阪急沿線文学散歩

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谷崎潤一郎『細雪』には西宮の勝呂氏夫人による縁談話も登場(創作ノート)

 谷崎潤一郎『細雪』は武庫郡住吉村反高林の倚松庵での生活がそのまま小説になったと言われていますが、昨年中央公論新社より刊行された『谷崎潤一郎全集』第25巻に収められた『細雪』の創作ノートを読むと、そのことがはっきりわかります。


創作ノートからです。
<S子は二十九才であるがまだ純潔な処女である。そして大阪の実家と芦屋の姉が嫁いでいる家とを往ったり来たりしてくらしている。芦屋の姉M子の娘E子を大変可愛がって、宿題やらピアノのおけいこやらをしてやっている。随分方々から縁談があるが、まだ思わしい縁がない。>
 ここでM子とは松子、S子とは松子の妹重子、娘E子とは松子と根津清太郎との間に生まれた恵美子であることが容易にわかります。


<姉M子が結婚の時に世話をした美容師の八木つや子が縁談の世話をするのが好きなので、かねてから頼んでおいたところ、××商事の社員で、船舶部に勤めているY氏の話を持って来る。>
 創作ノートに書かれている、八木つや子氏は、『細雪』では、井谷という名で登場します。
<井谷と云うのは神戸のオリエンタルホテルの近くの、幸子たちが行きつけの美容院の女主人なのであるが、縁談の世話をするのが好きと聞いていたので、幸子はかねてから雪子のことを頼み込んで、>

 また『細雪』では、別の縁談を持ち込んだ陣馬夫人が登場します。
<台紙の裏に本人自筆のペン字でこう云う事項を記載した手札型の写真が、幸子の女学校時代の同窓である陣馬夫人から郵送されて来たのは三月の下旬のことであった。>

 創作ノートを読むと、八木つや子以外に縁談話を持って来たのは西宮の勝呂氏夫人でした。
<この話のあった半歳ほど前、勝呂氏夫人が尋ねて来て、夫人の親戚(従兄?)にあたる人で、福山市で請負をしている人が細君に死なれ子供が二人あるのだが、財産はいつ死んでも食うに困らないだけあると云う縁談を持って来る。そして明後日その人が西宮の勝呂氏宅へ来るから来てくれぬかと云った話がある。>

 ここに登場する西宮の勝呂氏夫人とは、谷崎潤一郎が痔の手術をしてもらった勝呂病院の夫人に違いありません。

写真は現在も与古道町にある勝呂クリニックです。
勝呂病院は谷崎松子著「葦辺の夢」で次のように触れられています。
<昭和12年4月17日(先々月潤一郎痔ろうをやみて勝呂病院入院当日の控えここにうつす)主の肛門周囲炎、御キュウもとうとう見限りをつけ、西宮勝呂病院に今一度診断を乞う事にする。>
勝呂先生夫人も登場していました。
<庸子さん(勝呂先生夫人)のねていらっしゃったところは御床も縁側もあって良いのであるが、隣の手術室の声等聞こえては心地悪いかと、ニ階の病室に決める。割合落ち着きそうなと氏も言う。手回りの品を片付け終わると、そろそろ明日の手術のこと案じられて動悸も高い。主はと見るとはや高鼾。>

 勝呂病院で痔の手術を受けた谷崎潤一郎ですが、『細雪』では、お手伝いのお春の父が痔の手術を受けたことになっています。
<お春の云うところに依ると、彼女は先月の下旬に、尼崎の父が痔の手術で西宮の某肛門病院に入院した時、二週間ばかり暇を貰って父に付き添っていたのであったが、(中略)
病院は西宮の恵比寿神社の近くにあったので、いつも彼女は国道の札場筋から尼崎までバスに乗って行ったが、その往復の道で三度奥畑に邂逅した。>
この恵比寿神社近くの西宮の某肛門病院というのが勝呂病院のことだったのです。



