阪急沿線文学散歩

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佐藤愛子が甲南女学校時代に見た冬の香櫨園浜の風景

 昭和のはじめの少女時代に鳴尾に住まれ、鳴尾小学校(赤矢印)、甲南女学校に通われた佐藤愛子さん。


 もう93歳になられたそうで、『それでもこの世は悪くなかった』 (文春新書)とう新書が1月に出版されています。


 彼女が甲南女学校3年の昭和12年の冬に、友人と阪神香櫨園駅から香櫨園の浜まで歩いた様子が、『愛子』に描かれていました。

<それは冬休みが始まった日の、午後のことだった。わたしたち −わたしと山川よし子は、夙川に沿って歩いていた。夙川は水が涸れ、川底の石は白かった。山川よし子は学校の、きまりの紺のオーバーを着、紺の毛糸の手袋をしていた。わたしは制服の上に、レンガ色のセーターを着て、スカートのポケットに、手を入れて歩いていた。わたしの心は真面目で静かだった。真面目になると私は感傷的になる。わたしは十二月の、雪もよいの空を見上げながら、低い声で呟くようにいった。「海が鳴ってるね」>

上の図は昭和11年の吉田初三郎による西宮市鳥瞰図ですが、佐藤愛子が歩いた昭和12年12月には既に夙川公園も竣工しており、遊歩道が整備されていました。海鳴りが聞こえるほど川口に近づいたようです。

<川は海へつながるところへきても、白く涸れたままだった。波はいつも同じ、壊れたボートがひっくり返っているところまで、静かに流れ入ってきて、不思議なほど正確にそこで止まった。わたしたちは、涸れた川口にかかっている、たよりない渡し板を撓ませながら渡った。そして戸を閉した貸しボート屋の、戸袋のかげに倒れている絵看板の上に坐った。
 山川よし子はわたしのために、そこにいつものように用意している風呂敷を敷いてくれた。わたしがしゃべっている間、彼女は黙っていた。それが癖の、軽く下唇を噛み、水平線の方を見ていた。>

上の絵は大石輝一による昭和7年の夏の香櫨園浜の様子です。

 次にこの浜辺から見える光景が描かれていました。
<わたしたちの前には、いつもわたしたちが見慣れた、同じ光景があった。水平線の右よりに、雨雲のように低く淡路島が横たわっていた。海の色は暗く、砂浜は白茶けていた。そして更に遠く、海岸線の外れに見える製鉄工場の四本の大煙突から、今日も真直ぐに太い黒い煙が立ち上がっていた。わたしは黙ったまま、それらを見た。わたしたちが黙ると、急に思い出したように、海の底から重々しい力強い響きが甦ってくるようだった。>

昔は夙川の川口まで来ると水平線と淡路島が見えたのです。

海岸線の外れに見える製鉄所の四本煙突とは、小松益喜が描いている葺合に在った川崎製鉄の平炉工場の五本煙突のことでしょう。
私の生まれる前の景色ですが、不思議に懐かしく感じます。

昭和20年の夏、野坂昭如は夙川の川口で同じ水平線を眺めていたのです。



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佐藤愛子「失われゆくふるさと」最後はパン屋のおばさんとの再会シーン

『これが佐藤愛子だ』の「「失われゆくふるさと」最後の部分です。
<私のふるさとは、もはや思い出の中にしかないのである。それとても一年一年、私が老い行くに従って、遠ざかりかき消えていくのであろう。そうしていつか私の子を連れてこの地へ来て、「昔はここを路面電車が走ってたらしいのよ」などという。そんな形でしか、この地を語れるものはいなくなってしまうであろう。>


 阪神国道を走る路面電車は国道電車と呼ばれ、遠藤周作の小説にも登場します。
甲子園球場の前を通る支線は、阪神電鉄の甲子園線でしたが、現在は廃線となりバスが走っています。


<野球場の近くに、野球見物の人のための飲食店が並んでいる。そこはもと、小さな公園風の静かな人気の無い通り道だった。そこに飲食店が立ち並んだのは、プロ野球の興隆と、競輪のためなのであろう。>

