阪急沿線文学散歩

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村上春樹『海辺のカフカ』に登場する甲山(RICE BOWL HILL INCIDENT)

 村上春樹『海辺のカフカ』第2章で突然、ワシントン特別区のアメリカ国立公文書館(NARA)で閲覧可能となっている極秘資料「RICE BOWL HILL INCIDENT. 1944:REPORT」と題したアメリカ陸軍情報部(MIS)の面接インタビューの報告書が登場します。

 このアメリカ陸軍情報部がRICE BOWL HILLと翻訳した日本語名は「お椀山」(OWAN YAMA)でした。このお椀山がある場所の設定は、山梨県**郡となっているのですが、村上春樹が小学生時代を過ごした西宮市にある甲山の風景が描かれているのです。

 


 事件(INCIDENT)は終戦の前の年に起こります。
質問者はロバート・オコンネル少尉、答えているのは国民学校四年生乙組の担任教師岡持節子です。
<− 軍の記録によるとその時期に、つまり1944年の11月7日午前10時前後に、その地域上空をアメリカ軍の爆撃機、あるいはその他の航空機が飛行していた事実はありません。

 

 でも私が、そこにいた16人の子どもたちはみんなはっきりと見ましたし、全員がそれをB29だろ思いました。私たちはそれまでにも何度かB29の編隊を見かけたことはありましたし、そんなに高空を飛べる飛行機はB29以外にありません。>

 

 事件が起こったのは岡持先生が学級の全員で野外実習に出かけたときのことです。
<− その日にあなたが学級の子供を引率していった場所について、できるだけくわしく話してください。

 

 それは私たちがよく遠足にでかける山でした。お椀を伏せたような丸い形をしておりまして、私たちはそれを普通「※お椀山」と呼んでいました。※OWAN YAMA ”Rice Bowl Hill”それほど険しい山ではありませんし、誰でも簡単に登れます。学校から少し西に向けて歩いたところにあります。頂上までたどりつくのに子供の足でだいたい2時間ほどかかります。>


 OWNYAMA 形は甲山そのもので、村上春樹も香櫨園小学校時代に甲山へ遠足に出かけた経験があるのではないでしょうか。
そして甲山の頂上の広場の風景が描かれていました。


<10分ほど登ったところで、森が開けた場所に出ます。けっこう広い部分が、まるでテーブルのようにきれいに平らになっています。いったん森の中に足を踏み入れますと、しんとして、太陽の光はさえぎられ、空気はひややかになりますが、そこだけは頭上も明るくひらけて、小さな広場みたいになっていました。私たちの学級は「お椀山」に登ると、よくその場所を訪れました。>
小説ではお椀山の頂上ではないのですが、甲山頂上の平らな広場の風景そのものなのです。


甲山は昔と違って樹で覆われていますので、航空写真を見ると、小説の表現通りの広場になっていることがお分かりかと思います。

 




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村上春樹 | コメント( 3 ) | トラックバック( 0)

香櫨園小学校の6年生の時の遠足で、彼は学校から甲山まで歩いて登りました。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2015/06/28 22:16:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

香櫨園小学校6年の遠足で彼は学校から甲山まで歩いて登りました。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2015/06/28 22:16:58 [ 削除 ] [ 通報 ]

やはり香櫨園小学校でも甲山登山があったのですね。ありがとうございます。

[ seitaro ] 2015/06/29 7:43:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

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村上春樹が関西弁をしゃべらなくなった理由(『イエスタデイ』より)

 関西人としては、「村上春樹が関西弁をしゃべらなくなった理由」というのは興味あるところです。私など完璧な標準語で喋っていると東京で言うと、どこが標準語と直ちに反撃にあいます。その関西弁を題材にした短編が『イエスタデイ』。

 

 イエスタデイに登場する友人の木樽は生まれも育ちも田園調布のくせに完璧に関西弁をマスターし、しゃべるのです。一方芦屋育ちの僕は東京に来て関西弁をまったくしゃべらなくなったとしており、これは村上春樹自信のことが述べられているように思われます。
 小説の中で、出身地を尋ねられ、神戸の近くと答える理由も、本人が常々述べている話でした。
<僕は説明した。出身地を訊かれて、芦屋の出身だと言うと、どうしても裕福な家庭の出身というイメージを持たれてしまう。しかし芦屋といってもピンからキリまである。僕はとくに裕福な家の出身じゃない。父親は製薬会社に勤めていて、母親は図書館の司書をしている。家は小さいし、乗っている車はクリーム色のトヨタ・カローラだ。だから出身地を訊かれると、余計な先入観を持たれないために、いつも「神戸の近く」と答えることにしている。>


