阪急沿線文学散歩

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須賀敦子さんが植えたネムノキが夙川の須賀邸で満開です

 須賀敦子さんは、お母様の看病に夙川に戻られた当時、実家の庭にネムノキを植えられたそうです。
ネムノキは『ヴェネツィアの宿』の「旅のむこう」に書かれているようにお母様が好きな花木でした。
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 ちょうど今週、須賀邸のネムノキの花が満開を迎えているとのお知らせいただき、見せてもらいに行ってまいりました。
2階のベランダから撮影した須賀敦子さんが植えられたネムノキです。


 ベランダから西側を見ると、須賀さんの『遠い朝の本たち』の「小さなファデット」に描かれた景色からすっかり変わってしまった現在の光景を見ることができました。
「小さなファデット」からです。
<私たちが幼年時代をすごした家は、六甲山の山すそがもうすこしで海にとどいたという、起伏の多い土地にあった。藤棚につづく茶の間にすわって、細い小川が流れる低地をへだてた向こうの山を見ると、太陽に白くきらめく花崗岩の地肌に、アカマツやクロマツに下生えの灌木などそれぞれの微妙にちがった緑が映えて、都会からたずねてくる客は皆すばらしい眺めですね、とうらやましがった。山と私たちは呼んでいたけれども、それは六甲山脈につづく低い丘陵の一角にすぎなくて、山肌をびっしりおおっていた山つつじの群落を、私たちはごくあたりまえのもののように、毎日、眺めていた。春、線路に沿った道の葉桜の緑がようやく出そろうころには、山がうすむらさきにぼうっと明るんだ。>
また2009年冬号「考える人」で妹の北村良子さんは、その光景を次のように述べられています。
<夙川の須賀の家は、西側の家の崖下に、今と違って広い田んぼが二面あり、その向こうに小川をはさんで、通称稲荷山といわれた深い松林の丘があり、春には山つつじがいっぱい咲くし、とても自然に恵まれていました。家では皆、いつも「借景」と言っていてその景色が好きでした。松林の丘に、子供がよじ登れる場所が二ヶ所だけあって、姉はそこからどんどん登っていました。メダカも掬いましたし、コオロギとかキリギリスとかも、捕まえてはカゴに入れて、ミミズなんて別に怖くもないという感じ。>

 現在は、田んぼやため池は埋め立てられ、住宅地となってしまいました。
その向こうに見える稲荷山(高塚山)にはマンションが建てられてしまいました。一番後ろにかろうじて見えているのが六甲山の山並みです。



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須賀敦子さんの訪れたエディンバラ城へ

 須賀敦子さんは父親がなんども話してくれたエディンバラ城を訪れます。
「オリエント・エクスプレス」からです。
<あっち、と見当をつけおいた方角にむかって、私はホテルの前のプリンセス・ストリートを西にむかって歩いた。エディンバラ城の容姿を、遠くからでもいいから、日が暮れてしまわないうちに視覚におさめておきたかったからだ。>

須賀さんの泊まったホテルはバルモラルホテル(元North British Station Hotel)とプリンセス・ストリートを挟んで向かいにあるロイヤル・ブリティッシュ・ホテル(地図中、赤矢印)でした。

ホテルにチェックインして、すぐにプリンセス・ストリートをエディンバラ城に向かって歩かれたようです。
<まもなく左手の視界が開けたが、窪地をあいだに挟んでいるのだろう、すべてが灰色に煙ったなかで、目をこらすとその谷のようにえぐれた土地をへだてて、異様な形骸の黒い岩壁がそそりたっていた。ホテルを出てから、ずっとなんの変哲もない街並を歩いてきたものだから、突然あらわれた岩山はただ奇異としかいいようがなくて、一瞬、幻覚におそわれたのかと、私は思わず目をとじてしまった。ホテルでもらった簡単な地図によると、それはたしかにエディンバラ城の方角だったが、目のまえにあるのが城砦なのか、ただの岩山なのか、判断がつかない。夕食の時間なのだろう、あたりの人影がさっとなくなって、霧だけが道に流れていた。>

