阪急沿線文学散歩

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堀辰雄の浄瑠璃寺を訪ねる

 京都の和束町に所用があり、帰りに浄瑠璃寺を回ってきました。

和束町は奈良平城京と宇治平等院との中間に位置し、京都府内で栽培されるお茶の約4割が生産されているそうで、別名「茶源郷」とも呼ばれています。

京都府の景観資産第1号に指定された和束町の茶畑。
ここから車で10分程度で浄瑠璃寺です。

 堀辰雄夫妻が奈良の浄瑠璃寺を訪ねたのは昭和18年4月のこと。

堀辰雄『大和路・信濃路』の「浄瑠璃寺の春」からです。

<最初、僕たちはその何の構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆びついた九輪だったのである。>

現在は九輪も錆びてはおらず、荘厳なたたずまいです。

< その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、はいりかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている。」と僕はその門のかたわらに、丁度その門と殆ど同じくらいの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意そうにそれを指さして見せた。>

 浄瑠璃寺の門に向かう小道に、馬酔木が多く植えられており、堀辰雄が訪れたのは、春ですから綺麗に咲いていたようです。

<「おい、こっちにいい池があるから、来てごらん。」
「まあ、ずいぶん古そうな池ね。」妻はすぐついて来た。「あれはみんな睡蓮ですか?」
「そうらしいな。」そう僕はいい加減な返事をしながら、その池の向うに見えている阿弥陀堂を熱心に眺めだしていた。>

三重塔から池の向こうに阿弥陀堂が見えます。

 浄瑠璃寺には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を残しています。本堂は多数建立された九体阿弥陀堂の中で、唯一の遺構とのこと。

<うすぐらい堂のなかにずらりと並んでいる金色こんじきの九体仏を一わたり見てしまうと、こんどは一つ一つ丹念にそれを見はじめている僕をそこに残して、妻はその寺の娘とともに堂のそとに出て、陽あたりのいい縁さきで、裏庭の方かなんぞを眺めながら、こんな会話をしあっている。>

九体阿弥陀如来像(浄瑠璃寺パンフレットより)

<僕はそんな考えに耽りながら歩き歩き、ひとりだけ先きに石段をあがり、小さな三重塔の下にたどりついて、そこの松林のなかから蓮池をへだてて、さっきの阿弥陀堂のほうをぼんやりと見かえしていた。>

上の写真は阿弥陀堂側から見た三重塔です。

『浄瑠璃寺の春』は、次のように馬酔木の花から始まり、
<この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた。>
最後も馬酔木の花で結ばれています。
<僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおっとしている心のうちに、きょうの昼つかた、浄瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあって見ていた自分たちの旅すがたを、何だかそれがずっと昔の日の自分たちのことででもあるかのような、妙ななつかしさでもって、鮮やかに、蘇らせ出していた。>
堀辰雄にとって、馬酔木は特別な思い入れがあったようです。




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この文章、わたしが県西へ入学して、最初に習った国語の教科書に載っていた記憶が微かにあります。昭和35年だったと思いますが。わたしは県西には一カ月通っただけで退学したのですが。懐かしい話です。

[ akaru ] 2016/11/20 19:48:48 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうだったのですか。堀辰雄の作品は、どれも落ち着いた美しい文章という印象です。私の県西時代の教科書には記憶がないのですが、最近の教科書はどうなっているのでしょうね。

[ seitaro ] 2016/11/20 21:09:48 [ 削除 ] [ 通報 ]

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若杉慧「須磨・明石・六甲の旅」の「親日家HANTER氏」から

 堀辰雄と竹中郁が迷ってたどりつたハンター邸は画家の格好の題材となり数多く描かれています。ハンター邸の絵の切手も発行されていました。一時西宮市に住んでいた洋画家西村功も、1989年「神戸っ子」に「ハイカラのある街 神戸を描く」と題し、次のように述べ、北野町にあったハンター邸も描いています。


<六甲連山を背に、急勾配で南に広がる街と港の風景、開港以来、外国人との触れあいの中で、育まれて来た港町神戸は異国情緒がただよい、私の画心をそそります、楽しませてくれます。> 
 また小松益喜も

