阪急沿線文学散歩

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西宮文学案内第3回は「岩谷時子・生誕百年 西宮が生んだ大作詞家」

 7月17日(日)西宮市勤労会館で今年第3回目の西宮文学案内が開催されました。

テーマは「岩谷時子・生誕百年 西宮が生んだ大作詞家」。
司会進行はラジオパーソナリティとしてご活躍の増井孝子さん、講師は文化プロデューサーの河内厚郎氏です。

 岩谷時子は1916年京城府生まれ、5歳で西宮に移住し、水抜小学校、安井小学校、市立西宮高等女学校、神戸女学院大学卒業後、宝塚歌劇団出版部に入社、その後長く越路吹雪のマネージャーを務めます。

岩谷時子が通った市立西宮高等女学校は昭和11年の吉田初三郎の西宮市鳥瞰図にはっきり描かれています。

 増井孝子さんの司会進行により、岩谷時子の作詞による曲をはさみながら、河内厚郎氏の岩谷時子と彼女につながる人々について楽しい話が繰り広げられました。

会場に流れた曲は
「ふりむかないで」(ザ・ピーナッツ)
「夜明けのうた」(岸洋子)
「逢いたくて逢いたくて」(園まり)
「ほんきかしら」(島倉千代子)
「夢見るシャンソン人形」(弘田三枝子)

いずれも懐かしく、いい曲ばかり。さすが大作詞家です。

 グラフ西宮1968年には「思い出の町よ」と題して寄稿され、そこで
<まだ夙川を蛍が飛び交い、川の流れにめだかが泳いでいた、美しい抒情的な西宮の風物が、幼かった私のこころに根をおろし、後年、作詞家となる運命に、みちびいたのではなかろうかと、今でも思うことがある。>と述べられています。

 それほど西宮を愛した大作曲家岩谷時子さんなのに、彼女を顕彰すようなものが何も西宮にないのが残念です。



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西宮文学案内秋季講座第2回『作詞家を生み出す街 西宮』に出席

 10月25日に夙川公民館講堂で、西宮文学案内秋季講座第2回『作詞家を生み出す街 西宮』が開催され出席いたしました。

 

講師は文化プロデューサー河内厚郎氏。200人収容の講堂も大入り満員で、西宮文学案内の講座も人気がでてきたようです。

 
 紹介されたのは、岩谷時子、貴志邦三、高田直和、麻生香太郎、薄田泣菫。
こんなに西宮ゆかりの作詞家がおられたとは驚きです。
 話題は裏話を交え、多岐にわたり、また有名な曲、初めて聴く曲などを聞かせていただき、楽しい講座でした。
 やはり最初に紹介されたのは、多くの大ヒット曲を生み出した岩谷時子さん。

「夜明けのうた」「ほんきかしら」「愛の賛歌」など講演の途中に聞かせていただきました。


 岩谷さんは、昨年の10月25日に逝去され、偶然ですが、講演会はちょうど命日にあたりました。西宮芦屋研究所員さんも言われていましたが、憤懣やるかたないのは、西宮をあんなに愛した岩谷さんを西宮市として顕彰することがなかったことです。
 当日配布された資料に、1968年のグラフにしのみやに寄稿された「思い出の町よ」が紹介されていました。
<今までの私の人生の中で、いちばん思いで多い幼年期と少女期を西宮ですごした私は、西宮という字を見るだけで、砲台があった夏の海や、十日戎のお祭りや、近所に住んでいた誰彼の顔が蛍火のように、瞼に浮かんでくる。>
 また随筆集『愛と哀しみのルフラン』でも、多くの西宮での暮らしの思い出が収められています。

その中の「好きな季節」では
<幼年時代から少女時代にかけて住んでいた西宮は、まだ鉄道の土手にのぼれば、つくしや、たんぽぽ、すみれが咲いていて、春の鳥は、れんげの花さかりであった。
 西宮といても、夙川、甲子園、今津などを転々としていたので、これは、どこに住んでいたときのことか、定かではないが、今も忘れない一つの思い出の風景がある。>
と西宮を愛した岩谷時子さんです。
 驚いたのは、とても考えられない岩谷時子作詞いずみたく作曲の「西宮市立西宮高校・生徒歌」が存在することで、これも聞かせていただきました。

どのような経緯でこの歌が作られたのでしょう。

 2016年は岩谷時子さんの生誕百年にあたり、西宮市として行事を是非とも考えてもらいたいものです。

 

次は昭和時代の詩人、喜志邦三さん。


「春の唄」歌詞の第二節は、西宮北口界隈の市場を心において作詞されたそうです。西宮北口のアクタの円形広場に、その歌碑があります。一度テレビでも紹介されていました。


「 ラララ 紅い花束 車に積んで
  春が来た来た 丘から町へ…」
軽快なメロディが会場に流れました。
「文教住宅都市西宮の歌」の作詞も喜志邦三さん。
 資料では、「ふるさとの山 甲山」という詩や、「甲子園口・柳の並木道」というエッセイも紹介されていました。

続いて、高田直和さんの「おもいで酒」、麻生香太郎さんの「ああ甲子園」などの紹介。

 最後は大御所、大詩人薄田泣菫の紹介。

分銅町にあった旧居「雑草園」の面影は今も残っています。
 小松左京が絶賛していた格調高い「安井小学校校歌」を初めて聞かせていただきました。

 

