阪急沿線文学散歩

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阪田寛夫にとっての阪急電車と宝塚

 童謡「サッちゃん」で知られる詩人で、芥川賞作家、そして宝塚歌劇団のトップスター大浦みずきの父でもある阪田寛夫は、小林一三と阪急電車の大ファンでした。

 エッセイ集『わが町』の最初は「宝塚」。そこで阪急電車を尊敬していたと真面目に述べています。
<阪急電車というものを、私は何となく尊敬していた。クラスが分かれて野球試合をする時、私はいつも「阪急軍」に入った。その頃の「阪急」には宮武投手や山下実外野手がいた。
私の家は大阪市の南端、阿倍野にあった。ここはむしろ南海電車の勢力分野である。このあたりはもと田圃やれんげの咲く野原に恵まれていたが、私の少年時代に既に市街化がはじまった。商店街を兼ねた長屋が、緑をつぶして日に日に精力的に建てこみはじめた。>

 熱烈な阪急電車ファンであったことは、『わが小林一三』でも述べています。
<昭和十年を前後する時代に、私の通っていた大阪市内の南海電車沿線の小学校でも、阪急電車は速力と、海老茶色に統一された鋼鉄製車体と、野暮な装飾など一切無い機能的で重厚な内装によって、私鉄電車品定めにおける人気は抜群だった。
「一回乗っても南海電車」「全身乗っても阪神電車」「特急に乗っても阪急電車」
こんなことを言い合いながら互いにひいきの電車の自慢をしては……>
関西の小学生らしい発想とギャグです。

上の写真は小林一三の作った有名な新聞広告。

『わが町』「宝塚」に戻ります。
<これにくらべると、阪急沿線の六甲山麓地帯は誇り高い美人の顔のようなものであった。花崗岩質の山が暁方は茜色、夕方は紫に染まり、松林の奥の住宅街は、容易に俗塵を近づけぬ癇の強さを示さずにはおかなかった。
 しかし、とりわけ私が阪急沿線を尊敬した理由は、そこに宝塚少女歌劇団があったせいである。>

 阪田寛夫は武庫川を渡る阪急電車、そしてタカラヅカに憧れる小学生でした。
 そのクラスの三分の二はタカラヅカファンであったと述べていますから、当時は男子小学生のファンも多かったのでしょうか。

 さらに、仁川の林間学舎へ行ったときは、ヨッちゃん(春日野八千代)の家まで押し掛けたことが楽しそうに語られていました。




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阪神間で話される言葉は?

 阪神間は転勤族が多いせいか、標準語を話す人が多く暮らしています。

田中康夫も『神戸震災日記』で、震災後のボランティアにスクーターで物資を配給していたときのことを、次のように語っています。
<僕は夙川地区のこうした家屋も一軒一軒、御用聞きの様に訪れることを心掛けた。が、初期に下着や水を、中期に化粧水を差し出しても、直ぐには受け取ろうとしないのだ。けんもほろろに無視する態度ではない。その逆だ。阪神間の中でも最も“標準語”に近い言葉遣いする夙川の人々は、なべて慎み深く、「いえ、私などより、もっと困っている方に差し上げて下さい」と最初は遠慮するのだった。>

 昭和十年代、阪急沿線の風景に憧れていた阪田寛夫は、六甲山系の南斜面に住む人々について次のように想像を巡らせます。

『わが小林一三』からです。
<すると心が一層迫ってきて、灯火がともり始めた谷間や丘の窓硝子という窓硝子の内側に、どうしてもスリッパを履いた美しく聡明な少女が愁い顔に立っていると信ぜざるを得なくなるのである。>

 このあたり、中原淳一の世界の様になってきます。更にそこに住む人々について、
<筆者の想像に於いては、彼らは衣食を大阪よりは神戸の外人街に依存した。令嬢や夫人の服や外套の仕立ては香港や上海で年季を入れた中国人裁縫師に限るし、味噌汁や大根漬けの代りにパンやチーズを求める先は神戸トアロードのドイツ食料品店に限られるのであった。そしてその口より発する言葉は口臭に汚れた我々の大阪弁ではなく、匂いのいい紙石鹸のような標準語にほかならぬと思われた。>
と「匂いのいい紙石鹸のような標準語」を話すとしているのです。