 甲子園競輪は廃止されましたが、現在も飲食店が立ち並んでいます。


 直木賞はじめ数々の文学賞を受賞されている佐藤愛子さん。さすが「失われゆくふるさと」の最後の文章は感動的です。
<その中の一軒の店に「甲子園」という飲食店がある。その女主人は私が幼い頃に近所のパン屋であった「しみず」のおばさんである。
 ある年の夏、私はその店の前を通り、殆んど四十年ぶりでおばさんと会った。おばさんは店先でコカコーラを売っていたが、私が声をかけるより早く、私をみつけ、一蹴ポカンと口を開けてから叫んだ。「まあ佐藤さんのお嬢ちゃん!」
 私は十歳の少女に立ち返り、「おばさん!」と絶句した。そのとき私は、ふるさとはここにそっくりそのまま残っていた、と思った。私の眼に涙が溢れた。>
 あまりにも感動的に終わっているので、作り話かとも思いましたが、佐藤愛子さんが甲子園に住まれていた時代の、家の配置図を見ると、甲子園駅から東側に阪神電鉄本線に沿って商店街があります。そこに清水のパン屋さんが書き込まれていました。


「甲子園」という飲食店は現地で見つけることができませんでしたが、きっと実話だったのでしょう。



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はじめまして。「甲子園」という飲食店は2006年10月まで実在していました。写真の日吉食堂の隣で今では歯抜けになっているところです。パン屋のおばさんと言うのは私の祖母です。昔の地図のパン屋と言うのは戦前営んでいた食料品店のことで、今でもほぼ同じ場所に伯母が住んでいます。祖母は10数年前に他界しました。

[ NS ] 2016/11/03 22:46:15 [ 削除 ] [ 通報 ]

ちなみに、1073年に毎朝放送された「ポーラテレビ小説 愛子」のオープニングで、佐藤愛子さんと祖母が再会するシーン(ともに本人)が流れていました。

[ NS ] 2016/11/03 22:48:10 [ 削除 ] [ 通報 ]

NSさん、ブログ読ませていただきました。
佐藤愛子さんの身近にいた方のお話をお聞き出来て嬉しく思っております。ありがとうございました。

[ seitaro ] 2016/11/03 23:33:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

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佐藤愛子さんの思い出のえびす焼き、水族館、甲子園浜。

『これが佐藤愛子だ』からです。
<たっぷり道草をくうために甲子園より二駅西の西宮駅でわざわざ下車し、市場で饅頭を買って用意している。私たちはプラタナスの下を海へ向って歩いた。誰もいない砂浜に坐って用意の饅頭を食べたこともあるし、水族館の中で魚を見ながら食べたこともある。
 真冬の水族館には人っ子ひとりいなかった。骨まで染み透るような寒さだった。しかし、そこでどんな魚を見たか、私は覚えていない。>


 佐藤愛子さんが甲南女学校時代に阪神西宮駅でわざわざ下車して買った饅頭とは、きっとえびす焼きのことでしょう。

 今でも中央商店街に残っており、小松商店と書かれています。
震災で商店街の様子も変わってしまいましたが、子供の頃はたしか、エビスヤと呼んでいたような気がします。


 坐った砂浜は、香櫨園海水浴場か甲子園海水浴場だったのでしょう。

水族館は阪神パークに付随してあった阪神水族館のようです。

 

鳥瞰図で見ると、浜甲子園の駅前にあったようです。

 

 次は昭和50年頃のお話のようです。
<今はもう私は海へ行くのが怖ろしい。海はあまりにも無残な姿と成り果てた。白砂青松と謳われた瀬戸内海の海を、ふるさとを離れてからの私は、どんなに人に自慢して語ったことだったろう。「あの海岸は、こんな、関東の海岸みたいな、黒い、汚い、ゴロゴロ石の海岸やないのよ」私は何度もいった。
「波の穏やかさが関東とちがう……それに遠浅で……」
だが今は海はもう、なくなってしまった。そこは荒々しいコンクリートの防波堤がつづいているばかりで、浪は黒く濁り、油やゴミを浮かべて悪臭を放っている。>
 現在は阪神高速湾岸線が視界を遮っていますが、水質は少し回復してきています。


