阪急沿線文学散歩

サブURL(このURLからもアクセスできます):http://nishinomiya.areablog.jp/bungakusanpo

小川洋子原作・映画『薬指の標本』映像化された標本づくり名場面

 小川洋子原作の『薬指の標本』はフランスの女性映画監督ディアーヌ・ベルトランにより、原作に忠実に映像化されています。

 これまで紹介できていない標本にまつわる名場面をまとめました。原作をお読みの方は、想像した場面と比べてみてください。
 まずわたしが何でもいいから一つ標本を見せてもらえないだろうかと弟子丸氏に頼んで、標本技術室から持って来たきのこの標本です。

<「これが標本ですか」わたしはつぶやいた。「そうです。このきのこを持って来たのは、十六歳くらいの女の子でした。彼女は石けんの空箱に脱脂綿を敷いて、その中にきのこを三つ並べていました。一目見て、標本にするのなら急がなければ、と思いました。既に乾燥と腐食が始まっていたからです」弟子丸氏もわたしも、試験管を見つめていた。>

次に楽譜を持って来た女性。

<「特殊すぎるなんてことはありません。安心してください。これなら、二日くらいで完成しますよ」「でも、わたしがお願いしたいのは、楽譜そのものではなく、そこに記されている音楽、音楽なんです」>

309号室婦人に楽譜を見せ、ピアノで弾いてもらえないだろうかと頼みます。

<いよいよ演奏が始まる段になって、ここのもう一人に住人、223号室婦人も招待されることになった。彼女は元交換手で、今は毎日部屋に閉じこもって手芸ばかりしている、親切なおばあさんだった。>

<それは不思議な曲だった。依頼人はビロードで身体を包むような優しい曲……と言ったが、わたしにはもっと複雑で乾いた感じに聞こえた。>

<弟子丸氏は楽譜を筒状に丸め、試験管の中にしまい、コルクで栓をした。それから『26-F30774』番のシールをコルクに貼り、依頼人の望む音の標本は完成した。>

きのこの標本を頼んだ少女が二つ目の標本を作ってもらいにやって来ます。

<雨の降る朝、一人の少女がやってきた。長い髪を後ろで一つに束ね、オーソドックスなデザインのワンピースを着ていた。彼女は傘の先からこぼれ落ちる雨のしずくを気にしながら、受付室のドアを開けた。>

その少女が頼んだのは彼女の頬にあるやけどの跡でした。

<彼女の頬には火傷の跡があった。でも決して、ひどいものではない。模様の入ったベールの切れ端が被さっているような、目立たない、淡い火傷だった。その傷跡を透かして、彼女の頬の白さが見えてきそうなくらいだった。>
原作通りの頬の火傷の跡でした。

次に文鳥の骨を持って来たおじいさん。

<「何ですか、これは」わたしは聞いた。「文鳥の骨さ」しわがれた声でおじいさんは答えた。「十年近く一緒に暮らしたんだが、おととい死んでしまった。老衰だ。しょうがねえな、寿命だから。火葬にしてやったんだ。残ったのが、この骨だ」>

おじいさん私が履いている靴に気付きます。五十年も靴磨きをしているおじいさんからの忠告です。

<「でも一つ、忠告しとく。いくらはき心地がいいからって、四六時中その靴に足を突っ込むのは、よくないと思うよ」「なぜですか?」「あまりにも、お嬢さんの足に合いすぎてるからさ。外から見ただけでも、怖いくらいだ。ずれがなさすぎるんだよ。靴と足の境目が、ほとんど消えかかっているじゃないか。靴が足を侵し始めてる証拠だよ」>

そして冬になっておじさんおじいさんの所へ靴を磨いてもらいに行きます。

<「おー、やっぱり思ったとおりだ」台の上にのったわたしの足を見て、おじいさんはうなった。「これは並みの靴じゃない。前よりも一段と浸食が進んでいる」「本当ですか」>

火傷の少女の姿が見えなくなり、標本保管室をくまなくまわる場面です。

<部屋番号をさかのぼればさかのぼるほど、引き出しのつまみも、試験管のシールも、標本も、中にこもった空気も、古くなっていった。キャビネットの間を歩くと、降り積もっていた時間が粉雪のようにふわふわと、足下から舞い上がってくる気がした。>


そして最後にわたしが薬指を標本にしてもらいに、標本技術室の扉を開けます。

ディアーヌ・ベルトラン監督は、見事に小川洋子さんの『薬指の標本』の世界を解読し、小川ワールドを映像化してくれました。


 主演のわたし(イリス)を演ずるオルガ・キュリレンコも美しく、弟子丸氏(標本技術士)役のマルク・バルベの演技も素晴らしいものでした。
最後にもう一度小川洋子さんの言葉を添えておきます。





goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11654405c.html
小川洋子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

フランス映画『薬指の標本』で和文タイプライタ―活字盤に代わる小道具は?

