阪急沿線文学散歩

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カトリック夙川教会の幼稚園を舞台にした阪田寛夫の「酸模」

 阪田寛夫『我等のブルース』に収められた短編「酸模」は六年生の男子小学生の異性へのあこがれ、性の目覚めを描いた、少し甘酸っぱい思いのする物語です。
その舞台はどうも昭和19年まで存在したカトリック夙川教会の幼稚園のようです。
「酸模」は次のように始まります。
<啓四郎は牧師の子供ほど損なもんはないと思っていた。家ではスケベエなことはちっとも言えない。おまけに学校ではアーメン!とからかわれる。春休みになって幼稚園のペンキの塗替えが始まった。幼稚園は教会の裏から松林を隔てて、背中合わせに建っている。(お父さんは園長もかねている)>
 主人公啓四郎は阪田自身をモデルにしたようですが、阪田寛夫の父親・素夫は阪田インキ製造所(後のサカタインクス)をしつつ阿倍野にある日本基督教団南大阪教会と同じ敷地にある南大阪教会幼稚園の園長をされていました。したがって幼稚園のモデルは南大阪教会幼稚園なのですが、さらに読んでいくと舞台を夙川に移していることがわかります。

写真は村野藤吾設計の日本基督教団 南大阪教会と現在も存続する幼稚園。

 啓四郎は二十幾つの幼稚園の先生の右近さんを好きになります。
<朝、学校へ行くのにわざと少し遅い目に出ると、夙川の駅からトコトコ坂道を登ってくる右近さんにうまく出くわす事がある。>
どうもカトリック夙川教会に向かう坂道のようです。

上の写真は1938年のメルシェ神父と幼稚園児たちの写真です。

 この小説の途中に、西宮北口で「日独伊三国博覧会」が開かれていたと述べられています。

戦時中、西宮北口に航空園があったことは知っていましたが、「日独伊三国博覧会」が開催されていたことはネットで調べても出てきません。
<西宮北口で日独伊三国博覧会が開かれている。試験勉強の参考になると先生が言っていたので、タクちゃんと見に行った。朝から冷たく曇っていて、産業館も国防館もみんなガランと淋しく、土間のしめった土が膝まで冷え冷えとしみる。>
中にはフランクフルト曲芸団の公演まであったそうです。
<三十銭払ってはいると三百人程の人がバラバらと腰かけておとなしく待っていた。まん中に大きなマットが敷いてあって、ブランコや吊輪の高い鉄棒が立っている。ドイツのフランクフルト曲芸団の公演と書いてあった。>
「円形のスタンドのてっぺんに三つの国の国旗が順にぐるりと立て廻らせてある」など記述は具体的なので、実際に開催されていたのかもしれませんが、よその場所なのか判然としません。

 そのスタンドでの啓四郎の姿がが面白く書かれています。
<啓四郎はさっきからソワソワしていた。すぐ三段上の席から綺麗なすんなり揃った脚がのびていて、振向くたびに眼がどうしてもその間に吸い寄せられるのだ。まるで銀色の長い靴下のその奥に、柔らかな白い清潔な下穿きがはっきり見える。>
あまりよく振り向くので友人のタクちゃんに注意されるのですが、この少年の覗き見する気持ちもよくわかります。

 次に阪急夙川駅の東のガード下で、とんでもない発想が述べられています。

<夙川の駅のすぐ手前で、道が線路をくぐっている。電車が通ると、車体のハラワタみたいな黒い機械がまざまざ見える。乗ってるお客は真下から見られているとはちっとも気が付かない。啓四郎は此の頃それを見ただけでウンこをこらえている様な気持ちになってくるのだ。こんなのが本当に仕様のないスケベエなんじゃないかしら。>
 私も子供の頃、ガードの下から列車が通るのを見上げるのは好きでしたが、さすがここまでは高揚しませんでした。
現在の夙川駅近くのガードです。

