阪急沿線文学散歩

サブURL(このURLからもアクセスできます):http://nishinomiya.areablog.jp/bungakusanpo

田辺聖子さんが暮らした異人館が川西英の『神戸百景』に描かれていた

 諏訪山の昔の風景を調べていると、川西英が戦後の神戸市内を描いた水彩画の画集「神戸百景」に「諏訪山住宅」という版画をみつけました。

 この画集は昭和8年から11年にかけて描かれた『神戸百景』ではなく、昭和27年〜28年の間に描かれ昭和37年に刊行されたいわゆる新・神戸百景と呼ばれている画集です。

 その「諏訪山住宅」を見ると、何と一番上に描かれている赤い屋根に黄色い壁の異人館は、田辺聖子さんが昭和41年からしばらく住まれていた異人館ではありませんか。

 一番ショックだったのは、私が先日訪ねて見つけたと思っていた家は違っていたことです。

諏訪神社の参道の西隣にある、神戸市立花と緑のまち推進センターから見上げると、一番上に2軒の家屋が隣接してあり、これが田辺さんの異人館跡で、リフォームされたのではないかと思い込んでしまったのです。

2軒続きの大きな洋館であったことや、そこまで登る道筋と階段は田辺さんの異人館へ登る道でしたし、阪神淡路大震災でも無事だったと書かれていたことから、間違いないと確信してしまいました。
 
 
 しかし、川西英の「諏訪山住宅」を見ると、異人館は私が信じ込んだ家の上に描かれていたのです。

 あらためて、その時撮った写真を見ると、下の写真の階段の左上に見えているのが、異人館の基礎で、異人館はもう無くなっていたのです。

この階段が、田辺さんの異人館の写真の右側に写っている階段でした。

川西英の「諏訪山住宅」の中腹に描かれている、アーチ形の建造物とコンクリートの擁壁も残っていました。

上の写真のれんが塀は、「諏訪山住宅」の右下に描かれているれんが塀です。

もう一度、諏訪山の異人館跡地を訪ねてきますので、しばらくお待ちください。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11703841c.html
田辺聖子 | コメント( 6 ) | トラックバック( 0)

詳しいリポート、ありがとうございます。そうですか。川西英さんが描かれてましたか。一度、宮崎翁にお見せしてみます。

[ imamura ] 2018/01/22 8:38:28 [ 削除 ] [ 通報 ]

川西英の「神戸百景」は神戸新聞に連載されていたそうなので、ひょっとするとよくご存じかもしれないですね。
近々空地になっているところに行って、そこからの神戸港の景色を撮ってきます。

[ seitaro ] 2018/01/22 12:58:40 [ 削除 ] [ 通報 ]

田辺聖子さんが暮らした異人館
震災に会う前に解体されていたようです。
地図・空中写真閲覧サービス で1991年まで洋館の存在は確認できましたが、震災当日の航空写真にはすでに更地になっていました。
なぜ震災でも無事だったと書かれたのでしょう?

[ Z探偵団 ] 2018/01/22 22:33:34 [ 削除 ] [ 通報 ]

本当ですか。平成17年の田辺聖子さんと小川洋子さんの対談で、小川さんの今もあるのですかとの問いに、田辺さんが震災でも大丈夫だったらしい。まだあるんじゃないかしら。山の上ですから岩盤がしっかりしているらしい。と答えられているのですが、どうだったのでしょう。

[ seitaro ] 2018/01/23 6:19:11 [ 削除 ] [ 通報 ]

今日、宮崎翁にお会いして、この異人館の絵をお見せしましたが、もう覚えてはおられませんでした。エピソードは色々お聞きしましたが。

[ imamura ] 2018/01/25 22:22:15 [ 削除 ] [ 通報 ]

ありがとうございます。エピソードをお聞きするのが楽しみです。

[ seitaro ] 2018/01/26 13:22:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

田辺聖子さんが描いたロマンチック神戸

 田辺聖子さんにとって、神戸というと庶民文化の一大拠点、新開地・湊川あたりの印象が強いようですが、諏訪山での異人館暮らしではロマンチックな神戸も体験されています。

<諏訪山は神戸の真上で、私の家の庭から中突堤が目の下に見え、夜は沖縄ゆきの船が灯をつけて出ていった。大きい洋館で、古風なヨロイ扉のある窓は海に向かって開かれ、背山にくる小鳥たちは庭に群れた。晴れた日は淡路島も見え、海も空も手いっぱいにあふれて人生になだれこんでくる感じ、こういう美しい眺めはむしろもう、人を頽廃させる。>


