阪急沿線文学散歩

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「与謝野晶子先生」(『日本橋魚河岸と文化学院の思い出』より)

 文化学院の三回生であった金窪キミさんは与謝野晶子について次のように述べています。
<日本橋魚河岸育ちで下町の小学校を出たばかりの私、「明星」も「みだれ髪」も知ったことではない子供にとって、文化学院の先生らしくない先生の中でも意表をつく方は与謝野晶子先生であった。>

<和服をあれほど自由に纏っている方は見たことがない。髪のまとめ方のユニークさ、洋服を着てこられる時のスタイル、感嘆して見つめるだけであった。
 そして肌の美しさ。黒板に字を書かれる時、肩まで滑る袖に顕れてしまう腕の乳白色の輝き、ただ白いと言うのではない艶やかな、滑らかな裸身を、子供の私でも一瞬思ってしまう程の肌の美しさであった。>


 写真で見るよりはるかに肌の白い美しい人だったらしく、当時としては珍しい洋装のセンスも素晴らしかったそうです。
 NHKの朝の連ドラ「花子とアン」でも、東洋英和女学院を舞台とし、仲間由紀恵演じる柳原白蓮が与謝野晶子の歌を詠むシーンが出てきますが、もし与謝野晶子のドラマを作るとしたら仲間由紀恵がピッタリです。

 

 心斎橋の卸商小林政治商店の三女で、与謝野家の長男光と結婚した与謝野迪子も、随筆『想い出 わが青春の与謝野晶子』で次のように絶賛しています。


<まだ四十前の義母は大きなひさし髪の下に、湖のような静かな考える目が輝いていて魅力的だった。皮膚の色も象牙色で滑らかな肌をしていた。小母様と呼びかけて側によって行きたくなるような暖かさがあった。>
 そして与謝野寛、晶子が大正6年に苦楽園に約2週間滞在した時の様子も詳しく記されていました。
<阪神電車の夙川駅で降りると、山側の方に苦楽園行きの車が待っている。私達はその頃まだ珍しい自動車に乗って、ところどころ岩のむき出している、でこぼこ道を進んだ。木々はあまり大きくなく、五月の陽光に山道は乾いてひび割れがしていた。間もなく、六甲山の中腹にある苦楽園に着いた。数奇屋風の離れ家が景色のよい場所に点々と建っていて、その一つを与謝野家が借り受けていた。そこに集まって食事などを共にした。
 洋風のホテルや大きな温泉浴場、また園主の中村家の母屋が遠く近く散在していた。
ホテルには山田耕作さんが泊まっておられ、夕方、与謝野家の人達とホテルへ行った時、広間の灯火を暗くして、ピアノの燭台にろうそくをともし、ピアノを聞かせてくだすった。静かな山の夜のその即興曲はロマンティックな余韻を残し私たちを魅了した。>


山田耕作が泊まったホテルとは苦楽園の恵ヶ池に面してあった六甲ホテルでした。


 その山田耕作も文化学院創立時に「音楽および体育」を担当していました。金窪キミさんは「山田耕作先生」として次のように述べられています。
<今でも思い描いてはっきりと思い出すのは、山田耕作先生と満佐子夫人が上級生を集めてモダンダンスの振り付けをされていたこと。ギリシャ悲劇のコスチュームのようなトリコ姿が舞い踊る光景を見学させられて肝を潰し、いずれあおのような姿で踊り舞う授業が行われるのかと暗澹としたが、それは地震が解決してくれた。>
当時舞踏詩に情熱をかけていた山田耕作の授業はかなり先鋭的なものだったようです。