(大正2年に阪急電鉄が、郊外住宅を勧める『山容水態』)

 この時代、阪神間に住んでいたのは、谷崎松子さんや河野多恵子さんのように、郊外生活を求めて煤煙に覆われた大阪から移ってきた家族が殆どでしたから、実際は船場言葉だったのでしょう。しかし、六甲山系の南斜面に開けた街の美しさに心惹かれた阪田寛夫は次のように述べています。
<公卿家族や殿様華族、維新の元勲や陸軍大将はおろか、高級官僚さえ一人も住んでおらず、大政治家も、大学者も、大僧正もいなくて、当時実業家と名前を変えつつあった商人が住み手の大部分であった住宅地が、それでいて、−いやそれ故にと、今は思うのだが、少年時代の私には、大阪弁や神戸弁を話す当たり前の人間がそこに住んでいるとは到底思い及ばなかったほどに、豊潤な顔立ちと、心ばえの街に育っているのだ。>
 小林一三が開発を進め、形造った街の姿を称賛しているのですが、どうも阪田寛夫には高貴な人は大阪弁や神戸弁は話さないものだという、劣等感に似た思いがあったのではないでしょうか。
でも関西弁の私にはよく理解できます。



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阪田寛夫が述べる人文的世界の「阪急沿線」とは

 阪田寛夫は『わが小林一三』で、少年時代の阪急沿線への憧憬を述べています。

<もし小林一三がいなかったら、いたとしてもここまで書いてきたような運に彼がめぐり逢わなかったとしたら、私の歳に近いか、もっと上の年代の上方生まれの人間は、自分たちにとっては確固とした人文的世界である「阪急沿線」というものを、ついにこの世に持たずに終わったことであろう。>
 阪急沿線開発は良しき悪しきにつけ小林一三の発案により、進んだことは間違いなく、阪田寛夫が、当時「人文的世界」とまで述べるほどに成熟した風景を形成したと言っても過言ではないかもしれません。

<それが日本文化にとってどんな意味があるかは判らないが、かつて阪急神戸線の西宮北口あたりから六甲山系沿いに神戸の東の入口まで、また西宮北口まで戻って直角に同じ六甲山脈を今津線で東の起点宝塚の谷まで、そして宝塚からは宝塚線で北摂の山沿いに大阪に向かって花屋敷から池田、豊中あたりまで、その線路より主として山側の、原野であった赤松林と花崗岩質の白い山肌・川筋にまるで花壇や小公園や、時には箱庭をそのまま植え込んだような住宅街が、ある雰囲気を持って地表をしっかり掩っていた。今から四十年以前のお話である。>
『わが小林一三』の初版発行が昭和58年ですから、四十年以前とは昭和10年代の阪急沿線を指しています。

阪田寛夫はその頃、既に開発が進んでいた、西宮北口―神戸間、西宮北口―宝塚間、宝塚―豊中間の風景を称賛しています。


<長い長い立体的で緑色の休憩地―これまでの日本にはまだなかった、何と名付けてよいかわからない宙に浮かんでいる匂いのいい世界を、この地上にかたちづくって来たように思われる。昭和でいえば十年代半ば頃まで、筆者の私が大阪市内の小学生・中学生だった時分は、恐らく日本中のどこにも、これほど自然と人工の粒のそろった美しい住宅地はないと確信していた。>
 これほどまでに称賛された風景ですが、今やどんどん宅地開発が進み、「立体的で緑色の休憩地」とは呼べなくなるほど、緑が失われてきました。

ニテコ池の周りの緑も伐採されマンション建設が進んでいます。


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私が関西学院中学部に通っていたころと今と 上ヶ原や西宮 夙川周辺も激変ですね〜

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/10/11 8:53:05 [ 削除 ] [ 通報 ]

震災でかなり変わったと思うん茂ですが、その後最近の変貌ぶりも急ピッチ。夙川の松並木くらしか残らないのではないかと心配です。

[ seitaro ] 2017/10/11 9:49:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線フリーク阪田寛夫が大好きだった藤澤桓夫の『新雪』

