阪急沿線文学散歩

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武庫川にチフチャフという珍鳥が来ているらしい

 昨日の夕方、毎日テレビのVOICEというニュース番組を見ていると、武庫川河川敷でチフチャフという、珍鳥が来て、バードウォッチャーが集まっていると話題になっていました。


とても珍しく、なかなか見られない鳥だそうですが、MBSのカメラマンは見事に武庫川でその姿を捉えていました。

場所は山陽新幹線の少し北側の河川敷のようです。
 武庫川にこんな珍しい野鳥が来ているなんて。武庫川を一番愛した北尾鐐之助が知ればどんなに喜んだことでしょう。


 北尾鐐之助『阪神風景漫歩』からです。
<水が美しい。阪神間を流れる川の中で、何と云っても一番武庫川の水が美しい。宝塚で入れる汚水などは全くここまでは影響がない。夏の旱天には、どうかすると一滴の水もなくなるが、大概、清い美しい水を流している。河原で火を焚いている。水の中を走り回って網を投げるものがある。水が少しも濁らない。私はこの堤を歩くことが好きだ。ここを歩いて、誰もが何でもなく見逃す、あの松林をいい景色だと思う。>


 チフチャフには巡りあえないかもしれませんが、久し振りに武庫川まで行ってみましょう。

 

VOICEでは淀川のコミミズクも紹介されていました。


こちらは淀川河川敷で阪急京都線水無瀬駅の近くだそうです。


それにしても番組のインタビューで河川敷に並んでいる皆さんのお持ちの高性能望遠カメラが200万円程度するものだと知ってビックリ。

 




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北尾鐐之助 | コメント( 4 ) | トラックバック( 0)

高槻の知り合いが退職されて、高性能の望遠レンズをつけたカメラをもって、毎日バイクで鳥の写真を撮ってますとおっしゃってましたが、ひょっとすると淀川にあつまる200人の中におられるのかもしれません。

[ ふく ] 2015/01/15 18:07:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

淀川のほうが多くの方がカメラを構えて壮観でした。コミミズクのほうが人気がありそうです。

[ seitaro ] 2015/01/15 21:05:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

私もVOICEを見ていて『チフチャフ』と言う名を知りましたが、それよりも驚いたことについ最近この鳥を嫁さんと散歩中に目撃してるんです。くすんだ緑色の小鳥だったので、てっきりウグイスと思っていましたが、VOICEを見ていて思わず声が出ました。そんなに珍しい鳥だったとは・・・しかも6〜7b先での目撃で3〜4匹群れでいました。もうその場にいないと思いますが、明日確認しに行ってきます・・・武庫川ではありません・・・

[ Z探偵団 ] 2015/01/15 23:40:17 [ 削除 ] [ 通報 ]

貴重な鳥を見られたのですね。その散歩道も、見物人が集まり、西宮の名所になるかもしれません

[ seitaro ] 2015/01/16 0:50:49 [ 削除 ] [ 通報 ]

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白蓮事件に『近畿景観』の著者・北尾鐐之助が絡んでいたとは

 好評なNHK朝ドラ『花子とアン』、私も休みの朝には楽しみに見ています。7月21日の放送では、吉田鋼太郎演ずる炭鉱王伊藤伝右衛門が白蓮の絶縁状に激高し、新聞記者を集めて反論すると叫ぶところで終わってしまいました。

 
 翌日は見れなかったのですが、ネタバレであらすじを読むと反論記事掲載を一旦撤回したものの、女中頭のタミが東西日報下山に働きかけて掲載されたと書かれていました。

 

 Wikipediaで大正10年の白蓮事件を調べると、白蓮の絶縁状を掲載したのは、大阪朝日新聞、反論記事を掲載したのは大阪毎日新聞だったようです。
その大阪毎日新聞の実在の記者が、なんと武庫川を最も愛した『近畿景観』の著者北尾鐐之助だったのです。


