阪急沿線文学散歩

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佐藤愛子さんの甲子園五番町の家(「失われゆくふるさと」より)

『これが佐藤愛子だ』からです。
<私が小学校五年生のとき、私の家は駅の近くの三階建ての家から、路面電車で北へ行った、二停留所目の五番町というところに引越した。その家は空襲にも遭わず、今もそのまま残っている。>
 路面電車で、甲子園停留所の次の駅が、六番町、その次が五番町です。

 佐藤愛子さんが住んだ甲子園五番町とは当時の絵地図と現在の地図を比較するとわかったのですが、甲子園二番町にあたります。(昭和5年の甲子園住宅経営地鳥瞰図を見ると、阪神甲子園駅から北側国道2号線までは、七番町から四番町までありますが、現在の地図では、六番町から二番町までに変わっています。)


<私が嫁入りをするのを待っていたように、父母は慌しく家財道具を処分して、二十年住み慣れた鳴尾を離れたのであった。私はふるさとへ行くたびに、その家の前に立ってみる。その家は今はある大きな農機具の会社の社長さんの住居になっている。かつて、「佐藤」とだけ、大きく書かれた表札が掛かっていた門柱には、「山岡」という表札が掛かっている。私はそれを見つめ、変わり果てたふるさとの中に、この家だけが変わらずに残っていることを、むしろ悲しく眺める。>
 昭和50年ごろのお話ですが、大きな農機具の会社とはどうもヤンマーのことで、社長「山岡」さんとは、創始者山岡孫吉(昭和37年逝去)から続く、山岡家のことのようです。


< 変わらずに残っているとはいうものの、やはりその家はかつてのあの「私たちの家」ではないのだ。一棟だけだった土蔵がもう一棟建て増されている。チークの門扉も変わった。門扉の上に鉄条網が張ってある。>


昔の写真では、門扉の上の鉄条網は鉄の槍状の柵でした。

< 住んだ者でないと気がつかないようなそんな些細な変化が私には面白くない。いっそあの三階建ての古い家のように、あとかたもなく焼失してくれれば、この家はかつての姿のまま、私の思い出の中に懐かしい姿でくっきりと永遠に残るであろうに。>

 


甲子園二番町の航空写真です。現在は昔の建物は取り壊され、大阪ガスの寮になっているようです。(中央の長方形の建物と駐車場)

 


歩いてみますと、門柱と石垣だけは昔の面影を保っていました。




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城山三郎『零からの栄光』川西航空機鳴尾製作所跡を歩く

 城山三郎『零からの栄光』を読み終えて、川西航空機鳴尾製作所のあったあたりを歩いてみました。

 

 吉田初三郎の昭和11年の西宮市鳥瞰図に描かれていた川西航空機。河岸は武庫川遊園と記載されており、桜も美しかったようです。


現在の武庫川堤防からの眺めです。

 阪神高速湾岸線が丁度昔の河口を横切っており、その右手が川西航空機鳴尾工場があったところです。


 ここから少し西に、阪神武庫川線の終点、武庫川団地前駅があります。


 この駅は戦時中の資材を輸送するため武庫川駅−洲先駅(現、武庫川団地前駅)間の鉄道が敷設されたものでした。

 そして川西航空機鳴尾製作所の跡には、武庫川団地が広がっており、昔の風景を思わせるものは何も残っていません。

 

鳴尾川を越えて鳴尾海軍航空基地のあったあたりを歩いてみました。


唯一つだけ、名残をとどめる建物がありました。

飛行場の時に管制塔として使用されていた、鳴尾競馬場スタンドの正面玄関部分です。

 鳴尾競馬場(昭和12年、阪神競馬場に改称)の改修工事の際に観覧席の一部として建設されたそうで、昭和18年には管制塔に転用されます。


 戦後、武庫川学院に払い下げられ、平成16年には文化財として復元改修が実施され、現在は武庫川女子大学附属中学・高等学校 芸術館として残されています。
甲子園ホテルやこの歴史ある建物を保存されている武庫川女子大には敬意を表し、感謝いたします。

 

 最後に武庫川河口の埋立地にできた鳴尾浜臨海公園に立ち寄りました。


海の見える丘ゾーンの芝生広場からの眺めです。

 

フラワーガーデンもあり、ゆっくり散策することができました。

 

リゾ鳴尾浜に入ってみると、あの懐かしい動物の剥製が。


小学校の時に阪神パークに見に行ったレオポンです。今もここに残されていたとは。


焼け野原となった鳴尾を想像しながら、現在の平和な鳴尾浜を感慨深く眺める一日でした。

 