 現在は大きなビルが増えましたが、田辺聖子さんが諏訪山に住まれたのは昭和40年代の初めですから、もうポートタワーもできており、その向こうに神戸港から淡路島まで見える素晴らしい景色だったことでしょう。


『お目にかかれて満足です』では、主人公るみ子の夫、洋がお気に入りの異人館とその展望を、次のように描かれています。

<このあたりに、はじめて来た時、私はあまりの急坂にビックリしたものだった。洋は、ここで生まれ育ったものだから、慣れていて、「サンフランシスコみたいやろ」というが、私はサンフランシスコを知らない。>

  

 好きな神戸の街ですが、私も若いころは規模といい、美しさといいサンフランシスコにはとても及ばないと思っていました。しかし年を取るにつれ、なぜか神戸の街も劣らないように思えてきたのです。

<きれいやろと洋は自慢した。洋は神戸が好きで、というより、自分の家のある神戸、というのが好きなのであるらしい。自分のウチの額ぶちとしてのコーベが好きらしかった。私は。それがあまりにボロ家なので、そこまで打ち込めないで、雨漏りや戸のきしみばかり気にしているが、洋は、二階から海のみえるこの家が、今も気に入っているのだ。

 この町では「海が見える」という家は、富貴と贅沢の象徴だった。ちょうどサンフランシスコで「ゴールデンゲートブリッジがみえる」とうのが、高級住宅地の象徴だというみたいに。>

神戸っ子の皆さんは、本当はどのように思われているのでしょう。でもどこに住まれようとも神戸を愛している人が多いのは事実です。


田辺さんが異人館を離れた理由は、空き巣に入られたことも一因だったそうですが、『わが街の歳月』では、やはり厳しい坂道にあったと述べられています。

<そこに住みつかなかったのは、しかし、その美しさのせいではなくて、実生活では不便だからである。それだけの眺望をほしいままにするのだから、物すごい坂道を登らなければならなかった。石段なので車も上れない。

 いまの神戸の観光名所になっている異人館のほとんどは坂の上にあり、車が門前に止まる家は少ない。「うろこの家」なんか、私にはとても住めそうにない石段のてっぺんにある。夫が買ってくれたその諏訪山の異人館もそうであった。>

田辺聖子さんが登られた階段です。

元気な間はいいのですが、山の上の異人館はそれが難点です。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11703667c.html
田辺聖子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

田辺聖子さんの異人館暮らしの体験が小説ではこんな風に(その1)

 田辺聖子さんが新婚時代過ごした神戸諏訪山の異人館暮らしは、エッセイや対談で紹介されていますが、その体験が『お目にかかれて満足です』にも姿を変えて登場します。


 例えば、小川洋子さんとの対談で、異人館を手放した理由について、
<田辺 空き巣が入ったの。昼間誰もいなかったり、夜、灯がついていなかったりすることが多くてね。それでおっちゃんが嫌がり出して。
小川 鉢合わせしたら恐いですもんね。>と空き巣が入ったことを話されています。

『お目にかかれて満足です』は、空き巣ではなくて、泥棒と鉢合わせした場面が登場します。
<二階にいた私が、何げなく下りてみると若い男が台所のまん中にいた。私はとっさに泥棒だ、と直感したが、もしかして、訪問客だったらいけないと思い、微笑を浮かべようかどうしようか、そう迷っているうち、顔は不随意筋のように、ニヤッとゆがんで笑っていた。若い男はきょろきょろした。そのとき、庭に通じるフランス窓から洋が、これも何げなくはいってくるなり、「誰や!こらッ!」と大声でどなった。>
きっと空き巣に入られた後で、もし鉢合わせしたらと、その場面を描いてみたのでしょう。

 また、異人館から見える公園について、対談で次のように述べられています。
<田辺 私が異人館のお屋敷に住んでいたころの話なんだけど、朝起きて、窓から見てたら、下の公園で西洋人の子どもがキャッチボールをしていて、そのボールがコロコロ転がってきたの。そしたら「おっちゃん、ほって」なんて言うのよね。
小川 ああ、西洋人の美しい顔の子が。>