プリンセス・ストリートから見たキャッスル・ロックという岩山の上に建つエディンバラ城です。昼間訪問しましたので、須賀敦子さんの見た城郭とは少しイメージが違いますが、中に入ってみましょう。

入口はもう観光客でいっぱいでした。
立派な城門をくぐって、坂を上っていくと砲台のある広場に出ます。

ここからは北の方に新市街やフォース湾が見渡せます。

東側の光景。

ウェバリー駅、須賀豊次郎氏が泊まったNorth British Station Hotel、須賀敦子さんが泊まったロイヤル・ブリティッシュホテルも見えています。

 エディンバラ城は7世紀にノーサンブリアの王エドウィンが造った砦が元になっていますが、現存する最も古い建物は十二世紀の聖マーガレット礼拝堂です。


 上りきるとクラウン・スクエアにたどりつき、王宮、グレートホール、戦没者記念堂などの建物が中庭を取り巻くように建っています。

その他にも、兵舎、火薬庫、病院、戦争博物館、牢獄などがありました。

この城からの新市街を見晴らす景色は素晴らしいものでした。


ただ新市街と言っても1793年に建設された街ですから、恐れ入ります。



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須賀敦子さんがエディンバラで宿泊したホテルは

 須賀敦子さんが父親に強く勧められてエディンバラを訪れたのは昭和34年30歳の時でした。

 父親の勧めでステイション・ホテルに宿泊しようとしますが、日本からの留学生の予算にはとてもあいそうもなく、老バトラーに別のホテルを教えてもらうことになります。

 須賀さんは、到着したNorth British Staion Hotelのロビーで、意を決して老バトラーに次のように切り出します。
<「もうしわけないけれど」私はバトラーの顔を見すえて、でもうっかりすると震えそうになる声を気にしながら、切り出した。「三十年まえ、このホテルに泊まった父にいわれて、駅からまっすぐこちらに来たのですが」そういうと、はてな、といった表情が一瞬、老バトラーの顔をよぎったが、それでも彼はまったく笑顔をくずすことなく、カウンターのこちら側に身をのりだすようにして私のいうことに耳を傾けてくれた。>

写真の左側のカウンターでの出来事かもしれません。

<「どうも、私の予算にくらべて、こちらは立派すぎるようです」覚悟を決めて私が一息にそういってのけると、「ほっほ」というような、深みのある音がバトラーの口から洩れた。「それで?」「こちらでいちばん高くない部屋はいくらぐらいかしら?」消えてしまいたい気持ちをおさえて、でも、一歩もゆずってはだめだと、さっぱり気分にそぐわない笑顔をつくった。>
 結局、どれも須賀さんの予算をはるかに超えるものでした。

<「ほんとうに申し訳ないけれど……」私はもういとどくりかえした。「あまり遠くないところで、こちらほど上等でなくて、でもしっかりしたホテルをおしえていただけないかしら。父に言われていたので、ここに泊まることだけを考えて来たものだから」
老バトラーの目が糸のように細くなり、野球のグローブのような手をまるめてペンをにぎったと思うと、ステイション・ホテルの紋章がついた贅沢な用箋にすらすらと別のホテルの名を書きつけ、ウィンクしながらそれを背の高いカウンターのまえで背伸びしてる私に差し出した。「正面のドアを出て、通りを渡ったところです。ちゃんとしたホテルだから、安心なさって大丈夫です。では、おじょうさん、よいご旅行を」>
とバトラーに希望にあった近くのホテルを教えてもらうのです。日本人としての須賀さんの態度もさすがですが、述べられている老バトラーの対応も素晴らしく、これぞ伝統のスコットランドのバトラーといったものでした。

 須賀さんがこの時宿泊されたホテルの名前は、松山巌さんが作成された年譜に記されていました。

<昭和三十四年十月九日、午前十時に部屋を出て、タクシーで、キングス・クロス駅に。午前十一時半の列車に乗り、ヨーロッパではじめて食堂車で昼食。六時半、エジンバラに到着。ロイヤル・ブリティッシュ・ホテルに泊まる。>
たしかにロイヤル・ブリティッシュ・ホテルはプリンセス通りを渡った向かいのホテルでした。