 小説の僕は、村上春樹自信の体験を述べているようです。
<僕が東京に出てきて、関西弁をまったくしゃべらなくなったのはいくつか理由がある。僕は高校を出るまではずっと関西弁を使っていたし、東京の言葉をはなしたことは一度もなかった。しかし東京に出てきて一ヶ月ほどして、自分がその新しい言葉を自然に流暢に話していることに気づいて、びっくりしてしまった。僕は(自分でも気づかなかったけど)もともとカメレオン的な性格だったのかもしれない。それとも言語的な音感が人より優れていたのかもしれない。いずれにせよ、関西の出身だといっても、まわりの誰も信じてくれなかった。それともうひとつ、これまでとは違う人間として生まれ変わりたかったということが、僕が関西弁を使わなくなった大きな理由としてあげられるだろう。>


 なるほど、私が喋っているつもりの標準語が、まわりの人には関西弁に聞こえるのは、言語的な音感の不足かと納得してしまいました。
カメレオン的性格というのは多分小説家にとっては望ましい性格のように思えます。

 そして、これまでと違う人間として生まれ変わりたかったというのも、18,9歳の頃の自分自身を振り返って、強く共感できます。当時は、現在ほど東京で関西弁が聞こえてくることはなかったように思います。



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村上春樹 | コメント( 4 ) | トラックバック( 0)

こんばんは。私もこちらで(東京・横浜で)言葉遣いから関西人と当てられたことが一回もなく、西宮出身というと「へー、そうなんだ、わからんもんだね」と言われます。
今回のこの記事に半分乗っかった記事を書かせていただきます。
よろしくお願い致します。

[ せいさん ] 2015/06/26 20:50:11 [ 削除 ] [ 通報 ]

やはり音感の差なのでしょうね。そちらの記事も楽しみです。

[ seitaro ] 2015/06/26 20:55:54 [ 削除 ] [ 通報 ]

興味深く読ませていただきました。関西弁から標準語に
変えることにより違う人間に生まれ変わりたかった・・
私も長く関西に住むようになって、ある意味違う人間に
なっているのかもしれません(^_-)-☆

[ ショコママ ] 2015/06/27 18:27:03 [ 削除 ] [ 通報 ]

ショコママさんありがとうございます。子供の頃は標準語が日本語のような教育を受けてきたような思いがありますが、徐々にそれぞれの方言の良さが見直され、大阪弁など、堂々と東京で話されるようになりました。子供など、育った場所の言葉を自由に操るので、別人かと思ったりします。

[ seitaro ] 2015/06/27 18:55:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

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村上春樹が関西弁だけで書いた短編小説

 先日の小玉武氏の文芸講演会「村上春樹と『阪神間文化』の周辺―私がめぐりあった作家たち」で、村上春樹が関西弁だけでかかれた短編を紹介されていました。
村上朝日堂超短編集『夜のくもざる』に収められた「ことわざ」です。


「猿も木から落ちる」という諺を題材にした超短編、まるで上方落語のような面白さです。
<猿やがな。なんせ猿がおったんや。嘘やあるかい。ほんまもんの猿が木の上におったんや。わしもそらびっくりしたわ。なんやおるなあと思ったら、猿がおるんやもんなあ。わあこいつ猿やで、いうようなもんやわ。そいでやな、わしずっと見とったんや。>
と、こんな風に始まります。村上春樹は普段は関西弁をしゃべらないし、関西弁の登場する作品はほとんどないので、嫌っているのかと思いましたが、郷愁があるのでしょうか。

 小玉武氏の講演で、もうひとつ関西弁を素材にした『イエスタデイ』が紹介されました。

 この作品は文藝春秋に連載されたもので、『女のいない男たち』に収められた短編で、次のように始まります。
<僕の知っている限り、ビートルズの『イエスタデイ』に日本語の(それも関西弁の)歌詞をつけた人間は、木樽という男一人しかいない。彼は風呂に入るとよく大声でその歌を歌った。
昨日は/あしたのおとといで
おとといのあしたや
始まりはそんな風だったと記憶しているが、なんにしろずいぶん昔のことなので、本当にそうだったかもうひとつ自信はない。しかしいずれにせよその歌詞は、最初から最後までほとんど意味を持たないナンセンスとうか、原詞とはまったく似ても似つかない代物だった。>


 村上春樹氏は、イエスタデイの関西弁の歌詞について、著作権代理人から「示唆的要望」を受け、超短編集として出版するにあたたって歌詞を大幅に削除したと述べておられますが初出の文藝春秋の歌詞がネットで流布されています。


一番だけ引用すると、以下の歌詞となっています。

 