<完全に出遅れた大阪毎日新聞には、福岡支局在籍時代にY子と親しく交流があった記者・北尾鐐之助がおり…….
22日公開された朝日の絶縁状で事実を悟った北尾は京都に赴き、面目をかけて伝右衛門に食い下がり、3時間のインタビューを取りつけて巻き返しを図る。
10月24日、大阪毎日新聞で北尾の筆による「絶縁状を読みてY子に与ふ」という絶縁状への反論文の連載記事が始まる。手記の公開を渋る伝右衛門に対し、事後承諾の形での掲載となった。Y子を悲劇のヒロインとして取り扱った朝日に対し、毎日は女性評論家によるY子への批判コメントを掲載し明確に伝右衛門サイドに立った記事であった。「俺の一生の中に最も苦しかつた十年」とY子との結婚生活での苦悩を語る伝右衛門のインタビューは、自分が受け取る前に新聞公開された憤りや屈辱感と、伊藤家の内情に詳しい毎日の記者・北尾の手が入った生々しいものとなる。>
 昭和の初め、大阪毎日新聞社の写真部長であった北尾鐐之助は著書『近畿景観』の第一巻最初の章「阪神風景漫歩」で武庫川の美しさについて、次のように述べていました。

<水が美しい。阪神間を流れる川の中で、何と云っても一番武庫川の水が美しい。宝塚で入れる汚水などは全くここまでは影響がない。夏の旱天には、どうかすると一滴の水もなくなるが、大概、清い美しい水を流している。
河原で火を焚いている。水の中を走り回って網を投げるものがある。水が少しも濁らない。
私はこの堤を歩くことが好きだ。ここを歩いて、誰もが何でもなく見逃す、あの松林をいい景色だと思う。>
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北尾鐐之助の大正10年の反論記事を読んでみたくなりました。



花子とアン
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北尾鐐之助 | コメント( 4 ) | トラックバック( 0)

白蓮さんのお姿の美しさは大正三美人の中でも抜きん出てますね。
そして事件後の生き方が強くて潔くて驚きました(wikiを読んで)。
伝右衛兵門さんには気の毒ですが。

[ gri ] 2014/07/24 21:36:24 [ 削除 ] [ 通報 ]

griさんコメントありがとうございます。白蓮さん本当にお美しい方で、ドラマチックな生き方がこれまであまり知られていなかったのが不思議なくらいです。花子とアンこれからも楽しみですが、griさんの美しい写真とお話も楽しみにしております。

[ seitaro ] 2014/07/24 21:59:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

伊藤伝右衛門さんも25歳年をとっていましたが、かっこいい方でしたよ。福岡県には今の日本を創った方が多くいたのですよ。大正時代に炭鉱で儲けて日本で初めて本格的な美術館【東京府美術館】を寄付したのも『佐藤慶太郎』と言われる方で、大分県別府に病院も作ったのでした。北尾鐐之助さん宛の白蓮が出した書簡(手紙)を5通ほど持っていますが、それぞれ素晴らしいですよ!

[ まあくん ] 2014/10/17 13:52:49 [ 削除 ] [ 通報 ]

まあくん(と呼び捨てで良いのでしょうか)白蓮さんの書簡を5通も持っておられれるとはどんな方でしょう。驚きました。伊藤伝右衛門さん北九州では大変人気のあるかたであったと、このドラマと関連本で初めて知りました。コメント本当にありがとうございました。

[ seitaro ] 2014/10/17 20:15:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

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昭和4年阪急の車窓から

 北尾鐐之助「阪神風景漫歩」の最後では、当時の阪急電車の車窓から見える景色について述べています。
 <私は、阪神間の交通路の中で、阪急沿線ほど、美しい色彩に富んでいるところはあるまいと思う。大阪以西、西宮までの平坦地は、三月の中頃になれば、ぼつぼつ蓮華、菜の花が染め出し、四月に入ると、一望ただ、菜の花の黄金の色に埋められる。>
 今や沿線は住宅で埋め尽くされていますが、昭和4年は田畑が広がっていたのでしょう。

写真は先日撮影した、武庫川大橋と菜の花です。
<それから、夙川から山地に入って、六甲に至るまでの沿道は、全く桜花爛漫の春を展開する。阪神地方の山地は、多く黒松と砂岩の風景であるが、この沿線における桜の花は実に見事である。殊に御影―岡本―芦屋川の沿線、有産階級の庭園乃至、沿道における桜花の隧道は、春の阪神間を彩る唯一のものであろう。垣に咲く白ばらの群落、車窓から見下ろされる花壇の彩り、秋は至るところコスモスの花に埋められ、漸く花が終って、新緑の頃になると、強い若葉の光が、走り去る車窓に映えて、下げ革をもつ娘の白い腕に、軽い単衣の若奥様の美しい頸筋に、軽快な初夏の緑の反射を送った。>

