阪急沿線文学散歩

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松本清張『蒼い描点』の舞台となった箱根宮ノ下と早川渓谷

 今回の箱根の旅の最後に、松本清張の長編推理小説『蒼い描点』の舞台を訪ねました。

 若い女性編集者椎原典子が、先輩と協力しながら、女性作家の周囲で続発する怪事件の謎を追跡する、ロマンティック・ミステリーで、名前は変えられていますが、富士屋ホテル、大和屋ホテル、対星館が登場します。
 小説の冒頭は<椎原典子は、新宿駅発午後四時三十五分の小田急で箱根に向かった。>と始まります。典子は終点の箱根湯元駅から、タクシーで女性作家の村谷阿沙子の宿泊している宮ノ下の杉ノ屋ホテルに向かいます。

この「杉ノ屋ホテル」とは箱根富士屋ホテルらしく、赤絨毯などフロントの様子が描かれていました。
 しかし翌朝、村谷阿沙子は近くの坊ヶ島の対渓荘(堂ヶ島の大和屋ホテルがモデル)に移ってしまいます。
<しかし、とにかく、いまは村谷阿沙子の隣の旅館に移ることが先決だった。典子は女中さんを呼んだ。「坊ヶ島という温泉は、旅館が二軒しかございまん。」中年の女中は微笑して教えた。「へえ、そんな辺鄙なの?」

「いいえ、辺鄙というわけじゃありませんが、谷底になっていて、宮ノ下の温泉場からケーブルで降りる仕かけになっています。」
 箱根にはあまり詳しくない典子は、今までそれを聞いたことがなかった。
「一軒は対渓荘さんで、一軒は駿麗閣さんです。どちらも専用のケーブルカーを引いておられます。」村谷阿沙子は対渓荘に滞在しているのだから、典子はその駿麗閣という旅館に泊まるほかはなかった。>


 対渓荘は大和屋ホテル、駿麗閣は対星館がモデルとなったようです。実際に松本清張は執筆に際し、大和屋ホテルに逗留したそうです。

 

箱根富士屋ホテルを出て、少し歩くと「宮ノ下ノスタルジック散歩路」という案内図がありました。

絵地図を見ると、このあたりの古い建物や嶋写真店のある国道1号線はセピア通りと名づけられています。


「チェンバレンの散歩道」を下っていくと小説の舞台となった大和屋ホテルと対星館が並んでいます。


英国人バジル・ホール・チェンバレンは、19世紀後半〜20世紀初頭の最も有名な日本研究家の一人で、Things Japanese などを著しています。富士屋ホテルを常宿とし、この谷沿いの道を愛し、読書と執筆の合間の思索の供としていたそうです。
そのチェンバレンが歩いた道が、堂ケ島遊歩道として整備され、チェンバレンの散歩道と呼ばれているそうです。私もチェンバレンの散歩道を歩いて、小説の舞台となった大和屋ホテルと対星館を訪ねることにしました。

チェンバレンの散歩道の入り口に行くと、堂ヶ島渓谷入り口の看板と大和屋ホテルのロープウエイの駅がありました。


小説では二つの旅館のケーブルカーについて述べられています。


<旅館専用の空中ケーブルは、宿が違うから二つあるわけだが、最初のほうは対渓荘(大和屋ホテル)降り口と看板が出ている。この宿に村谷阿沙子が今朝移ったのである。典子はそれを眺めて、百メートルばかり歩くと、今度は駿麗閣(対渓館)降り口の看板があった。>

<ケーブルカーは小さくてかわいかった。六人乗りということだったが、客は典子一人で、その若い男が運転台に立った。>

 


 昨年から大和屋ホテルも対渓館もリノベーションのため休館中で、大和屋ホテルの建物は既に壊されていました。

 

夢窓橋から見える対星館です。

 

最初の殺人はこの早川渓谷で起こります。
<現場は、駿麗閣の庭から三十メートルばかり離れていて、早川渓谷が四十メートルの断崖の下で終わったところにあった。大きな石塊がごろごろしている。泊り客や宿の雇い人などが、二十人ばかりも集まって見物していた。>

 


私はこのあと堂ヶ島散歩道を楽しんで帰りましたが、小説のほうも面白い展開でした。

 




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seitaroさんの最近の文学リポートは西宮から大きく飛躍してスケールの大きなものになってきましたね。その行動力に感心させられています。