昨日は
あしたのおとといで
おとといのあしたや
それはまあ
しゃあないよなあ

 

まるで月亭可朝が歌いそうな歌詞で、思わず笑ってしまいました。

 

「イエスタデイ」では村上春樹氏が関西弁を使わなくなった理由も書かれていました。関西人としては興味あるところで、それは次回に。



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村上春樹 | コメント( 4 ) | トラックバック( 0)

おはようございます。
雑誌掲載時に『イエスタデイ』を読んだおり、木樽のモデルは、ひょっとしてあの「王様」ではないか?と妄想いたしました。
どこの国の王様かって? イエイエ、ロックの名曲に、ユーモラスな直訳歌詞をつけて歌っている、王様というミュージシャンがいるのですよ。
しかも、西宮市出身なんです!

[ 373 ] 2015/06/25 5:53:05 [ 削除 ] [ 通報 ]

55年ほど前に、東京から香櫨園小学校へ転校してきて、村上春樹少年の隣の席に座った人が、春樹少年が話す関西弁が聞き取れないほどであったとのことです。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2015/06/25 21:47:31 [ 削除 ] [ 通報 ]

373さん 「王様」ネットで調べると映像までありました。なるほどです。

[ seitaro ] 2015/06/25 22:27:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

西宮芦屋研究所員さん とても現在の世界的に著名な作家村上春樹氏からは想像できない姿です。

[ seitaro ] 2015/06/25 22:29:48 [ 削除 ] [ 通報 ]

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文芸講演会「村上春樹と『阪神間文化』の周辺―私がめぐりあった作家たち」

 楽しみにしていた、大手前大学 さくら夙川キャンパスで大手前大学交流文化研究所主催による小玉武氏の文芸講演会「村上春樹と『阪神間文化』の周辺―私がめぐりあった作家たち」が13日(土)開催されました。


 小玉武氏は、「洋酒天国とその時代」 で緒田作之助賞を受賞されたノンフィクション作家。

 

 村上春樹を皮切りに、編集者として交流のあった阪神間にゆかりのある様々な作家の興味深いエピソードを伺うことができました。
 最初に柏木学長よりご紹介がありましたが、毎回著名人を招いて、文芸講演会を無料で開催していただいていることに深く感謝しております。


 小玉武氏は、4年間神戸市中郷町に住まれ、成徳小学校に通われたとのこと。成徳小学校といえば野坂昭如ですが、中郷町では一筋違いの場所に住まれ、小玉氏の兄上が同級生であった上、小玉氏自身も編集者として野坂氏と交流があり、思い出話をよくされたとのことでした。


 講演では阪神間を語る時、村上春樹は外せないと、村上春樹の『辺境近境』からお話が始まりました。
 そして阪神間文化には近現代史的に明らかな優越性が存在するとし、その理由は国際都市として世界に開かれた神戸、工業商業都市として当時大きな力のあった大阪の狭間にあったことにあると解説されていました。
 阪神間モダニズムの発展に小林一三の寄与は大きく、更に歴史的要因として関東大震災による人の移動が大きく、その時移り住んだのが谷崎潤一郎でした。
更に阪神間ゆかりの作家たちとして、遠藤周作、佐藤愛子、野坂昭如らの数々の秘話が紹介され、阪神間文化とゆかりのある作家についてうまく纏められた講演でした。

 

 楽しみなのは、いつも講演会後に部屋を移して開催される茶話会です。

 

今回のお茶菓子はいつもと違っています。

大手前大学では梅田にスイーツ・ラボを開かれており、そこからのお取り寄せだそうで、大変おいしい焼き菓子の数々でした。


 茶話会には講演を聴かれた西宮芦屋研究所副所長の小西巧治氏も出席され、村上春樹の秘話や夙川帖に登場する作家達について逆紹介される場面もあり、話がはずみ終了したのは17時20分頃でした。

ご講演いただいた小玉武様、主催されえた柏木学長、大手目大学交流文化研究所の皆様には大変お世話になり、深く感謝いたしております。



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椿山荘のホタルと村上春樹の和敬塾

この休みに学習院大学史料館で開催中のボンボニエール展に行き、椿山荘で食事してまいりました。

 


 椿山荘では例年5月末頃からほたるの夕べが開催されており、成虫が放たれているのだろうと思っていましたが、調べてみると努力を重ね、毎年幼虫が放たれ、自生するまでになっているそうです。
<ホタルは清らかな水辺にしか生息できず、都会で育つのはなかなか難しいといわれるが、椿山荘は秩父山系からの地下水が湧き出る緑豊かな好環境。それにくわえて、ゲンジボタルが自生・生息できるよう、庭園内を流れるせせらぎの水質・水量の改善や湧水の整備などの環境づくりに取り組んできた結果、最近では自生するホタルも増えているという。また、2002年には湧水を利用した本格的な飼育施設を設置。幼虫までの飼育もおこなっている。>

