる低地をへだてた向こうの山を見ると、太陽に白くきらめく花崗岩の地肌に、アカマツやクロマツに下生えの灌木などそれぞれの微妙にちがった緑が映えて、都会からたずねてくる客は皆すばらしい眺めですね、とうらやましがった。山と私たちは呼んでいたけれども、それは六甲山脈につづく低い丘陵の一角にすぎなくて、山肌をびっしりおおっていた山つつじの群落を、私たちはごくあたりまえのもののように、毎日、眺めていた。春、線路に沿った道の葉桜の緑がようやく出そろうころには、山がうすむらさきにぼうっと明るんだ。>
また2009年冬号「考える人」で妹の北村良子さんは、その光景を次のように述べられています。
<夙川の須賀の家は、西側の家の崖下に、今と違って広い田んぼが二面あり、その向こうに小川をはさんで、通称稲荷山といわれた深い松林の丘があり、春には山つつじがいっぱい咲くし、とても自然に恵まれていました。家では皆、いつも「借景」と言っていてその景色が好きでした。松林の丘に、子供がよじ登れる場所が二ヶ所だけあって、姉はそこからどんどん登っていました。メダカも掬いましたし、コオロギとかキリギリスとかも、捕まえてはカゴに入れて、ミミズなんて別に怖くもないという感じ。>

 現在は、田んぼやため池は埋め立てられ、住宅地となってしまいました。
その向こうに見える稲荷山(高塚山)にはマンションが建てられてしまいました。一番後ろにかろうじて見えているのが六甲山の山並みです。


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須賀敦子さんの訪れたエディンバラ城へ

 須賀敦子さんは父親がなんども話してくれたエディンバラ城を訪れます。
「オリエント・エクスプレス」からです。
<あっち、と見当をつけおいた方角にむかって、私はホテルの前のプリンセス・ストリートを西にむかって歩いた。エディンバラ城の容姿を、遠くからでもいいから、日が暮れてしまわないうちに視覚におさめておきたかったからだ。>

須賀さんの泊まったホテルはバルモラルホテル(元North British Station Hotel)とプリンセス・ストリートを挟んで向かいにあるロイヤル・ブリティッシュ・ホテル(地図中、赤矢印)でした。

ホテルにチェックインして、すぐにプリンセス・ストリートをエディンバラ城に向かって歩かれたようです。
<まもなく左手の視界が開けたが、窪地をあいだに挟んでいるのだろう、すべてが灰色に煙ったなかで、目をこらすとその谷のようにえぐれた土地をへだてて、異様な形骸の黒い岩壁がそそりたっていた。ホテルを出てから、ずっとなんの変哲もない街並を歩いてきたものだから、突然あらわれた岩山はただ奇異としかいいようがなくて、一瞬、幻覚におそわれたのかと、私は思わず目をとじてしまった。ホテルでもらった簡単な地図によると、それはたしかにエディンバラ城の方角だったが、目のまえにあるのが城砦なのか、ただの岩山なのか、判断がつかない。夕食の時間なのだろう、あたりの人影がさっとなくなって、霧だけが道に流れていた。>

プリンセス・ストリートから見たキャッスル・ロックという岩山の上に建つエディンバラ城です。昼間訪問しましたので、須賀敦子さんの見た城郭とは少しイメージが違いますが、中に入ってみましょう。