 小川洋子さんの『薬指の標本』で、標本名を打つのに使う和文タイプライターの点検に業者が来て、活字盤が取り外され、机の上に置かれます。わたしがそれを元に戻そうとした時、
<それを抱えたままタイプの方に一歩踏み出した時、視界の中を弟子丸氏の足が横切り、わたしはつまずいて活字盤を落としてしまった。活字が一本残らず床に散らばった。>
という小説では一つの重要な場面となっています。

しかし、フランスでは、当然仏語の電動タイプライター。

さすがに和文タイプライターは使われませんから、映画化にあたってどうするのか思っていると、何と東洋文化を象徴する麻雀パイが登場しました。

中国人が赤い布に包まれた麻雀パイを持ち込みます。



 それを棚に置こうとした時、落として床一面に散らばる場面ですが、原作の和文タイプライターの活字盤が散らばるシーンを、麻雀パイを用いて映像で見事に再現しています。


原作では、次のように描かれています。
<それを抱えたままタイプの方に一歩踏み出した時、視界の中を弟子丸氏の足が横切り、わたしはつまずいて活字盤を落としてしまった。活字が一本残らず床に散らばった。>

<さあ、拾うんだ」彼が言った。決して冷淡な言い方ではなかった。むしろ諭すような穏やかさがあった。「一個残らず、元に戻すんだ」彼は足下にある活字を一個、靴の先で蹴った。それはわたしの前に、転がってきた。「麗」という活字だった。>

明朝、依頼人が来るまでに、元通りにするよう命じられます。

<弟子丸氏は腕組みし、わたしを見下ろしていた。一個の活字を拾ってくれるわけでも、升目に差し込んでくれるわけでもなく、ただじっと、わたしの折れ曲がった膝や、そんな格好でも決して脱げない革靴や、床を掃くスカートの裾を見張っているだけだった。彼の視線が、受付室の空気を全部支配していた。>

<彼の靴をこんなに近くで見るのは初めてだった。それはわたしがもらった靴と同じ意味で、完璧だった。彼の足を見事に包んでいた。どんなに小さなかたくずれも、汚れもなかった。>

朝になってようやく元に戻し終えます。
<「これで、全部だね」ようやく彼は見張りをやめ、わたしのそばに近寄ってきた。「一本残らず、元通りだね。長い間無音だった部屋の中を、彼の声が響いてきた。>
<彼はわたしの耳もとでひざまずき、肩を抱きかかえた。彼の腕は大きくて暖かく、気持ちよかった。腕の中では、身動きできない方がかえって都合がよく、安らかだった。余計なことを考えず、彼にされるままに任せておけばよかったからだ。>

そしてこんな会話をします。
<「夜は明けたのかしら」目を閉じたまま、わたしは言った。「ああ。もう朝だよ」「そう……」
「君は一晩中、僕のために働いたんだ」「二人で朝を迎えたのね」「二人はまるでベッドにいるような会話を交わした。でもわたしたちは、本物のベッドになど入ったことはないのだった。>

見事なまでの、原作の映像化ですが、和文タイプライターの代わりに麻雀パイを考えついたのは、監督のディアーヌ・ベルトランだったのでしょうか、それともフランス語版『薬指の標本』で既に麻雀パイに変えられていたのでしょうか、興味あるところです。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11653921c.html
小川洋子 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

seitaroさん、こんばんは。
この本は、かなり前に読みましたが、頭に残っているイメージと映画のシーンがかなり一致しています。
日本の話だったのかな?と言うほどヨーロッパ、どちらかというと北欧の雰囲気で記憶しています。
たしかに和文タイプが一つの大事な役割を果たしていたことを思い出しました。
ちょっと麻雀ぱいにはちょっとびっくりです。