 『新雪』は、昭和16年から17年にかけて、朝日新聞に田村孝之介挿絵で連載された藤澤桓夫の代表作といわれる小説で、モンゴル語学者の娘、弟子、教師、女医の四人の恋愛模様が、六甲山を背景に描かれています。


  翌年、五所平之助監督、月丘夢路主演で映画化されており、小説や映画をご存じない方でも、灰田勝彦が歌う主題歌「♪紫けむる新雪の峰ふり仰ぐ、この心〜」はご存知の方が多いのではないでしょうか。

 
 さて真珠湾攻撃直前から始まった連載小説に、当時旧制中学四年生の阪急沿線フリークだった阪田寛夫は毎日読むのを楽しみにしていて、「読む時だけは心が晴れる気持ちになった」と述べています。

 阪田寛夫『わが小林一三』からです。
<その原因の一つは、阪急神戸線沿線が舞台になっていることで、東京の作家の目ではなく、大阪や神戸という土地の性質を深く知る人が、この町の値打ちにふさわしい光を松林や月見草や家のたたずまいに投射して描き出していると、子供の心にも信じられたからである。>

 映画で主演の月丘夢路が演じたのは女医の片山千代ですが、阪田寛夫は、東洋言語学者の父の助手をしている静かな娘保子に思慕の情が集中したと述べ、
<心身ともに清楚で、決して露わに出さない美しさと聡明さを備えている理想的な女性が、本当にそのひとらしく美しく生きられる場所は、当時の我が国では阪急神戸線沿線以外にはなかったと、中学生の私はこの小説がもうすぐ終わるころに、かなしくなるほどに確信した。>


 美しく理想的な女性が住む場所は阪急神戸線沿線以外にないというまでに阪田寛夫がのぼせた『新雪』がどんなものか、読んでみようと探したのですが、西宮、芦屋の両図書館にもamazonにも在庫はなく、古書もべらぼうに高く、諦めかけていたところ、ようやく大阪府立中之島図書館でみつけ、読ませていただきました。

 主人公 蓑和田良太 女医 片山千代 言語学者の娘 湯川保子 ともに六甲駅付近に住んでいおり、そのあたりの夜の風景が、千代が良太の下宿先のタバコ屋に向かう場面で描かれています。
<戸外はよい月夜だった。右側から松林の影がくっきりと落ちている白い道を、千代はぶらぶらと歩き出した。少し冷え冷えしすぎる夜気が、千代の若い膚には、却って快いものに感じられた。>
 この時代、阪田寛夫も述べているように阪神間の風景は、松林と白い道に代表されていたようです。
<月かげのなかを仰ぐと、澄み切った夜空にオリオンが砂糖菓子のように光っていた。そして、星を見ていると、千代の心には、孤独感とも幸福感ともつかない切ない感傷が湧き上がってきた。彼女の頭上に煌いている星は、千代に、今日の夕暮れ、駅から蓑和田良太と一緒に戻って来る途中、六甲の山々の上で光り出していた星の色を思い出させるのだった。>

このように抒情豊かに描かれた阪急沿線の風景に、少年阪田寛夫の心はどっぷりつかり込んでいたようです。



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 私の父や伯母は小林一三爺と親しく 宝塚歌劇を一緒に感激したり歌劇の生徒さんと一緒にお茶を飲んだりしたことがあるとよく言ってました。

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/10/08 7:30:53 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうだったのですか。もし記念の品でもあれば是非ブログでご紹介ください。

[ seitaro ] 2017/10/08 12:21:03 [ 削除 ] [ 通報 ]

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カトリック夙川教会の幼稚園を舞台にした阪田寛夫の「酸模」

