阪急沿線文学散歩

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久坂部羊が喫茶店ムジカで見つけた久坂葉子の絵

 久坂部羊は、阪大医学部を卒業し、医師となりながら、同人誌『VIKING』での活動を経て、2003年に作家デビューした異色作家です。

 久坂部羊さん、笹舟倶楽部さんが紹介されていましたが、今年2月に西宮神社会館で講演会を開かれていました。

 その著書『ブラック・ジャックは遠かった 阪大医学生ふらふら青春記』の「ティーハウス・ムジカでの運命の出会い」で、まだ移転する前のムジカで久坂葉子の描いた2枚の絵と出会ったことを述べています。

<中之島界隈には今もオシャレな喫茶店が数多くあるが、私が医学生だった30年ほど前は、紅茶専門店のムジカが有名だった。ムジカは今は堂島に移っているが、以前は曽根崎新地にあった。ここでは世界中の紅茶を飲むことができ、また店名MUSICAからわかるように、店内に流れるクラシックの名曲を楽しむことができた。メニュには各紅茶の産地や風味、色合いなどが書かれていて、それを読むだけでも退屈しなかった。>

 
 坂部羊さん自筆の80年代の中之島の思い出MAPというイラストが掲載されていました。この図ではムジカは北新地の西端にあります。このようなところに移転したこともあったのでしょうか。

 現在、ティーハウス・ムジカは大阪の店舗は閉店し、芦屋と三宮センター街にあります。

<臨床実習をしていた大学病院からも近かったので、私は友人たちや彼女とたびたびこの店に通っていた。そしてここである女性と運命的な出会いをしたのである。といっても、本人に会ったわけではなく、私が出会ったのはその女性が描いたスケッチだった。当時、ムジカの壁には、世界中の紅茶のラベルが隙間なく貼られていて、そのなかに2枚、古びたA4サイズの紙が混じっていた。1枚は鳥や花、もう一枚は海の中の魚や蛸が、黒いインクで実に奔放に描かれていた。鳥の嘴など、ふつうは輪郭を描くところを、ペンのたわみを生かした見事な線一本で表現されている。私は感心して、店の人に、これはだれの絵かと訊ねた。「久坂葉子という、戦後に芥川賞候補になって、阪急六甲で飛び込み自殺した女流作家が描いたものです」>

 その時は、そのまま聞き流していた久坂部羊ですが、その6年後の1983年の朝日新聞夕刊に掲載された奇妙なスケッチの写真に目をとめます。

<女性の顔の絵で、右手で右目を隠している(鏡を見て描いた自画像なら、左手で左目を隠している)。その線の見事な勢いが、以前、ムジカで見たスケッチと同じだったのである。記事を読むと、果たして久坂葉子の作品とある。彼女の遺品が30年ぶりに菩提寺から実家にもどされたのを機に、神戸で展覧会が開かれるとあった。>

そこから久坂葉子に惹かれた久坂部羊は富士正晴に連絡し、何度か会ううちに、同人誌『VIKING』の例会に来るように言われ、しばらくして同人にしてもらったそうです。

「中之島の思い出MAP」に久坂部羊さんが「ムジカにあった久坂葉子が描いた鳥の絵」というk久坂部羊のイラストがありました。

『久坂葉子作品集』の表紙の絵は久坂葉子の描いた絵ですが、これに近い鳥の絵だったのかもしれません。
<「ムジカ」には今も久坂葉子のスケッチと新聞記事が飾られている。>と書かれていましたが、三宮のムジカにはありませんでした。


ひょっとして芦屋の現在の本店にあるのでしょうか。




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久坂葉子に関する記事を読ませていただきました。
竹藪の中の一軒家、富士正晴さんのお宅にお邪魔した時、「名門の出の人は法要の所作がとても美しい」とおっしゃっていました、きっとお母様のことでしょう。
堀さんの奥様もご長寿でいらしたけど亡くなられたし、さびしい限りです。

