阪急沿線文学散歩

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常盤貴子「旅するフランス語」で須賀敦子さんの訪れたコルマールへ

 須賀敦子さんが最後の取材旅行で尋ねられたコルマールが、がNHKのEテレ、常盤貴子さんの「旅するフランス語」第22章 アルザス紀行3で取り上げられていました。

「旅するフランス語」は語学番組というより、むしろ紀行番組といった感があり、昨年私も訪ねたコルマールの街を隈なく案内してくれました。

パステルカラーのかわいい建物が並ぶ美しい町。

中世の面影を残すユニークな建築物が多く、「頭の家」「小ヴェニス」など、おとぎ話のような風景をあちらこちらに見ることができます。

 須賀敦子さんは『アルザスの曲がりくねった道』で、主人公フランス人修道女オディールが故郷について話す場面からです。
<あっ、コルマールに行ったの。いつもは控え目な彼女が叫ぶようにそういうと、まぶたを半分とじるようにして、つぶやいた。ああ、コルマール。なつかしい、コルマール。戦争の前は、あの辺りのぶどう畑がぜんぶ、わたしたちの家のものだったのよ。シュレベール家のぶどう畑。息をつめるようにしてひと息にそういい終えた彼女に、わたしはあっけにとられた。>

『考える人』2009年冬号に、「一九九六年九月、最後の旅」と題した鈴木力氏(新潮社)の記事があり、須賀さんがコルマールを訪れたときの写真が掲載されていました。

「旅するフランス語」にも同じ場所(La Petite Venise)の光景が映されていました。

旧税関の前に建つ須賀敦子さん。

当然この場所も「旅するフランス語」に登場します。

コルマールは、日本では宮崎駿監督の『ハウルの動く城』のロケ地になったことでも有名。

プフィスタの家も、アニメのシーンに描かれていました。

八角形の塔、出窓、壁に描かれた絵画などいたるところが芸術的で、16世紀に裕福な商人のために建てられた家だそうです。

アルザス地方は歴史的にドイツとフランスの間を行ったり来たりした場所。そのため、地元の言葉であるアルザス語がとても大切にされてきましたとのこと。

「旅するフランス語」第24章はアルザス紀行5は最終回。

アルザス地方にあるオーベルジュでの豪華ディナーが紹介されていました。

昨年行ったときな見ることができなかったアルザスのシンボルともいえるコウノトリの映像も見ることができました。

これで終わりかと思いましたが、「常盤貴子の旅の手帖 大人のパリとアルザス地方」の今回のシリーズは4月から9月まで再放送されるそうなので、楽しみにしています。




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須賀敦子さんは最後の取材旅行でコルマール郊外旧聖心女子のリセへ

 須賀敦子さんの未定稿『アルザスの曲がりくねった道』に登場する主人公のフランス人修道女オディールの故郷はアルザスでした。

<オディール修道女の故郷がアルザス地方の小さな村だと聞いたのは、わたしが友人たちと、車でアルザス地方を旅したことがあると彼女に話したときのことだった。>

 そして『アルザスの曲がりくねった道』の構想が書かれた「ノート1」では、
<Zという一九八八年に七九歳で生涯を終えた、ひとりのフランス人修道女の、伝記を断片的につづりながら、彼女の歩いた道を、日本人の「わたし」がたずねるかたちで、書く。「なんとなく」修道女になる道をえらんだZが、読書をはじめとするさまざまな経験を経て、宗教にめざめてゆく話。>と書かれており、Zが主人公オディール・シュレベールでした。

 また「ノート6」でも、
<わたし −ローマ在住?の日本人?年齢?職業?
オディール・シュレベール
1909 十月三日生まれ アルザス、N村
1929 二十歳で、修道会に入る。
……>と書かれています。「わたし」は当然須賀敦子さんですが、オディールのモデルも実在したのではないでしょうか。

『アルザスの曲がりくねった道』の序文では、オディールが文学について三十年代にフランスのリセで勉強したと書かれており、コルマール郊外のキンツハイム(Kientzheim)にあったリセ(教育施設)のことだと思われます。