時計塔のあるバルモラル・ホテル(旧North British Station Hotel;写真右)と須賀さんの宿泊したロイヤル・ブリティッシュ・ホテル(写真左端)です。

<エディンバラのステイション・ホテルのある通りをへだてて斜向いの小ざっぱりしたホテルの清潔なベッドで目をさますと、私はこの思いがけない宿に来ることになった前夜の出来事を考えて、いろいろあったけれど、とにかくすべてうまくいったと思うと、いまいる部屋の落着いたたたずまいにも気がなごんで、羽枕ほどふわふわした満足感が、じんわりとからだにひろがっていくのだった。>

 賑わっているプリンセス通り。左側にロイヤル・ブリティッシュ・ホテルがあります。

しかし、調べるとロイヤル・ブリティッシュ・ホテルも1899年開業の伝統あるホテルでした。


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須賀豊次郎氏が宿泊したエディンバラのステーションホテル

 須賀敦子さんの父豊次郎氏は1936年日本貿易振興協会主催による世界一周実業視察団体団旅行に参加し、途中ロンドンのキングス・クロス駅からフライイング・スコッツマンに乗ってエディンバラを訪れます。

そのステーションホテルを訪ねるのが今回のイギリス旅行の楽しみでした。

 しかし、エディンバラでステーション・ホテルと呼ばれたのが上の写真の「ウォルドルフ・アストリア」だと知り混乱したのですが、やはり豊四郎氏が宿泊し、1959年に須賀敦子さんが訪ねたのは現在のバルモラル・ホテル(旧North British Station Hotel)だったようです。

 エディンバラには当時、カレドニアン鉄道のプリンシーズ・ストリート駅とノース・ブリティッシュ鉄道のウェーバリー駅がありました。
 しかし、ロンドンからフライイング・スコッツマンが向かったエディンバラの駅はウェーバリー駅であったことがわかり、そのステーションホテルとは現在のバルモラル・ホテル、当時のNorth British Station Hotelに違いないようです。

写真は1948年のウェーバリー駅とNorth British Station Hotel

North British Station Hotelは1902年開業し、1988年までその名前で続いていました。
須賀敦子『オリエント・エクスプレス』からです。
<ロンドンを出るときは晴れ上がっていた空が、列車が北上するにつれて灰色になり、私の感覚では東京―大阪とほぼおなじくらいの距離と思えたエディンバラの駅に到着したのは午後の遅い時間だった。>

現在のウェーバリー駅の様子です。

現在も古い駅舎の面影をとどめています。

ウェーバリー駅はエディンバラの新市街と旧市街の間の谷にあります。

 
現在のウェーバリー駅から地上に上るスロープですが、当時はどんな道がホテルにつながっていたのでしょう。


 須賀さんは駅に降り立つとStation Hotelという赤いネオンが見え、それを目指して歩きます。暗い通路を行き着いて、いきおいよくドアを開けたとたん、その豪華さに圧倒されるのです。

地上から見たバルモラル・ホテルです。
<あの安っぽいネオン・サインからは想像もつかない、ケイトウ色の赤い絨毯が海のように私の前にひろがっていて、通路の暗さとはうってかわった、まるで豪奢なルネッサンスの宮廷に迷い込んでしまったかと思うほど美しいシャンデリアが、クリスタルのしずくのひとつひとつに光を反射させて燦いていた。>

現在も美しいシャンデリアがあるロビーです。

昔はもっと豪華絢爛だったようですが、ここで須賀敦子さんと老バトラーとの素晴らしい会話が始まるのです。
<あちこちに真鍮がきらめいている、顔のうつりそうなマホガニーの腰高なカウンターの前に立つと、でっぷりふとった、そしてこれも正装した白髪の老バトラーがにこやかに近づいてきた。キングス・クロスの駅を離れてからずっと、往年の父の優雅な旅をあたまのなかで追ってきた私が、そのとたん、貧乏旅行しかしたことのない戦後の留学生に変身した。
「もうしわけないけれど」私はバトラーの顔を見すえて、でもうっかりすると震えそうになる声を気にしながら、切り出した。「三十年まえ、このホテルに泊まった父にいわれて、駅からまっすぐこちらに来たのですが」>
<「こちらでいちばん高くない部屋はいくらぐらいかしら?」消えてしまいたい気持ちをおさえて、でも、一歩もゆずってはだめだと、さっぱり気分にそぐわない笑顔をつくった。>