この公園とは諏訪神社参道入口、神戸市立花と緑のまち推進センターの西隣りにある諏訪山公園のグラウンドにちがいありません。

異人館からはこんな風に下に見えるグラウンドです。

そこでのキャッチボールの場面は『お目にかかれて満足です』で、次のように描かれています。
<この山手は外国人の住宅も多くて、外国人の子弟を収容する、寄宿舎付きの学校があるので、午後になると、金髪の子供たちが鷲の森神社の境内で、キャッチボールなんか、したりしている。クスリをやってる、という噂もあったけれど、でも、それも、一味ちがう風趣をもたらすくらいのもの。>
 鷲の森神社とは諏訪神社がモデルになっているにちがいないのです。

異人館へは、この鳥居をくぐって、すぐ左に曲がる細い道を登って行きます。

当時はまだ諏訪山にも異人館が残っていたのでしょう。こんな場面も小説に登場します。
<この前、表の木の柵のあたりを掃除していたら、若い娘が三、四人通りかかって、「あっ、いい家……古めかしい洋館。みてみて」と、さえずり合って、どこのことをいっているのかと思えば、私の家と、隣家を指しているのだった。彼女たちは細い私道へはいりこんで来て、珍しげに覗きまわっていた。旅行者のようだった。>
これも田辺聖子さんの実体験のように思われます。

実は私も先日その私道を珍しそうに登らせていただきました。


goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11703229c.html
田辺聖子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

田辺聖子『お目にかかれて満足です』の舞台となった異人館は?

 田辺聖子さんの『お目にかかれて満足です』の舞台となった洋館は東神戸という設定なのですが、やはり田辺さんが新婚時代に住まれていた諏訪山の異人館をモデルとしたそうです。


「すばる」平成17年1月号の小川洋子さんとの対談からです。
小川 それは結婚なさったころのお話ですよね。その新婚のころに住まわれていた異人館が、『お目にかかれて満足です』の舞台の洋館になっているんですか。
田辺 そうですね。畳などを敷いたりして日本風にアレンジして暮らしました。寝るところも、おっちゃんがベッドは嫌だというから、畳を敷いてもらったけど、客間は全部そのままで、鎧戸もそのまま。客間は鎧戸をあけると、窓が上、下にあるのね。そこも開けると、大阪湾が一望に見えて、きれいだった。>
 田辺聖子さんの年譜によると「昭和41年38歳の時、神戸市兵庫区の開業医師・川野純夫と結婚。住居は生田区諏訪山の異人館であったが、半ば別居婚、仕事場は尼崎にあった」
と書かれています。
 この異人館については月刊『神戸っ子』2014年7月号の出石アカルさんの「触媒のうた」に詳しく述べられており、「田辺聖子さんが描いた異人館のスケッチ画(宮崎翁蔵)」まで掲載されていました。

https://kobecco.hpg.co.jp/19197/

 更に、1968年2月12日号の「週刊文春」には、その異人館の写真が掲載されていました。

大きな異人館一軒に見えますが、左右一軒づつあり、右側が田辺さんの異人館です。

 この異人館が現在どうなっているだろうと、諏訪山を訪ねてみました。

諏訪山のあたりにもかなり異人館があったそうで、歩いてみるとその名残のレンガ塀がありました。

 まだ残っているとは思えませんでしたが、諏訪山の西側と書かれていましたので、諏訪神社の入り口から山の上を見ていると、それらしき場所を見つけました。

そうすると諏訪神社は『お目にかかれて満足です』の鷲ノ森神社のモデルのようです。

 思った場所が間違いないか坂を登ってみました。

「田辺さんの異人館に続く階段」という写真がありましたので、もし残っていればこの場所に違いないと、半信半疑で坂を登ってみました。


そうすると、昔の写真のままの階段が見つかったのです。

田辺さんの異人館があった場所はこの上に間違いありませんでした。

この附近からの景色です。大阪湾を一望できる素晴らしい景色が広がります。
それでは『お目にかかれて満足です』に描かれた風景に戻って対比してみましょう。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11700663c.html
田辺聖子 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

田辺聖子さんが描かれた異人館のスケッチ画、今わたしの店に飾っています。『触媒のうた』のご褒美に宮崎翁から戴きました。

[ imamura ] 2018/01/12 21:57:11 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうなんですか。しばらくお伺いしておりませんので、また見せてもらいに行きます。

