阪急沿線文学散歩

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わが神戸 金星台(竹中郁『私のびっくり箱』より)

 神戸を愛した文学者の一人、竹中郁の随筆集『私のびっくり箱』の「わが神戸 金星台」からです。


<この神戸が好きで動かないのは、私一人だけではない。私の中学生の時代からの相棒の、画家の小磯良平がそうだ。東は西宮市背から西は須磨の浦一の谷の合戦場あたりへまでつづく六甲山系の、前は大阪湾を一望にみはるかし、紀伊水道や淡路島を指呼できる風土。山の水は清く冷たく、しかもおいしく、山海の獲ものは鮮しく、水害以外は災害なしとくると、誰しもがこの地に腰を据えたくなろうというものだ。>


金星台への上り口です。竹中郁はこの道をよく登ったのでしょう。


<金星台というのは、県庁のうしろに当る諏訪山という小丘。まあ海抜八十メートルくらいにある展望台だ。今は自動車でもう一段高いところへできた展望台(この方は英語でヴィナス台)へゆく人が多いが、明治大正にかけては、この金星台の方が手軽に歩いて短時間の散策にもってこいだったので、大いに人気があったものだ。
 ここからの眺望は低い丘にかかわらず、眺望の角度が広く、東にも南にも西にも広がり伸びる町並みを見てとれる。>


 私も神戸の街並みを眺めたいときは、ヴィーナスブリッジからその上の諏訪山公園の展望台まで、一気に登るのが常で、これまで金星台にゆっくり留まったことはありませんでした。
<明治初期にフランス人がこの諏訪山で金星を観測した記念の石碑は、今日無疵でのこっている。その簡素な和洋混淆の美しい姿は、昨今人気の的の木造異人館よりも、端的に西欧文化を吸収していった明治人間の気風を象徴しているようにみえる。>

 

 明治7年12月、金星の太陽面通過が起こり、日本は全ての過程を日中に見ることが出来る観測適地となり、諏訪山での観測が見事に成功したそうです。


(写真は石碑の横の説明文で、当時の観測の様子の写真です)

円柱状の石碑の表面にはフランス語で、裏面には日本語で「金星過日測檢之處」と刻まれています。

 

表面の最上部には太陽面を通過する金星とその経路を示した図が描かれていました。このみごとな円柱の石碑はは生田神社の折れた鳥居の一部を使われたそうです。

 

 竹中郁が、<小説家の陳舜臣は神戸生まれ神戸育ちで、なまじっかな神戸人よりも神戸にそそぐ愛情はふかい。>と称している、陳舜臣氏も『神戸ものがたり』で金星台について詳しく述べられています。


<金星台観測記念碑のうしろがすこし高くなっているが、そこへ登ってみよう。そこにもう一つ、記念碑がある。「海軍営之碑」という。


神戸に幕府の海軍操練所がおかれたのは、1863年であった。総督となったのが、軍艦奉行並の勝海舟である。オランダから購入した蒸気軍艦スンピン号あらため観光丸、それに黒竜丸などを練習艦として、海軍の人材を養成した。碑文は勝海舟の筆で、日付は元治元(1864)年十月八日、その上部に「海軍営之碑」と横書きされたてん額は、「公爵徳川家達君之書」とあり、のちに刻んだものである。碑文によれば
文久三年四月二十三日、大君(十四代将軍家茂)が「火輪船」を駕して摂播海浜を巡覧し、神戸に至ったとき、その地形を相して、臣義邦(海舟)に命じて海軍営の基をつくらしめた。
とある。
碑面の最後に「軍艦奉行安房守物部義邦撰」と海舟の名が刻まれている。物部氏は栄光の古代武門である。>