入口はもう観光客でいっぱいでした。
立派な城門をくぐって、坂を上っていくと砲台のある広場に出ます。

ここからは北の方に新市街やフォース湾が見渡せます。

東側の光景。

ウェバリー駅、須賀豊次郎氏が泊まったNorth British Station Hotel、須賀敦子さんが泊まったロイヤル・ブリティッシュホテルも見えています。

 エディンバラ城は7世紀にノーサンブリアの王エドウィンが造った砦が元になっていますが、現存する最も古い建物は十二世紀の聖マーガレット礼拝堂です。


 上りきるとクラウン・スクエアにたどりつき、王宮、グレートホール、戦没者記念堂などの建物が中庭を取り巻くように建っています。

その他にも、兵舎、火薬庫、病院、戦争博物館、牢獄などがありました。

この城からの新市街を見晴らす景色は素晴らしいものでした。


ただ新市街と言っても1793年に建設された街ですから、恐れ入ります。



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須賀敦子さんがエディンバラで宿泊したホテルは

 須賀敦子さんが父親に強く勧められてエディンバラを訪れたのは昭和34年30歳の時でした。

 父親の勧めでステイション・ホテルに宿泊しようとしますが、日本からの留学生の予算にはとてもあいそうもなく、老バトラーに別のホテルを教えてもらうことになります。

 須賀さんは、到着したNorth British Staion Hotelのロビーで、意を決して老バトラーに次のように切り出します。
<「もうしわけないけれど」私はバトラーの顔を見すえて、でもうっかりすると震えそうになる声を気にしながら、切り出した。「三十年まえ、このホテルに泊まった父にいわれて、駅からまっすぐこちらに来たのですが」そういうと、はてな、といった表情が一瞬、老バトラーの顔をよぎったが、それでも彼はまったく笑顔をくずすことなく、カウンターのこちら側に身をのりだすようにして私のいうことに耳を傾けてくれた。>

写真の左側のカウンターでの出来事かもしれません。

<「どうも、私の予算にくらべて、こちらは立派すぎるようです」覚悟を決めて私が一息にそういってのけると、「ほっほ」というような、深みのある音がバトラーの口から洩れた。「それで?」「こちらでいちばん高くない部屋はいくらぐらいかしら?」消えてしまいたい気持ちをおさえて、でも、一歩もゆずってはだめだと、さっぱり気分にそぐわない笑顔をつくった。>
 結局、どれも須賀さんの予算をはるかに超えるものでした。

<「ほんとうに申し訳ないけれど……」私はもういとどくりかえした。「あまり遠くないところで、こちらほど上等でなくて、でもしっかりしたホテルをおしえていただけないかしら。父に言われていたので、ここに泊まることだけを考えて来たものだから」
老バトラーの目が糸のように細くなり、野球のグローブのような手をまるめてペンをにぎったと思うと、ステイション・ホテルの紋章がついた贅沢な用箋にすらすらと別のホテルの名を書きつけ、ウィンクしながらそれを背の高いカウンターのまえで背伸びしてる私に差し出した。「正面のドアを出て、通りを渡ったところです。ちゃんとしたホテルだから、安心なさって大丈夫です。では、おじょうさん、よいご旅行を」>
とバトラーに希望にあった近くのホテルを教えてもらうのです。日本人としての須賀さんの態度もさすがですが、述べられている老バトラーの対応も素晴らしく、これぞ伝統のスコットランドのバトラーといったものでした。

 須賀さんがこの時宿泊されたホテルの名前は、松山巌さんが作成された年譜に記されていました。

<昭和三十四年十月九日、午前十時に部屋を出て、タクシーで、キングス・クロス駅に。午前十一時半の列車に乗り、ヨーロッパではじめて食堂車で昼食。六時半、エジンバラに到着。ロイヤル・ブリティッシュ・ホテルに泊まる。>
たしかにロイヤル・ブリティッシュ・ホテルはプリンセス通りを渡った向かいのホテルでした。

時計塔のあるバルモラル・ホテル(旧North British Station Hotel;写真右)と須賀さんの宿泊したロイヤル・ブリティッシュ・ホテル(写真左端)です。

<エディンバラのステイション・ホテルのある通りをへだてて斜向いの小ざっぱりしたホテルの清潔なベッドで目をさますと、私はこの思いがけない宿に来ることになった前夜の出来事を考えて、いろいろあったけれど、とにかくすべてうまくいったと思うと、いまいる部屋の落着いたたたずまいにも気がなごんで、羽枕ほどふわふわした満足感が、じんわりとからだにひろがっていくのだった。>

 賑わっているプリンセス通り。左側にロイヤル・ブリティッシュ・ホテルがあります。

しかし、調べるとロイヤル・ブリティッシュ・ホテルも1899年開業の伝統あるホテルでした。


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須賀豊次郎氏が宿泊したエディンバラのステーションホテル

 須賀敦子さんの父豊次郎氏は1936年日本貿易振興協会主催による世界一周実業視察団体団旅行に参加し、途中ロンドンのキングス・クロス駅からフライイング・スコッツマンに乗ってエディンバラを訪れます。

そのステーションホテルを訪ねるのが今回のイギリス旅行の楽しみでした。

 しかし、エディンバラでステーション・ホテルと呼ばれたのが上の写真の「ウォルドルフ・アストリア」だと知り混乱したのですが、やはり豊四郎氏が宿泊し、1959年に須賀敦子さんが訪ねたのは現在のバルモラル・ホテル(旧North British Station Hotel)だったようです。

