阪急沿線文学散歩

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歴史的建造物ニューグランド本館と横浜家具(山崎洋子『横浜の時を旅する』)

 今年の短い夏休みは山崎洋子さんの『横浜の時を旅する −ホテルニューグランドの魔法』に誘われてホテルニューグランド本館で過ごしました。
 横浜関連最後の記事は、やはり関東大震災からの復興を期して建てられた歴史ある建造物の内部を紹介させていただきます。

 

『横浜の時を旅する』からです。
<ホテルニューグランド本館は横浜市歴史的建造物に指定されています。シンプルで重厚な建物ではありますが、アール・デコ調の優美な曲線が、全体の印象を和らげています。設計は渡辺仁。彼は後に銀座の和光や東京国立博物館なども設計することになりますが、この時はまだ38歳。新進気鋭の建築家でした。>


ひかえめで穏やかな表現の建物で、隅が丸く作られているのが、女性的な印象を与えています。
<カフェの明かりが洩れる角に立ち、壁の上部を見上げてみましょう。そこにレリーフがあり、「AD1927」という文字が刻まれています。1927年、ニューグランドが誕生したのです。>

アール・デコ調の飾りです。

中へ入ってみましょう。 普通のホテルのロビーは一階の出入り口の脇の方にありますから、独特な造りになっています。


<階段の上はロビーです。フロントもここにありました。こうした造りを、イタリア・ルネサンスの建築様式で「ピアノ・ノビーレ」(高貴な階)」と呼ぶそうです。豪壮な邸宅では、大きな窓があって日が明るく差し込み、しかも静かで眺めが良い二階に、応接間などの重要な場所を置いたといいます。>

 

<階段を上がりきった外国人の客は、そこでみんな眼を見張り、溜息を漏らしたそうです。ホテルという西洋建築に、見事、調和した東洋芸術の粋―。
 まずは階段正面の壁上部に、飛翔する天女を描いた半円の綴れ織りが出現します。高い天井から下がっているのは天平様式の吊り灯篭型ライト。
ロビーを右手奥に入ると、壁のブラケットのひとつひとつに、琵琶を奏でる弁財天が浮かび上がります。>

 正面には火炎太鼓の時計が嵌められており、上には三人の天女が鼓と笙と琴をかなでています。

吊り灯籠型のライトです。


<でも、このロビーの華はなんといっても家具です。ここにある椅子、テーブル、ソファの多くが、開業当時に特注で造られたもの。他ではめったに目にすることのない、「横浜家具」と呼ばれるクラシック家具なのです。>


横浜家具とは、幕末の開国後、ヨコハマ外国人居留地で中国人職人や後には日本人職人の手で作られた西洋家具のことで、ヨーロッパ風にやや支那趣味の入った家具です。
<中央に円いレリーフのある新聞掛け、三人掛けのゆったりしたソファ、肘掛が外側に向けて大きく広がった一人掛けソファ、半円形や長方形のテーブル、マガジンラックも横浜家具です。>
<アームの先に天子の顔をあしらった椅子はキングチェア、カーブしたアームの先が牡羊の角のように湾曲した椅子はジャックチェア、布張りの一人掛けソファのうち、背もたれが高くまっすぐ伸びているものはクィーンチェアと呼ばれています。>

奥から順にキングチェア、ジャックチェア、クイーンチェアが並んでいます。

私もキングチェアに座って、天子の顔を握らせていただきました。

まだまだ横浜について紹介したいことがあるのですが、それは次の機会にいたしましょう。




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昼食はホテルニューグランド「ザ・カフェ」の名物料理

 ホテルニューグランド発祥の伝統料理が食べられると聞き、昼食はザ・カフェでとりました。

 神戸大丸南館を思い出させるような赤いオーニングが印象的で、以前から一度座りたいと思っていた山下公園通りを臨むテーブルに案内していただけました。

 

 頼んだのは、初代料理長サリーワイルが体調を崩した外国人客のために、何か喉の通りの良いものをと即興で生み出したというシーフードドリアと、2代目総料理長入江茂忠が、米兵が茹でたスパゲッティに塩、胡椒、トマトケチャップを和えた物を食べているのを見て、アレンジ加えて生み出したというスパゲティナポリタン。