 阪田寛夫『我等のブルース』に収められた短編「酸模」は六年生の男子小学生の異性へのあこがれ、性の目覚めを描いた、少し甘酸っぱい思いのする物語です。
その舞台はどうも昭和19年まで存在したカトリック夙川教会の幼稚園のようです。
「酸模」は次のように始まります。
<啓四郎は牧師の子供ほど損なもんはないと思っていた。家ではスケベエなことはちっとも言えない。おまけに学校ではアーメン!とからかわれる。春休みになって幼稚園のペンキの塗替えが始まった。幼稚園は教会の裏から松林を隔てて、背中合わせに建っている。(お父さんは園長もかねている)>
 主人公啓四郎は阪田自身をモデルにしたようですが、阪田寛夫の父親・素夫は阪田インキ製造所(後のサカタインクス)をしつつ阿倍野にある日本基督教団南大阪教会と同じ敷地にある南大阪教会幼稚園の園長をされていました。したがって幼稚園のモデルは南大阪教会幼稚園なのですが、さらに読んでいくと舞台を夙川に移していることがわかります。

写真は村野藤吾設計の日本基督教団 南大阪教会と現在も存続する幼稚園。

 啓四郎は二十幾つの幼稚園の先生の右近さんを好きになります。
<朝、学校へ行くのにわざと少し遅い目に出ると、夙川の駅からトコトコ坂道を登ってくる右近さんにうまく出くわす事がある。>
どうもカトリック夙川教会に向かう坂道のようです。

上の写真は1938年のメルシェ神父と幼稚園児たちの写真です。

 この小説の途中に、西宮北口で「日独伊三国博覧会」が開かれていたと述べられています。

戦時中、西宮北口に航空園があったことは知っていましたが、「日独伊三国博覧会」が開催されていたことはネットで調べても出てきません。
<西宮北口で日独伊三国博覧会が開かれている。試験勉強の参考になると先生が言っていたので、タクちゃんと見に行った。朝から冷たく曇っていて、産業館も国防館もみんなガランと淋しく、土間のしめった土が膝まで冷え冷えとしみる。>
中にはフランクフルト曲芸団の公演まであったそうです。
<三十銭払ってはいると三百人程の人がバラバらと腰かけておとなしく待っていた。まん中に大きなマットが敷いてあって、ブランコや吊輪の高い鉄棒が立っている。ドイツのフランクフルト曲芸団の公演と書いてあった。>
「円形のスタンドのてっぺんに三つの国の国旗が順にぐるりと立て廻らせてある」など記述は具体的なので、実際に開催されていたのかもしれませんが、よその場所なのか判然としません。

 そのスタンドでの啓四郎の姿がが面白く書かれています。
<啓四郎はさっきからソワソワしていた。すぐ三段上の席から綺麗なすんなり揃った脚がのびていて、振向くたびに眼がどうしてもその間に吸い寄せられるのだ。まるで銀色の長い靴下のその奥に、柔らかな白い清潔な下穿きがはっきり見える。>
あまりよく振り向くので友人のタクちゃんに注意されるのですが、この少年の覗き見する気持ちもよくわかります。

 次に阪急夙川駅の東のガード下で、とんでもない発想が述べられています。

<夙川の駅のすぐ手前で、道が線路をくぐっている。電車が通ると、車体のハラワタみたいな黒い機械がまざまざ見える。乗ってるお客は真下から見られているとはちっとも気が付かない。啓四郎は此の頃それを見ただけでウンこをこらえている様な気持ちになってくるのだ。こんなのが本当に仕様のないスケベエなんじゃないかしら。>
 私も子供の頃、ガードの下から列車が通るのを見上げるのは好きでしたが、さすがここまでは高揚しませんでした。
現在の夙川駅近くのガードです。

 最近は安全のためでしょうが、上から何か降って来ないように完全に鉄板で覆われていて、昔の様に列車の下側を見ることはできなくなってしまいました。

 主人公啓四郎が、自分は本当に仕様のないスケベエなんじゃないかと心配する気持ちもよくわかります。健康な小学生であればこそと思いましたが、この小説の最後はもっと過激に谷崎潤一郎並みの隠微な終わり方をします。
事務室に忍び込んだ啓四郎はあこがれの右近先生の運動靴を見つけます。
<思い切ってカカトの内側に鼻をくっつけた。吸い込む。チーズの匂いだ。>
全文引用しようと思いましたが、この先まだ過激な文章が続きますので、ここで止めておきます。

