阪急沿線文学散歩

サブURL(このURLからもアクセスできます):http://nishinomiya.areablog.jp/bungakusanpo

マイケル・ブルース『英国一家日本を食べる』と城崎温泉

 外国人が見た明治から昭和の日本についての書物は数多くあり、気づかなかった日本を教えてくれたり、現代人にとっては、むしろ当時の外国人と同じ感覚だったりして、面白く読めます。平成の時代になって急速にグローバル化が進み、何処の国もあまり変わらなくなりましたが、それでもまだまだ文化の違いが残っており、無形文化遺産に登録された和食も外国人の興味を惹くようです。

 
 イギリス人のフードライター マイケル・ブースさんが家族を引き連れて日本に100日滞在した手記、

”Sushi and Beyond: What the Japanese know about Cooking”の日本語版『英国一家日本を食べる』が2013年3月に、続いて昨年5月に『英国一家ますます日本を食べる』が亜紀書房より刊行され、これぞ「異邦人食紀行」の金字塔と評判を呼んでいます。


 さらにこの本がアニメ化され、NHKで4月から放送されるそうです。


さらにNHKワールドTVで“Sushi and Beyond”として世界にも放送されるとか。


「亜紀書房営業部の日々」にマイケルさんとご家族の写真が公開されており、アニメはよく特徴を捉えています。


http://d.hatena.ne.jp/AKISHOBO_eigyo/20140502/1399035392

 

『英国一家ますます日本を食べる』の最後には、「特別番外編 裸のつきあい −兵庫・城之崎温泉」として西村屋本館に宿泊されたお話が述べられています。
<日本の西の方の、日本海に近い森林地帯に静かにたたずむこの小さな町は、もう僕の心から離れない、城崎を思い出すと、僕もカニと熱い風呂の夢想の世界に陥ってしまう。夢見心地になった僕に何が見えているのか、教えてあげよう。>

写真は昨年私が「つたや」さんに宿泊し、部屋から撮った西村屋本館。


マイケルさんは外湯めぐりもされたそうです。
<でも僕はとにかく勇気を振り絞って西村屋を出た。つけ加えておくと、西村屋にもすばらしい温泉が二つもある。柳並木の小さな川に沿って、町の中心部から一番おおきな「さとの湯」まで歩いていく。>


下駄をはいて、この大谿川沿いにあるかれたのでしょうか。

 


「さとの湯」は城崎駅まえにありました。


 滞在中、出石の芝居小屋、永楽館も訪ねられ、出石そばも食べられたようです。

<翌朝、西村屋本館のフロントで迎えの車を待っていると、年配の男性が近寄ってきた。引退した日本のジェームス・ボンドといった風貌で、背筋がまっすぐに伸び、白髪交じりの髪は手入れが行き届き、完璧にプレスしたスーツを着ている。旅館の六代目の経営者でかつて城崎町長だった、西村肇氏本人だった。お辞儀しながら握手をかわすと……>

 城崎温泉ロープウエイに登る手前に、北但大震災で焼け野原となった城崎温泉を復興に導いた当時の城崎町長、西村佐兵衛氏 (旅館「西村屋」4代目)が焼け跡を廻る姿の銅像がありました。余じんくすぶる町を、季節外れのコートに地下足袋姿、首から短いメガホンをぶらさげた格好で走り回っていたそうです。マイケルさん、そのお話聞いていただけたでしょうか。


 




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11157872c.html
城崎 | コメント( 3 ) | トラックバック( 0)

「英国人一家日本を食べる」出て直ぐ読みました。大阪のウドンの出汁に痺れたと言う箇所(後の方)に特に痺れました。

[ たかちゃん ] 2015/01/27 10:28:31 [ 削除 ] [ 通報 ]

私も一作目は出てすぐ読んだのですが、続編はまだで、アニメは知りませんでした。楽しみです。

[ アップルビー ] 2015/01/27 20:33:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