昭和6年の阪急線路案内図にも、御影から夙川まで沿線に桜が描かれています。


上の写真は、まだ少し残っている沿線の桜の木です。
しかし、今や線路際まで住宅が迫っていますので、白ばらの群落やコスモスは望むすべもないでしょう。

御影駅や岡本駅も昔とはかなり変わりました。
北尾鐐之助は次のように結びます。
 <阪神の風景漫歩、私はそれによって、いつも新しい生命を吹き込まれる。山も、河も、海も、樹木も、あらゆるものが、いつも親しく話しかけてくれる。
今日もぶらりと一時間ばかり、御影の山を歩いてきた。
何という生甲斐のある世界だ。赤裸々な冬から、今に生々した楽しい春が…夏が、まためぐって来ると、山は、林は、ひそやかに私に話しかける。>
御影の山とはどのあたりを歩いたのでしょう。

甲南病院へ登る坂道です。

甲南病院から見下ろす御影の風景、昭和4年の様子を想像するのも難しくなりました。



阪神風景漫歩
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北尾鐐之助 | コメント( 7 ) | トラックバック( 0)

武庫川も河川改修されていますが、東に行くにつれ、川筋が変化しており、新淀川も明治末年に開鑿されるなど、今とは全く違った風景がかつて広がっていたことがようやくわかってまいりました。近代の電車の道筋とは全く違ったところに点在しているかのように見えた昔からの親戚の家が、実は街道筋にあったりと、発見することも多いです。でも、関西は広すぎます。

[ ふく ] 2013/03/02 22:27:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

先日の講演のお話しですね。昔の街道を歩くのは色々な発見があって楽しそうです。武庫川も大きく変わっています。

[ seitaro ] 2013/03/02 23:05:06 [ 削除 ] [ 通報 ]

菜の花は昔、菜種油を採取するためのものだったんですね。大村利一さん(『西宮物語』著者)のご先祖もそれで財をなされたようです。

[ imamura ] 2013/03/03 9:43:11 [ 削除 ] [ 通報 ]

綿と菜種の栽培が大阪湾岸の農村では盛んだったそうです。武庫川左岸で育った祖父の話では、大庄村(武庫川の東側ですが川辺郡ではなく武庫郡でした)から北をみると中山寺が見えて、春はその間は見渡す限り菜種で黄色かったといってました。

[ ふく ] 2013/03/03 13:19:39 [ 削除 ] [ 通報 ]

大村利一氏の父親は色々な商売をされていたそうですが、そうだったのですか。「西宮物語」ふたたび開いて、大正時代の西宮の風景、読み返しました。

[ seitaro ] 2013/03/03 18:04:45 [ 削除 ] [ 通報 ]

最近は菜の花畑などほとんど見なくなりましたが、この地方にも昔は菜の花畑が広がっていたのですか。そのようなシーンなかなか想像できませんが、これからの時期、畑には蓮華、菜の花が綺麗だったのでしょうね。

[ seitaro ] 2013/03/03 18:10:40 [ 削除 ] [ 通報 ]

「阪神風景散歩」大変珍しいですね。

 北尾には山に関する紀行文が幾書かありますが、私の本棚に「山嶽順禮」大正8年刊、「山岳夜話」大正9年刊、「日本山岳巡礼」昭和2年刊の3冊、眠っておりましたので、改めて、読み返してみました。

[ shiratori ] 2013/04/09 12:04:24 [ 削除 ] [ 通報 ]

