阪急沿線文学散歩

サブURL(このURLからもアクセスできます):http://nishinomiya.areablog.jp/bungakusanpo

六甲山の森林植物園の紅葉が見事

 先だって、六甲山高山植物園へ行ってきたところですが、今回はそこよりも標高が少し低く、紅葉が見ごろになった神戸市立森林植物園へ。

途中の山道でも紅葉が楽しめます。

 訪れたのは祭日でしたが、9時半ごろ到着すると、駐車場はまだまだがら空きで、ゆっくり散策することができました。

駐車場のすぐ近くにあるメタセコイア並木。マキノ高原ほど長くもなく木もそれほど大きくなってはいませんが、十分楽しめます。

昔は六甲山系でよく見られた熊笹を久しぶりに見ました。

森林展示館の前では、クリスマスのデコレーションも進んでいます。

6月末にはアジサイの綺麗な坂道も、今は紅葉のトンネルになっています。
シアトルの森を通ってもみじ谷を目指します。

途中のどうだんつつじの紅葉も見事。


上から眺めるもみじ谷の紅葉。


長谷池周辺の樹々も色づいて綺麗です。

北アメリカ区にあったセコイアメスギ。世界の大木のひとつで、トーテムポールの材料にもされるそうです。

こちらのカラマツは日本の針葉樹の中で、ただ一つの落葉性の高木です。紅葉はこれから更に進むようです。

広大な敷地に日本の代表的な樹木や世界の樹木が原産地別に植栽されています。モミジだけでもも38種3000本あり、「世界の森のもみじ巡り」が楽しめる穴場でした。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11792870c.html
須賀敦子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

須賀敦子さんが子供の頃見た神戸の坂道の風景を探して

 須賀敦子『トリエステの坂道』はイタリアの詩人ウンベルト・サバが生まれ育った辺境の町トリエステを訪ねる紀行文ですが、印象に残るこんな名文を書かれています。
<丘から眺めた屋根の連なりにはまるで童話の世界のような美しさがあったが、坂を降りながら近くで見る家々は予想外に貧しげで古びていていた。裏通りをえらんで歩いていたせいもあっただろう。…………軽く目を閉じさえすれば、それはそのまま、むかし母の袖につかまって降りた神戸の坂道だった。母の下駄の音と、爪先に力を入れて歩いていた靴の感触。西洋館のかげから、はずむように視界にとびこんできた青い海の切れはし。>

 トリエステの坂道の風景、須賀さんが思い出したのは子どもの頃、母親と歩いた神戸の坂道でした。

 実は須賀さんの大叔父にあたる方が、当時神戸北野町の風見鶏の館の西隣の大きなお屋敷に住まれていたので、そこからの帰り道のことを思い出されたのでしょう。
 しかし現在は神戸には高層ビルが立ち並び、北野町の坂道からは、なかなか「青い海の切れはし」を見ることができません。

不動坂からの景色です。

北野天満神社にまで登ると、見晴らしはいいのですが、海までは。

「うろこの館」の更に上にある港みはらし台まで登ると、ようやく海まではっきり見渡すことができました。

 須賀さんの記憶にあった北野町の坂道の景色は、夙川に住まれていた昭和10年ごろのお話です。
先日、川西英さんの『神戸百景』を見ていると、戦後(1952〜1961年)描かれた神戸風景の中に、海が見える北野町の坂道がありました。

須賀さんはこんな坂道をお母様に手を引かれて、つま先に力を入れて下って行かれたのでしょう。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11774472c.html
須賀敦子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

北原千代さんの『須賀敦子さんへ贈る花束』が刊行されました

 今年は須賀敦子さんが亡くなって20年。親族のお話によると、3月20日の命日には須賀さんが眠る甲山墓園のお墓には、ファンの方の花束や天国の須賀さんに宛てた手紙が置かれていたそうです。