 最近は安全のためでしょうが、上から何か降って来ないように完全に鉄板で覆われていて、昔の様に列車の下側を見ることはできなくなってしまいました。

 主人公啓四郎が、自分は本当に仕様のないスケベエなんじゃないかと心配する気持ちもよくわかります。健康な小学生であればこそと思いましたが、この小説の最後はもっと過激に谷崎潤一郎並みの隠微な終わり方をします。
事務室に忍び込んだ啓四郎はあこがれの右近先生の運動靴を見つけます。
<思い切ってカカトの内側に鼻をくっつけた。吸い込む。チーズの匂いだ。>
全文引用しようと思いましたが、この先まだ過激な文章が続きますので、ここで止めておきます。

 それにしても何故プロテスタントの阪田はカトリック夙川教会の幼稚園を舞台にしたのでしょう。
(投稿禁止用語が2つあり、カタカナとひらがなを混ぜました)




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すでにお調べかもしれませんが、昭和3年生まれの父に聞いたところ、西宮球場で開催されたのは聖戦博覧会でした。
調べてみると開催されたのは昭和13年の春でした。
日独伊三国博覧会のモデルは聖戦博覧会でしょうか。

[ 西野宮子 ] 2017/09/22 14:37:04 [ 削除 ] [ 通報 ]

西野宮子さんありがとうございます。お父様も西宮生まれだったのですね。大正15年生まれで、当時建石小学校に通われた河野多恵子さんが、小学校から聖戦博覧会に行ったことを書かれていました。三国同盟博覧会とはやはり阪田寛夫が考え出した博覧会だったのでしょうか。

[ seitaro ] 2017/09/22 16:19:37 [ 削除 ] [ 通報 ]

今晩、私のブログを訪問してくださったので、父が西宮生まれだという誤解は解けたと思います。
父は生まれも育ちも丹波篠山です。

[ 西野宮子 ] 2017/09/22 21:47:26 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうだったのですね。失礼いたしました。

[ seitaro ] 2017/09/22 22:41:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

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箕面電鉄を設立した小林一三が池田室町に引き続き開発した桜井経営地

 小林一三は明治43年(1910年)に箕面電鉄を設立し、梅田、宝塚間、梅田、箕面間を開業。そこに新たな住宅地開発を目指しました。

上は当時の路線図

「住宅地御案内」では、
 <美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!
 出産率十人に対し死亡率十一人強に当る、大阪市民の衛生状態に注意する諸君は、慄然として都会生活の心細きを感じ給ふべし、同時に田園趣味に高める楽しき郊外生活を懐ふの念や切なるべし。>と東洋のマンチェスターと呼ばれた煙モクモクの大阪を離れ、郊外生活を勧めています。

 その最初の経営地が池田室町分譲地住宅で買収は明治42年(1909年)、その二年後に桜井経営地を開発します。

 
 阪田寛夫『わが小林一三』に、小林一三が書いた桜井経営地の広告文(新宅物語)が紹介されています。
<「『美しいお宅ですことね、羨ましいわ』と十八九のういういしい丸髷の細君は二階の欄にもたれ、箕面の翠山を渡り来る涼風に髪の乱るるを厭わぬのである。『昼日中もそれはそれは涼しいのよ、水がよくつて蚊も少ないし』と此の家の主婦は水密桃を進めながら、『この桃も宅の庭で出来たのよ、召上がって頂戴な』と言いながら青簾を捲き上げる。『間取りもいいし、何もかも便利に、よくこんなに建ったものですわ』と感心しながら、丸髷の細君『甚だ失礼ですが、家賃は如何ほどですか』『家賃ではないのよ、大阪にいて借りる家賃よりも安い月賦で買いましたの』『アラ、そう、月賦ってどいう風にするの』……『そう、わたし、旦那様にお願いしてこちらへ移りましょう、大阪で家賃を出すなぞ馬鹿らしいわ』と新宅の二階座敷で仲好し同志の物語」>