 それにしても何故プロテスタントの阪田はカトリック夙川教会の幼稚園を舞台にしたのでしょう。
(投稿禁止用語が2つあり、カタカナとひらがなを混ぜました)



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すでにお調べかもしれませんが、昭和3年生まれの父に聞いたところ、西宮球場で開催されたのは聖戦博覧会でした。
調べてみると開催されたのは昭和13年の春でした。
日独伊三国博覧会のモデルは聖戦博覧会でしょうか。

[ 西野宮子 ] 2017/09/22 14:37:04 [ 削除 ] [ 通報 ]

西野宮子さんありがとうございます。お父様も西宮生まれだったのですね。大正15年生まれで、当時建石小学校に通われた河野多恵子さんが、小学校から聖戦博覧会に行ったことを書かれていました。三国同盟博覧会とはやはり阪田寛夫が考え出した博覧会だったのでしょうか。

[ seitaro ] 2017/09/22 16:19:37 [ 削除 ] [ 通報 ]

今晩、私のブログを訪問してくださったので、父が西宮生まれだという誤解は解けたと思います。
父は生まれも育ちも丹波篠山です。

[ 西野宮子 ] 2017/09/22 21:47:26 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうだったのですね。失礼いたしました。

[ seitaro ] 2017/09/22 22:41:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

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箕面電鉄を設立した小林一三が池田室町に引き続き開発した桜井経営地

 小林一三は明治43年(1910年)に箕面電鉄を設立し、梅田、宝塚間、梅田、箕面間を開業。そこに新たな住宅地開発を目指しました。

上は当時の路線図

「住宅地御案内」では、
 <美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!
 出産率十人に対し死亡率十一人強に当る、大阪市民の衛生状態に注意する諸君は、慄然として都会生活の心細きを感じ給ふべし、同時に田園趣味に高める楽しき郊外生活を懐ふの念や切なるべし。>と東洋のマンチェスターと呼ばれた煙モクモクの大阪を離れ、郊外生活を勧めています。

 その最初の経営地が池田室町分譲地住宅で買収は明治42年(1909年)、その二年後に桜井経営地を開発します。

 
 阪田寛夫『わが小林一三』に、小林一三が書いた桜井経営地の広告文(新宅物語)が紹介されています。
<「『美しいお宅ですことね、羨ましいわ』と十八九のういういしい丸髷の細君は二階の欄にもたれ、箕面の翠山を渡り来る涼風に髪の乱るるを厭わぬのである。『昼日中もそれはそれは涼しいのよ、水がよくつて蚊も少ないし』と此の家の主婦は水密桃を進めながら、『この桃も宅の庭で出来たのよ、召上がって頂戴な』と言いながら青簾を捲き上げる。『間取りもいいし、何もかも便利に、よくこんなに建ったものですわ』と感心しながら、丸髷の細君『甚だ失礼ですが、家賃は如何ほどですか』『家賃ではないのよ、大阪にいて借りる家賃よりも安い月賦で買いましたの』『アラ、そう、月賦ってどいう風にするの』……『そう、わたし、旦那様にお願いしてこちらへ移りましょう、大阪で家賃を出すなぞ馬鹿らしいわ』と新宅の二階座敷で仲好し同志の物語」>

駅の近くに、明治の末に開発されたと思われるお屋敷街の風情が残っていました。

 桜井といえば、艸園帖に赤松進が描いていた「桜井風景」の洋館街。

阪急桜井駅から田村橋通りを北に1kmほど歩いた桜ケ丘2丁目にあります。



大正11年の大正住宅改造博覧会での住宅がいくつか残っており、洋館通りと呼ばれる風情ある街並みが今も保たれています。

「小さいおうち」にでてきそうな住宅。


緩いカーブの通りに沿って建つ洋館群、今も残っているのが奇跡的です。



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阪田寛夫が入隊前に彷徨した岡本の街、そして当時からあった洋館へ

 昭和19年初秋、大阪の街なかに住んでいた阪田寛夫は『わが小林一三』で、中部二十三連隊に入営する前に、梅田から阪急電車に乗って岡本の街を歩いたことを回想しています。