 

 サリーワイルを最も有名にしたのが、日本人の主食であるご飯に小海老のクリーム煮をのせ、当時ヨーロッパで流行していたグラタンソースと組み合わせた「シュリンプドリア」でした。

 

 4代目総料理長高橋清一氏による『横浜流 すべてはここから始まった』では次のように説明されていました。
<ある日、当ホテルに宿泊をしていたある銀行家が体調を崩し、料理長に何か喉に通りのよいものを作ってほしい、とリクエストしました。彼は即興で、当時、二十銭で売られていたタンバル、太鼓形の器に盛られたライスの上に、当時流行っていた小海老のクリーム煮をのせ、グラタンソースをかけ、焼き上げてお出ししました。
 後にご飯とまろやかな小海老のグラタンは、お米を主食としていた日本人に受け入れられ、やがて大ブレークをした当ホテルならではの料理の一つになりました。>
運ばれてきたシーフードドリア。

 おなかにやさしく、さすがホテルの看板メニューというお味でした。

 さてもう一品のスパゲティナポリタン。本当に発祥の地なのかと疑っておりましたが、『横浜流』に書かれていた4代目総料理長高橋清一氏の説明を読んで納得いたしました。
<ホテルニューグランドで生まれ、一世を風靡した料理の代表がスパゲッティーナポリタンです。終戦とともに当ホテルを接収した進駐軍は、それまで日本人に馴染みのなかったトマトケチャップを持ち込んで、ゆでて塩胡椒で味付けをしたスパゲッティーに和えました。当時、トマトケチャップとスパゲッティーは軍用食だったのです。
 入江茂忠は苦心の末、トマトケチャップではいかにも味気がないので、刻んだニンニクに玉葱や生トマト、トマトペーストを入れ、オリーブオイルをたっぷり使った風味豊なトマトソースを作りました。>

<中世の頃、イタリアのナポリでスパゲッティは、トマトから作られたソースをパスタにかけ、路上の屋台で売られた貧しい人々の料理でした。当ホテルではそれをヒントに「スパゲッティーナポリタン」と呼ぶことにしました。>

 命名の経緯まで述べられており、間違いなく発祥の地のようです。
歴史を感じながらいただいたお味も、これぞ本物という満足のいくものでした。
ちなみに、イタリアにもアメリカにもスパゲッティー・ナポリタンという言葉は存在しないそうです。



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「氷川丸ものがたり」とスギハラ・サバイバル航路の謎

 横浜は何度も訪ねているのですが、今回初めて山下公園に係留されている氷川丸を見学しました。


 私が氷川丸に興味を持ったのは、先日放映された「世界ふしぎ発見」で −6000人の「命のビザ」杉原千畝 もうひとつの真実− と題した番組で紹介された一枚の写真でした。


 スギハラビザを持ってウラジオストックを経由、敦賀に上陸したユダヤ人たちは神戸港からアメリカへ、イスラエルへと安住の地を求め旅立ってきましたが、昭和15年氷川丸での写真があったのです。

 浮き輪にはHIKAWAMARU NYK TOKYO と書かれており、当時は横浜―神戸―ニューヨーク(?)という航路があったのかと不思議に思ったのです。

 

 調べてみると、今年の五月に伊藤玄二郎『氷川丸ものがたり』という本が出版されており、現在虫プロ製作による劇場用アニメーション映画「氷川丸ものがたり」が公開中であることも知りました。


 更には日本郵便から「氷川丸ものがたり」のオリジナルフレーム切手セットまで販売されていました。

 

 氷川丸は、昭和5年に当時の技術の粋を集めて建造されたもので、戦前の大型貨客船としては世界で唯一現存するものとして、その構造や内装など大変貴重な商業遺産となっているそうです。
早速乗船してみましょう。

操舵室から見える船首と横浜港です。

 

 

一等客室はさすが優雅。

ダイニングルームは地上のホテルと変わりません。

 

 

アール・デコ調の装備がいたるところに見られるという華やかな一等社交室です。

 船内に展示されていたこのパネルで、浮き輪に書かれたHIKAWAMARU NYK TOKYOの謎がようやく解けました。
 神戸―横浜―シアトルの航海に続いて、日本郵船と提携したグレート・ノーザン鉄道で大陸横断し、ニューヨークまで行けたのです。