駅の近くに、明治の末に開発されたと思われるお屋敷街の風情が残っていました。

 桜井といえば、艸園帖に赤松進が描いていた「桜井風景」の洋館街。

阪急桜井駅から田村橋通りを北に1kmほど歩いた桜ケ丘2丁目にあります。



大正11年の大正住宅改造博覧会での住宅がいくつか残っており、洋館通りと呼ばれる風情ある街並みが今も保たれています。

「小さいおうち」にでてきそうな住宅。


緩いカーブの通りに沿って建つ洋館群、今も残っているのが奇跡的です。



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阪田寛夫が入隊前に彷徨した岡本の街、そして当時からあった洋館へ

 昭和19年初秋、大阪の街なかに住んでいた阪田寛夫は『わが小林一三』で、中部二十三連隊に入営する前に、梅田から阪急電車に乗って岡本の街を歩いたことを回想しています。

<宝塚は既に三月で閉鎖され、海軍飛行予科練習生の兵舎に使われている。西宮北口で各駅停車に乗り換え、ひとりでに岡本駅に降り立っていた。>
当時はまだ岡本に特急は止まりませんでした。

岡本駅で降りた阪田寛夫はこの新梅林踏切を渡って、坂道を上って行ったのでしょう。
<住宅街の坂道を一番はずれの丘までゆっくり登って、家々を見下ろせる赤松林で弁当を食べ、日が傾くまで松風の匂いや、白い塀や、煙突の出た赤屋根の勾配やらを、この世の名残に何一つ見落とさず身につけて戦地へ行こうと、歩きまわったものであった。>
岡本は阪田寛夫にとって阪急沿線の街並みとして心に焼き付けたかった風景でした。

 その岡本に現在も残っている洋館が風前の灯となっており、住宅遺産トラスト関西が継承者を探して内覧会を開催されています。

 大正11年に建築された旧稲畑次郎邸、設計は木子七郎。

内覧会では大阪市立大学准教授で建築史家の倉方俊輔氏にガイドいただきましたが、専門家のわかりやすい説明で、興味深く聴くことができました。

 木子七郎と言えば、わが西宮の登録有形文化財松山大学温山記念会館(旧新田邸)の設計者。その優れた和洋折衷のデザインについてわかりやすく解説いただきました。

洋館の格式を示すベランダ。

内部からはわからない左右対称の設計。

格調高い応接室の照明。

和室に壁紙や暖炉を配して調和した和洋折衷の和室。

この和洋折衷様式は、先日ご紹介した上の写真の聖心女子大のクニハウスにも見られるとの解説にも頷きました。

2階ベランダから望む岡本の街並みと大阪湾。阪田寛夫が彷徨した昭和19年ごろはもっと落ち着いた風景が広がっていたことでしょう。



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seitaroさん、今ちょうど小学校のお話会で阪田寛夫さんの詩を取り上げているので、記事を興味深く読ませていただきました。

[ ぷりんまろ ] 2016/06/28 14:12:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

ぷりんまろさん 参考にしていただいてありがとうございます。
芥川賞作家で大浦みずきさんの父、私よりはるかに阪急フリークの方です。それをもう少し記事にしようかと思っています。

[ seitaro ] 2016/06/28 15:29:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

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私より「阪急沿線」フリークだった阪田寛夫(その2)

 阪田寛夫は大阪生まれで、小学校は手塚山学院に通っていましたが、大の阪急電鉄ファンで、宝塚ファンでした。


 阪田寛夫『わが小林一三』の「幕間」には小学生時代の思い出話も述べられています。
<昭和十年を前後する時代に、私の通っていた大阪市内の南海電車沿線の小学校でも、阪急電車は速力と、海老茶一色に統一された鋼鉄製車体と、野暮な装飾など一切ない機能的で重厚な内装によって、私鉄電車品定めにおける人気は抜群だった。
「一回乗っても南海電車」
「全身乗っても阪神電車」
「特急に乗っても阪急電車」
こんなことを言い合いながら互いにひいきをこきおろすのだが、…>
 とても小学生が考えたとは思えない、なかなか面白い言い回しです。