 与謝野迪子(旧姓小林)の小林家も西村伊作と親しかったらしく、文化学院ができる前の年(大正9年)に母と長姉安也子は新宮の西村家に滞在し、その印象が『想い出 わが青春の与謝野晶子』にオルコットの「四少女」の物語の情景描写を思い浮かべたとして述べられていました。
<その時代としては日本人離れのした純洋式の住居、広い庭も洋風、明るく合理的で清潔な洋館に夫人を除いた家族一同が洋服、それも、純欧米風の服装が板についていた。
 六年生のアヤちゃんを頭に、久二、ユリ、ヨネ、永吾、ソノ、ナナの七人の子供たちが可愛らしい服を着、白い大きな洋館の前で、ごく自然なポーズで撮っている写真を見た時、次姉と私は余り見事な洋風化家庭に、憧れをもって感嘆したものだった。>


西村伊作が自ら設計した自邸での生活ぶりです。




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『日本橋魚河岸と文化学院の思い出』の与謝野寛先生も西村伊作と西宮訪問

 西村伊作が与謝野夫妻の勧めにより、理想の学校として設立した文化学院で与謝野寛は学院創立から昭和5年までの約10年間、晶子は亡くなる間際までの二十年余り教師を務めました。与謝野寛は『万葉集』、『古今和歌集』、『唐詩選』、フランス象徴派詩人、夫人晶子の作品から詩を選んで講義したそうです。
 どんな教師ぶりだったか、文化学院に大正12年に入学し、3回生だった金窪キミさんが『日本橋魚河岸と文化学院の思い出』に綴られています。
「与謝野寛」先生からです
<先生は授業を受け持ってはいらっしゃらなかったが、晶子先生とご一緒に殆ど毎日来られ、構内を歩き回って細かい注意をしていらっしゃった。右の手を握り締めて、左手の掌の中に右の拳をぶっつけて音を立てながら、「よろしか、よろしか」と念を押される。生徒は叱られることばかりであった。>とかなり厳しい先生だったようです。


 しかし晶子先生にはやさしかったらしく、
<寛先生は晶子先生を大切にされ、晶子先生は寛先生を立てておられるのは美しかった。文化学院教員室はお二人の応接間のようで、いろんな知名人が訪ねてこられた。>と述べられています。
 このあたりの金窪さんの文章について、須賀敦子さんは菅野昭正氏との対談で
<文化学院に関東大震災のあと入って、三回生というから、文化学院がほんとに希望に燃えていたときで、それで先生方は一生懸命されるんだけれども、生徒たちは二階から見ていて、先生が来られるのに悪口を言っているなんていうのがとっても私おかしくて。>
と述べられています。自由な雰囲気が尊ばれ、一流の芸術家たちが教師を務めた学院だったようです。
 与謝野家の人々は大正6年に苦楽園に二週間ほど滞在し、作歌や揮毫に応じ、宝塚少女歌劇を見に行っていたことは以前記事にいたしました。
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 その後、大正10年西村伊作・与謝野寛・晶子らにより文化学院が創立した年、西宮市分銅町にあった薄田泣菫の私邸「雑草園」を西村伊作と与謝野寛が訪れた写真がありました。

 雑草園の縁側で撮った写真、左端が泣菫、右端が与謝野寛、中央の人物が西村伊作でした。当時大阪毎日新聞の学芸部長だった薄田泣菫が招いたのでしょう。

 


 西村伊作の生き方に大きな影響を及ぼした叔父とは、辻原登の小説『許されざる者』の主人公ドクトル槙のモデルで、大逆事件で処刑された大石誠之助でした。
1945年和歌山県に生まれた作者辻原登もまた、文化学院の卒業生でした。



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「西村伊作先生」(金窪キミ『日本橋魚河岸と文化学院の思い出』から)

 金窪キミさんは『日本橋魚河岸と文化学院の思い出』の「初期文化学院の先生方」という章で「西村伊作先生」について次のように述べています。


<伊作先生は陶器作りがお好きだった。これも作りたいから作りたいものを作る。陶器は床の間の飾り物ではない、日常使うから面白いのであって色も形も気の向くままに日用の物として作られた。その作品のひとつひとつの主張は先生のお声を聴くようである。
 そして言い忘れてならないのは、伊作先生は本当は建築家でいらっしゃった。その作品は今なお、あちこちに残されているのである。
 私は後にも先にもあれほど不思議な魅力に溢れた賢い人を知らない。>