今回は粋な老バトラーには出会えませんでしたが、キルトを着たドア・マンも風格を漂わせています。



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 日本のホテルとは全然違いますね 風格と言い伝統と言い 

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/06/25 10:14:03 [ 削除 ] [ 通報 ]

ステーション・ホテルのイメージは、日本とは全然違いました。いつになったら、日本もあんなに心豊かに暮らせるのでしょう。

[ seitaro ] 2017/06/25 15:24:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

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須賀敦子さんがキングス・クロス駅から乗ったフライイング・スコッツマン

 須賀敦子さんの『ヴェネチアの宿』の最終章「オリエント・エクスプレス」は次のように始まります。
<「朝、九時にキングス・クロス駅から、『フライイング・スコッツマン』という特急列車が出ているはずです。それに乗ってエディンバラまで行ってください。パパも同じ列車でスコットランドへ行きました。エディンバラでは、ステイション・ホテルに泊まること」
行ってください、という一見、おだやかでていねいな口調とはうらはらな「泊まること」という命令のほうが父の本音だということぐらいは、すぐにわかった。>

キングスクロス駅の外観は昔の様子のまま残されていました。

<フライイング・スコッツマン、空飛ぶスコットランド男、たぶん、父はなによりもその列車の名前が気にいっていたのだろう、自分に似て旅の好きな娘をそれに乗せて古い北方の首都まで行かせる。一見、唐突にもとれる手紙だったのだが、いかにも彼らしいロマンがそこには読みとれて、父への反抗を自分の存在理由にしてきたみたいにしてきた私も、こんどばかりはめずらしくすんなりと彼の命令を受けるつもりになった。>

 須賀さんがフライイング・スコッツマンに乗ってエジンバラを旅したのは1959年のことですが、1959年に走っていたフライイング・スコッツマンの写真がありました。まだ蒸気機関車のままでした。

<そしてキングス・クロス駅で、おどろいたことに父の言ったとおりの列車が言ったとおりの時間に出るのを知ってほとんど無力感におそわれながらも、さっそく三等車の切符を求めると、八月十八日の出発を心細さと期待のまざった気持ちで待ちわびた。>

 調べてみるとフライング・スコッツマンは、1862年からずっとキングスクロス駅の同じプラットフォームの10番線から同じ時刻の午前10時にエジンバラに向けて出発しているのです。
これもイギリス人の伝統を頑なに守る気質からでしょうか。

このフライイングスコッツマンが、ハリー・ポッターのホグワーツ特急のモデルになっているのです。

ホグワーツ特急もフライイングスコッツマン同様、キングスクロス駅を毎11時に93/4線から出発するのです。

話が逸れましたが、これから須賀敦子さんの「オリエント・エクスプレス」に登場するエディンバラのステーションホテルを明らかにしていきます。



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須賀豊次郎氏が宿泊したエディンバラのステーション・ホテル