右側が海舟が建てた海軍営之碑。左側は大正4年11月、男爵目加田種太郎による銘文(漢文)の刻まれた碑です。




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「評伝竹中郁」に描かれた関西学院「原田の森」

 足立巻一著 「評伝竹中郁 その青春と詩の出発」の第五章 関西学院に

足立巻一氏と竹中郁氏が学ばれた「原田の森」の風景が詳しく書かれていました。


<いま、関西学院は西宮市上ヶ原一番町の広大な校地に新制中学から大学院までをつらねる学園となっているが、竹中が在学していたころは、神戸東端の山手、上筒井通りにあり、「原田の森」といわれていた。敷地のすぐ南に原田神社があり、一帯に森が深く茂っていたからである。
 竹中が卒業した昭和二年、わたしは入れ代わりに中学部に入学した。それで、そのころの学院の光景はよく記憶している。神戸市電の山手線は上筒井で終点となり、そのすぐそばに大阪・宝塚に通じる阪急電車の始発駅の鉄傘がある。>
 当時は阪急は上筒井まででしたが、この情景がそのまま小金丸勝次氏のイラスト「原田乃森 関学時代…思ひ出の地図」として残されています。

 


< その駅のあたりから、もう学院の正門が見通せ、道の両側には学生相手の店屋が並んでいる。‘アカデミー’というバー、‘満月’というしるこ屋、‘助六豆’が売り物の菓子屋、‘東京庵’‘ハイカラ堂’という食べ物屋が山側(北側)につづき、浜側(南側)には学生靴を一手に売る店や‘立花’という学帽屋、‘山根’‘大高’という学生服専門店などがならんでいる。>
イラストにはすべてのお店が描かれており、原田の森から上ヶ原に移されたハミル館も描かれています。


<石の門を入ると、学院は植物の緑に包まれている。ポプラ・ヒマラヤ杉・サクラが多く、そのとりあわせが英国の風景を思わせる。その木立のなかに、チャペルや神学部・高商部・文学部・中学部の赤いレンガの校舎がそれぞれ独立して散らばり、いつも紺亜サージの学生たちが光りのように動いている。>


イラストや写真を見ると、阪神間モダニズムそのもの、素晴らしいキャンパスが広がっており、どうして引っ越す必要があったのかと思ってしまいます。


 現在はブランチ・メモリアル・チャペルが神戸文学館として残っている他は全て無くなり跡地は王子動物園になっています。

 昨年は丁度今頃神戸文学館の田辺聖子展「おせいさんの神戸交遊録」が開催されていました。
 ところで「評伝竹中郁」の「あとがきに代えて」のページに著者の書が掲載されています。その書は数奇な運命をたどり、2011年の喫茶輪の詩書展に飾られていたとのこと。今はどこにあるのでしょう。
http://akaru.mo-blog.jp/akarublog/2011/10/post_6478.html



ブランチ・メモリアル・チャペル
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竹中郁 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

なぜでしょう、今ごろこの記事を読ませて頂きました。
足立先生の「泉よ 光れ あなたの双の瞳に」は今もうちの店に飾っています。

[ akaru ] 2015/12/21 11:29:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

評伝竹中郁はもう一度ゆっくり読んでみたいと思っております。

[ seitaro ] 2015/12/22 20:03:08 [ 削除 ] [ 通報 ]

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現代詩人竹中郁作詞の校歌 VS. 新体詩人薄田泣菫作詞の校歌

 堀辰雄の「旅の絵」で神戸の街を案内した友人の竹中郁について調べていると、<戦後は、詩作とともに雑誌「きりん」の創刊編集、多数の校歌作詞など、児童詩の分野での指導育成に尽力した>とのこと。

Wikipediaには西宮市の竹中郁作詞の校歌として、平木小学校、広田小学校、大社小学校、甲陽学院のうたが挙げられていました。

 我が母校大社小学校の校歌は竹中郁作詞だと初めて知ったのですが、小松左京には散々に書かれていました。


 小松左京は大社小学校に入学し、一年生の二学期になると安井小学校に転校しました。小松左京「威風堂々うかれ昭和史」の「校歌」からです。
<校歌は安井小学校のほうが、メロディも歌詞も、はるかによかった。>
<大社小出身者には悪いけど、まったくと言っていいほどおぼえていない。それに比べれば、安井小学校校歌は。メロディも優美だったが、なにしろ、歌詞があの薄田泣菫作だったからね。>
 薄田泣菫作詞となると、現在の小学生に理解できるのかと不安になりましたが、今も歌われているようです。西宮市内の各小学校のホームぺ−ジを調べてみました。確かに安井小学校ホームページには
<開校当時校歌はなく、昭和10年講堂の落成を機に作られた。当時、校区の分銅町に居住され、詩壇の第一人者であられた薄田泣菫氏に作詞を依頼、作曲は大阪音楽校長永井幸次先生によるものである。>と解説がありました。
 分銅町二十三番地が、薄田泣菫の旧居雑草園の跡で、訪ねると板塀は今も残っていました。