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勝呂誉(ほまれ)が勝呂クリニックの親戚だと、中学校のとき先生から聞きました(が、ガセネタかもしれません)。
そのころ勝呂誉は人気のある俳優で、当時の妻は大空真弓でした。
クリニックの看板に「医療法人ほまれ会」と書いてあるので、勝呂誉と本当に親戚かもしれないと思ったりしています。

[ 西野宮子 ] 2017/02/26 14:53:51 [ 削除 ] [ 通報 ]

西野宮子さん、勝呂誉さんは間違いなく親戚にあたる方です。
宮子さんもそうだと思いますが、私も日曜劇場のファンでした。
数か月前に、芦屋で講演されており、私は出席しておりませんが、それなりのお年を召した姿だったとのことでした。

[ seitaro ] 2017/02/26 22:44:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

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谷崎潤一郎が住む夙川の根津家別荘別棟に「武秀公秘話」原稿依頼訪問

 谷崎潤一郎が根津清太郎夫人松子(23歳)と知り合ったのは大正15年のことですが、昭和5年の佐藤春夫への「妻譲渡事件」までの夫人は千代でした。
 その後、昭和6年1月には吉川丁末子と婚約し、4月に丁末子と結婚式を挙げています。
 9月には高野山龍泉院から根津家の善根寺、稲荷山の別荘に移りますが、11月からは兵庫県武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在していました。

 
 夙川の大師踏切で渡辺温が亡くなった後、「新青年」の編集を引継いだ乾信一郎が昭和6年に『武秀公秘話』の原稿をもらいに行ったのは、谷崎が丁未子夫人と住む夙川の根津別荘別邸でした。
 乾信一郎『新青年の頃』からです。
<谷崎さんのお宅は、阪急電車の夙川駅から近い所だった。迷わず、すぐそれとわかった。平屋建てのあまり大きくはない構えの立派な家だった。その母屋の手前、ちょっと離れた前庭の中に、小さな洋風の建物があったから、その入口の呼鈴を押した。>

 吉田初三郎の昭和11年西宮市鳥瞰図に、根津別荘(赤矢印)と『細雪』の舞台にも登場する三階建て洋館アパート「甲南荘」(緑矢印)が描き込まれていました。

 この頃、根津家は窮迫して大阪靭の本邸を売り払ったため、根津夫婦、祖母コノ、重子と信子が住んでいました。
市居義彬著『谷崎潤一郎の阪神時代』に夙川の根津別荘の間取り図が記されていました。

 乾信一郎の記憶違いと思いますが、母屋も別棟も平屋ではなく二階建てでした。
<しばらくして、その離れみたいな小さな建物からではなく、その後ろの母屋の方から、きれいな和服の若い美しい女の人が出てきたのが意外だったが、とにかく名刺を出して、来意を告げると、こちらでちょっとお待ち下さい、といって洋風の小さな建物の中へ私たちを案内してくれた。>

 さて母屋の方から出て来て乾氏を迎えたのは、本当に丁未子夫人だったのでしょうか?
ひょっとして、その頃既に谷崎と情を通じていた松子さんだったのではないでしょうか。
<当時、新聞などで騒がれた事件だが、谷崎さんは奥さんと親友の佐藤春夫さんに譲って、ご自身は「文藝春秋」の記者だった、若い美しい人と暮らしているという、その人が先ほど取次に出てきた人だとはすぐに見当がついた。後年戦時中に、軍部当局から、時局に反する小説という理由で連載を遠慮させられた、谷崎さんの「細雪」の中の三姉妹の一人を思わせるような、きれいな人だった。>
「細雪の中の三姉妹の一人を思わせるような」と書かれると、ついつい松子さんを想像してしまいます。

 根津別荘別邸で書かれた『武州公秘話』では、武州公夫人に松雪院の名を与えており、当時母屋に住む根津夫人の松子さんを思い起こさせますが、武州公の異常さについて行けなくなる姿は、まるで丁未子夫人のようで、谷崎の心の中で絡み合う松子さんと丁未子夫人の姿がこの猟奇的小説を書かせたように思われてきます。