[ akaru ] 2014/08/18 9:33:44 [ 削除 ] [ 通報 ]

akaruさんありがとうございます。最近は旅行に行くにも、その地を舞台にした小説探しから始まります。今回も2冊ほど携えて行って参りました。

[ seitaro ] 2014/08/18 20:36:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

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鴎外の恩師ベルツ博士と箱根富士屋ホテル

 曽野綾子『遠来の客たち』ご一行のバスツアーから離れて、箱根温泉にゆかりのある「ベルツ博士の碑」があるという旧箱根離宮跡の恩賜箱根公園を尋ねてみました。

 

 公園のほぼ中央に建つのが、かつての離宮を思わせる「湖畔展望館」です。


館内には函根離宮の資料が展示されており、華やかな時代を物語っていました。

 

ベルツ博士と堂ヶ島の箱根離宮の関係も展示されていました。

 

2階のバルコニーからの景色です。

 


 公園内を探し回ってようやく見つけた「ベルツの碑」、字も薄くなっています。
この碑は、皇太子の健康を願って離宮をこの地に設けることをベルツ博士が進言したと伝えられることから、箱根町が建てたそうです。

 恩賜箱根公園の「ベルツの碑」は期待したほど立派なものではありませんでしたが、以前森鴎外の三四郎を散策しようと東大のキャンパスツアーをしたとき、


三四郎池から医学部付属病院まで歩き、鴎外の恩師でもあるベルツ博士の肖像彫刻があったことを思い出しました。

(上の写真は病院の壁にある診断、治療、予防をテーマにしたというレリーフ)

左側がベルツ博士の像です。
ベルツは明治29年、東京医学校の教授として招かれ、温泉の医学的活用に着目し、しばしば箱根を訪れ、箱根富士屋ホテルの創業者山口仙之助とは深い親交があったそうです。


 また富士屋ホテルに滞在の折、女子従業員がヒビやアカギレの手で働いているのを見て、グリセリン、エチレンアルコール、水、水酸化ナトリウムに香料を混合処方したグリセリンカリ液を与えたところ、大変よろこばれ、多くの女性に愛用されて有名になった「ベルツ水」でした。


 ベルツ水は現在もグリセリンカリ液として販売されています。
今回の箱根富士屋ホテルの滞在では色々な人のつながりを知ることができ、楽しい旅でした。



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高校二年の曽野綾子が案内した箱根のバストリップ(『遠来の客たち』より)

 曽野綾子『遠来の客たち』では、接収されたホテルに宿泊する進駐軍関係者たちを主人公波子が箱根のバス・トリップに案内する場面が描かれています。

 昭和23年、高校2年生だった曽野綾子は箱根富士屋ホテルで無料のアルバイトをしていたと述べており、英語の得意な彼女は実際に、小説に描かれているような案内をしたのではないでしょうか


<そして二時二十五分きっかりに、順ちゃんに言われた通り、私は正面玄関へ途中の名所案内を英語で書いたアンチョコを持って出て行きました。黄色いバスの運転台には、既に多きなぶっかき氷の入ったブリキ缶が積まれていて、中には三十本位のコカコラがカリカリと音をたてながら涼しそうに泳いでいます。>

定刻、車は殆んど座席を満たしたお客様を乗せて走り出します。私もその足跡をたどってフジ・ハコネ・ナショナルパーク巡りをすることにしました。
<十五分もすると、バスは箱根街道の真中にとまりました。第一の名所、曾我兄弟の墓の前です。仕事が始まりました。私は立ち上がり、手に持った案内書を広げます。日本の観光バスのようにようこそおいでくださいましたなどと前置きはせず、単刀直入に始めます。>


ガイド役の波子は源頼朝の富士の裾野の巻狩の最後の夜、工藤祐経を討った曾我兄弟のカタキウチの話を始めます。
<窓の外に角のとれた丸い石の三つの墓が、夏草の間に見えています。こんなものがよくまあ名所になるものだといいたい程、何の変哲もありません。>


率直な感想を述べていますが、1295年に建立されたというこの五輪の塔、左側二つが曾我兄弟の墓、右の背が低い方が虎御前の墓と言われており、三基とも重要文化財に指定されています。
 波子が「かたきうち」を日米両語で説明したことにツアー参加者達は気に入ったようです。
<「面白い」「カタキウチ、すばらしいこと」「ヴェリー・ヴェリー・ナイス」「本当に詩的だわ。カタキウチって」「文学的っていうんじゃないかね」ガヤガヤよくききとれませんし、日本語に翻訳するとかくの如きものになりますが、とにかくバスの中の人はいちようにカタキウチを賛美し興奮しているのです。>