 氷川丸の内部を見せてもらうだけで、充分楽しめましたが、更に私の疑問の謎解きまでできて、充実した氷川丸見学でした。氷川丸の戦前から戦後までの波乱万丈の活躍の中で、杉原千畝の命のビザを持ったユダヤ人たちを日本からアメリカに送り届けた事実はあまり知られていないようです。


 



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マッカーサーは厚木からホテル・ニューグランドへ直行(『ジミーの伝言』)

 昭和20年8月30日の午後二時過ぎ、マッカーサーは連合国軍最高司令長官として厚木飛行場に降り立ち、直ちに横浜のホテル・ニューグランドに向かいます。


猪瀬直樹『ジミーの伝言』からです。
<旧式の赤い消防車はサイレンを鳴らしっぱなしで、そのうしろにマッカーサー一行の車列がつづいた。マッカーサーにはおんぼろのリンカーンがあてがわれた。それでも車列のなかでは群を抜いていた。あとは木炭車ばかりで、スピードが出ないだけでなくしばしばエンジンの調子が悪くて止まってしまう。厚木から横浜まで二時間もかかるとは予想もしなかった。>
マッカーサーの車列は、「神奈川県警察史」によると、何と1500メートルにも及んだそうです。

 

 ニューグランドが進駐軍に接収された時の写真が、ホテルの一階に展示されています。
<ホテルは山下公園の前にある。マッカーサーはかつて、昭和十二年に新婚のジーンズ夫人を伴ってこのホテルに泊まったことがあり、どんなところか知っていたのである。一帯は廃墟だが四階建てのホテルは以前と変わらぬ佇まいで残っていた。日本側が用意した速度の遅いリンカーンは炎天下を三十キロも走ってきた。早く懐かしいホテルで休養をとりたいと思っていた。>

 

< ホテルニューグランドの一帯はたちまち通行禁止とされた。玄関に着くと燕尾服に縞のズボン姿の老人が深々とお辞儀をした。マッカーサーは「おまえはこのホテルの支配人をどのくらいつとめておるのか」と訊ねた。七十五歳の野村洋三は「わたしは支配人ではなくオーナーです」と答え、幾度もお辞儀をくり返し、「ご案内する部屋がお気に召すとよろしいのですが」と小走りに廊下を先導した。案内されたスウィートは最高級のはずだが思ったより天井が低かった。>

オーナーの野村洋三氏は進駐軍を迎え入れるにあたって相当苦労されたようです。

 


 マッカーサーに準備された部屋はこの廊下の突き当たり左側です。

 


 河原匡喜『マッカーサーが来た日』ではマッカーサーが宿泊した部屋について次のように説明されています。

<連合軍の受け入れを決めたホテル・ニューグランドが、マッカーサーの居室として用意したのは315,316,317の三部屋が室内ドアで連続する一区画であった。建物の海側、三階の中央部分である。窓からは山下公園越しに横浜港が一望できる。部屋の調度品に特徴があるわけではない。ツインベッド、サイドテーブル、ソファー、大理石の事務机、姿見の鏡、そしてバス・トイレ、天井も低く、簡素というよりはむしろ貧弱な調度内容であった。案内されたマッカーサーは、それでも副官に「ベリ・グド」と言ったという。>

上の写真は展示されていた改装前のマッカーサーズスウイート、下は現在の部屋です。

 

 ホテルニューグランドは、日本進駐に同行している新聞などの特派員、最高司令部付きの将官・将校、そして陸海空の司令官クラスも宿泊し、その日の日没前に満員となってしまいます。
 そしてマッカーサーは三晩ホテルニューグランドに泊まり、九月二日の戦艦ミズーリでの降伏調印式に臨みます。

 捧げ銃の歩哨、随員2名、見送る人々の中をおんぼろのリンカーンに乗ろうとするホテルの玄関前の写真がありました。
この調印によって日本は正式に占領軍の支配下に入ったのです。



