阪急沿線文学散歩

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W.M.ヴォーリズの関西学院と甲山

 玉岡かおる『負けんとき』の第六章「種まく日々」では甲山と関西学院が次のように登場します。

<建築事務所の仕事は、その最盛期にさしかっかっていたといってよい。白い時計台を持つ関西学院の上ヶ原キャンパスの完成は昭和四年。自然を愛するメレルの面目躍如、背後に甲山を抱えこんだ雄大な学舎だ。瀟洒な南スペイン式の回廊を持つ神戸女学院の岡田山キャンパスは昭和八年。また同年、大阪市内で御堂筋が拡幅された時、心斎橋筋に位置する大丸デパートが至高の空間として内部にあまたの趣向をこらして登場した。>


 ヴォーリズは関西学院上ヶ原キャンパスの建設にあたって、甲山を背景とした自然の美しさとの調和を図ったようです。

 

 ブログ「ヴォーリズを訪ねて;西宮の関西学院上ヶ原キャンパス」ではキャンパスの配置図が紹介されており、図中に正門から中央芝生、時計台を通した中心線が引いてあり、一番上には「LINE A-A TO CENTER ON MT.KABUTO」と記され、明確に甲山と学院配置が意図され設計されていたことが述べられています。
http://gipsymania.exblog.jp/4726296/


 玉岡かおる『負けんとき』上巻のハードカバーの関西学院には甲山は描かれていませんでしたが、今回刊行された文庫本の表紙の絵には甲山らしき山が描かれていました。

 しかし、子供のころから甲山に馴染んできた私には、どうしても甲山に見えません。

 あのまーるく、禿げ山だった甲山。


 明治時代に日本にやってきた欧米人はBismarck Hillと呼び、谷崎潤一郎『細雪』のサイデンステッカーによる英語版‘The Makioka Sisters’ではHelmet Mountainと英訳され、村上春樹『海辺のカフカ』ではOWAN-YAMA Rice Bowl Hill として登場します。


http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10763877c.html


 このお話、先日の玉岡かおるさんとの懇親会場で、文庫本を購入しサインしてもらったついでにお話してしまいました。


うるさいおっさんやと思われたことでしょうが、甲山を愛する西宮の一市民として、どうしても言わずにおれませんでした。




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神戸女学院「風見の少年」の描写が文庫本『負けんとき』では変更に

 玉岡かおるさんの『負けんとき―ヴォーリズ満喜子の種まく日々』では一柳満喜子とヴォーリズの出会いがロマンチックに描かれています。

その引き立て役が、何度か小説に描かれている音楽館の塔の上の風見です。


 神戸の山本通りにあった頃の神戸女学院の描写からです。
<ピアノの音に彩られた満喜子の第二の学生時代が始まった。神戸山本通りにあるその学校は、後に諏訪山の緑を控え、坂道を上がったところで見えてくる。煉瓦造りの洋館の、尖った三角屋根の音楽館。ささやかながらもそれが塔だと示す証拠に、笛吹く少年のかたちの風見がこの日も海風によってくるくる動く。>


 さらに神戸女学院が西宮の岡田山に移転し、その献堂式にヴォーリズ夫妻が招かれたシーンでも描かれています。


<満喜子は母校でもある女学院の献堂式に、メレルと一緒に招かれた。音楽堂に至る坂道はスケールが大きく、神戸の山本通りに似通っており、屋根の上では旧校舎から移されてきた風見の少年が笛を吹く。>


 私はその文章に感激して、小説ではあるものの、風見の少年が山本通りから移設  されたものと信じてしまい、写真を添えて『神戸女学院音楽館「風見の笛吹く少年」玉岡かおる「負けんとき」より』と題したブログを書いておりました。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10948707c.html

 

 しかし数日後、ブログに神戸女学院の方から電話いただきたいとのコメントが入り、お電話したところ、岡田山の笛吹く少年の風見は山本通りから移設したものではなく、岡田山オリジナルのもので、設計図もあると教えていただきました。また「小説ですからそのようなお話を玉岡かおるさんにはお話できませんが、見学に来られた方が勘違いされると困るので」とお話され、私もブログを一部訂正しました。(コメントは削除しました)

 