 甲子園浜海浜公園として、一部に自然の砂浜・干潟・磯が残されています。


でも佐藤愛子さんが見た白砂青松の風景は復活することはないでしょう



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私は西宮ブログ(旧:西宮流ブログ)参加の初期に、
『かつて西宮にもBEACHがあった』と書きました。
昭和36,7年に舞鶴から移って来た頃にはもう西宮も芦屋も泳いだりできるところではなくなっていました。
それでもあの頃見たかすかな記憶の海は今よりも何百倍も海らしかったし海岸らしかった。私が中学生になった1972年頃にはもう、「海」ではなく「海水のある場所」でしかなくなっていました。砂浜を埋め尽くし建造物を隙間無く並べ、ほんのほんの少し元の状態をまるで盆栽のように(取ってつけたように)残しておいて、ほれ海でござい・海浜公園でございと言われても余計なことせんでええという気持にしかなれないです。

[ せいさん ] 2015/07/25 21:31:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

私もそう思います。

[ seitaro ] 2015/07/26 7:30:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

東京駅を起点にして15分なら大井町ぐらいで、海は遥か彼方にあります。しかし大阪から15分の西宮には、まだ自然のビーチ(甲子園浜と御前浜)が残っているだけでもよかったのではと私は思っています。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2015/07/26 16:53:10 [ 削除 ] [ 通報 ]

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甲子園球場の大鉄傘が取り外された日(佐藤愛子「失われゆくふるさと」)

 昭和50年頃、佐藤愛子さんがふるさと鳴尾を訪ねて回想されています。
<小学校の前を太い脚に支えられた高速道路が通っている。国道四十三号線というのだそうだ。それは鳴尾村の真ん中を突っ切り、甲子園野球場の前を通って神戸へ向っている。
 何もかも変わってしまった。変わらないものといえば、甲子園球場の蔦の緑くらいなものだ。甲子園球場の自慢の大鉄傘が取り外された日のことを私は覚えている。>

 

現在の甲子園球場です。

 

「グラフにしのみや」に甲子園球場の傍を通る開通当時の国道43号線の写真がありました。

 小松左京は戦時中、今津宝津町に住んでいましたが、小説『歌う女』で、主人公茂木の実家がこの国道43号線の下になってしまったと、佐藤愛子さんが見たのと同じような、現代の光景を次のように描いています。
<私たち一家が、戦時中うつりすみ、戦後もしばらく半焼けを修復して住んでいた家のあったあたりは、もちろんこの巨大な国道の下になってしまい、家の近所のたたずまいなどもあとかたもない。>

 

『これが佐藤愛子だ』に戻りましょう。
< それは戦争が負け戦になりはじめた頃のことだ。大鉄傘は取り去られ、兵器になるのだった。私の近くの家でも鉄の門扉を供出させられた家があった。私の家では青銅の門燈の笠を供出した。私の暗澹とした青春時代はそのへんから始まっていたのだ。>

大鉄傘の無くなった甲子園球場の写真がありました。


<甲子園の駅の前の、阪神電車の創設者だという羽織袴の老紳士の銅像もいつか姿を消し、御影石の台座が陰気な冬の日を浴びて鈍く光っていた。十二月、私は一度、見合いをしたきりの男のところへ嫁いだのである。>


 阪神電鉄初代社長の外山脩造翁銅像は、鳴尾村鳥瞰図を見ると、甲子園球場の北側正面にあったようです。

 台座くらいは残されているのではないかと探してみましたが、跡形もありません。

 かわって、外山脩造がアサヒビールの前身となる大阪麦酒会社を設立したことによるものか、アサヒの缶ビールの塔が立っていましたが位置は違うようです。


 佐藤愛子さんは昭和18年、最初の夫とお見合い結婚し、甲子園の実家を離れ、岐阜県に移りました。
 



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佐藤愛子 | コメント( 4 ) | トラックバック( 0)

お久しぶりです。鳴尾の記事を懐かしく思いながら拝見しております。子供のころ銅像の台座跡でよく遊びましたが知らない内に無くなってしまいましたね。1975年の航空写真には写っていますが、1880年の航空写真に姿がないので、解体はその間なんでしょう。

[ Z探偵団 ] 2015/07/22 0:03:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

Z探偵団さんありがとうございます。昭和50年頃までは、御影石の台座は残っていたのですか。そこで佐藤愛子さんがよく遊んでいたという記述もありました。阪神甲子園駅も新しくなり、駅前の風景もかなり変わりました。