これで思い出したのが、香港の歌手の王心凌の「明天見」というミュージックビデオです。
2分35秒過ぎに和文タイプぽいのがでてきます。中国にもきっとあったのでしょうね。
https://www.youtube.com/watch?v=ciULG64RXhI

こればらしたら、大変なことになりますよね。

[ もしもし ] 2017/09/04 23:02:30 [ 削除 ] [ 通報 ]

もしもしさん、ありがとうございます。小川洋子さんの男性読者は少ないので、『薬指の標本』読まれていたとは驚きました。
もしもしさんのお好みの範囲は相当広そうで、なんでもよくご存知ですね。
You Tube見せていただきました。中文タイプの文字数考えると、これをひっくりかえしたら大変です。

[ seitaro ] 2017/09/06 22:04:53 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

小川洋子原作・映画『薬指の標本』女子専用アパートの浴場はローマ風呂?

 小川洋子『薬指の標本』で登場する標本室は、「初めてそれを見た時は、取り壊しを待っているアパートと思われるくらい古くてひっそりした雰囲気の、コンクリートの四階建ての建物」でした(映画では三階建て)。

そこは昔、女子専用のアパートで、最後まで残った二人の老婦人はそのままで、標本技師が買い取った建物です。

 映画では建物の説明は何もありませんが、この写真1枚で、昔は同じ制服を着た女性たちの寮の建物であったことをうかがわせます。
『薬指の標本』で、この建物の浴場は重要なシーンを担っています。原作では、
<弟子丸氏は何の説明もせず、「僕についてくるように」とだけ言った。彼が案内したのは、一階の一番奥にある浴場だった。そこに、女子専用アパート時代の浴場が残っていることは知っていたが、中に入るのは初めてだった。>
 小川洋子さんは学生時代、小金井市にある金光教の女子寮に入られておられたので、その浴場をイメージして書かれたのでしょうか。
 欧米の女子寮の浴場といえば、シャワールームを思い起こすのですが、どのようなシーンになっているのかと見ていると、ディアーヌ・ベルトラン監督は、何とローマ風呂のような浴場を用意してくれました。

 ここで弟子丸氏(標本技師)は、古い靴を脱がせ、新しい靴に履き替えさえます。
<わたしは浴槽の内側でぶらぶらしている自分の足先を見た。その靴はまだ清涼飲料水の工場で働いていた頃に、村の靴屋で買った安物だった。>
 新しい靴の色は原作では黒ですが、映画では赤い靴になっていました。
<彼は何も答えず、まだしばらく足を放そうとしなかった。靴の表面を撫でたり、リボンをきつく結びなおしたりしていた。「まるで、わたしの足型を取ってから作った靴みたい。でもどうして寸法が分かったんですか」「僕は標本技師だよ。足の寸法くらい、見ればわかるさ」>

原作のブルーのタイル、蝶々の模様も映像化されていました。

<一面をおおっているブルーのタイルは所々に濃淡があり、よく見るとそれが蝶々なのか不思議だったが、ブルーの色合いが上品だったので、奇異な感じはしなかった。蝶々たちは排水口の上や浴槽の側面や換気扇の隣や、あちらこちらに止まっていた。>

そして、靴をはき替えて浴槽を歩く場面です。

<「少し、歩いて見せてくれないか」彼はわたしを浴槽の底に下ろし、自分は縁に戻って腰掛けた。「二、三周、ぐるぐる回ってごらん」>

更に、次の昔の浴室の描写も映像化されています。

<「ここが昔、本当の浴室だった頃のことを想像すると、妙な気分になるよ」弟子丸氏が言った。「すべてが湯気の中に霞んで見えて、ガラスは水滴に濡れ、浴槽はお湯で満ちている。笑い声や、水の流れる音や、石けん箱の落ちる音が響き合って、女の人が何人も何人も、蛇口の前に並んで身体を洗っている。しかもみんな裸なんだ」「その中に、309号室婦人も、223号室婦人もいたのね」「そう。だけど、あんなおばあちゃんじゃない。二人とも今の君と同じくらい若いんだ」>


この原作を見事に映像化した映画を観ると、小川洋子さんが「この映画をみた時、私はなぜかたまらなく懐かしい気持ちになった」という言葉がよくわかります。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11653551c.html
小川洋子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

小川洋子の作品を映像化するとフランス映画になる(『薬指の標本』)