<範多氏といっても日本人ではない。HUNTERを日本字に当てて、範多と自称していた英国人である。親日家で親孝行な、奇特な人だったらしい。>と述べ、

「範多邸より見た神戸風景」を描いていますが、現在のハンター邸跡から見える神戸風景は様変わりです。


 若杉慧は昭和36年に竹中郁を誘って堀辰雄の「旅の絵」めぐりをし、ハンター邸について「須磨・明石・六甲の旅」に記述し、更に北野神社で範多氏の玉垣石をみつけます。
<北野という町名の起りは北野の天神さんがあるからであろう。竹中君に注意されて気のついたことだが、ここの境内には、範多竜太郎、範多竜平、範多愛子と別々の名前を掘り込んだ三本の玉垣石が、日本人のと同様に並んでいる。………
ともあれ明治初年から続々と入り込んできた外国商人が、港にも近く、見晴らしのいい静かなこの界隈に住宅を建てはじめたことは当然で、HANTER氏などはもっとも親しくこの土地に溶け込んだ一人にちがいない。>

 エドワード・ハズレット・ハンターは、1867年来日し、造船、鉄鋼などの事業を手がけ、日立造船の前身の会社を興した人物ですが、薬種問屋・平野常助の娘・愛子と結婚し、明治4年に誕生した男児リチャードが範多龍太郎であり、その息子(E.G.ハンターの孫)が範多竜平でした。

その名が刻まれている玉垣石を探しに北野天神宮まで上ってみましたが、残念ながら見つけることはできませんでした。


北野天満宮の麓にハンター迎賓館という結婚式場ができていました。

ハンター氏の自宅としていた伝統的な和邸宅がこの中にあるそうですが、ハンター邸がここまで広がっていたとは思えず、建物は移築されてきたものではないでしょうか。



範多竜太郎
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堀辰雄と竹中郁が「旅の絵」でたどりついた風変わりな異人屋敷「ハンター邸」

 外人墓地を目指した二人は方角を間違え、どうやら北野町の丘の上のハンター邸まで上ったようです。

 私も堀と竹中が辿りついた場所を探しにハンター坂を上りました。

ハンター邸の敷地はかなり広かったらしく、今も塀の部分が残っており開けられた丸窓にはHの形がはめ込まれていました。


大邸宅であったわりには小さな門柱らしきものが跡地に残っていましたが、小松益喜の描いた「範多氏の門」を見ると、この上にはろうそくのようなオブジェが乗っていたようです。

もう少し西に行くと、小松が描いた場所を見つけましたが、その門柱は新しくなっていました。

堀辰雄「旅の絵」からです。
<そうして私たちの上って来たやや険しい道は、一軒の古い大きな風変わりな異人屋敷―その一端に六角形の望楼のようなものが唐突な感じでくっついている、そして棕櫚だのオリーブだの珍奇な植物がシンメトリックな構図で植わっている美しい庭園をもった、一つの洋館の前で、行き詰まりになっていた。そうして少しがっかりして、息をはずませながら、その風変わりな家に見とれている私たちの姿を目ざとく認めると、草色に塗られた鉄柵ごしに、その庭園の中から一匹のシェパードが又しても私たちに吠え出した。私はあんまり犬が好きじゃないのだ。どうもこの辺もいいけれど、もの静かに散歩をするには、すこしシェパードが多すぎるようだ。>
 この古い大きな風変わりな異人屋敷と書かれているハンター邸は、今は王子動物園に移設され保存されています。

昨年無料公開されていたときのバルコニーの写真です。

「一端にある六角形の望楼のようなもの」は実際には四角形でした。
北野町には犬を飼っている家が多かったらしく、小松益喜の画文帖にも
 <範多氏のお母さんというのが、とても犬好きで、大きなドーベルマン、小さなチン、粋なコリーに異様なダックスフントと、ちょっと数えても、四、五匹はすぐ頭に浮かぶ。その犬を頑丈な下男に引かせて、自分は細いステッキをついて、デブデブした身体をゆっくり運んで、静かな町を歩いていた。>
と述べられており、ハンター氏のお母さんはこの門内に子供たちが入って遊ぶのを嫌っていたそうです。