[ seitaro ] 2015/07/22 7:31:39 [ 削除 ] [ 通報 ]

外山脩造翁銅像の位置ですが、甲子園球場と阪神甲子園駅の間にあるショップアルプスの北側です。今はバスの降車専用エリアですが、あそこに噴水とともにありました。おっしゃる通り、昭和50年ごろまで存在していましたが、その後数年間、住宅展示場になり後に現在のようなバス停留所に変わりました。

[ NS ] 2016/11/03 22:54:05 [ 削除 ] [ 通報 ]

NSさん、よくわかりました。また今度行ってみます。

[ seitaro ] 2016/11/03 23:34:53 [ 削除 ] [ 通報 ]

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鳴尾の苺畑と鳴尾小学校(『これが佐藤愛子だ』より)

 鳴尾が苺の一大産地となったのは、明治40年の競馬場建設で、工事のため収穫できなかったイチゴ苗が村内の農家に配られ、それとともに栽培方法が広まったことからといわれています。


 当時の苺畑の様子を佐藤愛子さんは『これが佐藤愛子だ』で詳しく述べられています。
<かつて鳴尾は苺の名産地として有名であった。村の大半は苺畑で、私たちの住んでいた西畑という村の外れのその集落を出外れると、もう苺畑がひろがっているのだった。小学校のまわりも苺畑だった。鎮守のお宮も苺畑の中にあった。苺畑の中を阪神電車が風を切って走っていた。見はるかす苺畑の東の果は武庫川の土堤の松林が蜿蜒と海に向って延びているのだった。「苺狩り」という言葉を私は覚えている。大阪や神戸から、子供連れの人々が苺狩りにやって来たのだ。苺の種類には。「大正」とか「トックリ」とかいうのがあった。>

 

 昭和9年の絵図を見ると、鳴尾競馬場の北側は一面苺畑だったようです。佐藤愛子さんはその苺畑の中を鳴尾小学校に通われたそうです。


<その苺狩りの話を今、私が娘にすると、娘はいう。
「畑の苺を取るの?なぜそんなことが面白いの?」なぜと聞かれて私は返事に窮する。「ともかく面白かったのよ」そういうしかない。手の長い丸い籠に苺を入れ、その上を苺の葉で蔽い、葉の上に苺の絵のついたシールをかぶせて籠の蓋をのせる。それを下げた人たちが三々五々、帰って行く。それは初夏の夕暮れの風景だった。苺の匂いが村中にたちこめて、私はその甘酸っぱい夕暮を、なぜか幼な心にもの悲しく想うのだった。>

 写真の女性が手に持つ竹で編んだ丸い籠を使っていたようです。


 鳴尾イチゴの全盛期は昭和9年になって突然終わりを告げます。9月21日の室戸台風の影響で阪神電鉄本線以南の全域が水に浸かり、イチゴ畑の約半分が被害を受けたそうです。
 その後は戦時体制に移行することにより、多くの畑が川西航空機の工場として買収され、残された土地も少食量増産に利用されることになりました。確かに昭和11年の吉田初三郎の鳥瞰図には苺畑は描かれていません。
<だが、その苺畑も今は影も形もなくなった。どこもかしこも、ぎっしりと家が詰まっている。その頃、小学校の校舎が壮大に見えたのは、周囲も広く、空も高かったためであろう。今、鳴尾小学校は私の思い出の中の小学校の、半分の大きさになってしまったように見える。人が老いると、小さく痩せ縮まって行くように。>

 佐藤愛子さんの通われた鳴尾尋常小学校の落成当時のモダンな校舎の写真がありました。

本当に大きく立派に見えます。鳴尾村の財政は当時は裕福だったのでしょう。

 


昭和11年の吉田初三郎の西宮市鳥瞰図にも鳴尾尋常小学校の立派な校舎が描かれていました。

 

 



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私は小松小学校に1966〜1972年3月まで在籍しましたが、既に郷土史としての鳴尾のイチゴは全く教えてもらいませんでした。
鳴尾のイチゴについて知ったのは中学生になってからです。