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夙川の根津別荘別棟で『武州公秘話』を執筆した谷崎潤一郎

 昭和5年、夙川の大師踏切の事故で轢死した渡辺温の、「新青年」の編集担当を引き継いだのが乾信一郎でした。彼の著作『新青年の頃』に「『武州公秘話』の秘話」と題して、昭和6年に「武州公秘話」の原稿をもらいに谷崎の住む夙川を訪れた様子が述べられています。

 
 引越し魔で、奥さんも次々と変えた谷崎ですから、その頃どうなっていたか、整理しておきましよう。

 谷崎潤一郎が根津清太郎夫人松子(23歳)と識り合ったのは大正15年のことですが、
昭和5年の佐藤春夫への「妻譲渡事件」までの夫人は千代でした。
そして昭和3年秋には 兵庫県武庫郡本山村梅ノ谷に転居しています。
昭和5年に千代夫人と正式に離婚。
昭和6年1月には吉川丁末子と婚約し、4月に丁末子と結婚式を挙げています。
9月には根津家の善根寺、稲荷山の別荘に移りますが、その後11月からは兵庫県武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在していました。
昭和7年に兵庫県武庫郡魚崎町横屋川井に転居、3月 魚崎町横屋字川井(西田)431-3に転居し12月には丁末子夫人と別居、本山村北畑字天王通り547-2に転居しています。

したがって、乾信一郎が昭和6年に『武秀公秘話』の原稿をもらいに行ったのは、夙川の根津別荘別邸だったのです。

その時の様子が次のように書かれています。
<谷崎さんのお宅は、夙川という阪急だか阪神だかの電鉄沿線の高級住宅地とはわかっていたのだが、どっちの沿線なのか見当もつかない。とにかく初めての関西である。>

乾は学生時代の親友に案内してもらいます。
<谷崎さんのお宅は、阪急電車の夙川駅から近い所だった。迷わず、すぐそれとわかった。平屋建てのあまり大きくはない構えの立派な家だった。その母屋の手前、ちょっと離れた前庭の中に、小さな洋風の建物があったから、その入口の呼鈴を押した。
 しばらくして、その離れみたいな小さな建物からではなく、その後ろの母屋の方から、きれいな和服の若い美しい女の人が出てきたのが意外だったが、とにかく名刺を出して、来意を告げると、こちらでちょっとお待ち下さい、といって洋風の小さな建物の中へ私たちを案内してくれた。>

現在の現在の西宮市相生町12番地付近の根津家別荘跡地の様子です。

<当時、新聞などで騒がれた事件だが、谷崎さんは奥さんと親友の佐藤春夫さんに譲って、ご自身は「文藝春秋」の記者だった、若い美しい人と暮らしているという、その人が先ほど取次に出てきた人だとはすぐに見当がついた。後年戦時中に、軍部当局から、時局に反する小説という理由で連載を遠慮させられた、谷崎さんの「細雪」の中の三姉妹の一人を思わせるような、きれいな人だった。>

 しかし、待てど暮らせど谷崎は出てこず、母屋の茶の間に通され、昼食まで出してもらって、その後ようやく谷崎が登場したので、原稿を依頼します。
 翌日再度、訪問し谷崎から手渡された封筒を開けてみると、和紙の大型原稿紙に筆で、「朝までかかったが、一枚も書けない」と達筆で書かれていたそうです。
 その後、毎朝十時半ごろに夙川の谷崎邸に通った乾は、四日目か五日目で、ようやく原稿紙三枚ほどの「武州公秘話」の書き出しの部分をもらったのです。
 谷崎に原稿を書いてもらうのに、相当苦労したようですが、根津家の別荘で出て来た和服の美しい女性とは、本当に谷崎夫人の吉川丁未子だったのでしょうか。




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「夙川事件」で渡辺温が亡くなった後を継いだ乾信一郎(「新青年」の頃)