 没後20年を記念して、須賀敦子さん関する本が次々と出版されていますが、私が待ち望んでいた北原千代さんの『須賀敦子さんへ贈る花束』が思潮社より刊行されました。

個人誌『ばらいろ爪』で詩人の感性で書き継いで来られたエッセイ集です。

 北原さんは昨年、詩壇の芥川賞と言われているH氏賞を受賞され、一昨年には芦屋ルナホールで開催した「芦屋文学サロン 須賀敦子と芦屋・西宮」でもご講演いただきました。

(写真は須賀敦子さんゆかりのカトリック夙川教会を眺めるレストランのテラス席で)

 装幀をされたのはH氏賞受賞作品の『真珠川 Barroco』でも担当されたグラフィックデザイナー伊勢功治氏ですが、著書の『写真の孤独』の最初の章で、「写真の孤独―ジャコメッリと須賀敦子の出会いから」と題して、素晴らしい解説をされています。

須賀敦子さんは『コルシア書店の仲間たち』の「銀の夜」で、
<いちめんの白い雪景色。そのなかで、黒い、イッセイ・ミヤケふうのゆるやかな衣服をつけた男が数人、氷の上でスケートをしている。まんなかのふたりの人物は、たのしそうに笑いながら、ひとりはこちらを向いて、もうひとりは、横顔をみせ、ふたりのマントが、ふしぎな三角形をえがいて風に吹かれている。右端のずっとうしろに、これも黒い、先端にポンポンのついた毛糸の帽子をかぶった男が、ほとんどふたつ折れになった恰好で、むこうに滑っていく。>と紹介されているマリオ・ジャコメッリが撮影した一枚の白黒写真をみつけます。

 須賀さんは被写体が若き日のダヴィデと彼の親友のカミッロにちがいないと思うのですが、伊勢功治氏はそこに須賀さんの創作が入っていると解説されています。
もちろん、このお話についても北原千代さんは言及されています。

 北原さんの須賀敦子さんへ捧げる13の花束。一つ一つの花束が美しく、また或るところでは、このような読み方をするんだと新たな視線を向けさせてくれます。須賀ファンには是非読んでいただきたいエッセイ集。この本を持って甲山墓園に行かせていただきます。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11769393c.html
須賀敦子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

久坂部羊が喫茶店ムジカで見つけた久坂葉子の絵

 久坂部羊は、阪大医学部を卒業し、医師となりながら、同人誌『VIKING』での活動を経て、2003年に作家デビューした異色作家です。

 久坂部羊さん、笹舟倶楽部さんが紹介されていましたが、今年2月に西宮神社会館で講演会を開かれていました。

 その著書『ブラック・ジャックは遠かった 阪大医学生ふらふら青春記』の「ティーハウス・ムジカでの運命の出会い」で、まだ移転する前のムジカで久坂葉子の描いた2枚の絵と出会ったことを述べています。

<中之島界隈には今もオシャレな喫茶店が数多くあるが、私が医学生だった30年ほど前は、紅茶専門店のムジカが有名だった。ムジカは今は堂島に移っているが、以前は曽根崎新地にあった。ここでは世界中の紅茶を飲むことができ、また店名MUSICAからわかるように、店内に流れるクラシックの名曲を楽しむことができた。メニュには各紅茶の産地や風味、色合いなどが書かれていて、それを読むだけでも退屈しなかった。>

 
 坂部羊さん自筆の80年代の中之島の思い出MAPというイラストが掲載されていました。この図ではムジカは北新地の西端にあります。このようなところに移転したこともあったのでしょうか。

 現在、ティーハウス・ムジカは大阪の店舗は閉店し、芦屋と三宮センター街にあります。

<臨床実習をしていた大学病院からも近かったので、私は友人たちや彼女とたびたびこの店に通っていた。そしてここである女性と運命的な出会いをしたのである。といっても、本人に会ったわけではなく、私が出会ったのはその女性が描いたスケッチだった。当時、ムジカの壁には、世界中の紅茶のラベルが隙間なく貼られていて、そのなかに2枚、古びたA4サイズの紙が混じっていた。1枚は鳥や花、もう一枚は海の中の魚や蛸が、黒いインクで実に奔放に描かれていた。鳥の嘴など、ふつうは輪郭を描くところを、ペンのたわみを生かした見事な線一本で表現されている。私は感心して、店の人に、これはだれの絵かと訊ねた。「久坂葉子という、戦後に芥川賞候補になって、阪急六甲で飛び込み自殺した女流作家が描いたものです」>