 今回の講座では多くの西宮ゆかりの作詞家を知ることができ、楽しい一時間半でした。本当にありがとうございました。



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喜志邦三氏から宮崎翁への手紙、託されて所持しています。そして息子さんの講演を聞いたことがあります。

[ akaru ] 2014/10/28 23:39:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

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岩谷時子さんも須賀敦子さんも感傷深く語る「ティペラリィ」の歌

 岩谷時子さんは『愛と哀しみのルフラン』の「お金はないけど愛があった」というエッセイで、父上の思い出を語り、「チッペラリー」の歌について述べられています。

 岩谷さんが西宮に住んでおられた頃の話です。
<父は運の悪い人だった。時勢にのりおくれ、人に騙され、仕事も転々と変わった。世の中も不景気だった。私たちは決して豊かではなかったが、家の中はいつも平和だった。>
 岩谷さんの大好きな父親は童話の代わりに怪談を聞かせたそうですが、歌についても
<童謡の代わりに歌ってくれたのは「チッペラリー」という歌で、他にはイギリスやフランスの国家、そして浅草オペラの歌かと思われる「おてくさん」「ベアトリネエチャン」などだった。前の三曲は原語で毎日聞かされたので、何語ともわからないメチャクチャ語だが、今でも歌詞を覚えている。>


「チッペラリー」「おてくさん」「ベアトリネエチャン」が収められたCDがコロムビアミュージックショップで販売されていました。

 

 岩谷さんは神戸女学院を卒業し、宝塚へ引っ越されます。その家で父親が亡くなり、遺骨を父親の生まれた島根県の祖父母が眠る墓地に埋葬し、宝塚に帰ります。


<父がいなくなった宝塚の家へたどり着いた私は、ひとりで二階へ上がり、屠られたけもののように畳に横たわり、声をころして泣いた。郷里にとどまって結婚することを、私は恩ある人にすすめられながら、帰ってきてしまっていた。父が歌ったチッペラリーへの道が、どんなに孤独で遠いものかも知らないで….。>
と最後の文章は「チッぺラリー」で結ばれています。

 

 この曲は須賀敦子さんにとっても印象深い歌であったことが『夜半の歌声』で述べられています。母親が麻布の家で、はしかで熱のある小さな弟を抱いて「ティッペラリィ」をくちずさんでいた様子です。


<母が弟を抱いて歌うと、ならんで敷いたふとんのなかから、私と妹も声をあわせて歌った。英語の歌だから母も私たちも、歌詞の意味がぜんぜんわかっていないし、だいいち、ちゃんと歌詞がうたえているのかどうかも、まったくおぼつかない。………
イッツァロングウェイ、トゥティッペラリィティッペラリィ
イッツァロングウェイ、トゥゴォ>


<本来は行進曲ふうの歌なのだろうが、母がうたうと、軽いリズムが風に舞う花びらのようだった。弟が重いので、母はときどき、ヨイショとか、ホイサッというかけ声のようなのを歌詞の間にはさんで、私たちを笑わせた。
 それ、いったいなんの歌なの?とたずねても、返事はいつも、パパに教えてもらったの、イギリスの古い歌ですって、欧州大戦のときの、と言うだけだった。アイルランドのティッペラリィという都会に連隊があったという話を聞いたのはずっとあとのこことで、これとドイツの映画で評判だった「会議は踊る」の主題歌と、もう一つはシューベルトの子守歌。この三つが、私たちにとっての、母の歌だった。>

「ティペラリーの歌」は第一次大戦時に英軍でよくうたわれた愛唱歌で、1912年につくられた望郷の歌とのこと。

世代の違う岩谷さんと須賀さんが、このように語られるティッペラリィの歌、戦前の日本でよほど流行ったのでしょう。

 

It's a long way to Tipperary,
It's a long way to go.
It's a long way to Tipperary
To the sweetest girl I know.
Goodbye Piccadilly,
Farewell Leicester Square,
It's a long long way to Tipperary,
But my heart lies there.

遥かなティペラリーよ、
そなたへの道程は遠い。
遥かなティペラリーよ、
そこなる愛しき娘子よ。
ピカデリー街がなんだ、
レスター広場よさようなら。
ティペラリーへの道は長くとも、
思いはいつも かしこにぞある。



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チッペラリーと書くかかティッペラリーなのかでイメージがずいぶん違いますね。

[ ふく ] 2014/07/09 18:36:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

私も岩谷時子さんがチッペラリーと書かれているのを読んで少し違和感を感じました。岩谷さんも神戸女学院英文科でアメリカ人教師から英語を習った方ですから、ご本人の発音が悪ろうはずがありません。岩谷さんがチッペラリーの歌を聞かれたのは須賀さんが聞かれた10年以上前の大正時代でした。その頃は日本語でチッペラリーと歌われていたのでしょうね。

[ seitaro ] 2014/07/09 19:16:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

しんぶんに原稿書くときの表記だとチペだと思います。父上だからかなとおもいましたが…。岩谷さんについては歌謡曲の作詞家というぐらいしか存じ上げないのでわかりません。

