阪急沿線文学散歩

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田辺聖子さんは国道電車派(『わが街の歳月』より)

 田辺聖子さんは『わが街の歳月』で阪神間の電車についても述べられています。
<阪神間には、阪急・阪神・国鉄(現・JR)と三本の線が並行して走っていて、交通至便なること限りなく、それが住民の自慢でもあるが、阪神・阪急それぞれにヒイキがついているのも、おかしい。野球のことではない。電車のことである。>

 

(阪急電車、国鉄、国道電車、阪神電車路線図;甲子園ホテルパンフレットより)


 戦前、湯川家の人々は苦楽園の山の上から阪神間をミニチュアのように走る三本の電車を眺めて楽しんでおられました。湯川スミさんは『苦楽の園』で次のように述べられています。
<大阪の家より部屋数は少ないが、空気は綺麗だし、乾燥している上に、南に向いた山の中腹なので見晴らしが素晴らしかった。夜になると阪急、阪神、国鉄の電車や汽車の光が行き交い、えもいわれぬ景色だ。夕食後のひと時、私たちは家族みんなで窓際に並んで見とれたものであった。>

 

田辺聖子さんはこれらの電車の路線にはそれぞれヒイキがあると説明されます。
<会社自体も張り合っているのだろうけれど利用者同士、互いにヒイキがある。いや、利用していない人でも、熱心なヒイキがいて、野坂昭如氏のごとき、自分は住んでもいないし、電車を利用してもいないのに、「阪急はいい。阪急は客すじからしてちがう」と自分が阪急のオーナーのようにいばっていられる。少年のころ阪急沿線に住んでいられて、阪急電車に乗り合わせた美しい女学生にあこがれたか、ふられたかした、ご経験がおありになるのだろう。>
 確かに野坂昭如は門戸厄神にある神戸女学院生に淡い恋心を抱いていたことを小説で述べており、奥様はタカラヅカ出身の方ですから、阪急ファンになったのでしょう。

 

<一方、阪神電車は梅田を発する沿線工業地帯を走るので、車風というか、雰囲気がまるで違う。而して私はというとこれが国道電車派だったのだ。阪神国道二号線の沿線に住んだので、国道電車を利用していた。いまは取り払われてしまったが、トロトロと国道を走って玉江橋か野田阪神で乗り換える。そこから阪神の本線に乗り換えて梅田へ通勤通学した。あの電車は旅を楽しむ、あるいは春の日永をもてあます、といった人の乗り物であって、通勤通学には向いていなかったが、ラッシュ時はけっこう満員であった。そんなわけで、長期間利用したから、私としては阪神に馴染み深い。>


 今や無くなってしまった国道電車について、遠藤周作も『口笛を吹く時』で主人公小津に次のように語らせました。
<彼はタクシーに乗って、国道の住吉川まで行ってくれと頼んだ。「国道でっか」「そうだ。国道電車が走っている路があるだろう」そう言って彼はまぶたの裏に、古ぼけた褐色のあの電車を思い浮かべた。平目や自分を毎日、乗せてくれたノロノロとした電車。その電車に愛子のように甲南の生徒たちも乗ったのである。「ああ、あの電車やったら」と運転手はギヤを入れながら教えてくれた。「もうなくなりましてん」「廃線になったのか」「もう、あんな、のろい電車に乗る人もおりまへんやろ」しかし神戸から大阪に向かう国道だけはまだ残っていた。>
時代の趨勢とともに消え去った国道電車です。

 

 田辺聖子さんはタカラヅカファンらしく結ばれています。
<もっとも。いまでは神戸で、双方、山陽・神戸電鉄へとそれぞれ接続でき、便利になって、どちらがどうと軍配をあげるまでもないようになったが、片や阪神は甲子園球場を擁し、片や阪急は宝塚を擁する。野球勝つか歌劇勝つかの問題は、これは結論のでない争いであろう。>