 その時は、そのまま聞き流していた久坂部羊ですが、その6年後の1983年の朝日新聞夕刊に掲載された奇妙なスケッチの写真に目をとめます。

<女性の顔の絵で、右手で右目を隠している(鏡を見て描いた自画像なら、左手で左目を隠している)。その線の見事な勢いが、以前、ムジカで見たスケッチと同じだったのである。記事を読むと、果たして久坂葉子の作品とある。彼女の遺品が30年ぶりに菩提寺から実家にもどされたのを機に、神戸で展覧会が開かれるとあった。>

そこから久坂葉子に惹かれた久坂部羊は富士正晴に連絡し、何度か会ううちに、同人誌『VIKING』の例会に来るように言われ、しばらくして同人にしてもらったそうです。

「中之島の思い出MAP」に久坂部羊さんが「ムジカにあった久坂葉子が描いた鳥の絵」というk久坂部羊のイラストがありました。

『久坂葉子作品集』の表紙の絵は久坂葉子の描いた絵ですが、これに近い鳥の絵だったのかもしれません。
<「ムジカ」には今も久坂葉子のスケッチと新聞記事が飾られている。>と書かれていましたが、三宮のムジカにはありませんでした。


ひょっとして芦屋の現在の本店にあるのでしょうか。



goodポイント: 1ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11766578c.html
須賀敦子 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

久坂葉子に関する記事を読ませていただきました。
竹藪の中の一軒家、富士正晴さんのお宅にお邪魔した時、「名門の出の人は法要の所作がとても美しい」とおっしゃっていました、きっとお母様のことでしょう。
堀さんの奥様もご長寿でいらしたけど亡くなられたし、さびしい限りです。

[ やっこちゃん ] 2018/08/15 1:34:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

富士正晴さんや堀さんも御存知とは!きっと印象に残る方だったでしょうね。ブログ読んでいただきありがとうございました。

[ seitaro ] 2018/08/15 6:32:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

阪神間に「文学における原風景」を持つ作家たち

 年末に日本建築学会百周年記念文化賞受賞 奥野健夫著『文学における原風景』を読んで、阪神間に原風景を持つ作家、作品について改めて気付かされました。


 著者の奥野健夫氏は若いころ東芝の研究所に勤めながら、文芸評論も手掛けられたという特異なプロフィール。

昭和28年 東工大卒。東芝に入社し、数々の技術賞を受賞しながらも、在籍中から文学評論の活動を行い、昭和36年には多摩美術大学に移り、当初自然科学の講座を担当し、やがて『太宰治論』により文芸評論家として遇されていたため文学の講座に集中し、多摩美大の名誉教授になられています。

『文学における原風景』では、文学者の作品には、そのイメージやモチーフを支える母体としての自己形成空間が色濃く投影されているとし、文学を支える風土や原体験を日本民族の歴史にまで結び付けて論じています。

 東京に生まれの奥野健夫は、大都市の生活には地縁的共同体意識はなく、仮の生活空間という性格を持っている都市空間は、郷土と呼べないとし、
<故郷を持たない、つまり風土性豊かな自己形成空間を持たない大都会育ちのぼくは、強烈な“原風景”を内部に蔵している故郷のある地方出身の文学者たちにながい間絶望的な善望と嫉妬を感じて来た。>と述べています。
 そして、以前は故郷を意識することがなく、また風土、風景にも関心を持つことが少なかった奥野健夫は、各地を旅行し文学者の故郷や文学作品の舞台を直接訪れるようになり、
<“名作の旅”とか“文学散歩”とかいう趣味的な観点とは違う強烈な感銘を風土、風景におぼえはじめた。文学者の思想や気質や美意識、文学作品の基調となっている作者の内的イメージ、深層意識は、その風土や風景と密接にかかわりあっている。>
としています。