『薬指の標本』は1994年に刊行された小川洋子さんの初期の代表的な作品といっていいでしょう。「恋愛の痛みと恍惚を透明感漂う文章で描いた珠玉の作品」という解説ですが、正に小川ワールドの真骨頂です。

『薬指の標本』は日本著作権輸出センター(JFC)の栗田明子さんの尽力でフランス語出版されました。上の写真はフランス語版『薬指の標本』(L' Annulaireは薬指)
 そして2005年にはフランスの女性監督ディアーヌ・ベルトランにより映画化されたのです。

その映像は小川ワールドを忠実に再現したもので、元は日本を舞台にした小説なのですが、原作を知らない人は、原作の舞台はフランスと思うのではないでしょうか。

予告編で小川洋子さんの「私はなぜかたまらなく懐かしい気持ちになった」と次のような感想を述べられています。
 小川さんは小説を書く時、「何かをじっと観察して、見ているうちに妄想をふくらませて物語ができる」と述べられていますが、その風景がそのまま忠実に映像になっていたからこそ、そのような感想が生まれたのでしょう。

 原作では<標本室に来る前、わたしは海に近い田舎の村で、清涼飲料水を作る工場に勤めていた。それは浜辺に続くなだらかな丘の頂上にあり、周りは果樹園に囲まれていた。>
<最初、瓶の洗浄のセクションに半年いたあと、サイダーの製造係に回され、ずっとサイダー専門でやっていた。ベルトコンベヤーの具合を調節したり、不良品を取り除いたり、透明度をチェックしたりする仕事だった。>と書かれているサイダー工場の映像です。

小川洋子さんはサイダー工場を見学されたことがあるのではないでしょうか。
主人公はベルトコンベヤーに指を挟まれ、吹き出した血がサイダーを桃色に染めるのですが、そのシーンもしっかり映像化されていました。

 主人公がサイダー工場をやめ、標本室に勤めることになりますが、その建物も原作の雰囲気を漂わせています。
<コンクリートの四階建てでどっしりはしているが、外壁もアプローチのタイルもアンテナも、すべてがくすんでいた。どんなに目を凝らしても、真新しい部分を見つけることはできなかった。>

<窓は分厚く頑丈そうで、どれも磨き込まれていた。ひさしは角が面取りしてあり、角度によっては一続きの波模様のように見えた。所々に、そういう丁寧さを隠し持った建物だった。>
小川洋子さんは、なにかの建物を観察してこのような細かい描写をされたのではないでしょうか。
映像は三階建ての建物ですし、描写とは少し異なりますが、その雰囲気はぴったりです。

そして原作に出てくる貼り紙も登場します。

<『事務員を求む 標本作製のお手伝いをしていただける方 経験、年齢不問 この呼鈴をどうぞ』>

標本技術士の弟子丸氏との面談シーンです。
映画ではもちろんフランス人に変わっていますが。

<標本に関わるようなものは何も見当たらなかった。そこで、面接が行われた。わたしたちは向き合って坐った。「はっきり言って、僕の方から聞かなきゃならない質問事項というのは、あまりないんです。もちろん、名前や住所くらいは知っておきたいですけれど、そういう形式的なことは、この標本室ではほとんど意味を持っていないんです。」弟子丸氏はお医者さんのような白衣を着て、ソファーの背にもたれかかり、腕を組んでいた。>
 細かな部分は異なっているというものの、日本人でも理解するのが難しいと思われる原作の叙述を、見事なまでに映像化し、小川ワールドに引きずり込んでくれる作品です。

 今回は、写真数と字数が記事の制限を超えそうなので、2回に分けて記事にいたします。続きは次回に。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11652574c.html
小川洋子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

小川洋子さんの奥ゆかしさがにじみでたエッセイ「本物のご褒美」

 一度だけですが、『ミーナの行進』の成人したミーナのモデルにもなった栗田明子さんのご計らいで、小川洋子さんと親しくお話しできる機会を得ました。
 その時受けた強い印象は、TVのインタビューなどでお見かけしたそのまま、大作家にもかかわらず決して驕ることのない、洗練された思慮深さでした。