 エディンバラには当時、カレドニアン鉄道のプリンシーズ・ストリート駅とノース・ブリティッシュ鉄道のウェーバリー駅がありました。
 しかし、ロンドンからフライイング・スコッツマンが向かったエディンバラの駅はウェーバリー駅であったことがわかり、そのステーションホテルとは現在のバルモラル・ホテル、当時のNorth British Station Hotelに違いないようです。

写真は1948年のウェーバリー駅とNorth British Station Hotel

North British Station Hotelは1902年開業し、1988年までその名前で続いていました。
須賀敦子『オリエント・エクスプレス』からです。
<ロンドンを出るときは晴れ上がっていた空が、列車が北上するにつれて灰色になり、私の感覚では東京―大阪とほぼおなじくらいの距離と思えたエディンバラの駅に到着したのは午後の遅い時間だった。>

現在のウェーバリー駅の様子です。

現在も古い駅舎の面影をとどめています。

ウェーバリー駅はエディンバラの新市街と旧市街の間の谷にあります。

 
現在のウェーバリー駅から地上に上るスロープですが、当時はどんな道がホテルにつながっていたのでしょう。


 須賀さんは駅に降り立つとStation Hotelという赤いネオンが見え、それを目指して歩きます。暗い通路を行き着いて、いきおいよくドアを開けたとたん、その豪華さに圧倒されるのです。

地上から見たバルモラル・ホテルです。
<あの安っぽいネオン・サインからは想像もつかない、ケイトウ色の赤い絨毯が海のように私の前にひろがっていて、通路の暗さとはうってかわった、まるで豪奢なルネッサンスの宮廷に迷い込んでしまったかと思うほど美しいシャンデリアが、クリスタルのしずくのひとつひとつに光を反射させて燦いていた。>

現在も美しいシャンデリアがあるロビーです。

昔はもっと豪華絢爛だったようですが、ここで須賀敦子さんと老バトラーとの素晴らしい会話が始まるのです。
<あちこちに真鍮がきらめいている、顔のうつりそうなマホガニーの腰高なカウンターの前に立つと、でっぷりふとった、そしてこれも正装した白髪の老バトラーがにこやかに近づいてきた。キングス・クロスの駅を離れてからずっと、往年の父の優雅な旅をあたまのなかで追ってきた私が、そのとたん、貧乏旅行しかしたことのない戦後の留学生に変身した。
「もうしわけないけれど」私はバトラーの顔を見すえて、でもうっかりすると震えそうになる声を気にしながら、切り出した。「三十年まえ、このホテルに泊まった父にいわれて、駅からまっすぐこちらに来たのですが」>
<「こちらでいちばん高くない部屋はいくらぐらいかしら?」消えてしまいたい気持ちをおさえて、でも、一歩もゆずってはだめだと、さっぱり気分にそぐわない笑顔をつくった。>

今回は粋な老バトラーには出会えませんでしたが、キルトを着たドア・マンも風格を漂わせています。



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 日本のホテルとは全然違いますね 風格と言い伝統と言い 

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/06/25 10:14:03 [ 削除 ] [ 通報 ]

ステーション・ホテルのイメージは、日本とは全然違いました。いつになったら、日本もあんなに心豊かに暮らせるのでしょう。

[ seitaro ] 2017/06/25 15:24:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

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須賀敦子さんがキングス・クロス駅から乗ったフライイング・スコッツマン

 須賀敦子さんの『ヴェネチアの宿』の最終章「オリエント・エクスプレス」は次のように始まります。
<「朝、九時にキングス・クロス駅から、『フライイング・スコッツマン』という特急列車が出ているはずです。それに乗ってエディンバラまで行ってください。パパも同じ列車でスコットランドへ行きました。エディンバラでは、ステイション・ホテルに泊まること」
行ってください、という一見、おだやかでていねいな口調とはうらはらな「泊まること」という命令のほうが父の本音だということぐらいは、すぐにわかった。>

キングスクロス駅の外観は昔の様子のまま残されていました。

<フライイング・スコッツマン、空飛ぶスコットランド男、たぶん、父はなによりもその列車の名前が気にいっていたのだろう、自分に似て旅の好きな娘をそれに乗せて古い北方の首都まで行かせる。一見、唐突にもとれる手紙だったのだが、いかにも彼らしいロマンがそこには読みとれて、父への反抗を自分の存在理由にしてきたみたいにしてきた私も、こんどばかりはめずらしくすんなりと彼の命令を受けるつもりになった。>