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城山三郎『零からの栄光』昭和20年主力製作所のほとんどが焼失した川西航空機

 昭和20年、B29による本格的な爆撃が始まり、川西航空機の甲南製作所は5月11日主要設備の大部分が破壊され、それからほぼ1ヶ月後、鳴尾製作所が爆撃されます。


<六月九日、朝の始業後、間もなく警報。鳴尾では防衛隊員を除いた全従業員が、武庫川の川原など、工場外へ退避した。B29の大編隊は、いったん北へ向かうと見せて反転、海辺の鳴尾製作所をめがけて殺到した。このころ部員一千人以上に上がった設計部はじめ本社機構は、関西学院・神戸女学院などに疎開していた。>
 関西学院・神戸女学院の校舎も戦争末期には学校工場として、宿舎として使われていたようです。

 

<部長の菊原は、関西学院の山かげにうずくまって、空を見上げた。真上をB29の編隊が通過する。B29の平面図そのままに見るようで、こわさも忘れて見とれた。>
 戦時中、重要工業都市であった西宮は5回に及ぶ空襲を受け、市街地の大部分が焼失するという壊滅的な被害を受け、多数の死傷者を出しています。(総務省ホームページによる)
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kinki_11.html

 第2回の空襲は6月5日。西宮市では川西町・霞原町・川東町・宮西町・荒戎町・市庭町などに焼夷弾攻撃を受け、ついで6月9日には『零からの栄光』に描かれているようにB29約100機が鳴尾村に来襲しています。


 そのため川西航空機鳴尾製作所では建物被害が60%にも達し、隣の豊年製油鳴尾工場では油槽が全部破壊されて操業不能におちいりました。


 川西航空機宝塚製作所も、7月24日の空襲で壊滅します。

 その様子は、遠藤周作『黄色い人』の冒頭に描かれていました。
<黄昏、B29は紀伊半島を抜けて海に去りました。おそろしいほど静かです。二時間前のあの爆撃がもたらした阿鼻叫喚の地獄絵もまるでうそのように静かです。三時間のあいだ河西工場をなめつくしたどす黒い炎も消えましたが、なにが爆発するのでしょう、にぶい炸裂がひびのはいった窓にかすかに伝わってきます。>

 

そして終戦。8月24日、軍需省による接収は解除され、主力製作所のほとんどが焼け落ち、無一文となった会社は川西竜三の手に戻ります。


 



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昭和18年鳴尾から宝塚にかけ川西航空機は急膨張(城山三郎『零からの栄光』)

 川西航空機鳴尾工場で「紫電」の試作機初飛行は昭和17年の大晦日。その試作機完成後わずか三ヶ月で「紫電」を基礎にした次期戦闘機の試作を命じられます。

<海軍は川西に賭け、その戦闘機に海軍航空戦の明日を賭けた。新しい戦闘機には、全物量を投入して、一万機近く生産したい。そのため、新しい戦闘機は、優秀な「改」であるばかりでなく、量産しやすい「改」でなくてはならない。>

 そのような戦局をうけ、世の中全体が軍国主義化し、統制が進んで行く中で、川西航空機の仕事は急膨張し、従業員数も年々飛躍的に増加します。正規の従業員だけでなく、徴用工や動員学徒などといった形で、人だけがむやみに増えていったそうで、大相撲の力士や力道山、さらには藤村富美男ら阪神・阪急の野球選手たちまでも動員されました。


<学生生徒は、地元関西の中学校・女学校だけでなく、全国各地の大学・高校・専門学校からやってきた。それぞれの腕章を締め、幟をかかげ、同じ動員でも戦闘機をつくれるのだからと、中学生あたりははりきっていた。>
当時宝塚の小林聖心女子学院に戻っていた須賀敦子さんも学徒動員された一人でした。


須賀敦子『ユルスナールの靴』で次のような情景が描かれていました。
<戦争がいよいよひどくなって、私は、もといた関西の学校に戻ることになった。戻る、とはいっても、その春、新学期が始まるとまもなく、教室の一部が作業場に改造され、女学校四年生の私たちは実習訓練を受けて六月には正式の工員に採用され、お給料をもらうようになった。>


 須賀さんも当時折り曲げ隊として紫電改の翼になるジュラルミンの加工を学校工場で行っていたのでした。また野坂昭如の私小説『ひとでなし』にも、親戚の神戸女学院生が昭和20年の夏に動員されて行くことも述べられていました。


