阪急沿線文学散歩

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日本に到着した「芦屋のひまわり」(『ゴッホのひまわり 全点謎解きの旅』)

 芦屋に住む実業家山本顧弥太が購入したゴッホのひまわりは1920年の12月に武者小路家(実篤の兄の家)に到着します。

その絵が公開されたのは1921年(大正10年)のことでした。
<「白樺」同人たちは、同年三月五日から、一三日まで京橋の星製薬の四階で「白樺美術館第一回展覧会」を開く。展示されたのはゴッホの向日葵、セザンヌの帽子をかぶった自画像……
で合計一四点だった。内容を見てもわかるように、この展覧会はほとんど山本が白樺美術館のために買った作品で構成されていた。>

 星製薬とは、あのSF作家の星新一の実父が創業した製薬会社です。
京橋から見た昭和8年頃の絵葉書です。


 左手前のモダニズム建築は福徳生命ビル、その奥は尖塔のある大同生命東京支店、次が星製薬ビルです。

 川村伸秀氏の「東京逍遙」によると、このビルの三階にギャラリーが設けられ、各種展覧会が開かれ、石井柏亭も訪れたようです。<京橋にあった営業所には、三階にギャラリーを設けており、大正9(1920)年10月、ロシア未来派の画家ダヴィト・ブルリュークとヴィクトル・パリモフが来日した際には、「日本に於ける最初のロシア画展覧会」の記念すべき会場となった。この展覧会については、画家・石井柏亭が「日本に於ける最初の露国画展覧会」と題する文章を……>
http://riveroffice.web.fc2.com/pages/tokyosyouyou2-1.html

 

 次に「芦屋のひまわり」が展示されたのは1924年(大正12年)、大阪の信濃橋

洋画研究会の第一回の作品展覧会として大阪朝日新聞社会場で行われました。


 朽木さんは「週刊朝日」に掲載された小出楢重の展覧会紹介エッセイを紹介されています。
<ヴァン・ゴオグ作向日葵は山本顧弥太氏の愛蔵にかかるものであります。嘗て一度東京で展覧された事があると思います。恐らく日本に来たゴーグのものの中では最も優秀な又、大作であります。……
 山本氏は当所研究所及び一般観賞家の為め特別な厚意を以て、貸与されたものでありますので氏に対して深く感謝する次第であります。>


 当時芦屋に住んでいた画家小出楢重の近くに住んでいたのが、吉原治良でした。
画家であり、吉原製油社長でもあった吉原治良は、19歳の時この展覧会に行きます。


吉原製油の工場は今津灯台の東側にありました。(昭和11年吉田初三郎鳥瞰図)


 吉原治良はゴッホのひまわりに出会った感激を神戸新聞学芸部編『わが心の自叙伝 三』の「氏神さまのセザンヌとゴッホ」と題された章で、次のように述べています。
<大きさは三十号ぐらいの縦の絵で、例の枯れたヒマワリの花が三つ四つツボと机の上にある絵だが、背景はウルトラマリンの濃い青がチューブから絞り出されたまま横じまになって盛り上がり、花はところどころ朱色の輪郭が施され、独特の力強い作品であった。
 本当に大げさなことをいうようだが私は感動で震え出したものだ。私はそのような感動を長い生涯を振り返っても余り覚えたことがない。>
 更に、絵画への執着を決定付けたとまで述べられていました。
 <そのゴッホはきくところによれば武者小路実篤氏が「新しい村」に美術館を建設して並べたいために取り寄せた作品だということであった。金を立て替えたY氏が芦屋の自宅で保管中戦災で焼いてしまった。………
 戦後、私が住んでいる芦屋市に文化協会ができ、何か事業をやりたいという話が出た時、私は芦屋にあるはずのその「ひまわり」一点だけの展覧会をやるように勧めたのだが、その時それが焼失してしまっていることがわかった。ずいぶん腹がたった。>


吉原さん、Y氏に腹をたててはいけません。

 




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武者小路実篤 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

陶板画で再生という新聞記事を見ました。
青と黄色が印象的ですよね。

[ にゃんこ ] 2014/09/10 8:34:01 [ 削除 ] [ 通報 ]

大塚美術館でしょうか。多くの芸術家が感度した作品。陶板画でも見てみたいです。

[ seitaro ] 2014/09/10 19:41:36 [ 削除 ] [ 通報 ]

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『ゴッホのひまわり 全点謎解きの旅』から「白樺美術館構想」

 朽木ゆり子さんは『ゴッホのひまわり 全点謎解きの旅』で「芦屋のひまわり」について、旅のはじまりとなった白樺派の紹介をはじめます。
<そしてここから、この絵の芦屋への旅がはじまる。その旅を促したのは、大正時代の日本の好況を背景にした理想主義の文学者とそれを支えたひとりの実業家との友情だった。>


<日本では、明治維新以降、ヨーロッパへ絵の勉強に行った画家たちから、西洋絵画や画家に関する情報は入ってきたが、話題の絵や彫刻を生で見られるチャンスはまったくない時代が長く続いた。そういった状態に一石を投じたのが同人誌「白樺」を発行した文学者・芸術家グループだった。>


白樺派については、以前学習院大学キャンパスツアーをしたとき、史料館常設展「学習院と文学 −白樺派の生まれたところ…」で詳しく紹介されており、ゴッホの生涯と作品について熱心にとりあげたのが武者小路実篤でした。

(調布市の旧武者小路実篤邸の像)


 朽木さんは次のように紹介されています。
<一九一〇(明治四三)年秋、武者小路は「白樺」でロダン特集を組む。その折、ロダンとの間に書簡による直接ルートがひらけ、やがて展覧会にロダンの作品を展示する話が進行し、一九一一年にロダンから、小さなブロンズ作品三点が送られてきた。>


写真は『白樺』第一巻第8号ロダン号です。

 このような体験が、やがて白樺美術館構想に発展します。
そして白樺美術館の寄付金が六七千円となり、相馬政之助夫婦に巴里で白樺美術館のための画をさがしてもらいます。
<その内にゴッホの画が二つあり、両方とも二万円位だった。白樺ではとても買えないものだが、どうかして日本にもって来たい画だったので、その自分新しき村に毎月百円づつ寄付してくれていた山本君に買うことをすすめたのだ>
 この「山本君」が芦屋打出小槌町に住む実業家、山本顧彌太でした。
山本顧彌太は明治19年大阪生まれ、綿布貿易を営む実力のある実業家で、業界のリーダーとしても活躍し、昭和9年英文毎日主催の座談会に出席した記事が大阪毎日新聞に掲載されていました。

(写真前列の左端の人物)

山本は文化人でもあり、句集も出版されているそうです。


 彼は武者小路実篤の著書に感銘を受け、33歳の時に、武者小路実篤の作った「新しき村」を訪問して数日間生活をともにしたそうです。


<彼は新しき村を何度か訪ね、また白樺派の会合にも出席した。そして武者小路実篤も回想しているように、新しき村の支援者となって金銭的援助をするようになり、それが白樺美術館のための絵の購入につながっていく。この二人の友情は、戦後も、絵の焼失後にもかかわらずすっとつづいた。>
企業のメセナ活動は厳しい経済環境の中で、なかなか定着しませんが、戦前には、このような芸術にも理解のあるパトロンがいたようです。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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