 田辺さんもこれを書かれた頃は、まさか阪急・阪神が経営統合するなどとは思われてもみなかったことでしょう。


百貨店も統合され、先日阪神の地下食品売り場でワインを買って、入れてもらった袋の柄をよく見ると、昔の阪急百貨店、阪神百貨店が混在していました。




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田辺聖子さんの西宮礼賛(『わが街の歳月』より)

 田辺聖子さんは西宮の印象について、『わが街の歳月』西宮・芦屋で次のように述べられています。


<西宮は、妹夫婦が一時住んでいたり、働いていたりして、私には馴染みのある町であった。ここは西鶴の小説にも出てくるえべっさんのお宮もあり、広田神社や甲山大師もあって、由緒のある町である。>

 

 田辺聖子さんは満池谷墓地のキリスト教区の雰囲気が好きだったそうで、次のように述べられています。
<ところが外人墓地は明るくてモダンでエキゾチックで、全く様相がちがう、若者たちの心を惹きつけるムードがあった。神戸の外人墓地でデートする若者がふえたのも、最もなことであったのだ。
 西宮の満池谷墓地の奥も、そうなっていたので、私は明るくてひろびろした風趣が気にいっていた。>


満池谷墓地のキリスト教区にデートに行った様子は、小説『窓を開けますか?』に描かれていました。
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 キリスト教区の中心には夙川カトリック教会の墓地があり、ブスケ神父も眠られています。

<私は今ほど出不精ではなかったし、時間もたっぷりあったので、バスや電車を乗り換えてあちこち探検に出かけた。尼崎から西宮はおとなりの町なのに、感じはまったくちがう。西宮は山地にかけて拡がる町なので、夙川の奥へはいると山坂を越え、林をくぐりぬけて美しい景観となり、気候もちがってくる。また反対に南へ南へとさがると海にゆきあたり、西宮のヨットハーバーにゆきあたる。
 山地と海の双方を併せ持つところは、小型神戸のようで(それは芦屋もそうなのであるが)、阪神間都市というのはじつに美しい。
 町じたいが美しい球のようで、球をつらねた首飾りが、この海沿いの町々である。
 ヨソの町を知らないのだから、断言はできないが、人間の住む場所としては、阪神間はいちばんいい場所の中へはいるのではないだろうか。気候はおだやかで、風光あくまで明るく、食物が美味しく、交通は便利である。>


田辺聖子さんに褒めちぎっていただいた西宮、この「美しい珠」とまで言われた風光はいつまで続くことか心配になってきます。



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続いて下さい。様相に変化はあろうとも、どこかのイナカモンがぶち壊しに来ようと、根幹の魂の部分には指を触れさせずに西宮のままでいて下さい。確率が3千万分の1であろうとも私は必ず西宮に戻るから、それまで西宮のままでいて下さい。

[ せいさん ] 2015/07/26 21:16:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

せいさんの気持ちは充分伝わってきます。

[ seitaro ] 2015/07/27 7:27:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

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田辺聖子「窓を開けますか?」に描かれた満池谷墓地

 満池谷墓地が山の中に新しく出来たばかり、1904年の写真がゴードン・スミスのニッポン仰天日記に掲載されています。

 

その後墓地はどんどん大きくなりましたが、キリスト教区にある夙川カトリック教会の墓所には憲兵に捕らえられ殺害された創立者シルベン・ブスケ神父も眠られています。


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 昭和三十年代の満池谷墓地について田辺聖子は「歳月切符」で次のように述べています。
 <私は西宮の満池谷墓地がひろびろして美しいので「窓を開けますか?」に使ったことがある。仏教の墓地では陰鬱な感じだが、クリスチャンのお墓がつづくところは明るくて緑が多く、静かでいい。尼崎に住んでいたころわざわざバスに乗ってここまで出向き、「神は愛なり」などと掘られた墓石の文句を読んで楽しんでいた。いまでは市営墓地も珍しくなく、仏教徒も芝生墓苑などに、キリスト教信者と同じような形式のお墓を建てたりして、モダンになっているが、昭和三十年代に、天空も土地も広々した、明るい墓地は珍しかった。>