『考える人』2009年冬号に、「一九九六年九月、最後の旅」と題した鈴木力氏(新潮社)の記事があり、須賀さんがリセを訪れたお話と写真が掲載されていました。

<ここはかつて、広大なブドウ畑の真ん中に聖心の学校があったのだそうです。須賀さんの説明では、昔はブドウ畑全体も聖心のものだったらしいのですが、学校はすでに聖心のものではなくなっていて、しかし建物はそのまま残って、成城学園のリセになっていました(二〇〇五年には成城学園のリセも廃校)。須賀さんはこの学校の建物をみておきたかったようでした。ちょうど夏休みだったので、生徒たちはだれもいませんでしたけど。>

 1986年からは、ここに東京の成城学園が"アルザス成城学園(Lycee Seijo d'Alsace)"という日本人のためのボーディングスクールを設置していて、閉校後はその敷地と建物をCEEJA( アルザス・欧州日本学研究所 )が使用しています。

古い修道院を改修して、校舎として使用していたそうなので、オディールはその修道院で暮らしていたのかもしれません。



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須賀敦子『アルザスの曲がりくねった道』と常盤貴子『旅するフランス語』

 須賀敦子さんが、未定稿「アルザスの曲がりくねった道」の取材旅行に訪ねたコルマールの街が、先日Eテレの常盤貴子さんの「旅するフランス語」で紹介されていました。

 常盤貴子さんは小学校4年から西宮市へ移り、春風小学校、上甲子園中学校、高校1年までは市立西宮東高等学校に在籍していたという西宮にもゆかりのある女優です。

2月、3月にアルザス紀行が5回にわたって放映されます。

 第21章は「アルザス紀行2」。フランス北東部のアルザス地方でワイン街道めぐりで、アルザスのぶどう畑の曲がりくねった道が登場しました。


 須賀敦子さんは『アルザスの曲がりくねった道』で、主人公フランス人修道女オディールの故郷について、次のように書かれています。
<オディール修道女の故郷がアルザス地方の小さな村だと聞いたのは、わたしが友人たちと、車でアルザス地方を旅したことがあると彼女に話したときのことだった。>
<そこからミュールズを抜けて、コルマールからワインの道をストラスブールまで一直線。そこまでいうと、オディールの目がぱっとかがやいて、わたしをさえぎった。あっ、コルマールに行ったの。いつもは控え目な彼女が叫ぶようにそういうと、まぶたを半分とじるようにして、つぶやいた。ああ、コルマール。なつかしい、コルマール。戦争の前は、あの辺りのぶどう畑がぜんぶ、わたしたちの家のものだったのよ。シュレベール家のぶどう畑。息をつめるようにしてひと息にそういい終えた彼女に、わたしはあっけにとられた。>

 アルザスは有名な白ワインの里。

常盤貴子さんも地元のワインとおつまみでピクニック。

 須賀敦子さんの未定稿『アルザスの曲がりくねった道』の序章の最後では
<むかし、シュベール家のものだったという青いぶどう畑の道を、二十一歳であとにしたきりもういちど歩くことのなかったオディールのかわりに、わたしの足で歩いてあげよう。「オディールのあとをたずねる」というのは、もしかしたらわたしなりの墓参りなのかもしれなかった。>
と書かれています。

常盤貴子さんも歩いていたアルザスの青いぶどう畑の道。
須賀さんの最後の取材旅行となったコルマールの足跡をもう少し訪ねてみましょう。


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須賀敦子さんの最後の旅はコルマール

 昨年の夏、ストラスブールからコルマール、バーゼルへとアルザスを旅しましたが、そこは1996年9月に須賀敦子さんが最後に取材旅行された地でした。


 須賀敦子さんの未定稿「アルザスの曲がりくねった道」は須賀さんがかつて出会ったフランス人修道女、オディールについて書かれています。
<オディール修道女の故郷がアルザス地方の小さな村だと聞いたのは、わたしが友人たちと、車でアルザス地方を旅したことがあると彼女に話したときのことだった。>

 日本に帰ろうと決めたすぐあと、ヨーロッパを見おさめておきたいと、ミラノから車でアルザスに行くのです。

<そこからミュールズを抜けて、コルマールからワインの道をストラスブールまで一直線。そこまでいうと、オディールの目がぱっとかがやいて、わたしをさえぎった。あっ、コルマールに行ったの。いつもは控え目な彼女が叫ぶようにそういうと、まぶたを半分とじるようにして、つぶやいた。ああ、コルマール。なつかしい、コルマール。戦争の前は、あの辺りのぶどう畑がぜんぶ、わたしたちの家のものだったのよ。>