[ せいさん ] 2015/07/20 13:29:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

小学校では、西宮の暮らしとか兵庫県の暮らしといった教科書がありましたが、私も習ったことは有りませんでした。鳴尾苺について知ったのは、成人してからでした。もう少し小学校や中学校で近世の暮らしについても教えてくれれば、楽しい授業になれうと思いますが。

[ seitaro ] 2015/07/20 20:17:19 [ 削除 ] [ 通報 ]

私はここに書かれている鳴尾小学校出身で、この校舎で過ごしました。書かれているとおり、鳴尾村は川西航空機の工場と、現在の武庫川学院の中高の校舎あたり、鳴尾競馬場跡に日本軍が空港を作ったこともあり、軍需産業で潤った村でした。こういう背景もあり、鳴尾村が隣接市との合併が遅かった理由の1つになっていると聞いています

[ NS ] 2016/11/03 23:01:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

NSさん、佐藤愛子さんのお話で、西宮というより、鳴尾に愛着があると述べられていたのが印象的でした。

[ seitaro ] 2016/11/03 23:38:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

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佐藤愛子さんが甲子園に移ったときの、最初の西畑の家

 佐藤愛子さんは大正15年から昭和8年までは、阪神甲子園駅のすぐそばの武庫郡鳴尾村西畑(現在は甲子園七番町)に住んでいました。

『これが佐藤愛子だ』で次のように説明されています。
<私の育った家は阪神電車の甲子園駅の、駅から二、三分のところにあった。大阪から阪神電車で帰って来ると、車掌が、「こーしえーん、こーしえーん」と眠たげな声をはり上げるあたりから、青く盛り上がった松林が見え、その松林の松よりも高く、私の家の三階が見えたものだった。その三階は二階の上にチョコンと乗っかったチャチな三階であったが、それでも私には、その家はほかのどの家よりも金持ちらしい、立派な家に見えたのである。>

写真を見ると、大きな白壁の土蔵もある立派な家でした。

 

 西宮市立図書館だより「まつぼっくり」に佐藤愛子さんが10歳まで住んでいた西畑の家の見取り図が掲載されていました。ただ松林の土手の位置から考えて、南北方向は逆です。また「チョコンと乗ったチャチな三階」は書かれていませんでした。

 

 現在も甲子園駅バス停の東側に、その松林の土手はわずかながら残っています。

 

<だがその三階建ての家も今はない。その周りの家々と共に、空襲により焼失してしまった。その界隈は今、昔を偲ぶよすがもない。コマゴマした新しい家並みが建ち並んでいるが、私の家のあったところは、小さな公園のようなものになっている。私が訪れた昨年の秋、夕暮れの秋風の中で、小さなスベリ台がひとつ、夕陽を受けて立っていた。>
 小さな公園とは、昔の地名が残された西畑公園でした。

 

航空写真で見ると甲子園駅の南西方向に残された松林と、佐藤紅緑邸のあった西畑公園の位置がわかります。(赤印)

 


現在の西畑公園です。何か佐藤紅緑や愛子さんの記念碑でもあればいいのですが。西宮市はいたって無頓着です。



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さっき大学交流センターにおじゃましましたが、8月22日のチラシ、見当たりませんでした。
配布は、まだなんでしょうか?

[ 373 ] 2015/07/19 17:47:46 [ 削除 ] [ 通報 ]

373さん私もまだ連絡をいただいてないので、わかっておりません。西宮文化振興財団の後援がいただけましたので、中央図書館、支所に置かれると伺っております。今週中には配布されると思いますので、しばらくお待ち願います。

[ seitaro ] 2015/07/19 18:05:52 [ 削除 ] [ 通報 ]

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失われゆくふるさと「鳴尾」(『これが佐藤愛子だ』)

 佐藤愛子さんは満2歳の時、帝塚山から鳴尾に移り、高等女学校卒業まで鳴尾に暮されていました。

 

 その頃の様子は、自著『女優万里子』、『愛子』などにも述べられていますが、『これが佐藤愛子だ』にも「失われゆくふるさと」と題して、その思い出を詳しく語られています。

<私のふるさとは兵庫県の「鳴尾」である。私がそこにいた頃は「武庫郡鳴尾村字西畑」といった。だが今はそこは西宮市という。鳴尾が西宮市という名称に変わってから、そこは私のふるさとではなくなってしまった。>