あの有名なガラアキ電車の広告にも言及しています。


<大正九年夏、神戸線開通の頃、明らかに阪急電車を意識して一三が作った有名な新聞広告文案に「綺麗で早うて、ガラアキ、眺めの素敵によい涼しい電車」というのがある。>

 そして19歳で召集された阪田が入営する前日、阪急電車に乗って最後の見納めにと彷徨したのが岡本でした。


<昭和十九年初秋、中部二十三部隊に入営する前の日に、別れを惜しむ恋人もいないまま阪急電車に乗ってしまった。宝塚は既に三月で閉鎖され、海軍飛行予科練習生の兵舎に使われている。西宮北口で各駅停車に乗り換え、一人で岡本駅に降り立っていた。住宅街の坂道を一番外れの丘までゆっくり登って、家々を見下ろせる赤松林で弁当を食べ、日が傾くまで松風の匂いや、白い塀や、煙突の出た赤屋根の勾配やらを、この世の名残に何一つ見落とさず見につけて戦地へ行こうと、歩きまわったものであった。だがそれは、いくら触れようとしてももはや実体の無い蜃気楼のように見えた。
 今から考えると、いかにも稚い思い込みだが、しかし「阪急沿線」というものがもし無かったとしたら、もとより希薄な自分の過去が、全く彩り薄いものになったと思われる。>
須賀敦子さんの親友「しいべ」が住んでいた岡本。

阪田もこの新梅林踏切を渡って坂道を登っていったのでしょう。
一番外れの丘とは、現在梅林公園となっているあたりでしょうか。


それにしてもこの世の名残に、阪急沿線の美しい景色を見に来たとは、私はとても足元にもおよびません。



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阪田寛夫 | コメント( 4 ) | トラックバック( 0)

おはようございまう。今の梅林は後年作られたもので、昔の梅林とは違うかと思います。昔の梅林は水害で被害にあったのではないでしょうか。当時のはずれの丘。山じゃ無くて丘ですから…、西岡本のヘルマン屋敷、十二軒道路のつきあたりの山の上にある二楽荘の跡、神戸薬科大学のあたりとかでしょうか。山なら保久良山ですが…。昭和30年頃の記憶と対照しても、当時と今では想像を絶するほど違うはずです。

[ ふく ] 2014/08/02 9:45:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

岡本にもヘルマン邸をはじめ洋館はありました。そして100%洋館でなくても、「煙突の出た赤屋根の勾配」煙突と勾配は洋館のようでもありますが、私の家もそうでしたが、洋風をそなえた昭和初期流行の折衷型住宅も赤屋根やダミーの煙突があったりあしました。

[ ふく ] 2014/08/02 12:54:28 [ 削除 ] [ 通報 ]

Seitaroさぁ〜ん「一回乗っても南海電車」…………猫田に言わせると「ニャンかい乗ってもニャン海電車」!!えへへ〜(⌒〜⌒)

[ 猫田猫美 ] 2014/08/02 17:03:00 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前を呼ばれてドッキリ。ついに南海電車もニャン海電車になっていました。ニャン匹乗っているのでしょう。

[ seitaro ] 2014/08/02 20:55:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

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私より「阪急沿線」フリークだった阪田寛夫(その1)

 『サッちゃん』を作詞した詩人で芥川受賞作家、幼い頃からの宝塚ファンで次女が元花組男役トップスター大浦みずきさんという阪田寛夫氏。


 その著書、長編評伝小説『わが小林一三』を読んでいると、小林一三を心から尊敬し子供の頃から大変な阪急沿線フリークであったことがわかりました。谷崎潤一郎はじめ、多くの作家が阪急沿線の美しさを描いていますが、阪田ほど率直に尊崇の念を語った作家はいないでしょう。

『わが小林一三』の「幕間」は次のように始まります。
<もし小林一三がいなかったら、いたとしてもここまで書いてきたような運に彼がめぐり逢わなかったとしたら、私の歳に近いか、もっと上の年代の上方生まれの人間は、自分たちにとっては確固とした人文的世界である『阪急沿線』というものを、ついにこの世に持たずに終わったことであろう。>