[ seitaro ] 2018/01/14 16:45:22 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

小説で「西宮」が一番数多く出るのは田辺聖子『お目にかかれて満足です』

 田辺聖子『お目にかかれて満足です』は神戸山手の古い異人館に住む料理と手芸が大好きな主婦るみ子32歳が主人公。


 夫・洋を可愛く思いながら、時々ふらりと現れる洋の弟・舷に危険なときめきと親しさを感じています。そのるみ子が、手芸の才能を認められるようになり、自宅に「るみの店 −アトリエ・るみ」というお店を開き、やりにくい夫を何とか操縦ながら、うるさい夫の実家と付き合い、 夫の弟と危うい関係を持つという物語。

 さて、この小説読み始めると、「西宮」、「西宮」と立てつづけに「西宮」が登場するのです。因みに「西宮」がこの小説に何回登場するか数えてみると、合計125回。これだけ「西宮」が登場する小説は他にはないでしょう。

 小説の冒頭では、夫の洋が心臓ドキドキして、るみ子に「西宮」に電話しろと言い出すのです。
<「オイ、何しとんねん、背中さするとか、『西宮』へ電話するとか、あ、苦しい、何とかせえ!」息もたえだえに叱りつけた。ベッドの枕元のデジタル時計を見ると、午前一時だった。こんな時間に「西宮」へ電話して、ホントウの急病、大病ならいいが、もしたいしたことがないなら、どうしてあとのつづまりをつけるのだ。「西宮」というのは洋の長兄で、産婦人科の病院をやっている医者の海太のことである。どこの家でも親戚を呼ぶとき、そういうことが多いように、ウチでも、地名で呼んでいた。>

 同じ名字の親戚を地名で呼ぶことは皆様もされているのではないでしょうか。同じ西宮に住む親戚であれば「〇〇町の」とか。
 そうなんです、「西宮」とは親戚の家を地名で呼ぶため、小説では名字代わりに使われ、125回も「西宮」が登場するのです。

田辺聖子さんにとって「西宮」は、『歳月切符』で
<西宮は、妹夫婦が一時住んでいたり、働いていたりして、私には馴染みのある町であった。ここは西鶴の小説にもでてくるえべっさんのお宮もあり、広田神社や甲山大師もあって、由緒のある町である。>
と述べられているように、よくご存じの町であり、

『窓をあけますか』にも満池谷墓地が登場します。

更に『お目にかかれて満足です』で、主人公るみ子と洋が暮らす神戸の異人館について調べてみましょう。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11699947c.html
田辺聖子 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

市西出身の母から聞いた話ですが、田辺聖子さんの妹さんが市西の図書館で司書をなさっていたそうです。

[ 西野宮子 ] 2018/01/10 22:05:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

西野宮子様 ありがとうございます。田辺聖子さんのお母様のことにつては聞いておりましたが、妹さんの情報は初めてです。ご存知の方はほとんどおられないのではないでしょか。

[ seitaro ] 2018/01/11 12:10:20 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

田辺聖子さんは国道電車派(『わが街の歳月』より)

 田辺聖子さんは『わが街の歳月』で阪神間の電車についても述べられています。
<阪神間には、阪急・阪神・国鉄(現・JR)と三本の線が並行して走っていて、交通至便なること限りなく、それが住民の自慢でもあるが、阪神・阪急それぞれにヒイキがついているのも、おかしい。野球のことではない。電車のことである。>

 

(阪急電車、国鉄、国道電車、阪神電車路線図;甲子園ホテルパンフレットより)


 戦前、湯川家の人々は苦楽園の山の上から阪神間をミニチュアのように走る三本の電車を眺めて楽しんでおられました。湯川スミさんは『苦楽の園』で次のように述べられています。
<大阪の家より部屋数は少ないが、空気は綺麗だし、乾燥している上に、南に向いた山の中腹なので見晴らしが素晴らしかった。夜になると阪急、阪神、国鉄の電車や汽車の光が行き交い、えもいわれぬ景色だ。夕食後のひと時、私たちは家族みんなで窓際に並んで見とれたものであった。>

 