 父親からの手紙に書かれていたとおり、須賀敦子さんはエディンバラの「ステイション・ホテル」に泊まるつもりで、ロンドンからフライイング・スコッツマンに乗ってでかけます。
須賀敦子『オリエント・エクスプレス』からです。
<ロンドンを出るときは晴れ上がっていた空が、列車が北上するにつれて灰色になり、私の感覚では東京―大阪とほぼおなじくらいの距離と思えたエディンバラの駅に到着したのは午後の遅い時間だった。>
 このエディンバラの駅というのが問題ですが、先に進みましょう。
 駅に降り立つとStation Hotelという赤いネオンが見え、それを目指して歩きます。暗い通路を行き着いて、いきおいよくドアを開けたとたん、その豪華さに圧倒されるのです。
<あの安っぽいネオン・サインからは想像もつかない、ケイトウ色の赤い絨毯が海のように私の前にひろがっていて、通路の暗さとはうってかわった、まるで豪奢なルネッサンスの宮廷に迷い込んでしまったかと思うほど美しいシャンデリアが、クリスタルのしずくのひとつひとつに光を反射させて燦いていた。>
Station Hotelという赤いネオンも、ホテルを探すのにヒントになります。
<あちこちに真鍮がきらめいている、顔のうつりそうなマホガニーの腰高なカウンターの前に立つと、でっぷりふとった、そしてこれも正装した白髪の老バトラーがにこやかに近づいてきた。キングス・クロスの駅を離れてからずっと、往年の父の優雅な旅をあたまのなかで追ってきた私が、そのとたん、貧乏旅行しかしたことのない戦後の留学生に変身した。
「もうしわけないけれど」私はバトラーの顔を見すえて、でもうっかりすると震えそうになる声を気にしながら、切り出した。「三十年まえ、このホテルに泊まった父にいわれて、駅からまっすぐこちらに来たのですが」>

 私は今まで、このエディンバラのステーションホテルとは、エディンバラ・ウェーヴァリー駅のすぐ上にあるバルモラル・ホテルだと思っていました


 しかし、今回エディンバラに来て『地球の歩き方』のホテルの頁を開いてみると、「かつてステーション・ホテルとして、バルモラルとともに名をはせた古式ゆかしいホテル」と説明されていたのは、何と「ウォルドルフ・アストリア」というホテルだったのです。

 上の地図の赤矢印の位置にある「ウォルドルフ・アストリア」は、「ステーション・ホテル」といってもプリンスィズ通りの西端にあり、ウェーバリー駅からはかなり離れているのに、何故ステーション・ホテルと名付けたのでしょう。

 更に調べると1870年、そこにはPrinces Street Stationという駅が幹線駅として存在していたことがわかりました。
しかも、この駅は1965年には完全に無くなっていたのです。

 ここから、私の頭の中の混乱が始まったのですが、取り敢えずかつて「ステーションホテル」だったという「ウォルドルフ・アストリア」に向かいました。

アーチ型の窓や入り口が駅舎を思わせるデザインになっています。

当時存在したPrinces Street Stationの門も、現在は駐車場の入口となっていますが。残されていました。

 豊次郎氏が宿泊したのは、このステーションホテルだったのでしょうか。
帰国後に、もう一度今まで調査した資料と比較して、明らかにするつもりです。


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須賀敦子『オリエント・エクスプレス』のエディンバラの足跡を追って

 須賀敦子さんの回想的エッセイ『ヴェネツィアの宿』の最終章「オリエント・エクスプレス」の冒頭は、父豊次郎氏からロンドンからフライング・スコッツマンに乗って、エディンバラに行きステーション・ホテルに泊まるよう言われた話から始まります。
<「朝、九時にキングス・クロス駅から、『フライング・スコッツマン』という特急列車が出ているはずです。それに乗ってエディンバラまで行ってください。パパも同じ列車でスコットランドへ行きました。エディンバラでは、ステイション・ホテルに泊まること」
行ってください、という一見、おだやかでていねいな口調とはうらはらな「泊まること」という命令のほうが父の本音だということぐらいは、すぐにわかった。>
 須賀さんは1959年8月にロンドンからエディンバラを訪れます。父親に言われた通り、ステーション・ホテルに向かった須賀さんは、そこで老バトラーと感動的な会話を繰り広げたのです。

 私も『オリエント・エクスプレス』に登場する格式のあるステーション・ホテルが、現在はどのようなホテルになっているのか訪ねてみようと、スコットランドの古都、エディンバラに向かい、到着したのは6月13日のことでした。