 昭和五年二月の夙川JR大師踏切での渡辺温の事故死については、谷崎潤一郎『春寒』に最も詳しく書かれ、戦後江戸川乱歩が編集に乗り出した推理小説雑誌「宝石」の編集に携わった小林信彦も『夙川事件―谷崎潤一郎余聞―』でも、その事故を題材とした小説を書いています。

 
 さらに調べていると、昭和12年から『新青年』の編集長を務めた乾信一郎も著書「新青年の頃」でも触れていました。


 乾信一郎氏はWikipediaによると、<米国シアトル生まれ。1912年、母とともに父母の郷里熊本県に戻りそこで育つ。青山学院高等部卒。同商科在学中の1928年、翻訳が『新青年』に採用される。1930年卒業後、博文館に勤務し、『新青年』に探偵小説を書く。1935年『講談雑誌』編集長、1937年『新青年』編集長。1938年フリーとなり、文筆に専念。>という人物です。

 渡辺温が亡くなった二か月後の昭和五年四月に青山学院をどんじり一番で卒業した乾信一郎は、四月のある日から採用通知もないまま「新青年」の編集部に椅子とデスクがあてがわれます。
<先輩の水谷さんと荒木猛さんとが向かい合いの机についているそのわきに、もう一組の椅子とデスクが空席になっていた。そこが私の席ときめられたが、そこはまた。事故でなくなった渡辺温氏の机だった、とも水谷さんに教えられ、何か厳粛な気持ちに襲われた。新進作家として将来を期待されながら交通事故で惜しくもなくなった人であることは新聞などで承知していた。その人が使っていた椅子やデスクとなると、何かただの椅子やデスクでない気がして、そこへ座ることになったとは、これは大変なことだぞ、と尻ごみしたくなるような気持ちだった。>
 引き出しの中には、渡辺温の書きかけの原稿が二、三枚残っていて、横幅のひろいような独特の文字が印象に残っていると述べています。

乾信一郎が編集にも携わったと思われる「新青年」八月号。

横溝正史の探偵小説もあります。

 それにしても、乾信一郎は「新青年」の編集部の空席を満たせる人間と判断されたのは、自分自身今となってもわからないとしていますが、どこか見どころがあったのでしょう。後に編集長になるのですから。

<その人は、その頃関西に住んでいた谷崎潤一郎氏に原稿依頼に行った帰途、乗ったタクシーが踏切りで列車と衝突しての死であったと聞いていた。後年その谷崎さんのお宅へ原稿取りに私が出かけた話は、いずれまた後で記したい。>
この話は、「武州公秘話」の秘話として紹介されます。渡辺温に代わった乾信一郎が谷崎から原稿をもらうのは相当苦労したようですが、その話は次回に。



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小林信彦『夙川事件 −谷崎潤一郎余聞―』横溝正史が谷崎に会いに

 さていよいよ昭和5年2月におこった夙川事件の様子に入ります。谷崎は当時、兵庫県武庫郡本山村梅ノ谷1055に住んでいました。渡辺温は谷崎に「何か百枚ぐらいの創作を」と注文していましたが、谷崎は2月7日、渡辺温に、あと一月待ってくれと電報を打ちます。
8日、渡辺は、楢原茂二に、夜行で催促に行くと伝え、楢原は谷崎を訪ねますが終日不在。
9日、渡辺は大阪につき、夙川の楢原の下宿に行き、寝坊の谷崎の起きるころを見計らって、12時過ぎに二人で谷崎を訪ねます。谷崎は明日の夕方までに何か書くと約束。渡辺は今夜は楢原の下宿する夙川に泊まると言って帰ります。
10日、谷崎は一行も書けずにいましたが、午前1時45分、タクシーが貨物列車と衝突し、楢原負傷、渡辺死す。朝6時半、谷崎報せを受けます。