田辺聖子さんはこれらの電車の路線にはそれぞれヒイキがあると説明されます。
<会社自体も張り合っているのだろうけれど利用者同士、互いにヒイキがある。いや、利用していない人でも、熱心なヒイキがいて、野坂昭如氏のごとき、自分は住んでもいないし、電車を利用してもいないのに、「阪急はいい。阪急は客すじからしてちがう」と自分が阪急のオーナーのようにいばっていられる。少年のころ阪急沿線に住んでいられて、阪急電車に乗り合わせた美しい女学生にあこがれたか、ふられたかした、ご経験がおありになるのだろう。>
 確かに野坂昭如は門戸厄神にある神戸女学院生に淡い恋心を抱いていたことを小説で述べており、奥様はタカラヅカ出身の方ですから、阪急ファンになったのでしょう。

 

<一方、阪神電車は梅田を発する沿線工業地帯を走るので、車風というか、雰囲気がまるで違う。而して私はというとこれが国道電車派だったのだ。阪神国道二号線の沿線に住んだので、国道電車を利用していた。いまは取り払われてしまったが、トロトロと国道を走って玉江橋か野田阪神で乗り換える。そこから阪神の本線に乗り換えて梅田へ通勤通学した。あの電車は旅を楽しむ、あるいは春の日永をもてあます、といった人の乗り物であって、通勤通学には向いていなかったが、ラッシュ時はけっこう満員であった。そんなわけで、長期間利用したから、私としては阪神に馴染み深い。>


 今や無くなってしまった国道電車について、遠藤周作も『口笛を吹く時』で主人公小津に次のように語らせました。
<彼はタクシーに乗って、国道の住吉川まで行ってくれと頼んだ。「国道でっか」「そうだ。国道電車が走っている路があるだろう」そう言って彼はまぶたの裏に、古ぼけた褐色のあの電車を思い浮かべた。平目や自分を毎日、乗せてくれたノロノロとした電車。その電車に愛子のように甲南の生徒たちも乗ったのである。「ああ、あの電車やったら」と運転手はギヤを入れながら教えてくれた。「もうなくなりましてん」「廃線になったのか」「もう、あんな、のろい電車に乗る人もおりまへんやろ」しかし神戸から大阪に向かう国道だけはまだ残っていた。>
時代の趨勢とともに消え去った国道電車です。

 

 田辺聖子さんはタカラヅカファンらしく結ばれています。
<もっとも。いまでは神戸で、双方、山陽・神戸電鉄へとそれぞれ接続でき、便利になって、どちらがどうと軍配をあげるまでもないようになったが、片や阪神は甲子園球場を擁し、片や阪急は宝塚を擁する。野球勝つか歌劇勝つかの問題は、これは結論のでない争いであろう。>


 田辺さんもこれを書かれた頃は、まさか阪急・阪神が経営統合するなどとは思われてもみなかったことでしょう。


百貨店も統合され、先日阪神の地下食品売り場でワインを買って、入れてもらった袋の柄をよく見ると、昔の阪急百貨店、阪神百貨店が混在していました。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11235251c.html
田辺聖子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

田辺聖子さんの西宮礼賛(『わが街の歳月』より)

 田辺聖子さんは西宮の印象について、『わが街の歳月』西宮・芦屋で次のように述べられています。


<西宮は、妹夫婦が一時住んでいたり、働いていたりして、私には馴染みのある町であった。ここは西鶴の小説にも出てくるえべっさんのお宮もあり、広田神社や甲山大師もあって、由緒のある町である。>

 

 田辺聖子さんは満池谷墓地のキリスト教区の雰囲気が好きだったそうで、次のように述べられています。
<ところが外人墓地は明るくてモダンでエキゾチックで、全く様相がちがう、若者たちの心を惹きつけるムードがあった。神戸の外人墓地でデートする若者がふえたのも、最もなことであったのだ。
 西宮の満池谷墓地の奥も、そうなっていたので、私は明るくてひろびろした風趣が気にいっていた。>


満池谷墓地のキリスト教区にデートに行った様子は、小説『窓を開けますか?』に描かれていました。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10943635c.html

 