 1925年生まれの阪田は阪神間モダニズムの時代に幼少期を過ごし、昭和10年頃の西宮−神戸間のイメージを次のように述べています。

<もし少年時代のある日のたそがれどき、坂の多い松の香りにむせるようなその街の一角に、感傷に身をまかせて立ちすくんでいたとすれば、石英分の多い六甲の峰々が上の方から順に紫色に変わって行き、やがて同じ色の風が麓の洋館赤屋根の瓦や壁まで深く染めるのを、世界苦の響きを聞く面持ちでどんなにか苦しげにこの身の肌に受け止めようとしたことだろう。すると心が一層迫ってきて、灯火がともり始めた谷間や丘の窓硝子という窓硝子の内側に、どうしてもスリッパを履いた美しく聡明な少女が愁い顔に立っていると信ぜざるを得なくなるのである。>


現在では六甲山の山裾までぎっしり住宅が建てられ、当時の風景とはかなり変わりました。


「愁い顔のスリッパを履いた美しく聡明な少女」とはどうしても中原淳一の描いた少女や、『紫苑の園』の作者松田瓊子さんを思い描いてしまいます。


<大正時代に植えつけられた苔や蔦や薔薇がしっかり根付いて外壁や白塗りの壁にからみ、家の形と、家の建っている丘陵や谷の光と翳りとが、すなわちこれらの家のなかに住む人々の高貴な精神を隈どっているのであった。筆者の想像に於いては、彼らは衣食を大阪よりは神戸の外人街に依存した。令嬢や夫人の服や外套の仕立ては香港や上海で年季を入れた中国人裁縫師に限るし、味噌汁や大根漬けの代りにパンやチーズを求める先は神戸トアロードのドイツ食料品店に限られるのであった。そしてその口より発する言葉は口臭に汚れた我々の大阪弁ではなく、匂いのいい紙石鹸のような標準語にほかならぬと思われた。>
 ここまでくると筆者の想像というより、私と同様妄想に近いと思われるのですが、当時は実際にそのような雰囲気だったのでしょうか。


御影の深田池から坂道を上がっていきますと、まだ洋館跡を見ることができます。


 残念ながら取り壊されてしまった赤い屋根と白塗りの壁のヴォーリズ建築の小寺邸は阪田の想像にピッタリ。小寺家の人々は「匂いのいい紙石鹸のような標準語」を話されていたのでしょうか。



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宝塚音楽学校の文化祭(阪田寛夫『ロミオの父』より)

 阪田寛夫は新幹線の延着で妻と落ち合う予定の時刻まで5分しかなくなり、阪急今津線の宝塚南口駅で降りて、宝塚大劇場に急ぎます。


<電車が終点の一つ手前の、古いホテルのある駅に着いた時、彼は思い切って降りることに決めた。この駅を出ると電車は鉄橋を渡り、遊園地と動物園の間を通って終点に着く、遊園地の中にこれから行く劇場があるのだが、終着駅から戻るよりは急いでここから行く劇場があるのだが、終着駅から戻るよりは急いでここから歩いた方が早いと判断した。>
今はもう宝塚ファミリーランドは閉園してしまいましたが、地図を確かめると、大劇場へは花の道を通って向かうより、宝塚南口駅からの方が近そうです。


 <三十年前、戦争の激しい最中に彼はこの遊園地へレヴューを見に来たことがある。帰りがけ、人の流れと反対の方向にわざとでたらめに歩いてみた。(私鉄の起点である商工業都市の街中で生まれ育った彼は、子供の頃からこの電車と沿線の住宅地を大変尊敬していた。特急は早いし、乗客の女の人は他のどの電鉄よりも美しかった)すぐ白い橋があって、対岸の松山を背に赤屋根の五階建てのホテルが見えた。橋は電車と並んでいて、向こう岸の白い砂や丸石が鉄橋の錆かレールの鉄粉に汚れて赤茶色に染まり、そこがもう次の駅だった。>