 

 実際にはまだ見たことがありませんが、ほたる沢の説明書きがありました。

このあたりで乱舞するのでしょう。

 ところで、このホタルの話が、村上春樹著『蛍』、『ノルウェイの森』に登場します。

村上春樹は早稲田大学に入学し、父上が探してきた和敬塾という学生寮に入れられます。

 


短編集『めくらやなぎと眠る女』に収められた『蛍』からです。
<寮は見晴らしの良い文京区の高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコンクリートの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢は百五十年、あるいはもっと経っているかもしれない。>


この寮で同居していたのは、地理学を専攻し、いつも白いシャツに黒いズボンという清潔好きの学生でした。
<その月の終わりに、僕の同居人がインスタント・コーヒーの瓶に入れた蛍をくれた。瓶の中には蛍が一匹と草の葉と水が少し入っていた。ふたには細かい空気穴が幾つか開いていた。あたりはまだ明るかったので、それはただの水辺の黒い虫にしか見えなかった。しかしよく見ると、たしかにそれは蛍だった。蛍はつるつるとしたガラスの壁をよじのぼろうとしてはそのたびに下に滑り落ちていた。そんなに間近に蛍をみたのは久し振りだった。
「庭にいたんだよ。近くのホテルが客寄せに放したのがこちらに紛れ込んできたんだね」と彼はボストン・バッグに衣類やノートを詰め込みながら言った。>

航空写真右下が椿山荘で左上が和敬塾。すぐ隣です。


 短編の最後は、この蛍を逃がすシーンです。
<蛍がとびたったのはずっとあとのことだった。蛍は何かを思いついたようにふと羽を拡げ、その次の瞬間に手すりを越えて淡い闇の中に浮かんでいた。>
 時期的には平家ボタルのようです。



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和敬塾が椿山荘のすぐ近くにあることは知っていましたが、椿山荘のホタルと村上春樹の蛍が結びつくとは全く思い浮かびませんでした。すごい!

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2015/05/04 21:59:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

ありがとうございます。目白通りは左右興味ある建物が並んでおり、話題がつきません。今回椿山荘を訪れる機会に恵まれ、時期は少し早すぎたのですが、記事にさせていただきました。

[ seitaro ] 2015/05/04 22:17:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

ボンボニエールは再訪でしょうか。前にも書かれていたような気がします。和敬塾もそうですね。

[ ふく ] 2015/05/04 23:33:38 [ 削除 ] [ 通報 ]

和敬塾、昨年の12月5日に行ってきました。村松英子氏の朗読劇を観てきました。以前から和敬塾の事に関しては(昔の建築として)興味を持っていましたが、村上春樹氏がその寮に入っていたとは知りませんでした。氏の小説で一番好きなのは『レキシントンの幽霊』ですが、この小説に言及した文章は何処かにありますか。

横浜[ arisuarisu ] 2015/07/04 10:06:28 [ 削除 ] [ 通報 ]

村松英子さん、先日偶然テレビで今もお元気な姿拝見し、遠藤周作がバカにされた話を思い出しておりました。『レキシントンの幽霊』の「めくらやなぎと、眠る女」は回生病院が舞台となっており、西宮市民には有名です。私のブログでは2件書かせていただきました。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11004114c.html
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11169971c.html

[ seitaro ] 2015/07/04 10:46:38 [ 削除 ] [ 通報 ]

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夙川河口の回生病院、夾竹桃のある風景

 既に皆様ご紹介されている、西宮市役所東館8階情報公開課 歴史資料チームで開催されている第16回歴史資料写真展「文化をはぐくむ−香櫨園・夙川−」に私も行ってきました。
http://www.nishi.or.jp/contents/0003293800040004800085.html
笹舟クラブさんが紹介されているように 、廊下で展示されている写真だけでなく、室内のパソコンでこれまで公開された写真を自由に閲覧させてもらえます。文学作品の舞台となった当時の西宮の貴重な写真が沢山ありました。

 その中から昔の回生病院の写真のご紹介。

 これまで回生病院の古い建物の写真は、グラフ西宮でしか見たことがなかったのですが、こんなに鮮明な写真がありました。清太と節子が走っていた夙川の堤防道が舗装された後の写真です。