[ やっこちゃん ] 2018/08/15 1:34:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

富士正晴さんや堀さんも御存知とは!きっと印象に残る方だったでしょうね。ブログ読んでいただきありがとうございました。

[ seitaro ] 2018/08/15 6:32:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪神間に「文学における原風景」を持つ作家たち

 年末に日本建築学会百周年記念文化賞受賞 奥野健夫著『文学における原風景』を読んで、阪神間に原風景を持つ作家、作品について改めて気付かされました。


 著者の奥野健夫氏は若いころ東芝の研究所に勤めながら、文芸評論も手掛けられたという特異なプロフィール。

昭和28年 東工大卒。東芝に入社し、数々の技術賞を受賞しながらも、在籍中から文学評論の活動を行い、昭和36年には多摩美術大学に移り、当初自然科学の講座を担当し、やがて『太宰治論』により文芸評論家として遇されていたため文学の講座に集中し、多摩美大の名誉教授になられています。

『文学における原風景』では、文学者の作品には、そのイメージやモチーフを支える母体としての自己形成空間が色濃く投影されているとし、文学を支える風土や原体験を日本民族の歴史にまで結び付けて論じています。

 東京に生まれの奥野健夫は、大都市の生活には地縁的共同体意識はなく、仮の生活空間という性格を持っている都市空間は、郷土と呼べないとし、
<故郷を持たない、つまり風土性豊かな自己形成空間を持たない大都会育ちのぼくは、強烈な“原風景”を内部に蔵している故郷のある地方出身の文学者たちにながい間絶望的な善望と嫉妬を感じて来た。>と述べています。
 そして、以前は故郷を意識することがなく、また風土、風景にも関心を持つことが少なかった奥野健夫は、各地を旅行し文学者の故郷や文学作品の舞台を直接訪れるようになり、
<“名作の旅”とか“文学散歩”とかいう趣味的な観点とは違う強烈な感銘を風土、風景におぼえはじめた。文学者の思想や気質や美意識、文学作品の基調となっている作者の内的イメージ、深層意識は、その風土や風景と密接にかかわりあっている。>
としています。

 また原風景の形成時期については、まず幼少年期と思春期にあるとし、
<このような文学の母胎でもある“原風景”は、その作家の幼少年期と思春期とに形成されるように思われる。生まれてからと七、八歳頃までの父母や家の中や遊び場や家族や友達などの環境によって無意識のうちに形成され、深層意識の中に固着する“原風景”、それは後年になればなるほど不思議ななつかしさを持って思い出され、若い頃にはわからなかった繰返されるその風景やイメージの意味が次第にわかるようになってくる。>
次に二十歳前後の人格形成期をあげています。
<もうひとつは二十歳前後のもっとも感受性が強い人格形成期に受ける衝撃的な原体験や感銘によってつくられる“原風景”である。>

 さて、『阪急沿線文学散歩』で登場していただいた作家のなかで、あらためて阪神間に原風景を持つ作家と強く感じたのは、

「須賀敦子」


「遠藤周作」

「野坂昭如」

「村上春樹」

「キョウコ・モリ」

奥野健夫は、
<“原風景”は作家によって説明的、直接的に描かれない。しかしその作家の書くものに“原風景”は色濃く投影されている。>としていますが、上記の作家は私小説的作品やエッセイで、幼少年期、思春期、人格形成期における生活環境、家族や友人との関係、衝撃的な原体験について自ら述べており、作品への影響がよく理解できます。
一度彼らが生きた時代の「文学における原風景」を整理してみたいと思っています。


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読売新聞名言巡礼「須賀敦子」で関西では読めなかった記事

 8月20日の読売新聞日曜版の名言巡礼 須賀敦子「きっちり足に合った靴さえあれば…」は東京では2面構成になっているのですが、残念ながら関西では「続きは「読売プレミアム」でと書かれて、2面側の記事は読めませんでした。
YOMIURI ONLINEでも1面側も記事しか読めません。
http://www.yomiuri.co.jp/life/travel/meigen/20170816-OYT8T50063.html?from=tw