『零からの栄光』に戻ります。
<物資不足の折から、ふくれ上がった従業員のための衣食住を用意することが、また一仕事であったが、これは前原副社長が猛烈としかいいようのないやり方で解決していった。
 すでに川西には、工和寮・親和寮・誠和寮・明和寮などといった寮の群があったが、その上に、甲子園ホテルはじめ寮となりそうな建物は手当たりしだい買収。>

あの甲子園ホテルまで、川西航空機の寮となっていたとは。


 関西学院のヴォーリズ設計の外国人教員住宅も川西航空機の寮となっていたことが、遠藤周作『黄色い人』の題材になっていました。


<だが戦争のためカナダ人たちが引き上げたこの村は、うつろな老人の顔に似ていていました。川はすっかり耕作地に埋められ、関西学院の異人たちの住んだクリーム色の家は工員の寮と変わっています。>


国民徴用令で従業員数は6万人を超えたそうです。
<時の勢いとはいいながら、こうして鳴尾から西宮・宝塚にかけて、川西航空機という名の企業王国ができあがった感じであった。>
 川西竜三は航空機王国という年来の夢がかなったものの、自分のあずかり知らぬところで勝手に増殖しつづける様子に、浮かぬ顔でした。そして昭和20年国営の軍需工場として接収され、全権を奪われてしまったのです。

 



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城山三郎『零からの栄光』陸上機「紫電」誕生と鳴尾海軍航空基地の開設

 昭和17年、川西航空機鳴尾工場で初の陸上戦闘機「紫電」が誕生します。伊丹の陸軍飛行場で試験飛行が行われたのはその年の大晦日。
<紫電の試作機はまだ検討すべきいくつかの問題があったが、海軍は制式機に採用。量産しながら改造・改修して行くというのだから、技術・工作陣や整備関係の苦労はたいへんであった。>
 軍ではそれほど新しい戦闘機の誕生を急いでいました。川西航空機で陸上戦闘機が製造されるようになったことから、海軍は隣に突貫工事で飛行場をつくりました。
<一方、当時日本一といわれた隣接の鳴尾競馬場をつぶして、突貫工事で飛行機場がつくられた。完成した「紫電」が工場から飛行場へ引き出されてくると、各航空隊から来ている領収員が奪い合うようにして乗って行く。すぐ実戦部隊へ配備され、その使用結果が次々と「戦訓」として報告されてきた。>


 昭和11年の吉田初三郎鳥瞰図の鳴尾川の西側にあった鳴尾競馬場、阪神パークなどがつぶされ、X型滑走路の飛行場となったようです。


鳴尾競馬場は明治40年に竣工した関西初の格式ある競馬場でした。
その跡地に完成した鳴尾海軍航空基地の航空写真です。


鳴尾川の対岸と航空写真の右下の白く見える道路の間の工場は川西航空機ではなさそうです。戦時中も豊年製油の鳴尾工場が残っていたのかもしれません。

 


戦時中の川西航空機鳴尾製作所の平面図は白く見える道路から西側の部分でした。

 

ところで、完成した鳴尾飛行場へは、<中継や不時着のため下りる海軍機もあり、X型に交差する滑走路で衝突する事故もあった。>そうです。



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川西航空機が残された隣接ゴルフ場も買収(城山三郎『零からの栄光』)

 現在川西市にある名門鳴尾ゴルフ倶楽部は1914年に、鳴尾競馬場駈歩コース跡に6ホールの日本最初の海浜コース「鳴尾ゴルフ・アソシエーション」が出来たことに始まります。


 1920年、鳴尾アソシエーションは解散し、その跡地に鈴木商店の社員ら有志38人と同社の英人A・E・クレーンらを中心に、新しい「鳴尾ゴルフ倶楽部」が結成され、1924年には18ホール、5,080ヤード、パー68、鳴尾のシーサイドに日本初の本格ゴルフコースが完成したのです。


 しかし、1927年世界恐慌が日本を襲い、鈴木商店は倒産。鳴尾GCのコース用地も、鈴木商店から浪華倉庫に移り、鳴尾GCも、六ヶ月以内の明け渡しを求められます。

 川西航空機は1930年、その鳴尾ゴルフ倶楽部の敷地の内、72,600坪を買収し、竣工した工場に本社を移転、水上機の開発・製造を開始しました。
 したがって当時はまだ隣に、「浜のコース」と呼ばれる9ホールのゴルフ場が残されていました。


 その後、1939年には、川西航空機は増産のため北側のゴルフ倶楽部等35,000坪を買収し、敷地を拡張します。
<増産のため工場拡張を迫られ、川西では隣接のゴルフ場の買収にかかった。所有者は旧鈴木商店整理会社。お坊っちゃん会社の交渉ぶりに足元を見透かされ、交渉に行くごとに一円ずつ値をつり上げられ、はじめ坪二十二円であったものが、二十九円五十銭になってしまった。増設する組立工場は、大型機が翼を広げたまま出入りできるよう、広い間口が要る。担当者は、柱なしの六十メートル間口とした。>