 西村伊作は新宮市に3軒の自邸を建てましたが、最初の家は、明治39年にわが国で最初に建設されたアメリカ式のバンガロー住宅で、更に理想の生活を実践するために工夫を重ね、3番目の自邸、現・西村記念館を完成させています。

 構造図を見ると、上下水道がなかった時代に、蛇口をひねると水とお湯がでる仕組みや、水洗式のトイレなど、給排水システムも非常に工夫をこらしたものであり、100年も前にこのような住まいをよく考えたものだと、伊作の才能に感心します。
 大正10年、伊作は御影に「西村建築事務所」を開設し、日中戦争が始まるまで16年間存在しました。したがって阪神間にも西村建築事務所による住宅が存在していたのですが、残念ながら、現在ではほとんど解体されてしまったようです。


 私の長く住んでいた倉敷には現在も西村伊作の設計による倉敷教会が残っています。


 大原孫三郎と林源十郎が中心となって倉敷教会を設立したのですが、建設にあたって、当初ヴォーリズ事務所に依頼をしていたにもかかわらず、伊作の教育理念や生活改善思想に共鳴し、違約金を払って、伊作に新たに設計を依頼したそうです。
 私の尊敬するW.M.ヴォーリズ以上の信頼を勝ち得た、日本人建築家が西村伊作だったのです。W.M.ボーリズも西村伊作も、元々建築を学んだ専門家ではなかったはずですが、建築家としての才能とはどのように育まれるのか、不思議でなりません。

 倉敷教会の近くにもうひとつ伊作の設計した保育園があります。
理想主義的社会の実現を目指した大原孫三郎が大正14年に「若竹の園」保育園を作り、その設計もまた西村伊作に依頼したのです。
 伊作が保育園の理想として求めたのは、子供たちが楽しい夢を育む、温かい家庭のような空間でした。それを実現するためバンガロー様式を採用して、小さな棟を複数配置する図面を描き、その結果として、森の中に立ち、庭に小川の流れる「おとぎの国」の夢のお城のような園舎が出来上がったそうです。


上の写真は昨年訪ねたときのものです。
 現在では、数回の増改築を経て、庭の小川などありませんが、核となる当初の部分は良好に残されていました。園庭には樹齢約200年のむくの木が立っており、子どもたちには「神様が宿っている」と信じられ、そこを中心に「むくの木の家」が立っています。

 

西村伊作の建築に対する考え方は、W.M.ヴォーリズ同様、キリスト教思想が根底にあるのでしょう。

田中修司著『西村伊作の楽しい住家』に詳しく述べられていました。



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西村伊作が長女アヤのために創立した「文化学院」

 文化学院は、金窪キミさんが『日本橋魚河岸と文化学院の思い出』で<西村アヤ、私が大正十二年に文化学院に入学した時二年上におられた。そもそもこの学校は西村伊作さんがこのお嬢さんに理想的な教育をさせたくて作られた学校であった。>と述べられているように、大正10年、 西村伊作により各種学校として開校されました。
 その設立の経緯については、『我に益あり 西村伊作自伝』に詳しく述べられています。


 伊作はもとと駿河台の土地を、自分が東京に出たときの住宅にして、東京の人たちとの交際の場にしようと購入したのですが、その時ちょうど長女アヤが新宮の家の近くの高等女学校に入る時期と重なり、
<そういう学校に入れるといろいろ束縛され、自由を制限されるものであるからかえって女の子の根性が悪くなって陰ひなたがあったり、偽りの行動をするようになる。それは私の子供の教育のためにいやなことだと思った。私は自分の子供のために学校を作ったらいいと思った。東京で買った土地でホテルをしようと思ったけれども、ホテルの代わりに少数の学生の来る学校を作ったらいいと思った。>と文化学院を設立したのです。