<宝塚は既に三月で閉鎖され、海軍飛行予科練習生の兵舎に使われている。西宮北口で各駅停車に乗り換え、ひとりでに岡本駅に降り立っていた。>
当時はまだ岡本に特急は止まりませんでした。

岡本駅で降りた阪田寛夫はこの新梅林踏切を渡って、坂道を上って行ったのでしょう。
<住宅街の坂道を一番はずれの丘までゆっくり登って、家々を見下ろせる赤松林で弁当を食べ、日が傾くまで松風の匂いや、白い塀や、煙突の出た赤屋根の勾配やらを、この世の名残に何一つ見落とさず身につけて戦地へ行こうと、歩きまわったものであった。>
岡本は阪田寛夫にとって阪急沿線の街並みとして心に焼き付けたかった風景でした。

 その岡本に現在も残っている洋館が風前の灯となっており、住宅遺産トラスト関西が継承者を探して内覧会を開催されています。

 大正11年に建築された旧稲畑次郎邸、設計は木子七郎。

内覧会では大阪市立大学准教授で建築史家の倉方俊輔氏にガイドいただきましたが、専門家のわかりやすい説明で、興味深く聴くことができました。

 木子七郎と言えば、わが西宮の登録有形文化財松山大学温山記念会館(旧新田邸)の設計者。その優れた和洋折衷のデザインについてわかりやすく解説いただきました。

洋館の格式を示すベランダ。

内部からはわからない左右対称の設計。

格調高い応接室の照明。

和室に壁紙や暖炉を配して調和した和洋折衷の和室。

この和洋折衷様式は、先日ご紹介した上の写真の聖心女子大のクニハウスにも見られるとの解説にも頷きました。

2階ベランダから望む岡本の街並みと大阪湾。阪田寛夫が彷徨した昭和19年ごろはもっと落ち着いた風景が広がっていたことでしょう。



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seitaroさん、今ちょうど小学校のお話会で阪田寛夫さんの詩を取り上げているので、記事を興味深く読ませていただきました。

[ ぷりんまろ ] 2016/06/28 14:12:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

ぷりんまろさん 参考にしていただいてありがとうございます。
芥川賞作家で大浦みずきさんの父、私よりはるかに阪急フリークの方です。それをもう少し記事にしようかと思っています。

[ seitaro ] 2016/06/28 15:29:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

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私より「阪急沿線」フリークだった阪田寛夫(その2)

 阪田寛夫は大阪生まれで、小学校は手塚山学院に通っていましたが、大の阪急電鉄ファンで、宝塚ファンでした。


 阪田寛夫『わが小林一三』の「幕間」には小学生時代の思い出話も述べられています。
<昭和十年を前後する時代に、私の通っていた大阪市内の南海電車沿線の小学校でも、阪急電車は速力と、海老茶一色に統一された鋼鉄製車体と、野暮な装飾など一切ない機能的で重厚な内装によって、私鉄電車品定めにおける人気は抜群だった。
「一回乗っても南海電車」
「全身乗っても阪神電車」
「特急に乗っても阪急電車」
こんなことを言い合いながら互いにひいきをこきおろすのだが、…>
 とても小学生が考えたとは思えない、なかなか面白い言い回しです。


あの有名なガラアキ電車の広告にも言及しています。


<大正九年夏、神戸線開通の頃、明らかに阪急電車を意識して一三が作った有名な新聞広告文案に「綺麗で早うて、ガラアキ、眺めの素敵によい涼しい電車」というのがある。>

 そして19歳で召集された阪田が入営する前日、阪急電車に乗って最後の見納めにと彷徨したのが岡本でした。


<昭和十九年初秋、中部二十三部隊に入営する前の日に、別れを惜しむ恋人もいないまま阪急電車に乗ってしまった。宝塚は既に三月で閉鎖され、海軍飛行予科練習生の兵舎に使われている。西宮北口で各駅停車に乗り換え、一人で岡本駅に降り立っていた。住宅街の坂道を一番外れの丘までゆっくり登って、家々を見下ろせる赤松林で弁当を食べ、日が傾くまで松風の匂いや、白い塀や、煙突の出た赤屋根の勾配やらを、この世の名残に何一つ見落とさず見につけて戦地へ行こうと、歩きまわったものであった。だがそれは、いくら触れようとしてももはや実体の無い蜃気楼のように見えた。
 今から考えると、いかにも稚い思い込みだが、しかし「阪急沿線」というものがもし無かったとしたら、もとより希薄な自分の過去が、全く彩り薄いものになったと思われる。>
須賀敦子さんの親友「しいべ」が住んでいた岡本。