2面側の記事を入手し、日にちも経過しましたので、貼り付けさせていただきました。

クリックすれば大きくなります。






松本由佳記者が、須賀さんの編集者のお話や、小林聖心女子学院、夙川、香櫨園、西宮神社など西宮の名所を含め、うまくまとめた記事を書かれています。



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関西圏では読めなかった『名言巡礼』須賀敦子さんと西宮案内

 8月20日の読売新聞日曜版『名言巡礼』、1面には大きくカトリック夙川教会の写真が掲載されましたが、1面の最後は、<※購読者向け有料サイト「読売プレミアム」でさらに詳しい記事を紹介しています。>
で終わってしまい、肝心の西宮市民として最も関心ある記事が読めませんでした。

「小説や映画、詩や歌に残された作家たちの名言。その舞台となった土地をたずね、言葉が生まれた物語や背景、今を生きる人々の記憶を紹介します」とした『名言巡礼』は、東京では2面仕立ての記事になっており、関東に住む人にとっての西宮観光案内となっているのです。

2面には、まず小林聖心女子学院のみこころ坂の写真とともに須賀敦子さんが通った小林聖心女子学院が紹介されています。

そして、イラスト地図が掲載され、西宮では須賀さんが眠る甲山墓園の近くにある甲山森林公園、夙川公園、夙川カトリック教会、西宮神社、宮水庭園、須賀さんが泳いだ御前浜公園などが紹介されています。
 本文では、「コスモスの海」で紹介されていた神戸北野町の大叔父のお屋敷についても触れられていますが、さすがそこまではイラストに入らなかったようです。

最後に「旅のアラカルト」として、東京から西宮へのアクセス、西宮のお土産として、西宮スタイルの岡本さんご推奨のペーパークラフト「西宮風景箱」が紹介されていました。

 大変うまく須賀敦子さんと西宮についてまとめられた記事ですが、西宮市民、須賀敦子ファンとしては肝心の2面が関西版にはなかったのが残念です。



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読売新聞日曜版『名言巡礼』に須賀敦子『ユルスナールの靴』が登場

 8月20日(日)読売新聞日曜版の『名言巡礼』で須賀敦子さんの言葉が取り上げられ、カトリック夙川教会や小林聖心女子学院、西宮が紹介されました。

読売新聞のウェブサイトYOMIURI ONLINEで、その動画を見ることができます。

http://www.yomiuri.co.jp/stream/?id=06968

名言巡礼 須賀敦子「ユルスナールの靴」から 西宮・宝塚
最初はカトリック夙川教会から始まります。

聖堂のステンドグラス。

美しいカリヨンの音も聴くことができます。


続いて夙川の映像。


夙川河口、御前浜の映像です。

西宮ヨットハーバーも。

最後はアントニン。レイモンド設計の小林聖心女子学院の校舎。

普段はなかなか見ることのできない内部の映像です。

須賀敦子さんが月曜日に上履きを忘れて赤い鼻緒の大きなゾウリをはかされて、ペタペタと音をたてて歩いた廊下。教室の扉は昔のままです。

須賀さんが通われていたころ、遠藤周作の母、郁さんが音楽を教えておられた頃の聖堂は現在は講堂として使われています。

最後のシーンはみこころ坂を小林聖心女子学院の生徒が歩いて帰っていく姿にかぶせられた名言、
「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」

胸にじんときました。
うまく纏められた3分22秒の映像、是非ご覧ください。


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昭和11年世界一周した須賀敦子さんの父豊次郎氏のSOUVENIR

 須賀敦子『遠い朝の本たち』父ゆずりに須賀さんの父親が世界一周の旅をしたことが述べられています。

<私が六歳のとき、父は、当時そう呼ばれた世界一周の旅をした。船でウラディヴォストックにわたり、そこからシベリア鉄道でモスコウを経てヨーロッパの国々やイギリスをたずね、さらにロンドンから船でアメリカに行き、大陸を列車で横断したあと、また船で太平洋を渡って帰るという、いまでは考えられないほどの、ゆっくりした旅行だった。行った先々で、父は日本で待っている人たちにおみやげを買った。とくに最後に寄ったカリフォルニアからは、おおきな木箱いっぱいのサンキスト・オレンジがとどいた。>