上はアニメ『火垂るの墓』では山本二三が描いた太平洋戦争中の回生病院の絵。


 野坂昭如の義母は神戸大空襲で火傷を負い回生病院に入院していました。『ひとでなし』からです。
<回生病院では、個室が空いていた、夙川の左右、まったく焼けていない、人影もない。住人の多くが疎開、患者は少なくなっていた。待合室に診療を待つ人も、養母の、二ヶ月近い入院中、あまり見受けなかった。もっとも医者も薬も極端に不足、義母の治療は包帯交換だけ、病院にサルファ剤がなかった。海軍衛生兵が、成徳で塗ったという油だけが薬。>


 昭和40年代の回生病院は村上春樹の小説にも登場します。
 短編集『レキシントンの幽霊』に収められている「めくらやなぎと、眠る女」からです
<その病院に行ったのは八年前のことだった。海岸近くにある小さな病院だった。食堂の窓からはキョウチクトウしか見えなかった。古い病院で、いつも雨の降っているような匂いがした。友達のガールフレンドがそこで胸の手術をしたので、彼と一緒に見舞いに行ったのだ。>

 

 回生病院とキョウチクトウの写った写真がありました。写真から想像すると食堂は一階の夙川堤防側にあったのでしょうか。古い病院という表現も、この写真にぴったりです。

 

 夙川沿いには夾竹桃がたくさん植えられていましたが、現在ではかなり少なくなりました。


『ノルウェイの森』でも回生病院は次のように登場します。
<「さっき一人でいるときにね、急に昔のことを思い出してたんだ。」と僕は言った。
「昔キズキと二人で君を見舞いに行ったときのことを覚えてる?海岸の病院に。高校二年生の夏だったけな」「胸の手術をしたときのことね」と直子はにっこり笑って言った。「よく覚えているわよ。あなたとキズキ君がバイクに乗って来てくれたのよね。ぐしゃぐしゃに溶けたチョコレートを持って、あれ食べるの大変だったわよ。でもなんだかものすごく昔の話みたいな気がするわね」「そうだね。その時、君はたしか長い詩を書いていたな。>


現在の回生病院はコンクリート造りの立派なビルに建て替わり、玄関だけが昔の面影を残しています。

 


 



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村上春樹が小学6年生の時、回生病院の敷地内や周辺に植えられてあった夾竹桃を香櫨園小学校が寄贈を受けました。その時、香櫨園小学校の生徒が道に引きずりながら、学校の校庭まで運びましたが、この生徒の中の一人が村上春樹でした。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2015/02/26 20:45:40 [ 削除 ] [ 通報 ]

そんなことがあったのですか。コメントありがとうございます。

[ seitaro ] 2015/02/26 21:55:38 [ 削除 ] [ 通報 ]

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あにあん倶楽部阪神南再発見ツアー「文学探訪」(西宮神社と夙川オアシスロード)

 夙川カトリック教会の次は、福の神「えびす様」の総本社、西宮神社に移動です。


旧国道の突き当りが、西宮神社の鳥居。

 

 

 少女時代を西宮で過ごされた作詞家の岩谷時子さんは「私の歳時記」で十日戎の思い出を次のように綴られています。

<戎神社のことを住人は「おえべっさん」と呼んでいて、一月九日の晩になると門に打ち付けてある雄松雌松の門松を逆さに、松の葉が下へ向くように付け直した。十日戎には恵比寿様が馬に乗って町をお通りになるので、馬が松の葉で目を突かぬように、門松を逆さにするのだと教えられた記憶がある。古くから伝わっていた町の伝説だろうが、疑うこともせず古い風習を守っていた、当時の町の大人たちの心優しさが私は好きだ。>

ナビゲーターの西宮芦屋研究所員さんによると、やはりゆかりの作家は村上春樹。


 小西巧治さん監修の『夙川帖』にも美しい写真とともに、村上春樹の作品が紹介されています。

村上春樹『辺境・近境』からです。
<商店街を抜けて通りを渡ると、そこには西宮の戎神社がある。とても大きな神社だ。境内には深い森がある。まだ小さな子供だった頃には、僕らの仲間にとって、ここは素晴らしい遊び場だった。
 ただ境内の深い森だけが、僕の記憶にある昔の姿と変わることなく、時間を越えてひっそりと暗く、そこにある。僕は神社の境内に腰を下ろし、初夏の太陽の下でもう一度あたりを見まわし、そこにある風景を自分に馴染ませる。>

 村上春樹は神社の森で遊んだと述べており、ナビゲーターの西宮芦屋研究所員さんは『海辺のカフカ』に登場する神社の林とは西宮神社の森に違いないだろうと紹介されていました。海辺のカフカには、この森の中のシーンが何度もでてきますが、きっと村上春樹が少年時代に遊んだ時の記憶をもとに描いたのでしょう。    