 また原風景の形成時期については、まず幼少年期と思春期にあるとし、
<このような文学の母胎でもある“原風景”は、その作家の幼少年期と思春期とに形成されるように思われる。生まれてからと七、八歳頃までの父母や家の中や遊び場や家族や友達などの環境によって無意識のうちに形成され、深層意識の中に固着する“原風景”、それは後年になればなるほど不思議ななつかしさを持って思い出され、若い頃にはわからなかった繰返されるその風景やイメージの意味が次第にわかるようになってくる。>
次に二十歳前後の人格形成期をあげています。
<もうひとつは二十歳前後のもっとも感受性が強い人格形成期に受ける衝撃的な原体験や感銘によってつくられる“原風景”である。>

 さて、『阪急沿線文学散歩』で登場していただいた作家のなかで、あらためて阪神間に原風景を持つ作家と強く感じたのは、

「須賀敦子」


「遠藤周作」

「野坂昭如」

「村上春樹」

「キョウコ・モリ」

奥野健夫は、
<“原風景”は作家によって説明的、直接的に描かれない。しかしその作家の書くものに“原風景”は色濃く投影されている。>としていますが、上記の作家は私小説的作品やエッセイで、幼少年期、思春期、人格形成期における生活環境、家族や友人との関係、衝撃的な原体験について自ら述べており、作品への影響がよく理解できます。
一度彼らが生きた時代の「文学における原風景」を整理してみたいと思っています。


goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11697382c.html
須賀敦子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

読売新聞名言巡礼「須賀敦子」で関西では読めなかった記事

 8月20日の読売新聞日曜版の名言巡礼 須賀敦子「きっちり足に合った靴さえあれば…」は東京では2面構成になっているのですが、残念ながら関西では「続きは「読売プレミアム」でと書かれて、2面側の記事は読めませんでした。
YOMIURI ONLINEでも1面側も記事しか読めません。
http://www.yomiuri.co.jp/life/travel/meigen/20170816-OYT8T50063.html?from=tw

2面側の記事を入手し、日にちも経過しましたので、貼り付けさせていただきました。

クリックすれば大きくなります。






松本由佳記者が、須賀さんの編集者のお話や、小林聖心女子学院、夙川、香櫨園、西宮神社など西宮の名所を含め、うまくまとめた記事を書かれています。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11653996c.html
須賀敦子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

関西圏では読めなかった『名言巡礼』須賀敦子さんと西宮案内

 8月20日の読売新聞日曜版『名言巡礼』、1面には大きくカトリック夙川教会の写真が掲載されましたが、1面の最後は、<※購読者向け有料サイト「読売プレミアム」でさらに詳しい記事を紹介しています。>
で終わってしまい、肝心の西宮市民として最も関心ある記事が読めませんでした。

「小説や映画、詩や歌に残された作家たちの名言。その舞台となった土地をたずね、言葉が生まれた物語や背景、今を生きる人々の記憶を紹介します」とした『名言巡礼』は、東京では2面仕立ての記事になっており、関東に住む人にとっての西宮観光案内となっているのです。

2面には、まず小林聖心女子学院のみこころ坂の写真とともに須賀敦子さんが通った小林聖心女子学院が紹介されています。

そして、イラスト地図が掲載され、西宮では須賀さんが眠る甲山墓園の近くにある甲山森林公園、夙川公園、夙川カトリック教会、西宮神社、宮水庭園、須賀さんが泳いだ御前浜公園などが紹介されています。
 本文では、「コスモスの海」で紹介されていた神戸北野町の大叔父のお屋敷についても触れられていますが、さすがそこまではイラストに入らなかったようです。

最後に「旅のアラカルト」として、東京から西宮へのアクセス、西宮のお土産として、西宮スタイルの岡本さんご推奨のペーパークラフト「西宮風景箱」が紹介されていました。

 大変うまく須賀敦子さんと西宮についてまとめられた記事ですが、西宮市民、須賀敦子ファンとしては肝心の2面が関西版にはなかったのが残念です。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11649522c.html
須賀敦子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