アップルビーさん、続編というのは訳者あとがきによると、原著
Sushi and Beyondの翻訳一作目でページ数の関係で掲載できなかった部分に城崎の特別編を加えて刊行されたそうです。
アニメを英語版で見れればかなり日本紹介にも役立ちそうで楽しみです。

[ seitaro ] 2015/01/27 21:07:46 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

桂小五郎潜居の宿という城崎温泉「つたや」さんに泊まりました。

 年末急に思い立って行った城崎温泉、幸運にも予約できたのは桂小五郎潜居の宿という「つたや」さん。

 

 蛤御門の変で長州藩は西郷隆盛率いる薩摩藩の攻撃により壊滅させられてしまい、桂小五郎は対馬藩の出入り商人広戸甚助の協力で但馬国出石城下に潜伏します。その後幕府の追及により1864年9月に城崎の「つたや」に潜伏したのでした。


 当時の城崎温泉は素朴な湯治場で、つたや(当時は松本屋)も母娘二人で経営する小さな半農宿であったとのこと。

 

目の前は幕府の代官屋敷なので決していい潜伏宿ではなかったと思うのですが。
 その代官屋敷跡、現在は「西村屋」となっており、年初の日経「名建築を楽しめる温泉宿 東西ベスト10」で西の第一位として紹介されていました。
http://www.nikkei.com/article/DGXZZO64597440W3A221C1000000/?df=2
<江戸時代の役所、陣屋だった建物を利用して創業した150年以上の歴史を持つ老舗旅館。武家造りの荘厳さを残した門構えや玄関をはじめ、構成の美しさは日本旅館建築の傑作の1つ。>


宿泊した部屋から道をはさんで見えるのが「西村屋」さん、建築好きの私としては次回の宿はここに。
 
 さて「つたや旅館」に戻ります。館内には、桂や坂本竜馬、高杉晋作の漢詩や書簡が残っており、展示されています。司馬遼太郎が「竜馬がゆく」の取材に訪れ、同作品中の「希望」の章を滞在中に執筆したそうです。

司馬遼太郎と先代のご主人が語られている写真も展示されています。
「竜馬がゆく」からです。


<ところが出石藩の目が光りだしたので、甚助はまたまた桂をつれて脱出し、当時「湯島村」といった今の城崎温泉にある湯治宿松本屋にたのんで湯治客になりすました。松本屋は現今の家号は「つたや」という。当時はわらぶきの百姓家風の家造りで、田地も持ち、半農半宿だった。まつという後家が主人で、一人娘にタキというのがいる。
 タキが桂の身のまわりの世話をやっているうちに自然のことがおこり、身重になった。ただし流産をした。>


旅館の前には司馬遼太郎の文章が石碑に刻まれていました。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10985266c.html
城崎 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

私は行きそびれてしまいましたが、家族が12/14,15と西村屋さんに泊りに行ってました、お部屋もよかったし、お料理もとても美味しかったそうで絶賛してました。私も行きたかったです(;O;)

[ モモケル ] 2014/01/12 23:24:15 [ 削除 ] [ 通報 ]

モモケルさんそれは残念です。日経の記事を読ませていただくと西日本一位にランキングされたこともうなずけました。次回は私も狙っております。

[ seitaro ] 2014/01/13 6:03:26 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

志賀直哉「暗夜行路」に描かれた城崎温泉そして北但大震災のこと

 城崎温泉は志賀直哉はじめ多くの文人が訪れ、小説や随筆に著しています。今回は「暗夜行路」で時任謙作が訪れた城崎温泉からです。


<城崎で彼は三木屋というのに泊まった。
俥で見て来た町の如何にも温泉場らしい情緒が彼を楽しませた。高瀬川のような浅い流れが町の真中を貫いている。

その両側に細い千本格子のはまった、二階三階の湯宿が軒を並べ、眺めは寧ろ曲輪の趣に近かった。又温泉場としては珍しく清潔な感じも彼を喜ばした。
一の湯というあたりから細い路を入って行くと、桑木細工、麦藁細工、出石焼、そういう店々が続いた。>
清潔な感じというのは、私の印象と同じことを意味しているのでしょうか。