 キリスト教区は満池谷墓地のなかでも見晴らしのいい高台にあり、墓石には確かに聖書の言葉などが刻まれています。
「窓を開けますか?」ではどのように描かれているのか早速読んでみまでしょう。


<こんどの担当の風早は、カンちゃんと違い、やることなすことソツがなく、「こんどはひとつ、西宮にしませんか」と積極的に自分からみつけてきた。いまの私みたいに、がっかりしてる時には、たいへん便利。会社の車で、西宮の満池谷へゆく。
 桜がもう半分がた散っているが、水源地のあたりは、阪神間の桜の名所なので、花見客がずいぶん、いた。私と風見はそこを避けて、広大な墓地のほうに歩いていった。この死者の町は静かで明るく、高台なので目をさえぎるものもなく、朗々たる晴天につづいている。だれひとり目に入らず、いろんな美しい墓が整然と地の果てまで続いている。西宮は芦屋のもうひとつ東寄りの町で、大阪と神戸をつなぐ、三つの市のまん中である。この町も、よく手入れされた美しい町で、奥は山深い、水源地と墓地は、かなり深く入った山地の高台になっている。
キリスト教墓地で、おハカの上に坐って芝生にあぐらをかき、彼は、「坐りませんか。ジュースでも飲まんですか」といった。………
だんだん楽しくなってくる、それに桜と、池と、青い空を後にして、無数につづく、美しい墓石(コケなんか、生えていない!あくまで白い、輝く石碑群)の列は、目を洗われるようにきれいで、心が休まる。>


 私の記憶でも、昔の満池谷墓地はもっと緑の部分が多かったような気がします。次々とお墓が増え、緑の部分も削られていったのでしょう。
どの程度満池谷墓地に緑の部分がのこっているのかと、Google Earthの航空写真で調べますと驚きの発見。

 キリスト教区にはっきりと白い十字架が見えるのです。関係者以外でご存知の方は少ないのではないでしょうか。
地上では気づきませんでしたが、夙川カトリック教会の墓所は御影石で十字架を形作っていたのでした。

地上で撮影した夙川カトリック教会の墓所。

 


シルベン・ブスケ神父のお墓です。

 

そういえば以前ルルドの洞窟を訪ねた東京カテドラル聖マリア大聖堂も、空から見ると十字架に見えるよう設計されていました。



夙川カトリック教会
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「窓を開けますか?」に満池谷墓地が描写されていたことには全く気付いていませんでした。読んだのは若いときで、後年西宮に住むとは夢にも思わなかった頃でしたので、意識外にあったのでしょう。
満池谷の十字架、感動です。これはほとんど周知されていない事柄ではないでしょうか。こうして記事にしてくださってありがとうございました。
また満池谷を歩いてみたくなりました。

[ 凛太郎 ] 2013/10/19 7:22:23 [ 削除 ] [ 通報 ]

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田辺聖子さんのエッセイ「歳月切符」と小説「虹」に描かれた西宮