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昭和の初めの阪急沿線

 北尾鐐之助「阪神風景漫歩」には昭和の初めの阪神間の風景が写真を見るように描かれています。阪急沿線の様子です。


<阪急電車も、阪神電車も、乃至国道電車も、その停留所の乗降客によって、土地の生活分布を知ることができる。阪急電車では、六甲、御影から多くの西洋人が乗った。神戸から毎日必ず顔を合わせる品の良い老人があった。その人はいつも御影で降りた。日曜日など、若い娘にニッカーを穿かせて、リュッックサックを背負った西洋人の一家が、よく六甲で降りて山に入るのを見た。私はいつも、その人たちの逞しい骨格や、人を厭するような風貌を羨ましく見送る。御影あたりに住んでいる西洋人の細君たちは、神戸の市場で求めた食料品をバスケットに詰め込んで、この電車で帰って行った。何とか云う露西亜の美しいダンサーの顔もしばしば見受けた。>
「阪神風景漫歩」が出版されたのは昭和4年のことですが、昭和3年には裏六甲ドライブウェイが開通し、有馬から山上へのバスが運行を開始。

さらに昭和6年六甲ロープウェーが開通し観光地として開け初めました。

阪急電車六甲登山口からの六甲登山も吊りポスターなどで、盛んに宣伝されていたようです。


驚くのは阪急夙川の様子です。


<夙川へ来ると、廓町の女を乗せた。女優らしい女、ダンサーらしい女が、多くここから乗った。この線から分かれて行く、甲陽園、苦楽園には、温泉、旅館、料理店などの生活がある。>
甲陽園、苦楽園というのはこの頃歓楽街の様相を呈していたようです。

上の写真は昔の苦楽園全景

そして、上の写真はラジウム温泉のあったあたりの現在の様子ですが、様変わりです。
<宝塚を目指してきた、神戸の女。こどもたち。それに地方から来たらしい人々は、西宮北口に来るとどやどやと席を立った。毎日、必ず一人は車内に見出される、青い袴の宝塚音楽学部の女生徒も、みなここで降りた。名の知られている国民座の俳優たちも、相次いでここで降りた。関西学院が仁川へ引っ越してからは、半月の金ボタンと青い袴の女生徒が一緒になって、宝塚行きの電車に運ばれて行った。>
 関西学院が原田の森から上ヶ原に移転したのは昭和4年のことでした。


上の写真は完成したばかりの関西学院の様子ですが、右手の宣教師住宅群が目立っています。
神戸女学院が、同じヴォーリズによるスパニッシュ様式の校舎が完成し岡田山キャンパスに移ったのは昭和8年でしたので、言及されなかったようです。



阪神風景漫歩
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北尾鐐之助 | コメント( 5 ) | トラックバック( 0)

今と違い、電車の本数も人も少なかったので、同じ方とすれ違うことは多かったと思います。母が女学校時代、よく羽衣の本屋さんでみかけた若きジェントルマンがなんと小林の世界史の先生になられていました。吉00太先生です。蝶ネクタイで授業をされていました。一度伺ってと頼まれながら機会がなく亡くなられてしまいました。
浜に音波(潜水艦)の検査で来ていた東京の学生とかもいたそうです。のちに従兄のお仲人になられました。ご縁ですね。

[ ロックウェル ] 2013/03/01 9:21:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

六甲登山は阪急電車の栞?はどちらものもでしょうか。もう少し大きくしてみたいです。友人の友人の台湾の方のおじいさまが戦前、六甲登山をしたお話、写真がのこっているといってみせていただきましたが、ルートが今と違って不思議だったのを思い出しました。

[ ふく ] 2013/03/01 9:35:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

なんとなくロマンスを感じるようなお話しですが、羽衣の本屋さんて、その頃からあったのですか。昔の方が先生も権威がありましたし、特徴がある先生がいてよかったような気がします。

[ seitaro ] 2013/03/01 21:04:48 [ 削除 ] [ 通報 ]

阪急電車の六甲登山案内図です。スキャナーでなくて申し訳ありません。

[ seitaro ] 2013/03/01 21:06:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

ジェントルマンは香櫨園方面におすまいだったのでしょうか。河川敷のお地蔵さんのあたりで見かけたことがあります。京大卒の先生で後にアフリカの?で神大で博士号をとられたと聞きました。(本買いました)本屋さん、文房具屋さん、薬屋さん、郵便局などなど、皆さんご親戚だったのではないですか?もう今はどなたもお商売されてないと思いますが...