 現在は一般の人は森の中に入ることはできませんが、年一回秋に、掃除のボランティアとして入ることが許されるそうです。

『海辺のカフカ』で田村カフカ少年が茂みの中で意識が戻ったシーンです。


<そこには狭い通り道がある。懐中電灯の光をあてながらその道をたどっていくとやがて明かりが見え、神社の境内らしきところに出る。神社の本殿の裏側にある小さな林の中で、僕は意識を失っていたのだ。けっこう広い神社だ。境内には高い水銀灯が一本だけたっていて、本殿や賽銭箱や絵馬にどことなく冷淡な光を投げかけている。>


 一時間の昼食休憩の後、バスで夙川オアシスロードへ移動です。好天に恵まれ、夙川と甲山の撮影日和。


西宮芦屋研究所員さんから、村上春樹の住んでいた所や、『ランゲルハンス島の午後』のお話を聞いて、みなさん葭原橋を渡っています。


<僕の家と学校のあいだには、川が一本流れている。それほど深くない、水の綺麗な川で、そこに趣のある古い石の橋がかかっている。バイクも通れないような狭い橋である。まわりは公園になっていて、キョウチクトウが目かくしのように並んでいる。>


学校から忘れ物を走って取りに帰った春樹は、芝生に寝転んで空を見上げます。
<「僕は一息ついて汗を拭き、川岸の芝生に寝転んで空を眺めた。随分走ったんだもの、五、六分休んだってかまやしないだろう。頭上の白い雲はじっとひとところにとどまっているように見えたが、目の前に指を一本立てて測ってみると、ほんの少しずつ東に向けて移動していることがわかった。>
と書かれているのですが、当日、頭の上は雲ひとつ無い快晴でした。


次は芦屋の虚子記念文学館へ。

 



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村上春樹が芦屋の自宅を離れてしばらく暮した学生寮

 村上春樹が早稲田大学に入学して、その年の春から秋まで住んだ和敬塾について、短編「蛍」(初出;「中央公論」1983年1月号)にその興味深い暮らしぶりが描かれています。

 村上春樹「自作を語る」では「蛍」について<結局約四年後にこれは『ノルウェイの森』というかたちで改変されることになった。しかしこの『蛍』を書いたときには、まさかこの話があとにどんどん延びていって大長編になるかもしれないなんて思いつきもしなかった。>と語っている作品です。


 それでは、その寮の描写を「ノルウェイの森」の方から引用します。
<昔々、といってもせいぜい二十年ぐらい前のことなのだけれど、僕はある学生寮に住んでいた。僕は十八で、大学に入ったばかりだった。東京のことなんて何ひとつ知らなかったし、一人暮しするのも初めてだったので、親が心配してその寮をみつけてきてくれた。>
 その寮とは目白台にある和敬塾。私は昨年そうとは知らず、学習院大学から目白通りを通って細川家の屋敷跡にある永青文庫を訪ねた時、和敬塾も訪れていました。
 目白通りは結構見所が多く、以前ご紹介した学習院大学の他、日本女子大学の明治時代の洋風建築成瀬記念講堂も見えます。


通称「目白御殿」もこの通りに面していましたが、しっかり警官が立っており、カメラを向けるのは遠慮しました。

 

上の写真は永青文庫。和敬塾はその西側に隣接しています。
<その寮は都内の見晴らしの良い高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコンクリートの壁に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。>


立派な門構えで銅版にその由来が書かれています。広い敷地は7000坪とのこと。


当日は結婚式が催されており、のこのこと鋪道を入っていきました。
塾生に会うと必ず大きな声で「こんにちは」と挨拶されます。


<コンクリートの鋪道はそのけやきの巨木を迂回するように曲がり、それから再び長い直線となって中庭を横切っている。中庭の両側には鉄筋コンクリート三階建ての棟がふたつ、平行に並んでいる。>


<鋪道をまっすぐ行った正面には二階建ての本部建物がある。一階には食堂と大きな浴場、二階には講堂といくつかの集会室、それから何に使うのか知らないけれど貴賓室まである。>


和敬塾本館は、1936年に細川護立が細川侯爵家の本邸として建て、現在は東京都指定有形文化財になっている西洋館でした。


<いずれにせよ1968年の春から70年の春までの二年間を僕はこのうさんくさい寮で過ごした>

蛍では<1967年の春から翌年の秋にかけて、僕はその寮で暮していた。>書かれていますが、実際には1968年の春からその年の秋までのわずか半年で出たようです。
せっかく父親が見つけた寮でしたが、その気風が村上春樹には会わなかったようです。