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堀辰雄「旅の絵」の北野町散策、堀が住みたいといった洋館は今も健在でした。

聖公教会から堀辰雄は竹中郁に外人墓地へ行ってみようと誘います。昭和7年の神戸の外国人墓地は春日野(中央区篭池通)にありましたので、そこからですとかなり歩かねばなりません。

写真は昭和35年に春日野から修法ヶ原に移された現在のの神戸市立外国人墓地です。
<私はそこでT君の方へふりかえりながら言った。「これから外人墓地へでも行ってみようか?」>
 しかし、竹中郁の記憶が確かでなく、二人は外人墓地とは方角違いの北野町の方へ上がってしまいます。
<そんな会話を交わしながら、いつの間にか私たちの歩いている山手のこのへんの異人屋敷はどれもこれも古色を帯びていて、なかなか情緒がある。大概の家の壁が草色に塗られ、それがほとんど一様に褪めかかっている。そうしてどれもこれもお揃いの鎧戸が、或るいはなかば開かれ、或いは閉ざされている。>

 

昨年神戸ゆかりの美術館で見た小松益喜の描いた異人館や、その図録を片手に歩いた北野町の風景を思い出していました。

<私は私で、こんなユトリロ好みの風景のうちに新鮮な喜びを見出している。こんな家に自分もこのまま半年ばかり落着いて暮らしてみたいもんだなあと空想したり、こういうところでその幼時を過したT君のことを羨ましがったりしながら、だんだん狭くなってくる坂を上ったり下りたりしているうちに、今度はT君の方が首をかしげだした。>


 若杉慧はこの30年後に竹中郁と「旅の絵」めぐりをして、堀が「こんな家に暮したい」と言った家が残っていたのを教えてもらい、「須磨・明石・六甲の旅」に書き残していました。
<「この家だよ、堀君がまじめな顔をしてこの家僕に貸してくれないかなあといって、しばらく立って眺めていたのは」竹中君もなつかしそうに言って立ち止まった。「この塀や門は改造しているが、屋根や鎧戸はむかしのままだ」>


 北野町のあたりは空襲も受けず神戸では戦前の風景が一番残った場所のようです。
<私は向かいの家のゴミ箱の上にあがり、電柱に体をすりよせて、カメラを二階の鎧戸のあたりに向けた。―こんな古風な窓をもった家はさすがもうこの一軒しかなかった。推理小説家が見たらさっそく材料に使うかもしれない。私は家の天然記念物にすればいいと思った。>


 堀が見てから30年後のその家の写真ですが、廃墟のようになりながらもよくぞ残っていたものです。

 ところでのこの写真は今から約50年前のこと、今日北野町に上り、嬉しい発見をしました。この家は現在個人所有となって、大切に住まれており、見事に復活していることがわかりました。

 

旧ハンター邸跡と萌黄の館.の丁度中間にあり、まさに「家の天然記念物」伝統的建造物に指定されていました。



若林慧
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ほう、きれいに残っているんですね。

[ akaru ] 2013/09/29 17:14:25 [ 削除 ] [ 通報 ]

ええ私も50年前(若林慧の写真は昭和38年のものです)の写真と見比べて、びっくりしました。私の写真はハンター邸に上る坂道の上から撮った写真ですが、天気も好くて綺麗にとれました。今住んでいる方は堀辰雄が住みたがった家だったとご存知だろうかと思ってしまいまいました。

[ seitaro ] 2013/09/29 20:55:19 [ 削除 ] [ 通報 ]