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『ジミーの誕生日』表参道同潤会アパートを歩く

 猪瀬直樹『ジミーの誕生日』第一章で、著者に送られてきた手紙の続きです。

 内容は祖母の残していた日記についてでしたが、手紙の中では祖母の家の歴史と重ねて、表参道の同潤会青山アパートメントについて記されていました。

 

<表参道の同潤会の建物は枯れた銀杏の葉のような色でしたね。青山アパートメントと呼ばれていた三階建ての低層のビルですが、つくられたのは関東大震災の後で、十棟も並んでいるのは壮観だったようです。数年前に安藤忠雄さんの設計で表参道ヒルズに生まれ変わりました。蔦の葉で覆われていた壁面も、いまはガラスが光を反射しています。
 祖母の家も同じくらい、歴史があります。もう、ずっと誰も住んではいません。とうとう壊すことになりました。
 都心なのにちょっとした雑木林のなかの洋館で、もう幼いころの思い出しかありませんが、子供専用の家具をしつらえた子供室があったのです。角のない丸テーブル、転んでもケガをしない厚めの絨毯が敷かれていました。>

 

 生まれ変わった表参道ヒルズを訪ねてみました。
 元々10棟配置された鉄筋コンクリート造り3階建てのアパートでしたが、東端にあった同潤会アパート一棟は新たに再現し、同潤館として店舗利用されています。

中に入ってみると、スイーツのお店や、ギャラリーとなっていました。

 

 同潤会青山アパートは昭和2年に入居募集開始され、当時は軍人、役人、大学教授などしか入居できない高級アパートだったそうです。終戦後、同潤会アパートはそれまでの所有・管理者だった同潤会から東京都に引き継がれ、さらに昭和25年になると各住民に払い下げられました。


 この青山アパートに延べ10年間暮したという芹澤慎一氏が『よみがえる星座 ―the scene of 表参道同潤会アパート―』という何とも切なくロマンチックな物語を書かれていました。


 主人公は山崎宇宙という変わった名前の人物。昭和35年から三年間を十号館で暮らし、その後も何回か引越しをくりかえし、知人が所有していた二号館で暮らし、延べ十年間をこのアパートで過ごしたとされており、これは筆者の経験に併せたのでしょう。
 主人公宇宙とゆかりの出会いは同潤会アパート裏手の路地で、次のように描かれています。
<銭湯からの帰りだ。青山に近い、とんかつ屋の裏手に銭湯があった。同潤館アパートは、昭和二年築で当時では最先端の文化住宅だったが、各居室には風呂が無かった。宇宙がゆかりと出会った頃も、住民が共同で屋上にプレハブの風呂を作ったり、室内にシャワールームを設置することはあったが、彼の部屋にはシャワールームすらなかった。銭湯は夜の十一時で閉まったから、残業を終えて深夜に帰宅したときなどは、風呂に入れなかった。休日には午後三時の一番湯をめざした。手提げの紙袋に、タオルと石鹸とブリーフの替えをいれて、表参道の歩道を銭湯にかようというのは、なかなかおつなものだった。>


 この出会いから、最後のゆかりとの切ない別れまでが描かれています。
同潤会アパートメントには、戦前から戦後まで、時代を通して様々な思い出が詰まっていたようです。



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『横浜・山手の出来事』に丸善発祥の地が登場

 

 私にとって「丸善」は学生時代に洋書を探しに行った神戸元町の丸善ですが、その発祥の地が横浜であることを、徳岡孝夫著『横浜・山手の出来事』を読んで知りました。
 小説からです。明治29年カリュー氏砒素毒殺事件の裁判が英国領事館で始まります。


<場所は英国領事館。この建物は大震災後に再建され、第二次大戦後も領事館として使われたが、イギリス政府の業務合理化により売却され、現在は横浜市中央区日本大通り三番の同じ場所で横浜開港資料館になっている。豪華船が横付けする大桟橋の入口に位置し、山下公園も近い。家庭教師のメアリ・エスター・ジェイコブが呼ばれて宣誓した。>
 メアリーは検屍官に、カリュー夫人の命令で薬を買った場所を尋ねられます。
<検屍官;どこで買いました。ジェイコブ;弁天通の丸屋です。
 この丸屋とは、いま東京・日本橋で洋書を商う丸善のことである。創業者、早矢仕有的(はやし ゆうてき)は医を志して横浜に出、ヘボンらに学んだが、丸い世界を相手に商売するという気概から明治二年に丸屋とい名付けて横浜に開業し、書籍と薬品を扱った。店の名義人を丸屋善八とし、看板にはZ.P.MARUYA & Co.と記した。カリュー事件の頃、店舗は外人居留地に近い弁天通り二八番地にあった。
 検屍官;丸屋で買ったのは? ジェイコブ;鉛シロップと砒素剤のフォスター溶液です。>