 須賀さんがフライイング・スコッツマンに乗ってエジンバラを旅したのは1959年のことですが、1959年に走っていたフライイング・スコッツマンの写真がありました。まだ蒸気機関車のままでした。

<そしてキングス・クロス駅で、おどろいたことに父の言ったとおりの列車が言ったとおりの時間に出るのを知ってほとんど無力感におそわれながらも、さっそく三等車の切符を求めると、八月十八日の出発を心細さと期待のまざった気持ちで待ちわびた。>

 調べてみるとフライング・スコッツマンは、1862年からずっとキングスクロス駅の同じプラットフォームの10番線から同じ時刻の午前10時にエジンバラに向けて出発しているのです。
これもイギリス人の伝統を頑なに守る気質からでしょうか。

このフライイングスコッツマンが、ハリー・ポッターのホグワーツ特急のモデルになっているのです。

ホグワーツ特急もフライイングスコッツマン同様、キングスクロス駅を毎11時に93/4線から出発するのです。

話が逸れましたが、これから須賀敦子さんの「オリエント・エクスプレス」に登場するエディンバラのステーションホテルを明らかにしていきます。



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須賀豊次郎氏が宿泊したエディンバラのステーション・ホテル

 父親からの手紙に書かれていたとおり、須賀敦子さんはエディンバラの「ステイション・ホテル」に泊まるつもりで、ロンドンからフライイング・スコッツマンに乗ってでかけます。
須賀敦子『オリエント・エクスプレス』からです。
<ロンドンを出るときは晴れ上がっていた空が、列車が北上するにつれて灰色になり、私の感覚では東京―大阪とほぼおなじくらいの距離と思えたエディンバラの駅に到着したのは午後の遅い時間だった。>
 このエディンバラの駅というのが問題ですが、先に進みましょう。
 駅に降り立つとStation Hotelという赤いネオンが見え、それを目指して歩きます。暗い通路を行き着いて、いきおいよくドアを開けたとたん、その豪華さに圧倒されるのです。
<あの安っぽいネオン・サインからは想像もつかない、ケイトウ色の赤い絨毯が海のように私の前にひろがっていて、通路の暗さとはうってかわった、まるで豪奢なルネッサンスの宮廷に迷い込んでしまったかと思うほど美しいシャンデリアが、クリスタルのしずくのひとつひとつに光を反射させて燦いていた。>
Station Hotelという赤いネオンも、ホテルを探すのにヒントになります。
<あちこちに真鍮がきらめいている、顔のうつりそうなマホガニーの腰高なカウンターの前に立つと、でっぷりふとった、そしてこれも正装した白髪の老バトラーがにこやかに近づいてきた。キングス・クロスの駅を離れてからずっと、往年の父の優雅な旅をあたまのなかで追ってきた私が、そのとたん、貧乏旅行しかしたことのない戦後の留学生に変身した。
「もうしわけないけれど」私はバトラーの顔を見すえて、でもうっかりすると震えそうになる声を気にしながら、切り出した。「三十年まえ、このホテルに泊まった父にいわれて、駅からまっすぐこちらに来たのですが」>

 私は今まで、このエディンバラのステーションホテルとは、エディンバラ・ウェーヴァリー駅のすぐ上にあるバルモラル・ホテルだと思っていました


 しかし、今回エディンバラに来て『地球の歩き方』のホテルの頁を開いてみると、「かつてステーション・ホテルとして、バルモラルとともに名をはせた古式ゆかしいホテル」と説明されていたのは、何と「ウォルドルフ・アストリア」というホテルだったのです。

 上の地図の赤矢印の位置にある「ウォルドルフ・アストリア」は、「ステーション・ホテル」といってもプリンスィズ通りの西端にあり、ウェーバリー駅からはかなり離れているのに、何故ステーション・ホテルと名付けたのでしょう。

 更に調べると1870年、そこにはPrinces Street Stationという駅が幹線駅として存在していたことがわかりました。
しかも、この駅は1965年には完全に無くなっていたのです。

 ここから、私の頭の中の混乱が始まったのですが、取り敢えずかつて「ステーションホテル」だったという「ウォルドルフ・アストリア」に向かいました。

アーチ型の窓や入り口が駅舎を思わせるデザインになっています。

当時存在したPrinces Street Stationの門も、現在は駐車場の入口となっていますが。残されていました。

 豊次郎氏が宿泊したのは、このステーションホテルだったのでしょうか。
帰国後に、もう一度今まで調査した資料と比較して、明らかにするつもりです。


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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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