 キリスト教区の中心には夙川カトリック教会の墓地があり、ブスケ神父も眠られています。

<私は今ほど出不精ではなかったし、時間もたっぷりあったので、バスや電車を乗り換えてあちこち探検に出かけた。尼崎から西宮はおとなりの町なのに、感じはまったくちがう。西宮は山地にかけて拡がる町なので、夙川の奥へはいると山坂を越え、林をくぐりぬけて美しい景観となり、気候もちがってくる。また反対に南へ南へとさがると海にゆきあたり、西宮のヨットハーバーにゆきあたる。
 山地と海の双方を併せ持つところは、小型神戸のようで(それは芦屋もそうなのであるが)、阪神間都市というのはじつに美しい。
 町じたいが美しい球のようで、球をつらねた首飾りが、この海沿いの町々である。
 ヨソの町を知らないのだから、断言はできないが、人間の住む場所としては、阪神間はいちばんいい場所の中へはいるのではないだろうか。気候はおだやかで、風光あくまで明るく、食物が美味しく、交通は便利である。>


田辺聖子さんに褒めちぎっていただいた西宮、この「美しい珠」とまで言われた風光はいつまで続くことか心配になってきます。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11233724c.html
田辺聖子 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

続いて下さい。様相に変化はあろうとも、どこかのイナカモンがぶち壊しに来ようと、根幹の魂の部分には指を触れさせずに西宮のままでいて下さい。確率が3千万分の1であろうとも私は必ず西宮に戻るから、それまで西宮のままでいて下さい。

[ せいさん ] 2015/07/26 21:16:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

せいさんの気持ちは充分伝わってきます。

[ seitaro ] 2015/07/27 7:27:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

田辺聖子「窓を開けますか?」に描かれた満池谷墓地

 満池谷墓地が山の中に新しく出来たばかり、1904年の写真がゴードン・スミスのニッポン仰天日記に掲載されています。

 

その後墓地はどんどん大きくなりましたが、キリスト教区にある夙川カトリック教会の墓所には憲兵に捕らえられ殺害された創立者シルベン・ブスケ神父も眠られています。


http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10758423c.html


 昭和三十年代の満池谷墓地について田辺聖子は「歳月切符」で次のように述べています。
 <私は西宮の満池谷墓地がひろびろして美しいので「窓を開けますか?」に使ったことがある。仏教の墓地では陰鬱な感じだが、クリスチャンのお墓がつづくところは明るくて緑が多く、静かでいい。尼崎に住んでいたころわざわざバスに乗ってここまで出向き、「神は愛なり」などと掘られた墓石の文句を読んで楽しんでいた。いまでは市営墓地も珍しくなく、仏教徒も芝生墓苑などに、キリスト教信者と同じような形式のお墓を建てたりして、モダンになっているが、昭和三十年代に、天空も土地も広々した、明るい墓地は珍しかった。>

 キリスト教区は満池谷墓地のなかでも見晴らしのいい高台にあり、墓石には確かに聖書の言葉などが刻まれています。
「窓を開けますか?」ではどのように描かれているのか早速読んでみまでしょう。


<こんどの担当の風早は、カンちゃんと違い、やることなすことソツがなく、「こんどはひとつ、西宮にしませんか」と積極的に自分からみつけてきた。いまの私みたいに、がっかりしてる時には、たいへん便利。会社の車で、西宮の満池谷へゆく。
 桜がもう半分がた散っているが、水源地のあたりは、阪神間の桜の名所なので、花見客がずいぶん、いた。私と風見はそこを避けて、広大な墓地のほうに歩いていった。この死者の町は静かで明るく、高台なので目をさえぎるものもなく、朗々たる晴天につづいている。だれひとり目に入らず、いろんな美しい墓が整然と地の果てまで続いている。西宮は芦屋のもうひとつ東寄りの町で、大阪と神戸をつなぐ、三つの市のまん中である。この町も、よく手入れされた美しい町で、奥は山深い、水源地と墓地は、かなり深く入った山地の高台になっている。
キリスト教墓地で、おハカの上に坐って芝生にあぐらをかき、彼は、「坐りませんか。ジュースでも飲まんですか」といった。………
だんだん楽しくなってくる、それに桜と、池と、青い空を後にして、無数につづく、美しい墓石(コケなんか、生えていない!あくまで白い、輝く石碑群)の列は、目を洗われるようにきれいで、心が休まる。>


 私の記憶でも、昔の満池谷墓地はもっと緑の部分が多かったような気がします。次々とお墓が増え、緑の部分も削られていったのでしょう。
どの程度満池谷墓地に緑の部分がのこっているのかと、Google Earthの航空写真で調べますと驚きの発見。