 当時は砒素剤が薬としても使われており、丸善で売っていたのです。

 明治29年の地図で、英国領事館は現在の横浜開港資料館の場所に、丸屋は弁天通りに面してありました。現在の弁天通りを歩いても、その面影はまったく残っていませんでしたが、この丸屋が丸善発祥の地だったようです。(地図の赤印)

 

 弁天通り二丁目の丸善薬種店の絵がありました。確かに看板にはZ.P.MARUYA & Coと記されています。

 

 丸屋では創業時、書籍と薬品が扱われており、和洋書籍・文房具類が販売されていた書店のほうは弁天通り四丁目にありました。

 

 ところで、述べられているように丸屋善八は登記上の名前で、創業者は早矢仕有的という人物で、ハヤシライスと関係しているとは知りませんでした。Wikipediaによると、
<1980年発行の『丸善百年史』には、丸善創業者の早矢仕が野菜のごった煮に飯を添えたものを友人に饗応し、それが有名となって人にハヤシライスと称され、いつしかレストランのメニューにもなったとの説が書かれている。しかし、書中ではこれをあまりに話ができすぎていると指摘し、明治初年以来の洋食屋である神田佐久間町の三河屋にてハッシュ・ビーフが流行った旨を言い、「これとライスと合せて称したものが、ハヤシライスの語源に違いない。>


今度東京に行った時は、丸の内の丸善本店に寄って4階のレストランで、どんなものかトライしてみましょう。

 



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大仏次郎のお気に入りのBarシーガーディアンでいつも飲むお酒は?

 ホテルニューグランド総料理長の高橋清一氏が著わした『横浜流 すべてはここから始まった』でも大仏次郎について述べられていました。

 


<「318号室は僕の部屋だよ。このホテルでないと落着いてものは書けないんだ」と言って、先生は昭和六年から十年間にわたり、この港の見える部屋にこもり、『鞍馬天狗』や横浜を舞台にした『霧笛』など数々の名作を世に送り出していきました。>


<そんな先生のお気に入りの場所がもう一つ。当ホテル本館玄関の回転ドアを入り、正面の大きな階段を上がらず右に回り込むと、「シーガーディアンU」というバーがあります。サザンオールスターズの「Love Affair〜秘密のデート」に唄われ、若い人たちの集う人気のバーです。かつては「シーガーディアン」と呼ばれ、大仏先生はじめ、松岡洋右外相など、数々の人に愛されました。>と紹介されています。


 シーガーディアンUは、戦前に大仏次郎が訪れていた頃とは随分雰囲気も変わっているのではないでしょうか。

大仏次郎がシーガーディアンでバーテンと語らう写真が展示されていました。

 小説『新樹』では初老に近い品のいい紳士、主人公根岸氏が港の見える318号室に逗留し、夜になると必ず酒場に降ります。


<部屋にいて窓際に椅子を出して公園の緑の木々の向うに、汽船のいる港を眺めている時は無論だが、外出する時もそうである。その性質が殊に鮮明になるのは、灯がともってから日課のようにホテルの地階にある酒場へ降りた時だった。洋酒に慣れているらしく、また嗜む習慣がついていると見え、夜は必ず、酒場に降りてきて、空いている椅子を見つけて腰をおろすのである。酒はビスキの五つ星ときまっていた。>
ビスキとはどんな酒か知りませんでしたが、コニャックのようです。

今はあまり見かけないビスキですが、当時大仏次郎はシーガーディアンで愛飲していたのかもしれません。


 