 この世界一周の旅の旅の始まりは、昭和11年7月12日のこと。豊次郎氏は日本貿易振興協会主催による世界一周実業視察団体旅行に参加します。船で神戸港を発ち、ウラジオストックからシベリア鉄道に乗り、モスクワを経由し、ワルシャワ、ブダペスト、プラハ、イスタンブール、ヴェネツィア、ローマ、フィレンツェ、ウィーン、パリ、ロンドン、サンフランシスコなどを巡り、翌年5月に帰国しています。

この視察旅行は須賀工業90年史にも記載されていました。

<昭和11年7月中島彦六常務・須賀豊治郎取締役、日本貿易振興協会主催の世界一周実業視察団体旅行に参加>と須賀工業から中島彦六常務と共に二人で参加されていますが、(12.12帰国)と書かれており、中島常務は12月12日に帰国し、豊治郎氏は翌年5月まで旅を続けられたようです。

 先日、須賀敦子さんのご実家を訪問させていただき、豊治郎氏の素晴らしいコレクションを見せていただきました。
その一つが世界中のスプーンのコレクション。

豊次郎氏が訪問した都市の合計24本のスプーンのコレクションです。


おみやげはおおきな木箱いっぱいのサンキスト・オレンジだけではなかったようです。
コレクションの下には、「SOUVENIR 1936 TOYOJIRO SUGA」の銘板が今も光り輝いていました。

1936年といえば、8月1日から8月16日にかけてナチス政権下で、ベルリンで夏季オリンピック大会が開催されており、そのスプーンもありました。


 須賀敦子さんの回想的エッセイ『ヴェネツィアの宿』の最終章「オリエント・エクスプレス」の冒頭は、父豊治郎氏が世界一周の旅で訪れたエディンバラに行きステーション・ホテルに泊まるよう言われた話から始まります。
<「朝、九時にキングス・クロス駅から、『フライング・スコッツマン』という特急列車が出ているはずです。それに乗ってエディンバラまで行ってください。パパも同じ列車でスコットランドへ行きました。エディンバラでは、ステイション・ホテルに泊まること」>

そのエディンバラのスプーンもありました。

真ん中のスプーンですが、絵はエディンバラ城の入口の塔を模したのでしょう。


 その左隣のスプーンには、シェークスピアの故郷ストラットフォード・オン・エイボンと書かれています。

 右隣りのスプーンに書かれているRMS Aquitaniaが何かわからず、調べてみると、

イギリスのキュナード・ラインが建造した北大西洋航路客船の名前で、大きさはタイタニック号とほとんど変わらず、エンジン出力はタイタニックを上回るものでした。

このような当時の豪華客船でイギリスからニューヨークに渡ったのでしょう。

ちなみに、RMS Aquitaniaのスプーンの右隣は、ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングのスプーンでした。

何と豪華な旅だったのでしょう。このような視察団があったことは昭和11年の頃の日本の国力を表しているのかもしれません。




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凄いなあ!

[ k.imamura ] 2017/07/31 6:48:41 [ 削除 ] [ 通報 ]

はい。昭和11年の豪華世界一周の旅、ビックリです。

[ seitaro ] 2017/07/31 16:20:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

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須賀敦子さんが植えたネムノキが夙川の須賀邸で満開です

 須賀敦子さんは、お母様の看病に夙川に戻られた当時、実家の庭にネムノキを植えられたそうです。
ネムノキは『ヴェネツィアの宿』の「旅のむこう」に書かれているようにお母様が好きな花木でした。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11461487c.html
 ちょうど今週、須賀邸のネムノキの花が満開を迎えているとのお知らせいただき、見せてもらいに行ってまいりました。
2階のベランダから撮影した須賀敦子さんが植えられたネムノキです。