 田辺聖子のエッセイ集「歳月切符」Vわが町の歳月 のあとがきによると

<「わが町の歳月」はサンケイ新聞のつづきものの企画「Oh! 関西」の一部であるが、街を語りつつ、私の半生をふりかえることになった。>とのこと。


 大阪市福島区の写真館に生まれた田辺さんは、大阪大空襲で焼きだされ、尼崎に3間の家を借り移り住みますが、父親が44歳の若さで亡くなります。母親が仕事を選ばず働いて樟蔭を卒業させてもらった田辺さんは国語の先生になる夢をあきらめ金物卸売り問屋の事務員になり、家計を支えます。
さて「わが町の歳月」の「西宮・芦屋」の章では次のように述べられています。
<西宮は、妹夫婦が一時住んでいたり、働いていたりして、私には馴染みのある町であった。ここは西鶴の小説にもでてくるえべっさんのお宮もあり、広田神社や甲山大師もあって、由緒のある町である。>
田辺さんにとって馴染みのある町西宮、彼女の作品で最も早く活字になった小説「虹」(大阪市民文芸賞)は勤めていた金物問屋でのストライキに材を取ったもので、主人公かな子の母親は西宮市の水道料集金係として描かれています。
 実際に田辺さんは、弟と妹が学業を終え、母親が西宮市役所に職を得たのをきっかけに、金物問屋を退職し、家事を引き受け、小説の修行に専念していました。
小説「虹」からです。
 <母は骨の突き出しそうなこの痩せた体で、山坂の道を上り下りし、あえぎながら水道料を集金してまわるのだ。油照りの夏も犬に咬みつかれ、どなられたりしながら、冬はまた六甲おろしの、容赦ない北風に吹き巻かれて、西宮の山地をめぐる。>
少し切ない未婚女性の物語ですが、小説の最後の部分で、絵皿を描くことで収入を得る希望が見えて来たかな子は西宮の商店街で偶然勤務中の母親と出会います。
<お金がたまったら油画も買いたいナと値段だけ見るつもりで、西宮まで乗り越して商店街をぶらついた。そして果物やの角を曲がったところで勤務最中の母に出会ったのだ。母は思いがけぬところでわたしに会ったので、甘酸っぱく笑み崩れながら、暖かい風のように近寄ってきた。>


 当時のアーケード商店街の風景は阪神淡路大震災で大きく変わりました。


 かな子と母親は一緒に甲子園に住んでいるという設定ですが、田辺さんは昭和三十二年「虹」を書かれた時は尼崎の端に近い武庫川のそばにお住まいでした。
小説「虹」の最後の部分です。
<わたしは母の鞄をもって歩いた。鞄は重かった。手垢にまみれたやくざな銅貨がザクザクはいっていた。母もわたしもお昼はまだだ。わたしたちはパンやりんごを買い込んで、武庫川の堤へ行った。風がないので、春先のように暖かい。まばらな松林を背に坐った。>


写真は武庫川とその上に架かる阪神武庫川駅です。


 西宮の中央商店街から武庫川まで歩くとなると大変ですが、田辺さんは武庫川の近くに住まれていたので、お母様と二人武庫川べりによく坐られていたのではないでしょうか。
田辺さんの最初に活字になった小説「虹」は講談社の「うたかた」に収められていました。

表紙の絵は田辺さんがカモカのおっちゃんと結婚後、一時住まれていた北野町の異人館でしょうか。



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その異人館、M翁のお世話で住まわれたのでした。この絵の家かどうかは知りませんが。

[ akaru ] 2013/10/16 14:36:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

住まれていた異人館捜したくなりました。

[ seitaro ] 2013/10/16 20:45:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

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田辺聖子さんはやはり須賀さん以上の松田瓊子ファン

「すみれノオト」には「たぐいもないやすらぎー松田瓊子の世界」と題した田辺聖子の解説文がおさめられています。何がそんなに聖子さんを魅了したのでしょう。
次のように述べられています。
 <そういう戦時中の、昭和十年代後半。戦争がいよいよ最後の様相を示しはじめるその一瞬まえ。まだ昔の世の中のよいところ、理想主義や、人の心の善きものをみんなが信じていた時代の、明るみがほんの一抹、残っているという時代。そんなときに松田瓊子の作品は現われた。>


 <吉屋信子の理想主義、人生肯定の明るい善意がそのまま、瓊子さんの作品にある。しかしひとあじ違う新風もたしかに感じられる。信子よりももっと熱烈な信仰の力と、大正インテリ家庭の教養としては当然の、ヨーロッパ文化への傾倒。絵に描いたようなエキゾチシズム。それが当時の少女たちには新鮮で魅力的だった。>

 松田瓊子さんの昭和八年四月三十日(日曜日)の日記には cloudy sometime fine として掃除やピアノの稽古、勉強のことが綴られ、今でもあこがれるような絵までが添えられていました。
 松田瓊子の小説に描かれている世界は、当時の少女たちを取り巻く環境とはあまりにもかけはなれていたのですが、かえってそれが少女たちの静かなブームを引き起こしたようです。田辺聖子さんは松田瓊子「紫苑の園」を次のように紹介しています。