 

小説では冒頭でディオリオ大尉がベネディクトの「菊と刀」を読んでいるシーンが出てきますが、その後のストーリーの伏線となっており、曽野綾子は当時日本で出版された「菊と刀」を読んで、文化人類学的に日米文化の差を理解し、卑屈にならず占領軍の人々に相対していたのかもしれません。


 一行はその後、箱根権現に行って薄暗い杉並木の参堂を一団体になってがやがや登っていきます。


外国人たちに日本の文化と威厳を見せるためでしょうか、拝殿の前にたどり着くと順ちゃんが賽銭を投げ入れ、拍手を打ちます。


<その合掌した姿の立派さからおしはかると、彼はどうやら権現様なぞに信仰があるわけではなく、日本人の標準的な参拝姿をお客様に見せてやろうとして、最良の演技をふるっているに違いないのだ、と思われて来ました。そうなれば二人組みで仕事をしている以上、私ももろともに演技力を発揮する義務があります。私は勿体ぶって備え付けの四角い木筒を取り上げて、「ここのおみくじは非常に正確にあたると申します」と口から出まかせの宣伝をして,中の竹をじゃらんじゃらんと振ってみせました。>
このあたりの描写はきっと曽野綾子さんが高校時代に実際体験されたことだろうと思うのです。


一行はこの後、さらに元箱根でバスを捨てて特別仕立てのランチで湖尻に向かい、そこからバスで仙石原まわりでホテルに帰ります。


箱根富士屋ホテルが接収解除され一般営業を再開したのは昭和29年のことです。


その時のポスターが史料室に展示されていました。


 



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ヘレン・ケラーの手形(曽野綾子『遠来の客たち』より)

 盲ろうの障害を背負いながらも、世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くしたヘレン・ケラー女史は、わが国には昭和12年、昭和23年、昭和30年の3回来訪しています。とくに昭和23年の際は、敗戦で打ちひしがれた日本国民の熱狂的歓迎を受け、全国各地で講演して回ったそうです。


 昭和12年の来日時は、富士屋ホテルの出来て間もない花御殿に宿泊されており、尾長鶏と遊ぶ様子などの写真が史料展示室にありました。


当時富士屋ホテルで飼われていた尾長鶏は土佐原産で、秘書のポーリー・タムソンとともに膝の上に乗せています。


その尾長鶏はフロントの柱に彫刻として残っています。


 曽野綾子が富士屋ホテルでアルバイトしていた昭和23年にも、ヘレン・ケラーが来訪されたようで、小説『遠来の客たち』には次のように当時の様子が描かれています。
<飯田信夫作曲でヘレン・ケラー・キャンペインが準備した「ヘレン・ケラーのおば様の歌」というのを。順ちゃんの指揮で私たち従業員は二十七日の晩、あかあかと灯をいれた朱塗りの提灯で囲んだホテルのバルコニーに女史を招ンデ、その前で歌うことになっていましたが、じゃ、彼はその晴れの晩のためにわざわざ新しい指揮棒を買うのかしら、と私はぼんやり考えました。>


「ヘレン・ケラーの歌 幸福の青い鳥」は、昭和23年の来日時、皇居の二重橋前広場で開かれた「ヘレン・ケラー女史歓迎国民大会」で歌われた合唱歌だそうで、当時の小学校でも歌っていたそうです。

幸福の青い鳥 青い小鳥がとんできた
  遠い国からはるばると
  日本の空へこのまどへ 海をわたってとんできた
  ヘレン・ケラーのおばさまは いつも小鳥といっしょです
               
<案内所に帰ってみると坂口主任さんが、黒塗りのお盆の上に何か地味な錦で表装されたものを大切そうに持ってうろうろしていましたが、それは丁度今から十年前の一九三八年に、ヘレン・ケラー女史が日本に来て、やはり箱根のこのホテルに泊まった時に、社長が女史の手形を紙の上に押して貰ったもので、それを午後から案内所において、お客様に公開するのだというのでした。>