1996年リトルベニスと呼ばれるコルマールの旧市街に立つ須賀さんの写真。

 それから20年後の2016年の写真です。須賀さんはこの歩道に立っておられました。

旧税関の前の広場のバルトルディの噴水の前に立つ須賀さん。

20年後も変わりません。

 コルマールは2004年に公開された宮崎駿監督の『ハウルの動く城』の制作にあたってロケハンされた美しい街でした。


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須賀敦子さんが遠藤周作の作品に言及されていました

 須賀敦子さんが小林聖心女子学院に入学された頃、遠藤周作は同じ夙川に住み、灘中学に通い、母郁さんは小林聖心で音楽教師をされていました。お二人ともフランスへの国費留学を経験し、同じカトリック信者でありながら、著書では、不思議なことに、お互いについてまったく言及されていません。
 ひょっとすると宗教観の違いにより、仲が悪かったのかと想像したこともありますが、須賀さんがイタリアから帰国されてから、しばしば遠藤周作の自宅を訪ねて歓談されていたことを、須賀さんのご親族からお聞きし安心しておりました。

 先日、季刊誌『考える人』2009年冬号の特集「書かれなかった須賀敦子の本」を再読していますと、新潮社の鈴木力氏が「アルザスの曲がりくねった道」の原稿のやりとりで、須賀さんが残された言葉として、次のように遠藤周作の『白い人』に言及されていたことを紹介されていました。

<またこんなことも、はっきりとした言い方でおっしゃったことがありました ー遠藤周作さんが「白い人」で書いた世界の、その後を私は書かねばならないー。個として対していくだけではすまない宗教の世界を、そして簡単に超えることはできない「白い人」の世界というものの重さ、大きさを誰よりもよく知っていた須賀さんが、自分自身に向けて発した言葉だったのだと思います。>

 ヨーロッパ人そのものの思考をされていた須賀さんと、日本人としての悩みを持つ遠藤周作の宗教観は全く違っていたのではないでしょうか。例えば、鈴木力氏は次のような須賀さんのお話を紹介されています。
<カトリックの儀式をめぐっての話に印象的な反応がありました。ひとつは、ある日本人が受洗しようかどうかと迷っていたときに、受洗をすすめる日本人の神父が、神棚と十字架を一緒にお祀りしてもいいんですよ、と言ったという話を聞いたことがあって、それを須賀さんにお話ししたら、「だから日本はだめなのよ」とはっきり言われたこと。>

このお話を読んで、『沈黙』の遠藤周作ならどんな反応を示しただろうかと、考えてしまいました。

遠藤周作の『白い人』は、第二次大戦、ドイツ占領下のリヨンを舞台とした短編小説で、ビューリタニズムの薫陶を受けた少年が、残虐行為の味を覚え無神論者へと転向、フランス人でありながらナチの通訳となり拷問の場に同席するようになります。そこへ旧友のカトリック神学生が連行され、主人公は旧友を鞭打ちながら、己の醜態に酔いしれ、信仰心への嫉妬と憧憬を掻き立てていくという、難解な物語です。

もし須賀さんが生きておられたら、どのような「白い人」のその後を書かれたのだろうかと、未信徒の私でも興味がつきません。



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須賀敦子さんの「赤い靴」とモイラ・シアラーの映画

 先日BSプレミアムでモイラ・シアラー主演の1948年に制作された『赤い靴』が放送され、須賀敦子さんのエッセイを想い出して、見せていただきましたが、さすが名作でした。


 須賀敦子さんの「赤い靴」のお話は、『ユルスナールの靴』のプロローグで登場します。

 須賀さんは冬休みに、母上と神戸の街を歩いていたとき、ショーウインドウにきれいな赤いサンダルを見つけます。
<真紅といっていい赤で、そんな色の革をそれまで見たことがなかった。吸い込まれるように立ち止まった私を見て、母がせきたてた。なに見てるのよ、はやく行きましょう。あの赤い靴。私がいった。おねがい、あの靴の値段、たずねてもいい?あきれ顔で母がこたえた。あんな赤い靴なんて、いったい、なに考えてるの?どんどん先に行ってしまう母の後から、私は歩き出したが、それでもあの靴が欲しかった。ママ。もういちど私は声をかけた。見るだけだから、待って。いいながら、私は赤い靴が飾られたウインドウに戻った。>
 これは須賀さんが小学生の頃の話ではなく、戦後になって、聖心女子大に在学中の頃のお話です。よほど赤い靴に惹かれたのでしょう。