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堀辰雄「旅の絵」の聖公教会、小松益喜も描いていました。

これからは勘違いしないよう慎重に、西東三鬼のトアロードから更に十年遡った堀辰雄に戻ります。堀辰雄はトアロードを上がり、その後少し西に向かったようです。
<聖公教会の門のところに、まるで葡萄の房みたいに一塊りに、乞食どもがかたまっている。私たちがそれを不思議そうに見過ごしながら、それからすこし急な坂を上ってゆくと、今度は一軒の立派な花屋の前に、何台も何台も、綺麗な自動車ばかりがかたまっている。その時やっと教会と乞食と花とが私の頭のなかで唐草模様のように絡み合って、私に、今夜がクリスマス・イヴであるのを思い出させた。>


聖公教会は中山手6丁目に、1894年に造られ、1945年の神戸大空襲で焼失した教会で「オール・セント・チャーチ」とも呼ばれていました。
 若杉慧「須磨・明石・六甲の旅」で、若杉慧と竹中郁が三十年後に「旅の絵」めぐりをした時の会話にもあります。
<「オール・セント・チャーチも焼けてしまったな。神戸の絵描きの材料が一つ無くなったわけだ。もう建たないな。」「木造だったからひとたまりもなかったね」
「こちらへ来ても在りし日の古い物ばかり捜す様な目つきになって困るね。………もっとも僕という人間が多分に感傷的、回想的にできているせいもあるが」
「若い者はセント・チャーチもエソワイアンも知りゃあしないよ。知らないものには感傷も回想もない、古い皮が落ちて新しい皮ができるようなものさ」
「しかし一部の若い連中には、やはり古いもの、歴史的なものに対する敬意と、漠然たるあこがれといったものはあると思うな。………
そういうものをせめて忘れないことが大切なんだ。そういう意味で。田宮虎彦君と小松君が共著で出した「神戸」という本などはいい記念になると思うな。役人の記録や市史沿革などでは絶対果たせない仕事だよ」>
まったく同感です。

 その小松益喜、田宮虎彦共著「神戸」では、次のように説明されていました。
<戦火にかかって焼失した教会は、このオール・セント・チャーチだけだった。………
焼失したオール・セソト・チャーチも、信仰の対象とするにふさわしい美しい教会であった。三角のトンがり帽に四枚の鎧戸を持ち、その下の壁は、凡て素焼の橙色瓦で覆われていた。最前部は地味な色の赤煉瓦だった。庭には西洋の極楽花である爽竹桃が一面に咲き乱れていた。この教会の裏側一帯は華僑の住家だったし、教会の下には同文書院があった。>

 


戦災で焼失した元の教会の土地には、聖ミカエル保育園が建っています。


聖公教会は下山手通5丁目に「聖ミカエル大聖堂」として再建されたようです。



若杉慧
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昭和7年堀辰雄と竹中郁が歩いた神戸のトアロード

 「旅の絵」で英三番館を出た二人は南京町を抜け、トアロードを上がります。
<今では魚屋や八百屋ばかりになった狭苦しい南京町を肩をすり合せるようにして通り抜けたりしたのち、今度はひっそりした殆ど人気のない東亜通りを、東亜ホテルの方へ爪先きあがりに上った。その静かな通りには骨董店だの婦人洋服店だのが軒なみに並んでいる。ヒル・ファルマシイだとか、エレガントだとか云う店は毎年軽井沢に出張しているので私には懐しく、ちょっとその前を素通りしかねた。>

上の写真は現在のトアロードです。


東亜通りと呼ばれた頃の写真、左手にTOR BAKERYの看板が見えます。

この通りの突き当たりにあったのが東亜ホテルです。

航空写真で見ますと、トアロードがカーブすること所、現在は神戸外国倶楽部が見えます。


小松益喜も東亜ホテルを当然描いており、画文帖には次のような説明がありました。


<神戸の街で最も高い所にあったホテルで、1890年に造られたと礎石に書いてある。木造ペンキ塗り、しかも柱はすべてカドミウム・プルプルの真っ赤な柱であった。山本通りの東端から見えていて、緑青さびのドームの屋根に赤い柱がとてもきれいであったことをはっきり覚えている。………
 しかし、ここはアメリカ占領軍の将校夫人が電熱器のスイッチを切り忘れたことから消失してしまった。そして焼け残った鉄塔骨を取り壊すのに、塔全体に筵をはって爆破したことかをはっきりと覚えている。実に惜しい建物であった。>