[ ふく ] 2014/07/09 22:32:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

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文房具マニア 岩谷時子さんの銀座・伊東屋

 岩谷時子さんは昭和26年に宝塚から東京に移られましたが、エッセイ『銀座 私の東京』で、東京生活について、
<芸能会から今も足が洗えず、日比谷界隈の劇場でばかり仕事をしている私は、長い東京生活にもかかわらず、行くところといえば銀座周辺しかないので、他の場所は、困ったことに、まるで知らないといっていい。歌舞伎座のある築地と、銀座と、有楽町、丸の内だけが、私の東京なのである。>と述べられています。


 また岩谷さんは文房具マニアと自称されており、よく行かれたのが銀座・伊東屋だったのではないでしょうか。エッセイ『私の歳時記』の「六月 文房具マニア」からです。
<子供の頃から物を買うのが大好きだった。学校へ行くのがいやになると、何か買うことで自分お心をシッタゲキレイして学校へ行くようにした。………
 三つ子の魂百までという通り、私の文房具好きは何十年たっても変わらない。おみやげにもらったハイカラな包み紙に書いてあった伊東屋の文字に、長い間あこがれ続けた私は、今でも伊東屋の前に立つと期待に胸がわくわくする。>
私は、昔銀座で胸をわくわくさせたのはソニービルのフロアー巡りでしたが、今回は初めて伊東屋を訪ねてみました。

上の写真の、岩谷さんが胸がわくわくしたという銀座本通に面した伊東屋本店は現在改装中で、通りを一つ奥に入った仮店舗で営業されていました。


仮店舗といっても6階まであり、品揃えも変わらないのでしょう。

伊東屋のロゴの入ったエコバッグや風呂敷も販売されていました。

 


ITOYAの文字をデザインした真っ赤なソファも印象的です。


<いつだたか「お化け鉛筆」といって、書く角度で黒になったり赤になったりするドイツ製の鉛筆を伊東屋で見つけ、偶然その日逢ったある高名な評論家に差し上げたら、ひどく喜ばれた。文房具好きの大人が私の周囲には多く、たまに顔を合わせると、「何か面白いものを見つけた?」と、情報交換することにしている。>


もうお化け鉛筆は売っていませんでしたが、温度が上がると文字が消えるというボールペンをみつけました。ペンの頭部でこすると摩擦熱で文字が消えます。

うたい文句は「訂正の多いビジネスマンに」と、あまり嬉しくありませんが私にはピッタリ。一本購入いたしました。外国製ではなく、パイロットの製品で、既に10億本も売れているそうです。

 伊東屋、調べてみるとグランフロント大阪、阪急西宮ガーデンズにも支店がありました。
1904年(明治37)創業、110年も続く文房具専門店とはたいしたものです。

(上の写真は伊東屋ホームページから借用)

 



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伊東屋さん、懐かしいです。銀座のお店、改装中なのですね!
摩擦熱で消えるペンは、3年ほど前、塾の作文を添削するお仕事で初めて使いました。
このペン、優れもの!とっても助かりました(笑)

文房具って、見てるだけで楽しいですね。

[ Lady J ] 2014/07/04 9:33:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

そのペン愛用しています。今のところまだ知らない人もいるので使用禁止になっていませんが、いずれ修正印との関連で禁止されそうです。難点はインクの消耗が早いことです。

[ ふく ] 2014/07/05 20:16:37 [ 削除 ] [ 通報 ]

公文書は駄目と注意書きがありましたが、重宝しています。そんなに消耗が早いのですか。そういえばセットで替え芯が売られておりました。

[ seitaro ] 2014/07/05 23:01:38 [ 削除 ] [ 通報 ]

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岩谷時子さんの神戸女学院

 岩谷時子さんはエッセイ『この古風なコメディ・私自身のこと』で、昭和8年、岡田山移転直後の神戸女学院で学ばれた思い出を述べられています。


<神戸女学院時代は、若き日の私にとって、いちばんすてきな時代であった。金髪の先生方と廊下ですれちがい、流暢な英語を話す綺麗な中国人の上級生もいた。一週間ごとに、新しい聖句を覚え、好きな聖句をブルーのリボンに胡粉で書いて、友達と交換したりした。
同級生は、みんな私より大人で、ウビガンの白粉をつけている人もいた。
若さが、どんな苦しみもバラいろに変えてくれる、人生でただ一度のときだったような気がする。>


金髪の先生方とすれちがったと語られている、文学館の廊下です。

 

講堂南側の廊下です。

 


ヴォーリズの設計した、それぞれの建物を結ぶ回廊です。


 岩谷さんが神戸女学院で学ばれた時の院長は、岡田山移転に尽力されたC.B.デフォレスト院長でした。また当時キャンパス内には大小三つのヴォーリズの設計による宣教師住宅があったそうです。

写真のケンウッド館にはデフォレスト院長はじめ、神戸女学院で教鞭をとった宣教師の先生方が居住していたそうです。


<卒業式には、従姉にもらった、渋いワインカラーの着物に紺の袴をはき、下級生に祝福されながらチャペルへ入場した。
同級生と別れるときは、ひとりひとりが、クラスメートの差し出す賛美歌をひらき自分の好きな歌の頁にサインをしあった。>


昭和10年に卒業式が行われたチャペルとは第四代院長スーザン・アンネット・ソールを記念する礼拝堂、ソールチャペルのことでしょう。


岩谷さんは、賛美歌五五七番にサインをされたそうです。

 

むくいをのぞまで
ひとにあたえよ…….