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ホテルニューグランド318号室は大仏次郎の「天狗の間」

 宿泊した部屋の一つ置いて隣の部屋が大仏次郎が仕事部屋にしていたという318号室「天狗の間」。


山崎洋子『横浜の時を旅する ホテルニューグランドの魔法』では大仏次郎の部屋として次のように紹介されています。


<開業当初から、ニューグランドは多くの文化人に愛されました。その代表はなんといっても大仏次郎でしょう。史伝文学の大作「天皇の世紀」から、大衆を熱狂させた「鞍馬天狗」。さらには童話まで、幅広いジャンルで活躍した大作家。横浜に生まれ、横浜を舞台にした小説やエッセイも数多く残しています。>


猫好きで有名な大仏次郎が書いた童話とは、『スイッチョねこ』のことでしょう。


<鎌倉に居を構えていたのですが、ものを書くにはどうも横浜でないと気が乗らないと言い、昭和六年から十年間にわたり、ニューグランドの一室を仕事部屋にしていました。
 本館の318号室。マッカーサーズ・スイートの並びにある部屋です。リニューアルされてすっきりしたツインルームになっていますが、その頃は、山のように資料が詰まれていたのでしょう。>

 

 

 318号室のドアには「天狗の間」というゴールドのプレートが掲げられ、横の壁にはこの部屋が登場する短編『新樹』のコピーが入った額がかかっていました。

 

 その『新樹』を読んでみましょう。
<大体このホテルには、外国航路の汽船の送迎の客が一夜を泊るか春秋の根岸の競馬に上方筋の神戸、大阪の客が集まって来る程度で、日本人の永逗留の客は珍しかった。殆んど全部が外国人である。三階の三一八号室に泊っている根岸氏という中年も初老に近い品のいい紳士の客がボーイ達の間でも話題に登ったのも同じ理由からだった。由来ホテルマンというのは、人を看るのに慣れているし目も肥えていて、その人が何の職業をしているかというようなことは、背広の着こなし方一つを見ても、また自分たちに用をいいつける言葉の端からでも、たやすく見分けることが出来るのだ。
 こまかいことをいえば手廻りの小さい所持品にしても勿論雄弁に口をきく。三一八号の根岸氏はその点から見て伊達者だった。永く外国で生活していたひと。その点は誰も一致した意見である。服の着こなし方も板についている。>


小説に登場する根岸氏とは、まるで大仏次郎本人を描写したように書かれています。



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ホテルニューグランド本館ロビーに渡辺淳一『化身』が展示されていました

 横浜で宿泊したホテルニューグランド、いくつもの小説の舞台になっています。


『コクリコ坂から』の1シーンにも描かれていました。

 

 本館一階の展示を見ていると、何と日経新聞連載時の渡辺淳一の『化身』が額に入れられて展示されているではないですか。

 Wikipediaで<日本経済新聞朝刊に連載された、『化身』『失楽園』『愛の流刑地』の三作は爆発的なヒットとなり、映画化、テレビドラマ化され、大胆な性的なシーンも多かった。>と説明されているように、『コクリコ坂から』の清々しさとはかなり異なる「性愛小説」と呼ばれる類の作品。

 図書館で借りるのは少し恥ずかしかったのですが、期待して読んでみました。


 ホテルニューグランドが舞台となっているといっても、「白夜」という章のほんの一部だけでしたが、健全な部分を紹介いたしましょう。
<横浜にはあまり大きなホテルがない。東京が近すぎるせいかもしれないが、そのなかでは、このホテルは大きいほうである。だが秋葉が気に入っているのは、山下公園に面していて海が見え、全体のつくりが横浜らしくハイカラなうえに落着いているからである。
 いまは夜で正面に公園の街灯が見えるだけだが、ホテルの正面の木製の手摺のついた階段は、クラシックな雰囲気を漂わせている。>


 正面の木製の手摺のついた階段とは、どこの階段か見つけられませんでしたが、クラシックな雰囲気は間違いありません。

<あらかじめ頼んであったので、海の見える側の部屋にボーイが案内してくれる。>


<二人だけになり、窓をあけると、闇になっている公園の茂みの先に、灯りをともしている船が見える。
「すぐそこが海だわ」霧子が頬杖をつきながらつぶやく。夜なので、海の表情は見えないが、かわりに、灯りをともした船や桟橋が、夜目にも鮮やかに浮かび上がっている。
「今日は全部、君の喜びそうなところを選んでみた」「とっても素敵だわ」>