麦藁細工は伝統工芸として現在も伝えられています。

<宿へ着くと彼は飯よりも先ず湯だった。直ぐ前の御所の湯というのに行く。大理石で囲った湯槽の中は立って彼の乳まであった。強い湯の香りに、彼は気分の和らぐのを覚えた。>
一の湯も御所の湯も志賀直哉が訪れて以後、新しく建て替えられたものですが、意匠は昔の風情を引き継いでいます。

 

 城崎温泉は大正14年5月、円山川河口付近でマグニチュード6・8の直下型地震が発生し、家屋は倒壊、火災により壊滅状態となったそうです。


北但大震災で焼け野原となった城崎温泉を復興に導いた当時の城崎町長、西村佐兵衛氏 (旅館「西村屋」4代目)焼け跡を廻る姿の銅像がありました。


余じんくすぶる町を、季節外れのコートに地下足袋姿、首から短いメガホンをぶらさげた格好で走り回っていたそうです。
神戸新聞但馬総局編の城崎物語から引用します。
<西村町長の口からは枯れ切った声がしぼり出た。「壇上に立つも暫し言無し。やがて口を開けば、一言一句、ことごとく衆人の肺腑をつく。 生きる者の喜びを説きてその責務に及び、町民の現状を述べて将来を嘆き、児童の胸底に潜める強くしかも天真なる力に鞭ちて、 親を救え、これを激励せよ、町の復興に邁進せよと、 声涙共に下り、血の滲み出づるがごとき熱弁に、聞く者皆うなだれて、真に一大劇的場面を現出せり。」>
 西村町長は震災現場に立つ真のリーダーだったようです。その甲斐あって昭和2年に島崎藤村親子が城崎を訪れた時、次のような感想を述べています。「山陰土産」からです。
<よくそれでもこんなに町の復興がはかどったものだと私がいってみたら、「みんな一生懸命になりましたからね。この節は少しだれて来ましたが、一頃の町の人達の意気込みというものは、それはすさまじいものでした。これまでに家のそろったのも、そのおかげなんですね。」と若主人は私に言って見せた。>

 

 泉鏡花も震災を題材にして、「城崎を憶う」という短編を著しており、「鏡花怪異小説集おばけずき」東雅夫編に収められています。

鏡花は震災の一年前の五月に城崎を訪れていますが、その後大震災の報に接し、一年前の城崎での体験が大震災の不吉な前兆ではなかったのかと思うのです。
最後は次のように結ばれていました。
<当時写真を見た ―湯の都は、ただ泥と瓦の丘となって、なきがらの如き山あるのみ。谷川の流れは、大むかでの爛れたように……其の写真も赤く濁る……砂塵の広野を這って居た。木も草も、あわれ、廃屋の跡の一輪の紫の菖蒲もあらば、それがどんなに、と思う。
 −今は、柳も芽んだであろう −城崎よ。
                          −大正十五年四月>

 

 大震災にも泉源が涸れず、現在も賑わいが続いているのは城崎の皆様の努力の賜物なのでしょう。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10983753c.html
城崎 | コメント( 1 ) | トラックバック( 0)

パッと写真を見た瞬間に「あっ城崎だ」とわかりました。わたしの親戚はみな但馬。わたしたちの結婚式も豊岡でした。麦わら細工の文箱もいいのを持ってますよ。
震災に関しては、親戚の長老を取材した時に生々しい話をお聞きしました。

[ akaru ] 2014/01/10 14:00:39 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

島崎藤村「山陰土産」を読みながら城崎温泉へ

 新年あけましておめでとうございます。
 年初のブログは昨年暮れに訪れた城崎温泉の話題からです。昨年2月に訪れて以来二度目の訪問になりますが、何がそんなに気に入ったかというと、外湯巡りの楽しさや白樺派の文人墨客が訪れ文学の話題豊富なことのみならず、温泉街に付き物のフウゾクがなく安心して散策できるからなのです。