 たとえば、『カラーひよことコーヒー豆』に収められたエッセイ「本物のご褒美」は小川洋子さんの奥ゆかしさがにじみ出たエッセイです。
<私も小説を発表するようになって二十年近くになるが、手こずった長編がどうにか本の形になった折りなど、大好きなアンティークの品を一つ、こっそり買ったりする。こっそり、という点が重要で、自慢げに振る舞ったりしては、自分だけの頑張りに余計な手垢がついてしまうような気がする。>
これがプロとしての正しいあり方だと述べられています。
更に、
<しかし本物のご褒美は、自分でお金など払わなくても、思いもかけない場面でもたらされるということを、一生懸命働く人々なら誰でも知っている。それは形を持たず、手触りもなく、あっという間に通り過ぎてゆくにもかかわらず、記憶に深く刻まれるご褒美である。>
そうですね。会社生活でも記憶に深く刻まれるご褒美がありました。

<2006年、拙著『博士の愛した数式』が映画になった時、こういう機会は滅多にないだろうからと、三宮の映画館まで行き、ちゃんと料金を払って一観客として映画を観ることにした。>
2006年は小川洋子さんは芦屋市に住まれていたので、芦屋駅から阪神電車に乗られたのでしょう。

<阪神電車に乗ってふと顔を上げると、前の席に座った女性が文庫本を読んでいる。それが『博士の愛した数式』だった。私は急に胸がどきどきして、どうしていいか分からなくなった。>
何と奥ゆかしい小川さんでしょう。

<その本を書いたのは、私なんです。しかもその映画を観に行く途中なんです。と、声に出したい気持ちになった。>

その女性は御影駅で降りていきます。

<やがて特急電車は三宮の手前、御影の駅に到着した。その人ははっとして現実に舞い戻り、文庫本を閉じ、急ぎ足で電車を降りていった。その後ろ姿を私はいつまでも見送っていた。>
 この出来事について、小川さんは「小説を書いていて、これほどのご褒美があるだろうか。」と述べられているのです。

<私は誰かに感謝の気持ちを捧げなければ、罰が当たると思った。だから、電車で乗り合わせただけの、名前も知らないその彼女の後ろ姿に向かって頭をさげたのだった。宝石や香水は何個でも欲しくなるが、本物のご褒美は生涯にたった一個あれば十分だ。何度繰り返し思い起こしても、そのたび新たな喜びに浸れるのだから。>
 読者の後ろ姿に頭を下げるなんて、大作家ができることでしょうか。いいエッセイでした。


goodポイント: 1ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11648562c.html
小川洋子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

小川洋子さんがここは南仏かなと思ったという芦屋川の風景

 小川洋子さんは『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞を受賞され、その記念講演で初めて芦屋の街並みを見た時の感想を次のように述べています。
<芦屋で家を探そうと、不動産屋さんの車に乗って、北から南に向かい芦屋川沿いに走ったとき「ここは南仏かな」と思うくらいに驚きました。自分が生まれ育った岡山とは、あまりにも風土が違う感触を得ました。松林がありテニスコートがあって、その反対側にはすごく大きなお屋敷が並んでいて、前を見ると海が見え、振り返ると山があり川が流れている。風景がとても洗練されていて、どこか外国にいるような、とても乾燥した新鮮な風景だなと思い、一度で芦屋が好きになりました。>

 今日は天気も良く、乾燥した一日で、芦屋川沿いを歩いていて、ふと小川さんのお話を想い出し写真に撮ってきました。

海の方を見ると、ルナホールの向こうには芦屋カトリック教会の尖塔が見え、海を挟んで泉南の山並みまで見えます。


山の方を見ると、白壁にオレンジ色の屋根、アーチのベランダ、青い空に風見鶏が印象的なビルも見えてきました。

なるほど、小川洋子さんが「ここは南仏かな」と思ったのも無理はありません。


天気に恵まれた今日の芦屋川のすがすがしい風景です。
須賀敦子さんの「風が違うのよ」という言葉も重なっていました。


goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11615094c.html
小川洋子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