 そこには石造りの家など、他のヨーロッパ地域とは異なるスコットランド特有の風景が広がっていました。

 一番、目についたのが、ほとんどの家の屋根にあるチムニー・ポット。

 空港からホテルに向かう途中に見えるすべての家々の煙突に、チムニーポットが付いているのです。

エディンバラ郊外の住宅地の風景です。


 集合住宅風の家の煙突の上には何本ものチムニーポットが並んでいます。


 一つ一つの暖炉に一本ずつチムニーポットが繋がっているはずなので、煙突の上のチムニーポットの数で暖炉がついている部屋の数がわかります。



 チムニーポットを調べると、日本では園芸用品として販売されており、暖炉で薪が燃やされることもほとんど無くなった現在では、イギリスでも無用の長物となって取り外され、煙突上のチムニー・ポットは残り少なくなっているだろうと想像していました。

 しかし、エディンバラに到着して目にした光景は、想像していたものと全く違う光景でした。

 特にスコットランドは気温が低いせいか、はたまた北海のガス田に恵まれているせいか、薪や石炭を使う暖炉が少なくなった現在も、部屋ではガスストーブが暖炉に組み込まれて使われているようです。

 メリーポピンズにも登場するチムニーポット。
ロンドンでも健在なのでしょうか。


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須賀敦子『オリエント・エクスプレス』最後の文章にそんな深い意味が!

 須賀敦子さんの回想的エッセイ『ヴェネツィアの宿』の最終章は須賀さんが「父への反抗を存在理由にしてきた」という須賀豊次郎氏の臨終場面です。

 最終章「オリエント・エクスプレス」の最後で、須賀さんはミラノから持って帰った白いコーヒーカップを、そっと父のベッドのわきのテーブルに置くと、それを横目で見るようにして父の意識が遠のいていきます。

(「箱根ラリック美術館」に展示されているオリエント・エクスプレス)

そして問題の結びの文章です。
<翌日の早朝に父は死んだ。あなたを待っておいでになって、と父を最後まで看とってくれたひとがいって、戦後すぐにイギリスで出版された、古ぼけた表紙の地図帳を手渡してくれた。これを最後まで、見ておいででしたのよ。あいつが帰ってきたら、ヨーロッパの話をするんだとおっしゃって。>

 さてここで「父を最後まで看とってくれたひと」とはいったいだれのことかというのが、ずっと私の疑問でした。須賀さんの母も当時は容体が悪く、豊次郎氏の最後を看とることはできなかったはずなのです。

 その疑問を解いてくれたのは、2009年『考える人』特集;書かれなかった須賀敦子の本の湯川豊さんによる北村良子さんのインタビュー記事「姉のこと」です。

 ふたつの家を持っていた豊次郎氏の相手の人について、湯川豊さんが<『ヴェネツィアの宿』で、お父さんの最後を看取って。>と話されているのです。さらに、
<北村 彼女はその場では遠慮して、病室を出て行ってました。ですから、ある程度わきまえた人。>と臨終の場におられたことが明かされていました。

『ヴェネツィアの宿』は「文學界」に一年間、連載されたもので、その題名は『古い地図帳』だったのです。そうすると、須賀さんがこの作品で一番大切にして書きたかったのは、父を最後に看とってくれた人が伝えてくれたこの言葉だったのでしょう。
「古い地図帳」とは、父を許す気持ちと、その相手の人も許す気持ちになったことを隠喩しているのかもしれません。



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須賀敦子「オリエント・エクスプレス」コーヒーカップの真実

 須賀敦子さんは昭和45年、会社の人から容体の悪くなった父上からのオリエント・エクスプレスのコーヒーカップを持って帰ってほしいという伝言を受けます。

 
そして、ミラノの駅でオリエント・エクスプレスの車掌長から、白地にブルーの模様がはいったデミ・タスのコーヒー茶碗と敷皿を譲り受けた須賀さんは、そのまま虎の門病院に駆けつけます。


『ヴェネツィアの宿』の最終章「オリエント・エクスプレス」からです。
<羽田から都心の病院に直行して、父の病室にはいると、父は待っていたようにかすかに首をこちらに向け、パパ、帰ってきました、と耳もとで囁きかけた私に、彼はお帰りとも言わないで、まるでずっと私がそこにいて一緒にその話をしていたかのように、もう焦点の定まらなくなった目をむけると、ためいきのような声でたずねた。それで、オリエント・エクスプレスは?>