 神戸新聞但馬総局編の「城崎物語」によると、昭和45年からの鬼署長と呼ばれた中田静男署長の並々ならぬ努力により、暴力団追放が達成されたそうで、私のように女性ばかりの家族と行っても、男として気が引けることも無く、温泉街の情緒を楽しみながら大谿川の散歩道を歩けるのが大変気に入っています。

 

 宝塚から福知山線の特急こうのとりに乗って出かけましたが、今回も島崎藤村「山陰土産」に書かれた車窓の風景と比較しながらの旅でした。


 島崎藤村は昭和2年に、大阪朝日新聞から依頼を受け、息子の鶏二を伴って、福知山線から山陰本線に乗って旅に出ます。季節は7月蒸し暑い夏の最中でした。
 <大阪近郊の平坦な地勢は甲、武庫、六甲の山々を望むあたりまで延びて行っている。耕地はよく耕されていて、ぶどう畠、甘藷の畠なぞを除いては、そこいらは一面の青田だ。>

 現在はこのあたり、田畑など無く住宅地になっており、宝塚からは武庫川を横に見て、すぐトンネルに入ります。
<大阪から汽車で、一時間半ばかり乘ってゆくうちに、はや私達はかなりの山間に分け入る思いをした。同車した乘客のなかには、石のあらはれた溪流を窓の外に指さして見せて、それが武庫川であると私達に教えてくれる人もある。これからトンネル一つ過ぎると丹波の国であるとか、ここはまだ攝津の中であるとか、そんなことを語り合うのも汽車の旅らしかった。>
関西の地名の読み方が難しいと、親子の話題になっています。

<「父さん柏原というところへ来たよ」
「柏原と書いて、(かいばら)か。読めないなあ。」
 私も鷄二も首をひねつた。土地不案内な私達は、ゆく先で讀みにくい地名に逢った。石生と書いて、(いそう)と讀ましてあるのも、むずかしい。
上夜久野の駅を過ぎて、但馬の国に入った。摂津から丹波、丹波から丹後という風に、私達は三つの国のうちを通り過ぎて、但馬の和田山についた。そこは播但線の交叉點にもあたる。>

 まだ昭和の初めまでは摂津、丹波、但馬など昔の令制国の名残があり、このように話題にもされていたようです。調べてみると、兵庫県は明治9年に現在の姿に統合されるまでは、ほぼ摂津国のあたりだけの面積の小さな県でした。

 和田山の駅で最も目に付くのがレンガ造りの機関庫。明治末期に播但線と山陰本線の接続駅となった和田山駅は山陰・播磨・京都大阪方面の三方を結ぶ拠点として重要な役割を担い、構内には機関庫、転車台、給水塔等の施設や管理建物が建てられていたそうです。
貴重な鉄道遺産だと思うのですが、この建物も風前の灯火のようです。

 

<玄武洞の驛まで行くと、城崎も近かつた。越えて来た山々も、遠くうしろになって、豐岡川の水はゆるく眼の前を流れていた。湖水を望むような岸のほとりには、青々とした水草の茂みが多く、河には小舟をさえ見るようになった。間もなく私達は震災後の建物らしい停車場に着いて、眼に触れるもの皆新規まき直しであるような温泉地の町の中に自分等を見つけた。そこが城崎であつた。>

城崎温泉駅前には藤村の「山陰土産」の文学碑が建てられています。

刻まれているのは冒頭の文章。
一 大阪より城崎へ
朝曇りのした空もまだすゞしいうちに、大阪の宿を発つたのは、七月の八日であつた。

 

ようやく藤村様ご一行が城崎到着です。
<何よりもまず私達の願いは好い宿について、大阪から城崎まで七時間も、汽車に揺られ続けて行った自分等の靴のひもを解くことであった。一日の旅で、私達のはだ身につけるものはひどい汗になった。夏帽子の裏までぬれた。私も鷄二も城崎の宿の二階に上って、女中がすすめてくれるさっぱりとした浴衣に着更へた時は、活き返ったような心地を味はつた。>
昭和2年に7時間もかかった行程も、現在は宝塚からですと約2時間でした。