特急は早いし乗客の女の人は美しかったとは阪田寛夫も相当の小林一三贔屓です。


赤屋根の五階建てのホテルとは、遠藤周作が彼を小説家にした宝塚図書館を懐かしみ、よく宿泊した宝塚南口駅前の宝塚ホテルです。

 

 いよいよ宝塚音楽学校の文化祭の幕開けです。


<化粧品会社の名前が金銀で縫いとられた大きな幕が上がると、グレイの制服を着た少女たちがざっと七、八十名三列横隊に整列していた。>

当時の緞帳は資生堂によるものだったようです。

 


<序幕のバレエが終わると、短い青い上着に白い長いタイツをはいたロミオがとび出してきた。何やらくしゃくしゃと言ったかと思うと、もう舞台のこちら側の袖にかけこんでしまった。彼が息を抜く間もなく、すぐまた飛び出して来て長いセリフを言い始めた。>
阪田寛夫が普通の父親、いやそれ以上にハラハラ、ドキドキしながら娘の阪田なつめさん(大浦みずきさん)の演技に目を見張っていた様子が伝わってきました。

今年の第100期生宝塚音楽学校文化祭は2月16日宝塚バウホール16:00開演でした。



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大浦みずきの宝塚音楽学校時代を描いた阪田寛夫『ロミオの父』

 詩人で芥川賞受賞作家の阪田寛夫の次女は元宝塚歌劇団花組トップスターの大浦みずきさん(本名;阪田なつめさん)です。残念ながら2009年に亡くなられたそうで、2014年11月8日まで、東京のご実家で「大浦みずき追想展」が開かれています。


http://office-mizuki.tumblr.com/


 彼女の宝塚音楽学校時代の文化祭について、父阪田寛夫が『ロミオの父』という小品を書いています。


<「ロミオとジュリエット」のロミオ役を貰ったと彼の次女が電話をかけて来たのは、文化祭の一ヶ月前の十二月中頃だった。>と小説は始まりますが、阪田自身は三人称の「彼」として登場します。
 宝塚音楽学校は次のように説明されています。
<二週間先に行われる文化祭にはまだ他に歌だの踊りだの幾つかの演目がある筈だったが、大晦日も元日もその次の日も、次女は何の稽古もしなかった。彼女が自分で志望して入った関西にあるその学校は和洋の芸能を二年間みっちり教えこむところで、毎朝七時に登校して校舎の掃除から日課が始まるという厳しい教育をする。それでも彼の娘のように憧れて試験を受ける者があとを絶たない。ここを卒業すればその上にある女だけの歌劇団に入れるのだ。>

新校舎が落成したのは1998年ですから、1974年宝塚歌劇団に入団された大浦みずきさんがそれまで2年間学ばれたのは現在宝塚市立宝塚文化創造館となっている旧校舎と思われます。

 

 文化祭の日が迫ってきて、妻から「行かなかったらきっとあとで後悔するよ」と言われて、「そんなら見に行ってやる」と当日ぎりぎりの時間まで家で仕事を仕上げて、東京から宝塚に向かいます。梅田から阪急宝塚線ではなく神戸線に乗ったようです。
<ちょうど中間の特急停車駅で、支線に乗り換える為に地下通路へ降りかけて驚いた。彼の行き先は支線の終点で、今日文化祭をやる劇場がそこにあるのだが、遅い午後のそんな時間には考えられないほど大勢の乗客が、その時彼を追い抜いて階段を駆け上がり、彼の乗るべき電車に殺到した。>
 そうでした。西宮北口駅の神戸線と今津線がダイヤモンド・クロスだった頃はホームの移動は地下通路でした。

はるか昔の高校時代には踏切を渡っての乗換えもあったと記憶していたので、阪急西宮ガーデンズのジオラマを確認すると、大阪行きホームから今津線への乗換えと今津線のホームの渡りが踏切になっていました。