 戦後まであった本当に惜しいこの建物、跡地には神戸外国倶楽部が移転してきました。


蛇足ではありますが、トアロードを下がっていく途中でHOTEL TOR ROADを見つけました。



旅の絵
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同じトアロードですが、西東三鬼にかかるともっといかがわしい雰囲気となってしまいます。西東の随筆は冬のももとして、NHKシリーズ人間模様の番組になったとあります。映像は公開されていませんが1970年代の神戸が写っているのでしょうか。

[ ふく ] 2013/09/22 12:53:52 [ 削除 ] [ 通報 ]

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若杉慧の「旅の絵めぐり」とシュークリームの思い出

頴田島一二郎著「カール・ユーハイム物語」で堀辰雄「旅の絵」の文学散歩をしている作品が紹介されていました。


<この堀辰雄の「旅の絵」の中にあるユーハイムの章に関しては、若杉慧著「須磨・明石・六甲の旅」のなかで、解説風に詳細に書いている。>と述べられており、早速この若杉慧の著作を図書館で借りてみました。
その著作の中の「『旅の絵めぐり』その一」という章は、次のように始まります。
<「もしもし竹中君……ぼくです、しばらく、……おとといこちらに来ました。ええ、ありがとう。ところできみこの二、三日ひまはありませんか」
 − あ、ちょうどいま神戸に出ようとしてるとこや、すこし買物があってね
「じゃあ会いましょう、……どこがいいです? きみの都合のいいところ」
 − どこでもいいが‥…じゃあユーハイムにしようか
 焼かれたあとのユーハイムは生田神社の西門前に移転新築していることをきいて、そこの二階に行って私は待った。>

何度移転したのでしょう。現在のユーハイム本店は元町商店街の中にありました。


店内には夫妻の写真などが飾られていました。


著者の若杉慧は竹中郁の親しい友人であったようで、昭和7年竹中郁の「象牙海岸」の出版記念会にも出席し、そこで堀辰雄とも出会っています。
頴田島一二郎は、若杉慧の著について次のように述べています。
<また、この著の中には、例のユーハイム店で出す灰皿の写真を載せ、それが、英国人ミッチェルの設計になる、神戸に最初に建った洋館であるという解説も載せている。
この著者は、この後「旅の絵」に描かれた神戸の町を文学散歩しているのだが、堀辰雄の、クリスマス・イヴのユーハイムの章を読むと、まるで、自分がそこにいて、店の奥から、その霧のような雨を見ているような気になるといっている。>
本当にそのような感覚におちいります。
 さて若杉慧は後年、ユーハイムの灰皿に対しての思い出として次のような私信をユーハイム店に寄せたそうです。


<「私はその頃月給八十円か九十円の学校教師であったので、ユーハイムの前を通っても、これは西洋人の店くらいにしか思っていなかった。ここに入ったのは、数年後、私に恋人が、出来てからである。その恋人というのは、言えば神戸での上流階級の奥さんだったので、シュークリームはユーハイムが一番おいしいからと誘ってくれて、私がシュークリームという菓子を食ったのは生まれて初めてであった。私が三十二か三、恋人が三十位であった。それから何度かこの店にきた。私が灰皿を見て、なつかしい、と思うのは、そのせいもある。」>

ユーハイムのシュークリームと灰皿の思い出、
なんとも危ういお話が暴露されていました。

古川緑波も「神戸」で戦後のユーハイムについて、次のように述べていました。

<生田神社の西隣りに、ユーハイムがある。歴史も古き、ユーハイムである。無論、元は場所が違った。もっと海に近い方にあったのだが、戦後、此方へ店を出した。神戸といえば、洋菓子といえば、ユーハイム、と言った位、古く売り込んだ店である。今回行って、コーヒーを飲み、その味、実によし、と思った。>

多くの作家、画家に愛されたユーハイムです。

 



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『カール・ユーハイム物語』は宮崎翁が頴田島さんに書かせたものです。

[ akaru ] 2013/09/16 23:24:21 [ 削除 ] [ 通報 ]