その1937年5月3日のヘレンケラー女史の手形が富士屋ホテルで展示されていました。
<私はちょっと覗いてみましたが、意外にも聖女の手という神々しさではなく、何十年も生きつづけた人間の老醜に似たものしか感じられないのです。それは右手の手形で、指が最早真直ぐにのびなくなっているらしく、空白な掌の部分の周囲に、指の指紋だけが、ぱらりと不規則にひろがっていました。殊に人差し指は墨をつけすぎたのか、女史が指を離す瞬間にふるえたのか、こすれて輪郭もはっきりしません。>
曽野綾子さんは、なかなか厳しい見方ですが、私が驚いたのはそこに添えられた直筆のメッセージでした。目が見えない女史は、定規をあてて書かれたのでしょうか。


次のように書かれており、最後にサインもありました。
<つつじと桜の花とそしてあなたの温かいホスピタリティに彩られたこの日は、いつまでも私の思い出の中に残るでしょう。……>
「おもてなし」の心は、島国に生まれた美しい日本の心として大切にしたい財産です。



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曽野綾子『遠来の客たち』から箱根富士屋ホテルの風景

 曽野綾子『遠来の客たち』は曽野綾子が高校2年生のとき、当時進駐軍に接収されていた箱根富士屋ホテルでアルバイトをした経験がもとになって書かれた作品です。

(史料展示室の当時の写真より)

 

主人公波子は案内係で働いている従業員です。

 小説は、案内係で働いている主人公波子が退避訓練で案内所を飛び出し、裏庭の芝生のスロープの方へ駆けていく場面から始まります。
<訓練ですから、外へ出れば、あたりはひっそりと平和でした。箱根山にも夏の日の高くなる時刻で、芝生の間の小路には、雛菊が傍を通る人に踏み潰されそうに咲き乱れています。>


 現在の富士屋ホテルの裏庭は日本庭園風であり、戦前からそうだった筈ですが、芝生の広がる裏庭は曽野綾子の創作でしょうか、それとも接収時代はそのような風景だったのでしょうか。

<温室の蔭を出ると、広い芝生が一望のうちに見渡せます。その中にも、一きわ目立つ百日紅の下のベンチに。長い足を組みながら本を読んでいる軍服を着た人の白髪頭が、銀色に光って見えたのです。>

 温室は今でもあり、その上には小説を思わせる、芝生のイングリッシュガーデンがありました。

 

百日紅はありませんが、ベンチがありました。


ディオリオ軍医大尉がそのベンチで読んでいたのはルース・ベネディクトの『菊と刀』でした。


『菊と刀』は、ベネディクトの戦時中の日本調査研究をもとに1946年に出版された日本の文化を解説した名著です。私が始めて高校時代に読んだときは、ごく当然のように感じることが、アメリカ人の目にはこのように思われるのだと新鮮な感覚を持ちました。
 しかし、現代の欧米化した若者が読めば、きっとべネディクトと同じ感覚で、明治時代の日本人を異国人のように見るのではないでしょうか。


<私は大尉さんと並んで、ベンチに腰を下ろそうとしましたが、又思いなおし、頭の上にある屋外プールの藤棚の下蔭にある、二人乗りの大きなブランコのほうに誘いました。>


裏庭を登って行くと、屋外プールは、大きなブランコはありませんでしたが現在もきれいな水をたたえていました。



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接収された箱根富士屋ホテルを舞台にした曽野綾子著『遠来の客たち』

 曽野綾子は進駐軍に接収されていた時代の富士屋ホテルを舞台にした『遠来の客たち』を著し、戦後第一番目の女流新人作家として文壇にデビューしました。


小説にはホテルの名前は出てきませんが、曽野綾子自身が次のように述べています。


<『遠来の客たち』は、私が高校生の頃、箱根宮の下にある富士屋ホテルで、夏休みにアルバイトをしていた時の体験を元に書いたものであった。アルバイトと言っても、報酬なしでただ働かせてもらったというだけのことである。当時の富士屋ホテルは米軍に接収されており、日本人の泊り客は無かった。叔父が社長になっていたので、姪のためにそういうことを許してくれたのだろうが、叔父自身は羽織袴を着て食堂に出ており、明治の人らしい穏やかで凛とした気概を持っていて、アメリカ人に呑まれるということはなかった。>


(写真はテレタイプを導入した当時の山口堅吉氏)