阪田もこの新梅林踏切を渡って坂道を登っていったのでしょう。
一番外れの丘とは、現在梅林公園となっているあたりでしょうか。


それにしてもこの世の名残に、阪急沿線の美しい景色を見に来たとは、私はとても足元にもおよびません。



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おはようございまう。今の梅林は後年作られたもので、昔の梅林とは違うかと思います。昔の梅林は水害で被害にあったのではないでしょうか。当時のはずれの丘。山じゃ無くて丘ですから…、西岡本のヘルマン屋敷、十二軒道路のつきあたりの山の上にある二楽荘の跡、神戸薬科大学のあたりとかでしょうか。山なら保久良山ですが…。昭和30年頃の記憶と対照しても、当時と今では想像を絶するほど違うはずです。

[ ふく ] 2014/08/02 9:45:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

岡本にもヘルマン邸をはじめ洋館はありました。そして100%洋館でなくても、「煙突の出た赤屋根の勾配」煙突と勾配は洋館のようでもありますが、私の家もそうでしたが、洋風をそなえた昭和初期流行の折衷型住宅も赤屋根やダミーの煙突があったりあしました。

[ ふく ] 2014/08/02 12:54:28 [ 削除 ] [ 通報 ]

Seitaroさぁ〜ん「一回乗っても南海電車」…………猫田に言わせると「ニャンかい乗ってもニャン海電車」!!えへへ〜(⌒〜⌒)

[ 猫田猫美 ] 2014/08/02 17:03:00 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前を呼ばれてドッキリ。ついに南海電車もニャン海電車になっていました。ニャン匹乗っているのでしょう。

[ seitaro ] 2014/08/02 20:55:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

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私より「阪急沿線」フリークだった阪田寛夫(その1)

 『サッちゃん』を作詞した詩人で芥川受賞作家、幼い頃からの宝塚ファンで次女が元花組男役トップスター大浦みずきさんという阪田寛夫氏。


 その著書、長編評伝小説『わが小林一三』を読んでいると、小林一三を心から尊敬し子供の頃から大変な阪急沿線フリークであったことがわかりました。谷崎潤一郎はじめ、多くの作家が阪急沿線の美しさを描いていますが、阪田ほど率直に尊崇の念を語った作家はいないでしょう。

『わが小林一三』の「幕間」は次のように始まります。
<もし小林一三がいなかったら、いたとしてもここまで書いてきたような運に彼がめぐり逢わなかったとしたら、私の歳に近いか、もっと上の年代の上方生まれの人間は、自分たちにとっては確固とした人文的世界である『阪急沿線』というものを、ついにこの世に持たずに終わったことであろう。>


 1925年生まれの阪田は阪神間モダニズムの時代に幼少期を過ごし、昭和10年頃の西宮−神戸間のイメージを次のように述べています。

<もし少年時代のある日のたそがれどき、坂の多い松の香りにむせるようなその街の一角に、感傷に身をまかせて立ちすくんでいたとすれば、石英分の多い六甲の峰々が上の方から順に紫色に変わって行き、やがて同じ色の風が麓の洋館赤屋根の瓦や壁まで深く染めるのを、世界苦の響きを聞く面持ちでどんなにか苦しげにこの身の肌に受け止めようとしたことだろう。すると心が一層迫ってきて、灯火がともり始めた谷間や丘の窓硝子という窓硝子の内側に、どうしてもスリッパを履いた美しく聡明な少女が愁い顔に立っていると信ぜざるを得なくなるのである。>