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岩谷時子さんは西宮のどこに住んでおられたのでしょう?

 岩谷時子音楽文化振興財団のホームページ「岩谷時子の歴史」によると、大正5年京城生まれの岩谷さんは、幼少期から15年近く西宮に住まれたそうです。
年譜では、
昭和8年市立西宮高等女学校卒業(修業年限5年)神戸女学院英文科入学
昭和10年神戸女学院英文科卒業(52期生)女学院時代から「宝塚グラフ」「歌劇」に投稿
昭和14年秋、宝塚歌劇団出版部 入社。
http://iwatanitokiko.org/profile/history.html
となっていますから、神戸女学院卒業の頃まで西宮に住まれていたようです。


神戸女学院が神戸の山本通りから岡田山キャンパスに移転したのが昭和8年のことですから、できたばかりのヴォーリスの校舎、図書館で過ごされたのではないでしょうか。


その姿を想像するだけで楽しくなります。

『愛と哀しみのルフラン』から岩谷さんが西宮のどのあたりに住まれていたのか探ってみましょう。
「お金がないけど愛があった」で西宮へ移られてきた経緯が書かれています。
<京城の生活が父の肌に合わなかったのか、私が二、三歳のころ、東京へ帰ったが、ここでも落ち着ける仕事に恵まれなかったらしく、私の学齢近く関西へ移り、一家はその後十五年近く、西宮に住んでいた。>
私の歳時記「四月 春の思い出」では
<不思議な話だが、私は小学校に入る前から学校へ行っていた。近所に八重子さんという名の小学生がいて、そのお姉さんに、くっついて教室に入っていたのである。>


この小学校は 「グラフにしのみや」の「思い出の町よ」に書かれていた水抜小学校(現浜脇小学校)です。西宮に移られた最初は水抜町(浜脇町)に住まれたようです。
 その後安井小学校に変わられています。
『愛と哀しみのルフラン』の「子は親に従え」では、
<私たち親子は、西宮市のなかでも、水抜町、寿町、安井町……と、よく家を移った。あれは安井小学校へ通っていた頃だったと思うが、私の家の前には、Mさんという娘さんばかり多勢いる家があった。>と書かれており、西宮市内を何故か転々とされていたことが伺えます。鉄道の土手に登ったというお話は、きっと安井町か寿町に住まれていた頃のお話でしょう。
「お金がないけど愛があった」で市立西宮高等女学校へ入学されたことが書かれています。
<父と母は、私を充分愛してくれた。女学校へ入るときは、とにかく歩いて通える学校へ入れていった。幸い歩いて通えるところに市立の西宮高等女学校があって受験した。>


市立西宮高等女学校は建石町にあったと思っていましたが、吉田初三郎の鳥瞰図で、西宮東口の近くにあったことがわかりました。
岩谷さんは「好きな季節」で<西宮といっても、夙川、甲子園、今津などを転々としていたので、これはどこに住んでいたときのことか定かではないが、今も忘れられない一つの風景がある。>と書かれており、西宮高女時代は歩いて通える今津あたりに住まれていたのでしょうか。


<父は、お前に残してやる財産がないから、その代わりに学校へ行きなさいといって、女学校を卒業した私を、神戸女学院へ入れた。神戸女学院は、アメリカ人によって創立された学校である。当然アメリカ人の先生がたくさんいて英語の授業が多い。
 西宮高女は良妻賢母を育てる学校で英語は「缶詰のレッテルが読める程度でよろしい」ことになっていた。私は授業に出て宿題が出されても、宿題を出されたことさえわからない。>

 岩谷さんはアメリカ人教師による文学部英文科の授業には苦労されたようです。

(写真は文学館)


 良妻賢母を育てるという西宮高女、岩谷さんが卒業された年の7月に与謝野晶子が招かれて講演されています。

また昭和9年には校歌を与謝野晶子が作詞していました。さすがの詞でしたので、最後に長くなりますが、引用させていただきます。

与謝野晶子 昭和9年
西宮市立高等女学校校歌

 

自(みづか)ら春の園に入り
花を作るも勇みあり。
況(ま)して自ら楽みて
学ぶ我等の気は揚がる。

この楽しみを共にして、
あまた良き師に導かれ、
ここに学べる朗らかさ、
西宮(にしのみや)なる高女生。

北には六甲、東には
生駒山脈そびえたり。
我等ながめて、永久(とこしへ)の
山の力に励まさる。

大坂湾の大(だい)なるに、
紀淡海峡遠白し。
我等ながめて、おのづから、
内の心を濶くする。

日本の少女(をとめ)いそしむは
古き世からの習ひなり。
我等おのおの身を鍛へ、
常に凜凜しき姿あり。

我等の愛は限り無し、
自然、道徳、学の愛、
家庭、交友、国の愛、
国の内外(うちと)の人の愛。

是等の愛を生かすため、
善を行ひ、智を磨き、
女子の我等も、大御代に
永く至誠の民たらん。

我等は思ふ、御代の恩、
更に師の恩、親の恩。
謝せよ、互に学べるは
高き是等のみなさけぞ。

我等は嫌ふ、軽佻を、
無智を、惰弱を、妄動を。
起れ、聡明、堅実の
清き日本よ、我等より。

ああ、もろともに祝ひなん、
西宮なる高女生、
ここに学びて樹(た)つるなり。
斯かる理想の光る旗。



西宮市立高等女学校校歌
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岩谷さんと西女の日本画クラブで一緒だった人を取材したことがありますが、そのころのお住まいまではお聞きしなかった。残念。