[ ふく ] 2013/03/01 21:28:36 [ 削除 ] [ 通報 ]

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昭和4年鳴尾の風景

北尾鐐之助「阪神風景漫歩」からです。

<いつか六甲の頂から、この河の河口に発達した砂角の大きさをみた。鳴尾のことは昔小松崎と云ったとある。現今の小松から今の河口までは二粁に近い。いつの間にか、あれだけの突角をつくったのである。そしてその中に、十二万坪の鳴尾競馬場がつくられた。>


昭和9年の西宮市今津土地及附近略図です。
阪神鳴尾駅の周りは鳴尾いちご畑、その南が鳴尾競馬場、さらに南には鳴尾ゴルフ場、川西製作所が描かれています。


「鳴尾いちご」今では考えられませんが、西宮市役所発行の「西宮あれこれ」によると
<兵庫県のイチゴの発祥地は鳴尾と考えられている。………鳴尾では明治37年ころから綿作は皆無となり、その代作として、武庫川河口の砂地に適するイチゴが栽培され始めた。>とのこと。昭和7年の最盛期には約480町歩(約48万m2)栽培されたそうです。
「阪神風景漫歩」から続けます。
<武庫大橋を少し西にあるくと、そこに甲子園へ折れる、阪神の「上甲子園」という停留所ができた。線路の両側はずっと長い堤防だ。東海道線の通っている下新田のところから、西に流れていた武庫川の枝川を、そこから断ち切ったのだ。両方の堤防から低く沈んだ、川底の真ん中を電車が走る。甲子園の運動場も、その河の中にできたのだ。やがて、あの沢山な堤の松の景観もいまに形をなくすることだろう。元の堤であったこの丘の上は、生い茂った叢の中に、細い径を通じていて、まだ昔の寂しさをそのままに残している。>
この光景、今ではまったく想像できません。昭和5年の甲子園住宅経営地鳥瞰図を見てみましょう。

東海道線の橋のあたりから武庫川は分岐していたようで、堤防に沿って松並木が続いており、その堤防の間が甲子園一番町から十番町になっています。そしてそれまで川底だった真ん中を甲子園線が走っています。

上の写真はJR線の橋の立派な脚柱で、昔はこの南側から分岐していたようです。
鳥瞰図で見ますと、一番町、二番町には甲子園ホテルが描かれています。
また南野武衛著「西宮文学風土記」によると佐藤愛子さんの父の佐藤紅緑邸は
<昭和八年八月、甲子園二番町八番四四号に新居の豪邸を建て移り住む。阪神甲子園線跡を北上、三番町の停留場跡を過ぎると北に吉本病院がある。そのやや北のニ、三番町の境を右手に入った四つ辻の東北の角の家がそれである。>とのことです。
また北尾が述べている上甲子園停留所とは、旧阪神電鉄甲子園線(上甲子園―中津浜)の駅で、赤い線で示された武庫大橋の次の駅です。


写真は現在の国道2号線上甲子園交差点で、近くにはバス停があります。


鳥瞰図を見ると、北尾が述べているように、堤の松並木の間に、甲子園球場も、百面テニスコートも、すっぽりはいっています。
西宮芦屋研究所員さんによると森茂久弥の家は甲子園七番町だったとのこと。西畑の文化住宅は八番町のあたりでしょうか。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061422/p10824095c.html


「沢山な堤の松の景観もいまに形をなくすることだろう」と北尾が述べたとおり、現在の航空写真でおわかりのように見る影もありません。



枝川
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北尾鐐之助 | コメント( 12 ) | トラックバック( 0)

seitaroさま
鳴尾にいちご、競馬場とは存じませんでした。のどかだったのでしょうね。

[ ロックウェル ] 2013/02/16 0:47:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

 鳥瞰図と阪神風景漫歩の文章をあわせると、昭和の初めのこのあたりの様子がよくわかりました。今津土地の図の畑のようなものはなんだろうと、よく見るといちご畑でした。
鳴尾ゴルフ倶楽部、名門中の名門です。友人にメンバーがいますので、西宮に戻ったら回りたいコースです。私も初めて鳴尾と聞いた時は、何で川西で鳴尾だと思いました。

[ seitaro ] 2013/02/16 7:57:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