 さすが富豪の発想ですが、その校舎も伊作が自ら設計した理想の建物だったようです。
<私は新宮の自分の家を建てた大工を東京へ連れてきた。そして私自身が建築の設計をして小さい校舎を建てた。工事をしているときに私が監督している写真などが新聞に出た。その学校の建物は私の好きな英国のコッティージ風な建物であって、それは少数の学生を入れる目的であったから学校のように見えない。

 日本の学校の建物というのは非常に殺風景な工場のようなものが多かった。けれども私はそれを全く住宅のような感じに作った。ポーチがあって、それにつるバラがからまるようにしてあった。庭は前の土地の持ち主である病院の院長の邸宅であったままの日本の庭園があって大きな石をいろいろ配置してある。そして大きなカエデやマツの木などもあった。その木は一本一本植木屋が作って育てたものであって、非常に高価なものである。日本の庭は自然の風景が感じられるようにして、都会の真ん中にいても山の中に住んでいるように感じられるように自然の風景を模したもので、洗練された趣味のある、ランドスケープ・ガーデニングというようなものである。学校の建物が、絵のような感じのするものとなった。何だかこの建物を見ていると外国へ行ったような気がすると言うので人々が来て写真を写したりした。>
しかしこの素晴らしい建物はわずか二年後、関東大震災により焼失してしまったのです。


 御茶ノ水からとちの木通りにある震災後再建された文化学院の建物がまだ残っているかと訪ねました。

玄関のアーチは、震災後の校舎の面影を残しているようです。

 


木立が残され、都会の喧騒を忘れさせてくれます。

アーチを潜ると新しく建て替えられた校舎へと続いていました。



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「おとぎの城」と謳われた西村伊作の保育園

 20世紀初頭,繊維産業の急速な発展が倉敷にも及び,女性労働者の急増とともに育児環境や子供の発達への影響が悪化し始めます。「女工哀史」に著されたような社会問題を解決するために、大原孫三郎は理想主義的社会の実現を目指して、私財を投じて事業を展開します。その一環でしょうが、大正14年に孫三郎は敷地を寄付し、倉敷紡績からも施設無償貸与という形で「若竹の園」保育園がつくられました。場所は美観地区の倉敷川から通りを一本入ったところにあります。

 園舎の設計は、教育者・建築家・芸術家として著名な西村伊作が行いました。伊作が保育園の理想として求めたのは、子供たちが楽しい夢を育む、温かい家庭のような空間でした。それを実現するためバンガロー様式を採用して、小さな棟を複数配置する図面を描き、その結果として、森の中に立ち、庭に小川の流れる「おとぎの国」の夢のお城のような園舎が出来上がったそうです。現在では、数回の増改築を経て、庭の小川などありませんが、核となる当初の部分は良好に残されています。
御影石の門からのぞいてみましょう。


園庭には樹齢約200年のむくの木が立っており、子どもたちには「神様が宿っている」と信じられ、そこを中心に「むくの木の家」が立っています。
開園当初は、門をくぐり、松や榎が立つ緩やかな傾斜のある庭が広がり、小川が流れ、小川に沿っていくと、小さな三角形の屋根の玄関にたどり着いたそうです。


 庭の小川や森の風情は無くなってしまいましたが、このむくの木を中心に、「トムソーヤの冒険」に出てくるような夢と冒険の木製遊具が近年導入されていました。
 むくの木の家の横には、木製のジャングルジムやすべり台、トンネル山等が設置されています。


 この保育園についても、私は倉敷在住の時は、市の中心部にあるものの、少し奥まった通りに面していましたので全く知らずに暮らしており、今回初めて訪ねました。いつまでも西村伊作が設計した思想や大原孫三郎の意志をひきついだ保育園であってほしいと願っております。


