阪急沿線文学散歩

サブURL(このURLからもアクセスできます):http://nishinomiya.areablog.jp/bungakusanpo

松浦澄恵著『薄田泣菫』より「キーツの墓(二)

松浦澄恵著『薄田泣菫』の「キーツの墓(二)」でもう一つの秘話が紹介されていました。

 土井晩翠が1901年6月から1904年11月の三年間、英・仏・独・伊の遊学の旅に出た時のこと、ローマから泣菫に送った絵葉書についてです。


『薄田泣菫全集第二巻』の「巻後に」で泣菫は自ら次のように述べています。
<私は土井氏の詩風とはどうも呼吸がぴったりと合わないものですから、失礼ですが、あまり注意しておりませんでした。その後、氏が世界漫遊の途に上られて、羅馬にキーツの墓を訪れた時、私がこの詩人を好いていることを思い出されて、その墓畔に咲いていた紫と紅の花をニ三輪摘んで、それを手紙に封じ込めて、遥かに伊太利の旅先から寄越された時には、その友誼をしみじみ嬉しく思うともに、もっとよく氏の作を読んでいた方がよかったのだと思いました。>

 土井晩翠がローマから泣菫に宛てた絵葉書は私も倉敷市の薄田泣菫生家を訪ねた時、見せていただき、晩翠の文章にも感動いたしました。


(上の写真は泣菫生家に展示されていた絵葉書に現在の写真をつなぎました。)

 

絵葉書に書かれた土井晩翠の文です。(絵葉書の展示の横に活字体で表示されていました)

 

未だ御目にかからず候えども一筆
御免被下度(ごめんくだされたく)、昨日ローマ南郊外に
遊び英の二大詩人のあとを弔い候。
別封の花はKeatsの墓よりつみとり
君が平生欽迎の処と承り候
故、かたみとして
はるかにおくりまいらす。
墓は此図
ピラミッドの左
に隠れて、一の
塀を隔てて、はるかに
Shelleyのそれと
毎(つね)に思を替わしつつある哉に
被存(ぞんぜられ)候

 

Googleの航空写真で調べますと、晩翠が書かれているようにピラミッドの左が墓地になっています。

 

左側がキーツの墓です。

 


大帝国
二千年
の廃墟
バイロンのいわゆる
“A ruin! But what a ruin!”
野花春草一として感慨の
種ならざるは無之(これなく)候。
小生三四ヶ月
此地に滞在 可仕(つかまつるべく)、
御用も
在之候はば
仰付被下度(おおせつけくだされたく)。

薄田泣菫様
             ローマにて
               土井林吉

 


 バイロンの『チャイルド・ハロルドの巡礼』は現在でもローマの案内となっている大叙情詩で、第4篇のコロッセウムを描いた部分に、A ruin -- yet what a ruin! という詩行があります。
 ローマの廃墟を目にして、キーツやシェリー、バイロンの叙情詩に思いを馳せる土井晩翠の思いが伝わってきます。
 因みに晩翠の「荒城の月」は英語で‘The Moon over a Ruined Castle’でした。


上の写真は仙台駅の近く、ビルの谷間にバージニア・リーバートンの「ちいさいおうち」のようにひっそり残された土井晩翠終焉の「晩翠草堂」



土井晩翠

goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11010003c.html
薄田泣菫 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

西宮市分銅町に住んだ泣菫(泣くすみれ)という雅号の詩人をご存知ですか?

 一度ご紹介しましたが、薄田泣菫(ススキダキュウキン)という明治後期の詩壇を背負って立った著名な浪漫派詩人薄田泣菫をご存知でしょうか。泣菫は明治43年から西宮に住んでいました。その旧居「雑草園」について、宮崎修二郎著『文学の旅・兵庫県』では、次のように紹介されています。
<羽衣橋のすぐ下から東へと伸びる道を進んでゆくとやがて分銅町―その町の二十三番地が、薄田泣菫の旧居雑草園の跡である。>

訪ねてみると今でも当時の雰囲気のままの板塀が残っていました。

分銅町の雑草園の縁側で撮った写真、左端が泣菫、右端が与謝野寛(鉄幹)ですが、中央の人物はなんと建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家と多彩な才能を持ち、与謝野寛、与謝野晶子、石井柏亭とともに「文化学院」を創立した西村伊作でした。

 近くにある安井小学校の校歌は泣菫の作詞であり、その卒業生である小松左京は「威風堂々うかれ昭和史」で「校歌は安井小学校のほうが、メロディも歌詞も、はるかによかった。」「大社小出身者には悪いけど、まったくと言っていいほどおぼえていない。それに比べれば、安井小学校校歌は。メロディも優美だったが、なにしろ、歌詞があの薄田泣菫作だったからね。」と述べています。

 泣菫は、明治10年に岡山県で生まれ、中学を中退した後、ほとんど独学で英語を勉強し、20才の時すでに英国人キーツの詩集を片時もはなさず、読み耽ったそうです。

 先日松浦澄恵著「薄田泣菫―詩の創造と思索の跡―」を読んで、「泣菫」という雅号の由来がオスカー・ワイルド作「キーツの墓」という詩にあることを知りました。
オスカー・ワイルドといえば、アイルランド出身の詩人、作家、劇作家。

彼の戯曲『ウィンダミア卿夫人の扇』を原作として、舞台を美しい景色のアマルフィに移した映画『理想の女』は感動ドラマでした。


また『幸福な王子』という童話も書いているのですが、このお話は須賀敦子さんや皇后美智子様が愛読された山本有三編『日本少国民文庫 世界名作選(二)』に収められています。


 さて松浦澄恵著「薄田泣菫」の「キーツの墓」からです。
 オスカー・ワイルドは尊敬していたキーツの墓に詣で、キーツの死を悼んで「キーツの墓」を作詩しました。その詩で墓を取り巻くように朝な夕なに露を含んで咲くすみれを次のように謡っています。


<いま その墓をおおう糸杉も 葬いのイチイもないが
 露にぬれて すすり泣く やさしのスミレが
 白骨のうえに織る とわに 花咲く環を>


 熱烈なキーツのファンであった泣菫は、英詩集の中からワイルドの「キーツの墓」をみつけ、深い共感から泣く菫(すみれ)と書かれた泣菫を雅号としたようであると述べられています。
 この「キーツの墓」の詩が生まれた年は、奇しくも泣菫の生まれた明治十年でした。泣菫はこの不思議な縁に自分はキーツの生まれ代わりになろう。和製キーツになって日本の近代詩をキーツに倣って完成させようとしたそうです。
最後に<泣菫の雅号の重要な発見は、成城大学 松浦暢名誉教授の半世紀を越える長い、キーツと泣菫の、研究の中で成されたものである。>と記されていました。

左側のキーツの墓碑には詩人のしるし竪琴が、右側のキーツをみとった画家であったセバーンのそれには、パレットと絵筆が刻まれています。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11009060c.html
薄田泣菫 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

『文学の旅・兵庫県』は宮崎翁の処女出版本です。が、背表紙に著者名が入っていません。このことにまつわるエピソード、「KOBECCO」の「触媒のうた」の初回と第二回に書きました。

[ akaru ] 2014/03/05 9:12:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

そのようなエピソードがあるのですか。確かめてみますが、そのお話は次回伺ったとき是非お聞かせください。

[ seitaro ] 2014/03/05 20:24:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

このブログトップページへ
seitaroイメージ
阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

カテゴリー一覧

QRコード [使い方]

このブログに携帯でアクセス!

>>URLをメールで送信<<