谷崎潤一郎『春寒』からです。
<そのガレージは兵庫の尻池にあって、今朝の午前一時ごろ、そこの車が客を拾いに神戸の町へ出ていると、二人が栄町一丁目からそれに乗った。そして阪神国道を東へ走って、恰も神戸と大阪の真ん中辺西宮市の手前から左へ折れ、阪急線の夙川へ出ようとして汽車の踏切を越える途端に貨物列車と衝突した。列車は上りであったから、北へ向って進む自動車の左側―しかもちょうど客席の横腹を打ち、そのまま1丁半ばかり引き摺って停車した。>

写真の右側から上り列車は来ます。

こちら側から上りの貨物列車が向かってきたのです。

 <助手と渡辺君は左側に、運転手と楢原君は右側に乗っていた。そして最初の一撃に運転台の右のドアーが開いて運転手は跳ね飛ばされ、暫くしてから助手が跳ね飛ばされ、客席の二人は最後まで車内に残った。負傷の最も軽いのは右の前方にいた運転手、次が楢原君、次が助手、渡辺君は殆ど身を以って汽車にぶつかった訳で、額と、頤と、頸部を破られ、その場で意識を失って、病院に担ぎ込まれると間もなく死亡した。それが午前五時何十分。僕に電報を打ったのは、楢原君が会いたがってもいたのだが、警察が立ち合って欲しいと云って僕の来るのを待ちかねているのであった。>

担ぎ込まれた病院は回生病院でした。

 小林信彦『夙川事件 −谷崎潤一郎余聞―』に戻りましょう。博文館に谷崎から「オンチャンシス スグコイ」という電報が届きます。使いの人がそれを編集長だった横溝正史の家に届け、横溝と水谷準が遺体を引き取りに西に向かいます。
<横溝、水谷の二人とも、作家で編集長という特殊な立場にあったが、この時代にはそう珍しいことではない。それよりも、二人の作家が作家(渡辺温も作家である)の遺体を引き取りに行って、大家の谷崎潤一郎に挨拶をする光景の方が私には不思議に見える。その時は「あがっちまって汗ばかりかいてンだよ」と正史は回想していた。>
遺体は回生病院にありましたから、横溝正史と谷崎潤一郎はそこで会ったのでしょうか。

谷崎は『春寒』で大師踏切について次のようにも述べています。
<夙川の踏み切りは間違いの多いところで、今まで何人殺されているか知れないのである。北から南へ越すときはそうでもないが、南から北へ越すときは、両側に大きな松の枝があり、踏み切り番の小屋があって、見通しが利かない。>

現在の南から見た大師踏切です。

<僕も夙川や西宮にはついでがあり、しばしばあの辺の鉄道線路を横切ることがあるけれども、少し廻り道をして堤防の東のガードを越すか、そうでなければ踏み切りの前でエンジンのうなりを止め、助手を線路へだしてみてから渡るようにしていた。>

谷崎が少し回り道をして通った夙川堤防の東のガードです。

踏切の近くに地蔵尊がまつられ、以後は事故もおさまったとか。

小林信彦『夙川事件 −谷崎潤一郎余聞―』では最後に、小林信彦が嫌っていた年老いた気障な翻訳家長谷川の話が登場します。
<「だいたい、夙川の踏切でさかさまになっちまえばよかったんだよ。温ちゃんだけ死んで、あいつは生きのびた。そう思わないか」私は二の句が継げなかった。しばらくして、ようやく、「楢原って、あの人だったんですか」と言った。「知らなかったのかい。長谷川ってのはペンネームさ。戦前の『新青年』のファッション案内のページでならしたと自称している……」>
これには小林信彦も驚いたことでしょう。



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小林信彦も書いていた「夙川事件」

 「夙川事件」とは昭和5年2月のJR大師踏切での渡辺温の轢死事件のことですが、あとがきで小林信彦は副題にあるように「昭和の初めに日本の探偵小説作家がいかに谷崎潤一郎を敬愛していたかを描きたかった」と述べています。