安井小学校校歌一番の歌詞は
 大空高く 太陽の
 光あふるる 西宮
 ここなる大き 学園に
 学ぶ我らは野の若木
 若き木なればすくすくと
 培われつつ 伸びゆかん


さすが小松左京が自慢するだけのことはあります。
 歴史ある夙川小学校も同じく、作詞:薄田 泣菫  作曲:永井 幸次によるものでした。


 一方、竹中郁が作詞した小学校校歌には、春風小学校、津門小学校、瓦木小学校がありました。
春風小学校の一番の歌詞は 
風はわれらをよびさます
さめよ さめよと よびさます
世界の響きこもる風
われらはそよぐ そよぐ そよぐ
空にひかありをなげあげて
山のこだまをよびだして
薄田泣菫にも負けない歌詞だと思うのですが、問題の我が母校大社小学校の校歌、ホームページを見ると歌詞と楽譜は掲載されていますが、作詞、作曲者名が掲載されていません。

丘はひかりにみちみちて
こころをつつむあたたかさ 
六甲山の上の雲
よごれぬ生命  いまそだつ
大きく  空に胸を張る
われらは大社
われらは大社  大社小学校

 
 私にとっては慣れ親しんだいい歌詞なのですが、薄田泣菫、竹中郁の作詞した校歌を読むと、コマーシャルソングのように学校名を繰り返す歌詞はひとつもありません。Wikiには竹中郁作詞と書かれていますが、現在の大社小学校校歌の作詞者は竹中郁とは違うのではないでしょうか。
 今回市内各小学校のホームページを調べてわかったのは、校歌を掲載していない小学校があることと、大社小学校は作詞、作曲者名を掲載していないことでした。
小学校の校歌は卒業生にとって懐かしいもので大切にして頂きたいと思います。



威風堂々うかれ昭和史
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竹中郁 | コメント( 4 ) | トラックバック( 0)

古い話しの為、記憶に間違いが有るかも知れません・・・
昭和39年か40年頃、鳴尾中学校で竹中郁さんの講演がありました?
全く知らない人の講演だったら、記憶に残っていませんが、、
竹中さんは関西のテレビトーク番組?にレギュラーとして出演されていて、やや鼻に掛った独特な喋り口調を覚えていたので、あぁテレビに出ている人が来てるんだぁ〜とわかりました。(講演の話の内容は全く覚えていません)
校長の紹介は、鳴中の校歌を作詞された方ですと間違って聞いている始末!恐らく西宮の学校の校歌を沢山作詞された人と紹介したのでは?後で調べましたが、鳴尾中校歌の作詞は中山建男でした。私の記憶に残っている郁さんが、seitaroさんの記事の郁さんと同一人物なのかも定かではありません・・・

[ Z探偵団 ] 2013/09/11 21:57:28 [ 削除 ] [ 通報 ]

そんなことがあったのですか。校歌に関係するのは竹中郁さんに間違いないのではないでしょうか。
薄田泣菫の立派な校歌をこれから守っていく小学校は大変そうです。

[ seitaro ] 2013/09/11 22:12:07 [ 削除 ] [ 通報 ]


「きりん」は、僕にとっても、小学生時代の懐かしい思い出の一こまでもありました。

 竹中郁さんや富田砕花さんは、県下の校歌作りに、随分と寄与されていますね。

[ shiratori ] 2013/09/12 11:35:40 [ 削除 ] [ 通報 ]

足立巻一(けんいち)先生は、生前「竹中郁の校歌、社歌集を作る」と仰っていましたが、果たせずにお亡くなりになりました。残念でした。
「KOBECCO]11月号の原稿を今書いているのですが、竹中郁さんを取り上げました。

[ akaru ] 2013/09/12 22:35:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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