<しばらくのあいだ、私は母といっしょに街で見た赤い靴が忘れられなかった。昼間は気がまぎれているのだけれど、夜、寝床に入ると、ウインドウの赤い靴が目に浮かんだ。考えてみると私は母に、あれを買って、となにかをねだったことがほとんどなかった。そのうえ、ほんとうをいうと、紅い靴をはいた自分なんてそれ以前には想像したこともなかった。ただ、むしょうに、それをじぶんのものにしたかっただけだ。もしかしたら、モイラ・シアラーが主演した「赤い靴」をそのころにみたのだったろうか。それとも波止場から遠い国に行ってしまった女の子のことを、もう考えはじめていたのだろうか。>
 これは、『ユルスナールの靴』のプロローグですから、相当力を入れて書かれた文章なのでしょう。赤い靴が大学生だったころの須賀さんの心を掴んで離さなかった様子が見事に描かれています。

 それだけにモイラ・シアラーが主演した「赤い靴」とはどんな映画だったのかと、楽しみに見てしまいました。

 映画のストーリーは、バレエ団の団長が、一人のバレリーナを発掘し彼女を新作バレエ『赤い靴』のプリマに抜擢するところから始まります。

 このバレエ『赤い靴』はアンデルセン童話を題材にしたもので、童話では赤い靴を履いて舞踏会に出かけた主人公の少女カーレンは、死ぬまで踊り続けるという呪いをかけられ、足は勝手に踊り続け、靴を脱ぐことも出来なくなるのです。


 映画の「赤い靴」の劇中バレエでもそれが踏襲され「その赤い靴を履いた者は、名バレリーナになる代わりに死ぬまで踊り続けねばならない宿命を背負う。」と言われた主人公は、悲恋の末、現実の生活でも、プリマとして赤い靴をはいたまま、最後をとげるのです。




1948年制作という古い映画ですが、テクニカラー方式で撮影された「赤い靴」の映像美は、今見ても強烈な印象でした。きっとこの映像が須賀さんの心を掴んでいたのでしょう。



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「沈黙は金」(松山巌『須賀敦子の方へ』)

 松山巌『須賀敦子の方へ』で小学校時代からお付き合いのあった景山さんのお話が書かれています。

<景山さんが須賀に最初に会ったのは白金の東京聖心の小学校のときで、以来、付き合いは長く、上智大学では教師仲間であったから、須賀の思い出は多数にわたるはずである。それでも景山さんはまず、「ガスちゃんはともかく面白い楽しい人だった。大学生になっても関西のなまりはあったけど話好きで。学長にもきちんと自分の意見を主張して」と語られた。マザー・ブリットはなに事であれ、学生たちと話し合うことを重要視したというから、当時の日本人には珍しく自分にも意見をいう須賀を頼もしく思い、期待をかけていたに違いない。>
 ここで述べられている「ガスちゃんはともかく面白い楽しい人だった」という印象とまったく同じお話を今年の夏に、妹の北村良子さんと、小林聖心女子学院ご出身の稲畑汀子さんの対談でもお聞きしました。

 稲畑さんによると、「須賀姉妹はともかく楽しい人だった。」そして「おしゃべりだった。」とも。東京に移られたときは、北村良子さんは「あら関西弁なのね」と言われて、学校ではしばらく黙っていて、苦しかったそうです。
 稲畑汀子さんはまた、「卒業してからはみんなおしゃべりよ。でも『沈黙は金』だから、在校中はよく叱られました。」と笑って話されていました。
聖心の教育方針の「ファーストステージで培いたい力」として、「沈黙、集中力 学年に応じた時間沈黙し、集中して考えられること。」とありますが、幼い女生徒たちにとって、沈黙とおしゃべりの時間のT.P.O.をわきまえることは大変だったようです。



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聖心女子大学第1回卒業式(松山巌『須賀敦子の方へ』より)

 松山巌『須賀敦子の方へ』に、聖心女子大学の第1回卒業式の様子が述べられていました。
<因みに卒業式そのものは一九五一年三月十五日に行われた。卒業生は全員、西欧の伝統通りキャップ・アンド・ガウンをまとい、式に臨み、来賓として吉田茂総理大臣、田中耕太郎最高裁長官らの挨拶があり、卒業生を代表して中村貞子が英語で、渡辺和子が日本語で謝辞を述べた。>