小川洋子『ミーナの行進』にも登場するクラブコスメチックスのミュージアムへ

 4月1日から5月31日まで、クラブコスメチックスのミュージアムで第14回企画展「人によりそう〜中山太陽堂に見る販売促進・営業活動〜」展が開催されています。

http://www.clubcosmetics.co.jp/museum/

 クラブコスメチックスは小川洋子さんの『ミーナの行進』でも、ローザおばあさんが使っていた双美人シリーズの化粧品として登場します。

<特に開けてみないではいられない引き出しをたくさん持っていたのは、鏡台だった。そこにはありとあらゆる種類の化粧品が揃っていた。そのすべてが、化粧水から白粉にいたるまで、女の人二人が並んでいる図柄をシンボルマークとした<双美人シリーズ>で統一されていた。女の人は二人ともうりざね顔で、巨大な薄桃色の花を頭に飾り、澄ましてどこかを見つめている。
「ああ、それ、とってもよく効くよ。美肌クリームね。塗れば塗るほど、お肌すべすべしてくる。」ローザおばあさんは私を鏡台の前に座らせ、シルクの化粧ケープを肩に広げ、どんなに高価な化粧品でも、惜しげもなく使わせてくれた。それは茶色い蓋で乳白色の丸い瓶に入った、いかにも効き目ががありそうなねっとりとしたクリームだった。>

 株式会社クラブコスメチックスの歴史はは明治36年.に中山太一が創業した「中山太陽堂」のクラブ化粧品にまで遡ります。

苦楽園四番町と六麓荘町にまたがる土地に中山太陽堂の貴賓接待に使うための「太陽閣」が竣工したのは大正11年のことでした。

(写真は大石輝一の描いた苦楽園の太陽閣;現在の堀江オルゴール館の位置にありました)

 今回の企画展では、大衆の娯楽が多様化した明治末から昭和初期にかけて、中山太陽堂が販売促進のため展開した博覧会への出展やイベント開催等の活動がご紹介されています。

レトロなポスターや、看板なども数多く展示されています。

 中でもひときわ目を惹いたのが、博覧会の展示のコーナーでした。
 明治から大正期は博覧会の時代と言われるほど様々な博覧会が全国各地で開催され、中山太陽堂は積極的に参加し、大正末までに58の賞を獲得したそうです。
 大正11年の上野公園で開催された平和記念博覧会では特設館を設置し、無料で希望者の髪やお化粧を整えたり、休憩室も併設したそうです。

写真は中山太陽堂の特設館。

 平和記念東京博覧会の会場図も展示されておりましたが、この鳥瞰図はインターネットで探しても見つけることができず、当時の様子を窺がえる貴重な図です。

 鳥瞰図でも目立っているクラブ化粧品の新戦略商品の広告塔ともいうべき「カテイ石鹸大噴水塔」の写真もありました。

噴水の頂点にはカテイ石鹸の商標となつているルブラン夫人の『母と子』の純白な石膏模型がおかれているそうです。

見比べてみてください。

『平和記念東京博覧会案内』には、この大噴水塔について、
「不忍池の真中に屹然として立つた噴水塔がある、その噴水の奔騰高さは百五十尺、夜となれば電気応用の大仕掛けに只見る満天の飛沫、五彩の光龍、爛として虹と流れ、燦として火花と散る、その壮観は言語に絶して居る。この噴水は頂点にはカテイ石鹸の商標となつて居る泰西名画ルブラン夫人の『母と子』の純白な石膏模型も置かれてある」と説明されています。

大阪駅前の貴重な写真もありました。
 会場を回りながら、この時代の中山太陽堂の先進的で興味深い販売戦略など説明していただき、充実した展示であることが良くわかりました。

 ところで、大正7年に大阪市南区水崎町690番地(後、浪速区水崎町40番地。現在のJR環状線新今宮駅線路沿い)に敷地約1875坪の中山太陽堂化粧品工場が竣工されています。

沿革を見ると、「昭和51年に大阪市西区西本町に本社タイヨービルを新築し、移転。奈良県五條市に新工場竣工。」となっておりますが、その工場跡地(の一部)に、最近話題となっている星野リゾートが大阪に初進出し都市観光ホテル建設するとのことです。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11582403c.html
小川洋子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

小川洋子『ミーナの行進』と須賀敦子さんの実妹北村良子さんの御関係

 先日、小川洋子さんからお話を伺っていた時、須賀敦子さんのお話に及び、実妹の北村良子様のお話しになりました。
 北村良子様には、昨年の芦屋文学サロン「須賀敦子と芦屋・西宮」で稲畑汀子様と映像出演していただき大変お世話になりました。

 
 その時の北村様のお話で、昭和12年に父上が須賀商会東京支店へ転勤となり、夙川から麻布本村町に転居し、白金の聖心女子学院に編入されたとき、「あら関西弁なのね」と言われ、「おしゃべりなのにしばらくお話ができなかった」と笑って言葉の苦労を話されていました。