上から二枚目の地図はどちらのものでしょうか。もう少しはっきりと見たくなりました。大きな池はえべっさんでしょうか。今は節操もなく今津春風町を甲子園春風町に変えてしまったりするので、甲子園と今津の境界がよくわからなくなっていますが、大きな川があったことを考えるとわかりやすくなるかもしれません。マラソン碑を調べていたところ、予選が鳴尾競技場で行われたとあります。鳴尾と豊中の競技場は昔は大きかったのか時々目にします。

[ ふく ] 2013/02/16 14:00:21 [ 削除 ] [ 通報 ]

戦後も鳴尾イチゴ畑はあったと思うのですが。誰かに連れられてイチゴ狩りに行った記憶がかすかにあります。

[ akaru ] 2013/02/16 17:27:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

今ネットで調べてみたら、イチゴ栽培は戦前にすでに無くなっていたような情報がありました。あれはなんやったんやろか?わたしの記憶違い?

[ akaru ] 2013/02/16 17:32:18 [ 削除 ] [ 通報 ]

http://info.leaf.or.jp/information/history_culture/item12.html
イチゴ戦後少し復興した時期があったようです。

[ ふく ] 2013/02/16 19:36:25 [ 削除 ] [ 通報 ]

上から二枚目の地図は阪神間モダニズムに掲載されているのですが、阪神土地開発かどこかの土地案内図でした。細かく見ていると面白い図でした。

[ seitaro ] 2013/02/16 22:28:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

imamuraさんが最後の鳴尾いちご畑を見た(味わった)生き証人でしたか。

[ seitaro ] 2013/02/16 22:31:31 [ 削除 ] [ 通報 ]

ふくさん ありがとうございます。わたしの記憶が間違ってなかったんですね。なんか、鳴尾でも北の方だったというイメージが残ってます。その理由も解りました。

[ imamura ] 2013/02/16 23:20:46 [ 削除 ] [ 通報 ]

鳴尾の北の方ってどのあたりなのでしょうね。名門鳴尾北小学校のあたりでしょうか。

[ ふく ] 2013/02/18 22:20:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

小生は68歳。いわゆる団塊の世代。鳴尾北小学校、学文中学に通いました。イチゴ畑はたくさんあり、朝早く採ったのは市場に、その後で採った形の悪いのは、リヤカーに積んでジャム工場へ。12時前に学校の北側にあった300坪ほどのジャム工場から、メチャ甘いジャムの匂いがしてきて困ったのをよく覚えています。今のイチゴには酸味がない。買ってジャムを作ったことがありますが、まずかった。
鳴尾のイチゴをまだ育てている同級生に苗を貰い、家庭菜園で育てています。酸味があり美味しかったので。食べ過ぎた。糖尿病のけがあり、エネルギーは計算していたが、糖分は計算から抜けていた。美味しいイチゴです。

[ あほばかまぬけ ] 2015/11/10 0:29:08 [ 削除 ] [ 通報 ]

詳しいお話ありがとうございます。鳴尾のいちご、最近TVで見たような覚えがあります。鳴尾のジャム工場は野間宏の小説にも登場していました。暗い話でしたので、ブログにはしませんでした。

[ seitaro ] 2015/11/13 20:11:22 [ 削除 ] [ 通報 ]

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武庫川を一番愛した北尾鐐之助(その2)

 話は逸れてしまいましたが、セーヌ川から武庫川に戻ります。

<私はこの堤を歩くことが好きだ。ここを歩いて、誰もが何でもなく見逃す、あの松林をいい景色だと思う。>


松林は当時より少なくなったのでしょうが、今も健在です。
<私はこの河口へは幾度も足を運んだ。天気続きのある日、この川の流域を歩いていると、西国街道筋にかかった、甲武橋附近で一度なくなった河水が、阪急線あたりで再び流れているのを見た。用水にとる結果でもあるが、川底の砂を潜る伏流である。そういう自浄作用を続けた水は、透徹玉のようであった。>


西国街道の甲武橋から見える甲山と六甲山です。新幹線も走っており、北尾も想像できなかったでしょう。
阪急神戸線の鉄橋あたりでは水が滔々と流れていました。


<この武庫川堤を、河口から宝塚までのドライブは、阪神間において、けだし絶好な所だろう。どこか好きなところで車をとどめる。一家が磧に下り立って水に遊ぶ。飽けばまた車を走らす。>
現在は堤防の上の交通量は多く、好きなところで車を止めるわけにはいかないようです。