 四代目社長山口堅吉氏と曽野綾子の関係や富士屋ホテルでアルバイトした経緯について、山口由美著『消えた宿泊名簿 ホテルが語る戦争の記憶』に<曽野綾子は、いかにして接収ホテルという題材に遭遇したのだろうか。>と始め、詳しく述べられていました。


それによると、曽野綾子の父町田英治郎氏の妹千代子は当時山口堅吉の後妻になっており、戦後の混乱期、英治郎は千代子の斡旋で、富士屋ホテルに職を得ていました。
<疎開先の金沢から引き上げた曽野綾子は、東京の聖心女子学院に復学し、母と田園調布の家に暮らしたが、実は、父親は箱根に単身赴任していたのだ。
 ホテルのある宮ノ下から登山電車で一駅の距離にある大平台には、堅吉が大正末期に建てた自宅の洋館がある。私の育った家だ。堅吉の一家がホテルで暮らしていたので空いていたこの家に、千代子を頼った町田家の人々が暮らしていた。>
と述べられています。

 曽野綾子が富士屋ホテルに滞在した当時、「叔父自身は羽織袴を着て食堂に出ており」と述べていますが、それには大きな理由があったことが、山口由美『箱根富士屋ホテル物語』に述べられていました。
<新しいことも手がけていく一方で、富士屋ホテルでの毎日の業務は、正造が築いた週間を頑なに守る堅吉であった。朝食前の館内廻りから始まり、朝食時間にはメインダイニングで客を迎える。夕方は、午後五時になると入浴をし、紋付羽織袴に着替え、夕食時間の始まる十分前には再びメインダイニングの入り口にたっていた。>


写真は史料室に展示されていた山口堅吉氏の写真です。


<夕方になると紋付羽織袴に着替える週間は、引退後もしばらくは、堅吉の体にしみついていたらしい。夕食時に盛装してもらうことによって、メインダイニングの威厳を保つことは、正造が最も気にしていたことの一つだった。それによって、ホテルのステイタスが形作られると考えていたのだ。自らが羽織袴で手本を示すことは、堅吉にとって富士屋ホテルの伝統を守る原点だったのかもしれない。>
堅吉氏のホテルのステイタスを維持する努力は並大抵のものではありません。
<メインダイニングの隅っこ、全体が見渡せるテーブルが、正造の時代からお決まりの席だった。堅吉も毎日ここに座って、客に出すのと同じメニューの食事を食べていた。>

メインダイニングを入って右角にある写真の席がオーナーの定席だったようです。


メインダイニングの天井は圧巻で、格天井には、すべて違う種類の高山植物が描かれています。


柱の下にはトーテムポールのように鬼を連想させる顔が掘り込まれています。牙を生やし、鋭い目付きでじっと睨んでいるのは、「しっかりサービスしているか」−そう言って従業員を監督している正造だそうです。

(立派なお髭が二代目社長山口正造氏です)

 



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ミステリーはマジックルームの写真から(島田荘司『ロシア幽霊軍艦事件』)

 島田荘司『ロシア幽霊軍艦事件』の発端は、箱根富士屋ホテルのマジックルームの暖炉の上にかかっている写真から始まります。


<すると支配人はどんな写真でしょうかと言った。顔には相変わらず笑顔があったから、私がマジックルームという部屋の、暖炉の上にかかっているという写真なのだと説明すると、とたんに村木の顔から笑みが消えた。>

そのマジックルームは今もありました。
<「あのう、マジックルームという部屋は、本当にこちらにあるんでしょうか?」
私は訊いた。「ございます」すると村木があっさり言ったから、私はびっくりした。本当にあったのだ。どうしてマジックルームという名前なんでしょうか」そう尋ねた。
「はい、私どものホテルに逗留なさる方、昔は長く逗留される方が多くてですね、そういう方はだんだんに退屈なさってくるんです。それで手品師を呼んで、暖炉の前で手品を見せたというのが名前の起こりです。」>

 

マジックルームはフロントのすぐ脇の階段の横にありました。
そしてそのマジックルームの暖炉の上の壁にいっとき幽霊軍艦の写真が掛けられていたのです。
<「はい、だんだんに私どものマジックルームの暖炉の前が、皆さま不思議なお話とか
、怪談を持ち寄ってお互いに披露し合う場所のような感じになってまいりましたもので、ホテルの方も、じゃあ不思議な写真を用意しようかという話になりまして、とっておきの不思議な写真を額に入れて、暖炉の上の壁に掛けたようなんです。>