 小川洋子さんも北村良子さんとお知り合いのようでしたので、お尋ねすると何と『ミーナの行進』に深く関係されていたのです。

 小川洋子さんの『ミーナの行進』は2005年2月12日〜12月24日まで毎週土曜日読売新聞に連載された作品ですが、その連載を始めるにあたって、ミーナのような芦屋のお嬢様が語る関西弁を話せる人を紹介してもらいたいと編集者に頼まれ、北村良子さんを紹介されたそうです。

 小説では、ミーナと通いの庭師の小林さん、住み込みのお手伝いの米田さんは根っからの関西弁を喋り、伯父さん夫婦のイントネーションは標準語に関西ニュアンスが四十パーセントほど含まれた状態、とされています。
 たしかに、芦屋のお嬢様のミーナという小説の設定から考えて北村様は、まさに適役だったと思います。
毎週小川洋子さんの原稿を北村様に送り、話し言葉の更生を頼まれていたそうです。

『ミーナの行進』でミーナが岡山から来た朋子を連れて家の中を案内する場面からです。
<「ここはママがおばあちゃまに隠れてお酒を飲むところ。そやから絨毯は焼け焦げだらけなん」「どないしたらこんな趣味の悪いカーテンを選べるのか、こっちが説明してほしいわ」「米田さんの家事室。あそこだけ壁紙の色が違うのは、いつやったかヒステリーを起こした米田さんがアイロンを投げつけた跡」と、始終こんな調子だった。>
芦屋のお嬢様も我々と同じ関西弁なので安心いたしました。

 私も頭の片隅に、昔『ミーナの行進』の単行本のどこかに北村良子様の名前を見て不思議に思った記憶が残っていました。

 家に帰って、本を見てみると、最後のページの謝辞の一番初めに北村良子様のお名前がありました。ようやく長年の謎が解けました。
ミーナの話し言葉は北村良子様の監修によるものだったのです。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11569009c.html
小川洋子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

小川洋子『ミーナの行進』伯父さんの家のモデルはヴォーリズの旧小寺邸

『ミーナの行進』の伯父さんの洋館のモデルは、小説に書かれた位置から、芦屋川の開森橋から高座の滝に行く道を登っところにあった右近権左衛門邸と考えていました。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11329224c.html

 しかし、先日小川洋子さんに直接お尋ねして、そのモデルが御影にあったヴォーリズ建築の旧小寺敬一邸だったことがわかたのです。これで今までの疑問が氷解です。


 寺田順三さんが挿画に描かれているのはヴォーリズの住宅に違いないと思っていましたが、旧小寺邸の写真と比較すると、モデルになっていることが良くわかります。

2本の棕櫚の木は芦屋の右近権左衛門邸を参考にしたのかもしれません。

『ミーナの行進』では岡山から伯父さんの家に着いた朋子が、「これが家ですか?」更に声を上げて、「これが家なんですか?」と叫んだ邸宅です。

 小説では芦屋にある洋館なのですが、小寺邸は絵地図に示したように、東灘区住吉山手四丁目、武田邸の北側にありました。

 その建物は関西学院大教授だった小寺敬一氏がヴォーリズに設計を依頼し、1931年に完成した3階建て邸宅で、当時の住宅では珍しい鉄筋コンクリート造りで、赤いスペイン瓦や明るい白壁などが特徴の、阪神間モダニズムの時代のスパニッシュスタイルの典型とされています。

『ミーナの行進』では次のように描かれています。
<一九七ニ年から七三年にかけて一年あまり過ごしたあの芦屋の家を、私は決して忘れることができない。アーチ状の玄関ポーチに差す影の形、山の緑に溶け込むクリーム色の外壁、ベランダの手摺りの葡萄模様、飾り窓のついた二本の塔。>
<玄関ポーチやテラスに多用されるアーチ、南東の角に設けられた半円形のサンルーム、オレンジ色の瓦屋根など神経が行き届き、全体のバランスは上品にまとまっている。>
ヴォーリズ建築を見事に表現されています。

 残念ながら、この建物は2011年に撤去され、現在は航空写真でわかるように広い敷地は分割され、それぞれの敷地に住宅が建てられています。

(写真中央の台形の区画の部分)