読売新聞日曜版『名言巡礼』に須賀敦子『ユルスナールの靴』が登場

 8月20日(日)読売新聞日曜版の『名言巡礼』で須賀敦子さんの言葉が取り上げられ、カトリック夙川教会や小林聖心女子学院、西宮が紹介されました。

読売新聞のウェブサイトYOMIURI ONLINEで、その動画を見ることができます。

http://www.yomiuri.co.jp/stream/?id=06968

名言巡礼 須賀敦子「ユルスナールの靴」から 西宮・宝塚
最初はカトリック夙川教会から始まります。

聖堂のステンドグラス。

美しいカリヨンの音も聴くことができます。


続いて夙川の映像。


夙川河口、御前浜の映像です。

西宮ヨットハーバーも。

最後はアントニン。レイモンド設計の小林聖心女子学院の校舎。

普段はなかなか見ることのできない内部の映像です。

須賀敦子さんが月曜日に上履きを忘れて赤い鼻緒の大きなゾウリをはかされて、ペタペタと音をたてて歩いた廊下。教室の扉は昔のままです。

須賀さんが通われていたころ、遠藤周作の母、郁さんが音楽を教えておられた頃の聖堂は現在は講堂として使われています。

最後のシーンはみこころ坂を小林聖心女子学院の生徒が歩いて帰っていく姿にかぶせられた名言、
「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」

胸にじんときました。
うまく纏められた3分22秒の映像、是非ご覧ください。


goodポイント: 1ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11649301c.html
須賀敦子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

昭和11年世界一周した須賀敦子さんの父豊次郎氏のSOUVENIR

 須賀敦子『遠い朝の本たち』父ゆずりに須賀さんの父親が世界一周の旅をしたことが述べられています。

<私が六歳のとき、父は、当時そう呼ばれた世界一周の旅をした。船でウラディヴォストックにわたり、そこからシベリア鉄道でモスコウを経てヨーロッパの国々やイギリスをたずね、さらにロンドンから船でアメリカに行き、大陸を列車で横断したあと、また船で太平洋を渡って帰るという、いまでは考えられないほどの、ゆっくりした旅行だった。行った先々で、父は日本で待っている人たちにおみやげを買った。とくに最後に寄ったカリフォルニアからは、おおきな木箱いっぱいのサンキスト・オレンジがとどいた。>

 この世界一周の旅の旅の始まりは、昭和11年7月12日のこと。豊次郎氏は日本貿易振興協会主催による世界一周実業視察団体旅行に参加します。船で神戸港を発ち、ウラジオストックからシベリア鉄道に乗り、モスクワを経由し、ワルシャワ、ブダペスト、プラハ、イスタンブール、ヴェネツィア、ローマ、フィレンツェ、ウィーン、パリ、ロンドン、サンフランシスコなどを巡り、翌年5月に帰国しています。

この視察旅行は須賀工業90年史にも記載されていました。

<昭和11年7月中島彦六常務・須賀豊治郎取締役、日本貿易振興協会主催の世界一周実業視察団体旅行に参加>と須賀工業から中島彦六常務と共に二人で参加されていますが、(12.12帰国)と書かれており、中島常務は12月12日に帰国し、豊治郎氏は翌年5月まで旅を続けられたようです。

 先日、須賀敦子さんのご実家を訪問させていただき、豊治郎氏の素晴らしいコレクションを見せていただきました。
その一つが世界中のスプーンのコレクション。

豊次郎氏が訪問した都市の合計24本のスプーンのコレクションです。


おみやげはおおきな木箱いっぱいのサンキスト・オレンジだけではなかったようです。
コレクションの下には、「SOUVENIR 1936 TOYOJIRO SUGA」の銘板が今も光り輝いていました。

1936年といえば、8月1日から8月16日にかけてナチス政権下で、ベルリンで夏季オリンピック大会が開催されており、そのスプーンもありました。


 須賀敦子さんの回想的エッセイ『ヴェネツィアの宿』の最終章「オリエント・エクスプレス」の冒頭は、父豊治郎氏が世界一周の旅で訪れたエディンバラに行きステーション・ホテルに泊まるよう言われた話から始まります。
<「朝、九時にキングス・クロス駅から、『フライング・スコッツマン』という特急列車が出ているはずです。それに乗ってエディンバラまで行ってください。パパも同じ列車でスコットランドへ行きました。エディンバラでは、ステイション・ホテルに泊まること」>