現在では六甲山の山裾までぎっしり住宅が建てられ、当時の風景とはかなり変わりました。


「愁い顔のスリッパを履いた美しく聡明な少女」とはどうしても中原淳一の描いた少女や、『紫苑の園』の作者松田瓊子さんを思い描いてしまいます。


<大正時代に植えつけられた苔や蔦や薔薇がしっかり根付いて外壁や白塗りの壁にからみ、家の形と、家の建っている丘陵や谷の光と翳りとが、すなわちこれらの家のなかに住む人々の高貴な精神を隈どっているのであった。筆者の想像に於いては、彼らは衣食を大阪よりは神戸の外人街に依存した。令嬢や夫人の服や外套の仕立ては香港や上海で年季を入れた中国人裁縫師に限るし、味噌汁や大根漬けの代りにパンやチーズを求める先は神戸トアロードのドイツ食料品店に限られるのであった。そしてその口より発する言葉は口臭に汚れた我々の大阪弁ではなく、匂いのいい紙石鹸のような標準語にほかならぬと思われた。>
 ここまでくると筆者の想像というより、私と同様妄想に近いと思われるのですが、当時は実際にそのような雰囲気だったのでしょうか。


御影の深田池から坂道を上がっていきますと、まだ洋館跡を見ることができます。


 残念ながら取り壊されてしまった赤い屋根と白塗りの壁のヴォーリズ建築の小寺邸は阪田の想像にピッタリ。小寺家の人々は「匂いのいい紙石鹸のような標準語」を話されていたのでしょうか。



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宝塚音楽学校の文化祭(阪田寛夫『ロミオの父』より)

 阪田寛夫は新幹線の延着で妻と落ち合う予定の時刻まで5分しかなくなり、阪急今津線の宝塚南口駅で降りて、宝塚大劇場に急ぎます。


<電車が終点の一つ手前の、古いホテルのある駅に着いた時、彼は思い切って降りることに決めた。この駅を出ると電車は鉄橋を渡り、遊園地と動物園の間を通って終点に着く、遊園地の中にこれから行く劇場があるのだが、終着駅から戻るよりは急いでここから行く劇場があるのだが、終着駅から戻るよりは急いでここから歩いた方が早いと判断した。>
今はもう宝塚ファミリーランドは閉園してしまいましたが、地図を確かめると、大劇場へは花の道を通って向かうより、宝塚南口駅からの方が近そうです。


 <三十年前、戦争の激しい最中に彼はこの遊園地へレヴューを見に来たことがある。帰りがけ、人の流れと反対の方向にわざとでたらめに歩いてみた。(私鉄の起点である商工業都市の街中で生まれ育った彼は、子供の頃からこの電車と沿線の住宅地を大変尊敬していた。特急は早いし、乗客の女の人は他のどの電鉄よりも美しかった)すぐ白い橋があって、対岸の松山を背に赤屋根の五階建てのホテルが見えた。橋は電車と並んでいて、向こう岸の白い砂や丸石が鉄橋の錆かレールの鉄粉に汚れて赤茶色に染まり、そこがもう次の駅だった。>


特急は早いし乗客の女の人は美しかったとは阪田寛夫も相当の小林一三贔屓です。


赤屋根の五階建てのホテルとは、遠藤周作が彼を小説家にした宝塚図書館を懐かしみ、よく宿泊した宝塚南口駅前の宝塚ホテルです。

 

 いよいよ宝塚音楽学校の文化祭の幕開けです。


<化粧品会社の名前が金銀で縫いとられた大きな幕が上がると、グレイの制服を着た少女たちがざっと七、八十名三列横隊に整列していた。>

当時の緞帳は資生堂によるものだったようです。

 


<序幕のバレエが終わると、短い青い上着に白い長いタイツをはいたロミオがとび出してきた。何やらくしゃくしゃと言ったかと思うと、もう舞台のこちら側の袖にかけこんでしまった。彼が息を抜く間もなく、すぐまた飛び出して来て長いセリフを言い始めた。>
阪田寛夫が普通の父親、いやそれ以上にハラハラ、ドキドキしながら娘の阪田なつめさん(大浦みずきさん)の演技に目を見張っていた様子が伝わってきました。

今年の第100期生宝塚音楽学校文化祭は2月16日宝塚バウホール16:00開演でした。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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