阪急沿線文学散歩

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山本通の神戸女学院の移転後にできた富士ホテルと西東三鬼

 モダンな感性を持つ俳句で新興俳句運動の中心人物の一人として活躍した西東三鬼は昭和18年から昭和23年まで、山本通りの洋館に住んでいましたが、同じ通りに富士ホテルがありました。

(写真は昭和22年に山口誓子と「天狼」を創刊した西東三鬼)

 山本通の神戸女学院が西宮の岡田山に移転後、理化学館は解体されず、「富士ホテル」となっていたのです。

(写真は山本通にあった神戸女学院理学館)

 西東三鬼は、昭和13年ごろその富士ホテルに泊まったことを『続神戸』で明かしています。
<そのフジホテルに、私は、戦争以前に泊まったことがある。昭和13年頃だろう、私は、東京で若い娘と恋愛中であった。すでに五年越しで、プラトニックという種類のものであった。>

写真は富士ホテルとなった理学館。門柱に富士ホテルという表札がかけられている。

 ダンディな西東三鬼ですから、女性関係も華やかだったようです。
<私達は三カ月ぶりに、東京ではない神戸で逢って、静かなフジホテルに泊まることになった。すでに、全国には「訓練空襲」がはしまっていて、ホテルの露台から見下ろす、町の燈火は消えていた。秋の夜の虫たちが鳴き競い、水のような月光がしたたっていた。>

富士ホテルのパンフレットです。

 現在は神港学園となっており、「神戸女学院発祥の地」の石碑が残されています。


 地図を見ると背後に諏訪山公園があるのがおわかりと思いますが、当時そこに動物園がありました。

<突然、頭の上の諏訪山動物園のライオンが咆哮した。私達はそれぞれ別室に退き、清浄な一夜を送った。
 訓練空襲しかし月夜の指を愛す
 神戸の獅子の咆えたり別れ寝るホテル
などが、その夜の俳句である。>

 諏訪山動物園は昭和3年、諏訪山公園内に開園しました。

写真は川西英『神戸百景』の諏訪山動物園。

 現在は遊具広場「子供の園」となっていますが、動物園の頃の名残が見られます。

戦後、諏訪動物園は閉園となり、飼われていた動物は昭和26年に開園した王子動物園に引き取られたそうです。

 富士ホテルについては敗戦後、占領物件として進駐軍の将校宿舎用に接収されました。
当時近くの洋館(三鬼館)に住んでいた西東三鬼は、兵隊たちとの交流を『続神戸』に書いています。

<さて、軍政部宿舎となったフジホテルには、二百人程の兵隊が来た。進駐後一週間位のある日、門に立っていた私に、二人の兵隊が「ビーヤビーヤ」といいながら、栓を抜いてラッパ呑みのしぐさをしてみせた。>
 その後、昭和21年10月にはオリエンタルホテルが経営を請け負ったそうですが、残念ながら現在は残っていません。




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西東三鬼が住んだ山本通りの異人館を訪ねる

 モダンな感性を持つ俳句で新興俳句運動の中心人物の一人として活躍した西東三鬼は昭和17年、妻子を東京に置いて単身で神戸に移住、しばらくトーア・アパートメント・ホテルで過ごします。翌年、のちに「三鬼館」と呼ばれることになる西洋館(生田区山本通)に住まいを移しました。

 彼の著書『神戸』の第六話で昭和18年の夏にホテルを引き払ったことが書かれています。
<私達はぞの翌日、ホテルを引き払って、山の手の家へ引越したのである。その家は、明治初年に建てられた異人館で、ペンキはボロボロ、床はブカブカしていたが、各室二十畳敷位の、ガンガラガンとした部屋ばかりであった。この家には若い画家一家が住んでいたのだが、私が引越してから間もなく、彼は徴用になって工場の社宅へ移ったので、私は僅かの家具を買い取って、その家の借主になった。戦後、この西洋化物屋敷を、三鬼館と命名したのは誰であるか知らないが、来訪した次の諸先生の中の一人に違いないのである。>

その西洋化物屋敷のスケッチが、大高弘達編著『西東三鬼の世界』に掲載されていました。
三鬼館は、二回の神戸大空襲にもかかわらず焼け残りました。

 宮崎修二朗『ひょうご文学歳時記』で、次のように「白い館」として戦後も残っていたことが記されています。
<神戸の俳人たちが“三鬼館”と呼んだその洋館は、相楽園山側の道の東北部に今も残っていました。当時そこをしばしば訪れた俳人橋詰沙尋さんは当時を回想します。「貧乏でもダンデーで、美食家で、およそ迎合やへつらいのない精神的貴族でした。あの洋館、今は白く塗り替えられ改装されて往時の面影はありませんね。」その“白い館”の前で、ふと思いだした一句がありました。>

安藤安美著『神戸異人館』に“白い異人館”の絵がありました。
昭和50年前後の絵のようですが、かつては一戸立ちであったものを改造し、三世帯が住めるようにされ、当初の面影はかなり損なわれていると書かれていました。

 現在はどうなっているかと行ってみました。神港学園高校の東側の黄色く着色した場所にありましたが、まったくあたりの風景は変わり、異人館などありません。

この神港学園の建物の1ブロック先にありました。

左手の石垣は、最初のイラストに描かれた三鬼邸の隣家の石垣の名残ではないでしょうか。

西東三鬼の『神戸』に戻ります。

三鬼館の前に立つ西東三鬼です。
<私は近辺の人に習って、花壇をつぶして野菜を作った。水洗便所の水槽の鉄蓋を開け、隣家の露人ワシコフ氏、仏人ブルム氏の分も流れ込んだ濁水を汲み出して、大切に肥料にした。大きな防空壕も前庭に作った。>