小寺氏の別荘だったヴォーリズ六甲山荘は、幸いにしてアメニティ2000協会がナショナルトラストの第1号として購入し、保存されています。

ヴォーリズ建築の旧小寺敬一邸は小川洋子さんの『ミーナの行進』の創作に当たって大きな役割を果たした建造物でした。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11567222c.html
小川洋子 | コメント( 3 ) | トラックバック( 0)

3月25日(土)にこの近辺の街歩きをしますので、この話を参加者にご披露させていただきます。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2017/03/09 10:13:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

小寺先生のお宅は取り壊されたんですね ショッカーのアジトになっていました(テレビでは)

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/03/10 9:10:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

残念ながらきれいさっぱり取り壊されてしまいました。
隣には少し小さめのヴォーリズ設計の住宅が残っています。

[ seitaro ] 2017/03/10 10:46:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

ミーナが小川洋子さんに会わせてくれた

 先日、幸運にも小川洋子さんから直接お話しを伺う機会に恵まれました。

 このようなチャンスに巡りあえたきっかけは、この西宮ブログでロックウェル様から建石小学校ご出身の栗田明子さんの『夢の宝石箱』をご紹介いただいたことからでした。

 栗田さんは甲南高等女学校を卒業後、「女が大学に行ったらお嫁のもらい手がなくなる」と父親から言われ素直に伊藤忠商事に就職。その後、著作権代理店(株)ユニ・エージェンシーに勤務され、1981年には日本の出版物を海外に広めるべく自ら著作権代理店栗田板東事務所を設立、ドイツ・ケルンを本拠に欧米出版社に日本の図書を紹介し、日本著作権輸出センターを創業された方です。

『夢の宝石箱』を読んで驚いたのは、ミーナが成人して就いた仕事が栗田さんのお仕事だったことです。

小川洋子さんの『ミーナの行進』からです。
<ミーナは中学の卒業式を待たずにヨーロッパへ渡り、スイスの寄宿学校へ進学した。その後、フランクフルト大学で文学を学び、貿易会社で大使館に勤務したあと、三十五歳でケルンに出版エージェンシー会社を設立した。ヨーロッパと日本の文学作品の翻訳出版を、仲立ちする会社だった。>まさに栗田さんのお仕事です。

そしてケルンのミーナから朋子への手紙です。
<おかげさまで私は、なかなか儲かれへんわ、と愚痴をこぼしながら楽しく仕事に励んでおります。翻訳出版のエージェントなんて、誰が褒めてくれるわけでもない地味な仕事ですが、それでもたまには、ささやかな、かけがえのない喜びをもたらしてくれます。今日、町の本屋さんで、私の手がけた絵本を買っている女の子に出会いました。大事そうに本を抱え、お母さんと手をつないで家へ帰っていくその子の後姿をずっと見えなくなるまで見送りました。>

 栗田明子さんは「くまたんのたんじょうび」他、多くの日本の絵本を海外に紹介されています。


 栗田明子さんが成人したミーナのモデルになったのは間違いないと確信できたのは、『海の向こうに本を届ける』の帯を見たときでした。

「日本文学を海外へ導いたのは、海図のない航海へ出た栗田さんの熱意だった。」小川洋子
と書かれていたのです。

 その栗田明子さんは現在芦屋に戻って来ておられ、偶然にも芦屋でお会いし、ご講演の資料作りのお手伝いなどさせていただきました。このようなチャンスに恵まれたこと自体、私にとっては大変な幸運だったのですが、更に栗田さんに小川洋子さんとお会いできる機会を作っていただいたのです。

 小川洋子さんにお話をお聞きすると、病弱だったミーナが成人したときは世界で元気に働く女性にしたくて栗田さんをモデルにさせてもらったとのことでした。
 ロックウェル様から紹介していただいた本から、ミーナのモデルの栗田明子さんに巡り合い、その巡り合いが『ミーナの行進』の小川洋子さんとの出会いにまで発展しました。
そして驚いたことに、ミーナは須賀敦子さんの実妹の北村良子様にまでつながっていたのです。そのお話は次回にでも。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11566616c.html
小川洋子 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

  1  |  2  |  3    次へ
  
このブログトップページへ
seitaroイメージ
阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

カテゴリー一覧

QRコード [使い方]

このブログに携帯でアクセス!

>>URLをメールで送信<<