暖炉はマジックルームの入口から入って右手の新聞架けの後ろにありましたが、ちょっと見た感じは暖炉に見えません。

 

最初はフロントの前にある暖炉のことかと思いましたが、違っていました。


 しかしゼクシィネットに掲載されていた昔のマジックルームの写真の暖炉は、現在残されている意匠にこった暖炉とは異なり、位置も違います。いつ改装されたのでしょう。


http://zexy.net/wedding/c_7770003535/blog/article/72028.html

 

<マジックルームは、六つのスペースから成り立っていて、それぞれに応接セットが置かれていた。間に仕切りはない。>


この広いスペース、現在は絵画などの展示などにも使われています。

 

<「今石岡君から概略を聞きましたが、そういう不思議な写真が、この暖炉の上のあそこにかけられていたんですか?」御手洗が、暖炉の上の高い壁を手で示した。村木は頷いている。
 その暖炉はちょっと変わった造りをしていて、タイル貼りだった。数センチ四方の細かな正方形のタイルを貼ったもので、私はこんな意匠の暖炉を初めて見た。火が入る下の部分には茶色のタイル、その上の煙突を兼ねているのであろう装飾壁の部分には青のタイルが貼られて、こちらには赤と青の鯉の絵のタイルも填まっている。>


そのタイル貼りの暖炉です。下の火口の部分はセメントで固め、閉じられており、とても暖炉には見えませんでした。

 

しかし下から首を突っ込んで天井を覗くと、暖炉の上部は煙突で屋根の上までつながっているようです。


<今かかっている富士山の写真も、暗い絵柄のせいで、何が写っているのか最初は解らなかった。遠すぎるのだ。やはり額は目の高さがよい。>


 暖炉の上の白い漆喰壁に富士山の写真がかかっていました。
ここに芦ノ湖に浮かぶロシア幽霊軍艦の不思議な写真があったというのです。
内陸の高地にある芦ノ湖に軍艦などありえません。しかし、船が出現しただけでなく、ホテルの従業員は荷物運びに駆り出され、従業員の一部は軍艦の内部に入り豪華な内装に触れたというのです。
あとは小説でお楽しみください。



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箱根富士屋ホテルに到着(島田荘司『ロシア幽霊軍艦事件』より)

島田荘司『ロシア幽霊軍艦事件』から続けます。

 御手洗らは箱根登山鉄道で宮ノ下駅を降り、徒歩で箱根富士屋ホテルに到着しました。
<蝉の声がしきりに降る中、緑の中央に口を開けたようにしてある石段を登る。すると赤い欄干の小さな日本橋があって、これを渡るとまた石段がある。木洩れ日がちらちらとさし、涼風が渡ってくる。>


正面玄関へと続く石段です。

 

<玄関を入って進むと、また赤い手摺の和風趣味の階段があり、ここをあがっていくとサンルームで、その先にフロントがあった。チェックインをすませて尋ねると、ここは本館で、われわれのために用意された花御殿は別棟だから、廊下を通ってかなりの距離を歩くらしい。確かに規模が大きい。>


明るいサンルームは「オーキッドラウンジ」と名付けられており、ここでゆっくり寛ぐことができました。

 

けやきの一枚板に源頼朝の「富士の巻狩」が彫り上げられ旧フロントカウンターが、今も残されていました。


フロントでチェックインを済ませると、私も今回は昭和11年に建てられた花御殿での宿泊です。

 <ホテルマンに示された方向に歩くと、赤い絨毯の敷かれた細い廊下に出る。左方向に進むと、途中の壁に美智子皇后が、若い頃にご両親と三人でこのホテルに滞在された際の記念写真とか、明治、大正、昭和期の富士屋ホテルを訪れたVIPの写真が、たくさん額に入ってかかっている。なるほどこれなら、大正期の不思議な写真がどこかにあっても不思議はない。>

小説に書かれている通りの赤い絨毯の廊下です。


昭和33年11月3日の御写真ですが、ご成婚は翌年4月でしたので、その時はご家族水入らずでどのようなお話をされていたのでしょう。

 

 小説では創設者山口仙之助は関内の居留地九番にあった洋食レストラン『ナンバー・ナイン』の息子とされ、、岩倉使節団が横浜を発つ直前に、ナンバー・ナインが火事になったことから、使節団に入れてもらいます。