<やさしい西方夫人。ヒロインの香澄をふくめ七人の少女たちのたたずまい。楽しい日常の小事件。英語・ドイツ語が飛び交いまきおこる美しいコーラス。ピアノ。ヴァイオリン。チェロ。すべて洋楽。そしてたべものは、といえばサンドイッチにプディング、フルーツポンチに蜜豆、カレーライス(どれも戦前女学生の夢)。戦争の嵐はいよいよ荒れ狂っていた。………そして、もう地上に二度とよみがえってこないであろう楽園 ―美しい自然、愛と善意にみちた人々、音楽と読書のたのしみ、敬虔な信仰…..にためいきついてあこがれた。>


平和な現在でもあこがれるような生活です。父野村胡堂は銭形平次の作者であるだけでなく「あらえびす」として音楽評論を書くほどで、音楽に造詣の深い家庭を築いており、それが瓊子の作品に色濃くでています。


 松田瓊子は美智子皇后が愛読された作家と帯に書かれており、このことについてもう少し調べてみましょう。



すみれノオト
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松田瓊子「紫苑の園」、先日 北村薫さんの「リセット」のところからなんとなくたどり着いて、購入していました。

[ ふく ] 2012/11/21 21:52:49 [ 削除 ] [ 通報 ]

「紫苑の園」も登場していましたか。須賀さんを怖がらせた「玉の井バラバラ事件」に注目してしまって、気づきませんでした。
事件の文献調査中です。

[ seitaro ] 2012/11/21 22:21:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

玉の井存知あげております。関西ですと昭和の初め頃でしょうか。神戸ミイラ首事件というのがあり、香櫨園あたりがでてきたような気がするのですが、出典は忘れました。(こういう妙なことはなんとなく覚えちゃうのです)

[ ふく ] 2012/11/21 23:30:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

香枦園まで出てくる猟奇事件まであるとなると、また興味がわいてきて調べたくなりました。子供の時怖い本を読むと、夜トイレに行けなくなりました。

[ seitaro ] 2012/11/22 7:02:39 [ 削除 ] [ 通報 ]

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吉屋信子の「新渡戸稲造」

 田辺聖子さんが心酔した少女小説作家の吉屋信子が新渡戸稲造について、昭和38年2月12日朝日新聞に「私の見た人」7のコラムを書かれていました。

「文化切手の人」
<文化切手は昭和二十四年十一月からのち三年間に十八人の文化に功労のあった人の肖像を刷って発売された。>


<そのなかで、うれしいことにたった一人を私は二度見ている。それは新渡戸博士である。私は女学校一年生のときに学校の講堂で博士の講演を聞いた。>


<「日本の女子教育は良妻賢母をつくるためといいますが、まだ少女のあなた方には良妻賢母とはどういうことかわからんと思うが」
こう言い出されたとき、私は思わず「ハイ」と声を出してしまった。さほど大きな声ではなかったが周囲には聞こえたのでクスクス笑声が起きた。だが博士は笑わず「そうでしょう」と言われた。「あなた方は良妻賢母になる前に、一人の良い人間とならなければ困る。教育とはまずよき人間になるために学ぶことです」………
私は天の神の声をきくように恍惚とした。
だが −その翌日、生徒一同は講堂にまた集められて教頭から「昨日の新渡戸博士は外国婦人と結婚していられる人で日本の女子教育をよく知られない。本校はあくまで文部省の方針により良妻賢母を目的の教育を行うから、うんぬん」と注意があった。>
その後年月がたち、ある婦人雑誌の読者大会の講師として招かれ、控え室で二人は出会うのですが、私の尊敬する新渡戸稲造と吉屋信子さんに接点があったとは思いもよりませんでした。新渡戸は日本で最も女子教育に心を砕いた人物で、遠友夜学校でも男女共学とし、東京女子大の初代学長も務めました。