昭和12年の武庫郡鳴尾村全図です。


 

<人からふるさとはどちらですか、と問われると、私は「なるおというところです」と答えてしまう。それから気がついて、「今は西宮市といっているらしいですが」とつけ加える。はじめから、「西宮です」と答えたことがないのは、西宮市となった鳴尾には、もうふるさとの面影がなくなってしまったからである。>

 

 佐藤愛子さんがふるさと「鳴尾」を離れたのは最初の夫とお見合い結婚した昭和18年12月のことでした。鳴尾村が西宮市になったのは戦後昭和26年になってのこと。合併先として西宮市か尼崎市かを選ぶ住民投票が行われ、西宮が選択されたそうです。


 佐藤さんがふるさとは「西宮です」と答えられないのは、穿った見方かもしれませんが、西宮には多くのゆかりの作家や作品が存在するにもかかわらず、それらを大切にして来なかった西宮市の文化行政にあったのではないでしょうか。
しばらく佐藤愛子さんのふるさと鳴尾を歩いてみます。



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私が育った小松地域はかつてからギリギリ鳴尾村であったかと思います。実は実家が物理的に存在しなくなった今の私には、鳴尾村だった地域との具体的な繋がりがなくなってしまいました。
鳴尾歩き、楽しみにしています。

[ せいさん ] 2015/07/17 20:29:30 [ 削除 ] [ 通報 ]

せいさんありがとうございます。今回新たに読ませていただいた、西宮市鳴尾区有財産管理委員会編集の「鳴尾村誌1889-1951」は大作で、佐藤愛子さんや森茂久弥さんのインタビューもあり、昔の鳴尾村について、理解深めることができました。またご紹介いたします。

[ seitaro ] 2015/07/17 21:51:28 [ 削除 ] [ 通報 ]

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甲南女学校の佐藤愛子が歩いた夙川と香櫨園浜、そしてカメする灘中の遠藤周作

 小説「愛子」でも夙川を歩く情景が描かれています。


写真は夙川にかかる昔の香櫨園駅です。
<それは冬休みが始まった日の、午後のことだった。わたしたち −わたしと山川よし子は、夙川に沿って歩いていた。夙川は水が涸れ、川底の石は白かった。山川よし子は学校の、きまりの紺のオーバーを着、紺の毛糸の手袋をしていた。わたしは制服の上に、レンガ色のセーターを着て、スカートのポケットに、手を入れて歩いていた。わたしの心は真面目で静かだった。真面目になると、わたしはは感傷的になる。わたしは十二月の、雪もよいの空を見上げながら、低い声で呟くようにいった。「海が鳴っているね」>

現在の夙川オアシスロードを浜辺まで歩いたのでしょう。
<川は海へつながるところへきても、白く涸れたままだった。波はいつも同じ、壊れたボートがひっくり返っているところまで、静かに流れ入ってきて、不思議なほど正確にそこで止まった。わたしたちは、涸れた川口にかかっている、たよりない渡し板を撓ませながら渡った。そして戸を閉した貸しボート屋の、戸袋のかげに倒れている絵看板の上に坐った。>
二人の視界には大きな海原が広がっていたことでしょう。

大石輝一の描いたボート小屋が見える昭和7年「真夏の香櫨園浜」


 今や夙川の河口は大きく変わり、目の前は人工島ができ視界は開けません。(右手は回生病院)


私が子供の頃は、まだ山本二三が描いた大阪湾を臨む広々とした香櫨園浜の景色でした。

昨年の夙川河口で、回生病院を前にした土井豊講師のフィールド・ツアーの様子です。(今年12月7日にも、カトリック夙川教会で「遠藤周作とカトリック夙川教会」と題し、講演されるそうです。)

 

現在の夙川河口と山本二三の描いた夙川河口です。このあたりに貸しボート屋があったようです。

 

 