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堀辰雄が昭和7年のクリスマス・イヴに立ち寄った神戸のユーハイム

 堀辰雄「旅の絵」には昭和初期のモダニズムの風景が、いくつも描かれています。そのひとつが独乙菓子屋ユーハイムでした。
 <夕方、私たちは下町のユウハイムという古びた独乙菓子屋の、奥まった大きなストーブに体を温めながら、ほっと一息ついていた。其処には私たちの他に、もう一組、片隅の長椅子に独乙人らしい一対の男女が並んで凭りかかりながら、そうしてときどきお互の顔をしげしげと見合いながら、無言のまんま菓子を突っついているきりだった。その店の奥がこんなにもひっそりとしているのに引きかえ、店先は、入れ代り立ち代りせわしそうに這入ってきては、どっさり菓子を買って、それから再びせわしそうに出てゆく、大部分は外人の客たちで、目まぐるしいくらいであった。それも大抵五円とか十円とかいう金額らしいので、私は少しばかり呆気にとられてその光景を見ていた。それほど、私はともすると今夜がクリスマス・イヴであるのを忘れがちだったのだ。>
 場所は神戸市生田区三宮町1丁目309番地。

横浜市中区山下町のE・ユーハイムのお店が関東大震災でつぶれ、神戸に移ってきたのでした。
「ユーハイム物語」によると、ユーハイム氏に「それなら、この家でお店を開きなさいよ」と勧めたのは、驚いたことにバレリーナのアンナ・パブロバ夫人とのこと。


<「そんな、貴女。店を持つにも持たぬにも現在の私は無一文ですよ。とても、出来る話ではない。」「いいえ、何でもいいからやるのですよ。やれば出来るものです。ぜひおやりなさい。」この会話が、神戸の「ユーハイム」が出来る、そもそもになったのだ。………
 家主はチェックさん。名前はドイツ式だがフランス人で、奥さんは日本人。娘さんのポーリング・チェックは三階にタップ・ダンスの教授場を開いていた。>
 英国人ミッチェルの設計によるこの建物は、神戸に建った洋館の最初のものだったそうです。
堀辰雄「旅の絵」に戻ります。
<やがて若い独乙人夫婦は、めいめい大きな包をかかえながら、この店を出て行った。JUCHHEIMと金箔で横文字の描いてある硝子戸を押し上げて、五六段ある石段を下りて行きながら、男がさあと蝙蝠傘をひらくのが見えた。私は一瞬間、そとには雪でも振りだしているのではないか知らと思った。ここにこうしてぼんやりストーブに温まっていると、いかにもそんな感じがして来てならなかったが、静かに降りだしているのは霧のような雨らしかった。>
まるで映画のワンシーンのような描き方です。


当時の神戸の街は現在よりはるかに外国人が多く住む国際都市で、ユーハイム店頭の写真はモダニズムを象徴するかのようです。よく見ると階段は三段だったようです。



ユーハイム物語
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堀辰雄が神戸で「プルースト論」を買ったのは英三番館のThompson商会

 昭和7年12月神戸を訪れた堀辰雄は、竹中郁と歩いた街の様子を描いています。 二人は仏蘭西料理店ヴェルネ・クラブで昼食を食べた後、メリケン波止場に向かい、その後鯉川筋を上がり、途中の薬屋に立ち寄ります・
<海岸通りの何とかいう薬屋のショオウィンドを覗いたら、パイプやなんかと一緒に五六冊、英吉利語の本が陳列されてあった。そのなかにふと海豚叢書の「プルウスト」を見つけたので、ゆうべの読みづらかったハイネの詩集を思い出しながら、その薬屋のなかへ這入ってその小さな本を買った。T君の話では、この店にはときどき随筆物で面白い本が来るのだそうだ。>
 この時堀が買った本は、Londonで1931年(昭和6年)に出版されたDolphin BooksのProustのようです。