北大総合博物館には新渡戸稲造の足跡を示す展示の数々があります。


明治時代に新渡戸が示したヒューマニズムの精神についての説明がありました。

これこそ今の教育に求められることではないでしょうか。
 現在の日本は進むべき方向を見失って大海の中を漂流する小船のように思えてなりません。新渡戸のように高い見識を持った人の出現が望まれます。



新渡戸稲造
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「少女の友」の一番熱心なファンは田辺聖子さん

 田辺聖子さんは「少女の友」100周年記念インタビューで次のように語られています。

<私のうちは大阪の福島というところで写真館をしてまして、家族のほかに親戚や働いている若い人たちも大勢いたので、本屋さんから毎月いろんな雑誌をとってました。母は「婦人倶楽部」や「主婦の友」、年の若い叔母は「新女苑」、男の人たちは「オール読物」や「新青年」。うちはお金持ちじゃないけど、商売をやってるんでお金がざぶざぶしてるわけ(笑)。だから、ついでにといって子供たちにも一冊ずつ、弟は「少年倶楽部」、私と妹は長いこと「少女倶楽部」をとってもらってましたけど、のち、私は「少女倶楽部」があんまりこどもっぽくて、「少女の友」に変えてもらったんです。私が断然「少女の友」になったのは、なんといっても中原淳一さんの表紙と挿絵のおかげです。中原さんの絵は、なんとなく甘いだけの、少女がいかにも喜びそうな媚びた絵とは違って、私たちがいちばん好きそうなものをちゃんと見抜いて描いてくださっている感じがした。>

 家庭で本屋さんから毎月雑誌をとっていた話や、最初「少女倶楽部」をとり、その後「少女の友」に変えた話、中原淳一の絵が気に入っていた話などまったく須賀さんと同じです。この時代の少女達は、皆さん同じような思い出を持たれているのではないでしょうか。
しかし、もし須賀さんがご存命であったとしても巻頭インタビューは田辺聖子であったろうと確信いたしました。
 当時から田辺さんは「少女の友」に和歌や作文を投稿されており、その頃から文才は秀でていたようです。選者はあのノーベル賞作家川端康成で、次のような言葉をもらっているのです。
<昭和18年7月号(16歳)短文入選一席
選の言葉 川端康成
……田辺聖子さんの「さら」のなかに、「大抵のものは、平生気をつけて見ないから、美しいと感じないが、一度じっと目を留め、静かに撫でまわしてみると、何とも言えぬ美しさとなつかしさを感じ出す。」とありますが、これはその一例の作文です。そしてこの言葉は、作文の精神の第一です。>
 田辺さんは読者のなかでは文句なしに一番の「少女の友」ファンだったのではないでしょうか。


Wikipediaによると、田辺聖子さんは無類のスヌーピーグッズ愛好家、宝塚歌劇ファン、必殺仕事人ファンでもあったそうです。



川端康成
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田辺聖子 | コメント( 3 ) | トラックバック( 0)

お聖さんは、テレビ番組で中原淳一のことをお話されてたのを見たことがあります。その時、わたし、ちょっとブログに書きました。http://akaru.mo-blog.jp/akarublog/2012/02/post_0233.html

[ akaru ] 2012/11/16 19:31:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

ただいま読ませていただきました。2月にNHKで放送されていたのですか。残念、見逃してしまいました。

[ seitaro ] 2012/11/16 23:22:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

神戸文学館、出かけてみたいと思います。
弟さんの講演、終わってしまいましたが
お話を聞いてみたかったです。

[ ショコママ ] 2012/11/17 9:29:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

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私、いまでも「大人の『少女の友』してるわ」田辺聖子

須賀さんの「サフランの歌」で知った「少女の友」の情報を探していると、田辺聖子さんも熱心な読者だったことがわかりました。須賀さんは昭和4年生まれ、田辺聖子さんは昭和3年生まれで1年違いです。同じ時代に女学校時代をすごした二人の文学少女の愛読書は、偶然か、必然か、同じ「少女の友」だったのです。