和敬塾
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西宮芦屋研究所員も東京いたころ神田川を柳橋から遡って井之頭公園まであるいた時、この近くを通りました。
目白の椿山荘の横は意識して通過しましたが、和敬塾が近くにあったのを知ったのは、ずっとその後でした。
この近辺は阪神間のように山はないですが、西宮や芦屋の山の手のような雰囲気もあり良いところですね。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2014/02/28 21:44:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

椿山荘もいいホテルで庭園を散策させていただきました。東京カテドラルのルルドの洞窟もこの通りでしたね。東京はあまりにも話題豊富で、ブログを書くにもこちらの知識がついていけないのが問題です。

[ seitaro ] 2014/02/28 22:26:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

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消えた芦屋浜 村上春樹「五月の海岸線」と遠藤周作「口笛をふく時」

 村上春樹は精道中学の頃、西宮市川越町から夙川を西に超え、当時の芦屋浜から
約200m、宮川沿いの芦屋市打出西蔵町に引っ越していました。
西宮芦屋研究所員さんは当時の地図とともに解説されています。
「海技大学校 昭和34年の芦屋市街図と芦屋今昔その31」
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061422/p10899880c.html

 

「五月の海岸線」では主人公がこんな話をします。


<ねえ、もう二十年も昔になるかな、夏になると僕は毎日この海で泳いでいたんだよ。海水パンツをはいたまま、家の庭先から海岸まで裸足で歩いて通ったんだぜ。太陽に焼かれたアスファルトの道はおそろしく熱くってね。ぴょんぴょん跳びながら歩いたもんさ。>

これは西蔵町の自宅から芦屋浜まで泳ぎに行った時の実体験だったのでしょう。


「五月の海岸線」は高校を卒業して12年後、昔の友人の結婚式のため新幹線で古い街へと戻るシーンから始まります。
 次のような芦屋浜と思われる光景が描かれています。
<一時間後にタクシーを海岸に停めた時、海は消えていた。いや、正確に表現するなら、海は何キロも彼方に押しやられていた。古い防波堤の名残だけが、かつての海岸道路に沿って何かの記念品のように残されていた。それはもう何の役にも立たない、ただの古びた低い壁にすぎない。その向こう側にあるものは波の打ち寄せる海岸ではなく、コンクリートを敷きつめた広大な荒野だった。そしてその荒野には何十棟もの高層アパートが、まるで巨大な墓標のように見渡す限り立ち並んでいた。>


現在の海岸道路と古い防波堤の名残です。その南側は埋め立てられ、高層アパートが見えています。


<「もうここができて三年になるかな」とタクシーの年輩の運転手が教えてくれた。「埋めたてをはじめてから七年くらいかかったけどね。山を切り崩して、ベルト・コンベアで運んだその土で海を埋めたんだよ。………
「ここもすっかり変わったよな。もう少し行けば新しい海岸に出るけど。行ってみますか?」「いやここでいいよ、ありがとう」>


<海岸道路を歩くと、顔にうっすらと汗がにじんでくる。五分ばかり道路を歩いてから防波堤に上がり、幅五十センチほどのコンクリートの壁の上を歩き始める。新しい運動靴のゴム底が軋む。見捨てられた防波堤の上で僕は何人かの子供たちとすれ違う。>

 

「五月の海岸線」は1980年頃の風景ですが、1974年頃の埋め立て中の芦屋浜の様子が、灘中に通っていた遠藤周作の「口笛をふく時」という小説に描かれています。

主人公小津は関西への出張のあと、灘高から芦屋の海岸へタクシーで向います。タクシーの運転手の会話です。
<松の林。芦屋川に沿った路に植えられた松が見えはじめると小津の胸は言いようのない感慨にしめつけられた。「芦屋のどこに行きまんねん」と運転手が尋ねた。「海岸」「海岸でっか」「そう」「何もおまへんで」>

「ぬえづかばし」から見た芦屋川河口と松並木。その先が「羊をめぐる冒険」の五十メートルの海岸線です。


 主人公小津が見た風景はまだ建物もない埋め立てられた芦屋浜でした。


<「ここでんねん」運転手はブレーキをかけて醜いコンクリートの堤防の前で車を停めた。「ここ。海が無いじゃないか」「そやさかい、埋立てましてんと言いましたやろ」海の風は何処からも吹いてこなかった。海の匂いもどこからもしなかった。小津はコンクリートの堤防の上に登り、あっと声を出した
ずっと遠くまで砂漠のように埋立てられているのだ。その砂漠のような埋立地にミキサー車が二台、地面を走っているだけであとは何もない。………
今、海は消えた。白い浜もなくなった。美しいもの、懐かしいものはここだけではなく、日本のすべてから消えていく時代なのだ。>