大原孫三郎
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本当に勉強になることばかりです。次回にそちらの方面にまいりましたら、訪ねさせていただきたく存じます。
本日、エルグレコ展に行ってまいりました。私にとっては、大原美術館の受胎告知がしみついております。子供の頃、あの辺りに行きますと、美術館がお休みでも、時間外でも、父がちょっとお願いすると中に入れていただけて、子供時代に一番よく行った美術館だったのです。エルグレコとルオーは中でも印象ぶかくおぼえております。

[ アップルビー ] 2012/12/12 15:09:35 [ 削除 ] [ 通報 ]

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西村伊作の「楽しき住家」と倉敷教会

 自由主義教育で有名な文化学院の創設者として知られる西村伊作は今までにない発想をもつ設計者として、大正から昭和にかけて自由闊達に、鮮烈に生きた人物でした。


 その自由な考え方は暮らしそのものにも及び、文化的に住まうライフスタイルを伝えようとしました。


 西村伊作は新宮市に3軒の自邸を建てましたが、最初の家は、明治39年にわが国で最初に建設されたアメリカ式のバンガロー住宅で、理想の生活を実践するために工夫を重ね、いわば集大成として3番目の自邸、現・西村記念館を完成させます。

 


 また、設備面の改善にも取り組み、上下水道がなかった時代に、蛇口をひねると水とお湯がでる仕組みや、水洗式のトイレなど、給排水システムも独自に工夫を重ねており、100年前に実現していた理想の住まいの形に驚かされます。彼はどこで学んだのでしょう。
 その伊作の建築が、私が永らく住んでいた倉敷に多く残されているのを、倉敷を離れてから知ることになったのです。伊作と倉敷との関わりは、大正10年に倉敷文化協会から招かれ講演を行い、この地の有力者であった林源十郎と親しく交流するようになったことからでした。

 林源十郎は、同志社で学んだ信仰の篤いクリスチャンで、老舗の薬種商の主人、家業に熱心な人格者として周囲の尊敬を得ていました。また、良い本と良い友に接することを説き、大原孫三郎に、聖書を読むことと岡山孤児院を運営していた石井十次との交わりを勧めた人物です。
 孫三郎は源十郎と出あって心服し、キリスト教の洗礼を受け、この二人が中心となって倉敷教会を設立します。教会の会堂建設にあたっては、当初ヴォーリズ事務所に依頼をしていましたが、伊作の教育理念や生活改善思想に共鳴し、違約金を払って、伊作に新たに設計を依頼したのです。
 やはりヴォーリズに匹敵する、住む人の心を考えた設計のできる日本人は、当時伊作しかいなかったのではないでしょうか。
久しぶりに倉敷を訪れ、倉敷教会など美観地区の周りを散策しました。


私が住んでいた頃は、併設された竹中幼稚園に娘が通い、バザーなどで訪問し、倉敷教会は特徴ある建物とは思っていましたが、まさかこのような著名な方の設計とは知らずにおりました。

建物には御影石の石積みが多用され、穏やかなスロープを上がって、2階のバルコニーから礼拝堂に入るようになっています。そのスロープを娘が幼稚園のとき、「トントン、まえ。トントン、まえ。」と言いながら行進の練習をして上っていったと申しておりました。

1階が幼稚園、塔の最上部は鐘楼だったそうですが、今はガラス窓が嵌められています。



大正デモクラシー
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「日本橋魚河岸と文化学院の思い出」

遠藤周作の年譜で、講師をしていたことから知った西村伊作の文化学院、いつか訪ねようと思っていましたが、須賀さんの菅野昭正氏との対談に文化学院のお話がでてきました。  
 その対談では金窪キミ著「日本橋魚河岸と文化学院の思い出」という随筆について語られているのですが、この本、図書館でみつけることができません。Amazonによると内容は「関東大震災前後の東京下町の暮らしと初期文化学院の様子。与謝野寛・晶子、山田耕筰、高浜虚子など、文化学院の教授陣とのふれあいを描く」と書かれています。