この初版本ネット上では、Discounted price US $600.00として販売されていました。当時堀はいくらで買ったのでしょう。
 さて、この薬屋について、竹中郁は「消えゆく幻燈」で詳しく説明しています。
<堀君がドルフィン叢書の「プルースト論」を買った店は英三番の「トムスン」という薬屋であり本屋であり食料品屋であり、二階造りのそのまま絵になるような、間口六間くらいの店であった。メリケン波止場から市背の山を正面にみて、やがて現在の大丸百貨店がみえようというところの左側、現在の住友銀行のところがそうであった。表口に三段位の石階があって、観音開きのドアを押すと仕掛けの鈴が鳴った。奥からのそりと小柄なイギリス人のトムスンさんが出てきて、じつは達者な日本語(それも土着の神戸弁)で応対した。>


英三番館は海岸通りの神戸郵船ビルから少し上がった角にありました。
<絵になると書いたのは、実は友人の小松益喜君がこの家にほれこんで、真正面からの構図を大作小作とりまぜてし四五枚は描いたのをみてもわかる。石階の両側は幅広いセメント壁。それを白ペンキで塗り上げて、扱う英商品のいろいろを代赭の文字でまるですだれのように描いてある。石階のうえにあたる壁には大ぶりにトムスンと横一文字に強く人目をひく。こうして、その姿は小松画集に色刷りになって、今日のこった。>

 色刷りではありませんが、英三番館の絵の写真が、田宮虎彦、小松益喜共著の「神戸 我が幼き日の…」に収められていました。

小松益喜は次のように解説しています。
<この建物は西町にあった。コンクリートの壁に書かれた文字が、風雨にさらされて消えかかったり、よごれたり、下の方が次第に濃くなっていたのが面白かった。ここは毎年一作づつ八年間、違った構図で描き続けた。………>
 このお店、川西英の神戸百景の版画にもありました。


1936年の作品で、「西洋薬種店 Western drugstore」とされ、次のような説明がありました。
<鯉川筋栄町廻り角、南より西側タムソン商会。薬種や喫煙具や洋書を売っていた。タムソン氏亡き後、グリフィス氏が主人であった。………私が生まれるより前から日本に居るので日本語も達者。ユーモアに富んでいた。袴をはいて仕舞も習い茶道も心得ている。>
画家達を魅了したThompson商会でした。カタカナはどう書けばいいのでしょう。トンプソン、トムスン、タムソン、タムスン?



消えゆく幻燈
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ベケットがプルーストについて何を書いているのか、と思ったら翻訳もあるようですが、ベケット(難解)もプルースト(長編だったりして)もそれぞれに簡単に読めそうではなさそうです。戦前の神戸、西東三鬼の『神戸 続神戸 俳愚伝』は読まれましたか? たぶん学生時代に読んだと思いますので、何も残っていませんが、戦時中の神戸、どこかのホテルに滞在していた話しが書かれていたと思います。

[ ふく ] 2013/09/14 11:35:18 [ 削除 ] [ 通報 ]

堀のプルウスト雑記はこの後で書かれたのでしょうか?

[ ふく ] 2013/09/14 12:36:53 [ 削除 ] [ 通報 ]

西東三鬼の『神戸 続神戸 俳愚伝』、ずいぶん前に目を通したことはあるのですが、面白そうなのでもう一度読んでみます。堀辰雄「プルウスト雑記」青空文庫にありましたので読んでみました。http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/47962_34295.html
昭和7年7月7日の作品で、「旅の絵」は昭和7年12月24日の出来事ですから、堀がベケットのプルーストを買ったのは「プルースト雑記」の後でした。当時プルーストに関する本が次々出版されていたとも述べられていました。

[ seitaro ] 2013/09/14 18:05:03 [ 削除 ] [ 通報 ]

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堀辰雄と竹中郁が訪れた仏蘭西料理店ヴェルネ・クラブ

 神戸で初めての朝をHOTEL ESSOYANでむかえた堀辰雄、正午ごろ約束通り竹中郁が街の案内に来ました。
<正午ごろ、T君が私を誘いに来てくれた。それから二人でホテルを出ると、一時間ばかり古本屋だの古道具店だのをひやかしたのち、海岸通りのヴェルネ・クラブに行った。しゃれた仏蘭西料理店だ。>
 当時の海岸通りのヴェルネ・クラブの絵を小松益喜が描いていました。昭和61年にさんちかホールで開催された小松益喜(絵画)展の図録にも掲載されています。