そのエディンバラのスプーンもありました。

真ん中のスプーンですが、絵はエディンバラ城の入口の塔を模したのでしょう。


 その左隣のスプーンには、シェークスピアの故郷ストラットフォード・オン・エイボンと書かれています。

 右隣りのスプーンに書かれているRMS Aquitaniaが何かわからず、調べてみると、

イギリスのキュナード・ラインが建造した北大西洋航路客船の名前で、大きさはタイタニック号とほとんど変わらず、エンジン出力はタイタニックを上回るものでした。

このような当時の豪華客船でイギリスからニューヨークに渡ったのでしょう。

ちなみに、RMS Aquitaniaのスプーンの右隣は、ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングのスプーンでした。

何と豪華な旅だったのでしょう。このような視察団があったことは昭和11年の頃の日本の国力を表しているのかもしれません。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11640809c.html
須賀敦子 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

凄いなあ!

[ k.imamura ] 2017/07/31 6:48:41 [ 削除 ] [ 通報 ]

はい。昭和11年の豪華世界一周の旅、ビックリです。

[ seitaro ] 2017/07/31 16:20:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

須賀敦子さんが植えたネムノキが夙川の須賀邸で満開です

 須賀敦子さんは、お母様の看病に夙川に戻られた当時、実家の庭にネムノキを植えられたそうです。
ネムノキは『ヴェネツィアの宿』の「旅のむこう」に書かれているようにお母様が好きな花木でした。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11461487c.html
 ちょうど今週、須賀邸のネムノキの花が満開を迎えているとのお知らせいただき、見せてもらいに行ってまいりました。
2階のベランダから撮影した須賀敦子さんが植えられたネムノキです。


 ベランダから西側を見ると、須賀さんの『遠い朝の本たち』の「小さなファデット」に描かれた景色からすっかり変わってしまった現在の光景を見ることができました。
「小さなファデット」からです。
<私たちが幼年時代をすごした家は、六甲山の山すそがもうすこしで海にとどいたという、起伏の多い土地にあった。藤棚につづく茶の間にすわって、細い小川が流れる低地をへだてた向こうの山を見ると、太陽に白くきらめく花崗岩の地肌に、アカマツやクロマツに下生えの灌木などそれぞれの微妙にちがった緑が映えて、都会からたずねてくる客は皆すばらしい眺めですね、とうらやましがった。山と私たちは呼んでいたけれども、それは六甲山脈につづく低い丘陵の一角にすぎなくて、山肌をびっしりおおっていた山つつじの群落を、私たちはごくあたりまえのもののように、毎日、眺めていた。春、線路に沿った道の葉桜の緑がようやく出そろうころには、山がうすむらさきにぼうっと明るんだ。>
また2009年冬号「考える人」で妹の北村良子さんは、その光景を次のように述べられています。
<夙川の須賀の家は、西側の家の崖下に、今と違って広い田んぼが二面あり、その向こうに小川をはさんで、通称稲荷山といわれた深い松林の丘があり、春には山つつじがいっぱい咲くし、とても自然に恵まれていました。家では皆、いつも「借景」と言っていてその景色が好きでした。松林の丘に、子供がよじ登れる場所が二ヶ所だけあって、姉はそこからどんどん登っていました。メダカも掬いましたし、コオロギとかキリギリスとかも、捕まえてはカゴに入れて、ミミズなんて別に怖くもないという感じ。>

 現在は、田んぼやため池は埋め立てられ、住宅地となってしまいました。
その向こうに見える稲荷山(高塚山)にはマンションが建てられてしまいました。一番後ろにかろうじて見えているのが六甲山の山並みです。


goodポイント: 1ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11629102c.html
須賀敦子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

  1  |  2  |  3    次へ
  
このブログトップページへ
seitaroイメージ
阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

カテゴリー一覧

QRコード [使い方]

このブログに携帯でアクセス!

>>URLをメールで送信<<