この時島崎藤村親子が泊まったのは土地でも古い家柄の「ゆとうや」(上の写真)でしたが、私達は桂小五郎が逃げ隠れ、司馬遼太郎も宿泊したという「つたや」へ。



和田山機関庫
goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10981245c.html
城崎 | コメント( 3 ) | トラックバック( 0)


 愛息鶏二の挿画、興味深いところでもあるのですが、早死され、画家として描き残した作品、数少ないのが残念ですね。

[ shiratori ] 2014/01/05 10:16:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

 
 僕の手元の所持本「名家の旅」その「山陰土産」の一編では、各章七枚の挿画全てが「鶏ニ」の作品と記されています。

 画家を志半ば、若くして亡くなった「鶏ニ」ですが・・・

[ shiratori ] 2014/01/06 19:45:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

「名家の旅」昭和2年朝日新聞社から出版されたもののようで、新聞連載時の挿絵が掲載されているのでしょうね。残念ながら西宮の図書館にはありませんでした。

[ seitaro ] 2014/01/06 21:11:20 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

城崎文芸館

城崎温泉には多くの文人墨客が訪れており、その足跡を紹介する城崎文芸館があります。
早速中に入ると、1階の展示は「白樺派と城崎」です。


 志賀直哉の「城の崎にて」は大正6年の「白樺」に発表された作品で、昔はしょっちゅう中学校の入学試験に引用されていました。大正2年に山の手線の電車にはねられた志賀は、城崎に療養に訪れ、その後も生涯に10数回も城崎を訪れたそうです。彼の影響で、白樺派の有島武郎、里見クなど多くの作家がこの地を訪れました。


有島武郎の川田順への手紙も展示されていました。


 2階は、白樺派以外で城崎を訪れた文人墨客のコーナーです。小説家、歌人、画家など近代日本の芸術家が勢ぞろいしています。与謝野晶子が原稿用紙に書いた自筆短歌なども展示してありました。


 山下清も昭和34年に訪れ、あのマジックペンの絵を残しています。ホタルの絵でしょうか。



富田 砕花も城崎を訪れ歌を詠んでいます。

歌碑は外湯の柳湯にありました。


与謝野鉄幹の歌は城崎温泉駅を降りたととろにある「さとの湯」にありました。
温泉街での文学碑めぐりも楽しいものです。


 文芸館の二階には昭和13年前田虹映作「躍進の城崎温泉観光図」が展示されていました。

城崎温泉は、島崎藤村の「山陰土産」にも書かれているように、大正14年の北丹大震災で壊滅的な打撃を受けましたが、その後復興、観光図は健在ぶりをPRする観光パンフレットの表紙を飾るため描かれたそうです。
蟹と外湯と文学散歩を満喫し、もう一度訪れたいと思う城崎温泉でした。


 



白樺派
goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10831591c.html
城崎 | コメント( 4 ) | トラックバック( 0)

カニ旅行に行く際は、城崎に寄ります。この文学館にずっと入り浸ってしまって、家族に「早くして!」と怒られます。
また行きたくなりました。

[ みほぼん ] 2013/02/26 23:14:58 [ 削除 ] [ 通報 ]

すでに行かれていましたか。こんなに多くの方が訪れているとは知りませんでした。
意味不明のコメント2件削除しました。他の方も被害にあわれるかもしれません。お気をつけください。

[ seitaro ] 2013/02/26 23:15:30 [ 削除 ] [ 通報 ]

私も城崎は大好きな場所です。
カニと外湯と文学散歩・・・何度行っても飽きません^^
ホント、また行きたいですね(^_-)-☆

[ ショコママ ] 2013/02/27 18:58:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

ショコママさんありがとうございます。私も城崎は最近の温泉街のようなけばけばしい所がなく、落ち着いて散歩できる、いい温泉だと思います。

[ seitaro ] 2013/02/27 21:31:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