図録には小松益喜の解説がそれぞれの絵に付け加えられています。

昭和のはじめ、神戸にはこんなに洒落たフランス料理店があったのです。

ヴェルネ・クラブには、
<もと三越の南側にあったうまい店である。よく小磯良平氏につれっていってもらった。フランス人の、デップリ太った叔父さんと、小磯氏はフランス語で親しそうに話していた。>

ヴェルネ・クラブは元町商店街の西端にあった三越(昭和59年に閉店)の南側にあったそうです。

現在の航空写真では元町商店街のアーケードの屋根があり、その西端に三越とヴェルネ・クラブがありました。現在はマンションになてしまったようです。


 店内が外国人ばかりだったことや、ヴェルネ氏の客応対の様子が「旅の絵」にも描かれていました。
<そこの客は大概外国人ばかりだった。私たちが一隅の卓で殻つきの牡蠣を食っていると、兎の耳のようにケープの襟を立てた、美しい、小柄な、仏蘭西女らしいのが店先きにつと現われて、ボオイをつかまえ、大事そうに両手でかかえている風呂敷包を示しながら、何やら片言まじりの日本語で喋舌っている。………
それと入れちがいにその料理店の主人らしいのが出てきて、仏蘭西語で愛想よく一人一人に挨拶をしながら客たちの間を通り抜けて、その婦人の方へ近寄っていった。>
 ヴェルネ・クラブはその後、大丸の南側にあった十五銀行の地下に移転しますが、古川緑波もよく訪れたようで、「甘話休題」の中の「神戸」で次のように紹介していました。


<三の宮から元町の方へ歩いて行くと、僕の眼は、十五銀行の方を見ないわけには行かない。もうそこには、今は無いのだが、ヴェルネクラブが、あったからである。十五銀行の地下に、仏人ヴェルネさんの経営する、ヴェルネクラブがあった。僕が、そこを覚えたのは、もう二十年近くも以前のことだろう。それから戦争で閉鎖となり、又終戦後一度復活したのだが、又閉店して、今は同じ名前だが、キャバレーになってしまった。
 ヴェルネクラブの、安くてうまい洋食は、先ずそのランチに始まった。むかしランチは確か一円だったと思う。それでスープと軽いものと、重いものと二皿だった。それは、此の辺に勤めている外国人、日本人の喜ぶところで、毎日の昼食の繁盛は、大変なものだった。>

 ヴェルネクラブよほど評判だったらしく、有名な画家や文化人が訪れたようです。
堀と竹中好みのいかにも洒落たレストラン、二人はそこでマカロニイやら何やらを食べて、店を出て、すぐ近くの波止場の方へ足を向けます。



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ろっぱさんの本、以前に読みました。食べることが至福の方にとって、地獄の時代といいましょうか。なんかものすごく悲しい内容だったという印象があります。こういう本を読むにつけ、戦争だけは止めて欲しいと思います。

[ ふく ] 2013/09/09 23:38:01 [ 削除 ] [ 通報 ]

多分悲食記ですね。この本まだ読めていませんが、食のこだわりが強くて、面白い作品のようです。ろっぱさん、コメディアンかと思いましたが、すごい才能です。

[ seitaro ] 2013/09/10 20:03:17 [ 削除 ] [ 通報 ]

Seitaroさま 昔、材木町(古いですね。西麻布です)にあった、菊田一夫氏の?と言われた元宝塚の故 浦島千歌子さんのお好み焼き屋さんで、ご子息(古川清)氏にお目にかかったことがあります。よく似ていらっしゃいました。昨年も文学座公演を観劇にいらしているのを拝見しました。
そういえば、三島由紀夫の本を書かれた古典芸能にお詳しいユニークな岩下尚史氏、ロッパ氏に似ていると思いますが。。

[ ロックウェル ] 2013/09/11 1:24:00 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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