 ベランダから西側を見ると、須賀さんの『遠い朝の本たち』の「小さなファデット」に描かれた景色からすっかり変わってしまった現在の光景を見ることができました。
「小さなファデット」からです。
<私たちが幼年時代をすごした家は、六甲山の山すそがもうすこしで海にとどいたという、起伏の多い土地にあった。藤棚につづく茶の間にすわって、細い小川が流れる低地をへだてた向こうの山を見ると、太陽に白くきらめく花崗岩の地肌に、アカマツやクロマツに下生えの灌木などそれぞれの微妙にちがった緑が映えて、都会からたずねてくる客は皆すばらしい眺めですね、とうらやましがった。山と私たちは呼んでいたけれども、それは六甲山脈につづく低い丘陵の一角にすぎなくて、山肌をびっしりおおっていた山つつじの群落を、私たちはごくあたりまえのもののように、毎日、眺めていた。春、線路に沿った道の葉桜の緑がようやく出そろうころには、山がうすむらさきにぼうっと明るんだ。>
また2009年冬号「考える人」で妹の北村良子さんは、その光景を次のように述べられています。
<夙川の須賀の家は、西側の家の崖下に、今と違って広い田んぼが二面あり、その向こうに小川をはさんで、通称稲荷山といわれた深い松林の丘があり、春には山つつじがいっぱい咲くし、とても自然に恵まれていました。家では皆、いつも「借景」と言っていてその景色が好きでした。松林の丘に、子供がよじ登れる場所が二ヶ所だけあって、姉はそこからどんどん登っていました。メダカも掬いましたし、コオロギとかキリギリスとかも、捕まえてはカゴに入れて、ミミズなんて別に怖くもないという感じ。>

 現在は、田んぼやため池は埋め立てられ、住宅地となってしまいました。
その向こうに見える稲荷山(高塚山)にはマンションが建てられてしまいました。一番後ろにかろうじて見えているのが六甲山の山並みです。


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須賀敦子さんの訪れたエディンバラ城へ

 須賀敦子さんは父親がなんども話してくれたエディンバラ城を訪れます。
「オリエント・エクスプレス」からです。
<あっち、と見当をつけおいた方角にむかって、私はホテルの前のプリンセス・ストリートを西にむかって歩いた。エディンバラ城の容姿を、遠くからでもいいから、日が暮れてしまわないうちに視覚におさめておきたかったからだ。>

須賀さんの泊まったホテルはバルモラルホテル(元North British Station Hotel)とプリンセス・ストリートを挟んで向かいにあるロイヤル・ブリティッシュ・ホテル(地図中、赤矢印)でした。

ホテルにチェックインして、すぐにプリンセス・ストリートをエディンバラ城に向かって歩かれたようです。
<まもなく左手の視界が開けたが、窪地をあいだに挟んでいるのだろう、すべてが灰色に煙ったなかで、目をこらすとその谷のようにえぐれた土地をへだてて、異様な形骸の黒い岩壁がそそりたっていた。ホテルを出てから、ずっとなんの変哲もない街並を歩いてきたものだから、突然あらわれた岩山はただ奇異としかいいようがなくて、一瞬、幻覚におそわれたのかと、私は思わず目をとじてしまった。ホテルでもらった簡単な地図によると、それはたしかにエディンバラ城の方角だったが、目のまえにあるのが城砦なのか、ただの岩山なのか、判断がつかない。夕食の時間なのだろう、あたりの人影がさっとなくなって、霧だけが道に流れていた。>

プリンセス・ストリートから見たキャッスル・ロックという岩山の上に建つエディンバラ城です。昼間訪問しましたので、須賀敦子さんの見た城郭とは少しイメージが違いますが、中に入ってみましょう。