 キリスト教区にはっきりと白い十字架が見えるのです。関係者以外でご存知の方は少ないのではないでしょうか。
地上では気づきませんでしたが、夙川カトリック教会の墓所は御影石で十字架を形作っていたのでした。

地上で撮影した夙川カトリック教会の墓所。

 


シルベン・ブスケ神父のお墓です。

 

そういえば以前ルルドの洞窟を訪ねた東京カテドラル聖マリア大聖堂も、空から見ると十字架に見えるよう設計されていました。



夙川カトリック教会
goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10943635c.html
田辺聖子 | コメント( 1 ) | トラックバック( 0)

「窓を開けますか?」に満池谷墓地が描写されていたことには全く気付いていませんでした。読んだのは若いときで、後年西宮に住むとは夢にも思わなかった頃でしたので、意識外にあったのでしょう。
満池谷の十字架、感動です。これはほとんど周知されていない事柄ではないでしょうか。こうして記事にしてくださってありがとうございました。
また満池谷を歩いてみたくなりました。

[ 凛太郎 ] 2013/10/19 7:22:23 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

田辺聖子さんのエッセイ「歳月切符」と小説「虹」に描かれた西宮

 田辺聖子のエッセイ集「歳月切符」Vわが町の歳月 のあとがきによると

<「わが町の歳月」はサンケイ新聞のつづきものの企画「Oh! 関西」の一部であるが、街を語りつつ、私の半生をふりかえることになった。>とのこと。


 大阪市福島区の写真館に生まれた田辺さんは、大阪大空襲で焼きだされ、尼崎に3間の家を借り移り住みますが、父親が44歳の若さで亡くなります。母親が仕事を選ばず働いて樟蔭を卒業させてもらった田辺さんは国語の先生になる夢をあきらめ金物卸売り問屋の事務員になり、家計を支えます。
さて「わが町の歳月」の「西宮・芦屋」の章では次のように述べられています。
<西宮は、妹夫婦が一時住んでいたり、働いていたりして、私には馴染みのある町であった。ここは西鶴の小説にもでてくるえべっさんのお宮もあり、広田神社や甲山大師もあって、由緒のある町である。>
田辺さんにとって馴染みのある町西宮、彼女の作品で最も早く活字になった小説「虹」(大阪市民文芸賞)は勤めていた金物問屋でのストライキに材を取ったもので、主人公かな子の母親は西宮市の水道料集金係として描かれています。
 実際に田辺さんは、弟と妹が学業を終え、母親が西宮市役所に職を得たのをきっかけに、金物問屋を退職し、家事を引き受け、小説の修行に専念していました。
小説「虹」からです。
 <母は骨の突き出しそうなこの痩せた体で、山坂の道を上り下りし、あえぎながら水道料を集金してまわるのだ。油照りの夏も犬に咬みつかれ、どなられたりしながら、冬はまた六甲おろしの、容赦ない北風に吹き巻かれて、西宮の山地をめぐる。>
少し切ない未婚女性の物語ですが、小説の最後の部分で、絵皿を描くことで収入を得る希望が見えて来たかな子は西宮の商店街で偶然勤務中の母親と出会います。
<お金がたまったら油画も買いたいナと値段だけ見るつもりで、西宮まで乗り越して商店街をぶらついた。そして果物やの角を曲がったところで勤務最中の母に出会ったのだ。母は思いがけぬところでわたしに会ったので、甘酸っぱく笑み崩れながら、暖かい風のように近寄ってきた。>


 当時のアーケード商店街の風景は阪神淡路大震災で大きく変わりました。


 かな子と母親は一緒に甲子園に住んでいるという設定ですが、田辺さんは昭和三十二年「虹」を書かれた時は尼崎の端に近い武庫川のそばにお住まいでした。
小説「虹」の最後の部分です。
<わたしは母の鞄をもって歩いた。鞄は重かった。手垢にまみれたやくざな銅貨がザクザクはいっていた。母もわたしもお昼はまだだ。わたしたちはパンやりんごを買い込んで、武庫川の堤へ行った。風がないので、春先のように暖かい。まばらな松林を背に坐った。>


写真は武庫川とその上に架かる阪神武庫川駅です。


 西宮の中央商店街から武庫川まで歩くとなると大変ですが、田辺さんは武庫川の近くに住まれていたので、お母様と二人武庫川べりによく坐られていたのではないでしょうか。
田辺さんの最初に活字になった小説「虹」は講談社の「うたかた」に収められていました。