[ akaru ] 2014/06/27 10:28:53 [ 削除 ] [ 通報 ]

ほんとうに西女まで歩ける距離とはどこだったのでしょう。岩谷さんの「子は親に従え」というエッセイにも、女学校五年の夏休みに仕上げた日本画が知事賞となり「お父ちゃん、時ちゃん。知事賞だょォ」とお母様が喜んでおられた様子が書かれていました。

[ seitaro ] 2014/06/27 20:42:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

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昭和の初め西宮の春の風景(岩谷時子さんの「好きな季節」より)

岩谷時子さんは『愛と哀しみのルフラン』で「好きな季節」と題して、
<冬と春との、ちょうど間にあたる、三月に生まれた私は、四季のうちでは春、それも春の初めが、いちばん好きな季節である。>と述べられています。


 さらに春の西宮について、自然に溢れた風景が描かれていました。
<幼年時代から少女時代にかけて住んでいた西宮は、まだ鉄道の土手にのぼれば、つくしや、たんぽぽ、すみれが咲いていて、春の畠は、れんげの花ざかりであった。>
 鉄道とは現在のJRのことだと思いますが、私の幼い時もまだJR(省線)の土手に登っていくことができました。

現在はまったく姿が変わったさくら夙川駅から東の土手の風景です。

 

もう少し西に行くと、土手らしき名残がありますが、斜面はカバーされ露出している部分はなくなり、つくしも生えそうにありません。
岩谷時子さんはこのあたりに住まれていたのでしょうか。

 

その土手の下を谷崎潤一郎「細雪」で有名になったマンボウが通っています。

 

<西宮といっても、夙川、甲子園、今津などを転々としていたので、これは、どこに住んでいたときのことか、定かではないが、今も忘れられない一つの思い出の風景がある。
私が十歳のぐらいの春の初めで、なぜか私は、たった一人で外にいて、はるかな武庫川の堤を眺めていた。>
このお話は今津あたりにお住まいだった頃のことでしょうか。

 

<当時、西宮の私の家の前には、小さな石の橋をかけた、水の美しい小川が流れていて、眼をこらすと、いつも、めだかがチョロチョロと、はかなげに泳ぎ、ながれの岸には春ごとに、すみれがつつましく咲いた。
 紫のすみれは、女なら誰でも、生涯に一度は好きになる花であろう。作家の森田たま先生を、お訪ねしたとき、先生は羽織の下に、黒字の帯をしめておられたが、その帯にひと筆、手描きで小さく、すみれの花が描かれていて、それが大変に美しかった。
もう七十歳にお近かった先生の、胸のあたりの、すみれ一つが、そこはかとない、おんななお香りをただよわせ、先生のまわりにだけ、明るい春が、ともっているようだったのを覚えている。>


森田たまは、昭和5年10月に西宮に来て、最初千歳町に住み、その後昭和6年の秋か昭和7年の春、常磐町へ引っ越されました。

常磐町の住まいは、当時はまだ鉄道の土手まで見晴らせる、写真の常磐町一本松の近くでした。


ベストセラーとなった「もめん随筆」には当時の西宮の風景が描かれています。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10758664c.html
七十歳にお近かった先生と書かれているので、お二人が会われたのは既に西宮を離れられた後のことでしょう。


さすがタカラヅカの岩谷さん、紫のすみれがお好きだったようです。

これを読んで、松田 瓊子さんの作品集「すみれノオト」を思い出していました。



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岩谷時子さんの西宮の海(『愛と哀しみのルフラン』私の歳時記から)

 岩谷時子さんのエッセイ、私の歳時記「七月 そら豆と海水浴」からです。


<小学生時代、夏になるといつも西宮の海に行った。そのころ、海辺では、煎ったそら豆ひと握りほど、晒木綿の袋に入れたのを売っていて、大人も子供も、これを腰に下げて泳いだ。
 今考えるとゾッとするような非衛生な話だが、海の中で遊んだあと、熱い砂の上にすわって、袋から、そら豆を出して食べるのがまた、海水浴の楽しみのひとつだったのである。そら豆は、海の水に浸されてやわらかくなり、適度の塩味までついていておいしかった。
 その頃の海は青く、そら豆を食べて病気になったという話しも、聞いた覚えがない。
 夏休みにカラフルな水着を着て、ホテルのプールなどで泳いでいる子供たちを見ていると、私はいつも小学生時代の海水浴を思い出す、みんな同じ型の黒い粗末な水着で、そら豆を腰に下げて泳いだ子供たちのほうが、幸せだったのではないだろうか。
西宮の海も、もう泳げないそうである。>

(大石輝一の描いたボート小屋が見える昭和7年「真夏の香櫨園浜」)


 このそら豆については小松左京も『威風堂々うかれ昭和史』の「夙川での遊び」の章で、


<それと家から歩いて四十分ぐらいだったが、香櫨園の海水浴場があった。 −だから日曜日には親父につれられて甲山山麓にハイキングをやり、清冽な谷川の水で飯盒炊爨をやり、夏は「海水豆」というのをガーゼの袋に入れて、海水浴に行き、茶店でアメ湯やラムネを飲んだ。− 時には砂浜から投げ釣りやって、カレイ、ベラ、テンコチなんて釣って、茶店で焼いてもらったり、家で空揚げにしてもらったり…..。
― その「海水豆」ってのは?
乾したソラ豆だがね。そのままだとかたくてかめないが、ガーゼ袋に入れてフンドシにくくりつけて泳いでいると、海水でふやけて塩味もつく。>