 文学界2009年7月号に発表された『夙川事件 ―谷崎潤一郎余聞―』(単行本『四重奏カルテット』に収録)は小説に分類されていますが、登場人物はすべて実名で書かれ、小林信彦の宝石社勤務時代を回顧しながら、「新青年」、推理小説雑誌「宝石」などの解説を交え、夙川事件について語り、最後には落ちまで付いていました。

 小林信彦が子供の頃、夢中になっていた「怪人二十面相」、その著者江戸川乱歩は昭和32年から推理小説雑誌「宝石」の編集に乗り出していました。

 宝石社と呼ばれた小さな建物の三階の編集部の机で、アメリカの推理小説雑誌の日本版の編集をしていたのが26歳の小林信彦です。 彼は、編集部の隅で働く老人が、大正の終わりから昭和にかけて博文館でならした編集者真野律太と知ります。そこから博文館の「新青年」の話に入っていきます。

<幸い、「新青年」は良い時期のものが経理部の本棚にそろっていた。良い時期というのは、昭和初年から日中戦争に深入りするまでの、十年に満たない期間のものである。ゲラ刷りがくるのを待つ時間、私はそこで「新青年」を隅から隅まで読んでいた。>

写真は大正9年の「新青年」創刊号。

<戦前の名編集長の名をあげると、森下雨村、横溝正史、延原謙、水谷準の四人であるが、横溝正史の代から都会趣味、モダン路線が強くなり、モダニズム嫌いの江戸川乱歩と軋轢を生じたりした。>

松野一夫が初めて表紙絵を担当したのは大正10年5月号です。

<いま手元にある昭和九年夏の号を例にとろう。松野一夫描くアール・デコ風の表紙をめくると、ヴィニー香水や南米リンス社製のパナマ帽の広告があり、目次には徳川夢声のユーモアエッセイ、獅子文六の第一作「金色青春譜」の第一回と小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」の第四回が並んでいる。>


<「横溝さんが編集のあたりからユーモアの味がはっきりしてきてますね」私は老人に意見を述べたことがある。老人は突き出した唇の前で右掌を振って、「まあ、世間では『新青年』のカラーを作ったのは、二代目の横溝正史(よこせい)ってことに」なっているが、私たちは助手だった温ちゃん −本名・渡辺温の力が大きかったと見ている。ショートショートの元祖、渡辺啓助さんの弟だ。変わった男だったが、大変な才人だったと思うよ。博文館としても、温ちゃんはホープだったんだ。あんたがやろうとしているのは、温ちゃんの線だと私は見ているよ」>

<老人の目から見ると。そういうことになるか、と思った。「温ちゃんを知らないかね」「お名前を耳にしたことはあります。事故で亡くなった方でしょう」「そう。谷崎潤一郎の原稿をとりにいく途中でね」「電車にぶつかったとか……」「原稿はとれていなかったんだ。しつこく依頼に通ってね。たしか夙川といったと思うが、そこの踏切で阪神電車にぶつかった」「そういえば……」私は思い出した。>

ぶつかったのは阪神電車の踏切ではなく、JRの大師踏切でした。


次回は事故に至るまでの経緯をもう少し詳しく。



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西宮文学案内「阪神間モダニズム 文学作品に見えるゴルフ場」

 11月20日に西宮文学案内「阪神間モダニズム 文学作品に見えるゴルフ場」が開催されました。


講師は高木應光氏。


 阪神間モダニズムと関西のゴルフ場発祥と文学作品を関連付けた貴重な講演でした、
 芳賀徹編『小出楢重随筆集』、北尾鐐之助『阪神風景慢歩』による阪神間モダニズムの時代背景の紹介。
 白洲次郎の軽井沢ゴルフ場での作家たちとの交際。
 