 ところで現在王子公園の隣の神戸文学館で「おせいさんの神戸交遊録」と題して田辺聖子展が開催されています。

「カモカのおっちゃん」と過ごした神戸時代のことを中心とした展示で、神戸祭りに参加された時の衣装も飾られていました。

いくつになっても「少女の友」という衣装で、可愛く愉しそうな田辺さんのパネル写真もありました。


 田辺聖子さんのお話を進める前に、どうしてもご紹介したのが「コーヒーカップの耳」。

 皆様ご存知のimamuraさんの詩集ですが、その帯に田辺聖子さんが紹介文を書かれているのです。


「ふき出したり、涙ぐんだり そしてとても言葉がきれい。
たのしい時間を過ごしました。
通りすがりに書棚に手をのばしてついよんでしまいます。」田辺聖子


 実はこの貴重な詩集今村さんから頂いてしまいました。いくら代金をお支払いすると言ってもコーヒー代以外は固辞されるのです。きっとまだ喫茶輪の書棚にもあって、訪れれば手にとって読ませていただけるのではないでしょうか。内容は田辺聖子さんが書かれている通りです。


 さて、「少女の友」百周年記念号に戻りますが、巻頭のインタビュー記事が、いつまでも夢見る少女の心を失わない田辺さんの記事です。その最後では
<自分でも可笑しかったけれど、まあ少女時代にどっぷりと、頭のてっぺんまで『少女の友』に浸かって生きてきたせいなんでしょうね。私も今年で八十歳になりましたが、ずっと小説を書き続けて、だから私、いまでも自分で「大人の『少女の友』してるわ」って思うんですよ。>と述べられています。



コーヒーカップの耳
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田辺聖子 | コメント( 6 ) | トラックバック( 0)

拙著、ご紹介頂きましてありがとうございます。もう12年も前の本ですが、わたしには思い入れの深い本です。 田辺さんに帯文を頂けたのには感動でした。これも宮崎修二朗翁の仲介のおかげでした。

[ akaru ] 2012/11/15 22:18:25 [ 削除 ] [ 通報 ]

そのようなご関係でしたか。imamuraさんの思いのつまった詩集大切にいたします。またこれからの作品もまだまだ期待いたしております。
 調べていると、田辺聖子さんは和歌なども書かれており、少女時代から相当の文才があったらしく、あらためて感心しております。

[ seitaro ] 2012/11/15 22:48:08 [ 削除 ] [ 通報 ]

田辺さんは大阪文学学校でわたしが尊敬する足立巻一先生に教えを受けておられます。足立先生は田辺さんのことを「なんぼでも小説を書いてくる生徒だった」と。

[ akaru ] 2012/11/15 23:08:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

田辺聖子さんの文章は好きです。特に言葉つかいが好き、まろやかなのに鋭い選択でよいと思います。
脱線しますが、(いつも失礼します)田辺聖子さんと同じ大阪樟蔭出身で、宝塚歌劇に「水代玉藻」(加島さん)さんという生徒がいらっしゃいました。その方の楽屋日記の面白かったこと!品がよくテンポのよい文章でした。随分前に退団されましたが、どうなさっているのか。。時折ふと思いだします。

[ ロックウェル ] 2012/11/16 0:13:15 [ 削除 ] [ 通報 ]

スターの皆様はTVで見たことがある程度なのですが、トップになられるかたは、若くして既にオーラを発散されているのですか。
(今回は未知の禁断の園に踏み込んでしまったものですから、まともなコメントをお返しできておりません)

[ seitaro ] 2012/11/16 23:55:15 [ 削除 ] [ 通報 ]

イギリス人貴族のお話、確かに伝統を重んじる生き方をあらわすお話で参考になります。大屋正子さん、ど派手な方ですが、じつは無茶苦茶頭がいいんじゃないかとも思ったりもします。

[ seitaro ] 2012/11/18 7:51:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

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seitaroイメージ
阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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