このフランス人ブルム氏の館は、昭和44年に取り壊しが計画されましたが、幸いにして明治村に移設され、「神戸山手西洋人住居」 として残っていました。


三鬼館も残っていればよかったのですが。



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西東三鬼「神戸・続神戸・俳愚伝」の舞台トーア・アパートメント・ホテル

 堀辰雄の「旅の絵」にでてきたのはトアロードと東亜ホテルですが、同じトアロードに面したホテルを舞台にした作品がありました。

昭和17年に東京からトアロードに面したホテルに移り住み、そこでの経験を描いたのが西東三鬼「神戸」でした。俳人で歯科医だった西東三鬼、この頃の作家は皆女性関係が複雑です。冒頭は次のように始まります。
<昭和十七年の冬、私は単身、東京の何もかもから脱走した。そしてある日の夕方、神戸の坂道を下りていた。………
神戸の中央、山から海へ一直線に下りるトーアロード(その頃の外国語排斥から東亜道路と呼ばれていた。)の中途に、芝居の建物のように朱色に塗られたそのホテルがあった。私はその後、空襲が始まるまで、そのホテルの長期滞在客であったが、同居の人々も、根が生えたようにそのホテルに居座っていた。彼、あるいは彼女等の国籍は、日本が十二人、白系ロシア女一人、トルコタタール夫婦一組、エジプト男一人、台湾男一人、朝鮮女一人であった。>
 このホテルの正式名称はトーア・アパートメント・ホテル、堀辰雄が泊まったホテルエソワイアンもそうでしたが、当時の神戸の雰囲気そのもの、外国人客の多い国際ホテルだったようです。

 西東三鬼は神戸では歯科医をやめ、貿易業を営んでいたようです。あとがきに、三谷明が「ボヘミアン三鬼」と題して、そのホテルの三鬼の部屋を訪れた時の様子を述べていました。
<私にとって、神戸ははじめての土地だったが、三鬼はハガキに略図を書いて送ってくれていた。それでその略図を手に持ちながら、三宮駅から生田神社の前を通り、まっすぐ行くとトーアロードに突き当たる。それからちょっと右へ行くと、その朱色の奇妙な建物はすぐ目に入った。三鬼は、薄暗い、そしてあまり広くないロビーに待っていてくれて、「よう来たな」と言うと、そのまま二階へ連れて行った。二階のトーアロードに面した二部屋を借りているとかで、私の案内された部屋には洋服ダンスと鏡台が壁際に並んで置かれていて、一緒に住んでいる女性がいるなということが、それを見ただけですぐわかった。その女性、つまり「神戸」第二話の波子なる女性がコーヒーを淹れて現れたのは、それから間もなくのことだった。>
西東三鬼も「神戸」第三話で、その二階の窓からの風景について述べています。


<そのホテルの私の部屋は、トーアロードに面した二階の二部屋であった。トーアロードは、神戸の中央を、山から海へ横断するなだらかな坂道である。………
私の仕事といえば、朱色に塗られたホテルの窓に頬杖をついて、ぼんやり往来を見下ろすことであった。そういえば私の何かがつまっているような耳に、時々、遠くの方から歓声のごときものが聞こえた。それは坂の下の方で、トーアロードを横切る汽車に、ハチ切れる程に詰め込まれた兵隊の揚げる声であった。>
昭和17年のことですから、既に太平洋戦争が始まり、出征の場面だったのでしょう。
 北野町の萌黄の館(小林家住宅・旧シャープ邸)の二階からの景色を昨年撮影していました。

 

昔の景色はもう少し風情があったのでしょう。

 

 三鬼は空襲の危険をさけるために翌年には、ホテルを出て、山本通り四丁目の古い洋館に移りました。その洋館は三鬼館と名付けられたそうです。

 さて三鬼の滞在したトアロードの奇妙なホテルは、三鬼が去った降雨のように焼夷弾を浴びて炎上し、灰になったということです。

 

(トアロードの突き当たりにあった東亜ホテルは空襲を免れたのですが、戦後失火により焼失してしまいました。)


 



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西東の滞在していたのはトアロード沿いのようですが、東亜ホテルではなく、もっと下の方の規模の小さい別のホテルだと思って読んでいました。

[ ふく ] 2013/09/23 1:38:25 [ 削除 ] [ 通報 ]

大失敗です。その通りでした。「戦前の神戸ではナンバー3の高級ホテルだったとのこと」という説明を読み、東亜ホテルと思い込んでしまったのが大間違い。よく読めば空襲で焼けたことや、トアロードの途中にあったとのこと。プロなら大変なことでした。お詫びして本文も修正いたします。

[ seitaro ] 2013/09/23 6:11:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

深夜に目が覚めて気づいきました。最近twitterにリンクされて、お読みになる方がひろがっていますので、気になりかきこみました。

[ ふく ] 2013/09/23 7:57:37 [ 削除 ] [ 通報 ]

このような内容で炎上はないと思いますが、twitterは炎上させることによって、収入が得られるようなこともあるようですので、ちょっと恐いです。mixiやfacebookはクローズしてしまえばほぼ知り合いに限定してしか情報閲覧できません。西宮ブログも検索語に気をつかえば、ヒットしないようにできます。twitterの場合はそうはいきません。地域にかかわるネタで個人の情報もふんだんに含まれておりますので、読むだけなら殆ど気付かれませんが、twitterとリンクさせた発信には慎重になってしまいます。

[ ふく ] 2013/09/23 9:50:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

上の書き込みが不適切で書き込めないと何度も表示がでました。どの言葉かわからず困りましたが、どうやら「個人 情報」のようです。「風 俗」もそうでしたが、二つ見つけました。

[ ふく ] 2013/09/23 9:51:17 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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