 

この海水浴でのソラ豆はweb.で調べると多くの方が懐かしそうに語られています。

詩人の工藤直子さんも11歳で初めて家族三人で海水浴に行った時の思い出を、「海と迷子とソラマメと」と題したエッセイで次のように述べられています。
<父は水着の私の腰にひもを結び、そこに巾着のようなかわいい袋をぶらさげてくれた。
「これ、なに?」「干したソラマメがな、はいっとる。ゆんべわしが炒っといたんじゃ。」
父も「かいすいよく」のために、あれこれ用意してくれていたのだな。
「これを、どうするの?」「海で泳いだあとのな、おやつだ。ほれ、ソラマメと一緒に海に浸かってこい!」お尻をぽんと叩かれて、わたしはそろそろと海へ向かった。>
<暫くして父が思い出したように言った。「お、直子、その袋、かしてみい」
わたしは腰の巾着のことを、すっかり忘れていた。袋は重たげに腰にぶら下がっている。はずして口をあけると、中から、海水を吸い込んでぽってりとふくらんだソラマメがあらわれた。「柔らかくなっておろうが、これをな、こうやって食べると、塩味がついてうまいぞ、ほれ、食べてみい」オレが子供だったころの、海のあそびのおやつといえばこれだったと得意そうである。わたしと一緒に迷子になったソラマメは、ほんとうにおいしかった。>
この海水浴のソラマメ、いったいどこが起源で、どの地方で普及していたのでしょう。

 

 野坂昭如も黒田征太郎へ送った自筆の手紙に「昭和二十年七月半ば、西宮で海をみていたぼくの、生の実感」と書いています。


山本二三がアニメ「火垂るの墓」で描いた夙川河口と香櫨園浜。


野坂にとっては、決して楽しい思い出はなかったと思いますが、感慨深い西宮の海の景色だったと思います。



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岩谷時子 | コメント( 6 ) | トラックバック( 0)

seitaroさん、こんばんは。
あらためて、この浜を多くの方が愛されたのだろうと文人達の残した言葉に凝縮された当時の人々の思いに触れることができたようです。ありがとうございます。
水質が悪化し海水浴場が閉鎖され、西宮浜ができて当時の御前浜、香櫨園浜ではないのですが、次の世代へどうつないでいくか、先人の思いと、いまの私たちと、未来の子供たち。この猫の額のような浜をとても愛おしく思うこの頃です。

[ もしもし ] 2014/06/18 21:02:24 [ 削除 ] [ 通報 ]

もしもしさんコメントありがとうございます。今回岩谷時子さんの海水浴のお話にそら豆がまたしても出てきたので、以前の記事と纏めさせていただきました。
生活排水も下水道が整備され、工場排水も厳しく規制されていますから、将来はまた泳げる日が来るのではないかと期待しています。

[ seitaro ] 2014/06/18 21:40:54 [ 削除 ] [ 通報 ]

海水浴とそら豆は、西宮の子供の常識だったですが、世間一般ではどうだったのでしょうか?

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2014/06/18 23:16:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

海の汚れは数年ではそれほど変わらないので、山の手のお坊ちゃまには、許されないことだったのかも・・・・

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2014/06/19 8:52:21 [ 削除 ] [ 通報 ]

小さい時はほとんど海水浴の経験がなく、そら豆のことも初めて知りました。きっと美味しかったのでしょうね。
私の小学生高学年の頃は武庫川(阪急沿線の南)によく行きました。カラフルなパンツでなく、黒でもなく、みんな素っ裸で泳いでいました(笑)

[ さとっさん ] 2014/06/20 12:31:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

大阪の従兄弟が夏休みに里帰りして来ると香櫨園浜に一日中出かけていました。海水浴場が閉鎖になった頃、従兄弟一家は垂水に転勤になり、今度は私がそちらにお邪魔したような記憶があります。家から海までの距離と、時代によって、西宮の子どもといっても、記憶はずいぶん違うと思います。阪急より上だと子どもの足では遠いですから、子どもだけで海に行くことはほとんどなく、どちらかというとあの汚い海は嫌いでした。そんなこともあり、海の記憶はそんなにありません。もちろん豆のはなしは初耳です。水遊びは二テコ池か夙川でしたが、流石に池では泳いでる人はみたことがありませんでした。

[ ふく ] 2014/06/21 10:16:57 [ 削除 ] [ 通報 ]

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西宮の鰯売りのお話(岩谷時子『愛と哀しみのルフラン』より)

 岩谷時子さんの『愛と哀しみのルフラン』で、最初に西宮に住んでいた頃の話題が出て来るのは「美味しさとは」と題したエッセイです。


<今日までの暮らしのなかで、いちばん美味しいと思って食べたものは、なんだったかと考えてみた。たちまち頭に浮かんだのは「明石で漁れたいかなご」「麦わらで巻いた郷里のかまぼこ」…なんのことはない。すべて食料の乏しい戦時中、ようやく手に入れた食べ物ばかりである。>