 ところが先日「玉岡かおる25周年記念講演会」が開催され、懇親会でこの件を直接お話させて頂いたところ、玉岡さんにも神戸女学院からお話があり、オリジナルの設計図まで見せてもらい、今回の文庫本出版でその部分を変更したと教えていただきました。玉岡さんご自身も山本通りから移設されたものと思われていたそうです。
 この騒ぎの発端となったのは私の西宮ブログの記事に間違いなさそうで、玉岡さんには大変申し訳なく思っております。

 

 さてどのよう書き換えられたか、文庫本(下巻)のヴォーリズ夫妻が献堂式に向かう部分を読んでみましょう。

 

<さりながら屋根の上の風見もメレルの手にかかれば笛吹く少年のデザインとなり繊細な夢をかもしだす。>
 旧校舎から移設という部分が消え、素晴らしい文章に書き換えられていました。


 ところで山本通りの音楽館には風見があったのでしょうか。跡地は現在、神港学園となっており、フェンスから「神戸女学院創設の地」と刻まれた石碑が見えるだけです。


 昨年の10月に開催された「神戸女学院岡田山キャンパス移転80周年」のシンポジウムに参加して頂いた冊子に、山本通りの音楽館の写真が掲載されていました。設計者はM.A.ホルブルック。

 風見の方向によっては見えにくいので、塔の上に風見があったかどうかはよくわかりません。

 山本通りに事実としてあったか、なかったかは『負けんとき』は小説ですから、まったく関係ないお話です。たとえば古川智映子著『小説土佐堀川』では廣岡浅子はヴォーリズの設計した大同生命本社ビルの竣工式まで生き、感動的な挨拶までしているのですが、事実は残念ながらその6年前に亡くなっているのです。
 今回の訂正も、小説のストーリーを考えると必要なかったのではないかと思いますが、さすがお心遣いの細やかな玉岡さんのご配慮でした。


 余談ですが、現在の岡田山の風見の笛吹く少年はいつも同じ方向を向いています。風見の役割はなくなっているのかもしれません。


今年、国の重要文化財に指定されることになった神戸女学院。キャンパスツアーも企画されることと思います。

正門を入って坂道を登るとまず目に入るスクラッチタイルの音楽館。屋根の上にある風見の笛吹く少年に目を向けてみてください。

 



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小説を描きたくなる 秋に なり 胸はずっ
(._.)

[ 伊藤園 ] 2014/09/01 19:27:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

玉岡さんと直接お話しできて良かったですね。しかも文庫本はseitaroさんのこのブログが縁で書き改められたとは。けがの功名的なところがありますが、いいことをなさったと思います。玉岡さんも山本通りから移設されたと思っておられたとは!本当のことを知って驚かれたでしょうね。いずれにしてもお手柄でした。拍手。

[ akaru ] 2014/09/01 19:50:04 [ 削除 ] [ 通報 ]

小説の舞台を訪ねて感傷に浸るのが好きなものですから、神戸女学院にまで押しかけて写真をとり、ブログを書いていたらこんな騒ぎになってしまいました。やはり旧校舎から移設された風見のほうがロマンチックな気がします。玉岡さんにはご迷惑をおかけしてしまいました。ブログ恐るべしです。

[ seitaro ] 2014/09/01 20:34:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

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『玉岡かおる25周年記念講演』に参加いたしました

 玉岡かおるさんの25周年記念講演に出席いたしました。


会場は同じく25周年を迎えたホテルオークラ神戸平安の間、玉岡さんのこれまでの著書が25という25尽くし。


講演は デビュー当時から、田辺聖子さんのお話、「ラスト・ラブ」を執筆していたころ阪神淡路大震災を経験しての転機、その後現在に至るまでの作家生活について、文学賞を逃した時のお話や、秘蔵写真を交えての関西を元気付ける素晴らしいお話でした。一時間半しゃべりっぱなし、「ライバルは瀬戸内 寂聴さん、私も90歳を超えても書き続ける」とおっしゃるパワフルさには圧倒されました。やはり女性は怖しい。

 


 その後休憩を挟んで、懇親会。会場ではゲラなど貴重な資料も展示され、手に触れて見させていただきました。講演では艶やかな着物姿でしたが、お色直しされて各テーブルを笑顔で廻られ、お話されるという大サービスぶり。(公演中は撮影不可とされましたが、懇親会では撮影が許されました。)
最後には参加者全員に抽選でおみやげまでついていました。