<「それで仙之助には家がなくなってしまって、店に時々食事に見えていた岩倉さんを頼って従者にしてもらって、使節団に無理に加えてもらたということのようでした」御手洗は驚いている。「明治四年でしたね。大変なメンバーだったようです。岩倉具視。木戸孝充、大久保利通、伊藤博文、団琢磨なんて人もいましたね」>と書かれています。
仙之助が岩倉使節団に入っていたことは知っていましたが、こんな経緯だったとは。


岩倉使節団には津田梅子、大山捨松ら女性陣も加わっておりました。


<「はい、しかし山口仙之助は、これは頼み込んで連れて行ってもらった口で、ただの平民です。一人だけ官費留学ではありません。ほかはみんな武家、士族の出ですね。だからサンフランシスコにあがって、みなさんアメリカ各地のホームステイ先に散っていくんですが、仙之助はお金がないので働かなくちゃなりませんで、ずっとサンフランシスコに留まって、皿洗いから始めて、レストランやホテルで働くんです」>とかなり苦労されたようです。

写真はホテルの裏庭にある山口仙之助の胸像です。

 仙之助についてWikipediaで調べますと、<漢方医を家業とする大浪昌随の五男として武蔵国橘樹郡大根村(現神奈川県横浜市神奈川区青木町)に生まれる。外国人向け遊廓「神風楼」の経営者・山口粂蔵の養子となり、江戸・浅草の小幡漢学塾で学んだ後、維新の際に横浜に出て商業を研究。>となっています。

山口由美著『箱根富士屋ホテル物語』でも、
<「神風桜」−その名前は富士屋にとって、決して人に語ってはならないタブーとして存在していた。世界の賓客が泊まる名門ホテルが遊郭の出身だなんてことは、抹殺し、闇に葬り去りたい事実だと考えられていたからだ。しかい、横浜で居留地の外人を相手に商売をしていたからこそ、一平民である仙之助の目が大きく外に開かれたのだろうし、そこで得た富があったからこそ、その野望は現実のものとなった。>と書かれていました。


 しかし岩倉使節団とともに渡米したのは間違いありません。仙之助が帰国後、箱根富士屋ホテルを開業したのは明治11年、27歳の時でした。



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このページとは関連ないことですが。下記のようなメールをお送りしたのですが、届かないのでこの場で。
≪お元気そうでうれしいです。
ちょっとお尋ねします。
以前、野坂昭如のことをブログに書いておられた中で、東京の住居のことに触れられたことがあったと思うのですが、あのページが見つかりません。
もしかしたら削除されたのでしょうか?
実は、野坂と宮崎翁のことを書くのに参考になるかな…、と思って西宮ブログを検索してみたのですが、見つからなくて。
わたしが探せないのだったら、アップされた日付を教えて頂けないでしょうか。≫

[ akaru ] 2014/08/09 15:09:00 [ 削除 ] [ 通報 ]

先ほど検索しましたところ残っておりました。2012年4月14日の記事で、
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10760287c.html
です。私邸のことなので、あまりご参考になりそうなことは書いていないと思いますが、杉並区の自宅を知ったのは、参議院選に出馬した当時の住所が公開されていたからです。現在も自宅療養されていると想像しております。

[ seitaro ] 2014/08/09 17:39:49 [ 削除 ] [ 通報 ]

ありがとうございます。「野坂昭如」とフルネームで検索したもので出ませんでした。このページにはフルネーム使われてないですね。と、これは探せ出せなかったわたしのいいわけ。
参考にさせて頂きます。

[ akaru ] 2014/08/09 17:57:54 [ 削除 ] [ 通報 ]

野坂昭如住所と検索すると確かに参議院選当時の杉並の住所がでます。google地図のストリートビューで見ると、真っ赤なベンツがとまってました。

[ ふく ] 2014/08/09 18:12:52 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうなんです。奥様の真っ赤なベンツが2年前もとまっていました。ストリートビューも恐ろしい限りです。
野坂邸の玄関に空になった犬小屋が置かれていたのが印象的です。

[ seitaro ] 2014/08/09 19:04:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

本屋さんで文庫本をぼんやり見ていましたら、この本があり、テレビドラマ化されると書いてありました。三月だったと思います。

[ ふく ] 2015/01/29 19:04:41 [ 削除 ] [ 通報 ]