 

「いかなご」は谷崎潤一郎の大好物でもあり、渡辺たをりさんは谷崎が「東京ではこれは絶対に喰えない」と言っていたと次のように述べています。


<今でも何かにつけて一番よく思い出すのはやはり食べ物のことです。関西では「いかなご(かますごとも云う)」という小魚があります。丁度立春をすぎる頃になると卵をもって脂がのって来て美味しくなり、沢山出まわります。安い下魚ですがそれを食卓で焼きながらあつあつを二杯酢で喰べるのは大好物で、東京ではこれは絶対に喰えないんだよ、と眼を細めていくらでも召し上がりました。>

 

 昭和11年に発表された谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のをんな』では鰯のとれとれのお話がでてきます。


<阪神電車の沿線にある町々、西宮、芦屋、魚崎、住吉あたりでは、地元の浜で獲れる鯵や鰯を”鯵の取れ取れ” ”鰯の取れ取れ”と呼びながら大概毎日売りに来る。>
とし、二杯酢にした小鯵を、猫にまるで曲芸を教え込むように食べさせる様子が生きいきと描かれていました。

 

 岩谷時子さんも、大正から昭和の初めに西宮に住んでおられ、その頃の鰯売りについて次のように述べています。
<物心つくころから成人するまで、私は海に近いところに住んでいた。鰯のとれる季節になると、鰯売りが、「とれとれの鰯やァ…」と、大声を張り上げ、天秤棒をゆすりながら、とれたての鰯を売りにきたものである。


鱗のキラキラした小ぶりの鰯で、きざんだ土生姜を入れて煮たり、鰯が大きいと湯豆腐にしたりしたが、たまには小鯵ばかりがとれる日もあって、これがまた、美味しかった。買ったばかりの小鯵を白焼きにして、甘酢を入れた丼に漬け、数時間おいて食べるのだが、子供心にも、この魚を香ばしいと思ったのを覚えている。>


当時岩谷さんは西宮のどのあたりに住まれていたのでしょうか。



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岩谷時子 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

岩谷さんが入学したのは浜脇小学校で、その後、新設の安井小学校へ転校されています。
 ということは、お宅は多分国道2号線より北側なのでそれほど海に近いとことではなかったと思われます。
 国道2号線より少しだけ南側にいた西宮芦屋研究所員も鰯売りの同じ声は聞いていましたので、国道の北側へも売りに行っていたと思います。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2014/06/14 19:06:06 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうすると国道2号線あたりでしょうか。西宮市内でもいくつか転居されたようでもありますが。それにしても西宮芦屋研究所員さんまでが、鰯売りの声を聞かれていたとは。

[ seitaro ] 2014/06/14 19:35:58 [ 削除 ] [ 通報 ]

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岩谷時子さんと西宮

 岩谷時子さんと西宮の関わりについては、西宮芦屋研究所員さんが何度も述べられており、1968年のグラフにしのみや「西宮を愛す」特集に、「思い出の町よ」という一文を寄稿されていたことが紹介されています。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061422/p10948189c.html

それは次のような懐かしさに溢れた文章で始まります。

<今までの私の人生のなかで、いちばん思い出多い幼年期と少女期を西宮ですごした私は、西宮という字を見るだけで、砲台があった夏の海や、十日戎のお祭りや、近所に住んでいた誰彼の顔が蛍火のように瞼に浮かんでくる。>


 岩谷さんは1916年京城府生まれで、5歳の頃に西宮に移って来られました。浜脇小学校、安井小学校、西宮高等女学校を経て、神戸女学院大学部に進学、その後宝塚歌劇団出版部に就職され、宝塚歌劇団の機関誌である『歌劇』の編集長も務められています。そして良くご存知のように越路吹雪が宝塚歌劇団を退団したとき、岩谷さんも退職を決意し、共に上京し、越路吹雪が亡くなるまで付き人を務められました。


NHKでも『歴史秘話ヒストリア 歌え!友情の"愛の讃歌"〜異色の宝塚スター・越路吹雪と岩谷時子〜』題して紹介されたり、その他の番組でも作詞家としての功績がしばしば紹介されています。私にとって懐かしいヒット曲はほとんど岩田時子作詞です。
 例えば、『恋のバカンス』『ウナ・セラ・ディ東京』『夜明けのうた』『これが青春だ』『逢いたくて逢いたくて』『旅人よ』『君といつまでも』『お嫁においで』『恋の季節』『ほんきかしら』『ベッドで煙草を吸わないで』『いいじゃないの幸せならば』『サインはV』『美しきチャレンジャー』『アテンションプリーズ』などなどと書ききれません。
訳詞も『愛の讃歌』『ラストダンスは私に』『ろくでなし』『サン・トワ・マミー』など。


 その才能のルーツが西宮の風物にあると書かれて喜ぶのは私だけでしょうか。
<私たち親子三人が住んでいた夙川の家は、空襲で焼けてしまったのだろうか、家の前を流れていた、あの小川は…、と思い出せば限りもなく、昔のままのたたずまいに、西宮の町を戻せるものなら、とんで行って、見たいもの、逢いたい人ばかりである。
 まだ夙川に蛍が飛び交い、川の流れにめだかが泳いでいた、美しい情緒的な西宮の風物が、幼かった私の心に根をおろし、後年、作詞家となる運命に、みちびいたのではなかろうかと、今でも思うことがある。>