大岡昇平『酸素』、多島斗志之『黒百合』による日本初の六甲山のゴルフ場の紹介。

ヴォーリズの設計したクラブハウスの紹介。

 谷崎潤一郎『細雪』、『猫と庄造と二人の女』などから全国二番目のゴルフ場、横屋ゴルフ場とその変遷。

 城山三郎『零からの栄光』から川西航空機、鳴尾ゴルフ倶楽部の変遷。

須賀敦子『しげちゃんの昇天』、遠藤周作『仁川村のこと』から宝塚ゴルフ倶楽部。

 そして最後は阪神間モダニズムの継承として、村上春樹『風の歌を聴け』から芦屋カンツリー倶楽部の紹介と、ほとんどすべてを網羅し、貴重な昔の写真とともに、興味深い解説でした。

次回は12月10日。いよいよ、白羽弥人監督による、「映画で描いた阪神間の風景」です。



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谷崎潤一郎も度々訪れたという有馬温泉へ

 夏の暑い盛りに、谷崎潤一郎もしばしば訪れたという有馬温泉へ行ってまいりました。車で行けば45分程度で到着です。


 谷崎の作品で、有馬温泉は『細雪』にも、『猫と庄造と二人のおんな』にも登場します。
『猫と庄造と二人のおんな』からです。
<それは二人が人目を忍ぶ仲になり出して間もない時分、或る日滝道の終点で落ち合い、神有電車で有馬へ行って、御所の坊の二階座敷で半日ばかり遊んで暮らしたことがあったが、涼しい渓川の音を聞きながら、ビールを飲んでは寝たり起きたりして過ごした、楽しかった夏の日のことを、二人ともはっきり思いだした。「そしたら、又御所の坊の二階にしょうか」>

 実際に谷崎潤一郎は松子夫人と何度か御所の坊を訪れていたようです。
私の宿泊先は御所の坊ではなかったのですが、取り敢えず谷崎の宿泊した御所の坊を目指しました。
有馬温泉総合案内所で地図をもらい、太閤通りを通って御所の坊へ。
(最初の写真の赤矢印)

喫茶だけでもとフロントで尋ね、「餐房 閑」に通していただきました。


オーダーしたのは有馬ティーなる一種のハーブティー。


蓋を取ると、紅茶に有馬山椒の木の芽が浮かんで、いい香りでした。


谷崎はこの2階で過ごしたのでしょう。

道を挟んで滝川が流れており、せせらぎの音が聞こえてきます。


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谷崎潤一郎が通った苦楽園ラジウム温泉長春楼のパンフレットと関西人気質

 西宮市制90周年写真集「西宮という街」を見ていますと、苦楽園に谷崎潤一郎が逗留していたときに通っていた長春楼のパンフレットがありました。

(左奥にゲンコツホテルが写っています)


 谷崎は関東大震災後、一時苦楽園の万象館に滞在し、その時に長春楼のラジウム温泉共同浴場に通ったようです。


 長春楼は三笑橋にある苦楽園バス停から少し下った所にありましたが、現在は住宅地となり、その面影はまったく残っていません。


 谷崎潤一郎は『阪神見聞録』に長春楼の共同浴場での出来事を次のように述べています。
<六甲の苦楽園にいた時、在る朝ラジウム温泉の共同風呂へ這入りに行くと、私より先に這入っていた商人風の若い男が、やがて私と入れ代わりに湯から上がって、戸外へ出て行ったかと思うと、直ぐ又それとよく似た男が這入って来て、着物を脱いで、素っ裸になって、私の漬かっている湯槽の中へ飛び込んだので、「オヤ、此れは今の男と違うのか知らん?」と思っていると、その男はニヤニヤしながら、「失礼でが、あなたが谷崎さんですか」と云う。そうだと答えると、「ははア、左様で。実は何です、今門口で谷崎さんはこの温泉へおいでにならんかと聞いてみましたら、今お這入りになっているのが谷崎さんだと伺いましたんで、ちょっとお目に懸かりたくって、もう一度風呂に這入りに来ました。と云うのであった。しかしこれなどは非常識でも愛嬌のある部だが、此れもやはり同じ風呂場で、在る朝私が湯槽の縁にしゃがみながら、湯を浴びていると、中に漬かっている二人連れの男が、つい鼻の先で、此方を無遠慮にジロジロ見詰めては話をしている。……>
大正12年12月の頃のことでした。


 現在でも、タレントやスポーツ選手など見かけると関西人は気軽に声をかける(関東ではあまりないことらしい)という気質は変わっていないようです。

 写真手前が苦楽園の長春楼、奥に見える池は惠ヶ池です。

こんな時代もありました。



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西宮文学案内秋季講座「大谷崎没後50年 谷崎潤一郎と西宮」おおたにざき?