志賀直哉が城の崎にて宿泊した三木屋

 志賀直哉が城崎温泉を訪れたのは大正二年十月のことでした。その二日まえの夜から北丹波一帯は豪雨に見舞われ、城崎では床上浸水した旅館もあったほどでした。直哉はまず城崎駅から人力車に乗り、車夫に「一番いい宿はどこか」と尋ね「ゆとうや」に案内されますが、あいにく「ゆとうや」は浸水中でした。


仕方なく別の宿へ行きますが二番目に案内された宿は気にいらず、三番目にあたった「三木屋」に落ち付くことになります。


「暗夜行路」でも、城崎を訪れ、三木屋が出てきます。


 <城崎では三木屋という宿に泊まった。俥で見て来た町の如何にも温泉場らしい情緒が彼を楽しませた。高瀬川のような浅い流れが町の真中を貫いている。その両側に細い千本格子のはまった、二階三階の湯宿が軒を並べ、眺めはむしろ曲輪(くるわ)の趣きに近かった。又温泉場としては珍らしく清潔な感じも彼を喜ばした。一の湯というあたりから細い路を入って行くと、桑木細工、麦藁細工、出石焼、そういう店々が続いた。殊に麦藁を開いて貼った細工物が明るい電灯の下に美しく見えた。>

高瀬川のような川とは大谿川のことです。
<宿へ着くと彼は飯より先ず湯だった。直ぐ前の御所の湯というのに行く。大理石で囲った湯槽(ゆぶね)の中は立って彼の乳まであった。強い湯の香に彼は気分の和らぐのを覚えた。……>

上の写真は現在の御所湯ですが、説明されているような道後温泉に似た深い湯船はありません。
二番目に案内された宿はどこかわからないのですが、ひょっとすると、つたや旅館でしょうか。

この宿はかつて、桂小五郎が京都蛤御門の変で敗走し、出石から移り、潜んだ宿です。 「竜馬がゆく」の取材と執筆のために、司馬遼太郎も逗留し、つたやの門前には、司馬遼太郎文学碑が建てられています。

「往昔、当地は但馬國城崎郡湯島村といい、畿内貴顕の湯治場であった。桂小五郎、蛤御門の変ののち遁れてここに潜み、当館にて主人母娘の世話を受けたという。司馬遼太郎記」
さて三木屋にしばらく逗留した志賀直哉は、朝食には特別に神戸からパンとバターを取り寄せたそうです。
 志賀直哉の「城の崎にて」は次のように始まります。
<山の手線の電車に跳ね飛ばされてけがをした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出かけた。>
現在は日本国中多くの有名な温泉がありますが、大正の初め、どうして志賀は城崎温泉を選んだのでしょう。
江戸時代の温泉番付なるものがありました。

城崎温泉は堂々西の関脇にランキングされています。また江戸中期温泉医学の創始者後藤良山の高弟香川修徳によって「此邦諸州温泉極めて多し 而して丹州城崎の新湯を最第一となす」(享保十九年刊薬選)と賞されていました。



つたや旅館
goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10830226c.html
城崎 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

城崎の土産物屋で昔は『城崎文学読本』というものが売られていて、わたし買いましたが、今でも売っているのでしょうかねえ?この本は宮崎修二朗翁が昭和30年に編纂されたものでしたが。もちろん「城崎にて」も取り上げられております。

[ akaru ] 2013/02/24 20:30:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

城崎文芸館にも行ったのですが、そのような本にはまったく気づきませんでした。ブログ書く前に読んでおくべきでしたが、遅ればせながら探してみます。

[ seitaro ] 2013/02/24 21:25:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

このブログトップページへ
seitaroイメージ
阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

カテゴリー一覧

QRコード [使い方]

このブログに携帯でアクセス!

>>URLをメールで送信<<