私たちも、今回は幸運にも、本館3階の海の見える側の部屋に宿泊することができました。小説のようなカップルではありませんが、部屋からの夜景は小説そのものでした。

 



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seitaroさん、こんばんは。
景山民夫さんのエッセイに惹かれて、30年くらい前にシングルの部屋に泊まりました。
旧建築の頃です。バーで一杯して探検してしまいました。
2階の西側で窓は中庭。シャワーだけの部屋で当時1万円切っていたと覚えています。
とっても快適な思いでです。

[ もしもし ] 2015/08/13 22:34:37 [ 削除 ] [ 通報 ]

もしもしさん 景山民夫のエッセイにも登場しているとは知りませんでした。バーシーガーディアンですね。ありがとうございました。

[ seitaro ] 2015/08/14 20:17:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

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明治29年横浜海岸通りの風景(徳岡孝夫『横浜・山手の出来事』より)

 徳岡孝夫氏は『横浜・山手の出来事』の冒頭で、現在の横浜の街を巡りながら、事件が発生した明治29年の街の風景を紹介します。
<人々は海に面した広い海岸通りをバンドといい、背後の山手をブラフと呼んでいた。バンドには波止場と潮風と船会社とイギリス領事館があり、銀行、外国商館が並んでいる。ホテルやカリューが支配人をしていたユナイテッド・クラブもここにある。>
明治元年の絵地図がありましたので、見比べてみましょう。


当然ですが、関東大震災の瓦礫を埋め立てて造った山下公園はありません。


当時はまだ治外法権の名残りがあり、ゾウの鼻の南側に在るイギリス領事館でカリュー事件の審理が進められました。


イギリス領事館は現在横浜開港資料館となって建物は残されていましたが、よく見るとこの建物は、昭和6年に建てられたもの。

 幸いにして、外国人墓地にある展示室に明治時代のイギリス領事館の絵をみつけました。


この建物でカリュー事件の裁判が行われたのです。


<桟橋に近いほうからバンド一番は万延元年に進出してきたジャーデン・マセソン商会、四番が問題のユナイテッド・クラブ。文久三年にイギリス人W.スミスという者が始めた。隣接する五番がクラブ・ホテルで、少し飛んで二十番がグランド・ホテルという順になっている。>


カリュー氏が支配人を務めていたバンド四番のユナイテッド・クラブです。

 グランド・ホテルのあった二十番は、現在のホテル・ニュー・グランドより少し東側のようです。


 横浜のグランド・ホテルは、塩屋が舞台となったサマセット・モームの『困ったときの友』にも登場していました。
 作者が横浜で知り合った神戸の貿易商エドワード・ハイド・バートンが神戸で死んだという記事を読んで、横浜のグランド・ホテルで彼からレニー・バートンという男の話を聞く場面です。『困ったときの友』からです。
<ある日の午後、私はグランド・ホテルの休憩室に坐っていた。これはまだ関東大震災の前のことで、そこには革張りの肘掛椅子があった。そこの窓からは、人力車の往来が、ごったがえした港の光景が、広々と見渡せるのだった。バンクーバーやサンフランシスコに行く途中の、あるいは上海、香港、シンガポールを経てヨーロッパに向かう、大型の定期船が入っていた。………
やがて、バアトンが休憩室に入ってきて、私を眼にとめた。彼は私のとなりの
椅子に腰をおろした。「どうです、ちょっと一杯やりませんか?」>


上のグランド・ホテルのラウンジの写真は、サマセット・モーム『困ったときの友』に描かれている場面そのものです。

 



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うちの曽祖父は明治13年に横浜本町1丁目に神戸に続き支店を出しています。
カミングアウトは本意ではないのですが、こんな感じで絵葉書が
残っています。
http://yokohamapostcardclub.blogspot.jp/2014/04/blog-post_8955.html

[ ダンプ先生 ] 2015/08/11 21:08:45 [ 削除 ] [ 通報 ]

ありがとうございます。興味ある絵葉書ばかりでした。

[ seitaro ] 2015/08/11 22:04:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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