 昨日、西宮文学案内秋季講座の初回「大谷崎没後50年 谷崎潤一郎と西宮」と題した河内厚郎氏と小西巧治氏による講演会が西宮市立勤労会館で開催されました。


 小西氏は冒頭、会場を勤労会館とした理由について、谷崎は神戸、芦屋、西宮の3市にまたがって13回転居しているが、当時はいずれの場所も兵庫県武庫郡であったこと、そして勤労会館が武庫郡役所跡であったとことを紹介され、皆そうだったのかと感心して聴いておりました。

 その後『細雪』を中心に、谷崎のゆかりの場所、松濤アパート、阪神国道、キリレンコの家、マンボウ、一本松、勝呂病院、パインクレスト、川西航空機等々が紹介されました。

 

 また河野厚郎氏は、灘中出身で谷崎にも劣らず五度の結婚をくり返している高橋源一郎氏が谷崎について「世界に冠たる変態」と評したことを紹介し、いつもの軽妙洒脱な語り口で楽しいお話を紹介いただきました。

 講演会終了後、ある方が河野氏に大谷崎は「おおたにざき」と「だいたにざき」のどちらが正しいのかとの質問をされておりました。
 

私は、苦楽園に住んだことのある作家清水博子さんが小説『VANITY』で、義母から大谷崎は「おおたにざき」と読むのだと教えられる場面があり、「おおたにざき」と信じておりました。
帰って調べてみると、「やるせない読書日記」というブログで小谷野敦著『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』から引用し詳しく紹介されていました、
http://ameblo.jp/poaa/entry-10016791790.html

 


その中で、戦後の谷崎が最も親しくしていた舟橋聖一と、谷崎の礼賛者だった三島由紀夫が対談し「おおたにざき」と読むのが正しいと語っているのを紹介しています。
 一方著者の小谷野敦氏は、大谷崎と呼ばれたのは、弟の清二も作家だったからであるとし、「三島がどう言おうと昭和初年の谷崎関係の記事で「大谷崎」には「だいたにざき」とルビがふってあるのだ。」と「だいたにざき」が正しい読み方だと主張されているのです。
 漢字の読み方も時代とともに変わりますので、面白い論争でした。
因みに大近松は「おおちかまつ」と読むそうです。



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谷崎潤一郎 | コメント( 4 ) | トラックバック( 0)

大相撲は「おおずもう」ですし、大歌舞伎も「おおかぶき」、大ロンドンは「だいロンドン」など法則がわからないので難しいですね。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2015/10/13 21:54:30 [ 削除 ] [ 通報 ]

ご講演楽しく聞かせていただきました。漢字の読み方も文学者が持論を主張するまでになると、面白いです。

[ seitaro ] 2015/10/13 22:03:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

おはようございます。
「大谷崎」の読み方については、かつて小林信彦さんも『週刊文春』の連載エッセイでふれていました。
そのときは、知ったかぶり(笑)するには、覚えておかないと、肝に銘じたはずなんですが、さて、どっちでしたか(笑)

明日15日(木)には、「木曜講座」として、なるお文化ホール(西宮東高校)で午後2時から『谷崎潤一郎没後50周年記念講演』が開催されます。
ご関心と、お時間の都合がつくようでしたら、こちらもぜひどうぞ。

[ 373 ] 2015/10/14 7:26:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

373さん ありがとうございます。残念ながら明日は都合がつきませんが、今年は谷崎関係のイベントが多く、楽しみです。

[ seitaro ] 2015/10/14 7:48:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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