 さて阪田は西宮北口駅で今津線に乗り換える大勢の乗客が宝塚音楽学校の文化祭に向かうのだと勘違いしたのです。


<電車が次の駅にとまり、人々は入って来た時から少しも気をゆるめないまま、いきなり逆方向に流れ出した、彼は思い出した。この駅の近くに厄除け開運の神社があった。今日がその年一度の祭りらしい。また驚いたことに人々の列の最後の背中がやっと扉から外へ消えた時、終点まで一緒だと最初彼が思い込んだ人たちが一人残らず出てしまっていた。>

大変な日に今津線に乗ったものです。

 


ガラガラになった電車で文化祭会場の宝塚大劇場に向かいましょう。

 



阪急今津線
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阪田寛夫『土の器』の夙川の山の上の家の場所は?

小説『土の器』では阪田寛夫の実兄の夙川の山の上の家の造りなどが詳しく描写されています。


<夙川の山の上にある兄の家のことを、悪口のうまい姉は蟹の家と綽名をつけていた。棲んでいる人が似ているからではなくて、赤い甲羅の蟹が山のてっぺんに左足をかけて休んでいる感じからだ。間口広く奥行きの薄い横這いの構造をまた殊更に強調して、設計者はお腹の下にあたる玄関から、向こう側のコンクリートの池と庭園を透けて見せている。
 その玄関の真上、赤い甲羅から左足の付根にいたるあたりに夫婦の寝室、その先に屋根裏部屋の大きな納戸がある。この二階の静かな寝室を兄たちは一年前から母に提供して、その代り母のために作った階下の寝室を自分たちが使っていた。>
このような特徴の家、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。


<新大阪駅に着くと、タクシーで夙川の山の上まで急行した。花崗岩質の山のてっぺんが赤松の林に囲まれた一寸した広場で、背後にゴルフ場のある台地がひろがっている。蟹の左足の先に鉄門が開いていて意外に静かだ。細長い建物をはさんで裏庭にはあじさい、手前の玄関への通路わきの生垣代りのコンクリート槽に背の高いピンクの花が一列のんきに咲いていた。>
昔は、夙川の上流の村落といえば水車や温泉があったという獅子ヶ口あたりまでだったのではないでしょうか。


(写真は獅子ヶ口鉱泉のあったあたり)

 

 現在は山の斜面にも家がぎっしり建てられていますが、夙川の山の上がどんどん開発され家が建てられるようになったのは、いつ頃からだったでしょう。

 

 


夙川学院短期大学が夙川の銀水橋の上にできたのは1965年のことでした。

 

 


そしてゲンコツホテル跡に涼宮ハルヒの通った山の上の西宮北校ができたのは1971年でした。

 

 現在では剣谷にあったキャンプ場のガミヤ池も小さくなり豪邸が建ち並んでいます。

(ガミヤ池からの景色)

 さて小説に書かれている<背後にゴルフ場のある台地が広がっている>とは西宮カントリー倶楽部にちがいありません。


したがって夙川の山の上の家とは西宮カントリー倶楽部の南にある甲陽園目神山にあったのではないかと想像するのです。


甲陽園目神山地区は、平成24年度都市景観大賞「都市空間部門」の国土交通大臣賞を受賞しています。

目神山の分譲が開始されたのは1959年。当時の販売広告には「阪神間に残されました唯一の理想的健康住宅地」と記されていました。

 阪田寛夫氏の母上が亡くなられた当時は、まだ家も少なく花崗岩質の山肌と赤松の林に囲まれていたのではないでしょうか。



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夙川の家が舞台となった芥川賞受賞作

 時々参考にさせていただく「西宮文学回廊」〜文学作品の舞台になった西宮を訪ねて〜が最近かなり充実しており、紹介されていない作品を見つけるのが困難になりつつあります。
http://nishinomiya.jp/bungaku/
 歴代の芥川賞受賞作の中で、西宮が舞台として登場する作品として、由紀しげ子『本の話』、井上靖『闘牛』がありますが、「西宮文学回廊」ではまだ紹介されていない昭和45年度下半期の芥川賞受賞作、阪田寛夫『土の器』では夙川の家が舞台として登場します。