 父への反抗を存在理由としてきたという須賀さんと父豊次郎との最後の場面です。
<私は飛行機の中からずっと手にかかえてきたワゴン・リ社の青い寝台列車の模型と白いコーヒー・カップを、病人をおどろかせないように気づかいながら、そっとベッドのわきのテーブルに置いた。それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。
翌日の早朝に父は死んだ。>
 このように、臨終間際の父上にコーヒーカップを渡す場面が、父親との和解を隠喩するかのように感動的に描かれています。
 コーヒーカップが間に合い、その翌日の早朝に父上が亡くなったことはフィクションではなく事実だったのですが、たった一つ事実と異なっていることがありました。それが2009年『考える人』特集;書かれなかった須賀敦子の本の「姉のこと」を再読してわかりました。

 妹の北村良子さんのお話、聞き手は湯川豊さん。オリエント・エクスプレスのカップを須賀さんが病室に持っていく最後の場面についてです。
<北村 そんなふうでしたね。もう本当に、死の床に姉がたどりついたという感じで、オリエント・エクスプレスのカップを持って入ってきて、「パパ、これ」って言って見せたら、カッと目を大きくあけて見て、すぐ目をつむって「違う」って横を向いたんです。オリエント・エクスプレスだって年々デザインを変えますよね。違うの?ってやさしく、でも悲しそうに姉は言いました。>
それを聞いた湯川豊さんは、
<父は違うと言って横を向いた、と書いたら、結末がどんな感じになったのかな。>
と述べていますが、それでも感動的な物語です。

そのコーヒーカップはまだ須賀家に残されているそうです。



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常盤貴子「旅するフランス語」で須賀敦子さんの訪れたコルマールへ

 須賀敦子さんが最後の取材旅行で尋ねられたコルマールが、がNHKのEテレ、常盤貴子さんの「旅するフランス語」第22章 アルザス紀行3で取り上げられていました。

「旅するフランス語」は語学番組というより、むしろ紀行番組といった感があり、昨年私も訪ねたコルマールの街を隈なく案内してくれました。

パステルカラーのかわいい建物が並ぶ美しい町。

中世の面影を残すユニークな建築物が多く、「頭の家」「小ヴェニス」など、おとぎ話のような風景をあちらこちらに見ることができます。

 須賀敦子さんは『アルザスの曲がりくねった道』で、主人公フランス人修道女オディールが故郷について話す場面からです。
<あっ、コルマールに行ったの。いつもは控え目な彼女が叫ぶようにそういうと、まぶたを半分とじるようにして、つぶやいた。ああ、コルマール。なつかしい、コルマール。戦争の前は、あの辺りのぶどう畑がぜんぶ、わたしたちの家のものだったのよ。シュレベール家のぶどう畑。息をつめるようにしてひと息にそういい終えた彼女に、わたしはあっけにとられた。>

『考える人』2009年冬号に、「一九九六年九月、最後の旅」と題した鈴木力氏(新潮社)の記事があり、須賀さんがコルマールを訪れたときの写真が掲載されていました。

「旅するフランス語」にも同じ場所(La Petite Venise)の光景が映されていました。

旧税関の前に建つ須賀敦子さん。

当然この場所も「旅するフランス語」に登場します。

コルマールは、日本では宮崎駿監督の『ハウルの動く城』のロケ地になったことでも有名。

プフィスタの家も、アニメのシーンに描かれていました。

八角形の塔、出窓、壁に描かれた絵画などいたるところが芸術的で、16世紀に裕福な商人のために建てられた家だそうです。

アルザス地方は歴史的にドイツとフランスの間を行ったり来たりした場所。そのため、地元の言葉であるアルザス語がとても大切にされてきましたとのこと。

「旅するフランス語」第24章はアルザス紀行5は最終回。

アルザス地方にあるオーベルジュでの豪華ディナーが紹介されていました。

昨年行ったときな見ることができなかったアルザスのシンボルともいえるコウノトリの映像も見ることができました。

これで終わりかと思いましたが、「常盤貴子の旅の手帖 大人のパリとアルザス地方」の今回のシリーズは4月から9月まで再放送されるそうなので、楽しみにしています。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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