入口はもう観光客でいっぱいでした。
立派な城門をくぐって、坂を上っていくと砲台のある広場に出ます。

ここからは北の方に新市街やフォース湾が見渡せます。

東側の光景。

ウェバリー駅、須賀豊次郎氏が泊まったNorth British Station Hotel、須賀敦子さんが泊まったロイヤル・ブリティッシュホテルも見えています。

 エディンバラ城は7世紀にノーサンブリアの王エドウィンが造った砦が元になっていますが、現存する最も古い建物は十二世紀の聖マーガレット礼拝堂です。


 上りきるとクラウン・スクエアにたどりつき、王宮、グレートホール、戦没者記念堂などの建物が中庭を取り巻くように建っています。

その他にも、兵舎、火薬庫、病院、戦争博物館、牢獄などがありました。

この城からの新市街を見晴らす景色は素晴らしいものでした。


ただ新市街と言っても1793年に建設された街ですから、恐れ入ります。



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須賀敦子さんがエディンバラで宿泊したホテルは

 須賀敦子さんが父親に強く勧められてエディンバラを訪れたのは昭和34年30歳の時でした。

 父親の勧めでステイション・ホテルに宿泊しようとしますが、日本からの留学生の予算にはとてもあいそうもなく、老バトラーに別のホテルを教えてもらうことになります。

 須賀さんは、到着したNorth British Staion Hotelのロビーで、意を決して老バトラーに次のように切り出します。
<「もうしわけないけれど」私はバトラーの顔を見すえて、でもうっかりすると震えそうになる声を気にしながら、切り出した。「三十年まえ、このホテルに泊まった父にいわれて、駅からまっすぐこちらに来たのですが」そういうと、はてな、といった表情が一瞬、老バトラーの顔をよぎったが、それでも彼はまったく笑顔をくずすことなく、カウンターのこちら側に身をのりだすようにして私のいうことに耳を傾けてくれた。>

写真の左側のカウンターでの出来事かもしれません。

<「どうも、私の予算にくらべて、こちらは立派すぎるようです」覚悟を決めて私が一息にそういってのけると、「ほっほ」というような、深みのある音がバトラーの口から洩れた。「それで?」「こちらでいちばん高くない部屋はいくらぐらいかしら?」消えてしまいたい気持ちをおさえて、でも、一歩もゆずってはだめだと、さっぱり気分にそぐわない笑顔をつくった。>
 結局、どれも須賀さんの予算をはるかに超えるものでした。

<「ほんとうに申し訳ないけれど……」私はもういとどくりかえした。「あまり遠くないところで、こちらほど上等でなくて、でもしっかりしたホテルをおしえていただけないかしら。父に言われていたので、ここに泊まることだけを考えて来たものだから」
老バトラーの目が糸のように細くなり、野球のグローブのような手をまるめてペンをにぎったと思うと、ステイション・ホテルの紋章がついた贅沢な用箋にすらすらと別のホテルの名を書きつけ、ウィンクしながらそれを背の高いカウンターのまえで背伸びしてる私に差し出した。「正面のドアを出て、通りを渡ったところです。ちゃんとしたホテルだから、安心なさって大丈夫です。では、おじょうさん、よいご旅行を」>
とバトラーに希望にあった近くのホテルを教えてもらうのです。日本人としての須賀さんの態度もさすがですが、述べられている老バトラーの対応も素晴らしく、これぞ伝統のスコットランドのバトラーといったものでした。

 須賀さんがこの時宿泊されたホテルの名前は、松山巌さんが作成された年譜に記されていました。

<昭和三十四年十月九日、午前十時に部屋を出て、タクシーで、キングス・クロス駅に。午前十一時半の列車に乗り、ヨーロッパではじめて食堂車で昼食。六時半、エジンバラに到着。ロイヤル・ブリティッシュ・ホテルに泊まる。>
たしかにロイヤル・ブリティッシュ・ホテルはプリンセス通りを渡った向かいのホテルでした。

時計塔のあるバルモラル・ホテル(旧North British Station Hotel;写真右)と須賀さんの宿泊したロイヤル・ブリティッシュ・ホテル(写真左端)です。

<エディンバラのステイション・ホテルのある通りをへだてて斜向いの小ざっぱりしたホテルの清潔なベッドで目をさますと、私はこの思いがけない宿に来ることになった前夜の出来事を考えて、いろいろあったけれど、とにかくすべてうまくいったと思うと、いまいる部屋の落着いたたたずまいにも気がなごんで、羽枕ほどふわふわした満足感が、じんわりとからだにひろがっていくのだった。>