 著者は<大阪市生まれ、東京大学文学部卒、朝日放送でラジオ番組のプロデューサーとして活躍。昭和37年退社後、作家として詩、小説、放送脚本、童謡、絵本などを手掛ける。娘は元宝塚スターの大浦みずき。>とのこと。 大のタカラヅカファンであり、童謡『サッチャン』の作詞者、劇団四季の『桃次郎の冒険』の原作者でもあります。


 阪田の父はインク製造業のかたわらキリスト教教会幼稚園の園長、母は作曲家・オルガニストで「椰子の実」の作曲者大中寅二の姉という恵まれた家庭に生まれました。芥川賞受賞作の『土の器』とは、新約聖書の一節にある言葉で、クリスチャンの母親の闘病から死までを描きながら心温かく家族を見つめた作品です。
 物語は、死ぬ前の年に肩の骨を折った母親が、人生の転機と観念して、兄が建てた夙川の現代アメリカ風の家に落ち着くところから始まります。

最初「夙川の長男の家」とは雲井町か殿山町か思ったのですが、どうも違います。


とりあえず作品を読み進めましょう。
<骨折が癒って動けるようになると、母は「人生の転機」は棚に上げ、また仕事に呼び寄せられて家を出ることが多くなった。ただ、こんどの家は六甲山系の入り口の丘の上にあるから、先ず電車の駅へ出るだけでもかなりの道のりだ。それにたまに大坂へ出るとどうしても廻るところが多くなる。ろくに食事を摂るひまもないらしく、ふらふらになって山を登って帰ってくる。タクシーに乗りなさいと言うのに乗らない。>
「電車の駅に出るだけでもかなりの道のり、六甲山系の入り口」とは、湯川秀樹や山口誓子が住んだ苦楽園のことでしょうか。


<景気が上向いた一九六〇年代に夙川の山の上に建てた家は二人が恐らく戦争前からこの世でこうありたいと思い続けてきた、生活の技術と信条とが一挙に具体化された設計になった。つまり、快適でゆとりもあるけれどものらくらできない感じの家だ。庭には観賞用の四季の花を絶えず群れ咲かせ、ボイラーやアメリカ製の大型電気機械の修繕は兄の役目であり、趣味も兼ねている。肉類は骨付きのうまいところを纏めて買って冷凍庫にぶち込む。そのために土曜か日曜の午後、兄が自動車を運転して(時には肥りすぎのコッカスパニエルも乗せて)夫婦仲良く大声で冗談を言い合いながら神戸へ買いに行く。>


 1960年代のアメリカナイズされた生活が目に浮かぶようです。
夙川の山の上の家とは何処なのか更に読み進めましょう。



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阪田寛夫 | コメント( 5 ) | トラックバック( 0)

私の得意先にサカタインクスという会社があったのですが、この創業者が阪田寛夫氏の祖父だったようです。
夙川の山の上はどこなのか楽しみにしています。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2014/07/19 22:05:03 [ 削除 ] [ 通報 ]

そんな繋がりがあったおですか。その収益が教会の建設費にあてられたのですね。阪田氏の家族のことを書かれた私小説はどの作品も強く印象に残りました。

[ seitaro ] 2014/07/19 22:27:08 [ 削除 ] [ 通報 ]

阪田商会といってたこらがありましたね。よく食卓の話題に上がってました。

[ ふく ] 2014/07/21 20:34:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

阪田寛夫『音楽入門』では父上のことが描かれていましたが、クリスチャンで、仕事のみならず音楽にも造詣の深かった方のようです。文化的な話題だったのでしょうね。

[ seitaro ] 2014/07/21 21:07:34 [ 削除 ] [ 通報 ]

たぶん経営上の問題だと思います。経営危機になって別の企業の傘下に入ったかと。ハモンドオルガンの話が関係あったと思いますが…、忘れました。

[ ふく ] 2014/07/21 23:10:46 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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