玉岡さんは大の阪神ファン。家内はラッキーなことに、阪神能見投手のサイン入りボールが当たり、写真まで撮らせていただきました。


 21時過ぎに懇親会も終わり、お開きになりましたが、玉岡さんは最後のお見送りまで務められていました。売れっ子作家といえどもファンへの気遣いやサービス精神を忘れない玉岡さんにお会いできて、感激でした。
 さて懇親会では、ずっと気になっていた『負けんとき』のお話をさせていただき、初めて知ったことがあるのですが、それはまたこの次に。



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えっ!それ行かれたのですか。わたしは気になりながらも行けませんでした。ああいった派手なパーティーは苦手なんです。でも、良かったですねえ。うらやましいです。『負けんとき』、今日も電車の中で読んでました。

[ akaru ] 2014/08/31 21:55:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうなんですか、田辺さんや新子さんのことも!
わたし、新子さんの文業50周年記念パーティーに呼ばれたのですが、とにかく派手なパーティーで、わたしは身の置き所がありませんでした。

[ akaru ] 2014/09/01 8:45:06 [ 削除 ] [ 通報 ]

時実新子さんいついては、感性がまったく違うというようなお話だったと記憶しております。彼女の作品もまた読ませていただきます。

[ seitaro ] 2014/09/01 19:27:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

時実さんは小説も書いておられます。川柳は「有夫恋」が凄いです。

[ akaru ] 2014/09/01 19:51:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

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一柳満喜子が廣岡浅子に会った日のこと(玉岡かおる『負けんとき』より)

 玉岡かおる著『ヴォーリズ満喜子の種まく日々 負けんとき』では、廣岡浅子は日本女子大創立のお話から登場します。


<日本の女子教育会は、大きな成長の時を迎えていた。梅子の女子英学塾が開かれた翌年、やはり満喜子の人生を大きく変える一人の女性が尽力した学校が目白台に開校する。成瀬仁蔵が創立した日本女子大学校である。この学校の立ち上げについて惜しみなく経済援助をしたその人は、廣岡浅子といった。胸にフリルのあるブラウスに裾を引くスカート。活動的な浅子の洋装は、モダンな西洋建築が建ち並ぶ大阪中之島の界隈にはこれ以上ないほどよく溶け込んだ。>


 学習院から目白通りを歩いて行くと、明治39年に建設された成瀬記念講堂がありました。(反対側にはあの目白御殿があります)


 関東大震災で大きな被害を受けたそうですが、再建・修築され、現在も当時の面影を残しています。『負けん時』では一柳満喜子は後に、神戸女学院音楽科卒業後、理事を務めていた廣岡浅子の推薦により、この日本女子大の教壇に立つ姿が描かれています。

<のちにその門をくぐることにもなる満喜子だが、そうとは知らず、当の立役者浅子に会った日のことは、やはり長く忘れえぬ記憶となった。なにしろ父末徳が、めずらしく女たち全員を連れ、能楽堂に行くことにした日のことだったからだ。>
 どこの能楽堂かと読んでいると、「東京に新しく造られた屋内施設の能楽堂のこけらおとしが催される。」と書かれており、明治34年落成の「観世能楽堂」らしいのです。当時どこにあったのか調べても解りませんでしたが、現在は高級住宅街・渋谷区松濤に建てられています。しかし、2016年秋には銀座・松坂屋跡地の複合ビルに移転するそうです。


<すだれの内にすわってみると、正面が一柳家、目付け柱の前に当たる中正面が廣岡家の一族だと教えられた。…….
 すだれを透かして隣を見れば、座った中央、夫と並んで堂々と舞台を見上げているのが夫人の浅子であろう。そしてその隣には、あでやかな皐月色の振袖を着た娘が並んでいる。
 女中心のその着席は、一柳家が末徳以下息子達を一列目に座らせ、後ろに女たちを控えさせるという男性優位になっているのとは対照的だ。女が前面に出ている分、廣岡家では女たちの着物の豪華さが目立ち、そこだけ花が咲いたように華やかだった。>
この席は一柳恵三と廣岡かめ子の見合いの場でした。
<結婚前に本人同士が顔を合わせるなどこの時代にはほとんどないが、娘のためならそういうまれなことでも難なくやってしまえるのが浅子であった。そしてどうやら娘は一目見ただけの恵三を夫として受け入れたらしい。>
大同生命大阪本社メモリアルホールで開かれている、「大坂屈指の豪商『加島屋』からの400年の歩み〜大同生命の源流とその発展の歴史をたどる」で展示されていた夫妻の写真です。