 さて一方、遠藤周作は「私の履歴書」で灘中で机を並べていた親友楠本憲吉氏と甲南女学校の女の子のあとをつけて行ったと述べています。
<姉上が部屋から出て行かれると私たちは再び灘中に近い甲南女学校の女の子たちの話を続けた。私たちは当時、彼女たちを尾行することを、「カメする」と言っていたが、その言葉は童話の兎と亀との話から生まれたのである。今の少年と違い、男女共学ではなく、女の子とデイトするなど不可能だった我々は、ただ甲南女学校の女の子達のあとを距離をとってついていくだけで、それ以上、何もできなかった。>
 この話は遠藤周作「口笛を吹く時」にも出てきて、平目と小津は国道電車の芦屋川停留所で何日も待ち続け、ついに東愛子ら三人のセーラー服が降りてきたのを見つけ、カメするのです。
 小説「愛子」では女学校での「エス」のお話は出てきますが、周りをうろつく男子などには目もくれなかった佐藤愛子と、女学生のあとを一生懸命ついていった遠藤周作。
ああ思春期の男女の何という感性の違いでしょう。



口笛を吹くとき
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佐藤愛子著「女優万里子」、「愛子」より甲子園の新しい家

 甲子園五番町(実際は二番町)の新しい家については「女優万里子」にも、「愛子」にも詳しく述べられています。まず「女優万里子」からです。
<ある日、母は私にいった。「もうこんな家に住むのはやめや!もっとええ家を建てよう!」「ええ家てどんな家」と私は気乗りせぬ声でいった。私はその古い三階建ての家を愛していたから。「そらええ家よ!」母は熱っぽい口調でいった。>

新しい家に引っ越したのは愛子9歳の時でしたから、「『血脈』と私」の表紙の写真は西畑(甲子園七番町)の古い家の庭での写真のようです。
「子供部屋は二階で、あんたらはベッドで寝るんやよ」とまで言われてもなかなか愛子は賛成しませんでしたが、その後母の説得にすっかり洗脳された様です。小説「愛子」からです。
<わたしたちはどんなに長い間、この新しい家のことを夢み、語りあい、そこに住む日のことを思い描いたことだったろう。母はいつのまにかわたしたちにまで、長い間の母の夢を吹き込んでいたのだ。母は長い間かかって土地を探し、更に何ヶ月もかかって、自分で設計図を引き、一年近い月日を費やして、漸く新しい家が建ち上がったのだった。>
あの三階建ての家がとても気に入っていた愛子ですが、引っ越した後は忘れてしまったかのようです。
<新しい家の新しい朝は、まるで物語の中の朝のように、静かに美しく訪れてきた。緑色のカーテンを漉してくる朝の光は、白い壁に囲まれたベッドの周りの空間を、ぼんやりした優しい薄緑で満たし、私は水底に沈んで眠っている、私の身体を夢うつつに思い描きながら、ああ、朝がきたのだな、とぼんやり思う。> 

昭和8年のことですが、まるでテンピュールかトゥルースリーパーの宣伝のようです。
<「あなたちは、もうめいめいのベッドルームを持っているんですからね。」私は母の、そんな言葉を思い出す。ベッドルーム!それは英語だ!そしてこの絵のような朝の目覚めに、その言葉はふさわしいと思う。>

 新しい家の場所は甲子園二番町、国道2号線からは昔は枝川だった340号線を甲子園球場に向かって下ったところであり、当時阪神電鉄が土地開発したところでした。


上の航空写真で見ると、340号線から通りをひとつ入った四角い土地区画で、

神戸新聞文化部編「名作を歩く」でも、

<小説で五番町となっているその屋敷跡は、大邸宅が立ち並ぶ甲子園二番町の角地。二メートルを超える石垣が残り、今も威容を誇るが、当時の建物は既になく、代ってある企業の寮として鉄筋三階の近代建築が建つ。>

と書かれています。
<新しい家。それは母に舞台を捨てさせた父の、せめてもの償いであったかもしれない。父はその家を建てること一切を母に委ねた。土地の選定も家屋の設計も経費の見積もりもすべてを。その新しい家が立つ土地は、私たちの住居のある西畑から松林沿いに上に上がって行った同じ土堤の、松林を切り開いたところである。>