 第1回卒業生の記念写真、第一列目の右端が須賀敦子さんと分かりますが、緒方貞子さん、渡辺和子さんはどこにおられるのでしょう。

<祝辞が総理と最高裁長官であったことを考えただけで、当時のマザー・ブリットの社会的地位の高さがわかるが、謝辞を述べた学生二人の方が現在では意味をもつだろう。中村貞子とは緒方貞子さんのことで、国連公使、国連人権委員会日本政府代表、国連難民高等弁務官などを務め、その後JICA理事長になったが、つい先頃退任されている。また渡辺和子さんは後に三十六歳の若さで岡山のノートルダム清心女子大学の学長を務め、以後、長年教壇に立ち、多くの学生を指導し、著書も多く、現在は『置かれた場所で咲きなさい』話題である。日本のカトリック界を先導してきた方だ。>


 卒業式で謝辞を述べた中村(緒方)貞子さんは、野林健・納家政嗣編『聞き書 緒方貞子回顧録』では「聖心女子大学時代」について、次のように述べられています。

<聖心女子大が発足するにあたって、戦争でアメリカに帰国されていたエリザベス・ブリットが呼び戻され、初代学長につきました。彼女は学術的な能力にくわえ、たいへんリーダーシップのある方でした。これから女性がどうあるべきか、そのためにどんな教育をすべきかについて明確なヴィジョンをお持ちで、私も大きな影響を受けました。>
マザー・ブリットからリーダーシップを学んだという緒方貞子さん。

 そして、須賀敦子さんもマザー・ブリットについて『遠い朝の本たち』の「しげちゃんの昇天」で次のように説明しています。
<あと一年で専門学校を卒業というころ、女子大ができるらしいという噂が学生のあいだにひろまった。戦前、帰国子女や日本在住の外国人の教育にあたっていた有能なアメリカ人の修道女が、その大学を創立するため戻ってくると聞いて、私は勉強をつづけたいと思った。それまでヨーロッパの厳格な寄宿学校の伝統に従って、廊下や洗面所に鏡というものがなかった学校に、それでは若い娘たちがちゃんと育たないといって鏡をつけさせたり、空襲で焼けてしまったけれど、窓の広い明るい自習室を建てさせたりしたこの修道女の名は、まるで神話じみて生徒たちの間で語り継がれていたからだ。大きなバラの花束がとどくのを待つように、私たちはその修道女の帰国を待ちわびた。>
 その修道女が初代学長のマザー・ブリットだったのです。

 緒方貞子さんは回顧録で須賀さんについて次のように述べられていました。
<同級生には須賀敦子さんがいました。みんなから「がすちゃん」と呼ばれていましたが、たいへんなインテリでした。その後、ヨーロッパに渡って、イタリアの方と結婚されて、味わいのある文章をたくさん残されました。早くに亡くなられたのは残念なことでした。須賀さんに限らず、当時はアメリカやヨーロッパで勉強を続けようという女性が私の周りにはたくさんいたのです。それでも、マザー・ブリットをはじめとする聖心の先生たちの影響が大きかったのです。>
錚々たる卒業生を育てた聖心女子大学初代学長、マザー・ブリットの偉大さがよくわかりました。



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須賀敦子さんが寄宿していた頃の聖心女子大学1号館の写真

須賀敦子『遠い朝の本たち』に収められた「しげちゃんの昇天」からです。
<卒業も間近なある日、しげちゃんが、新しい校舎の四階まで私に会いに来てくれた。私の個室のドアが半びらきで、私はそれによりかかっていて、目のまえに私よりちょっと背のひくいしげちゃんがいた。どうして、そんなに反抗ばかりするのかな、と彼女は言った。私もわからない、でも、なにもかもいやだ、そう答えると、しげちゃんは言った。でも、だいじょうぶよ。私はあなたを信頼してる。ちょっと、ふらふらしてて心配だけど、いずれはきっとうまくいくよ、なにもかも。彼女の真剣な表情と、あかるい彼女の声と、ちょっとキザなあの言葉を、一年後によその大学の大学院へ行ってからも、フランスに留学してからも、イタリアで結婚してからも、なんども思い出した。>
須賀さんが寄宿されていたのは、聖心女子大学1号館。