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北尾鐐之助 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

武庫川を自転車で走ってみたいと思います。河川敷西側の道は以前は時々通りました。甲子園の友達の家から仁川の友達の家に移動とかいったときです。あの道、時々脱線する自動車があるようで、ちょっと恐いです。駐車スペース確認できずに何年もたちましたが、車を駐めて自転車に乗りたい場所です。(家から自転車はご勘弁を)

[ ふく ] 2013/02/13 22:29:03 [ 削除 ] [ 通報 ]

もう通算20年(Uターンもあったけど)関東にいますが、なぜか松の木を全く見かけません。神奈川だと大磯とか二宮とか小田原とか、そのあたりまでいかないとありません。川崎や東京ではほぼ見たことがないのです。西宮在住だった頃は半ば見飽きていた松ですが、今では故郷の象徴です。松の木が見たいです、切実に。

[ せいさん ] 2013/02/13 23:13:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

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武庫川を一番愛した北尾鐐之助(その1)

しばらく昭和の初めの武庫川を愛した北尾鐐之助「阪神風景漫歩」に従って、歩いてみましょう。

<水が美しい。阪神間を流れる川の中で、何と云っても一番武庫川の水が美しい。宝塚で入れる汚水などは全くここまでは影響がない。夏の旱天には、どうかすると一敵の水もなくなるが、大概、清い美しい水を流している。>
宝塚で入れる汚水については、北尾は「宝塚新繁盛記」で次のように述べていました。
<橋を渡って、石垣の堤にかかろうとするとするとき、ふと、嫌なものを見た。大劇場から流す水槽便所の鉄管である。川の瀬を、東岸の方へも導いて、水の流れは動いてはいるが、将来これは考うべきことだ。自浄作用があるとはいうものの、阪神間における唯一の美しい武庫川に。宝塚千軒の汚水を流し放しにするなどは、おどろくべき自然冒涜である。武庫川の流れは、今日の宝塚のためには、その守護神とも祭らるるべきものであろう。>
 日本で新たに下水道法が施行されたのは、この30年後の昭和34年で、ようやく北尾の心配事の解消に着手されました。
 下水道は既にローマ時代からあったのですが、先日私も見に行った映画「レ・ミゼラブル」でも1370年のパリの大下水道が舞台として登場します。


 ジャン・バルジャンが瀕死のマリウスを抱えて、パリの暗黒の下水道を、セーヌ右岸の放流口まで逃げるシーンです。


面白いのはヴィクトル・ユーゴーがこの下水処理について、黄金の水を無駄にしていると、原作の中で批判しているのです。

筑摩書房豊島與志雄訳レミゼラブルVでは第五部ジャン・ヴァルジャン第二編「怪物の腸」という章を設け18頁にわたり、延々とユーゴーの持論を述べています。
<パリーは年に二千五百万フランの金を水に投じている。しかもこれは比喩ではない。いかにしてまたいかなる方法でか?否昼夜の別なく常になされている。いかなる目的でか? 否何の目的もない。いかなる考えでか?否何という考えもない。何ゆえにか? 否理由はない。いかなる機関によってか? その腸によってである。腸とは何であるか? 曰く、下水道。>
続いて肥担桶の解説までありました。
 <科学は長い探究の後、およそ肥料中最も豊かな最も有効なのは人間から出る肥料であることを、今日認めている。恥ずかしいことであるが、われわれヨーロッパ人よりも先に支那人はそれを知っていた。エッケベルク氏の語るところによれば、支那の農夫で都市に行く者は皆、我々が汚穢と称するところのものを二つの桶いっぱい入れ、それを竹竿の両端に下げて持ち帰るということである。>
ローマの下水道についても次のように批判しています。
<この驚くべき愚妄事は新しく始まったことではない。それは決して若気の馬鹿さではない。古人も近代人のようなことをしていた。リービッヒは言う、「ローマの下水道はローマの農夫の繁栄をことごとく吸い尽くした。」ローマの田舎がローマの下水道によって衰微させられた時、ローマはまったくイタリーを疲弊させてしまった。>
こう考えると、都市の人類の存在そのものと文明が自然の摂理を破壊しているのかもしれません。



レ・ミゼラブル
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北尾鐐之助 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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