(廣岡恵三後列右端、かめ子前列左端、ヴォーリズ後列左端、満喜子前列右端)

<翌明治三十五年の春は、一柳家は外側から射す陽光によって開かれるように、明るい慶事に包まれる。豪商廣岡家の一人娘と恵三の結婚がまとまったのであった。式は、後々の語りぐさになるほど盛大なものだった。>


廣岡恵三氏の写真と、満喜子さんの写真を見比べていると、やはり兄妹、そっくりです。



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玉岡かおるさんの寄宿舎生活(『恋をするには遅すぎない』より)

 玉岡かおるさんは『恋をするには遅すぎない』で神戸女学院大学時代に学内にあった寄宿舎生活について述べられています。


第一章「走れ、恋人」の「門限までを駆け抜けろ」からです。


<私が大学生だった頃、プロテスタント系の女子大の、学内にある寄宿舎に住んでいたことがある。原則として下宿は禁止、自宅もしくは親戚宅から通学する、というのが入学の規定で、それが不可能な地方からの入学者は、全員寄宿舎のに入ることが申し渡されていたから、当然、そこには厳しい門限がさだめられていた。今言うとみんな「うそぉ、信じられなーい」と驚きの声を上げるのだが、なんと午後六時というのがそれだった。>


 ヴォーリズの設計した平面図を見ると、菱形の寄宿舎は、キャンパスの北端にありました。
 そこでは友達同士のかばいあいなどで門限のやりくりをしていたそうです。
最終の門限だけは、みんな必死で帰ってきたものの、それでも遅れて帰る学生がいたそうです。
<なんといっても十時のチャイムが鳴ると同時に班毎に点検があり、皆がそろっているのを確認してお祈りをあげて就寝、ということになるので、その時間に帰っていないと、文字通り門に錠がおろされて、ロックアウトということになってしまう。若い女の子ばかりの住まいなので、とりわけその点には厳しかったのだ。>

寄宿舎では部屋に複数の学生が擬似家族のように暮らし、お互いの呼び方も独特でした。
<寄宿舎は大学の勉強だけではできない生活面での教育をする場所、という考え方だったから、部屋はそれぞれ複数の学生が暮らす共同生活だった。その一例として、ここには伝統的な、素朴ながらも面倒な、人間関係が受け継がれていて、部屋の中の一番年上の者を「親さま」と位置づけ、年少者を「お子さま」、中間の者を「姉さま」と呼ぶことになっていた。>
そういえば、時代はかなり古くなりますが「花子とアン」でも、同じプロテスタント系の女学校、修和女学校(東洋英和)では上級生は「大きい方」、下級生は「小さい人」と呼ばれる習わしがあったとか。
カトリック系の女学校ほどでなくとも、やはり躾には厳しかったようです。


余談ですが、修和女学校のロケ地は明治村の北里研究所本館・医学館でした。

 

 玉岡かおるさんが暮らされたヴォーリズ建築の寄宿舎は阪神淡路大震災で倒壊し、今は残っていませんが、吉永小百合さんの主演映画『あすの花嫁』に建物の映像が残っていました。

 


<それにしても、懐かしい寄宿舎も、阪神淡路大震災で全壊し、今はあとかたもない。更地に再建されたのは、時代の趨勢に応じて不自由な規則を取り払った、個人部屋のワンルームマンション式の寮だった。
 遅く帰る友人を玄関でそろって待つという風習などはもうないだろうし、…….
そしてセキュリティだけが迅速に働いて、誰をわずらわせることなくすべて解決するのだろう。 いつまでも、同じものはありえない。日本人がこだわってきた、無常観というのは、おそらくこのことを言っている。>


 神戸女学院ホームページによると現在の学生寮は1997年3月に再建されたもので、明治末期より40余年にわたり宣教師として神戸女学院の発展に尽力されたストウ姉妹に因んで『メアリー・アンド・グレイス・ストウ学生寮』と命名されているそうです。


渡り廊下は、昔の雰囲気を残したものなのでしょうか。

 

 玉岡かおるさん最後を次のように結び、素敵な文章で現在を懸命に生きる大切さを述べていました。
<そして、ここで自分が誰かを好きになったり、いらいらしたり騒いだことも、どんどん変わる時代の波に、いつか押し流されて記憶の淵から消えていく。
 ならばなおのこと、今を、懸命に走ってみるしかないだろう。門限つきのこの時を。>

 



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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