 この間口六十メートルの提案を受けた「シブチン社長」の川西竜三の反応は意外や、
<詳しく説明を聞き、いろいろ質問した後で、竜三は言った。「もっと思い切って間口を広げる案に練り直したらどうや。建築技術の許す範囲で、最大どれまでとれるか、それによって、作業上どれだけ利点があるか、検討してみるんや」担当者は喜んで引き退がった。そして、建築関係者と打ち合わせた末、七十二メートルの案をつくって持って行った。>
と、この案が決裁されたのです。

 

 工場拡張前、昭和11年の吉田初三郎の鳥瞰図を見ると、ゴルフ場とは書かれていませんが、豊年製油の工場との間のグリーン地帯がゴルフ場で、川西航空機鳴尾工場は、豊年製油との境界まで拡張されました。

 考えてみれば、豊年製油は鈴木商店製油部が独立した会社ですし、鳴尾ゴルフ倶 楽部も鈴木商店の社員有志によるものでしたから、武庫川と鳴尾川間の土地が鈴木商店のものだったようです。



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城山三郎『零からの栄光』鳴尾に新工場建設

城山三郎『零からの栄光』は零戦以来の名機といわれた紫電改を誕生させ、戦後もゼロから立ち上がった、川西航空機―新明和工業の物語。

 

 川西航空機の前身は、1920年に神戸の和田山通りに設立された川西機械製作所で、1928年にはその飛行機部門を継承し、川西航空機として独立し、鳴尾に新工場を建設します。
<当時としては、かなりの大会社であり、川西家がそのほとんどを出資。その資本で、武庫川尻に在るかつての鈴木商店所有の鳴尾ゴルフ場の一部を買収、新工場を建設した。
 従業員は三百五十人、通勤用に会社は自転車を支給した。まわりは苺の名所の鳴尾村。いちめんの苺畑の中に、古い農家が点在している。目の前には、瀬戸内海がひらけ、隣接の残り九ホールのゴルフ場から白球が飛び込んでくるというのどかな風景。工場視察に来た海軍士官の中には、外国駐在などでゴルフをおぼえた人もいて、視察後、隣のゴルフ場へ直行したりした。>

 新工場建設6年後の昭和9年の今津付近略図には小説の通りの情景が描かれていました。
 武庫川河口にある、まだ小さな川西製作所、複葉機が2機停まっています。

 


当時製作を始めた一三式水上練習機でしょうか。


 河岸には汐ひがりと書き込まれており、まだ戦争は差し迫っていません。
西隣にはゴルフ場、その西に阪神パークがあります。

 

 ゴルフ場の北側に鳴尾競馬場があり、その北側一面には鳴尾いちご畑が広がっていました。
 絵地図を見ると、地域の方から愛されていたカフェJダーツ倶楽部さんの場所も、昔はいちご畑だったかもしれません。



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西の迎賓館旧甲子園ホテル(その3)光と影の芸術

 光と影の演出にこだわったフランク・ロイド・ライトの建築、その一番弟子の遠藤新の設計も見事な光の使い方です。

芦屋の旧山邑邸の廊下の陽射の使い方も見事でした。


甲子園ホテルの庇も雨よけではなく、木陰の雰囲気をつくるための庇となっています。

 

西ウイング「池の間」の前にあるつくばいからわき出る水は打出の小槌文様の上を流れ落ちます。

冬至の頃の朝は、上の灯り窓から差し込む光がちょうどこのつくばいを照らすそうです。

見学会の最後はコーヒータイム、昔懐かしいバタークリームケーキです。
このケーキは甲子園ホテルの製菓長であった林田末吉氏が、昭和三十年に甲子園にオープンした「ライト洋菓子店」から取り寄せられたもので、甲子園ホテルの味が現在の店主の林田高明氏に引き継がれているそうです。


 甲子園ホテルの営業していた時代、大阪には本格的なホテルがなく。その結果リゾートホテルとしての顔と同時に、西の迎賓館としての顔も備えることになり、関西を訪れる国内外の要人が、軒並みここに滞在したそうです。ベーブルース、山本五十六、菊池寛、佐藤紅緑、谷崎潤一郎、藤田嗣治などの滞在記録がありました。
 また西宮市には昭和6年に当時としては珍しいレジデンシャルホテルとしてパインクレストが夙川に開業していましたが、こちらは残念ながら跡形もなく消えてしまいました。