古い記事にまでコメントいただき、ありがとうございます。早速調べてみると、「本日発売『御手洗潔と進々堂珈琲』『ロシア幽霊軍艦事件 名探偵 御手洗潔』(新潮文庫nex)
 の帯に『ドラマ化 出演:玉木宏、堂本光一』と記載されているそうです」というコメントがありました。どんな風に富士屋ホテルや軍艦に見えた○○○が登場するのか今から楽しみです。ありがとうございました。

[ seitaro ] 2015/01/29 23:54:31 [ 削除 ] [ 通報 ]

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島田荘司『ロシア幽霊軍艦事件』の舞台となった富士屋ホテル

 今年の夏の休暇は箱根で過ごし、箱根富士屋ホテルに宿泊しました。富士屋ホテルには二度目の宿泊、数年前の宿泊は幸運なことに本館のチャーリー・チャップリンが昭和7年に宿泊したという45号室でしたが、今回は花御殿の部屋でした。


 45号室は本館二階の角部屋(写真二階の左角)で、スーペリアル・ツインですが特に豪華な部屋というわけではありませんでした。

 私が以前宿泊した時は、ドアの表示はただ数字のみの「45」でしたが、人気があるらしく今回ドアの前を通ると写真のように、この部屋のみChplin’s Roomという表示が張られていました。


 この歴史ある箱根富士屋ホテルを舞台にした小説の一つが島田荘司『ロシア幽霊軍艦事件』です。

 ハリウッドで活躍する女優レオナから届いた1通の手紙から、御手洗と石岡は幽霊軍艦という不可解な謎に挑むことになります。富士屋ホテルのマジック・ルームに大正8年の芦ノ湖にロシアの軍艦が現れたという不思議な写真が昔飾られていたことから、御手洗は軍艦が現れた謎とその裏に隠された歴史的悲劇を解き明かすことになるのです。
『ロシア幽霊軍艦事件』からです。
<「私たちは新横浜駅から新幹線に乗って小田原に行き、そこから箱根登山鉄道に乗り換えて富士屋ホテルに向かうことにした。>


小田原から小一時間で宮ノ下の駅に着き、そこで降りた二人は一号線に出て富士屋ホテルまで歩きます。
<一号線はあまり広くなく、交通量は多く、しかもバスやトラックが多いので歩きにくい。奈良屋という旅館が右手に現れる。「昔はこの奈良屋と富士屋がライヴァル同士だったらしいぜ。富士屋が外国人観光客、奈良屋が日本人観光客を、それぞれ専門的に引き受けていたらしいよ」御手洗が言った。>

富士屋の向かいにあった奈良屋ホテルの写真が富士屋ホテルの史料展示室にありました。


前回来たときはまだ建設中でしたが、一号線沿いの跡地には上の写真のようにエクシブ箱根離宮という高級リゾートホテルが建てられていました。

調べてみると会員制リゾートホテルのようですが、後ろに写っているのが富士屋ホテルです。いずれのホテルも同族経営での存続は難しかったようです。

<その向かいに嶋写真館というものがあり、ショウウインドウの中に、富士屋を訪れた有名人の写真が飾られている。和服を着たヘレンケラー、テニス・ウェアーのチャーリー・チャップリン、息子やヨーコ夫人と一緒のジョン・レノン、などが並んでいる。富士屋というホテルの特徴が、たぶん現れているのだろう。>

創業明治11年の嶋写真店です。

 

ショウウィンドウには小説に書かれている写真が今も並んでいました。
<富士屋は、一号線が右手にカーブしていくあたり、つまり一号線をたどっている者には突き当たりと見える位置に存在していた。>

ようやく富士屋ホテルに到着です。



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ロッキード事件より以前に、小佐野さんが社主をしておられた頃の夏、祖父母とともにここにご秘書にうかがったことがあります。打ダイニングルームには田辺茂一さんや小沢征爾さんなどがお食事されていました。

[ ふく ] 2014/08/07 19:23:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

山口由美さんが書かれた『箱根富士屋ホテル物語』には四代目社長山口堅吉氏と小佐野賢治、横井英樹、児玉誉士夫らとの関わりも書かれていました。堅吉氏の姪の曽野綾子さんがGHQに接収されていたときにアルバイトした時の経験をもとに書かれた『遠来の客たち』も面白い作品でした。
メインダイニングルームの雰囲気はさすがです。残念ながら今回は有名人には会えませんでしたが。

[ seitaro ] 2014/08/07 20:57:37 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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