昭和23年のの貴重な写真が、TVで放映されていました。
また1号館については、聖心女子大学のホームページにも詳しく述べられています。
http://www.u-sacred-heart.ac.jp/about/campus-1.html

「大学の記念碑的校舎、1号館。竹腰健造氏の設計で、1950(昭和25)年に竣工。当初は3階建て、延べ6,148m2でしたが、その後、北棟、4階部分の増築を経て、1952(昭和27)年に現在の形となった地上4階建ての校舎です。」
 写真をよく見ると、確かにまだ3階建てのコの字型校舎となっており、まだ米軍払い下げのクォンセット・ハット(カマボコ型校舎)が残っています。

現在のキャンパスマップと見比べると、クォンセット・ハットがあったのはマリアンホールのあたりでしょうか。


「現在の1号館は、中央が中庭で「ロ」の字形に教室や研究室が配置されており、開学当時の面影をとどめている歴史ある建物ですが、完成当初は北棟がなく「コ」の字形の3階建てでした。また、当時は3階部分が寄宿になっていましたが、その後、寄宿生の人数が増え、4階部分を増築しました(中庭側から南棟をよく見ると、3階と4階の間の部分に継ぎ目があるのが分かります)。」

図書館側から撮影した、1号館です。書かれているように、こちら側からも3階、4階の継ぎ目がわかります。

 昭和25年の須賀敦子さん卒業の年、須賀さんはこの1号館の3階に寄宿されていたのです。



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須賀敦子さんにとって「ケティ―物語」が離れられない宝物になったわけ

 須賀敦子『遠い朝の本たち』の「まがり角の本」からです。

<「ケティー物語」という青い表紙のずっしりと思い本が、私と妹にとって離れられない宝物になったのは、いくつぐらいのときだったのか。夏休みがはじまったばかりのある日、銀座のデパートの書籍売り場で、いいわ、ふたりで一冊だけよ、とうしろで待っている母を背中できにしながら、迷いに迷って選んだ本だった。著者はアメリカ人、スザンナ・クーリッジという女性の作品で、ケティーという名の少女が主人公だった。>

 須賀さんは「ある夏の午後ウサギの穴に落ちこんだアリスのように、いきなり、ケティ―の世界に吸い込まれてしまった」と述べられていますが、それほどまで須賀さんを魅了したのは、ケティ―の家にはてしなく広い庭があることでした。

<ケティ―は私とおなじ、長女で総領だった。そのことにも親近感をおぼえたのだが、なによりも私をひきつけたのは、ケティ―たちの家には、はてしなく広い、庭があることだった。庭、といっても、ちょっとやそっとの広さではなく、子供たちが土曜日の午後、探検にでかけるぐらい、森があったり、めずらしい野の花の群生地があったりするほど広大なものだ。おそらく英語では、パーク、とよばれる自然のまま土地なのである。>

 須賀さんが6歳まで住んでいた兵庫県武庫郡精道村の家の庭は広かったのに、9歳の時、関西から東京に越して、住んでいた麻布の家はかなりな建坪のわりに庭がせせこましく、つらい思いをしていたと述べられています。

 その広い庭のあった精道村の家の場所は特定でき、以前ご紹介しました。

赤く囲んでいる場所が、阪田寛夫のご両親も設立に関係していた「お山の幼稚園」で、その南側の赤矢印の家が須賀邸でした。
(「精道村明細図」昭和7年版)
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11465228c.html

 その後、新たに須賀邸のまわりの光景を映した16mmフィルムが現存することがわかり、その映像の写真を入手しました。

 松の木の後ろに見える建物が「お山の幼稚園」で、須賀邸の庭はひろかったのみならず、その周りには家などなく、野原と畑だったようですから、このあたり全体が須賀さんにとっての庭だったのでしょう。

 
 そしてTVドラマになった「ケティー物語」の映像を見ると、ケティ―の家の庭と精道村の家の周りの光景がなんと似ているのかと驚き、「ケティ―物語」が須賀さんを魅了した理由もよくわかったのです。

 因みに、精道村の自宅前で撮影された須賀姉妹の写真がありましたが、右手に須賀邸の石垣が写っています。

その場所(現在の翠ヶ丘)に行ってみますと、辺りは住宅で埋め尽くされ、昔の光景はほとんど残っていませんんが、その石垣だけは今も残っていました。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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