表紙の絵は田辺さんがカモカのおっちゃんと結婚後、一時住まれていた北野町の異人館でしょうか。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10941765c.html
田辺聖子 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

その異人館、M翁のお世話で住まわれたのでした。この絵の家かどうかは知りませんが。

[ k.imamura ] 2013/10/16 14:36:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

住まれていた異人館捜したくなりました。

[ seitaro ] 2013/10/16 20:45:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

田辺聖子さんはやはり須賀さん以上の松田瓊子ファン

「すみれノオト」には「たぐいもないやすらぎー松田瓊子の世界」と題した田辺聖子の解説文がおさめられています。何がそんなに聖子さんを魅了したのでしょう。
次のように述べられています。
 <そういう戦時中の、昭和十年代後半。戦争がいよいよ最後の様相を示しはじめるその一瞬まえ。まだ昔の世の中のよいところ、理想主義や、人の心の善きものをみんなが信じていた時代の、明るみがほんの一抹、残っているという時代。そんなときに松田瓊子の作品は現われた。>


 <吉屋信子の理想主義、人生肯定の明るい善意がそのまま、瓊子さんの作品にある。しかしひとあじ違う新風もたしかに感じられる。信子よりももっと熱烈な信仰の力と、大正インテリ家庭の教養としては当然の、ヨーロッパ文化への傾倒。絵に描いたようなエキゾチシズム。それが当時の少女たちには新鮮で魅力的だった。>

 松田瓊子さんの昭和八年四月三十日(日曜日)の日記には cloudy sometime fine として掃除やピアノの稽古、勉強のことが綴られ、今でもあこがれるような絵までが添えられていました。
 松田瓊子の小説に描かれている世界は、当時の少女たちを取り巻く環境とはあまりにもかけはなれていたのですが、かえってそれが少女たちの静かなブームを引き起こしたようです。田辺聖子さんは松田瓊子「紫苑の園」を次のように紹介しています。


<やさしい西方夫人。ヒロインの香澄をふくめ七人の少女たちのたたずまい。楽しい日常の小事件。英語・ドイツ語が飛び交いまきおこる美しいコーラス。ピアノ。ヴァイオリン。チェロ。すべて洋楽。そしてたべものは、といえばサンドイッチにプディング、フルーツポンチに蜜豆、カレーライス(どれも戦前女学生の夢)。戦争の嵐はいよいよ荒れ狂っていた。………そして、もう地上に二度とよみがえってこないであろう楽園 ―美しい自然、愛と善意にみちた人々、音楽と読書のたのしみ、敬虔な信仰…..にためいきついてあこがれた。>


平和な現在でもあこがれるような生活です。父野村胡堂は銭形平次の作者であるだけでなく「あらえびす」として音楽評論を書くほどで、音楽に造詣の深い家庭を築いており、それが瓊子の作品に色濃くでています。


 松田瓊子は美智子皇后が愛読された作家と帯に書かれており、このことについてもう少し調べてみましょう。



すみれノオト
goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10789989c.html
田辺聖子 | コメント( 4 ) | トラックバック( 0)

松田瓊子「紫苑の園」、先日 北村薫さんの「リセット」のところからなんとなくたどり着いて、購入していました。

[ ふく ] 2012/11/21 21:52:49 [ 削除 ] [ 通報 ]

「紫苑の園」も登場していましたか。須賀さんを怖がらせた「玉の井バラバラ事件」に注目してしまって、気づきませんでした。
事件の文献調査中です。

[ seitaro ] 2012/11/21 22:21:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

玉の井存知あげております。関西ですと昭和の初め頃でしょうか。神戸ミイラ首事件というのがあり、香櫨園あたりがでてきたような気がするのですが、出典は忘れました。(こういう妙なことはなんとなく覚えちゃうのです)

[ ふく ] 2012/11/21 23:30:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

香枦園まで出てくる猟奇事件まであるとなると、また興味がわいてきて調べたくなりました。子供の時怖い本を読むと、夜トイレに行けなくなりました。

[ seitaro ] 2012/11/22 7:02:39 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

  1  |  2  
このブログトップページへ
seitaroイメージ
阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

カテゴリー一覧

QRコード [使い方]

このブログに携帯でアクセス!

>>URLをメールで送信<<