 村上春樹と遠藤周作のタクシーの運転手との会話の対比が面白いのですが、二人とも消えた海と表現しているのです。私にとっての香櫨園浜も同じです。

 



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遠藤周作も同じ風景を村上春樹と同じような気持ちで見ていたのでしたか。知りませんでした。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2014/02/22 20:34:48 [ 削除 ] [ 通報 ]

遠藤周作の作品と並べて書いてよかったです。口笛をふく時の最後では、灘高から甲南女子大、阪神国道を通って芦屋の海岸へと懐かしい思い出とともに述べられていました。

[ seitaro ] 2014/02/22 21:04:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

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村上春樹と山本二三の描いた回生病院

「村上朝日堂」に収められた「引越しグラフィティ(2)」に
<僕は物心ついてから高校を出るまでに二回しか引越しをしなかった。不満である。もっとたくさん引越しをしたかった。それに二回引越したといっても、直線距離にして一キロほどの地域を行ったり来たりしていただけである。こんなのって引越しとも言えない。兵庫県西宮市の夙川の西側から東側へ、そして次に芦屋市芦屋川の東側へと移っただけのことである。>

と書かれており、5歳から11歳までは夙川の東側川越町に住んでいたそうですが、このあたりの風景が描かれている村上作品が幾つかあります。

(写真は文芸評論家、作家の土居豊氏による「ランゲルハンス島の午後」の夙川の葭原橋での野外講義)

 

 西宮芦屋研究所員さんのブログ「めくらやなぎと眠る女と回生病院の夾竹桃  村上春樹と夾竹桃 その30」では、この短編に登場する海岸近くの病院が回生病院であることが解説されています。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061422/p10750819c.html

 

現在の浜辺から見た回生病院、昔の建物は取り壊され立て替えられています。

 

 回生病院は高畑勲監督の「火垂るの墓」でも登場し、実際に野坂昭如の義母が神戸大空襲で大火傷を負い入院していた病院です。


 短編集「レキシントンの幽霊」に収められている「めくらやなぎと、眠る女」からです。

<その病院に行ったのは八年前のことだった。海岸近くにある小さな病院だった。食堂の窓からはキョウチクトウしか見えなかった。古い病院で、いつも雨の降っているような匂いがした。友達のガールフレンドがそこで胸の手術をしたので、彼と一緒に見舞いに行ったのだ。>
その頃の回生病院の外観です。


二人はヤマハの125ccのバイクに相乗りして病院に行きます。
<友だちは駅前の菓子屋に寄って、チョコレートの箱を買った。僕のベルトにつかまり、片手でそのチョコレートの箱をにぎりしめていた。暑い日で、僕らのシャツは汗でぐっしょりと濡れたり、それがまた風で乾いたりというのを繰り返していた。>
この短編のチョコレートのお話がノルウェイの森にもてきます。「ノルウェイの森」からです。
<「さっき一人でいるときにね、急に昔のことを思い出してたんだ。」と僕は言った。
「昔キズキと二人で君を見舞いに行ったときのことを覚えてる?海岸の病院に。高校二年生の夏だったけな」「胸の手術をしたときのことね」と直子はにっこり笑って言った。「よく覚えているわよ。あなたとキズキ君がバイクに乗って来てくれたのよね。ぐしゃぐしゃに溶けたチョコレートを持って、あれ食べるの大変だったわよ。でもなんだかものすごく昔の話みたいな気がするわね」「そうだね。その時、君はたしか長い詩を書いていたな。>

「ノルウェーの森」で直子が書いていた詩について「めくらやなぎと、眠る女」では
<そう、彼女はその夏、めくらやなぎについての長い詩を書いていて、その筋を僕らに説明してくれたのだ。>と書かれています。
<めくらやなぎのためのイントロダクション>として村上春樹は<この「めくらやなぎと眠る女」と「ノルウェーの森」のあいだにはストーリーとの直接的な関連性はありません。>と述べられていますが、どうしてもこの短編とつながっているように思ってしまいます。



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おはようございます。

土居豊さんが2月27日放送のABCテレビ『ビーバップ!ハイスクール』にゲスト出演されます。
ユーチューブで「ビーバップ!ハイスクール2月27日放送」と検索すれば予告映像をみることができます。
ご関心あれば、どうぞ!

[ 373 ] 2014/02/23 8:19:58 [ 削除 ] [ 通報 ]

↑「ハイスクール」ではなく「ハイヒール」でした。
ごめんなさい。

[ 373 ] 2014/02/23 8:23:48 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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