この旧佐藤紅緑邸は、現在訪ねてみると上の写真のように広大な敷地の石垣は残っています。
「女優万里子」でも新しい家は次のように描かれています。
<家の南は苺畑が連なり、その広がりの向うに武庫川の堤が真横に緑の筋を引いていた。庭には三つの築山があり、中庭は苔と竹林でなり立っている。夏は武庫川の堤から苺畑を渡って来る南風が前庭から中庭へと吹き通るその十二畳の大座敷が父の書斎で、………>


 広大な旧紅緑邸の石垣から東の方には武庫川の堤が見えていました。


 今回の佐藤紅緑邸を訪ねるにあたっては、西宮芦屋研究所員さんに案内いただき、資料なども見せていただきました。大変お世話になり、あらためてお礼申し上げます。



佐藤紅緑邸
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佐藤愛子の甲子園の三階建ての家から青い海が見えた?

新しい家に引っ越した後に甲子園の土堤の松林に立った佐藤愛子の回想が「愛子」で述べられています。甲南高等女学校に入学したてのころです。


<わたしがあの古い家の前に立ち止まったのは、丁度そんなある日のことだった。………
 わたしは新しい女学校の制服を着ていた。胸に雪を型どった校章をつけ、黒い靴下をはいていた。家の西側を海へ続いている、あの高い土提の松林の中に私は立っていた。私の目の下には、壊れかけた忍び返しのついた、黒ずんだ長い土塀があった。>
 描かれているのは、佐藤愛子が以前住んでいた空き家の家を土提の上から見るシーンですが、現在も甲子園駅南側に土提の名残りと松林があります。佐藤愛子はこのあたりに立っていたのでしょうか。

<− うちの三階からは、海がみえるんよ、青い青い海が −
突然、わたしは思い出した。それはわたしたちが、この家をすてて新しい家へ行く、あの引越しの頃のことであった。ある日、わたしは誰にも見つからぬように、一人でそっと、三階への細い階段を上がった。わたしは三階から見えると信じていた、あの青い海を見るつもりだったのだ。>


大石輝一が描いた、その頃の真夏の香櫨園浜です。


<そしてわたしは見たのだった。長い間、わたしが夢見ていた青い海 − 大きなまん丸の、動かない黄色い太陽、塗りこめたような青い波、小さな白い舟 −
だがしかし、それは海であったろうか。わたしの目の下には、くろぐろとうねりながら
南へ向かっている松林があった。松林に沿って白く光っている一筋の流れがあった。………
家々の向うに、かすかな青みがかった田畑が拡がっていた。そしてその田畑の向うに、わたしが見たもの − ああそれは海だったろうか。>


現在は上の図のように海岸の埋め立てが進み、さらに高速道路、ビルが視界を遮っています。

 

当時の甲子園住宅経営地案内鳥瞰図を見ると大阪湾が描かれています。

甲子園球場がなければ図の下に描かれえている阪神電鉄初代社長外山脩造の銅像の頭の位置から見えそうです。
佐藤愛子の三階建ての家から本当に海が見えていたのでしょうか。


それともお転婆な愛子は松の上からの眺めを記憶していたのでしょうか。



佐藤紅緑邸
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佐藤愛子さん、現在どうされているのでしょうか。wikiの年表はなぜか母上が亡くなった1978年で終了しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/佐藤愛子_(作家)

[ ふく ] 2013/08/26 12:29:23 [ 削除 ] [ 通報 ]

大正13年に武庫川が現在のように整備されていますので、佐藤愛子がいたころは既に川ではなかったのだと思います。川がなくなってもあった松林はいつ頃伐採されたのでしょうと思いました。

[ ふく ] 2013/08/26 12:38:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

古い写真を見ると、甲子園駅から海が見えていましたので見えていただろうと思います。当時は南側は苺畑で、更に南は戦時中は空港だたので、見通しは良かったはずです。昔父からもそういう話を聞きました。あの堤は枝川の支川である「申川」の堤で、申川はほぼ甲子園筋がその川筋です。大正時代に廃川となった一帯を阪神電鉄が買い取り、球場をはじめとする開発が始まりました。なお、あの松林は甲子園アルカス建設前まではかなり残っていました。

[ NS ] 2016/11/03 23:21:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

NSさんまた鳴尾の昔のことなど詳しいコメントをいただければ幸いです。西宮ブログに引っ越してこられませんか。

[ seitaro ] 2016/11/03 23:41:51 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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