 賑わっているプリンセス通り。左側にロイヤル・ブリティッシュ・ホテルがあります。

しかし、調べるとロイヤル・ブリティッシュ・ホテルも1899年開業の伝統あるホテルでした。


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須賀豊次郎氏が宿泊したエディンバラのステーションホテル

 須賀敦子さんの父豊次郎氏は1936年日本貿易振興協会主催による世界一周実業視察団体団旅行に参加し、途中ロンドンのキングス・クロス駅からフライイング・スコッツマンに乗ってエディンバラを訪れます。

そのステーションホテルを訪ねるのが今回のイギリス旅行の楽しみでした。

 しかし、エディンバラでステーション・ホテルと呼ばれたのが上の写真の「ウォルドルフ・アストリア」だと知り混乱したのですが、やはり豊四郎氏が宿泊し、1959年に須賀敦子さんが訪ねたのは現在のバルモラル・ホテル(旧North British Station Hotel)だったようです。

 エディンバラには当時、カレドニアン鉄道のプリンシーズ・ストリート駅とノース・ブリティッシュ鉄道のウェーバリー駅がありました。
 しかし、ロンドンからフライイング・スコッツマンが向かったエディンバラの駅はウェーバリー駅であったことがわかり、そのステーションホテルとは現在のバルモラル・ホテル、当時のNorth British Station Hotelに違いないようです。

写真は1948年のウェーバリー駅とNorth British Station Hotel

North British Station Hotelは1902年開業し、1988年までその名前で続いていました。
須賀敦子『オリエント・エクスプレス』からです。
<ロンドンを出るときは晴れ上がっていた空が、列車が北上するにつれて灰色になり、私の感覚では東京―大阪とほぼおなじくらいの距離と思えたエディンバラの駅に到着したのは午後の遅い時間だった。>

現在のウェーバリー駅の様子です。

現在も古い駅舎の面影をとどめています。

ウェーバリー駅はエディンバラの新市街と旧市街の間の谷にあります。

 
現在のウェーバリー駅から地上に上るスロープですが、当時はどんな道がホテルにつながっていたのでしょう。


 須賀さんは駅に降り立つとStation Hotelという赤いネオンが見え、それを目指して歩きます。暗い通路を行き着いて、いきおいよくドアを開けたとたん、その豪華さに圧倒されるのです。

地上から見たバルモラル・ホテルです。
<あの安っぽいネオン・サインからは想像もつかない、ケイトウ色の赤い絨毯が海のように私の前にひろがっていて、通路の暗さとはうってかわった、まるで豪奢なルネッサンスの宮廷に迷い込んでしまったかと思うほど美しいシャンデリアが、クリスタルのしずくのひとつひとつに光を反射させて燦いていた。>

現在も美しいシャンデリアがあるロビーです。

昔はもっと豪華絢爛だったようですが、ここで須賀敦子さんと老バトラーとの素晴らしい会話が始まるのです。
<あちこちに真鍮がきらめいている、顔のうつりそうなマホガニーの腰高なカウンターの前に立つと、でっぷりふとった、そしてこれも正装した白髪の老バトラーがにこやかに近づいてきた。キングス・クロスの駅を離れてからずっと、往年の父の優雅な旅をあたまのなかで追ってきた私が、そのとたん、貧乏旅行しかしたことのない戦後の留学生に変身した。
「もうしわけないけれど」私はバトラーの顔を見すえて、でもうっかりすると震えそうになる声を気にしながら、切り出した。「三十年まえ、このホテルに泊まった父にいわれて、駅からまっすぐこちらに来たのですが」>
<「こちらでいちばん高くない部屋はいくらぐらいかしら?」消えてしまいたい気持ちをおさえて、でも、一歩もゆずってはだめだと、さっぱり気分にそぐわない笑顔をつくった。>

今回は粋な老バトラーには出会えませんでしたが、キルトを着たドア・マンも風格を漂わせています。



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 日本のホテルとは全然違いますね 風格と言い伝統と言い 

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/06/25 10:14:03 [ 削除 ] [ 通報 ]

ステーション・ホテルのイメージは、日本とは全然違いました。いつになったら、日本もあんなに心豊かに暮らせるのでしょう。

[ seitaro ] 2017/06/25 15:24:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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