日本橋魚河岸の鮨屋については、既に武者小路実篤の「小僧の神様」の鮨屋の紹介をいたしました。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10762314c.html
現在では、面影はまったくありませんが、魚河岸跡の石碑が現地に保存されています。

 


 さてこの本について、須賀さんは対談で次のように紹介されます。
「ええ、とても素直に。よくこれだけ覚えておられたと思うんですけれども。じつを言うと、知人にたまたま電話をしたら、うちのおふくろが本を書いたというふうにおっしゃって、それがこの本だったんです。本当に、おっしゃったように魚河岸と文化学院という組み合わせが、とっても面白かったんですけれども。」
この知人とは作者の金窪キミさんのご長男だったそうです。また金窪キミさんと文化学院については、次のように話されます。
「文化学院に関東大震災のあと入って、三回生というから、文化学院がほんとに希望に燃えていたときで、それで先生方は一生懸命なさるんだけれども、生徒たちは二階から見ていて、先生が来られるのに悪口を言っているなんいうのが、とっても私おかしくて。」
 文化学院は大正10年、 西村伊作により各種学校として開校されました。創立には、歌人の与謝野寛・与謝野晶子夫妻、画家の石井柏亭も携わり、「国の学校令によらない自由で独創的な学校」という新しい教育を掲げ、「小さくても善いものを」「感性豊かな人間を育てる」などを狙いとした教育が展開されます。創立当時から制服はなく、和服より洋服を推奨し、当時では珍しく、生徒のほとんどが洋服を着ていたそうです。


 御茶ノ水駅を降りて、とちの木通りにある文化学院に行ってまいりました。

上の写真の昔の建物は2008年に高層ビルに建て替えられたようですが、玄関の部分だけは残されており、雰囲気のあるアーチと階段で本館と結ばれています。

 

 

元校舎のあった敷地は、広くはありませんが、しゃれた林の風情です。

 

とちの木通りを更に進みますと、文化学院が創立する以前、1913年に設立された語学学校アテネ・フランセの特徴ある建物もありました。

 

更に西村伊作のお話を続けます。



西村伊作
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文化学院は、飯沢汲竰キ岡輝子のエッセイでしか存じませんでした。勉強させていただきます。

[ アップルビー ] 2012/12/08 13:46:12 [ 削除 ] [ 通報 ]

長岡輝子さんも文化学院に在学されたのですね。優れた講師陣で優れた学生が育ち、西村伊作の理想が実現され他のだと思います。多分西村伊作に豊富な資金があったからこのようなことができたのだと思うのですが、こんな特徴のある運営ができる学校が現在もあればいいのにと思ってしまいます。
私も西村伊作について知ったのは最近のことで、あと2回ほど西村伊作のお話を続けさせていただきます。

[ seitaro ] 2012/12/08 17:54:06 [ 削除 ] [ 通報 ]

長岡輝子さんによると、文化学院は捕虜が収容されていたので、空襲を逃れたそうです。
長岡さんは、昭和3年からフランスに留学されています。
ご両親もご兄弟もその子供達も愛にあふれ、戦前の中流階級の素晴らしさをかんじさせます。甥の尾高忠明氏のファンでもあります。

[ アップルビー ] 2012/12/09 22:49:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

ロックウェルさま 樋口あゆ子さんネットで拝見いたしました。
若く美しく見とれてしまいました。ご活躍なさっておられるようですので、これからチェックさせていただきます。

[ アップルビー ] 2012/12/10 17:43:08 [ 削除 ] [ 通報 ]

失礼いたしました。あまりお気になされないでください。ブログでは、勝手に想像している架空の人物とのお話がスリリングでもあり、心地よく楽しませていただいております。でも日々会われている方々とはそうもいかないですね。

[ seitaro ] 2012/12/15 20:06:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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