 

旧甲子園ホテルを復活させ公開していただいている武庫川女子大の皆様に感謝いたします。



ライト洋菓子店
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西の迎賓館旧甲子園ホテル(その2)打出の小槌と黄金の滴

 甲子園ホテルは治水対策によって廃川になった土地に建設されました。


 以前BS朝日で放送された「甲子園ホテルの想い出」では、その誕生の歴史から水をテーマとした建築物であることが紹介されていました。

それを思い出しながら見学すると、なるほどいたるところに大きな水滴が刻まれています。

 武庫川沿いの松林の緑と一つになるよう工夫された瓦屋根。


 瓦葺き屋根の頂点にある打出の小槌が刻まれた宝塔から弾かれた水玉が斜めに瓦をつたって走るようすを表しているそうです。

テラスの外壁には日華石の柱をつたって落ちる水滴を模した装飾が刻まれています。


玄関の庇の滴を見ながらロビーに入ってみると、木の桟にも滴が伝って落ちる様子が見られます。


暖炉の壁にも水滴が刻まれています。


バンケットホールに入ると圧倒される金の装飾でした。

半円型のものが水盤で、球状のものが水滴を表しています。


ホテルのパンフレットを見てもわかるように、打出の小槌がホテルのシンボルマークとなっており、外壁や室内のいたるところに小槌の装飾が施されています。


バンケットホールの柱の上にも大きな黄金の打出の小槌の装飾がありました。
考えてみるとこの滴は雨の滴ではなく、打出の小槌から振り出された黄金の滴で、それを水盤で受けているのでしょう。


上の写真も打出の小槌と黄金の滴のオブジェかも知れません。
「打出の小槌」を甲子園ホテルのシンボルとして発案したのは設計者遠藤新ではなく、理想のホテル建設の夢を追い続けた林愛作だったのではないでしょうか。打出の小槌伝説はその後の林愛作と甲子園ホテルの運命を象徴するかのようなお話でした。



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阪急沿線大好きです。
以前は石橋、豊中、塚口が最寄駅でした。
娘のお宮参りも中山寺でしたし。
カテゴリー一覧を拝見しただけで懐かしさがこみ上げてきます。

[ -- ] 2013/10/23 13:57:54 [ 削除 ] [ 通報 ]

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西の迎賓館といわれた旧甲子園ホテルの見学へ(その1)

 大正十一年に武庫川の治水工事で埋立てられた枝川・申川の廃河川跡を入手した阪神電鉄は、かねてから念願であったアメリカ流の新リゾート都市の建設に着手します。

 そしてリゾートホテル建設計画が阪神電鉄の主導で進められ、帝国ホテルの元役員であった林愛作を迎えて建設・運営会社がまとめられ、昭和五年に甲子園ホテルが開業しました。建設は、帝国ホテルの設計者フランク・ロイド・ライトの一番弟子の遠藤新。

 

 これに先立って大正13年に竣工した芦屋の旧山邑邸(ヨドコウ迎賓館)は帝国ホテル建設中にライトがスケッチをしたものを中途でライトが帰米したため、止むを得ず遠藤新と南信が引き続き設計監修したものでした。(「ミーナの行進」で訪ねた芦屋の旧山邑邸も美しい建物でした。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10765309c.html

 昭和九年の甲子園付近の略図を見ると、鳴尾競馬場、ゴルフ場、プール、テニスコート、野球場などがあり、甲子園ホテルの西側、阪神国道沿いには新興毛織会社、ユニオンビール(後アサヒビールとなり2011年に閉鎖)の工場も描かれています。

 また昭和五年の甲子園住宅経営地案内鳥瞰図には武庫川大橋上流で分岐していた枝川の名残の松並木や、甲子園ホテルの池が描かれています。


 甲子園ホテルは阪神間モダニズムの時代の象徴的な建造物ですが、当時の多くの歴史遺産が取壊されるなか、幸いにも武庫川学院甲子園会館として再生され、建築学科のキャンパスとなり今も使われています。


赤い絨毯の敷かれた廊下。

 


 その奥には建築学科の個人用の製図机を備えたスタジオがあり、このようなロケーションで建築の勉強ができるとは最高です。
最近では一般向けに喫茶付き見学会も開催されています。
http://www.mukogawa-u.ac.jp/~kkcampus/
西宮まちたび博2013のプログラムでも見学会が開催されますが、今回は個人見学日に申し込みました。

早めに行くと13時から学食で昼食も可能です。



遠藤新
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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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