 

 

 もっと西宮の思い出について書かれていないかと調べているうちに、岩谷さんの随想をまとめられた『愛と悲しみのルフラン』を見つけました。これからしばらく、そこに書かれた大正から昭和の初めの頃の岩谷さんの西宮の思い出を辿ってみます。

 

 蛇足ですが、今年の2月の産経ニュースにこんな記事がありました。
<創立20周年を迎える兵庫県立ピッコロ劇団(尼崎市)が記念公演で神戸ゆかりの舞台「お家さん」を上演するのを前に、客演の女優、竹下景子さんと脚本・演出を担当した高平哲郎さんらが6日、井戸敏三知事を表敬訪問した。高平さんが、昨年死去した「愛の讃歌」を作詞したことで知られる作詞家の岩谷時子さんについて「(関係者が)遺品を、幼少から青年期まで過ごした県に寄贈したいと希望している」と伝えた。
 岩谷さんは兵庫県西宮市で育ち、神戸女学院を卒業後に宝塚歌劇団出版部に入るなど、兵庫県とゆかりが深い。遺品の寄贈について井戸知事は「良い話をいただいた。原田の森ギャラリー(県立美術館王子分館、神戸市灘区)がいいのではないかと思うが、神戸市長とも相談する」と答えた。>
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140207/wlf14020709070006-n1.htm
神戸市長には相談されても、岩谷さんの思い出の町西宮は蚊帳の外。

 

神戸市の原田の森ギャラリーは素晴らしい場所ですが、どうして文教住宅都市?西宮にはゆかりの方々を記憶にとどめ、顕彰する場所がないのでしょう。

 



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岩谷時子 | コメント( 10 ) | トラックバック( 0)

seitaroさん そうなのです。西宮市は岩谷さんだけではなく、貴重な文化遺産を失っています。グラフにしのみや「西宮を愛す」特集の「思い出の町よ」の上は、山口誓子氏の寄稿でしたが、山口誓子の遺品は神戸大学へ寄贈され山口誓子記念館が出来ています。黒岩重吾氏は奥様がまだ西宮在住だったので、西宮市立図書館へ遺品を寄贈されましたが、西宮を離れた著名な文化人に関しては、”公”の方から働きかけないとダメでしょう。
レコンキスタで”公”の意識がどれだけ変わるのかですが、当面はそこまで手が付けられないのでは思います。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2014/06/10 21:04:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

しばしばどこが文教住宅都市なのかと情けない感覚に陥ります。お金がかかるのは十分理解できるのですが、実が伴わなければ大阪近郊の単なるベッドタウンになります。

[ seitaro ] 2014/06/10 21:29:17 [ 削除 ] [ 通報 ]

私は、お金がかかるかからない以前に、このようなことに関心や知識のある人が”公”にいない(意思決定できる立場の人が)のが問題だと思っています。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2014/06/10 21:33:19 [ 削除 ] [ 通報 ]

西宮は公というよりもむしろ、かつては酒屋の旦那衆が文化をリードしてきた街です。彼らは市政にも影響力を行使できました。戦後は妙にレベルの高くないところでで平等化されてしまい、その方々の志がうまくつがれていないのではないでしょうか。活動は細々と続いていますが、ばらばらです。行政と心ある市民の間にはギャップがありすぎて、全く調整できていないところは大阪と似ています。県は大阪府よりも郷土顕彰にがんばっていますが、いかんせんカバーする範囲が広すぎます。なんとかするには遅きに失しています。

[ ふく ] 2014/06/10 22:14:45 [ 削除 ] [ 通報 ]

西宮観光協会という組織が有りますが、心ある市民たちの思い通りの活動は出来ているのでしょうか?
思いがどこかで潰されたりしてないのでしょうか?

[ 笹舟倶楽部 ] 2014/06/10 22:52:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

戦後の西宮市の組織の中にも市内在住の文化人と交流できる人がいました。だから、昔のグラフ西宮は、今読んでも面白いのです。このような人の後継者で育ててきていたら、もっと違ってきたと思います。
西宮観光協会は、”みやたん”を生んだところですが、甲子園球場、西宮神社、ガーデンズ、ららぽ、キッザニアだけで、兵庫県では、神戸市に次ぐ観光客が来る街なので、まちたび博で何か変わったのでしょうか?

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2014/06/10 23:08:01 [ 削除 ] [ 通報 ]

では西宮観光協会について実情を調べてみましょう。

[ 笹舟倶楽部 ] 2014/06/10 23:33:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

市史編纂に関わるセクションをおいてないというのも信じられません。

[ ふく ] 2014/06/11 4:42:25 [ 削除 ] [ 通報 ]

岩谷さんと直接関わった人のお話をお聞きしたことがあります。
ちょっと「宮っ子」に書きました。
http://miyakko-nishi.com/MIYAKKO-SYSTEM/Found_Page?area_reference=area_reference&areacd=25&find_year=2002&gou=246&page=3

[ akaru ] 2014/06/11 12:04:11 [ 削除 ] [ 通報 ]

「天神さんのまち」読ませていただきました。西宮高女のセーラー服姿のお写真とは貴重ですね。日本画の才能までもたれていたとは。

[ seitaro ] 2014/06/11 20:44:40 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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